観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「日出新聞」記者金子静枝と明治の京都【続報】


「明治の古社寺宝物調査」の記録、図譜、写真【その2】に入る前に、ちょっと関連トピックスの割り込みご紹介です。


日本経済新聞の文化欄に、こんな記事が掲載されました。
2014年1月29日(水)付の記事です。


古美術 明治の辛口取材帳

~近畿一円の調査に密着 記者・金子静枝の足跡を追う~

という見出しがついていました。

2014.1.29付・日本経済新聞文化欄記事



執筆は、先にご紹介した本、

「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都~明治21年古美術調査報道記事を中心に~芸艸堂刊

の編著者である、竹居明男氏です。

「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都~明治21年古美術調査報道記事を中心に~芸艸堂刊



この日経新聞の最終面に毎日掲載される「文化」というコーナーは、地元の郷土史家などの目立たぬ地道な研究や、変わった分野の蒐集コレクションなどを行っている人たちの、業績や苦労話を語る話が掲載されています。

この文化欄、私が大変気に入っているコーナーです。
登場するそれぞれの人の、こだわりや執念が垣間見られて、興味深いものがあります。
最近では
「富士山の古写真の蒐集コレクション」とか、
「明治末~昭和初期の車輌の鉄道模型、すべて手作り」とか、
「屋根上の鍾馗さんの置物を、全国行脚1万7千体で調べ上げた」
というような、
呆れるようなマニアックな趣味や研究に没頭している話が、採り上げられています。

この観仏日々帖、【興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる】
で、ご紹介した、仏頭発見者・黒田曻義の妻・康子さんの当時の思い出話「仏頭の目覚め 見届けた夫」という記事も、この日経新聞文化欄に掲載されたものです。


竹居明男氏は、この執筆記事で、
金子静枝のスクラップブック「棄利張」(きりばり)を古書市で発見し買ったのをきっかけに、金子静枝という人物と「日出新聞」・明治21年古美術調査報道記事の発掘研究に取組むことになったいきさつなどを、活き活きと語られています。

記事を、ちょっと御紹介したいと思います。

きっかけは1980年夏、自宅に近い北野天満宮の縁日だった。

金子静枝「棄利張」
金子静枝「棄利張」
露店で5冊の古い帳面を見つけた。
1冊200ページほど、反故紙の裏紙をこよりでとじた自家製だ。
表紙に墨書で大きく「棄利張金子静枝」とあった。
中をめくると、新聞の切り抜きがびっしりと貼り付けられていた。
特に明治の古美術調査の記事や正倉院の宝物の絵がある1冊が目に留まった。
古書と古美術が好きな私は、迷った末、5冊2万円で購入した。

すぐに金子と記事について調べ始めた。
ところが、最も信頼できる「京都大事典」はじめ、どの事典にも出てこない。
記事は大半が日出新聞に掲載された本人の記事だと判明。
後身の京都新聞社に足を運んだ。
社内では有名な記者だったと教えてくださったが、残念ながら資料はなかった。

