観仏日々帖

トピックス~飛鳥大仏調査の続報です・・・奈良美術研究会シンポジウムから


9月中旬(2013.9.14)早稲田大学・奈良美術研究所による
国際シンポジウム「文化財の解析と保存への新しいアプローチⅩ」
が開催され、出かけてきました。

このシンポジウムは、2004年より毎年開催され、本年で10回目になるそうです。

今回は、5つのテーマの研究報告がありました。

ご紹介したいのはそのなかの一つ、桜庭裕介氏による
「飛鳥大仏のX線分析と制作技法について」
です。

一年前のシンポジウムで、桜庭氏より飛鳥大仏について、このような発表がありました。

従来、「飛鳥大仏は、そのほとんどが後補で、当初の姿をとどめていない」
といわれていたが、X線調査の結果を検討した処、
現存する飛鳥大仏は、「像全体の約80%は、当初の姿をとどめる」と考えられる。

大変な、驚きの内容でありました。

発表内容の概略については、この「観仏日々帖」の「トピックス~飛鳥寺シンポジウム行ってきました」(2012.10.5)で、ご紹介したとおりです。

飛鳥大仏
飛鳥大仏

今回の研究発表は、その追加調査による成果を踏まえたものです。

発表のポイントは、次のようなものでした。

・今回、新たに実施した科学的調査でも、後補による鋳造と云われている部分が、飛鳥時代当初のものである可能性を、より実証する結果が得られた。

・飛鳥大仏は、当初から土型鋳造によって造られたと考えられ、その事由は、鋳造失敗の可能性を少なくするためであったと推測される。

昨年のシンポジウムで主張された調査結果や考え方が、一層補強されたものであったように思います。

【一年前のシンポジウムでの発表内容】

この研究発表について、ご紹介してみたいと思いますが、その前に、一年前のシンポジウムでの研究発表のポイントを、ちょっと復習してみたいと思います。

桜庭氏の、飛鳥大仏の科学的分析調査を踏まえた結論は、次のようなものでした。

・飛鳥大仏は、従来から「飛鳥当初の部分は、頭部の鼻より上と右手のみで、後は後世のもの」と、言われてきた。

・蛍光X線分析により、飛鳥当初といわれる部分と、後世の補鋳と云われる部分の「鋳銅の組成分析」を行った処、金属組成(銅、鉛、鉄などの含有率)に顕著な差異は認められなかった。

・これは、後世補鋳と云われる部分も、当初からの鋳造であった可能性が強いことを物語っていると考えられる。

・鎌倉時代の火災(建久7年・1196)」により、大きく損傷したものの、全体の約80%は、飛鳥当初の鋳造の姿をとどめているものと思われる。

・像全体に田形の筋跡(鋳バリの線)が残されていることから、土型鋳造の技法によって鋳造されたと考えられる


また、併せて大橋一章氏により、文献解釈の観点から、次のような考え方が示されました。

・鎌倉時代の飛鳥寺の火災を伝える古記録に、「寺塔無残」「但仏頭與手残」とあり、これまで、飛鳥寺は全焼し、「本尊の頭部と手だけが焼け残った」というふうに読まれてきた。

・しかし、室町時代の古記録に「鋳仏本元興寺跡于今在之」という記述があり、これは、飛鳥大仏が、鎌倉大仏の如く、露座仏として残されていた情景を述べているように読め、損傷したものの当初の姿をとどめていた証左と解釈することが可能である。

・古記録をこのように解釈すると、桜庭氏の考え方を裏付けるものとなる。


飛鳥大仏・安居院本堂
飛鳥大仏・安居院本堂


【今回シンポジウムでの発表内容】

今回のシンポジウムでは、

「飛鳥大仏の追加の科学的調査の結果は、昨年発表した内容をより一層裏付けるものであった。」

という説明がありました。


発表の内容を、簡単にご紹介してみたいと思います。

昨年調査では、蛍光X線分析を行ったが、X線回折分析は行われなかったとのことです。
今回は、その両方が実施され、飛鳥大仏の左膝前部分と、その鋳境部分について分析実施されました。

