観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「奈良帝室博物館を見る人へ」小島貞一著【その1】


大正時代末年の、

「奈良帝室博物館の仏像展示」

を偲ぶことができる本のご紹介です。


奈良を訪ねる人の必携書、和辻哲郎の「古寺巡礼」には、聖林寺十一面観音像について、このように語られています。
奈良帝室博物館展示当時の聖林寺十一面観音像
奈良帝室博物館展示当時の
聖林寺十一面観音像写真
工藤精華撮影「日本精華・第8輯」
(大正7年7月刊)所載写真

「天下の名作の名作を選ぶということであれば、わたしは寧ろ(三月堂・不空羂索観音像よりも)聖林寺の十一面観音を取るのである」(カッコ内は、私の付記です)

「だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。
肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。
これを三月堂のような建築の中に安置して、周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。」

和辻のこの絶賛もあって、聖林寺十一面観音像は、天平時代随一の名作という名声を得るようになり、今も絶大な人気を博する仏像となっています。

この聖林寺十一面観音像、和辻哲郎は、桜井の聖林寺を訪れ、拝したのでしょうか?
そんなことはありません。
和辻は、この名作を、当時の奈良帝室博物館の第一室に展示されているのを観て、「古寺巡礼」に綴ったのでした。

大正8年(1918)のことでした。



「ほほゑみて うつつごころ に あり たたす 
              くだらぼとけ に しく ものぞ なき」

会津八一が、法隆寺・百済観音像に想いを致して、詠んだ歌です。
ご存知の方も多いことと思います。
浜田青陵著「百済観音」
浜田青陵著「百済観音」(大正15年刊)
赤地の表表紙に金文字で
百済観音を詠んだ歌が刻されている

百済観音像は、いまさら言うまでもなく、飛鳥時代随一の「美しき仏」として、誰もが愛し、あこがれる超名作です。
「百済観音」という呼称は、会津八一がこのように詠んだことや、この歌が、浜田青陵著の随筆「百済観音」という本のオモテ表紙に金文字で刷り込まれたことなどで、世の中に広められ一般に定着化していったとも言われています。

会津八一がこの歌を詠んだとき、百済観音もまた、奈良帝室博物館の第一室に展示されていました。
会津は、「自註鹿鳴集」にこのように記しています。

「くだらぼとけ・
以上二首は、法隆寺よりその頃久しく出陳して、館のホールの中央なる大ケースの正面に陳列してありし俗称『百済観音』を詠めるなり。」

この歌がおさめらている、歌集「南京新唱」は、大正13年(1923)に刊行されています。

奈良帝室博物館のガラスケースに展示された法隆寺・百済観音像
奈良帝室博物館のガラスケースに展示されていた法隆寺・百済観音像


大正~昭和初期には、なんと「法隆寺・百済観音」「聖林寺・十一面観音」が肩を並べて、奈良帝室博物館に展示されていたようなのです。
ビックリと云えばビックリです。

「当時の奈良の博物館には、どんな仏像が展示されていたのだろうか?」
「今では、想像もつかないような、国宝仏像の仏像が林立していたのだろうか?」

そんな疑問や、思いをいだいていましたら、ある古書展でこんな本を見つけたのです。


「奈良帝室博物館を見る人へ」という本です。

「奈良帝室博物館を見る人へ」小島貞一著

大正14年(1924) 木原文進堂刊 【126P】 1円80銭


小島貞一著「奈良帝室博物館を見る人へ」

小島貞一著「奈良帝室博物館を見る人へ」


何の変哲もない、古いガイドブックのようで、雑本として並んでいました。
たしか、500円ぐらいの値段だったと思います。

中身を見てみると、奈良帝室博物館の観覧、見学案内のような本で、展示されている仏像や絵画について列挙され、簡単な解説がつけられています。


解説は、部屋順に、「第1室・第2室・・・・」と、展示されている仏像が列挙されているのです。
かけてくわえて、各室別の展示仏像の配置略図までもが掲載されているのです。

この本を見れば、大正末年に奈良帝室博物館に、どんな仏像が展示されており、どのような配置で並べられていたのかということが一目瞭然です。

普通の人には何の関心もないような、古いガイドブックですが、
「こんな本を、捜していたのだ! ラッキー!」
と、ほくそ笑んで購入したのです。


それでは、さっそく、当時の展示仏像をご紹介させていただきたいと思います。

ちょっと有名どころを見繕ってみても、すごい仏像が目白押しです。

興福寺・十大弟子・八部衆像、法隆寺・食堂塑像諸像、大安寺・木彫諸像、唐招提寺・講堂木彫諸像、秋篠寺・伎芸天ほかの諸像、興福寺北円堂・無着世親像などなどの名が、眼に入ってきます。

