観仏日々帖

古仏探訪~奈良市・大安寺町地蔵堂の地蔵菩薩立像


奈良の「地蔵菩薩シリーズ」の続きです。

奈良市・大安寺4丁目にある地蔵堂の地蔵菩薩立像をご紹介します。

大安寺町地蔵堂・地蔵菩薩立像

大安寺町地蔵堂・地蔵菩薩立像
大安寺町地蔵堂・地蔵菩薩立像

写真をご覧いただいて、どのように思われたでしょうか?
像高160.5cm、一木彫の地蔵菩薩像です。
昭和60年(1985)に、奈良市指定文化財になっています。

第一印象は、

「なかなか古様ではあるけれども、なんとなくしっくりこない」

こんな感じがするような気がします。

「どうしてかな?」

と、もう一度拝してみると、
体躯の彫り・造形と、お顔の彫り・表情がミスマッチなのです。
お顔が、後世に彫りなおされているようです。
それで、ちょっとしっくりこない印象を受けてしまうのだと思います。

そんな第一印象の地蔵菩薩像ですが、じっくり拝すると、なかなか堂々たる体躯の見事な造形であることに気が付きます。
「これは、なかなかの仏像だ」
と、感じました。

大変見どころのある、興味深い仏像だと思います。


この仏像の存在を知ったのは、清水俊明氏著の「大和のかくれ仏」に紹介されていたからです。
「法華寺町の地蔵菩薩」のところでご紹介した本です。

一見の価値のある平安古仏であることに間違いないようなので、

「これは、ぜひとも訪ねるべし!」

と、思ったのです。

いずれに、拝観のお願いをしたらよいのか判りませんでしたので、奈良市の教育委員会にご連絡し、文化財担当の方に伺いました。
この大安寺町の地蔵像は、地蔵堂に祀られていて、地元の地区の人々が管理されているとのことで、管理の当番の方のご連絡先を教えていただきました。
当番の方にご連絡して、拝観のお願いを申し上げた処、快くご了解をいただき、日時のお約束をして地蔵堂を訪ねました。


3年前の真夏の暑い日のことであったと思います。

大安寺町の地蔵堂は、JR奈良駅の真南1キロほどの市内にあります。
有名な大安寺のすぐ近くで、大安寺の北、700mほどのところです。

大安寺町地蔵堂
大安寺町地蔵堂

地蔵堂は、狭い道路には面しているのですが、「お堂」と呼ぶにはちょっと似つかわしくないような、ごく普通の小さな建物でした。
気が付かずに、ちょっと探してしまいました。
伺うと、地元の管理の方がお待ちいただき、わざわざ中の掃除までしてお迎えいただきました。
地蔵菩薩像は、床の間のようなところに、数体の仏様とともに祀られています。

大安寺町地蔵堂に安置された地蔵菩薩他の仏像
大安寺町地蔵堂に安置された地蔵菩薩他の仏像

早速、じっくりと拝観です。
最初に拝した印象は、冒頭に記したとおり、ちょっとしっくりこないものがありました。

大安寺町地蔵堂・地蔵菩薩立像

大安寺町地蔵堂・地蔵菩薩立像
大安寺町地蔵堂・地蔵菩薩立像~上半身・顔部

大変やさしく、整ったお顔立ちで、平安古仏にしては穏やかに過ぎ、力なく弱々しい感じさえします。
どうしても、このお顔の印象に引っ張られてしまって、体躯の造形の方に眼がいかなくなってしまうのです。
やはり仏様は、「顔が命」なのかもしれません。

このお顔は、どう見ても後世の削り直しと思われます。
そこで、お顔はちょっと置いておいて、首から下の姿に集中して、じっくりと拝してみました。

地蔵堂・地蔵菩薩立像の体部
地蔵菩薩立像の首から下の体部


地蔵堂・地蔵菩薩像~脚部
地蔵堂・地蔵菩薩像~脚部

そうしてみると、
なかなかの力感のある、堂々たる造形です。

いわゆる平安初期彫刻にみられる、鋭い彫口や、鎬立ちは見られず、迫力を前面に押し出すような造形ではありません。
ボリューム感はあるのですが、塊量的なインパクトを感じるというのではなく、ゆったりとして穏やかで、肉付き豊かな安定感を感じさせます。

穏やかな造形表現というと、平安中期以降の藤原風の仏像というように考えてしまいがちですが、この地蔵菩薩像の造形は、平安中期以降に一般的にみられる「穏やかな表現」とは、ちょっと違います。

むしろ、奈良時代の古典様式といわれる表現の系譜の延長線上にあるように思えるのです。
両股を隆起させた脚部の張りのある造形、Y字状の衣文などは、なかなか見事な出来で、ちょっと見とれてしまいます。

新時代の平安初期彫刻風といわれる、強烈な精神的迫力の発散や、鋭くエッジのたった彫口とは、一線を画して、奈良様の伝統を守り受け継いだ造形のように見受けました。
胸周りや脚部のふっくらと穏やかな肉付けは誠に巧みで、魅力的、惹き込まれるものがあります。

