観仏日々帖

古仏探訪~秋田県大仙市 小沼神社・観音菩薩像【その2】


【その1】は、小沼神社の霊境空間に「心洗われた」話でしたが、

【その2】では、社殿に祀られている観音菩薩像について、ちょっと考えてみたいと思います。

社殿には、二躯の観音像が安置されています。
聖観音像と十一面観音像です。

聖観音像は、像高170.2㎝、ケヤキの一木彫で内刳りはほどこされていません。

小沼神社・聖観音立像...小沼神社・聖観音立像上半身
小沼神社・聖観音立像

痩身のプロポーションが特徴で、いかり肩で、膝頭の位置が高く、脚が異常に長く見えます。
また、鼻下の人中の刻線、すぼまるように突き出た唇が独特の表情をつくっています。
上半身の奥行が浅いというか薄いのも、特徴的と云えると思います。


十一面観音像は、像高177.0㎝、カツラの一木彫で内刳りはほどこされていません。

小沼神社・十一面観音立像
小沼神社・十一面観音立像

やや頭でっかちで、重量感があり、でっぷりと野太いという感じの造形です。
角ばったお顔に、大きめの目鼻口がしっかり刻まれていて、ちょっと強情そうな表情です。

二つの観音像を拝すると、

聖観音像は、長躯痩身、独特の個性的表現で、仏像というよりも「霊的なもの」を強く感じさせる。

一方、十一面観音像は、地方仏特有の土臭い匂いを感じさせる。

私は、そのように感じました。

材もケヤキとカツラと違いますし、造形表現もだいぶ違うので、同時期一具で造られたものではないと思います。


この観音像の制作年代については、それぞれ、どのように考えられているのでしょうか?
色々な解説文を探してみましたら、面白いことに、専門家によって随分意見が分かれるようです。
図録の解説や、案内書のような本に書かれたものではありますが、ご紹介してみます。

一覧にしてみると次のとおりです

20130907konumajinja37.jpg

聖観音像の製作時期の考え方に随分大きな幅があるようです。

井上正氏の行基時代の8世紀前半製作という考え方は、ちょっと横に置いておくとしても、
高橋正氏の奈良~平安時代から政次浩氏の12世紀後半まで、奈良末から平安末まで、びっくりしてしまいそうなほどの違いです。

それぞれの解説を、ちょっと抜き書きしてみました。


仏像を旅する・奥羽線「秋田の仏像」 田中恵氏(至文堂・1989刊)


「聖観音像」として指定されている像は、頭部の様子から十一面観音と推測される像であり、あるいはいま一体の県指定像である「十一面観音像」の先行像として存在した像ではないかとも考えられる像である。
・・・・・・・
この像の制作は、その様式の特色からすると、平安時代の前半に遡ることは疑えない。
従って、秋田県において、本格的に仏像の造像が始まったと考えられる平安時代前半の状況を、この像から推測することも許されよう。


「古仏への視点」 井上正氏 (日本美術工芸674号所収・1996刊)


(聖観音像の)長痩のプロポーションは、同類中でも際立っており、百済観音のそれを想起させる。・・・・・・
お顔は少年相である。眉目唇いずれも小ぶりで、白鳳から天平前期にかけての童顔仏のムードを漂わせている。・・・・・・
(脚部の衣文は)アイロンを当てたように、本体の方に押し付けられるような表現で、これは古式の一木彫の例に数多くみられた。
・・・・・・
この像には行基の伝承がある。
そして、すでにあげた特色から、私は本像の製作を8世紀の前半、すなわち行基活躍の時代と考えたいと思う。

小沼神社・聖観音立像背面...小沼神社・聖観音立像脚部
小沼神社・聖観音立像背面           聖観音立像脚部       .