左膝鋳境部分のX線回折分析の状況
左膝鋳境部分のX線回折分析の状況(シンポジウムスライド)

この左膝前部分というのは、従来、鎌倉時代以降の補鋳とされている部分です。
X線回折分析の結果、この二か所から共に、酸化第二銅(CuO)が主成分として検出されました。
これは、この部分が火中したことを物語っているとのことです。

この点について、桜庭氏から、このような説明がありました。

シンポジウムで発表する桜庭氏「酸化第二銅の検出は、きわめて重要な意義をもつ。
そもそも酸化第二銅は通常の環境で生成されることが少なく、強い酸化環境、つまり火災などによって生成される物質である。
この酸化第二銅が膝前及びその鋳境から検出されたことは、これらの部位が一度以上の火災に遭っており、その際に溶融しなかったことを示しているといえよう。」

「土型鋳造特有の鋳境を含む2箇所に火災に遭った痕跡を見出せたことは、飛鳥大仏の土型鋳造部分は創建当初の部分と解すべきで、その箇所が鎌倉時代に火中したと考えた方がよいのではないだろうか。」


X線回折分析結果のまとめ(シンポジウムスライド)
X線回折分析結果のまとめ(シンポジウムスライド)

すなわち、前回調査で、当初部分と後世補鋳と云われる部分で、鋳銅の金属組成に差がなかったことに加え、後世といわれる左膝前部分、鋳境部分に火中した痕跡があるのは、その部分が飛鳥時代の当初部分をとどめていると考えられる。

土や木を用いて修理した部分を除いた鋳銅の部分、すなわち全体の約80%は、飛鳥時代創建当初のものが残されているとみられる、という説明でした。


そうだとすれば、飛鳥大仏は、当初から土型鋳造で造られたことは明らかということになります。

【蝋型鋳造と土型鋳造について】

どうして、「土型鋳造で造られたことは明らか」になるのかという話について、
ここでちょっと古代の金銅仏の鋳造技術のご説明を、簡単にしておきたいと思います。

一般には、飛鳥白鳳時代の金銅仏は、蝋型鋳造で造られているとされています。
蝋型鋳造は、蜜蝋で作った仏像原型の上に土をかぶせて焼締めて、溶け出た蜜蝋と中型の隙間に、湯(熔銅)を流し込む技法です。
仏像の主要部分は、一鋳といって、一度に鋳込みますので、鋳継ぎをした後の境目の跡が残るということはありません。

蝋型鋳造のイメージ図....蝋型鋳造による小金銅仏(法隆寺献納宝物)
.        蝋型鋳造のイメージ図         蝋型鋳造による小金銅仏(法隆寺献納宝物)

これに対して、土型鋳造は、土で中型と外型を造った後に、外型を外して下部から中型を削り取ります。
削った中型の上に、いくつかに分割した外型を部分的にあてて、この部分の隙間に湯(熔銅)を流し込みます。
この作業を、何度も連続して行い、上部まで鋳上げていくという技法です。
従って、鋳継いだ部分(鋳境)の処に、継いだ境目の線(痕跡)が残ってしまうのです。

東大寺大仏の土型鋳造のイメージ図(奈良の大仏をつくる・小峰書店刊より転載)
東大寺大仏の土型鋳造のイメージ図(奈良の大仏をつくる・小峰書店刊より転載)

東大寺大仏鋳造の外型造りのイメージ図(奈良の大仏をつくる・小峰書店刊より転載)
東大寺大仏鋳造の外型造りのイメージ図(奈良の大仏をつくる・小峰書店刊より転載)

大型の仏像を鋳造するときには、蝋型ではなく、この土型鋳造の技法に依ったようです。
奈良・東大寺の大仏や鎌倉・高徳院の大仏は、この技法で造られています。
鎌倉大仏を見ると、身体に何本か横線が入ったように見えますが、これが鋳継いだ鋳境の後です。(鎌倉大仏は木型ではないかとも云われていますが、技法的には同じ段取りです。)