奈良様の伝統を受け継いだ木彫像としては、京都太秦・広隆寺の不空羂索観音立像がよく知られていますが、あのムッチリ豊満で張りのある肉付けを、少しばかり思い起こさせるものがあります。

広隆寺・不空羂索観音立像

広隆寺・不空羂索観音立像
広隆寺・不空羂索観音立像

結構、古い時期の制作なのか?
時代はそれなりに下るのだけれども、奈良の地で奈良様の伝統を受け継いだ造形なのか?
私にはちょっとわかりませんが、なかなか見どころのある魅力的な仏像という印象を強く受けました。

大変不謹慎な話ですが、この地蔵菩薩像、唐招提寺の首のないトルソーの仏像のように、首から下だけにして、削り直しなど補修部分を無くして拝すると、もっともっと魅力を感じるのかもしれないと思ってしまいました。

唐招提寺講堂(新宝蔵)・如来形立像~トルソー...地蔵堂・地蔵菩薩像~体部
唐招提寺講堂(新宝蔵)・如来形立像~トルソー       地蔵堂・地蔵菩薩像~体部

さて、この地蔵菩薩像、専門家はどのように評しているでしょうか?

清水俊明氏は、このように記しています。

「地蔵像は像高2mの立像で、材は榧(カヤ)材だろうと思われ、一木造。

残念なことに、頭部を江戸時代に削り直し、右手は肩の付け根から指先まで、左手は肘より補修し、裾の部分と両足も同じく江戸時代の候補をほどこして、胴体部のみが当初の姿を残しているといった現状である。
頭部は初めから比丘形であって、荒れていたので削り直したと思われ、せめて面相だけでも当初のままであればと思わせる。
・・・・・・・・
その豊満な肉づけもすばらしく、肩から腹部に垂れた衲衣の折り返し重ねの表現に特色を見せ、腹部から両膝の部分に分かれるY字形の衣文の表現は、平安前期仏像にみる特色。
しかし衣文の表現に、大きな波と波の間に小さな小波をはさむ、いわゆる翻波式という平安前期仏の衣褶の表現は見られず、翻波式萌芽期の仏像とみてよいのではなかろうか。

このような衲衣衣文の様式は、大安寺の仏像につながるものであり、大安寺町に古くから祀られてきたと伝えるところから、大安寺の旧仏とも考えられる。」
(創元社刊・大和のかくれ仏)


奈良市教育委員会発刊の「奈良市の仏像」には、このような解説が載せられています。

「木心を中央に籠めて、内刳りも施さず、左手前膊より先、右腕(以上後補)を矧ぎつけるのみで、略主要部を檜の一木から調整している。
・・・・・・
如何にも一木像らしく奥行きを十分にあらわし、胸や腹の抑揚あるふくらみを見せ、殊に大腿部の量感が著しく、安定した姿に象形されている。
衣文は深く刻んでいるが、一木像特有の力強さはやや薄れ、一種粘りと柔らかみが表現されているところが個性的である。

9世紀半ばから後半にかけての造像であろう。
なお、この像の表情がやや穏やかに感じられるのは、後世に一部彫り直しが行われているためであろう。」

地蔵堂・地蔵菩薩像(「奈良市の仏像」掲載写真)
地蔵堂・地蔵菩薩像(「奈良市の仏像」掲載写真)......地蔵堂・地蔵菩薩像(「奈良市の仏像」掲載写真)
地蔵堂・地蔵菩薩像(「奈良市の仏像」掲載写真)

「内刳りなしの一木彫」といわれると相当古いようにも思いますが、「力強さが薄れて柔らかみが表現されている」といわれると、時代が下がるようにも見られます。

翻波式萌芽期の仏像とみるのか、9世紀半ばから後半とみるのか、はたまたもっと時代が下って10世紀に入っていてもおかしくないと見るのか、難しいところのように思えます。
私は、9世紀後半~10世紀あたりの、奈良古様の伝統的表現をしっかり受け継いだ出来の良い仏像、という風な感じがしましたが・・・・・・よくわかりません??


この地蔵菩薩像、もともと何処のお寺にあったものなのでしょうか?

清水俊明氏は、
「大安寺の旧仏とも考えられる。」
と書かれておりました。

大安寺
大安寺
地元の方に頂いた資料によりますと、この地蔵堂は、正しくは「多聞院地蔵堂」と云い、現在は近所の融福寺の管理になっているとのことです。
お堂の創建時期は不明ですが、多聞院という名称から、大安寺の別院であった可能性があるそうです。

室町時代末期に大安寺が火災に遭った時に、5体の仏像と4体の四天王がこの地蔵堂や護摩堂に移安されていたとの伝えがあります。
これらの仏像が、今も大安寺にある木彫諸像だと云われているそうです。

地蔵堂は、江戸時代には立派な堂があったようなのですが、現在は昭和30年ごろ建てられた2間5間の質素なお堂があるだけになっています。

あくまで、言い伝えとはいうものの、大安寺火災時には諸仏が移されていたという伝えや、この地蔵堂が大安寺のすぐ近くにあるという立地などを考えると、地蔵菩薩像はもともと大安寺の旧仏であったと考えるのは、妥当な見方なのだろうと思えます。
これだけ立派な出来の地蔵像ですから、大安寺の仏像であったとみてもおかしくもなんともないでしょう。