図説みちのく古仏紀行 大矢邦宣氏 (河出書房新社・1999刊)


平安中期とされる二体の小沼観音像を拝んでいると、天台寺の諸像が自然に思い浮かぶ。
彩色像と素木像の違いなどの差異よりも、霊水・霊木のカミしての仏さまという共通点が勝っているからであろう。


「いのりのかたち東特地方の仏像展」図録 政次浩氏 (東北歴史博物館・1999刊)


重量感に富む体躯の表現から、本像(十一面観音像)の製作時期は11世紀前半とみられる。
・・・・・
聖観音立像は、細身で浅い奥行きから12世紀後半につくられたとみられる。

小沼神社・聖観音立像側面.......小沼神社・聖観音立像側面
小沼神社・聖観音立像側面


「神仏習合展」図録 鈴木喜博氏 (奈良国立博物館 2007刊)


(聖観音像は)肩をいからせた硬直した姿勢、大腿部に簡潔にあらわした衣文、および膝下に密に彫刻された衣褶表現などは前代(平安前期)の古様さが残っている。
細身の体型で、上半身は奥行きが浅いものの、腰高の下半身は厚みがあり重厚である。
奈良京都の木彫の展開と照応すれば、10世紀の量感の捉え方に通じるが・・・・・・
出羽地方の歴史を考慮すべきだが、製作は平安中期と推定される。


みちのくの仏像  高橋正氏  (平凡社・別冊太陽 2012刊)


聖観音立像(奈良~平安時代)
ケヤキの一材で、細身の伸びやかな姿態を示す。
東北地方きっての古像である。
・・・・・・・・
(十一面観音像は)がっしりとした体躯と、全体的に大ぶりな彫り方に特徴があり、重厚な姿からは、平安時代中期の作風と考えられている。


図録解説や案内書風の文章なので、製作年代の考えの根拠について詳しく記されていませんが、やはり注目すべきは、聖観音像の製作時期です。
どうしてこんなに差が出てしまうのでしょうか?

細身で上半身の奥行の薄さに注目すれば、平安後期というふうに考えられ、
霊的な神秘感のある全体表現、膝下の衣褶表現、下半身の重厚感などに注目すれば、平安初期とか前期に近いというふう考えられるということなのでしょうか?

聖観音像の、個性的で特異な造形が、意見の差を呼ぶのだと思います。

私には、難しいことはよく判りませんが、
長躯痩身で、クセはあるがオーラのようなものを発する顔の表現をみると、「霊感」「霊的なもの」を強く感じるように思います。
このような感覚の造形は、平安後期の藤原彫刻の時代には、みられないのではないでしょうか。
平安前期の造形感覚が色濃く残っている時代でないと、難しいような気がします。

小沼神社・聖観音立像上半身
小沼神社・聖観音立像上半身


制作年代の話がちょっと長くなってしまいました。

実は、この聖観音像が、最も注目されているのは、製作年代の話ではなく、特異な「神仏習合表現」の像ではないかとの見方です。

特異なのは、頭頂部の造形です。

よーく目を凝らすと、大きな頭髪、髻の中には、わずかに目鼻を刻んだ顔面に気がつきます。
ホトケ様の顔ではなく、可愛い女性の顔のよう見みえます。
もうひとつは、頭のてっぺんに、何か突起状の残りのような痕跡があることです。
棒のようなものが突き立っていたようです。

小沼神社・聖観音立像頭頂面
小沼神社・聖観音立像 頭頂に刻まれた顔

田中恵氏は、この頭頂の「顔の表現」と、突起した「棒状のもの」に注目しました。
この観音像は、「神と仏像が一体化している像」だと考えたのです。
頭頂部の顔は仏面ではなく「女神」を表現している。
棒状のものは、「ここに神が依りつく」ためのもの。
すなわち


「頭部の頂上には豊かな髪をもった女神が鎮座し、その女神の頭の天辺には、依代(よりしろ)のような角が生えていた痕跡が残る。」
(「北天の秘仏」平凡社刊解説、1991刊)