高徳院・鎌倉大仏...高徳院・鎌倉大仏
高徳院・鎌倉大仏~鋳造時の鋳境の線がくっきり見える~

なお、興福寺仏頭や薬師寺金堂の薬師三尊像は、結構大きな金銅仏ですが、蝋型鋳造で作られています。

興福寺仏頭(蝋型鋳造)...薬師寺金堂薬師如来像(蝋型鋳造)
興福寺仏頭(蝋型鋳造)               薬師寺金堂薬師如来像(蝋型鋳造)


飛鳥大仏を見ると、身体中にタテ・ヨコの鋳継ぎの線が、はっきりと何本も走っています。
もし、この部分が飛鳥時代当初とすると、土型鋳造で造られたことは、誰の眼にも明らかだということになるわけです。

鋳境の線がみられる飛鳥大仏

鋳境の線がみられる飛鳥大仏
鋳境の線がみられる飛鳥大仏

飛鳥大仏の鋳境線の模式図(桜庭氏作成・シンポジウムスライド)
飛鳥大仏の鋳境線の模式図(桜庭氏作成・シンポジウムスライド)

飛鳥大仏が、そもそもいずれの鋳造技術で造られたものであったかについて、論究したものは、あまりなかったのではないかと思います。
何しろ当初部分がほとんど残っていないと見られていたわけですから、ふれられてこなかったのではないでしょうか?

私の知る限りでは、鋳造工学の石野亨氏が、飛鳥大仏は土型鋳造であったのではないかと思われる旨、書かれているのを読んだことがあるだけです。

次のように記されています。

「飛鳥大仏の場合、これ(鋳造技法)を明らかにする文献はまったく見当らず、大仏そのものも創建当時のものは先に述べたごとく顔面と手の一部で、これらからも判断することは困難である。

しかし、その当時すでに削り中子法と呼ぶ造型法が百済から伝えられており、まず現在の鋳造仏と同型同大の土の塑像が作られたと考えて誤りではなかろう。

つぎに、これを模型として、これに合せて外型を作り、その後この塑像を、作ろうとする鋳仏の肉厚分だけ削って中子とするいわゆる削り中子法を取り入れた惣型の技法が適用されたであろう。」
(「鋳造~技術の源流と歴史」1977年・産業技術センター刊)


【飛鳥大仏~土型鋳造選択の理由】

それでは、どうして蝋型ではなく土型鋳造の技法が選択されたのでしょうか?

今回、桜庭氏は、この点について発表テーマの一つとして採り上げられていました。
桜庭氏の考え方によれば、我が国初の大型金銅仏の鋳造に際し、二つの鋳造技法のうち、鋳造に失敗してもやり直しが何度でも効く「土型鋳造」の技法を、選択したに違いないとして、次のように述べられていました。

「土型鋳造技法は、大型の像の制作に際して小さな面を徐々に鋳込むことで、失敗してもやり直しがきくというメリットがある。
また金属の厚みを均―にすることができる利点もある一方で、蝋型鋳造と比較して平滑な面や流麗な動きの表現が難しいというデメリットがある。

しかし、飛鳥大仏を制作した仏師は、日本で最初の丈六仏を制作するという記念碑的な仕事に際し、蝋型鋳造の技術を持っていながらも敢えて土型鋳造技法を用いて制作したのである。

その理由は蝋型鋳造より土型鋳造の方が失敗の可能性が少ないためと推察され、日本最初の丈六仏を制作する仏師の側から考えてきわめて妥当な選択であつたといえよう。」

飛鳥大仏調査の結論まとめ(シンポジウムスライド)
飛鳥大仏調査の結論まとめ(シンポジウムスライド)