「展示されていた仏像」についての、一覧表に整理してみましたので、ご覧ください。


「奈良帝室博物館を見る人へ」所載の展示仏像リスト1
「奈良帝室博物館を見る人へ」所載の展示仏像リスト2
「奈良帝室博物館を見る人へ」所載の展示仏像リスト3
「奈良帝室博物館を見る人へ」所載の展示仏像リスト4
「奈良帝室博物館を見る人へ」所載の展示仏像リスト5


以上のように、なりました。
この本に、すべての展示仏像が列挙されているのかどうかわかりませんが、主要な仏像は網羅されていると思います。

本当に圧巻です。
日本彫刻史の名品図録のページを開いているような気分になるほどの、傑作ぞろいです。

今では、「信じられない!」レベルの仏像達が、常時展示されていたのですから、溜息が出てしまいます。
もし今、これだけの仏像が一堂に集められた「特別展」が開催されたら、どれほどの騒ぎになって、どれほどの人々が押し寄せるでしょうか?

安藤更生は、当時の奈良博について、このように述べています。

「日本工芸の宝庫を、正倉院とするならば、彫塑絵画の淵叢はまさに奈良帝室博物館である。
勿論、法隆寺東大寺の本尊や、運搬に不便な巨像はその寺々へ行かなければ観ることはできないが、其他の像の精髄は、殆どここに集まっていると言っても過言ではない。
日本の古代美術を知ろうとする者は、先ずこの博物館を訪れなければならぬ。」

昭和4年(1929)に発刊された、「美術史上の奈良博物館」(安藤更生著)という本の、著者の序言です。

「美術史上の奈良博物館」 安藤更生著 

昭和4年(1929) 飛鳥園刊 【206P】 2円80銭


安藤康生著「美術史上の奈良博物館」


この序言からも、当時の奈良帝室博物館の展示仏像の物凄さが、伺われます。
この本は、当時、少壮の美術史学者・安藤更生が書き下ろした本で、仏像の踏み込んだ解説、彫刻史上の位置づけ、安藤個人の見解などが盛り込まれた、充実した内容の本です。
ご関心ある方には、一読をお薦めします。


ところで、もう皆さんお気づきでしょうが、「聖林寺・十一面観音像」の名前が、リストにありません。

聖林寺・十一面観音は、和辻が奈良博を訪れた大正8年(1918)から、この本が刊行された大正14年(1924)までの間に、聖林寺に戻ってしまったようです。

和辻は、「古寺巡礼」の文章中の注記に、このように書いています。

「これは大正8年のことで、その頃には入り口正面に向かって聖林寺の十一面観音、それと背中合わせに法隆寺の百済観音などが立っていた。
聖林寺の観音はその後数年を経て、寺に帰った。」


ここまで、大正末年頃の奈良帝室博物館の展示仏像は、どのようなものだったかを振り返ってきました。

今では考えられない傑作仏像ぞろいの展示であったことが、お判りいただけたかと思います。


次回は、これらの仏像達の、「展示の有様や、展示仏像の変遷」について、振り返ってみたいと思います。

古仏探訪~滋賀県高島市・保福寺の釈迦如来坐像


思いの他の、心に強く残る仏像に出会いました。

全く想定外でした。

こんなに「訴える力」がある仏像とは、思いもしていなかったのです。
写真で見た印象では、まとまってはいるが、おとなしい穏やかな感じの仏像のようで、インパクト不足のような気がしていたのです。

10世紀ごろの作とされ、重要文化財に指定されています。

保福寺・釈迦如来坐像~「仏像集成」掲載写真
保福寺・釈迦如来坐像~「仏像集成」掲載写真


保福寺・釈迦如来坐像~「古密教仏巡歴」掲載写真
保福寺・釈迦如来坐像~「古密教仏巡歴」掲載写真

これは、久野健氏編「仏像集成」と、井上正氏著「古密教仏巡歴」に掲載されていた写真です。
この写真を見て、私は、おとなしく穏やかな印象を持っていたのです。

その保福寺の釈迦如来像を、拝しに出かけようと考えたのは、井上正氏が、その著書「古仏」「古密教仏巡歴」に採り上げられていた仏像だからです。

この両著に採り上げられている仏像は67件ありますが、強烈な個性や気迫勝負の造形表現の仏像ばかりです。
私には、大変惹かれるものがあり、全件拝観すべく現在チャレンジ中です。
今回、保福寺像を拝して、残り5件にまで漕ぎ付けました。
何とか、あと数年のうちには、何とか全件拝観を達成したいものと願っています。