地蔵堂前の地蔵菩薩像解説掲示板
地蔵堂前の地蔵菩薩像解説掲示板

現在の大安寺の木彫群といわれる諸像と、この地蔵像では、造形の雰囲気はずいぶん違いますが、きっと大安寺のお堂に祀られていたのだろうなと思いを馳せた次第です。

大安寺・楊柳観音立像
大安寺・楊柳観音立像

大安寺・千手観音立像
大安寺・千手観音立像

地蔵堂像は、おとなしい感じの地蔵菩薩像ですが、私は、その肉付きの表現のむちっとした豊かさや、穏やかな安定感に、結構惹かれるものがあり、気に入ってしまいました。

翌年、またこの地蔵像を拝しに、地蔵堂を再度訪ねてみました。

出会い頭のインパクトは薄いのですが、重ねて拝すれば拝するほど、じんわりじんわりとその造形の魅力が伝わってきます。

そんな、良き地蔵菩薩像だと思っています。


新刊・旧刊案内~「仏教美術を学ぶ」中野玄三・加須屋誠著


大変興味深い、うれしい本が発刊されました。
「めずらしい本」と云っても良いのかもしれません。


「仏教美術を学ぶ」中野玄三・加須屋誠著
 

2013年12月 思文閣出版刊 【341P】 3000円


「仏教美術を学ぶ」


「仏教美術を学ぶ」という本の題名を見ると、誰もが、仏教美術の入門書・ガイドブックのような本だと思われるでしょう。
ところが、意外にも、内容は全く違うものでした。

一言でいうと、
「中野玄三氏の、50年余にわたる仏教美術史研究の軌跡を回顧する」
という内容の本なのです。

中野玄三氏は、みなさんよくご存じの仏教美術史学者だと思います。

何といっても、

「神護寺薬師如来立像は、和気清麻呂に対する道鏡の怨霊の祟りや、道鏡一派の呪詛を防御するために、あのような恐ろしく怖い姿に造られた。」

という説を発表し、大きな反響を呼んだ研究者として、有名な人です。

共著者の加須屋誠氏は、中野氏の弟子にあたる人で、奈良女子大学の教授をされている仏教美術史学者です。

この本は、中野氏と加須屋氏の対談形式で、中野氏の美術史研究の業績、研究成果を振り返るといった内容になっています。


目次は、ご覧のようなものになっています。

目次目次

目次目次


中身を読んでいくと、加須屋氏が、恩師宅を訪問し、間もなく90歳を迎える中野氏から、過去の研究業績について色々と話を伺う、という体裁の構成になっています。

中野玄三氏と対話する加須屋誠氏
中野玄三氏と対話する加須屋誠氏

主要な研究成果について、そのテーマに取り組んだきっかけ、
「仏教美術を学ぶ」を持つ加須屋誠氏
「仏教美術を学ぶ」を持つ加須屋誠氏
自説に至った道程や考え方、その後の学界での反響や論争などについて、加須屋氏が質問し、中野氏がやさしく答えていくという対話形式で進められています。
まだゼミ生の女性なども質問者に登場したりして、誰にもわかりやすく解きほぐして語られています。

「中野玄三論」と題した、加須屋氏執筆の110頁にもわたる長文の「中野氏の評伝」も掲載されており、これも読みごたえ十分です。


仏教美術史学者の、研究の軌跡を振り返ったり、自伝、評伝といった本は、これまで、まずお目にかかったことがありません。

歴史学者や考古学者の評伝、自伝は、数えきれないほどに数多く出版されています。

私も、
「二粒の籾~森本六爾伝」「学問への情熱~明石原人発見から50年」「考古学とともに75年~斉藤忠自伝」「考古の巨星~末永雅雄と橿原考古学研究所」
などといった本を、
面白く引き込まれるように読んだ記憶があります。

考古学と仏教美術史学とでは興味ある人の人口に、圧倒的な差があるが故ということなのでしょうか?
考古学のほうが、読み物になるような大発見や発掘があるからなのかもしれません。


望月信成著「一筋の細い道」
望月信成著「一筋の細い道」
仏教美術史学者の評伝、自伝的な本は、これまで私の知る限りは、
望月信成氏の、

「一筋の白い道」1984年 清文堂出版刊 【374P】 1600円

ぐらいしか、思い浮かびません。

この本は自伝ですが、仏教美術研究についてはほとんど語られてはいなくて、開設から30年間にわたって館長を務めた大阪市立美術館時代の回顧にほとんどのページが割かれています。
望月信成氏の研究の軌跡を回顧するというものではありません。