以上のような、発表内容でした。

もう一度、まとめると、

・飛鳥大仏の鋳銅部分(全体の80%)は、飛鳥時代当初のものであったと考えられることが、今回の科学的調査で一層補強され、当初から土型鋳造で造られたと判断される。

・土型鋳造を選択したのは、初の大型金銅仏の鋳造であり、失敗が許されぬものであることから、部分的やり直しが効く技法を選択したと思われる。

というものでした。

飛鳥大仏の土による修理部分...飛鳥大仏の木による修理部分
飛鳥大仏の土による修理部分               飛鳥大仏の木による修理部分



今回の発表でも、シンポジウム参加者の最大の関心事は、

「本当に、鋳銅部分(全体の80%)は全部、飛鳥時代当初のものを残すと考えてよいのだろうか?」

ということだったのではないかと思います。

会場からも、このような質問が出されていました。

「飛鳥大仏は鋳境の線、鋳バリがくっきりと段差のある線になっているが、何故、この部分を平滑にする鋳浚いがなされていないのだろうか?」

という質問です。
私も、同じ疑問を強く感じていました。

桜庭氏は、この点について

「飛鳥大仏は、像を安置する場所で鋳造した後に、その場所にお堂の建築を行うという手順で造営している。

建築の開始、段取りのスケジュールとの関係で、大仏制作の時間的制約が大変きつくなったのではないか?
当初のスケジュールに対し、鋳造過程で相当手間取り、手直しなどに時間をとられたのではないか?
その結果、平滑にする鋳浚いが、なされないままとなってしまったと想像される。

時間の余裕があれば、必ず修正していたはずだと思われる。」

という考えを述べられていました。


全くの素人の私にも、ひとつふたつ、こんな空想が思い浮かびました。

「お堂の建築が進むのには相当の時間がかかる筈で、像の鋳境の線を平滑に浚える作業ぐらいだったら、同時進行で可能なような気がするけれども、その余裕もなかったのだろうか?」

「鎌倉火災のときに焼損した焼損した金銅仏破片などを、新たな鋳造の時に再利用したということがあるとしたら、この時は、鋳銅の金属組成や、酸化第二銅(CuO)の検出は、どの様になるのだろうか?」

「後世の補鋳後に、再度火災に遭ったという可能性は、全く無いのだろうか?」


色々な疑問が、未だ残されているようには思えますが、今回の発表で、「飛鳥大仏鋳銅部分は全部当初説」は、また一歩前進したように思われます。

今後、この議論が、どのように展開、発展していくのか、大変興味深く愉しみです。


古仏探訪~秋田県湯沢市 談山神社、土沢神社の観音像


小沼神社に続いて、同じ日に訪れた秋田の平安古仏を、ご紹介しておきたいと思います。

訪れたのは、湯沢市にある談山神社、土沢神社という二つの神社です。
やはり、平安古仏の木彫像が、神社に祀られているのです。

二つの神社に祀られている二躯の観音像は、制作年代は違っているかもしれませんが、いずれも立ち木に顕れる霊性を造形表現したのではないかと思われるような木彫仏です。
仏像は、随分朽ちてしまっているのですが、今でも、神社のご神体として祀られ、地元の人々に大切に守られています。

もともとは、神社に祀るために造られたということではないのでしょう。
いつの頃からか、集落の神社に観音像が祀られ、その地の守り神のように信仰されている有様を目の当たりにすると、いにしえの古代から長らく息づいてきた、みちのく出羽の地における、神仏習合の原風景をみるような気がしました。


まずは、談山神社の伝千手観音像のご紹介です。

談山神社・伝十一面観音像~「古仏への視点」掲載写真談山神社に祀られる伝千手観音像といわれる像は、随分朽ちていて顔貌をとどめないほどに摩耗しているためか、地方仏について採り上げた本にも、まず採り上げられていることはありません。

この仏像の存在を知ったのは、井上正氏が日本美術工芸に連載していた「古仏への視点」というシリーズに採り上げられていたからです。
右の写真が、掲載されていた写真です。

「秋田の霊木化現像」という表題で、談山神社・伝千手観音立像が登場します。
今回ご紹介の小沼神社、土沢神社の仏像の他、白山神社女神像も、一緒に採り上げられていました。


