観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「木彫仏の実像と変遷」 本間紀夫著  【その2】


【その1】では、

古代の木彫仏の用材の樹種が、時代とともにどのように変遷してきたか?

クスノキ⇒⇒カヤ⇒⇒ヒノキと変遷していく事由について、どの様に考えられているか?

について振り返ってみました。


そろそろ、「木彫仏の実像と変遷」の著者、本間紀夫氏の考え方、主張を見てみたいと思います。
私が、本間氏の考えに、大いに興味、関心を持ったのは、本間氏が彫刻家、仏師といった制作者、実技者であるからです。


【「木彫仏の実像と変遷」の用材に関する詳しい目次】

本間氏は、この問題について、自著「木彫仏の実像と変遷」の中で、「木彫仏の構造と用材」という大項目を立てて、自論を展開しています。
約140ページにわたって、大変詳しく、用材問題を主に論じられています。

その部分の、詳しい目次をご紹介すると、次のようなものになっています。

「木彫仏の実像と変遷」詳細目次

「木彫仏の実像と変遷」詳細目次

「木彫仏の実像と変遷」詳細目次


この目次に挙げられた項立てを読んでいくと、どの様な話が展開されているのか、ご想像がつくことと思います。

私は、大変興味深く惹きつけられて読みました。

というのも、用材・樹種の問題を、

「木彫仏を彫る実技者(仏師)の立場に立てば、どの様な樹種を、良材、適材として選んだのであろうか?」

という視点で、

彫りやすい樹種、求められる木彫表現に相応しい樹種は何か?
について、述べられているからです。

これまでの、木彫仏の樹種についての議論は、

「古来、クスノキは神木、霊木と見做されていた。」
とか、
「渡来の経典に指定されていた樹種の代用材としてカヤが選ばれた。」
といった、

「古代の神仏習合信仰」や、「中国渡来の経典の縛り」に注目して、「用材樹種に対する宗教的視点」から論じられているように思います。

この考え方にたてば、
クスノキの時代も、カヤの時代も、
他の樹種を用いて彫ることも選択肢として十分可能であったけれども、
そのなかから宗教的な事由によって、クスノキやカヤを選択した。
ということになろうかと思われます。

たしかに、こうした考え方には「なるほど!」と納得するのですが、

一方で、
「本当にそうなのだろうか?」
という、秘やかな疑問も、私の心の中に沸き起こっていました。

「ちょっと、難しく考えすぎていないだろうか?」
「それぞれの時代に、木彫仏を彫るのに、一番彫りやすい樹種、表現に適した樹種を、技術者が選択しただけなのではないのだろうか?」
「クスノキ、カヤが、その時、最適な樹種だったということなのかもしれない。」

といった疑問です。


【本間氏の考え方の紹介と、私の感想】

本間氏の著作、「木彫仏の実像と変遷」は、こうした私の疑問に答えるかのように、実技者の立場から、樹種の選択事由について論じられているのです。

詳しくご紹介をしていると、キリがなく膨大なものになってしまいますので、エッセンスのみをご紹介したいと思います。


【飛鳥時代のクスノキ材の選択について】

まずは、飛鳥時代の木彫仏の用材に、クスノキが選択された理由です。

このように述べられています。

・飛鳥時代のクスノキ使用は、「日本書紀に云う処の有用材4材」のなかで、唯一、彫刻に向く広葉樹であったことが、選択の決め手となった。
(有用材4材とは、ヒノキ、槇、杉、クスノキ~クスノキ以外は針葉樹~)

・中国江南では、木彫仏はクスノキ材で多く造られていたと思われ、たまたま、中国でのクスノキ使用と重なったために様式と用材を共に受容した形であるが、もし中国の用材がクスノキでなくとも、我が国ではクスノキが用いられた可能性が高いと考えられる。

・ヒノキは、当時の技術では、縦の木目に沿って割り放ちやすく、建築材に最適であった。
即ち、割裂性と耐久性が良く、建築材、構造材として用いられた。

・一方、クスノキは割裂性が悪く、材質は適度の軟度を持ち彫りやすい。
質感もあり、彫刻材としては優れた材であると云える。

・飛鳥時代、香気のある檀木の代用材として、クスノキが香木として選択されたという可能性は低いと思われる。

・その証拠に、飛鳥時代には、仏像本体以外でも、彫刻部分(台座蓮弁など)にはクスノキを用いている。
台座や厨子本体はヒノキ材だが、蓮弁など彫刻部分はクスノキ材を用いている。

・奈良時代以降、クスノキ材が使われなくなるのは、用材の地域内の枯渇と、遷都に伴う造像方式の転換(大量造仏可能な塑造、乾漆像への転換)が大きな要因であろう。


ここで本間氏が強調しているのは、

飛鳥時代有用材とされていた4材のなかでは、彫刻材として使えるのは広葉樹であるクスノキしかなかった。
ヒノキ(針葉樹)は、建築材としては優れるが、縦割れしやすく、彫刻には向いていなかっった。

ということではないかと思います。

私も、これに似た疑問を、ずっと持っていました。
それは、仏像本体だけではなく、台座蓮弁などにも、クスノキが使われているということです。

法隆寺・玉虫厨子

玉虫厨子台座蓮弁(蓮弁はクスノキ、それ以外はヒノキ)
法隆寺・玉虫厨子(蓮弁はクスノキ・それ以外の本体はヒノキ

クスノキが、「霊木であるとか、香木であるから、仏像に用いられた」というのなら、仏像以外の所に、クスノキを使う必要がないのではないかと思ったからです。

・クスノキを使ったのは、香木とか、霊性とかとは関係なく、当時の木彫技術でカーブした曲面を彫り出すには、広葉樹(散孔材~半環孔材)であるクスノキが、技術的に最適であったためではないか?

・針葉樹(ヒノキなど)は、建築材としては適するが、木目に沿って縦割れしやすく、当時の刃物の鋭利さでは彫刻には向いていなかったのでは?

・だから、仏像本体に限らず、蓮弁などカーブした彫刻が必要な処は、彫りやすく縦割れしないクスノキを使っているのでは?

こんな私の疑問に、答えてくれたような気がしました。

また、クスノキという材は、一見硬い材のように見えますが、適度な軟度を持つ彫りやすい材だそうです。
飛鳥時代の鑿(ノミ)は、まだまだ進んだものではなく、鋭さや切れ味も後の時代に較べれば鈍いものであったようです。
クスノキは、木肌の緻密さという面には欠け、粗めの肌になるようですが、飛鳥時代の刃物の切れ味で、彫刻に最も適した材が、クスノキであったということなのでしょうか。



【一木彫時代のカヤ材の選択について】

次に、奈良時代後半から平安前期に「カヤの時代」に入ることについて、本間氏はどのように考えているのでしょうか?