保福寺・釈迦如来像の拝観が、結構後回しになったのは、掲載写真を見て、
「是非とも拝してみたい!」
と、さほど思わなかったからです。

井上正氏が両著に採り上げている仏像は、アクが強いというか強烈な個性や、精神性を発散している仏像ばかりです。
異形な造形、歪んだ造型なのですが、不思議なオーラを発するような迫力のある仏像です。

そのなかで、保福寺・釈迦如来像は、写真で見ると、
「出来はよさそうだが、整った都風の仏像だなー」
「異形とか迫力とかという感じはしない、まとまった感じの造形の仏像だなー」
こんな感じがしていたのです。

井上正氏も、9世紀末から10世紀初頭の制作とみてよいのではないかと記されています。
8世紀に遡りうる可能性を、井上氏が指摘されている仏像ばかりが採り上げられている本のなかで、制作年代が随分下がるという判断をされている仏像です。
いわゆる「迫力とか精神性」とはちょっと縁遠い仏像なのだろうと思っていました。

そんなことで、保福寺・釈迦像は、後回しになっていたのです。

この4月、
「思い切って、訪ねてみよう!」
と、意を決して、
湖西・高島市まで出かけることにしました。


保福寺は、湖西線・新旭駅から、西へ2キロほどの処にあります。

もう一駅往けば、竹生島へ渡る船が出る、近江今津の駅という場所です。
このあたり湖西の地は、平安古仏の宝庫である近江の地の中で、あまりこれという仏像が残されていないので、私も仏像探訪に出かけるのは初めてです。

駅から、タクシーに乗りました。
「保福寺へお願いします。」
といっても、運転手さんも良く判らず、カーナビで調べてやっと着きました。
地元でもあまり知られていないようです。
訪れる人もあまりないのでしょう。

お寺の前には、町で建てた「保福寺」の案内看板があります。
看板には「ほふくじ」とありましたが、お寺でも観光ガイドでも「ほうふくじ」と呼ばれています。
坂をちょっと上ると、住居兼用の小さなお堂があり、そこが保福寺でした。

保福寺前の案内看板
保福寺前の案内看板

保福寺へ至る石段
保福寺へ至る石段

保福寺・本堂
保福寺・本堂

本尊釈迦如来像は、
「通常は秘仏として扉が閉ざされ」
と本に書かれていましたので、恐る恐るお願い状をお送りしたところ、拝観の了解をいただき、ご住職ご夫妻でお待ちいただいておりました。
ご住職ご夫妻は、大変、気さくでお人柄の方で、快く迎えていただきました。

本堂に上がると、立派な黒塗りの厨子が閉ざされており、その中に釈迦如来像が祀られています。

「観光などで、ついでに寄ったという方にはお断りしているのですが、
是非にご本尊を拝したいと、わざわざ訪ねてこられる方には、開扉して拝んでいただいているんですよ。」

とのことです。

厨子の前は、金襴の打敷や燭台などの仏具で荘厳されていましたが、わざわざ取り外していただき、お厨子を開扉いただきました。

保福寺・本堂内の、ご本尊安置の様子
保福寺・本堂内の、ご本尊安置の様子

「どうぞ、時間を気にしないで、ゆっくり拝んでいってください。」

と、おっしゃっていただきました。

厨子の中には、半丈六(像高142.3cm)の釈迦坐像が見えます。

その姿は、意外や意外、堂々たる姿です。

保福寺・釈迦如来坐像

保福寺・釈迦如来坐像
保福寺・釈迦如来坐像

遠目ながらも、「おだやかに整った」という雰囲気とは全く違いました。
広い肩幅、胸をドーンと張り、膝前が大きく横に張り出しているのが、印象的です。
それにも増して、眼を惹くのが、お顔の造形です。
重々しい神秘的な感じのする風貌です。

保福寺・釈迦如来坐像~上半身
保福寺・釈迦如来坐像~上半身

身の丈以上に、堂々たる重量感を感じます。
「存在感がある!」
とでもいうのでしょうか?
静かな造形ですが、「訴える力」と、強く感じる仏像です。

近づいて、眼近に拝しました。

肉身と顔部には、漆箔が施され、今は燻したような鈍く黒みがかった金色です。
衣の部分は、彩色であったようですが、今は古色となっています。
もともとは、朱衣金体の像であったのかもしれません。
衣文の彫りを見ると、結構浅い彫りで、やや定型化しているように思え、膝頭の周辺は衣文表現が省略されてしまっています。
渦文は、膝前の中心に、浅いものが一つ残されているだけです。
平安前期の仏像に見られるような、鎬だった鋭い彫口、抉るような彫り込みは、全く見られません。