このような、考えを示したのです。

田中氏は「棒状のもの」を、単純に付加されたものではなくて、神の依代とみて神仏習合の表現と考えています。
小沼神社観音像の頭頂には、棒状の痕跡のようなものしか残っていませんが、神奈川県の弘明寺の鉈彫りの優作・十一面観音像には、きっちりとその形が残されていると、田中氏は述べています。


「この『棒状のもの』の存在は、私には、あたかもこれらの十一面観音像の本来の姿が仏(頭頂仏)ではなくて、この『依代』に降りる神であることを示しているようで、興味深い。」
(「仏像を旅する・秋田県の仏像」至文堂刊、1989刊)


弘明寺・十一面観音立像......弘明寺・十一面観音立像頭部
弘明寺・十一面観音立像

また、頂上の仏面にあたるところの顔の表現について、小沼神社観音像と弘明寺観音像の共通点を、このように記しています。

岐阜・神通堂・十一面観音立像
これらの像では、一般の十一面観音像が宝髻の上に仏面を載せるのとは異なって、頂上の仏面がなく、その代わりのように、宝髻の前面に一面の顔が彫出されていることがある。

その顔の形は、如来の形ではなく、あたかも『女神像のような形をしている』のである。
これも、前述の頭頂の『棒状のもの』同様、固有信仰とのつながりを考えさせる部分である。

なお、もっと積極的に頭頂仏を女神像の形にした例として、岐阜・神通堂の十一面観音立像がある。」(「仏像を旅する・秋田県の仏像」至文堂刊、1989刊)

【右の写真:岐阜・神通堂 十一面観音立像】


誠に、興味深い話です。

小沼神社聖観音像の「独特で個性的な霊性表現」の秘密というか、理由を鋭く説明しているようで、納得してしまいます。
日本の固有信仰であるカミと、仏教のホトケが、この地で一体化し、その造形表現として、女神を戴く観音像が造られた。
そのように、考えたくなってきました。


みちのくの地は、カミとホトケがとりわけ色濃く一体化しているように思えます。
とりわけ、辺北の地である秋田県・出羽国、岩手県・陸奥国の北部に残された平安古仏を思い浮かべると、そのように思います。

鉈彫り観音像で有名な、岩手県二戸浄法寺町の天台寺では、参詣の際に「柏手」を打ってお参りします。

天台寺...天台寺・聖観音立像
.          天台寺                  天台寺・聖観音立像

巨大な兜跋毘沙門天像で知られる花巻市東和町の成島毘沙門堂の入り口には、熊野神社と毘沙門堂という二つの石標が立ち、立派な大鳥居が出迎えてくれます。

成島毘沙門堂...成島毘沙門堂・毘沙門天像
.      成島毘沙門堂            成島毘沙門堂・毘沙門天像

そして、今回の秋田の古仏探訪で訪れる平安仏は、三つとも神社に祀られています。
小沼神社、談山神社、土沢神社です。
いずれの社殿でも、小沼神社の御開帳の儀式のように、「柏手」を打ち、神式の参拝で仏像を拝みます。

古代、みちのく辺北の地では、
佛教という「宗教」が、この地に伝播していったというよりも、それ以前のこの地に根ざした「固有の信仰」と結びついて、
「カミとホトケが一体化した像」
を造らせ、これをシンボルとして拝するようになった。
そう考えると、これらの仏像やその祀られ方が、何やら体感できるような気がします。

小沼神社の聖観音像を、
そんな気持ちに身をおいて拝すると、その霊性を感じさせる造形がわかる様に思います。

長躯痩身で個性的造形が、

「カミとホトケの一体化した神仏習合像」

として、益々オーラを発しているように感じます。

やはり、この観音像は、在るべき場所で拝さないと、その本質を実感できないように思いました。
この秋田・豊岡まで来て、鬱蒼とした杉林の中に突然開ける小沼のほとりの社殿に祀られたお姿で拝したい観音像です。