エッセンスをまとめると、このように述べられています。

・奈良後期、平安前期の木彫仏に、カヤ材が用いられたのは、一木素木系木彫像が台頭してくる時代の要請に対応して、必然的に選択された用材であるからである。

・カヤ材は、我が国の用材の中では、緻密で粘り気があり、強い存在感、ボリューム感の表現が出来る樹種で、一木素木木彫を彫るには最適材である。


・渡来経典「十一面神呪心経義疏」に説く、白檀の代用材として、我が国ではカヤが選択された、唐招提寺などの中国工人がカヤを選択した、という考え方には諸事由から賛同できない。

・乾漆像、塑像などの捻塑系全盛の時代から、日本霊異記にあるように、民間において一木素木系の木彫造仏が行われていたとみるべきであり、その用材としてわが国特有の材であるカヤが、用いられていた。

・カヤが、仏像用材として奈良末・平安初期に突然現れたとは考えられない。
この時期に至り、マグマが噴出したかのようなカヤ材の造像は、カヤ・一木素木像の底流が次第に大きくなりながら上昇していった可能性を強く感じさせる。

奈良後期から、一木素木像が一気に台頭してくるに際し、唐招提寺、大安寺の木彫にカヤが用いられているのも、日本のカヤ・一木素木像の底流が表舞台に出てきたものであろう。

・ヒノキ材は、木心乾漆像の木心材として用いられていたが、当時は、あくまでも構造材としての位置づけで使われており、ヒノキが一木彫の最適材、良材として選択されることは無かった。

木屎漆のモデリングを行った乾漆系一木彫像(観心寺如意輪観音像など)においても、木彫材としてのカヤ材が多く用いられることになったと考えられる。

観心寺・如意輪観音像
観心寺・如意輪観音像

まとめが上手くなくて、ちょっとややこしいかも知れません。
本間氏の考え方で注目するのは、ヒノキはいつの時代にも木彫材としては、良材・最適材ではないと主張されていることです。

本間氏は、一木素木系木彫像と呼んでいますが、「木彫らしい木彫用材」というのは、存在感のある質量のある用材で彫られたものだと主張しています。

・我が国では、質量感、存在感のある用材は、カヤと広葉樹(カツラ、サクラ、ケヤキ、クスノキなど)なのであって、それ故、平安前期までの一木彫像は、これらの用材樹種が選ばれている。

・ヒノキは質量感に弱点があり、肌理細かく美しい材ではあるが、質量感に欠けるため、素木系の主材とはなり得なかったのだ。

と述べています。


この考えを読んでいると、同じ実技者の辻本干也氏の発言を、思い出しました。

辻本氏は、美術院国宝修理所で、長らく国宝・重文仏像の修理修復にあたっていた人です。

三月堂・仁王像を修理する辻本干也氏
三月堂・仁王像を修理する辻本干也氏

青山茂氏との対談共著「南都の匠 仏像再見」で、ヒノキという用材の特性について、このように語っています。

「ヒノキのような針葉樹よりは、クスノキやケヤキのような広葉樹材を用いた彫刻のほうがはるかにボリュームがありますね。
ですからヒノキを使って彫ったものは、どうしても表面に着色しなければいけないですし・・・・
(今の道具は)ヒノキに都合がよいように薄刃につくられていますし、…ヒノキの方が彫りやすいです。

特に藤原期の彫り方、盛上ってくる感じが強いボリュームじゃなしに、静かで上品な彫り方にたいしては、ヒノキで彫るのに、・・・・ずっと彫りやすくできています。
クスノキを彫るとなると時間がかかります。・・・・
ヒノキの場合は、・・・漆をかけたり、金箔を押さないことには、どうしてもボリュームが強く出ないんです。

クスノキの場合は、タッチなんかもあまり気にしなくても、木地のままでグッと押し出してきます。
ヒノキの出来上がった像を見たら、なにか上にかぶせないとボリュームが出ない。」


「だから平安前期の密教系の木彫の場合には、カヤとかサクラとか、檀木を使いますね。
ヒノキではないですよ。
やはりなかからグッとボリュームが出てくる材質を選んでいます。

(貞観あたりは)カヤを沢山使っていますね。
カヤの方が、目もつんでますし、ボリュームも出ますね。ヒノキはきれいですけれども、なにかフワッと浮くような感じがしますね。

私はこの頃つくづく思うんですけど、ヒノキが沢山あったからという理由でヒノキに落ち着いたんでしょうが、本当に彫刻として木を選ぶんだったら、ヒノキでない材を選ぶほうがよかったのではないかと思います。」

神護寺・薬師如来像顔部(カヤ)...平等院・阿弥陀如来像顔部(ヒノキ)
神護寺・薬師如来像顔部(カヤ)         平等院・阿弥陀如来像顔部(ヒノキ)

ヒノキは質量感が乏しくて、漆や金箔を施すというコーティングをしないと、木彫としてのボリューム感が出ないというのを、仏師の実感として語っています。


本間氏も、辻本氏も、実技者、製作者の立場からは、ヒノキは彫刻材としては最良材ではなく、カヤ、サクラ、ケヤキといった用材の方が、彫刻材として優れているのだと語っているのです。

この話は、大変考えさせられる話で、我々は、ヒノキと云えば、何と云っても最良の用材で、ヒノキこそ「日本の木の文化」の象徴というふうに思い込んでいますが、木彫の世界では、そうではないようです。

本間氏は

「従来の彫刻史では、ヒノキとカヤの区別をさほど重要視せず、カヤはヒノキの代用材位に位置付けられていた。」

と記していますが、研究者の論考を読んでいると、確かにそのように思えます。

辻本氏の話は、S54(1979)に語られたもので、近年「カヤの時代の発見」とでもいえる金子氏や岩佐氏の研究発表がなされるずっと以前の話です。
(辻本氏は)「貞観あたりは、カヤを沢山使っている。」
と語っています。
実技制作の立場にある人は、どんな用材樹種が木彫仏に使われているのかということを、良く知っていたということなのでしょう。


我々は、奈良後期以降の一木彫用材として、ヒノキ材を用いるのが自然の流れであったのにもかかわらず、わざわざ流れに反して意図的にカヤ材を選択したような感じに考えてしまいがちのように思いますが、
実技者の立場に立てば、カヤ材を選ぶ方が自然の流れであったと云えそうです。


もうひとつの論点として、唐招提寺の工人など中国の工人がカヤ材を選択したのではないかという考え方があります。
「十一面神呪心経義疏」に説く、白檀の代用材「栢木」にカヤを宛てたという話です。

本間氏は、中国の工人が木彫用材に針葉樹材であるカヤを選択するというのは、考えられないのではないかと論じています。

・中国における木彫仏の用材は硬木の広葉樹で、中国からの請来または輸入材で彫られたと考えられる木彫像、すなわち唐招提寺梵天・帝釈天、東寺・五大虚空蔵菩薩像、東寺・兜跋毘沙門天像、清凉寺釈迦如来立像などは、全て硬木の広葉樹で造られている。

東寺・兜跋毘沙門天像(魏氏桜桃)...唐招提寺・梵天帝釈天(サクラ・チャンチン~広葉樹)
東寺・兜跋毘沙門天像(魏氏桜桃)     唐招提寺・梵天帝釈天(サクラ・チャンチン~広葉樹)