図書館などで古い文献をひもとくうち、金子は幕末の新潟の医師の家の出身で、いくつかの新聞や雑誌の記者を経て創刊時の日出新聞に招かれたことがわかった。
調査の後は各種博覧会の審査員などとして活躍したようだ。
私はマイクロフィルムで関連記事をさらに入手。
「棄利張」の膨大な記事と併せて日付順に整理し、作品や人物の略注も施していった。

~~~~~~~~~~~(略)~~~~~~~~~~~~~~~

文化財保護の観点から近年、この調査(明治21年の古社寺宝物調査)が注目を集めているが、詳細に内容を記した金子の記事はかなり有用な基礎資料になるだろう。

実は北野天満宮で「棄利張」を見つけたとき、一度購入をあきらめた。
ところが帰宅しかけたとき、夏の夕立がポッリ。あわててとって返し、購入した。
私の専門は「天神信仰」。
もしかしたら、天神様のお導きでは、と人に指摘された。
この希有な〝出会い〞に感謝している。


金子静枝「棄利張」
金子静枝「棄利張」


この北野天満宮の縁日での、金子静枝のスクラップブック「棄利張」(きりばり)との出会いがなかったならば、竹居氏は金子静枝の研究に手を染めることはなかったでしょうし、【「日出新聞」の明治21年古美術調査報道記事】が、世に広く紹介されることもなかったのではないかと思います。

劇的な出会いであったということなのでしょうか。

竹居氏は、その後3冊の「棄利張」を別の機会に入手され、現在8冊架蔵されているとのことです。


「棄利張」との出会いから、34年。
今般、「芸艸堂」からこの本が出版されることになったということです。
出版に至るいきさつについては、先の話でご紹介したとおりです。

【「日出新聞」記者金子静枝と明治の京都】
という本は、なかなか世に注目されそうにないマニアックな本だと思いますが、今般、日経新聞文化欄にこれだけ大きく採り上げられたことによって、より多くの人に知られ関心を惹くようになればと、思うばかりです。


この本のことが、全国紙に、こんなにも大きく紹介されたということが、ちょっと嬉しくなって【続報】を書かせていただきました。


新刊旧刊案内~「明治の古社寺宝物調査」の記録、図譜、写真など【その1】


前回、明治21年の近畿地方古社寺宝物調査の有様を報道した、「日出新聞・古美術調査報道記事」を収録した本の刊行について、ご紹介しました。

我が国の古器物・古社寺宝物が、美術品として新たに見出され、評価されていく調査となった時の、報道記事でした。
天心、フェノロサらによって主導された、「日本美術の発見」の有様を、活き活きと伝える記録で、興味深いものでした。

そこで、ついでというのもどうかとは思いますが、
明治期に実施された古器物・古社寺宝物調査の有様を伝える調査記録、図譜・写真の話
を、「その続き」でさせて頂きたいと思います。

「そんなものには、全く興味はない!」
「そんなもの、わざわざ調べるというのは、ちょっと変わっているじゃないの!」

多くの方から、そう云われてしまいそうなマイナーな話ですが、お付き合いいただければ有難く思います。


明治初年以来、古器物・古社寺宝物調査は、明治末年まで相当回数実施されています。

こうしたなかで、西欧の近代概念がもたらされ、新たな眼での「日本美術の発見」がはじまります。
そして「日本美術史の考え方」が形成されてゆき、古器古物の「美術品としての評価」が固まってゆきます。
折々の調査の有様や、手記、写真などをたどっていくと、
古器古物、寺社の宝物と呼ばれていたものが、「美術品、文化財」として、認知され評価されていくプロセスを知ることが出来るのです。

こうして形成されていった「美のものさし」の系譜、延長線上の中で、現代のわれわれも「素晴らしい仏像」「美しい仏像」と感じる眼を養ってきたのだと思います。
一方、現代の「美のものさし」と、当時の「美のものさし」が、変化してきているのも事実で、そうした変遷をたどるのも、興味深いことです。


近頃、こうした「日本美術の発見」「美のものさしの形成・変化」というものに興味が深まるにつれ、「明治の古器物・古社寺宝物調査」に、関心を持つようになってきたのです。