この小沼に佇む小沼神社の社殿で拝してこそ、

「霊境空間に降り立つカミの像」

「カミとホトケの一体化したお像」

を体感出来るように感じました。

平成19年(2007)、奈良国立博物館の「神仏習合展」で、小沼神社聖観音像を観た時には、
「平安古様の痩身の一木彫観音像を観た」
これ以上でも、これ以下でもない印象しか残りませんでした。

「思いきって、秋田まで出かけて、小沼神社までやってきてよかった。」

心底、そのような気持ちになりました。

そして、久々に「心洗われた」古仏探訪となりました。

トピックス~奈良三郷町・一針薬師笠石仏に「快慶作」を示す銘文?


2013年9月2日付け新聞各紙は、

奈良県、三郷町の持聖院に伝わる、「一針薬師笠石仏」(町指定文化財)に、快慶を示すとみられる銘文が刻まれていることが判った。

調査委員会では、この石仏像は「快慶最初期の作品である可能性が強い」としている。

という、ニュースを報道しました。

一針薬師石仏・朝日新聞記事(2013.9.2)
朝日新聞の報道記事(2013.9.2付)

持聖院は、奈良県生駒郡三郷町勢野東、JR奈良線の王寺駅から北へ500メートルほど行った処に在ります。 

持聖院
奈良県三郷郡・持聖院

創建年代など不詳ですが、近くにあった補陀落山「惣持寺」の子院だったそうです
戦国末期に松永久秀と筒井順慶の争乱で焼失したようですが、江戸初期まで僧坊が残っていたとのことです。
持聖院は江戸前期に再興され、惣持寺の什宝を受け継いで現在に至っています。


一針薬師笠石仏は、高さ幅各約2メートル、花崗岩の表面に線刻された仏像で、薬師如来を中心に日光月光菩薩と十二神将を刻んでおり、従来から鎌倉時代の製作と考えられています。

一針薬師笠石仏
一針薬師笠石仏

各紙の記事を総合すると、次のようなことが報道されていました。

一針薬師笠石仏は、持聖院の裏山に安置されていましたが、周囲に木が茂って倒壊の恐れが出てきたため、今年5月に場所を移動した際、調査委員会が拓本をとって刻銘を調査した処、造立にかかわった人物として「アン(梵字) 大工上人」の名があることが判明しました。

一針薬師笠石仏の安置状況
持聖院・裏山に安置されていた一針薬師笠石仏

ご存じのとおり、快慶は「巧匠アン阿弥陀仏」という法号を用いており、そのことから快慶作品である可能性が高まったとこことです。

一針薬師笠石仏・描起し図
一針薬師笠石仏・描起し図

石仏銘文には、
持聖院の前身寺院の総持寺を創建した、鎌倉時代の高僧・解脱房貞慶が、造立を発願したことや、
「如月廿日」(2月20日)に誰かの一周忌にあわせて造られたこと
などが記されていました。

貞慶と親しかった九条兼実(玉葉の執筆者)の長男・良通が、文治4年(1188)2月20日に亡くなっていることから、文治5年(1189)に造られた可能性があるそうです。

現存の快慶最初期作品であるボストン美術館・弥勒菩薩像が文治5年(1189)9月15日の作とされていることから、一針薬師笠石仏は、それ良い半年早い快慶最古作品となる可能性が強くなった、ということです。

ボストン美術館蔵・快慶作弥勒菩薩立像
ボストン美術館蔵・快慶作弥勒菩薩立像

新聞記事のまとめは、このようなものです。

快慶の作品は、銘記や関係史料から真作と判明しているものだけで40件近く現存しますが、その作品群のなかに、「一針薬師笠石仏」を加えることになりそうです。


新聞を読むと、

「今般、突然、快慶作品の石仏が発見された」

かのように思えてしまいます。


しかし、この一針薬師笠石仏は、従来から、
「快慶作品ではないか?」
とする議論があった石仏です。

ついでに、そのあたりのいきさつについても、簡単に触れておきたいと思います。

一針薬師笠石仏の地元案内看板
一針薬師笠石仏の地元案内看板(快慶についてもふれられています)