保福寺・釈迦如来坐像~衣文の彫口
保福寺・釈迦如来坐像~衣文の彫口

このタイプの仏像は、全体から受ける印象も、穏やかにまとまった感じのものが多いのですが、この釈迦像、そうではないのです。

膝前が大きく横に張り出し、胸幅が広くハリも大きく強く造られた姿は、
「堂々たる、男の存在感」
のようなものを感じさせます。
身体の奥行きも、結構厚みがあるようです。

そして、一番の想定外は、お顔の表情、造形です。

保福寺・釈迦如来坐像~顔部
保福寺・釈迦如来坐像~顔部

穏やかな造りのようで、厳しく神秘的な空気感があるのです。
「静かなるなかにも、霊的に訴えてくる、奥深い厳しさ」
とでもいうのでしょうか。

どうしてでしょうか?

「突き出した唇、グリッと突き出した下アゴ」が、キリリとしまった印象を与えます。
「横幅の広い鼻梁」が、神秘的、霊的な雰囲気を醸し出しています。
大変面長なところも、締りを感じる要素なのかもしれません。

保福寺・釈迦如来坐像~顔部
保福寺・釈迦如来坐像~顔部

このお顔を拝していると、ふと、醍醐寺の薬師如来坐像のお顔を思い出してしまいました。
「幅広い鼻梁、突き出した唇」といった処が、そのような印象を感じるのでしょうか。
しかし、醍醐寺像の方が、穏やかでゆったり落ち着いた感じがします。
保福寺像の方が、キリリとしまった緊張感を感じます。

保福寺・釈迦如来坐像~顔部..醍醐寺・薬師如来坐像~顔部
保福寺・釈迦如来坐像~顔部            醍醐寺・薬師如来坐像~顔部

保福寺・釈迦像は、平安前期像に見られるような、森厳さ、精神性、迫力などを外に発散させる造形というのではありません。
造形はおとなしそうですが、ぐっと内面に秘めて訴えかけてくるものを感じるような気がします。
堂々たる重量感で、キリリとした男を感じる仏像ですが、威圧的というよりは、「静謐なる存在感」を強く訴えてくる仏像のように思いました。

後で知ったのですが、岩田茂樹氏は「湖西の社寺展」図録解説に、

「湖西地方を代表する優れた彫像である。」

と、記されています。

なんと、「湖西の社寺展」(昭和63年・琵琶湖文化館開催)の図録の表紙は、保福寺釈迦像のアップ写真で飾られていました。

「湖西の古社寺展」図録~表紙写真
「湖西の古社寺展」図録~表紙写真

「なるほど、納得!」です。
素晴らしい仏像に出会うことができました。



さて、この仏像の来歴や、制作年代について、ちょっとふれてみたいと思います。

伝えられるところによれば、この釈迦像は、裏山の大宝寺山に在った大法寺の本尊で、信長の兵火によって寺が廃絶し、保福寺に移されたものだそうです。
地元では「焼けのこりの釈迦」と呼ばれています。
大法寺の由来については不明で、保福寺は慶長年間中興開基と伝える曹洞宗の寺院です。
「焼けのこり」ということですが、今外観を見る限りでは、火中してひどく損傷したようには見えません。

宇野茂樹氏の「近江路の彫像」によると、江戸時代の修理銘札が見つかっていると記されています。

昭和2年(1927)に、本像の修理が行われた際、台座框座後方内部から、墨書の修理銘札が見出された。
延宝6年(1678)修理の時のもので、裏面に
「延宝六戊午年迄  七百七十年至也」
と墨書されている。

とのことです。

この銘札によれば、修理された延宝6年(1678)が、造像後770年目にあたると云うことで、延喜8年(908)に本像が造立されたことになります。

宇野氏は、
「修理時に何らかの造像期を示す資料があって、これによって木札お書いたものであろう。」
と述べられています。

他の研究者の解説を見ても、この銘札の信憑性の問題はさて置くとしても、およそ10世紀初頭ごろの制作とみてよいのではないかとの考えのようです。
10世紀初頭というと、ちょうど平安前期の精神性を強調した迫力ある造形から、「おだやかさ」の要素が中心となる造形に変化していく頃です。

構造を簡単に見てみると、

ヒノキの一木造で、頭体部は縦一材、左右に小材を寄せ、両足部は横一材。
内刳りは、背面及び像底から深く行われ、襟下から地付に至る大きな背板が充てられている。

とのことです。


ところで、専門家は、この釈迦坐像の表現などを、どのように解説しているでしょうか?