・また、「十一面神呪心経義疏」は白檀の十一面観音についてのみ説いたものであって、唐招提寺木彫群は、必ずしもこうした檀像と結びつかない。

このように考え、唐招提寺木彫群が白檀代用の栢木としてカヤ材を選択し、そのことにより、我が国一木彫にカヤ材が選択されるようになったという議論には、否定的です。


本間氏の、一木素木系木彫に、カヤ材が選択された訳の考え方については、このくらいにしておきたいと思います。



【カヤ材からヒノキ材への転換について】

最後に、平安中期以降、ヒノキ材に転換していく事由についての本間氏の考え方をご紹介したいと思います。

・カヤもしくは広葉樹が主流であった木彫は、平安中後期にヒノキ材に大転換する。

平等院・阿弥陀如来~寄木造構造図
平等院・阿弥陀如来~寄木造構造図
・それは、寄木造の技法が確立され、この技法が木彫技法を席捲していくことに大きく関連している。

・寄木造の木彫像には、ヒノキ材が最適であった。

・寄木造は、大きさの異なる複数材から同一寸法の製材の必要性を迫られることも多く、楔を入れて割放す当時の製材法では、割裂性の良さは必須の条件であった。

・優れた建材から発し、彫刻材へ転身したヒノキは、まさにその要求に叶った材であった。
また、寄木造は木心乾漆系の流れをひくものであり、その心木として生まれ、優れた彫刻材として生長した針葉樹のヒノキが選ばれてゆくのは必然の流れであった。

このように述べています。

カヤ材や広葉樹からヒノキ材への転換について、実技者の立場から語ったこの考え方は、結構「なるほど」と思ってしまいます。

先程の辻本氏の「ヒノキ材の特性についての話」にもあるように、カヤ・広葉樹とヒノキには特性に本質的な差があり、一木彫から寄木造へという造像技法や木彫表現の本質的転換に対応して、ヒノキ材に転換していったという考え方は、納得的に感じます。

また、ヒノキの質量感の乏しさという問題も、素木像では適材ではなくとも、漆箔というコーティングがなされる寄木造の木彫になることによって、克服され適材になったのでしょう。


藤原彫刻は、平等院阿弥陀像にみられるように、「優美な穏やかさ」を追求する時代です。

金色の仏像ですが、そこには軽やかさやまろやかさを感じこそすれ、硬質感や重量感、塊量感は、微塵も感じられません。
それは、ヒノキという材の特質と、寄木造という技法が、なせる技によるに違いないような気がします。

ヒノキという材の「繊細・柔軟なやわらかさという特質」を活かして、「軽やかで、優美な表現を可能にした」のではないのでしょうか?



こうして見てみると、
「クスノキの時代」から「カヤの時代へ」そして「ヒノキの時代」へ
と変遷していった我が国の古代の木彫仏の用材は、それぞれの持つ特質、特性の差が、その変遷に大きくかかわっているようです。

本間氏は、本書で、この三つの樹種の特性の差を要素別に一表に整理しています。
判りやすい要素だけをピックアップしてまとめるとご覧のようになります。

クスノキ・カヤ・ヒノキの用材の特徴


この樹種による特性の一覧表を見ると、クスノキ、カヤ、ヒノキという用材が、それぞれの時代の造型表現の要請などに対応して選ばれ、変遷していった事由が、大変よく理解できるように思います。

この3つの用材の、製材したものと木目断面の写真は、次のとおりです。
それぞれの用材の特性の感じが、お判りになるのではないかと思います。

クスノキ材....クスノキ材
クスノキ材

カヤ材....カヤ材
カヤ材

ヒノキ材....ヒノキ材
ヒノキ材

ただ、用材樹種の変遷は、現実には、「クスノキの時代」を除けば、「カヤの時代」も「ヒノキの時代」も、全ての木彫仏がカヤ材やヒノキ材一色で造られた訳ではありません。
平安前期にヒノキ材を用いた例もありますし、ヒノキ材の一木彫は結構つくられています。
広葉樹のカツラやサクラを用いた寄木造りの例も間々あります。
大きな流れとして、用材の変遷をとらえた方が良いということだと思います。


私は、仏像のことに興味が深まるにつれて、

「木彫仏の用材は、何故変遷していったのだろうか??」

という問題について、強い関心を持つようになりました。

そして、いろいろな本を読んでみると、その多くが、

「中国からの渡来受容」とか「我が国固有のカミの信仰との融合」とか「渡来経典の説くところによる」

といった要因、影響により、仏像の彫刻用材の樹種が選択されていったと、論ぜられていました。

渡来や信仰、思想といったファクターで樹種が選択されていくという話は、誠に興味深く、魅力的な考え方で、惹き込まれていくものがありました。

しかし、最近は、こうした考え方に少々疑問を感じるようになってきました。

「その時々、一番彫りやすく、適した用材で木彫仏を彫る。」

大変現実的な考え方が、用材の樹種選択に大きく影響しているのではないのだろうか?
そんな思いが強くなってきました。

本間氏の「木彫仏の実像と変遷」を読んでみて、
「なるほど!」
と、うなずき納得することが、数多くありました。

本間氏の考え方の全てに「そのとおりだな」と感じるわけではありません。
また、単に、工人の都合だけで最適用材が選ばれたというわけではなく、中国渡来や、信仰、経典などのファクターも、用材選択に絡み合ったものがあるのだろうと思います。

ただ、渡来とか信仰とか、難しいことをあまり考えずに、当時の実技者・工人の立場に立って、

「時代時代で、求められる木彫仏像を彫るのに、最良最適な用材樹種を、我が国に多く繁殖している大木の中から選んで行ったのだ」

という考え方に軸足を置いた方が、用材樹種の変遷の問題は、判りやすいのではないか。

そのように、感じた次第です。


新刊案内のはずが、ダラダラと「木彫仏の用材樹種の変遷と、その事由についての議論」と長く書いてしまいました。
散漫な文章で、お判りになり難かったではないかと思いますが、お赦しください。


このテーマや議論にご関心のある方は、是非、一度「木彫仏の実像と変遷」 という本を、読んでみていただければと思います。



最後に、ついでの話ですが、つい最近、大変興味深い話が書かれたHPを見つけました。
「鈴木金物店のHP」で、代表の鈴木俊昭氏が、「道具の歴史」というシリーズを掲載されています。

この中に、

「日本における仏像彫刻と鑿について」
「続・日本における仏像彫刻と鑿について」

という文章が掲載されているのを見つけました。

鈴木氏は、この論考を掲載するについて、

「優れた仏像を彫るには、良く切れる鑿とそれを鍛つ鍛治職がいなければなりません。
しかし、当時の仏師たちが使った各種の鑿は残されていません。
これらの鑿を鍛った鍛治職の記録も残されていません。
木彫仏像製作と鑿の発達との関連についての研究も、ほとんど行われていません。

そこで、私が調べた日本における木彫仏像製作の変遷と鑿の発達との関連を、『日本における仏像彫刻と鑿について』と題して書き上げました。」

と述べられています。

大変興味深く、勉強になる話が、ぎっしり盛り込まれています。
こうした切り口から仏像彫刻を論じた文章を初めて知りました。

古代の木彫仏の用材樹種選択には、鑿をはじめとする木工工具の発達の歴史が、深く関連していることは、間違いないことだと思います。
用材樹種変遷については、今後は、この側面からも、深く考えていかなければならないことだと思います。