この「仏教美術を学ぶ」という本の出版で、仏教美術史学者の研究の軌跡を回顧する評伝的書に、初めて出会ったように思います。

「うれしい本が発刊されました。」

と、冒頭に書かせていただいたのは、そんな訳からです。


ところで、「中野玄三」という名は、私にとっては懐かしく、思い出深い名前なのです。

古い話になりますが、今から45年も前の学生時代のことです。
経営学部の学生で、学部の講義はサボりっぱなしでしたが、仏像に興味があって、文学部の毛利久教授の授業に顔を出してみたのです。
ご存じのとおり、毛利教授は「仏師快慶論」などで大変著名な仏教美術史研究の大家です。
授業は、毛利教授が指定したテーマについて、持ち回りで学生が発表するという演習形式で進められていましたが、私が顔を出した時、毛利教授が指定した最初のテーマが、
中野玄三氏が仏教芸術に発表した論文、
「8世紀後半における木彫発生の背景~神護寺薬師如来立像の制作事情を中心にして」(仏教芸術54号・1964年)
であったのです。

神護寺・薬師如来立像

神護寺・薬師如来立像~顔部
神護寺・薬師如来立像

私は、その発表を隅の方で、小さくなって聴いていたのですが、

「神護寺薬師のあの恐ろしげな顔貌の謎は、こんな風に考えれば謎解きができるんだ!」

「今までそんなこと考えてみたこともなかったけれど、すごいことを考える人がいるんだ!」

と、びっくりしてしまいました。
結構衝撃的で、すぐにこの中野論文を、気合を入れてじっくり読んだ記憶があります。

その頃から、中野玄三という人は、どのような人なのだろうかという興味関心が芽生えたのです。
それから40余年を経て、「仏教美術を学ぶ」という本が出版され、「仏教美術史学者・中野玄三」という人物と、その研究の軌跡を知ることができたというのが実感です。


そこで、この「神護寺薬師の中野説」とはどんなものかを、ごくごく簡単にご紹介しようと思います。
ご存じの方ばかりだと思いますが、ご容赦ください。

まず、中野氏が着目したのは
「神護寺薬師像は、何故周囲に畏怖感を与えるような、恐ろしい姿に造られたのか」
という問題です。

8世紀後半かと考えられる他の木彫像、たとえば唐招提寺講堂木彫群、元興寺・薬師如来立像などは、ボリューム感、迫力はありますが、神護寺像のような恐ろしげな顔をしていません。

唐招提寺講堂・薬師如来立像...元興寺・薬師如来立像
唐招提寺講堂・薬師如来立像             元興寺・薬師如来立像    .

中野氏は、神護寺像は、和気清麻呂が創建した神願寺の本尊であったと考え、あの怪異な顔貌は、この薬師像の造顕事由にあると考えました。
和気清麿は、宇佐八幡の神託を受け、称徳女帝の寵愛を受けていた時の権力者、道鏡を失脚させたのですが、その道鏡は下総の国で客死します。

神願寺を創建した和気清麻呂は、道鏡の怨霊の祟りや、道鏡一派の呪詛を防御するため、本尊薬師像を恐ろしげな畏怖感を与える姿に造ったのだと論じました。
本来あるべき仏の慈悲相をしていないのは、こうした調伏のための修法の本尊にふさわしい力を顕しているからだと考えたのです。

神護寺・薬師如来立像
神護寺・薬師如来立像

さらには、平安初期木彫発生の問題について、神仏習合や霊木信仰などの影響が論ぜられていますが、ここでは省かせていただきます。

この中野氏の「怨霊調伏説」は、大きな反響を呼び影響を与えました。
その基本的考え方は、その後、多くの研究者からも支持されていくようになりました。

井上正氏は、このように語っています。

神護寺・薬師如来立像~顔部
神護寺・薬師如来立像~顔部
「唐招提寺(講堂薬師)像が一般的な尋常の彫刻世界にあるのに対して、神護寺像はこれとは本質的に異なった精神をもつ。
形象においては相通ずるものをもちながら、顔つきや全身にみられる怪異ともいえる神護寺像の表現は明らかに異質である。
単なる彫刻手法の相違ではなく、造像に際してはじめから、別の狙いを定めて唐招提寺像とは異なった方向を目指していたことは疑いない。
・・・・・・・・
この問いかけに対して、明快ともいえる解答を提示されたのが、若き日の中野玄三氏であった。
『8世紀後半における木彫発生の背景-神護寺薬師如来立像の製作事情を中心にして』なる一論がそれである。

当時の私は、ただちにこれに賛同する力を具えるに至っていなかったが、十年余りを経て、この論文を精読し、神護寺像を怨霊退散のための仏像とするその主たる部分の画期的な内容に目を瞠った。
他の研究者たちにも、徐々にその重味が理解されるようになっていったようである。」
(怨霊世界の造形について~神護寺薬師如来立像と神応寺伝行教律師坐像【続古仏・古密教彫像巡歴2012.12法蔵館刊】)

中野論文は、画期的なものといえるものであったようです。

仏教彫刻史というと、彫刻的な造形の優劣や、様式の伝播、制作年代をどのように位置づけるかということが、当時主流でありました。
そこに、仏像の造形というものについての、宗教思想的背景や怨霊の祟りの防御のための造形といった新たな視点に踏み込んだのです。
美術史と政治史や宗教思想史を初めて結びつけて論じた画期的な説と位置付けられたといわれるようです。


この中野説については、その後さまざまな反論や、中野説に言及する論考が発表されています。
いちいちふれている余裕はないのですが、なかでも近年の、長岡龍作氏との論争は、結構知られています。