「明治の古器物・古社寺宝物調査」の話は、「埃まみれの書棚から~明治の文化財保存・保護と、その先駆者」に書かせていただきましたので、ご覧ください。

今回は、こうした調査に際して作成された、

・調査記録や手記、図譜や写真集にはどのようなものがあるのだろうか?

・一般の刊行物で出版されているのだろうか?

について、ご紹介してみたいと思います。

これらを読んだり見たりすることによって、当時の有様や、人々の苦労、美の感性などを活き活きと知ることが出来、私には、興味深く面白いのです。
益々、マイナーな隘路に入って行くようですが、ご辛抱いただきたいと思います。


ご存じのとおり、「明治の古器物・古社寺宝物調査」は、

・明治5年の「壬申宝物検査」

に始まります。

以来、政府レベルの大きな調査は、

・明治12年の印刷局による古美術調査旅行、

・「明治21年・近畿地方宝物調査」に始まる全国宝物調査(古社寺保存法制定へ繋がる)、

・明治32~36年の古社寺保存会による古社寺調査

などが挙げられると思います。

そして、それぞれの調査に際しては、調査記録や目録が作成されていますが、その他にも図録・図譜や、写真集が造られているときもあります。
また、調査に当たった人によって、個人の調査日記や手記も残されています。

古い話なので、こうした記録や資料の残されたものを全部調べ上げるのは、なかなか私には難しくてかなわぬことなのですが、
色々な本や図録などに採り上げられたものを、あれこれピックアップしてみて一覧表にしてみると、このようなものになりました。

眼についたものを個人的にピックアップしただけですので、不完全なものだと思いますが、ご参考になろうかと思います。

明治期の主な古器物・古社寺宝物調査と調査記録資料等の一覧



それでは、この一覧表に採り上げた順に、調査記録、図譜・写真などを出来るだけご紹介したいと思います。


1.明治5年・近畿東海地方古社寺調査(壬申宝物検査)

明治4年、文部省の町田久成、蜷川式胤の建言により、明治政府は「古器古物保存方(法)」を発布します。
神仏分離令の余波とも云うべき廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、その惨状を憂い、古器古物の保存・保護を企図したもので、我が国文化財保護行政の嚆矢と云われています。

明治5年(1872)年には、約5か月にわたり実施された関西を中心とした古社寺や旧家の宝物調査を実施します。
実施された年の干支をとって、一般に「壬申検査」と呼ばれています。
主だったところでは、東大寺、法隆寺、東寺などの古寺のほか、正倉院、桂離宮、京都御所などの宝物を調査しています。

この時作成された記録や資料をご紹介します。


【壬申検査社寺宝物図集】【古器物目録】

調査宝物の拓本や描画とその解説が納められた図集と、調査目録です。
図集は全10冊で、目録と共に壬申検査関係資料として重要文化財に指定されています。
(東京国立博物館所蔵)

壬申検査社寺宝物図集(東京国立博物館蔵・重要文化財)

壬申検査社寺宝物図集(東京国立博物館蔵・重要文化財)

壬申検査社寺宝物図集(東京国立博物館蔵・重要文化財)
壬申検査社寺宝物図集(東京国立博物館蔵・重要文化財)


宝物図集の画像は、
国立博物館画像データベース「e-國宝」歴史資料→壬申検査関係資料
で全てカラーで見ることが出来ます。

古器物目録は、

MUSEUM255~278号 (S47~49)

に、収録されています。

壬申検査古器物目録(東京国立博物館蔵)
壬申検査古器物目録(東京国立博物館蔵)


【奈良の筋道】

蜷川式胤が残した、調査記録兼旅日記のようなものです。

綴られている出来事や感想などは、結構面白く読めます。
廃仏毀釈の渦中にあった寺院の惨憺たる衰微荒廃の有様、正倉院勅封開封の感激などが記録されており、大変興味深い記録・紀行文になっています。