その内容について、ここでご紹介する余裕はありませんが、ご覧になっていただければと思います。


新刊・旧刊案内~「木彫仏の実像と変遷」 本間紀夫著  【その1】


大変興味深い本が出版されました。

一般向けの本ではなく、専門書・研究書の類なので、この「新刊・旧刊案内」でご紹介するのはいかがかな?
と、ちょっと躊躇したのですが、木彫仏の用材・樹種について、興味深い考え、意見が述べられていましたので、あえてご紹介することにしました。


「木彫仏の実像と変遷」 本間紀夫著

2013年6月 雄山閣刊 【464P】 18000円


「木彫仏の実像と変遷」 本間紀夫著


6月に、この本が出版されたことを知りました。
18000円という高価な本なので、仏像の本を蒐めるのが趣味のような私も、そう気楽に買えるわけではなく、この本を置いている「丸善書店」に出かけて、どんな本なのか中味を見に行ってみました、

本を手に取って目次や内容をパラパラとめくってみると、
「木彫仏の各時代における動向と用材の流れ」
というインデックスが、眼に入ってきました。
それも、相当のページ数を割き、かなりのボリュームで論じられているようです。

「木彫仏の実像と変遷」 本間紀夫著


実は、「木彫仏の用材の変遷とその事由」というテーマは、私が最近、一番関心のあるテーマなのです。
急に眼が輝いてきて、
「これは、是非とも読んでみなければ!!」
と、思いきって買ってしまいました。

この「木彫仏の用材」についての、興味深い話は、後でふれていくことにして、まずこの本の内容などについてご紹介したいと思います。

目次の項立ては、このようになっています。

「木彫仏の実像と変遷」 目次


目次をご覧いただけるとわかるように、この本の内容は、木彫仏の制作技法やその変遷について、実技者、製作者の立場から論じたものになっています。

冒頭の「序文」にも、このように書かれています。

「当著は我が国の仏像中圧倒的に多い木彫仏、構造、技法、材質を切り口としてその実体に迫り、更に相互の関係及びその変遷を実技者の立場から考究したものである。」

本間紀夫氏
本間紀夫氏
著者の本間紀夫(ほんま・としお)氏は、1932年生まれ、東京芸術大学彫刻学科卒で、その後同大学の助教授をつとめた彫刻家、仏像彫刻研究家です。
現在は、自ら主宰する「佛教造形研究所」の所長で、仏像の修理修復と、仏像制作の古典的技法の研究に携わっておられるそうです。

本間氏は、彫刻の制作者、数多くの仏像修理修復者というほかに、日本古代彫刻技法の研究者として仏像の構造、制作技法に関する論文、著作が知られています。

これまでに出版された本は、こんな本です。

「X線による木心乾漆像の研究」 本間紀男著
1987年 美術出版社刊 【2分冊・994P】 27000円


「X線による木心乾漆像の研究」 本間紀男著


「天平彫刻の技法~古典塑造と乾漆像について~」本間紀夫著
「1998年 雄山閣刊 【282P】 15000円


「天平彫刻の技法~古典塑造と乾漆像について~」本間紀夫著

いずれも、古代仏像彫刻の制作技法や内部構造などについて、実技者の立場から研究した内容です。
今回の「木彫仏の実像と変遷」の出版で、塑像、乾漆像、木彫像の製作技法についての本間氏の研究成果の出版が、ひととおり果たされたということになります。


とくに「天平彫刻の技法~古典塑造と乾漆像について~」という本は、奈良時代の塑像、乾漆像の造像技法について、土や漆や麻布などの原材料や、これらの材料を使っての仏像の造り方、仕上げ方、内部構造などを、わかりやすく詳しく解説されていて、大変に勉強になりました。
以前に、神奈川仏教文化研究所のHP「埃まみれの書棚から」に、「仏像の素材と技法」と題して、塑像、乾漆像の技法について書いたことがありますが、この本の内容をたたき台にして書かせてもらいました。
ご関心おありになる方は、参考にしていただければと思います。
(「埃まみれの書棚から」仏像の素材と技法【塑造編】【乾漆編】)

いずれも高価な専門書なので、図書館で閲覧するのが良いと思いますが、仏像の制作技法について詳しく知るには、格好の本だと思います。



さて、そろそろ私が一番関心のあるテーマ、木彫仏の用材・樹種の話に入りたいと思います。


【本間氏の考えの結論】

本間氏の考えの結論から、先に紹介したいと思います。
本書における本間氏の「木彫仏の用材、樹種の変遷についての考え方」を、大胆に一言でまとめると、このように述べています。

・飛鳥時代の木彫用材がクスノキ一辺倒なのは、中国南朝、江南の地において木彫仏はクスノキを用いて造られていたのを受容したものであり、また飛鳥時代当時、クスノキは彫刻材として優れた用材であったことが最大の事由と考えられる。

・奈良時代後半から平安前期にかけて、カヤ材の時代となるのは、一木素木系木彫像が台頭してくる時代の要請に対応して、必然的に選択された用材であるからである。
カヤ材は、緻密で粘りがあり、強い存在感、ボリューム感の表現が出来、一木素木系木彫の良材、最適材として求められたからである。
中国での用材法を取り入れたとか、経典の規定に則ったというのではなく、木彫表現の最適材を選択したと考えるべきだ。

・平安時代後半期に、ヒノキの時代に転換する最大事由は、一木彫から寄木造という技法へ転換したことと、金色漆箔像が造像の大層を占めるようになったことによる。
同一寸法による製材が必要な寄木造においては、あるいはまた材の質量感、存在感を必要としない金色漆箔像を制作するには、優れた建材から発して彫刻材に転身したヒノキが、最適材として選ばれていったのは、必然の流れであったと云える。


本間氏の考え方の結論だけを先に書いてしまいましたので、
この考え方が、普通なのかユニークなのか?
日本の木彫像の用材の変遷がどうなっているのか?
よく判らないではないか、とおっしゃる方もいらっしゃると思います。


【我が国、木彫仏の用材樹種の変遷と、その事由についての考え方】

ここで、日本の木彫仏の用材、樹種の変遷と、その事由についての考え方について、ごくごく簡単に、ふれてみたいと思います。

日本の木彫仏の用材に使われている樹種は、何故か不思議なことに、飛鳥時代から藤原時代にかけてクスノキからカヤへ、そしてヒノキへと変遷していきます。

当然、例外もありますが、圧倒的に同じ樹種の用材が使われていて、
・飛鳥・白鳳は「クスノキの時代」、
・奈良後期・平安前期は「カヤの時代」
・平安中期以降は「ヒノキの時代」
と呼んで差支えないという実像です。

木彫仏の用材樹種の変遷を、判りやすく一表にしてみました。
次のような感じになります。

木彫仏の用材樹種の変遷


それぞれの時代の代表選手の仏像をリストアップすると、このようになります。

各時代の樹種別・代表的木彫像


さて問題は、それぞれの時代に、何故、このような樹種が選ばれたのかということです。
そんなにこだわらずに、種々雑多の樹種で造られていてもよさそうなのに、見事に、ほぼ一種類の樹種で造られているのです。