神護寺は、天長元年(824)に、神願寺と高雄山寺とが合併して、高雄山寺のあった現在の地に、建てられた寺院です。

神護寺・金堂
神護寺・金堂

長岡氏は、

神願寺が移転した事由が、「地勢汚穢」「地勢沙泥」によるとされており、そのような、けがれた場所にあった神願寺本尊が、新たな神護寺の本尊に移坐されることはありえないのではないか。

現薬師如来像は、神願寺ではなくて、高雄山寺の本尊であった像であり、七高山といわれる愛宕山系の清浄なる山に祀られた神護寺像は、薬師悔過の本尊で法華法会とも関係がある

という考えを示したのです。

中野氏は、この長岡説に対していくつかの反駁論文を発表し、長岡氏もこれに応えるなど、注目の論争となりました。

中野氏は、

丹波国・国分寺周辺の仏像調査や、木津川流域に数多く祀られる薬師像などから、薬師仏は汚泥を厭わず、むしろ進んで汚泥にまみれ、人々を救済する仏であることを論証して、

「地勢汚穢」「地勢沙泥」の地にあった本尊が移坐されることは考えられないとする長岡説に、強く反論しました。

最直近では、2011年に皿井舞氏が、
「神護寺薬師如来像の史的考察」(美術研究403号)
において、この問題に踏み込んだ論考を発表されています。

皿井氏は、
神護寺薬師如来像は、もともと神願寺本尊像であったと考えられることを論証するとともに、その恐ろしげな「異相」に顕わされた事由について、

神願寺が宇佐八幡の要請に応えて創建されたことに注目し、
「仏力をもって、神威を増す」
という造形表現の、神仏習合の一つの類型として考えるべきである

という考えを発表されています。


神護寺薬師如来像についての中野論文の話が、ずいぶん長くなってしまいました。

神護寺薬師像に関する中野論文は、次の本に収録されています。

「悔過の芸術~仏教美術の思想史」 1982年 法蔵館刊 

「8世紀後半における木彫発生の背景~神護寺薬師如来立像の制作事情を中心にして」が収録されています。

中野玄三著「悔過の芸術」


「日本仏教美術史の研究」1984年刊、「続日本仏教美術史の研究」2006年刊、「続々日本仏教美術史の研究」2008年刊  いずれも思文閣出版刊

中野玄三著「仏教美術誌研究」


さて、もう一度、中野玄三氏の研究の軌跡と回顧の話に戻りたいと思います。

良い機会かと思って、中野氏の処女出版「悔過の芸術」を、もう一度本を繙いてみました。

冒頭の「序章・仏教美術の思想史的研究」のインデックスをみると、このような項目が並んでいました。

1.死と宗教心   2.怨霊に対する薬師悔過 ・・・・・・ 
5.仏教美術の思想史的研究についての展望


そして、「あとがき」には、このように語られています。

「以上述べてきた私の半生の体験が、この『悔過の芸術』に収めた論文を生み出す動機を作った。
死に対する恐怖が、かつては日本の歴史を動かし、ひいては日本の美術史も左右させていたことがわかったからである。

なにか得体の知れぬ不思議な魔力が、ひそかに身辺にしのび寄ってくるのに気付いたとき、人はどれほど恐怖を覚え、救済主にすがりつこうとするか、私は少年のころからの体験から痛いほどわかっているように思う。

その救済主に対する絶対的な帰依が、人智の限りを尽くしてさまざまな偶像やその他の宗教美術を生みだすのである。
そして時代が遡れば遡るほど、その恐怖の度は純粋で大きく、それによって製作される宗教美術が人の心を打つことも大きい。

平安初期の薬師像や、平安・鎌倉両時代の来迎図の美は、このようにして私の心をとらえたのであった。」

中野氏は、自身の「死」や「怨霊」といったものに着目した美術史研究について、「自らの半生の体験」に深くかかわり、その動機があると語っています。

どのような、半生の体験があったのでしょうか?

「仏教美術を学ぶ」という本の、加須屋氏による「中野玄三論」には、中野氏の生い立ちから美術史学者になるまでが、丁寧につづられています。

その話を、ちょっとたどってみたいと思います。

中野氏は、大正13年(1924)、佐賀県唐津市に生まれます。

ところが、翌年、父が急性肺炎で急死します。
東京帝大卒で筑豊の鉱山会社に勤める働き盛りであったそうです。

家族は上京しますが、中野家は兄弟姉妹がいる母子家庭となったのです。
昭和9年(1934)最年長の姉が、20歳で肺結核で死去します。
当時人気職種のデパート勤務となり、間もなくの哀しい出来事であったそうです。

中野玄三氏
中野玄三氏
昭和14年(1939)中野氏は、経済的理由でお金のかからない陸軍予備士官学校を受験合格します。
軍隊に入隊しますが、「自分たち将校が全員死ぬまでは、敗戦にはならないだろう」と漠然と思ったとのことです。
士官学校同期の半分の1100名余もが、戦死、戦病死ということになってしまったそうです。
生き残った中野氏たちは、いずれも耐え難い苦痛と慙愧の念を感じずにはいられなかったということです。