なかには、美しい芸妓、舞妓を呼んだとか、その名前まで記してあったりして、人間味と親しみを感じてしまいます。
また、横山松三郎撮影の当時の奈良の古寺の有様などの貴重な写真も、豊富に掲載されています。

蜷川式胤・奈良の筋道(原本)
蜷川式胤・奈良の筋道(原本)


この「奈良の筋道」は、平成17年(2005)に、全文が活字化されて出版されました。

蜷川式胤「奈良の筋道」 米崎清美編著 (H17) 中央公論美術出版社刊 【473P】 13000円

「奈良の筋道」中央公論美術出版社刊

「奈良の筋道」中央公論美術出版社刊
「奈良の筋道」中央公論美術出版社刊


【写真師・横山松三郎撮影写真】

壬申検査に写真師として同行した横山松三郎は、膨大な量の古社寺写真や宝物写真を撮影しました。

それらは、当時最新であった立体的に見えるというステレオ写真です。
現在、重要文化財に指定されています。
我が国における古社寺、古美術品写真の嚆矢と云えるものです。

ただ、壬申検査の時は、仏像のことは、ほとんど調査記録に書かれておらず、信仰・礼拝対象と見られていたようで、横山の撮影した写真も、古社寺の建物や工芸品などの宝物の写真がほとんどで、仏像の写真はほんの少しだけ残されているに過ぎません。

横山松三郎撮影・東大寺大仏(ステレオ写真)
横山松三郎撮影・東大寺大仏(ステレオ写真)

横山松三郎撮影・法隆寺夢殿
横山松三郎撮影・法隆寺夢殿


横山の写真は、

国立博物館画像データベース「e―国宝」歴史資料→壬申検査関係写真

東京国立博物館 情報アーカイブ 古写真データベース(検索キーワードに「横山松三郎」と入力)~994枚掲載

で、見ることが出来ます。
大量な写真群で、見るのは大変なのですが、めずらしい写真揃いで結構圧巻です。



2.明治12年・印刷局古美術調査旅行

当時の印刷局長・得能良介の発案により、5か月弱にわたり実施された古美術調査です。

関東・中部・近畿地方、1府12県に及ぶ大調査旅行で、寺社80か所、工場18か所、陵墓6か所などを訪問しています。
日本の古美術品が大量に外国へ販売されて流出している現状を憂いた得能は、これらを調査し記録として後世に残すとともに、印刷局技術向上にも役立てたいと考えたのでした。
お雇い外国人、キヨッソーネも同行しています。


【国華余芳】

調査旅行で鑑賞した古器物、景勝を図集にしたものです。

「多色石版図集」(2分冊)と「写真帖」(5分冊)の2冊が造られました。
とりわけ、多色石版図は、十数色の多色刷り石版印刷で、細部には手彩色もほどこされており、技術の粋を尽くした見事で美麗なものです。

平成19年(2007)に、「国華余芳の誕生」という展覧会が開催され(お札と切手の博物館)、実物を眼近に観ましたが、その見事な出来に感動しました。

国華余芳・多色石版図集
国華余芳・多色石版図集

国華余芳石版図・正倉院「碧地金銀絵箱」
国華余芳石版図・正倉院「碧地金銀絵箱」

国華余芳石版図・正倉院「平螺鈿背円鏡」
国華余芳石版図・正倉院「平螺鈿背円鏡」


国華余芳・写真帖
国華余芳・写真帖

国華余芳写真・東大寺大仏殿
国華余芳写真・東大寺大仏殿


国華余芳は、

国立国会図書館 近代デジタルライブラリー (検索キーワードに「国華余芳」と入力)

で全編観ることが出来ますが、モノクロの画像で、判り難いのが残念です。


【朝陽閣鍳賞・朝陽閣帖・朝陽閣集古】

これも、石版図集のようですが、どの様ないきさつで作成されたのか、私はよく知りません。
「朝陽閣」とは、当時の印刷局の別称だったようです。

朝陽閣鍳賞と朝陽閣帖は、

<国立国会図書館 近代デジタルライブラリー (検索キーワードに「朝陽閣」と入力)

で、見ることが出来ます。
これもモノクロ画像です。


【得能良介・巡回日記】

当時の印刷局長・得能良介が書き残した、調査旅行日記です。

私は、内容をみたことがありませんので、どの様なことが書かれているかわかりません。
一度、読んでみたいものです。

ネット検索によると、

「得能良介巡回日記 : 明治十二年文化財歴訪の旅」 益田清編 1996.1