【クスノキ材の木彫仏】

法隆寺・救世観音像(クスノキ)......法隆寺・百済観音像(クスノキ)
法隆寺・救世観音像(クスノキ)          法隆寺・百済観音像(クスノキ)

中宮寺・菩薩半跏像(クスノキ)
中宮寺・菩薩半跏像(クスノキ)


【カヤ材の木彫仏】

唐招提寺・伝衆宝王菩薩像(カヤ)....神護寺・薬師如来像(カヤ)
唐招提寺・伝衆宝王菩薩像(カヤ)         神護寺・薬師如来像(カヤ)

新薬師寺・薬師如来像(カヤ)
新薬師寺・薬師如来像(カヤ)


【ヒノキ材の木彫仏】

平等院・阿弥陀如来像(ヒノキ)...法界寺・阿弥陀如来像(ヒノキ)
平等院・阿弥陀如来像(ヒノキ)          法界寺・阿弥陀如来像(ヒノキ)


【クスノキの時代】

飛鳥時代に、仏像用材としてクスノキが選択された理由については、主にこのように云われています。
クスノキの巨樹
クスノキの巨樹

・クスノキは古代日本ではとくに重要な樹木であり、魂ふりの力をもち、あるいは神木、霊木とみなされていた。

・神と仏はクスノキを介して交わり、ゆるやかに融合したものと思われる。

・古代のクスノキは、渡来の仏教を受容していくにあたり、神仏習合の精神的支柱にふさわしい材として尊重されたものと思われる。


クスノキという樹木の、霊木信仰に着目したもので、こうした信仰的、宗教的な意味があるのだろうという考えが、一番有力なように思います。

樟脳づくりに使われるような、クスノキの香気に着目し、中国から渡来した木彫仏が檀木(香木)で造られていたので、日本での香木の代表であるクスノキを選択した、という考え方もあります。

いずれにせよ、霊木であるとか、香気を放つといった、宗教的、精神的な意味づけが、仏像用材に樟が用いられた理由と考えられていると云えるのでしょう。

一方で、中国渡来の木彫仏がクスノキだったので、何も考えずに丸呑みして同じクスノキで造っただけだと考える人もいます。


【塑造、乾漆像の心木はヒノキ】

奈良時代に入ると、木彫仏はほとんど造られなくなってしまいます。
塑造、乾漆像、金銅仏が主流になり、奈良時代の後期になるまで、木彫仏は影が薄くなってしまいます。

塑造や、乾漆像の木心には、当然木材が使われ、木心乾漆像のように木彫に近いぐらいまで彫り出されたものもあるのですが、クスノキはその心木には一切使われていません。
姿を消してしまいます。

心木には、ほとんどヒノキ材が使われています。


【カヤの時代】

カヤの巨樹
カヤの巨樹
その後、奈良時代後期から、一木彫の木彫仏が造られるようになります。

その一番手、二番手は、唐招提寺講堂に残された木彫群と大安寺の木彫群です。
なんと、これらの木彫は、クスノキでもヒノキでもなく、何故か、皆、カヤ材で造られているのです。
これまた不思議なことです。

これらの木彫仏が、カヤで造られているのが判ったのは最近のことで、まだ15年ほど前のことです。
それまでは、皆、ヒノキ造りだと考えられていました。

戦後早くに、小原二郎氏という研究者が、木彫仏の樹種の科学的調査研究をおこない、数多くの仏像の樹種が判明します。
小原二郎氏
小原二郎氏
その研究結果によると、これらの像は、皆ヒノキという結論になっていたのです。

小原氏は、木彫仏の樹種の研究という新たな切り口を拓き、大きな功績を残した人です。

余談ですが、広隆寺の宝冠弥勒菩薩半跏像の樹種が、クスノキではなくてアカマツであることが判明したのは、小原氏の研究成果によるものです。
飛鳥時代の木彫仏の中での、唯一の例外です。
この発見により、この像が朝鮮半島での制作である可能性が高まり(用材だけが朝鮮半島から運ばれたという考えもありますが)、彫刻史研究に大きな問題を投げかけ、進展をもたらすことになりました。

広隆寺・弥勒半跏像(アカマツ)
広隆寺・弥勒半跏像(アカマツ)

奈良後期以降の木彫仏が、原則ヒノキになったということならば、塑像乾漆像の心木がヒノキであった流れもあり、また日本で最も良材として建築、木彫に広く使われているヒノキに、用材が転換していったことになります。
大変すんなり、理解されていたのだと思います。


ところが近年、驚き研究成果が15年ほど前に発表されました。

もう一度、新たに、木彫仏の樹種の科学的調査を幅広く実施した処、奈良時代後期から平安時代前期といわれる一木彫像は、そのほとんどがヒノキ材ではなく、カヤ材で造られていることが判明したのです。
唐招提寺の木彫だけではなく、新薬師寺の薬師如来、神護寺の薬師如来、元興寺の薬師如来といった奈良末平安初期を代表する木彫像は、皆、カヤ材で造られていたのです。
本当にびっくりです。

「どうしてヒノキではなく、カヤ一色になったのだろうか?」

この調査研究を行った、金子啓明氏、岩佐光晴氏などの研究者は、その理由をこのように考えました。

・天平15年(743)書写の経典「十一面神呪心経義疏」に、仏像用材には「白檀を用いよ。白檀のない国では栢木を用いよ」と説かれている。

・わが国で、この「栢木」にあたる材について、「カヤ」が充てられたと考えられる。

・唐招提寺木彫群は、カヤ材であるが、鑑真及びその工人が、「栢木」材として日本の「カヤ」を選択し、このことが我が国の一木彫用材として「カヤ材」が採用されていく思想的背景となったのではないか。

佛教経典に、「仏像(十一面観音)は、白檀などの檀木で造れ」と書かれていることが、一木彫の用材選択の決定的要因になり、鑑真・工人が代替材にカヤ材を選択したことが、一斉にカヤ材を用いた像が造られる背景なったという考え方を示したのでした。
檀像を造る精神で一木彫がつくられたから、その様になったとも考えられています。

法隆寺・九面観音像(白檀)......東京国立博物館蔵・十一面観音像(白檀)
経典に則り造られた白檀の観音像~中国渡来像
法隆寺・九面観音像(左)東京国立博物館蔵・十一面観音像(右)


現在では、この考え方が、我が国木彫にカヤが用いられるようになった事由として、一番有力な考え方になっているように思います。


【ヒノキの時代】

ヒノキの巨樹
ヒノキの巨樹
こうして、カヤ材一色となった平安前期の一木彫ですが、平安の中期以降になりますと、一木彫でもヒノキ材が使われることが多くなり、寄木造の仏像になると、カヤ材ではなくヒノキ材が使われるようになります。

寄木造の完成像と云われている平等院・阿弥陀如来坐像は、当然にヒノキで造られています。
平安中期以降になると、彩色しない素木像ではなく、漆箔金色像が多く造られていくようになっていくことと呼応しているように思えます。