戦後は、公職追放で仕事がなく、工員や守衛の仕事をしていましたが、東京国立博物館を訪れるようになり、「美術の勉強をしてみたい」と、強く念ずるようになりました。
一念発起勉強し、昭和28年(1953)、京都大学に入学、29歳の時でした。
10歳以上年下の学生達と一緒に学生生活を送り、京大文学部国史科を卒業します。

卒論は、「平安前期における民間の六道思想」で、中野氏自身が語っているように、「六道信仰・怨霊信仰」といった死の恐怖とか罪悪感というテーマを扱ったものでした。

昭和32年(1957)に卒業後は、京都府の文化財保護課に就職、この時代(10年間)に神護寺薬師如来の制作事情といった論文をはじめ、単行本「悔過の芸術」に収録された論文を発表しています。
大学卒業後まもなく30歳代で、学界の反響を呼ぶ鋭い論文を続々発表していたということになります。

その後は、奈良国立博物館、京都国立博物館に勤務、昭和60年(1985)に退官し、京都大学講師、嵯峨美術短期大学学長などを経て、現在90歳。
悠々自適の生活ということだそうです。

中野玄三自筆調書「禅林寺・山越阿弥陀図」..中野玄三自筆調書「禅林寺・山越阿弥陀図」
中野玄三自筆調書「禅林寺・山越阿弥陀図」(昭和45年)・「仏教美術を学ぶ」所載


この中野氏の半生をたどる話、哀しい死との度々の遭遇を知ると、

「私の半生の体験が、この『悔過の芸術』に収めた論文を生み出す動機を作った。
死に対する恐怖が、かつては日本の歴史を動かし、ひいては日本の美術史も左右させていたことがわかったからである。」

と、「悔過の芸術」のあとがきに書かれていることが、心に沁みるような気がしてきました。

中野氏が、神護寺薬師如来像の恐ろしげな畏怖する顔貌に謎に取り組み、一つの解を得たことや、その後の研究の軌跡は、
こうした苦しくつらい「死」に幾度も直面した、人生体験に根差したものであることを、「仏教美術を学ぶ」という本を読んで、初めて知り、心にずしりと重いものを感じるようになりました。

仏教美術を愛好し、また仏教美術史の研究者に関心のあるものにとってみれば、こんな「美術史学者の研究の軌跡と人生をたどる本」が、これからもいくつも刊行されることを願っています。
なかなか難しそうな願いではありますが・・・・・・

一読を、是非お勧めいたします。


追伸というわけではないのですが、
時を同じくして、中野玄三氏との神護寺薬師論争の論争相手であった、長岡龍作氏の本が出版されました。

「仏像~祈りの造形」日本文化・私の最新講義  長岡龍作著
2014年1月  敬文社刊 【319P】 2800円

長岡龍作氏著「仏像~祈りの造形」


どういうわけか、絶妙のタイミングの刊行となりました。
仏像が祀られる場や風景という問題をテーマにした本ですが、残念ながら神護寺薬師如来像についての話は取り上げられていませんでした。

併せて、ご紹介させていただきました。

古仏探訪~奈良・生駒郡三郷町・観音寺の地蔵菩薩立像


「奈良・京都のかくれ仏」のご紹介をはじめましたが、最初は、奈良市・法華寺町の地蔵菩薩像をご紹介でした。

地蔵菩薩のご紹介から始めましたので、とりあえず「地蔵菩薩シリーズ」で行ってみようかなと思います。

前回紹介の、法華寺町の地蔵菩薩像の写真を見ていると、この地蔵像のことを連想してしまいました。

生駒郡三郷町にある観音寺の地蔵菩薩立像です。

なかなか雰囲気のある、平安古仏の地蔵菩薩立像です。

三郷町観音寺・地蔵菩薩立像
三郷町観音寺・地蔵菩薩立像


法華寺町・地蔵菩薩立像
法華寺町・地蔵菩薩立像


二つの地蔵菩薩像、それぞれの写真を見て、どのように感じられたでしょうか?
良く見ると、姿かたちは随分違うのですが、どこか空気感に通じるようなものがあるような気がします。

法華寺町・地蔵菩薩像は無指定ですが、観音寺・地蔵菩薩像は重要文化財に指定されています。
重要文化財に指定されている割には、あまり知られてはいません。
訪れたことのある方は、あまりいらっしゃらないのではないでしょうか?
知られざる平安古仏の「かくれ仏」と云って良いのかもしれません。


観音寺を訪れたのは、2年少し前、2011年12月のことです。

私も、この仏像のことは知らなかったのですが、法隆寺のある生駒郡近辺に、見るべき平安古仏は無いのだろうかと、仏像関係書をあたっていましたら、観音寺・地蔵菩薩立像が、
「平安中期頃の制作とみられ、重要文化財に指定されている」
と、書かれているのを見つけました。
「これは、一度拝してみたいものだ」
と、出かけてみたのです。