という復刻版が出ているようですが、市販されていない私家版のようです。

【続く】

単調な資料紹介で、相当、退屈されたと思います。
残念ながら、次回もこの話が続きます。
【その2】は、「明治17年の京阪神古社寺調査」の資料紹介から始まります。
もう少しご辛抱下さい。


新刊・旧刊案内~「日出新聞」記者金子静枝と明治の京都・・・明治21年古美術調査報道記事を中心に


こんな本、出版されることがあるのでしょうか!!
まさか、本になることなどあり得ないなと思っていたのに、びっくりです。
それほどマイナーな本が刊行されました。
ほとんどの人にとっては興味・関心の外といった内容だと思いますが、私には興味津々の本です。



「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都
~明治21年古美術調査報道記事を中心に~

竹居明男編著 (2013.11) 芸艸堂刊 【345P】 6000円


「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都


目次をご覧いただきたいと思います。

「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都・目次


ご覧のとおり、この本の主な内容は、明治21年(1888)に行われた、「近畿地方古社寺宝物調査」の有様が「日出新聞」に掲載された記事を、再録したものです。
執筆しているのは、当時の京都「日出新聞」の記者・金子静枝という人物です。
金子が書いた膨大な調査随行日記や、取調員の動向に関する記事、約300本が日付順に並べられて収録されています。


「近畿地方古社寺宝物調査」とは、どんなものであったのでしょうか?

「近畿地方古社寺宝物調査」は、明治政府が初めて実施した組織的な古社寺美術品の本格的調査でした。
政府が古社寺の所蔵する宝物をあまねく調査し、保護・保存しようとしたものです。
そのために臨時全国宝物取調局が設置され、「近畿地方古社寺宝物調査」を皮切りに、その後9年間のうちに21万5千余点の宝物を調査しました。

この調査をベースにして、明治30年(1897)「古社寺保存法」が制定され、国宝155件・特別保護建造物44件が指定されたのです。
現在の「国宝・重要文化財」に相当する、宝物の「文化財指定」が、国家によってはじめてなされたのです。
この時、国宝には、東大寺戒壇院四天王像、薬師寺吉祥天像、法隆寺玉虫厨子、厳島神社平家納経、中尊寺一字金輪像などが、指定されています。

「近畿地方古社寺宝物調査」に際しては、臨時全国宝物取調局・首班の九鬼隆一をはじめ、岡倉天心、フェノロサ等、総勢二十余名という大調査団が結成されています。
明治21年5月から7か月にわたる調査で、6万1千点以上の古美術品を実見、調査しました。

この調査がエポックメーキングであったことは、調査宝物の優劣を判定して、差別等級化を実施したことです。
「優等と認めるもの」「之に次ぐもの」「その他」
の三段階に分けて台帳登録しました。

江戸時代以来の古器古物を愛でて観るという視点から、美術作品として「美術の価値」「美術の優劣」を評価するという近代的概念が、この時正式に導入されたのです。
そうした画期的な美術品の見方を新たに切り拓き、「日本美術の発見」とでもいうべき大きな貢献を果たしたのが、岡倉天心であり、フェノロサであったと云えるのだと思います。

岡倉天心...フェノロサ
岡倉天心                フェノロサ

このあたりの話は、「埃まみれの書棚から~明治の文化財保存・保護と、その先駆者」(その5~7)で、詳しくたどったことがありますので、参考にご覧いただければと思います。


話しを、日出新聞の報道記事に戻したいと思います。

これだけの古社寺宝物の大調査ということなので、官報、報知新聞、大阪朝日新聞など7社の記者が同行し、調査の模様を報道しました。

明治24年の日出新聞
明治24年の日出新聞
(ロシア皇太子が負傷した大津事件を伝える)