また、平安中期頃になると、ケヤキ、カツラ、サクラといった広葉樹材も折々使われるようになります。
とくに、地方の木彫仏には、その土地の良材を使ったのか、広葉樹材で造られた仏像が割と多くみられるようになっていきます。


以上が、「木彫仏の用材樹種の変遷とその事由」について、現在、考えられていることの概要です。


仏像用材の樹種の変遷の話を「ごくごく簡単に」ふれると云いながら、結構長くなってしまいました。
その割には、判り難い説明になってしまったのかもしれません。

色々ふれているとキリがないので、この辺でやめておきます。


【その2】では、本間紀夫氏が、彫刻家、実技者の立場から、どのように考えているかをご紹介しながら、木彫仏の用材樹種の変遷について考えてみたいと思います。

トピックス~興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる


東京芸術大学美術館で「興福寺仏頭展」が開催されています。興福寺仏頭展ポスター
(2013.9/3~11/24)

「白鳳の貴公子」と呼ばれ、清々しい青年の美しさを思わせ、観る人を惹き込む仏頭の東京出展です。

流石になかなかの人気で、大変な混雑ぶりのようです。

私も早速出かけてみました。
仏頭だけでなく、東金堂十二神将像を一体一体眼近に観ることが出来、また台座の四面にはめ込まれた形での板彫十二神将像の姿にも出会え、愉しむことが出来ました。


興福寺仏頭


興福寺仏頭
興福寺仏頭


【新聞に掲載された仏頭発見の思い出~発見者の妻・黒田康子さんの話~】

こんな新聞記事が目に留まりました。

「仏頭の目覚め 見届けた夫~戦前の興福寺修理中、500年ぶりの再発見に立ち会う~」

という見出しの記事です。

日本経済新聞、10/14付の文化欄に掲載されていました。

黒田康子さんの記事(日本経済新聞・2013.10.14)
日本経済新聞(2013.10.14)に掲載された黒田康子さんの記事"

筆者の黒田康子さんは、昭和12年(1937)、仏頭が興福寺東金堂薬師如来像の台座の中から発見された時、その場に立ち会った奈良県文化財の技官・黒田曻義(のりよし)氏の妻女です。黒田康子さん
(右の写真が黒田康子さん)

黒田康子さんは、もう98歳になられるそうですが、夫君が仏頭を発見した時の、感動と興奮の思い出を、次のように語っています。

「1937年。秋の深まる古都で、興福寺は東金堂の解体修理中だった。
当時、夫は奈良県で古建築保存業務に携わっていた。
10月も終わる頃、本尊・薬師如来の後ろの板壁をはがすと、台座の下に四隅の柱と4つの支柱に守られた小空間が現れた。
内部にはあの仏頭が。
緊張が走ったという。

夕暮れ時だったので検分は翌日に持ち越された。
『おまえは責任を持ってそこで番をしとれ』と上司。
仏頭の傍らで2、3人の同僚と一晩を過ごした。
一升瓶の酒が差し入れられたが、飲んでも興奮で震えが止まらなかったと繰り返していた。

夫は静岡県出身で名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)を出た建築史が専門の技官。
古美術にも明るかったから、一晩中、胸を高鳴らせていたに違いない。

翌朝、作業員6人がかりで仏頭を明るい場所に取り出した。
『しみじみと眺めた時の興奮はなお生々しく残っている』と夫はよく述懐した。
胴体のない破損仏だが、異例の早さで翌年には国宝に指定された。」

ご夫妻の会話の中の思い出だけに、発見の驚きや感動が、生々しく活き活きと伝わってきます。

黒田曻義氏は、昭和16年(1941)に康子さんと結婚しますが、その後昭和19年(1944)に軍に召集され、翌年フィリピン戦で戦死します。
31歳であったそうです。

この新聞記事は、「仏頭発見の思い出の記」ではありますが、黒田ご夫妻の心の通い合った強いきずなと愛情の深さがいまもジーンと伝わってきます。
黒田氏没後70年弱を経てなお、康子さんから夫への「ラブレター」のようにも読めました。

「この海のつづきの海を」黒田曻義著黒田曻義氏は、「春日大社建築論」「大和の古塔」といった本で知られる建築学者ですが、調べてみましたら、こんな本が出版されていました。

「この海のつづきの海を」  黒田曻義著  1980年 綜芸舎刊 

早速、取り寄せてみました。
黒田氏の、妻・康子さんへの手紙、日記、遺詠とともに、康子さんの夫・曻義氏の思い出話が載せられています。
お二人の愛と絆の強さが伺えます。
ココにも、仏頭発見の話が、少しだけ書かれていました。


【黒田氏が書き残した「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」】

それはさておき、黒田曻義氏の名前をこの記事でみて、
「確か、『仏頭発見記』といった黒田氏が書いた文章があったはずだが・・・・」
という、おぼろげな記憶がよみがえってきました。

調べてみると、東洋美術25号(1937年12月刊)に、黒田氏執筆の「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」と文章が掲載されていました。

「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」東洋美術25号(1937年12月刊)所収
「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」東洋美術25号(1937年12月刊)所収

早速、もう一度読み返してみることとしました。

黒田曻義氏仏頭発見後、間もない時(1ヶ月内外)に書かれた発見記だけに、稀代の仏頭発見の有様と、その時の感動、興奮が活き活きと手に取るように綴られていました。
(右の写真・黒田曻義氏)

そこで、この「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」をたどりながら、昭和12年、火災で失われてから500年を経ての大発見となった「仏頭発見の顛末と当時の反響の有様」などを、一度振り返ってみたいと思います。

仏頭が発見されたのは、昭和12年(1937)秋、興福寺東金堂の解体修理のときのことでした。
修理が始められたのは9月1日からでしたが、10月中旬に入ってからは堂内諸仏・諸具の搬出に取り掛かりました。
本尊と両脇侍は、堂内に置いたまま覆屋を設けて保護する段取りとなっており、覆屋架構の必要上本尊台座に取り合っている来迎壁を撤去することとなりました。
来迎壁とは、本尊の背後をかざっている板壁で、背面には、阿弥陀三尊がかかれています。
この撤去が、世紀の大発見の契機となったのです。

「発見記」は、その瞬間をこのように記しています

「愈々この部(来迎壁)の実測を了へて撤去にかかったのは、10月30日のそれも夕冷えのする秋の暮色がひそひそと堂内に漂ひ初めた頃であった。
そしてその来迎壁の撤去によって、はしなくも本尊台座内部に、木箱とその上に正面に対って奉安せられた鋳銅の仏頭とを発見したのである。」

これが、仏頭が発見された時の、台座内部に据えられていた時の写真です。
こんなものが出てきたら、本当にびっくりすると思います。

興福寺仏頭発見時の写真
興福寺仏頭発見時の写真

興福寺仏頭発見時の台座内部見取り図
興福寺仏頭発見時の台座内部見取り図

これは大変なものが見つかったということで、黒田氏は上席の岸技師(当時の奈良県古社寺修理技師の岸熊吉氏)に報告、指示を仰いだところ、もう夕刻になっていたので、全ての措置と調査は翌朝から行うということになりました。