談山神社は、秋田県の南部の内陸部、湯沢市杉沢という処にあります。
折角、小沼神社まで出かけるのだから、脚を伸ばして是非行ってみようと、訪れました。

談山神社は、杉木立に囲まれた、小高いところに在ります。

談山神社・鳥居...談山神社
談山神社の鳥居と杉並木に囲まれた石段

鳥居をくぐり、階段を少しばかりのぼると、社殿が見えてきます。

談山神社・社殿
談山神社・社殿

地元で、管理されている方がお二人お迎えいただき、ご案内頂きました。

千手観音像は社殿の後ろ側に造られた、コンクリート製の収蔵庫に祀られていました。
社殿の奥に接続するように収蔵庫が造られているので、社殿に参拝すれば、ちゃんと観音様の方に向かって参拝できるようになっています。
我々も、社殿に上げていただき、お賽銭箱を乗り越えるように奥に上がらせていただき、収蔵庫に向かいました。
収蔵庫の鉄扉が開かれ、姿を現した千手観音像は、なんとも痛ましいお姿でした。

談山神社・伝十一面観音像収蔵庫
談山神社社殿の奥の観音像収蔵庫

腕は全部残っていませんし、火災にあったのか上半身には焼け焦げの後のような肌が残っています。
また、一部焼けた肌を削り落としたのでしょうか、目、鼻、口は削ぎ落とされたようで、「のっぺらぼう」のような痛々しいお顔になっています。

談山神社・伝十一面観音像 上半身
談山神社・伝十一面観音像 上半身

「千手観音略縁起」によると、この仏像の来歴は、このように伝えられているそうです。


この像は、行基菩薩が日本各地に三十三体の観音木像を造立したものの一体である。
神社西北の杉沢山普門寺に祀られていたが、天正年中(1573~1592)兵火に遭い堂塔が焼亡し、千手観音像は谷中の土中に長く埋没し、後には古木谷の橋となっていた。
これを見出した僧円海が、山上に安置して中興したが、慶長年中(1596~1615)に現在の地に遷座したという。

この像の痛ましいお姿を見ると、「土中に埋もれ、橋として使われた」という言い伝えとなるのも、むべなるかなという思いです。

千手観音像は、像高251㎝、ちょうど半丈六の立像です。
内刳りのない一木彫で、材はブナと思われるそうです。(カヤとする資料もあります)
頭部を、左側に大きくかしげているのが特徴です。

談山神社・伝十一面観音像 上半身...談山神社・伝十一面観音像 脚部
談山神社・伝十一面観音像 上半身                脚部       .

拝した印象を、単語で並べると、こんな感じです。

「ゴツイ」「野太い」「ゴツゴツ」「ズドーン」

仏像の造型表現としては、なんともふさわしくないように思うのですが、本当にそんな感じがするのです。

このタイプの像は、平安前期彫刻を語る時によく使われる
「量感豊か、魁量性、重厚感、迫力」
といった言葉で表現されることが多いと思うのですが、この観音像はちょっと違うのです。
量感、重厚感豊かに彫り上げ、木彫として見事に彫り出したという感じではありません。
大きな木の幹から、用材そのままの姿がまだ偲ばれるような彫り方で、粗野で野太くゴツゴツと彫られた仏像のような感じがします。
頭部を、左側に大きくかしげているのも、木の幹の曲りに沿うように彫り出されているからだと思われます。
立ち木仏だったのでしょうか?
この土地に根ざした、土臭い信仰のエネルギーの表現をみるようです。

制作年代については、この像を採り上げた井上正氏も、
流石に行基時代の制作とは考えられず、藤原時代の制作とみて、

「行基が創始して全国に広めた、霊木化現の心と形が、後世まで生き続ける一例と見るほうが妥当であろうか」

と記されています。

いずれにせよ、朽ちかけた仏像というせいもあるのでしょうが、地霊のような不思議な霊感を感じさせる仏像でありました。



次にご紹介するのは、土沢神社の十一面観音像です。

この十一面観音像は、像高が430㎝もある巨大な木彫像だということです。
秋田県の指定文化財になっています。

土沢神社は、談山神社から南へ4~5キロの、田畑が連なる平地の中にぽつりと在りました。
鳥居も簡素で、社殿の方もこじんまりして、ちょっと失礼ながら、みすぼらしく傷んでいます。