話しは、持聖院の前身である総持寺の本尊造立の経緯に遡ります。

記録によると、「三輪上人行状」という建長5年(1253)に書かれた古記録に、

解脱房貞慶が「法性寺の安阿弥陀仏」に依頼して薬師像を造り、大和信貴山麓に総持寺という寺を興して、これを安置した

と伝えられています。
この、「法性寺の安阿弥陀仏」が、快慶を指すことは間違いありません。
造立された時期の記述はないのですが、12世紀末から13世紀初頭のことと考えられています。

これまでの研究では、この総持寺の本尊として造立された薬師如来像は、木彫像で「ある時期に失われた」という認識で一致していました。
毛利久氏、小林剛氏、水野敬三郎氏等は、そのように考えられるとしています。

これに対し、仏師で仏像研究家の太田古朴氏は、昭和41年発刊の自著で、

この記録にあらわれる快慶作・薬師如来像は、総持寺の跡地である持聖院に現在も残る「一針薬師笠石仏」のことではないか

と、想定していました。
大和の石仏鑑賞
太田氏は、「大和の石仏鑑賞」(太田古朴著・1966年・綜芸社刊)で、「一針薬師笠石仏」像を採り上げ、

・本尊、脇侍が宋風であること
・快慶の作風に類似すること
・貞慶住持の笠置寺本尊(弥勒磨崖仏)は石仏であり、同じ貞慶創建の総持寺本尊は石仏が相応しいこと

などを、本像を快慶作・総持寺本尊であると考える根拠に挙げています。

今回の新聞報道どおり、本像が快慶作で間違いないということになれば、太田古朴氏の見方は慧眼であったということになります。

ところで、この石仏は快慶作であったとしても、快慶やその工房が刻んだ像だとは考えられません。
一針薬師笠石仏は、花崗岩に線刻されています。
花崗岩は大変硬質で、当時、石彫が難しかった石材で、この線刻は渡来の宋人石工の手によるものと考えられています。

従って、本像が記録に残る「総持寺・本尊像」であったのだとすれば、

「解脱房貞慶の依頼により、快慶が石仏の下図を描き、宋人石工がこれを制作した石仏像である。」

と考えられることになります。

そうした意味では、いわゆる快慶作木彫像の作例とは、作品の意味合いがちょっと違ってくるのかもしれません。
太田古朴氏は、「大和の石仏鑑賞」での本石仏の論考には、
「解脱上人発願、三輪上人開眼の仏師快慶下図の薬師三尊笠石仏」
という表題が付けられていますが、
それは、こうした考え方を踏まえたものであろうと思います。

一針薬師笠石仏
快慶下図、宋人石工石彫かと思われる花崗岩製線刻像

また、今回の調査委員会の主要メンバーである山川均氏(大和郡山市教育委員会)も、以前から、
「一針薬師笠石仏」は、太田古朴氏の主張のとおり、快慶作品であると考えられるという論考を発表しています。
山川氏の論考「一針薬師笠仏と貞慶」は、海住山寺HP「解脱上人寄稿集」に掲載されています。
今回の刻銘文判読で、山川氏の考え方がより一層裏付けられるようになったということなのかと思います。

なお、調査委員会での詳しい研究成果については、
11月30日に岡山・就実大学で開催される、歴史シンポジウム「歴史考古学の現在」で、山川均氏により発表されるとのことです。

古仏探訪~秋田県大仙市 小沼神社・観音菩薩像【その1】


「心洗われる」

こんな気持ちがこみあげてきたのは、何年ぶりのことしょうか?

齢のせいなのか、最近、いろいろな所へ仏像探訪に出かけても、心が揺さぶられるような感動を味わうということが、あまりなくなってきたように思います。
仏像だけではなく、各地を訪れても、海外旅行に出かけても、同じような感じです。
還暦も過ぎてしばらく経つような歳になってしまうと、感性や感受性がだんだん鈍ってくるのでしょうか?