その夜、黒田氏等は現地で寝ずの番をすることになり、

「堂内で一晩過ごしたが、差し入れられた一升瓶の酒を飲んでも、興奮で震えが止まらなかった」

というのは、先の新聞記事のとおりです。

翌日は、仏頭を取出し、その下の木箱を開けることになったわけですが、「発見記」はその有様をこのように綴っています。

「翌31日は日曜日であったが、技師も早期から出て来られ、寺にも通告して総務・板橋良玄師、事務長・樋口定俊師、信徒総代・中村雅真氏等の立会を得て、まず仏頭を取出した。
・・・・・・
約一時間の努力の後、人夫六人掛りでやっと搬出することができた。
明るい陽光のもと、始めて仏頭をしみじみ眺め得た時の興奮はいまも胸に生々しい。
続いて木箱を開けた。
二重の内箱は脚をとった唐櫃であった。
錠が錆びついていた。
そしてこの唐櫃の中に納められていたのが、焼けただれた銀の仏手と、その熔滓と刀装具の一部とであった。
しかし取り出した暫くは、その乳白色に光っている仏手が、誰も銀であろうとは思い及ばなかった。
何故なれば、さかしらな常識がこの様な並外れた現実を直ちに消化する筈がない。
やがて銀であることが解って来ると、一同の驚きは譬えようもなかった。
それから写真の撮影、実測などを行い、一通の調査を終ったのは正午も過ぎて一時に近い頃のことであった。」

木箱から発見された銀製の仏手
木箱から発見された銀製の仏手

これが、仏頭発見のいきさつです。

こんな発見に遭遇するというのは、文化財保護に従事する専門家と雖も、一生に一度でも経験できるというものではないほどの出来事であったはず。
当時24歳の若き青年であった黒田氏にとってみれば、驚愕そのものであったことでしょう。
文章からも、その驚きと興奮は並大抵のものではなかったことが、ひしひしと伝わってきます。


【仏頭発見の新聞報道】

新聞社も、この仏頭発見は、驚きのニュースであったようです。
新聞記事も、戦時下で戦局関連の記事が盛りだくさんのなか、大きく採り上げています。

大阪朝日新聞は、

「興福寺東金堂からでっかい佛頭現る   
白鳳時代の金銅製で百五十貫   学界近来の大発見」


という大きな見出しで、報じています。

仏頭発見を伝える大阪朝日新聞記事(S12.11.3)
仏頭発見を伝える大阪朝日新聞記事(S12.11.3)

大阪朝日新聞は、「山田寺旧仏で白鳳時代製」と報じていますが、大阪毎日新聞は「天平?白鳳期?」と疑問符を投げかけています。

仏頭発見を伝える大阪毎日新聞記事(S12.11.3)
仏頭発見を伝える大阪毎日新聞記事(S12.11.3)


【仏頭の来歴は?】

さて、この仏頭は、如何なる来歴の仏像であったのでしょうか?
仏頭の発見された台座の内部の篏板に、墨書が残され、仏頭の由緒がしたためられていました。
漢文で書かれた墨書ですが、その大意は、次のようなものでした。


「応永18年(1411)閏10月15日に、春日の東塔の雷火の災を蒙って、東金堂および廻廊などが焼失した。
この際、諸尊秘仏六躰は悉く取出すことができたが、本尊は大綱がなくて取出すことを断念した。
しかし幸いに、災後その御首だけが残っていた。
よって、その御首を据え奉るために台座を造営した。
堂宇および本尊か再建、再鋳されたならば、この台座をその本尊の御座の下に置いて、御首の久住とせよ。」

台座の内部篏板の墨書
台座の内部篏板の墨書

この墨書により、この仏頭が、応永18年(1411)の火災の際に東金堂の本尊であった仏像の頭部であることが判るのです。
現在の東金堂の本尊は、応水18年の火災後間もなく、応永22年(1415)に河内鋳師により新鋳された薬師如来像です。
その台座の下に、この旧本尊の御首を、正面をむけて安置されていたわけですから、東金堂に参拝する人は、現代に至るまでの長きに亘って、知らず知らずにこの仏頭を拝んでいたのでした。

現在の東金堂内部と薬師三尊像
現在の東金堂内部と薬師三尊像

それでは、この仏頭は、いつの頃に造られたものなのでしょうか?

即座に思い出されるのが、興福寺・東金堂衆によって奪い取られた山田寺旧仏が、これにあたるのではないかということです。
鎌倉時代に山田寺の仏頭が奪われた事件は、今更ここで語る必要もないほどに、よく知られた話です。
そのエッセンスにだけふれておきます。

山田寺址山田寺の丈六金銅仏は、不幸な死を遂げた蘇我石川麿を追福して造立されました。

法王帝説によれば、この仏像は天武14年(685)に開眼されています。
この薬師三尊像を、文治3年(1187)、興福寺・東金堂衆が山田寺から無理やり奪い取り、東金堂の本尊として安置してしまうのです。

興福寺の東金堂は、治承4年(1180)の平重衡の兵火に炎上し、その後、文治元年(1185)にお堂だけは再建されたが、本尊像の制作までは力及はず、いつ出来るという見込みさえつかない状況でした。
このことに業を煮やした東金堂衆が、強引に山田寺の丈六薬師三尊像を移安し、本尊に据えようとはかったのでした。

この出来事は、九条兼実の日記「玉葉」に、そのいきさつが書き残されています。
九条兼実は、藤原氏の氏長者で当時、摂政(のちに関白)の地位にあった最高級貴族です。
兼実は、この事件が起きた時には、困り果てていたようですが、文治5年(1189)に興福寺を訪れた時には、

「当時はいろいろ問題になったけれども、いま拝してみると、はなはだこの堂の本尊にふさわしい姿で、これも何かの機縁だろうか」

と記しており、事件を追認し、満足していたようです。

台座から発見された墨書きの由緒を素直に信じて読むと、この山田寺旧仏・薬師三尊像の中尊の頭部が、応永18年(1411)の火災で焼け落ち、台座の中に収められた仏頭ということになろうかと思います。

興福寺に、仏頭発見当時の事務所日誌が残されており、今回の「仏頭展」に際し、その内容が確認されたそうです。
10月29日の日誌に仏頭発見についてこのように記されています。


仏頭発見を記す興福寺事務所日誌(S12.10.29付)
仏頭発見を記す興福寺事務所日誌(S12.10.29付)

「目下修繕工事足場取付中ノ東金堂本尊台座下ヨリ旧本尊ノ御首并ニ御首ノ台中唐櫃ノ中ヨリ一尺五寸位ノ銀ノ御手ヲ発見ス 
御首ハ何時代ノ鋳造ナリヤ不明ナレトモ文献ヲ綜合スルニ治承四年災焼ノ折東金堂堂衆ニ依テ山田寺ヨリ持チ来リシモノナラン
東金堂本尊ハ山田寺ノモノナリトハ諸処ニ散見スル所ナリ
山田寺最初ノ本尊トスレハ天武天皇ノ御願ニ依リ石川麿追福ノ為に鋳造セラレシモノ也…」