土沢神社・鳥居...土沢神社の鳥居から見る風景
土沢神社の鳥居と、鳥居から眺めた風景

土沢神社・社殿
土沢神社・社殿

4メートル超の巨像がお祀りされている社殿のようには、とても思えません。
この土沢神社は、無住だそうで、地域で守られている神社です。
この日は、総代の方がわざわざ社殿を開いていただきました。

観音像は、社殿の一番奥に祀られています、
眼前に見上げると、びっくりするほどに巨大な観音像です。

土沢神社・十一面観音像....土沢神社・十一面観音像
社殿に祀られた土沢神社・十一面観音像と全身写真

この巨像が社殿にちゃんと収まるよう、仏像は床下の地面の処から立ち上がっていて、座って拝すると沈んだように見えます。
それで、やっとこの社殿に頭まで収まっています。
観音像の足元の所まで入れていただいて、拝することが出来ました。
余りの巨大さに、天に向かって仰ぎ見るという感じです。

土沢神社・十一面観音像 上半身
土沢神社・十一面観音像 上半身

相当に痛々しい姿で、欠失したり補ったりされている処がたくさん見られます。
膝から下は完全に失われたようで、後世に造られたものが、どう見ても不釣り合いに継ぎ足されています。

土沢神社・十一面観音像 脚部
土沢神社・十一面観音像 脚部

胸から上の方は、火災に遭ったのでしょうか、かなり焼け焦げた跡が残っています。
それにしても、ドーンと立つ巨像を目の当たりにすると、そのボリューム感に圧倒されてしまいます。


この観音像は、伝えるところによれば、近在の「安養寺」という寺のご本尊であったということです。
地元では「タニシ観音」と云い習わされているそうです。
「タニシ観音」の名のいわれは、次のような話だそうです。


ある日、安養寺のお堂が火災に遭い、建物は焼失してしまった。
だが、不思議なことに、この観音像は焼けて喪われずに、残っていた。
村人が近づいてよく見ると、無数のタニシが観音像を包むように貼り付いており、殻が焼かれてボロボロになったり、泡を吹いたりして死んでいた。
その姿は、まるでタニシが身をもって観音像を守ったかのようであった。
その後、村人はこの観音像を「タニシ観音」と呼ぶようになった。
以来、村ではタニシをとったり食べたりすることは禁じられ、今もその決まりは守られている。

神社のすぐそばには、「タニシ池」と呼ばれる池があり、ここにはタニシが多く生息しているそうです。
そこで、災難を乗り越えて土地の人々に守られてきた観音像に、こんな言い伝えが生まれてきたのかもしれません。

土沢神社近くのタニシ池
土沢神社近くのタニシ池

さて、この観音像をもう一度よく拝してみましょう。

カツラ材の一木彫で、内刳りがほどこされています。
4メートル超、丈六になんなんとする巨像を一木で彫ったのですから、どれほどのカツラの巨木であったのでしょうか?

土沢神社・十一面観音像 上半身丸山尚一氏は、


「カツラの立ち木に直彫りして、立ち木の勢いをそのまま表現しようとした、そのずんどうの像には、生の力が宿っている。
さすがに立ち木仏の威容を今に伝えている木彫像と云って良い。」
(「わが心の木彫仏・東日本」東京新聞出版局・1998刊)

と述べています。

この像も、霊木に刻んだ立ち木仏的なものだったのでしょうか?


「太造り」という言葉が似合う造形です。
土沢神社・十一面観音像 背面
お腹もドーンと膨らんで、腕も太く造られています。
まさに「堂々たる立ち姿」という感じがしますが、こんなに太く大きいのに、重厚感とか圧迫感というような威圧的迫力を感じさせません。
宗教的な暗さとか重たさというようなものを、全く感じさせないのです。

むしろ、「おおらかで和やか」という印象です。
開放的な明るさ、拡がりのようなものを強く感じさせるのです。
巨大な体躯をもった、おおらかな青年のような魅力で、仰ぎ拝する人を惹き付ける魅力をもった仏像です。


さて、この像の製作年代や背景はどのように云われているのでしょうか?