四十余年前の学生時代、地方仏探訪に各地に出かけていた頃は、観る仏像それぞれが皆、「新たな感動」であり「心揺さぶられる」ものであったように思います。

なかでも、岩手・水沢の黒石寺を訪ねたとき、前夜、檀家総代の方のお宅に泊めてもらい、夜明けの朝陽が朝露にふりそそぐなか、あの魁偉な薬師如来像を拝した時の感動は、今でも鮮明に心に刻まれて残っています。

黒石寺・薬師如来坐像
若き日に拝した黒石寺・薬師如来坐像

今年の七夕、7月7日、小沼神社を訪れました。

小沼のほとりに佇む小さな社殿に祀られた、2体の観音像を拝したとき、
「心洗われる」
という言葉が、本当にそのままあてはまるような思いに浸ることができました。
若き日の仏像探訪の、心揺さぶられた感動の記憶が、蘇ってきたような気持ちになったのです。


私をそんな気持ちにした、小沼神社と観音菩薩像をご紹介したいと思います。

秋田県は、隣の岩手県と違って仏像不作の地というか、知られた平安古仏がほとんどないといってもよい地です。
実は、私も、これまで全国各地の仏像を探訪してきましたが、秋田県の仏像を訪ねたことはありませんでした。

「一度は、秋田の平安古仏を観に行ってみようか」

と、同好の方と、小沼神社、談山神社、土沢神社の三つの古仏探訪に出かけたのでした。


小沼神社は、桜で有名な角館(かくのだて)から車で30分ぐらいのところ、大仙市豊岡というところの小高い山中にあります。
平安時代の2体の木造観音立像が祀られており、ともに秋田県の指定文化財になっています。
像高170~180cmぐらいの木彫像ですが、聖観音の方は、平安前期とか中期の制作ではないかといわれています。
また、神仏習合像との考えもある、秋田県では最注目の仏像です。

普段は秘仏として開扉されることはなく、夏と正月の例大祭のときに限り、開帳されるということだそうです。
今回は、同好の方が、教育委員会などを通じてお願いいただいて、拝観ができることになりました。
豊岡の集落までたどり着くと、地元で小沼神社を管理している地区の方が、迎えに出ていただいていました。

迎えの方の車の先導で、山間の細い道路をくねくねと登っていきます。
集落から小沼神社への参道があり、登ると歩いて20~30分で本殿に着くそうです。
ただ、普段はここを訪れる人もなく、参道は草叢のようになっていて、とても歩いてはいけないとのことです。

小沼神社参道入り口の鳥居..小沼神社参道
(参考写真)小沼神社・入口鳥居と参道~歩けるよう整備された時の写真

例大祭の時には草刈りをして、歩けるようにするのだそうで、今日は迂回路を車で往くことになりました。
我々の車は途中までで、そこからは先導車に乗り換えです。
「細すぎる道で一般の車では危ない」ということなのです。
車は、道なき道のようなところを、草をなぎ倒しながら進みます。

小沼を囲む鬱蒼とした杉林
小沼を囲む鬱蒼とした杉林

しばらく行くと、杉林の開けたところにたどり着きました。

車を降りて、少し歩くと、小沼神社が目に入ってきます。
本当に驚きました
鬱蒼とした森の中、突然眼の前に開けた空間が出現し、そこには緑色の小沼が水をたたえているのです。
そして、沼の向こう側には、小さな社殿がひとつ、ポツリと静かに佇んでいます。

なんという景観でしょうか!