これを見ると、興福寺でも、発見された仏頭が山田寺旧仏であろうと考えたことが判ります。


【さまざまな説が出された、仏頭の制作年代】

ところが、専門家、研究者の間では、そうすんなり話は運ばなかったようです。

そう簡単に山田寺旧仏と即断するということにはならず、仏頭制作年代の見解は、随分別れていたようなのです。
なんと白鳳時代の制作から、鎌倉時代の擬古作まで、各人各様の意見が出されました。

仏頭発見後の新聞報道を追ってみると、仏頭の制作年代に、いろいろな見方や観測がなされているという記事が、続報されています。

その見出しを追ってみると、こんな具合です。

「興福寺山田寺の仏像争奪  事件解明の謎? 藤原時代説も有力」

「仏頭の謎 愈よ深し  鎌倉初期に興福寺で作ったもの  岸技師が意見発表」

「謎の仏頭 薬師像の首  白鳳期の作  明珍氏ら研究」

大阪朝日新聞の記事です。

大阪朝日新聞記事(S12.11.3)
大阪朝日新聞記事(S12.11.3)

大阪朝日新聞記事(S12.11.6)
大阪朝日新聞記事(S12.11.6)

大阪朝日新聞記事(S12.11.9)
大阪朝日新聞記事(S12.11.9)

この辺の議論は、黒田氏の「発見記」が掲載された東洋美術25号に、まとめられています。
「古美術界雑記」という記事があり、この仏頭の制作年代についての、それぞれの研究者の第一印象のような見解が載せられています。

当初は、多様な意見が出されていたことを垣間見ることが出来ますので、ご紹介してみたいと思います。

・足立康氏


「文献的には、この考へ(山田寺旧仏という考え)が最も妥当の様であるが、然し実際の御首は金森氏がいはれる如く白鳳時代のものでなく、天平のものとすれば、忽ち矛盾に逢着する。
・・・・・・
私の実物を拝見した時の考へをいへば、この首は決して白鳳時代のものでないと信ずる。
それでは何時代かと問われれば困るが、非白鳳説である事は動かし難い。
今暫く慎重にその断定を避けようと思ふ。」


・明珍恒男氏

「形式及び様式の上から白鳳時代であるとして間違はない。
奈良中期又は末期とするのは一理はあるが、初期の白鳳に作られたものとするのが最も無理がないと思ふ。」


・源豊宗氏

「実物をまだ見せてもらはないのでよく解らないが、写真を見た処では和銅前後の製作であり、奈良前期様式の末期に置かれるものだと思ふ。」


・金森遵氏

「様式上和銅以後の奈良時代初期だと云ふ事が出来るが、まだ釈然としない点がある。」


・岸熊吉氏

「仏頭と両脇侍の手法が違うことは、もし脇侍が山田寺から奪ったものに相違ないとすれば、この仏頭を持った仏像は、元暦年間東金堂が再興された際、興福寺で作られたものではなからうか。」


・望月信成氏

「この仏頭が鎌倉時代だと云ふのはお気の毒です。一見白鳳ではありませんか。
斜めから見ても横から見ても実に出来のよい彫刻で、どこにも鎌倉時代らしい所はない。奈良時代でよいではありませんか。」


まとめると、

明珍恒夫、望月信成の両氏が、白鳳時代説。
足立康、源豊宗、金森遵の三氏が、天平(奈良)時代説。
岸熊吉氏が、鎌倉時代擬古作説。

ということになるのでしょうか?

現在では、興福寺の仏頭は、

「山田寺旧仏に間違いなく、天武14年(685)の制作、白鳳彫刻を代表する基準作例」

ということに、誰も異論がない常識になっていますが、発見当初には、これだけ多様な見方がされていたことは、本当に驚きです。

昭和12年当時の日本彫刻史の様式研究のレベルが未熟な面があったということなのでしょうか?
明治時代のことならまだしも、この頃になると、飛鳥~奈良時代の仏像彫刻の様式展開などについての研究は、随分進んでいたように思うのですが・・・・・・

「様式から仏像の製作年代を割り出す」ということの、難しさを物語っているようにも思えます。


【仏頭・山田寺旧仏説の定着】

このように、仏頭が発見されて間もない頃には、種々の意見がありましたが、時が経つにつれ鎌倉擬古作説、天平説は次第に淘汰され、白鳳説が有力になっていきました。

足立康氏も、昭和15年に発表した「白鳳彫刻に関する基礎的問題」ならびに「薬師寺東院堂聖観音像」の2論文では、この仏頭を天武14年完成の旧山田寺像として認める立場をとるようになりました。
天平説をとっていた金森氏も、昭和17年に「美術研究125号」に発表した「白鳳彫刻私考」という論文の中では、この仏頭を天武14年開眼の山田寺旧仏として 白鳳時代の基準作例の一つに数えるようになりました。

以降、仏頭は天武14年(685)完成の基準作例として広く認知されていくことになり、戦後はまったく白鳳説が定説化していきました。


後年、久野健氏は、仏頭発見の意義の大きさについて、

「この仏頭の発見は、これまで模糊としていた白鳳時代というものに強烈な光明を与える結果になった。
昭和年代は、法隆壁画を失ったけれども、その代わりにこの仏頭を得た。」

と語っています。

日本彫刻史上にそれほどの重みを与えた、世紀の大発見であったのでした。

興福寺仏頭...興福寺仏頭
興福寺仏頭

興福寺仏頭の発見は、その後の日本彫刻史の研究に、大きなインパクトを与えることになります。
制作年代が確定できる数少ない白鳳時代の優作仏像が世に顕れたわけですから、それだけでも大変なことです。
それにもまして、薬師寺金堂・薬師三尊像の制作年代論争に大きな影響を与えることになりました。

現在の西ノ京・薬師寺金堂の薬師三尊像が、藤原京の本薬師寺で造られたものの移座なのか、平城京の薬師寺で新鋳されたものなのかという大論争です。

薬師寺金堂・薬師如来像
薬師寺金堂・薬師如来像

興福寺仏頭が山田寺において造られた時期が、丁度、本薬師寺建立の頃にあたることから、この論争に大影響を与えたわけです。
この薬師寺論争の話にふれると、大変ややこしいことになりますので、ここでは触れないでおきたいと思います。


焼け落ちて首だけになり、大きくゆがんだ痛々しい姿であるにもかかわらず「白鳳の貴公子」と呼ばれ、清楚で秀麗な造形で人々の心を魅了する、興福寺仏頭。

今回は、その発見のいきさつや数奇な運命、その後の議論の顛末をたどってみました。


仏頭発見のいきさつなどが詳しく書かれた出版物には、次のようなものがあります。

「興福寺東金堂佛頭佛手発見記」(黒田曻義)、「古美術界雑記」(小川晴暘執筆か?)
共に東洋美術25号(1937年12月刊)所収

「白鳳時代に光を与えた仏頭」(久野健) 
芸術新潮1967.6号掲載
「興福寺の仏頭」と改題して、「白鳳の美術」(久野健著)1978年 六興出版刊に所収

「興福寺仏頭」(片岡直樹)  
「興福寺~美術史研究のあゆみ~」2011年 里文出版刊所収


ご関心のある方は、ご覧になってみていただければと思います。