造形表現・制作年代についてふれた、二つの解説をご紹介します。

高梨純次氏の解説です。

「肉髻と地髪の境を不明瞭に大きく表し、表情も雄偉で、肉取りも豊かに量感を残す。
衣文も翻波式の余風を残しながら刻出し、膝前もやや扁平であるが、堂々たる張りを見せている。
これらの要素は極めて古様なもので、江戸時代の修理銘札から10世紀初頭の延喜年間の制作とする説もある。」
(滋賀の美・佛 湖南・湖西~1978年京都新聞社刊)


岩田茂樹氏の解説です。

「面貌には威風が感じられるが、眼は細く、口も小さくまとめられており、和らいだ造形感情があらわれはじめていることは否めない。
正面観においては、広い肩幅と圧倒的な膝の張りが目につき、二次元的な広がりの印象に強いものがある。
しかしいったん側面にまわるや、面部の奥行きといい胸の厚みといい相当なもので、量感を存分にたたえている。
翻波をまじえた衣文の刻出はさほど深くなく、前述のやわらいだ風貌とともに時代の下降を物語る要素ともいえるが、一方では、いかにも平安初期彫刻らしい量感を残している点に注意したい。」
(湖西の社寺展図録~1988年琵琶湖文化館刊)


岩田氏の解説を読んでいると、この釈迦坐像には、平安前期の森厳、重厚、量感という要素と、平安中期の和様化といわれる穏やかさ、和らぎといった要素が、混在一体となっている様子が、良く読み取れます。


次に、この像の表現、類例について、醍醐寺薬師如来像などとの比較について述べたものをご紹介します。

醍醐寺薬師像は、延喜7年~13年(907~913)頃に、会理によって造立されたと考えられていますので、保福寺釈迦像が、修理銘が伝える延喜8年(908)の造立だとしたら、ほぼ同時期の制作ということになります。

宇野茂樹氏は、このように述べています。

「この保福寺(釈迦像)の構造は、醍醐寺(薬師如来坐像)の構造と非常に近いものがあるが、外面の形相は、造像期がほとんど伯仲するにもかかわらず遠いものがある。」
として、以下のような考えを記されています。

その形相の違いは、
当時講堂諸像に代表される東蜜系彫刻と、延暦寺・千手観音、園城寺・十一面観音など檀像系の系譜にある天台系彫刻の差異
に根差すものであろう。
(近江路の彫像~1974年雄山閣刊)

もちろん、醍醐寺像が東蜜系で、保福寺像が天台系ということです。


一方、井上正氏は、このように述べています。
慈尊院・弥勒如来坐像
慈尊院・弥勒如来坐像


「半丈六の大きさも手伝って、この如来の伸びのした造形は拝者を小さな者に感じさせ、包み込んでしまうような迫力がある。

・・・・・・・

お顔の眼のあたりには、一種天平風の漂うのを感ずることもあるが、見入るほどに全体は、醍醐寺薬師三尊像や、寛平4年(892)の慈尊院弥勒仏像、あるいは焼損時の写真に見る東寺食堂千手観音立像など、九世紀末から十世紀初頭に至る会理の作風との類同性が思われてくるのである。」
(古密教仏巡歴24・日本美術工芸603号~1988.12刊、のちに古密教仏巡歴~2012年法蔵館刊所収)


醍醐寺薬師像と保福寺釈迦像との比較について、
井上氏は、「作風との類同性がある」といっていますが、
宇野氏は、「外面の形相は・・・・遠いものがある」と、明確な差異があるとしています。
全く違う見解となっています。
このあたりの処の、表現の見方や解釈は、よくわかりませんが、なかなか難しい面もあるようです。

醍醐寺・薬師如来坐像
醍醐寺・薬師如来坐像

保福寺・釈迦如来坐像
保福寺・釈迦如来坐像


醍醐寺・薬師如来坐像~顔部..保福寺・釈迦如来坐像~顔部
醍醐寺・薬師如来坐像~顔部            保福寺・釈迦如来坐像~顔部

皆さんは、どのように感じられるでしょうか?