金子静枝も日出新聞の記者として、この調査に同行したのです。

他紙の報道記事がどのようなものであったのかは、私はよく知らないのですが、金子静枝の日出新聞の美術調査報道記事は、誠に詳しく膨大なものとなっています。
約300本の記事が残されており、調査宝物の品目、調査の有様などが、詳細に、また活き活きと記録されています。
「古社寺宝物調査」の様子がこれほど具体的にわかる資料は他になく、「日本の文化財行政の黎明期を知るうえで誠に貴重な資料」と云えるものです。

「日出新聞の古美術調査報道記事」というものがあるのというのは知っていましたが、実は読んだことがありませんでした。
かつて「博物館学年報」(同志社大学博物館課程)という研究誌に再録掲載されたことがあります。(13~17号・1981~5)
私は、読む機会がなかったのですが、今般、これが単行本化されて出版されたということなのです。


近年、私は明治の古社寺宝物の調査などについて、大変興味を感じるようになりました。

明治5年の壬申検査で正倉院宝物を開封した時の話、明治17年に天心、フェノロサが法隆寺・秘仏救世観音像を開扉した時の話などなど、現在の奈良・京都の仏像や古文化財が発見され、その美しさが発見評価されていくいきさつ、道程をたどると、本当に面白く興味深いのです。

現在われわれが、第一級の仏像、魅力あふれ心を撃つ仏像、また古美術品は、明治初年以来、どの様にして見い出され、どんな評価の変遷を経て、今日に至っているのだろうか?
そんなことを考えていると、「美のものさし」というものも、時間とともに移ろって行っているような気がして、興味津々となっていきます。


「日出新聞の美術調査報道記事」を読むと、当時の調査の有様とともに、諸寺の仏像などがどのように見られていたのかを知ることが出来ます

ちょっと高かったのですが、「この本は入手すべし」と思い購入しました。


パラパラとページをめくって見ると、古い文体で読みにくいのですが、面白い記事が並んでいます。
まだ、全部読めていませんが、眼についた面白いものを、1~2ご紹介します。


6月17日、法隆寺金堂壁画を調査した時の記事です。
金子静枝は、その時の有様と感動を、このように語っています。

「四方の壁を見れば、是ぞ之れ、近世絵画家の尤(もっと)も尊び模範となすべしといへる曇徴(どんちょう)の筆痕なり。
蓋(けだ)し、曇徴は推古天皇の朝百済国より帰化せしものにて、最勝王経の四方浄土を移(写カ)し・・・・・・・・着色にて描きしなり。

惜むらくは、堂内暗くして配色の妙・衣紋の精瞭(あき)らかに之を観る事能(あた)はず。

然るに希世の物品を撮影せん為め、図書頭(ずしょのかみ)に随行の小川一真氏は、ホッケットより一錫線を出し、之に点火すれば、堂内乍(たち)まち太陽を現じ光輝赫々(かくかく)、壁画の仏像は衣紋の皺襞(しゅうへき)、花蓋の小紋、隅から隅まで残る隈なく一見せり。

須臾(しゅゆ)にして錫線燃焼すれば、小川氏更に一粉薬を出し、板上に置きて之に点火すれば電光一閃、霹靂(へきれき)の声あるが如く、其火光は先の光力に十倍し、視神経の直射して外物を見る事なく、瞬時にして光り消たり。

這(この)両薬は倶(とも)に夜間写真を採るの光線にして、麻倶涅臾母(マグネシウム)の原質に火綿を調和したる粉薬にて、其光力劇(はげ)しく、秒時間に写真する事を得、鮮明なる事太陽の光線に劣る事なしと。
・・・・・・・・・
銅仏の大なるもの、壁画を(のカ)動かし難さもの等をも、意の儘(まま)に移(写カ)し得たり。」

この写真を撮っていたのは、写真師・小川一真(おがわかずまさ)で、マグネシウム閃光粉を発火させ、瞬間発光を行っていたようです。
小川一真は、「近畿地方古社寺宝物調査」の行程に同行し、多数の古社寺宝物古写真を残しています。

小川一真撮影・法隆寺金堂壁画8号壁

小川一真撮影・法隆寺金堂壁画10号壁
小川一真が近畿地方古社寺宝物調査でマグネシウム閃光で撮影した法隆寺金堂壁画
(上・8号壁、下・10号壁)


金子は、金堂壁画をつぶさに検分できた驚きと感動を、活き活きと綴っています。