観音寺は、奈良県生駒郡三郷町立野北という処に在ります。
王寺駅から生駒駅を結ぶ近鉄生駒線の、信貴山下駅というのが最寄り駅です。
ちょっと不便な処です。

ご住職に、ご拝観のお願いの書状を差し上げましたら、御了解をいただき、同好の方々と出かけました。

駅から歩いて10分ほどの高台の住宅地に、ひっそりとあるお寺です。
お寺は、車の入れない曲がりくねった細い坂道の先に在ります。
車で出かけた我々は、お寺から少々離れた処に車を停めて、訪れました。

こじんまりした小さなお寺ですが、山門を入ると庭園風の境内のなかに立派なお堂がありました。

観音寺
観音寺・山門

観音寺・本堂
観音寺・本堂

ご住職がお迎えいただき、丁寧なご説明を伺ったあとに、地蔵菩薩像を拝しました。
地蔵菩薩像は、客仏のようです。
本尊・阿弥陀如来に向って左側の、狭い場所に祀られていました。

観音寺の沿革は、定かではないようです。
観音寺本堂の創建は、鬼瓦に江戸時代の明和2年(1765)と書かれており、250年ほど前になるそうです。
それ以前から、観音寺は存在していたようで、本堂建設の随分前から観音菩薩を祀った庵があり、それ故「観音寺」の寺名になったと伝えられます。
いずれにせよ、平安古仏の地蔵菩薩像は、いつの時か、いずれの処から、この観音寺に移されてきたのは間違いありません。

地蔵菩薩像の傍まで近寄って、眼近に拝することが出来ました。
像高121.8㎝の一木彫の仏像です。

観音寺・地蔵菩薩立像

観音寺・地蔵菩薩立像上半身
観音寺・地蔵菩薩立像


「法華寺町の地蔵菩薩立像を、なぜか思い出す」

拝した時の、パッと見た第一印象です。

どちらの像も、像高が同じぐらいで、煤けたような黒い色の木肌になった平安古仏の地蔵像なので、似ているように感じてしまいます。
像高は、法華寺町像が135㎝、観音寺像が122cmです。

もう少しよく見てみると、

・広葉樹の堅木に彫られているように見えること。
・体躯のボリュームの割に、衣文の彫りが浅目で、簡素な線の衣文であること。
・奈良に在りながらも、在地仏師によって造られたような、洗練されない造形であること。

なども、似通っている点であることに気が付きます。

こんな共通点が、この二つの地蔵菩薩像に、同じ空気感を感じさせるように思います。


第一印象では、このように感じたのです。
しかし、じっくりよくよく拝すると、2つの地蔵像、随分違った処があるようです。

観音寺の地蔵菩薩像は、衣文の彫りがなかなかシャープで、鎬も立って彫り口の出来が随分良いように思えます。
流石に重要文化財に指定されているだけのことはあります。
ただし、衣文が簡素で、結構定型化していています。
のびやかさがなくなって、形式化が進んでいるようです。

観音寺・地蔵菩薩立像衣文..法華寺町・地蔵菩薩立像衣文
観音寺・地蔵菩薩像と法華寺町・地蔵菩薩像の衣文

ボリューム感は、観音寺像のほうが、分厚い体躯でしっかりあるのですが、平安前期特有の迫力やパワーを発散させているようには感じません。
丸顔の表情や、定型化した衣文など、むしろ「穏やかな雰囲気」を感じさせます。

観音寺・地蔵菩薩立像側面(美術院修理時写真)...観音寺・地蔵菩薩立像正面(美術院修理時写真)
観音寺・地蔵菩薩像側面と正面~体奥分厚くボリューム感がある
(大正14年・1924美術院修理時の写真)


法華寺町の地蔵菩薩像が、

「粗野さや野性味を発散させ、土臭いエネルギーのようなものを感じさせる」

のに対して、

観音寺の地蔵菩薩像は、

「ボリューム感はあるが、上品でおだやか」

という印象です。

鼻筋や口唇の表現を見ても、法華寺町像の方がキリリとした厳しい雰囲気を少し残しているのに対して、観音寺像の方は扁平な丸顔で、やわらかでなごやかな表現になっているようです。

観音寺・地蔵菩薩立像顔部..法華寺町・地蔵菩薩立像顔部
観音寺・地蔵菩薩像と法華寺町・地蔵菩薩像の顔部

やはり、この差は、制作年代の差を物語っているのでしょうか?
法華寺町像を9世紀後半~10世紀前半に置くとすれば、観音寺像は10世紀後半ぐらいに置きたくなってしまいます。
両像の、出来の良し悪しは別にして、造形表現を見ると、それくらいの差があっても良いのかなという気がします。


解説書には、どのように書かれているでしょうか。

「仏像集成」(学生社刊)では、猪川和子氏がこのように解説されています。

「この地蔵像は、平安初期風を残している古朴な像である。
頭から体躯まで一木造、背面から内刳りをし、背板をあてる。
頭部低目に面相は異相を示している。
肩が盛り上がり、肉身は豊かで、衣の襞に翻波式衣文をあらわすが、簡素な線で浅く彫る。
足先、台座は後補。 平安時代。」