私は、保福寺釈迦像を拝しお顔を見たとき、「醍醐寺薬師如来のお顔を思い出した」というのが、素直な第一印象でした。
「幅広い鼻梁、突き出した唇」というところが、そのような印象になったのだと思います。
ただ一方で、保福寺釈迦像の方が、よほど厳しく締まった印象を持ちました。
醍醐寺薬師の方が、ゆったり落ち着いて穏やかなように思えます。


どうも、この保福寺・釈迦像は、同じ仏像なのに、観方によって、ずいぶん違って見られるようです。

「湖西の社寺」の解説をみても、
「面貌には威風 和らいだ造形感情 量感を存分に やわらいだ風貌」
といった、一見相反するキーワードが、同居しています。

丸山尚一氏などは、

「眼、鼻のくまどりの深い明確な面取りの表情は、いかにもあくの強い顔である。
それに高い螺髪と大きな耳が一層特異の造形を作り、それが胸の厚みへと呼応して。この土地のにおいを感じさせる貞観仏になっている。」
(地方の仏たち 近江・若狭・越前編~1996年中日新聞社刊)

と書かれており、「アクが強く・・この土地のにおいを感じさせる」という印象です。

私は、この仏像に、そのような地方性は感ぜず、中央作ではないかと思いました。
また、穏やかさというよりは、
「厳しめの、キリリと締まった存在感」
といった訴えてくる力を、強く感じました。

「どうして、印象がまちまちなのかな?」

と思いながら、いろいろな写真を眺めていると、写真によって随分と受ける感じが違うことに気がつきました。

いくつかの写真をご覧ください

保福寺・釈迦如来坐像~「ブッダ展」図録掲載写真(1998)
保福寺・釈迦如来坐像~「ブッダ展」図録掲載写真(1998)

日本美術全集「密教寺院と仏像」掲載写真
日本美術全集「密教寺院と仏像」掲載写真

湖西の社寺展図録~掲載写真
湖西の社寺展図録~掲載写真

丸山尚一「地方の仏たち」掲載写真
丸山尚一著「地方の仏たち」掲載写真

保福寺にて拝見した写真
保福寺にて拝見した撮影写真

どうも、目線の角度が下から見上げるようになると、厳しく雄偉に見え、目線の角度が上がり上の方から見ると、おだやかで和やかに見えるようです。

私は、見上げるように拝しましたので、厳しくキリリと締まった堂々たる印象が強くなったのかもしれません。

この保福寺の釈迦如来坐像、まさに10世紀初頭という、平安前期の厳しく量感溢れる要素と、平安中期の穏やかでやわらかい要素が、一つの像の中に同居しているということなのかもしれません。
観る角度や照明の具合などによって、その混在した要素のどこかが強調されて映るのでしょうか?

それが、まさにこの像が10世紀初頭の彫像であるというのを、物語っているような気がします。



保福寺の釈迦如来坐像。

心に残る、平安古仏でした。


「湖西地方を代表する優れた彫像」

そのとおりだと思いました。


思い切って、わざわざ高島市まで出かけた甲斐がありました。
また、ご住職夫妻には、たった一人の拝観に、本当に親切にして頂きました。
奥様には、なんと次に訪ねるお寺まで、車でお送りいただきました。

釈迦像を拝した感動と、ご住職夫妻への感謝を抱きつつ、保福寺を後にしました。
是非とも、いずれ再訪したいものです。


皆様、機会がありましたら一度拝されることをお薦めしたい仏像です。

古仏探訪~奈良・磯城郡川西町・下永区の地蔵菩薩立像


奈良のかくれ仏のご紹介、「地蔵菩薩シリーズ」のラストは、磯城郡川西町の下永区で管理されている廃白米寺の地蔵菩薩立像です。

今回のご紹介の地蔵菩薩像の中では、「一押し」の素晴らしい仏像です。

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像
下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像

いかがでしょうか?
惚れ惚れするような素晴らしい平安古仏の地蔵像だと思います。

これだけの素晴らしい見事な仏像が、訪れる人もあまりない寂しげな収蔵庫にひっそりと祀られているのは、
「本当にもったいない!」
ことだと思います。

この地蔵菩薩像、重要文化財に指定されています。


重要文化財に指定されている仏像でも、あまり知られていない仏像の場合、誰もが知っている一流の仏像と比べると、どこかちょっと見劣りするというか、出来のレベルが今一歩ということが多いように思います。

ひっそりとした小さなお堂や、収蔵庫に祀られている現地を訪ねて、単独でその仏像を、拝した時には、
「素晴らしい、見事な仏像だなー!!」
と、大変感動した仏像でも、

博物館の展覧会などに出陳され、いわゆる一流の仏像たちと肩を並べて展示されると、意外にそれほどでもなくて、

「なあんだ!こんな仏像だったのか!」
「もっと、見事で出来の良い仏像だと思っていたのに、思いのほか見劣りするなー!」

こんな実感がして、がっかりしてしまうことがしばしばあります。

皆さん、この下永区の地蔵菩薩立像の場合は、ご覧になって如何でしょうか?