小沼と小沼神社

小沼と小沼神社

小沼と小沼神社
小沼と小沼神社の景観

こんな山の中に、こんな美しい景色が秘められているなどとは、想像もつきませんでした。

昔話やお伽話に、
「道に迷った村人が、神仙のような場所に導かれる」
という話がありますが、
こんな景色を云うのだろうかと思わせます。

まさに、「霊境」の趣で、神が降臨する聖地の佇まいです。


この景色に胸を撃たれ、ちょっと痺れたような気分で社殿に向かうと、地区の方と宮司さんが先に来られていてお迎えいただきました。

小沼神社
小沼神社社殿でお迎えいただいた宮司さん

宮司さんは、なんと若い女性です。
お尋ねすると、先代宮司を継がれて神主をされているそうです。
普段は、別の神社の宮司でいらっしゃって、地区で管理している小沼神社の宮司も兼任されているとのことです。

昇殿させていただき、宮司さんと地区の方3名の皆さんにご挨拶し、我々も居住まいを正して正座すると、ご開帳の儀式が始まります。
神式のご開帳は、初めての経験です。

仏像は、厨子の前に立ち並んでいて、見えるところに祀られているのですが、祝詞の奏上があり、玉串を捧げて、ご覧のようにお像の前に沢山の蝋燭がともされました。

蝋燭が灯された本殿内
蝋燭が灯された社殿

警蹕(けいひつ)というそうですが、降神、昇神の「ォォォオオオォォ」というという唸り声には、心身引き締まる思いがします。

宮司さんによる御開帳儀式

宮司さんによる御開帳儀式
宮司さんによる御開帳儀式

さて、二体の観音像、聖観音像と十一面観音像のご拝観です。

宮司さんから、すぐそばまで近寄ってじっくり観て良いとのご了解を頂戴し、眼近に360度ビューで拝見しました。

小沼神社・二躯の観音像
二躯の観音像(十一面観音・聖観音)

聖観音像は、
全体に個性的で独特の表現で、仏像というよりも「霊的なもの」を強く感じさせます。
細身で八頭身のいかり肩、鼻下の人中の刻線、すぼまるように突き出た唇が印象的です。
上半身は奥行きが浅いですが、下半身は厚みがあり重厚感を感じさせます。
膝頭が高い位置にあり、脛が異様に長くなっています。

小沼神社・聖観音立像....小沼神社・聖観音像上半身
聖観音像・上半身

小沼神社・聖観音像頭部...小沼神社・聖観音像頭部
聖観音像・頭部

眼を惹くのが、頭頂の大きな二段の髻。
よーく観ると、髻の中には、わずかに目鼻を刻んだ顔面に気がつきます。
化仏の仏面なのでしょうか? 
それにしては可愛い表情です。

小沼神社・聖観音像頭頂
聖観音像・頭頂部に刻まれた可愛い顔

十一面観音像は、
聖観音像と違いでっぷりと野太い感じの造りです。
角ばったお顔に、大きめの目鼻口、がっしりとした体躯とでも言うのでしょうか。
大振りな造形で野趣があり、ずしんと重みのある造りになっています。

小沼神社・十一面観音像...小沼神社・十一面観音像上半身
十一面観音像・上半身

小沼神社・十一面観音像頭部...小沼神社・十一面観音像頭部
十一面観音像・頭部

聖観音像が霊的なものを強く感じさせるのに対して、十一面観音像は地方的な土臭い仏像の匂いを感じさせるように思えました。

「こじんまりした社殿の中央に、二体一尊のような形で祀られた観音像の姿は、いかにもこの霊境にあるに相応しい。」

「いくつもの蝋燭の明かりの揺らめきの向こうに佇む観音像の姿は、その背後に眼に見えなぬ神の姿を映しているような、幻想を呼び起こす。」

自然と、そんな思いに浸ってしまいました。

いろいろと、お話を伺いました。
小沼神社は、地区の方々の神仏として、本当に大切に守られているようです。
我々の来訪に備えて、いろいろと拝観のご準備をいただき、宮司さんもわざわざこの日のために小沼神社まで遠いところを足を運んでいただいたようです。
小沼神社の御札とお守りまで頂戴してしまいました。