「仏像を旅する・奈良」(至文堂刊)では、浅見龍介氏が、このように解説されています。

「観音寺の木造地蔵菩薩立像は、桂(カツラ)の一材から彫成し、背面から内刳りを施し、背板をあてる。
そして、台座に足枘で立つ。
内刳りと足枘立ちの二点がこれまで見てきた法隆寺・融念寺・法輪寺像と異なる点で、前述のこれらの像は内刳りを施さず、台座蓮肉まで本体と共木で造る。
観音寺像は、やや穏やかになった面相とあわせ、平安中期の作と考えられる。」
(斑鳩・生駒の仏像)

法隆寺・地蔵菩薩立像(元大御輪寺)
法隆寺・地蔵菩薩立像(元大御輪寺)


融念寺・地蔵菩薩立像......法輪寺・地蔵菩薩立像
融念寺・地蔵菩薩立像..........法輪寺・地蔵菩薩立像

二つの解説を読むと、共に、古様ではあるが、造像技法、造形表現などから見て、平安中期ぐらいの制作とみられているように、受け取れます。

また、観音寺像は内刳りがありますが、法華寺町像は内刳りのない一木彫です。
この点も、法華寺町像のほうの古さを物語っているようです。
ただ、内刳りの有り無しだけで、制作時期の古さを判断するわけにはいかないでしょう。
平安初期以前の制作の元興寺薬師如来像にも、しっかり内刳りがあります。


もうひとつ気になるのは、この観音寺地蔵像の用材のことです。
どうもはっきりしないのです。

・浅見龍介氏は、「仏像を旅する・奈良」では、「桂(カツラ)材」
・「日本美術院彫刻等修理記録Ⅴ」には、「桜(サクラ)様の材」(大正14年修理)
・観音寺さんから頂いた「お寺の解説パンフレット」には、「欅(ケヤキ)の一木造り」

と、それぞれ書かれています。

広葉樹材に彫られていることには間違いないのですが、本当は、いずれの用材で彫られているのでしょうか?

奈良県の中南部の平安古仏の用材には、桜(サクラ)と欅(ケヤキ)を用いたものが間々みられますので、このいずれかの材であれば、すんなり理解できるようにも思えるのですが・・・・?
直に拝した時には、用材のことにまで頭が至っていませんでしたので、像の用材の感じについてはよく覚えてません。

小原二郎氏によると、
「ケヤキ系の木は堅くて重く、加工が難しいうえに、狂って割れやすい。
そのうえ肌がざらざらであるから、漆や彩色の仕上げにも向かなかったはずである。」(日本人と木の文化)
とのことです。

法華寺町・地蔵像は、欅(ケヤキ)材に彫られているのですが、この小原氏の説明どおりで、ざらざらした木肌で、堅木の硬質感を感じさせます。

観音寺像のほうは、写真で見ると、法華寺像ほどにはざらざらした感じや、硬質感を感じさせないので、ケヤキ材ではないのかもしれません。


最後に、この地蔵像の伝来について、ちょっと面白い話が書いてある本を見つけました。

「奈良のかくれ寺~訪ねてみたい古寺88~」大石眞人著 H4・山と渓谷社刊

という本です。

この本自体は、いわゆる旅のガイドブックなのですが、この地蔵像の来歴について、当時の観音寺ご住職から聞いた話として、このように書かれています。

「これが、実に数奇な運命を持つお地蔵さまなのである。
この地蔵さまは、かなり汚い。
それも道理、この像は大和川の向こう岸にあった刑場で、絞首刑になる罪人の刑の執行に立ち会い、その菩提を弔うために立っておられたのであった。
そのため、この像は平安中期の作とはわかっても、世をはばかって銘、文字の類は一切刻されていない。
・・・・・・・・・・
松永弾正の死後、ここに移されたという。」

大和国の戦国大名、松永弾正久秀が自爆死したのが、天正5年(1577)のことですから、この話によると、地蔵菩薩像が観音寺に移されたのは、その頃ということになります。

この来歴話、何処まで信じてよいのか、よく判らない話のように思えます。
江戸頃の創建の観音寺に、このような平安古仏が、何処から、どうして祀られているのか?
そんな不思議話の由来として、もっともらしく伝えられたのかもしれません。
地蔵菩薩は、お墓の入り口などにしばしば祀られることから、こんなちょっと気味悪い話が、伝えられたのでしょうか?
黒くすすけた地蔵像の前に立ち、お姿を拝していると、この由来話も、そんな気になってきます。


法華寺町像、観音寺像と、

「広葉樹に彫られ、黒く煤けた木肌の、平安古仏の地蔵菩薩像」

を、ご紹介しました。

三郷町・観音寺の地蔵菩薩像は、重要文化財に指定されおり、加えて平安中期の一木彫像です。
もっと、もっと知られていても良いように思いますが、一般の仏像ガイドなどに紹介されていることは、まずありません。
また、専門的な仏像の本にも、この像が採り上げられていることは、あまり無いようです。

近鉄・信貴山下という、大変不便なところに在り、車で直接行きにくいということもあるのでしょう。
この仏像を拝しに観音寺を訪れる人は少なく、「かくれ仏」になっています。

なかなか立派な一木彫の平安古仏です。
写真でもご覧いただいたように、一度は拝する値打のある地蔵菩薩像だと思います。

何かの機会に、訪ねて見られてはいかがでしょうか。