私は、もしこの像が奈良国立博物館の仏像館に展示され、他の知られた仏像たちと肩を並べていたとしても、十二分に見映えがする立派な仏像だと思います。
奈良博の看板仏像、元興寺・薬師如来立像には、ちょっとかなわないかもしれませんが、そのほかの平安木彫仏には、勝るとも劣らない素晴らしい出来の仏像だと思うのです。

残念ながら、この地蔵菩薩像は、私の記憶では、この地を出て展覧会等に出展されたことがないと思います。
少々、不便な場所にありますが、頑張って出かけて拝するしかありません。


この地蔵菩薩像は、奈良県磯城郡川西町下永にある八幡神社の境内の収蔵庫に祀られています。
大和郡山から南へ5キロほど、近鉄橿原線の結崎駅から歩いて10分ほどのところにあります。
奈良市の近郊とはいうものの、まだまだ、結構鄙びた感じの風景が見られます。
訪ねるには、若干辺鄙な場所といってよいかもしれません。

仏像は、地区の方々で管理されており、拝観するには、川西町の教育委員会にお願いすると、管理されている方に連絡頂き、ご都合が合えば拝観できます。
私は、2007年と今年(2014年)3月と、二度訪れましたが、いずれも快くご了解いただきました。

下永区・八幡神社境内

下永区・八幡神社境内にある収蔵庫
下永区・八幡神社境内にある収蔵庫

この収蔵庫に祀られている仏像たちは、廃白米寺に伝来した仏像だそうです。
白米寺というのは、近くを流れる大和川右岸の高堂八幡神社付近にあったと伝えられます。
白米寺は、近世以前に廃寺になり、仏像は現在地の八幡神社の阿弥陀堂などに移されたのち、昭和43年(1968)に建てられた収蔵庫に祀られています。
今は無住で、地区の方々によって守られています。
白米寺の由緒や歴史については、川西町史などを見てみましたが、よく判りませんでした。

収蔵庫の中には、ご紹介の地蔵菩薩立像のほか、阿弥陀如来坐像と不動明王立像と、併せて三体が安置されています。

阿弥陀如来坐像は、像高144.2cm、檜の寄木造りの大きな像で、重要文化財に指定されている、平安後期の仏像です。

下永区廃白米寺・阿弥陀如来坐像
下永区廃白米寺・阿弥陀如来坐像


不動明王立像は、像高51.5cm、檜の寄木造で、鎌倉時代の制作、奈良県指定文化財に指定されています。

下永区廃白米寺・不動明王立像
下永区廃白米寺・不動明王立像


地蔵菩薩像をじっくり拝してみましょう。

像高161.0cmで、ほぼ等身の仏像です。

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像
下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像

両股を隆起させたY字状の衣文で、なかなかのボリューム感です。
いわゆる、「平安初期の仏像のスタイル」といってよい姿をしています。
しかし、平安初期の仏像のような、強烈な迫力、アクの強さ、デフォルメという造形感では迫ってきません。

地蔵菩薩(僧形像)で云えば、弘仁寺・明星菩薩像、橘寺・日羅像、法隆寺(元大御輪寺)・地蔵菩薩像のような、強烈な個性と精神性を表現しているような仏像とは、随分違います。

弘仁寺・明星菩薩立像......橘寺・日羅立像
弘仁寺・明星菩薩立像              橘寺・日羅立像

法隆寺(大御輪寺伝来)・地蔵菩薩立像
法隆寺(大御輪寺伝来)・地蔵菩薩立像

堂々たる一木彫で、分厚い体躯に造られているのですが、ボリューム感よりも、「バランスとプロポーションの良い仏像」という印象を強く受けます。

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像.....下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像~側面
下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像~バランスの良いプロポーションが印象的

お顔の造形も、眼、鼻、口が顔の真ん中に寄せキリリとした雰囲気です。

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像~顔部....下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像~顔部
地蔵菩薩立像~造作が真中に寄ったきりりとした顔の表現

そして何と言っても、目を惹くのが、衣文の表現です。
Y字状の衣文が、流れるようにのびやかで美しく刻まれているのが印象的で魅力的です。
流麗でリズム感がある衣文線の妙は、何とも云えません。
惚れ込んでしまいます。

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像~美しい衣文線
地蔵菩薩立像の流麗な衣文線の表現

全体的な印象を云えば、

「堂々たるボリューム感はあるのだけけれども、バランスの良いプロポーションが魅力的。
実際より上背があるように見える、のびやか、流麗で、凛とした男ぶりの仏像。」

このように感じます。

制作年代のことを考えると、この造形表現は、いわゆる平安前期の厳しい表現の時代を少し過ぎているもかしれません。


専門家の解説はどうでしょうか?