閃光の明るさには、皆、びっくりしたようです。
マグネシウム閃光により、暗い金堂内がさながら昼光のように照らし出され、今は亡き金堂壁画の美しい彩色が、鮮やかに浮かび上がり、眼に焼き付いたのだと思われます。


7月6日、京都・法性寺を訪れた時の記述です。
法性寺・十一面観音像(国宝)
法性寺・十一面観音像(国宝)


「法性寺にては、一の画幅なし。黒く薫りたる仏体数躯あるのみ。
其れとても余りの佳作なし。
本尊三面千手観音像(木造)一体(長一尺五寸)、伝春日作といふ。
時代は千年位のものなり。」

これだけの記述です。

現在、国宝となっている素晴らしく美しい千手観音立像も、注目をひかなかったようで、「余りの佳作なし」と云い捨てられてしまっています。
当時の「美のものさし」では、評価されなかったのでしょうか?


また、8月26日には神護寺を訪れています。

日出新聞の記事をみると、伝頼朝像をはじめとした画幅や経巻については、詳しく書かれていますが、国宝・薬師如来立像や五大虚空蔵菩薩像のことには全くふれられていません。
この記事のほかに、明治19年の古社寺調査の時、岡倉天心が提出した巡覧美術品目録をみても、神護寺の処には、伝頼朝像をはじめとした画幅、高雄曼荼羅が載せられており、薬師如来立像、五大虚空蔵菩薩像の記述はありません。
神護寺・薬師如来像(国宝)
神護寺・薬師如来像(国宝)

岡倉天心の眼にも、優れた仏像として写らなかったのでしょうか?
現代の眼で見ると、「どうしたのかな?」と思ってしまいます。

一方、神護寺薬師像が全く知られていなかったのかと思うと、そんなこともなかったようです。
翌年(明治22年)1月に九鬼隆一が大阪で講演し、今回調査で「霊器宝什を蔵蓄保存する処」として、各寺の宝物を列挙していますが、京都の彫刻の部には「神護寺の空海作と伝える薬師立像」が挙げられています。
当時、神護寺薬師像がどのように見られ評価されていたのか、よく判りませんが、興味深いところです。


まだ、ちょっと読みかじっただけですが、この「日出新聞の古美術調査報道記事」を、岡倉天心の著述などと照らし合わせてじっくり読んでいけば、当時の古社寺宝物調査の実情や、美術作品の見方などを知るのに興味深いものがありそうです。

まだまだ、驚きある記述、知らなかった話が出てくるのかもしれません。
読み通すのは、ちょっとシンドイのですが、そのうちに頑張ってみたいと思っています。


ところで、「日出新聞」の記者・金子静枝というのは、どの様な人物だったのでしょうか?

金子静枝(明治36年)
金子静枝(明治36年)

金子静枝という名前をみると、女性だったのかと勘違いしそうですが、れっきとした男性です。
静枝は本名ではなく号ですが、「しずえ」と読むのではなく、「せいし」と読んだのではないかという考えもあるようです。

金子は、嘉永4年(1851)、越後国(新潟県)中蒲原郡生まれで、新潟、東京、京都でそれぞれ新聞記者として活躍しました。
明治18年(1885)京都で「日出新聞」(京都新聞の前身)が創刊されるにあたり、招かれて記者として入社、3年後に「近畿地方古社寺宝物調査」に派遣記者として同行することになります。
金子静枝翁之居の墓碑(嵯峨野・二尊院)
金子静枝翁之居の墓碑(嵯峨野・二尊院)

それだけだと、単なる新聞記者ということなのですが、小説家としても知られていたようですし、美術文化分野にも造詣が深く、その方面での見識も認められ文化人との交友も深かったようです。

京都の美術工芸関係者による団体「京都美術協会」の幹事を務めたほか、内国勧業博覧会など国内の展覧会の審査員の任にもありました。
明治42年(1909)、京都で没し、建仁寺で葬儀が行われていますが、千人もの参列者があったそうで、交流の広さが伺えます。

今では、

「金子静枝って聞いたことないけれど、誰?」

というほどに、ほとんど知られていませんが、一新聞記者という枠にとどまらず、実に多彩な活躍をした文化人であったと云えるのでしょう。
金子静枝の研究をされている木下知威氏は、金子を評して