一般的には、鎌倉初期に下る、地方仏師の作とみられているようです。

湯沢市史(1965刊)には、このように解説されています。


「土沢の十一面観音は鎌倉初期の地方仏師の作で、藤原時代様式の優美さがうかがわれる堂々たる傑作で、地方作の丈六仏としては、東北屈指の逸品である。」

もう一度、お姿を見上げてみました。
「ふーん、鎌倉?」
ちょっと、違和感があるような気がします。

一方、田中恵氏は、この像の表現に中央仏の表現とは違う、東北地方特有の造型表現の変容がみられ、定朝様式以降の仏像とは見られないと考え、


「この像は、その造形のおおらかさ(穏やかさ)から、従来制作時期を下げて考えられていた像である。
しかし、形式が示すところは、かなりの古様であり、11世紀以降の都で隆盛を誇った定朝様式の影響は全く見られない。
・・・・・・・・・
ここにみられるように、形式が古様で造像様式が都のままでなくて変容するという形態は、北東北では仏像の造像を考えるとき重要な要素となることである。」

と述べています。
こうした造形変容の事例の一つの重要作例として、黒石寺薬師如来坐像を挙げています。

黒石寺・薬師如来像
黒石寺・薬師如来像

さらには、その変容については、


「土沢神社像の造形の魅力である『おおらかさ(穏やかさ)』を、変容の一つと考えるからである。
このような造形を生んだ秋田の平安前半期の造仏は、多分に土着の信仰を含み込んだものであって、その造形も都とは必然的に異なることを示しているのである。」
(「秋田県の仏像」仏像を旅する・奥羽線所収、至文堂1989刊)

と述べ、この観音像の製作時期が平安前半期である可能性を示唆しています。

田中氏は、
この土沢神社観音像も、先にご紹介した小沼神社聖観音像も、みちのくの地の土着の固有信仰である「カミ」と、中央から伝えられた「ホトケ」が一体化して、造られた像と考え、
そうした像であるからこそ、中央仏の写しというのではなく、みちのくの地らしい色々な表現に造形変容して、造られ祀られるようになった
と説明しています。

小沼神社の二躯の観音像
小沼神社の二躯の観音像

私には、よく判りませんが、
この観音像の造形を観ていると、鎌倉時代の制作という感じはしませんでした。
平安後期ぐらいかなと感じました。
堂々とおおらかで明るく開放的で、太造りな有様を見ると、平安仏と思いたくなりますし、そのように見えてきます。


この日、訪れた二つの神社の仏像は、共に「立ち木仏」かも知れないと云われる像でしたが、この湯沢市には、もうひとつ「立ち木像の神像」が残されています。

白山神社・女神像今回は、訪ねることが出来ませんでしたが、湯沢市松岡にある白山神社の女神像です。

右の写真のような神像です。

この女神像には、なんと根の部分が今も残されているという、大変珍しい像です。
根を含む総高165㎝のケヤキの一木造りで、内刳りはありません。
平安後期の製作と云われています。

この地域には、立ち木彫り的な彫像が、多く残されているのは、訳でもあるのでしょうか?


今回の、秋田の平安古仏観仏の旅は、云いかえると

「神社を訪ね、ご神体となっている仏像を拝する旅」

となりました。

それは、辺北の地における、
仏教の信仰は、どんな有様だったのであろうか?
仏像は、どのようにこの地に受け入れられていったのだろうか?
ということに、思いを馳せさせてくれることになりました。

土着の信仰と、仏教・仏像とが、一体融合してカミとして祀られたという、この辺北の土地固有の仏像、

「カミとホトケの一体化した神仏習合像」

という、不思議な造形にふれることが出来たような気がしました。

今回訪問した、小沼神社、談山神社、土沢神社の仏像は、どれも皆、
「出来の良い仏像」「造形的に優れた仏像」
という感じはしません。
どちらかといえば、ちょっと出来が良くないというか、美しさとは縁遠い仏像でした。

しかし、決して期待外れの古仏探訪とはなりませんでした。

どの仏像を観ていても、そこに、古代の東北という辺北の地に生きた人々の、この地に根ざした信仰の力のようなものを、何故だか感じさせられてしまう像ばかりでした。

ズシーンと、心に残る仏像たちでありました。