「仏像集成」(学生社刊)の解説には、このように書かれています。

「眼、鼻、口を中央に集めた威厳のある表情と、力強くのびのびした衣文の彫口、ボリューム感あふれる体躯は、この像が9世紀までのぼることを示している。
また、両袖に変化をつけた扱いはごく自然で、作者の巧まざる感覚のあらわれと理解できる。
一木造り。9世紀末の制作と思われる。」(清水真澄氏)


「川西町史(川西町の文化財)」には、このように解説されています。

「樟材を使用して彩色を施すが、現在はほとんどが剥落して素地に近い。
・・・・・
彫眼で、面相は全体的に中央に寄ったように造られており、引き締まった印象を与える。
左足の膝より下の衣紋には翻波式の特徴を示す。
下半身に安定感を持たせた像様とするなど、ともに平安時代中期の作風がうかがえる。」


いずれにせよ、先ほど挙げた平安初期といわれている地蔵像(僧形像)の、次の時代に制作された、洗練された地蔵像なのだと思います。

クスノキ材に彫られているというのは、ちょっと興味深いところです。
お顔の側面のあたりを見ると、クスノキ材特有の、肌理の粗い木肌の感じが見て取れます。

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像~頭部・クスノキ材の木目がよくわかる
地蔵菩薩頭部~クスノキ材の木肌・木目の様子がよくわかる

これだけのレベルの高い仏像なのに、カヤ材、ヒノキ材ではなく、クスノキ材を用いているのは、何か訳でもあったのでしょうか?


話は戻りますが、この地蔵像の魅力は、

「Y字状の流れるような衣文」

の造形の素晴らしさだと思います。
結構、ほれぼれと見とれてしまいます。

下永区廃白米寺・地蔵菩薩立像~美しい衣文線
地蔵菩薩像のY字状の衣文線

このような、「シンメトリカルなY字状衣文が美しい」地蔵菩薩像と云えば、他にはどのような像があったでしょうか?
ちょっと思い浮かぶ、平安古仏を挙げてみました。

・法隆寺(大御輪寺旧仏)・地蔵菩薩像(9世紀頃)
・原良三郎氏旧蔵・地蔵菩薩像(9世紀頃)
・中村区安産寺(室生寺旧仏)・地蔵菩薩像(9世紀)貞観9年・867年頃か
・観心寺・地蔵菩薩像(9世紀)貞観11年・869年頃か
・法輪寺・地蔵菩薩像(9世紀~10世紀頃)
・永昌寺・地蔵菩薩像(10世紀頃)

制作年代にはいろいろ議論があろうかと思いますが、古そうな順から並べてみると、こんな感じです。
なお、永昌寺は滋賀県甲賀市水口町にあるお寺です。

法隆寺(大御輪寺伝来)・地蔵菩薩立像....法隆寺(大御輪寺伝来)・地蔵菩薩立像
法隆寺(大御輪寺伝来)・地蔵菩薩立像

原良三郎氏旧蔵・地蔵菩薩立像....原良三郎氏旧蔵・地蔵菩薩立像
原良三郎氏旧蔵・地蔵菩薩立像

中村区安産寺(室生寺旧仏)・地蔵菩薩立像.......中村区安産寺(室生寺旧仏)・地蔵菩薩立像
中村区安産寺(室生寺旧仏)・地蔵菩薩立像

観心寺・地蔵菩薩立像....法輪寺・地蔵菩薩立像
観心寺・地蔵菩薩立像            法輪寺・地蔵菩薩立像

永昌寺・地蔵菩薩立像....永昌寺・地蔵菩薩立像
永昌寺・地蔵菩薩立像

いずれも、平安の前半期特有の、両股を隆起させたY字状の衣文が大変美しい地蔵菩薩像です。
それぞれに、魅力あふれる仏像ばかりです。

皆さん、下永区・廃白米寺の地蔵菩薩立像は、いずれの地蔵菩薩に似通っているように感じられるでしょうか?
これらの像と比べて、いつごろの制作だと見られるでしょうか?

いずれにせよ、ここに挙げた地蔵菩薩像は、国宝か重文の、一流の優れた仏像ばかりですが、廃白米寺の地蔵菩薩立像も、これらの一流の仏像に、十分肩を並べることができるといってもよい出来の良い仏像だと思います。


やはり、

「この地蔵菩薩像は、奈良のかくれ仏の中でも、出色の魅力ある仏像に違いない」

そのような思いを新たにして、ご対応いただいた管理の方に感謝しつつ、八幡神社境内の収蔵庫を後にしました。


なお、この下永区の地蔵菩薩像については、神奈川仏教文化研究所HPの「貞観の息吹」第24話で、高見徹氏が紹介されていますので、併せてご覧ください。