「京を愛したマルチ文化人」
と呼んでいます。

そして、金子が「京の文化人」として多方面に交友があったことが、この度の本書の出版に結び付いたのでした。
本書出版のいきさつに、ふれておきたいと思います。


この本を刊行したのは、京都・二条寺町にある「芸艸堂」という出版社です。
二条寺町の「芸艸堂」本社
二条寺町の「芸艸堂」本社

「芸艸堂」は「うんそうどう」と読みますが、出版社というより手刷りの美術木版画の老舗として有名です。
芸艸堂製の、美しく趣のある木版絵葉書などは、買われたことのある方もおられるのではないかと思います。

「芸艸堂」は、明治24年、山田直三郎の創業で、屋号の命名者は富岡鉄斎です。
明治39年に、兄弟創業の「本田雲錦堂」と合併します。

この「本田雲錦堂」の命名者が、なんと金子静枝であったのです。

明治39年、芸艸堂と本田雲錦堂の合併を案内するチラシ
明治39年、芸艸堂と本田雲錦堂の合併を案内するチラシ

金子静枝が命名した本田雲錦堂の扁額(創業時のもの)
金子静枝が命名した本田雲錦堂の扁額(創業時のもの)

芸艸堂顧問の本田正明氏は、この本が出版に至った事情を、本書の「序にかえて」で、このように記されています。

芸艸堂顧問・本田正明氏
芸艸堂顧問・本田正明氏
「過日、『京都新聞』の木下知威氏が書かれた記事『京愛したマルチ文化人・金子静枝』が目にとまった。
また同時に翁の残されたスクラップ・ブック『棄利張』(きりばり)の存在も知ることとなった。
このスクラップ・ブック八冊は、数奇な時の変遷を経て、今は同志社大字文学部教授・竹居明男氏の許にある。
竹居氏はこの内容を研究し、いくつかの優れた文章を発表されている。
私も、このお二方によって金子翁のことを多く知ることとなった。

竹居明男氏所蔵の金子静枝のスクラップ・ブック「棄利張」
竹居明男氏所蔵の金子静枝のスクラップ・ブック「棄利張」

竹居氏は昭和55年、古書展で偶然この「棄利張」5冊を入手(その後3冊追加入手)、
これもきっかけになり博物館学年報に「日出新聞の美術調査報道記事」を掲載するなど、
金子静枝研究に取り組むようになったそうです。



本書の刊行とその意義を伝える新聞記事
本書の刊行とその意義を伝える新聞記事
(2013.12.6京都新聞)

そして弊社ゆかりの人物の記録を、何とか本の形で残したいと思うようになったのである。

さらに、金子翁は明治期に『日出新聞』(現『京都新聞』の前身)の記者として多方面に活躍したばかりでなく、近畿地方の古美術調査を中心に、弊社にも関連ある染織図案関係の諸先生方の記事もかなり詳しく遺されているので、これを弊社の将来を担う人たちにも伝えたいと切に願うようになったのである。


折しも、本年は岡倉天心先生の生誕150年(没後100年)の記念の年でもあり、日本美術の恩人フェノロサの研究学会も長年活動を重ねてきている。


そうした機運の到来を強く感じるので、この翁の残した『明治二十一年の近畿地方古美術調査』の報道記事を纏めて刊行したいと思ったのである。」


「芸艸堂」と金子静枝の古い縁(えにし)がなかったならば、

近年の竹居氏・木下氏の金子静枝研究がなかったならば、

そして本田正明氏の出版への英断がなかったならば、

決して多くの部数が売れそうにない本書が、出版されることはなかったに違いありません。

芸艸堂・本田氏が金子静枝に思いを致し、本書出版を決断されたことにより、明治の古文化財調査、文化財保護行政の実情を詳しく知ることが出来ることになりました。

本当に、意義深いことだと思います。



ついでに、というのもどうかとは思いますが、

次回は、明治時代に実施された古器物調査、古社寺宝物調査について、

どの様な調査記録や調査日記が残されているのか?
どんな本が出版されているのか?

を、振り返ってみようかと思います。

金子静枝の「日出新聞・古美術調査報道記事」のほかにも、折々の調査で、いくつかの記録が残されたり、復刻出版されています。

マイナーな話ですが、お付き合いいただければと思います。