ある解説には、

小沼神社のある山は、麓の小沼地区では「死者の魂が登る山」と信じられている。
小沼社が水辺に立地することから、阿弥陀浄土への見立てを連想させる。

とありました。

麓の案内板には、(私は見ていないのですが)

小沼神社は小沼観音堂とも呼ばれ、ここ小沼山の山頂にあります。
昔は、神社前の沼に中島があり、それの6尺(1.8m)幅の反橋が架けられ、ここを渡ってお参りしたと言われています。

と書かれているそうです。

もう一度、社殿の外に出て、鏡のような水面の緑濃い色に染められた小沼、その周りを囲む鬱蒼とした杉林を眺めてみました。

小沼と小沼神社
小沼と小沼神社

確かに、この景観は、「神仙境、幽玄境」という言葉がそのまま当てはまりそうな霊境空間だなという気がしました。

神が降り立つ地、神が坐します、というに相応しい。
ほとけの浄土を想念させる、というに相応しい。

此処は、そのような気持ちにさせる場所だと思いました。


突然、想定外の霊境空間を目にして、感動が増幅しすぎて、筆が走り過ぎてしまったようです。
私にとっては、本当に久方ぶりの「心洗われる」時間でありました。

・鬱蒼とした杉林の山中に突然現れる空間、
・鏡面のような水をたたえた、緑深く染められた小沼
・小沼の奥に、ポツリと佇む神社の社殿
・社殿に静かに佇立する、神仏習合の観音像
・神社をしっかり守る地区の人々と女性の宮司さん

これら全てが相俟って、心惹かれる霊境空間を創り出しているのだと思います。
どれが欠けても、惹きつける力が喪われるような気もします。

七夕の日に訪れた、小沼神社は、

「心洗われる」
「心揺さぶられる」

私を久方ぶりに、そんな気持ちにしてくれました。

後ろ髪をひかれる想いで、小沼神社を後にしました。
是非とも、またチャンスを見つけて、訪れてみたいものという思いで一杯です。


この続き【その2】では、
二体の観音立像の制作年代や造形の特色などについて、専門家の意見などをご紹介しながら、考えてみたいと思います。

新刊・旧刊案内~「ほとけを造った人びと」


「仏像の歴史」ではなくて、「仏師の歴史」をテーマにした本が、出版されました。



「ほとけを造った人びと~止利仏師から運慶・快慶まで~」 

根立研介著
2013年8月 吉川弘文館刊 【259P】 1800円

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本の帯のキャッチコピーには、このように書かれています。

「仏師とは何者か? なぜ「ほとけ」を彫ったのか? 
造り手から見た新しい仏教史」

日本彫刻史とか日本仏像史といった本は、平易な入門書から専門的な研究書まで、数えきれないほど出版されています。
仏像ブームなのか、最近、どんどん刊行され、書店の棚を賑わせているようです。
つい最近も「日本仏像史講義」山本勉著(別冊太陽40周年記念号)という、立派な本が出されました。

一方、仏像の制作者である「仏師」に焦点を当て、仏師について語った本は、そう多くはありません。
それでも、止利仏師、定朝、運慶、快慶といった、日本の仏像史上に大きな名を残した、偉大な仏師たちを、それぞれ個別に採り上げた本は、まだ結構あるのですが、
日本の仏師について、その流れを追って通史的にその歴史を採り上げた本は、あまりないように思います。


この「ほとけを造った人びと」という本は、
副題にあるように、止利仏師から運慶・快慶まで、即ち飛鳥時代から鎌倉時代までの仏師の姿や、彼らが率いた工房の活動などを、歴史を追って語っています。

「これは、なかなか興味深く、面白そうな本だ」

と思って、早速購入しました。


まずは、目次をご覧ください。

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ご覧のとおりで、日本の仏師といわれる仏像製作者の知られた名前や、流派の名前が、次々と登場します。
飛鳥から鎌倉末までの、仏師の通史概説として書かれていることがよく判ります。

著者の根立研介氏は、文化庁美術工芸課に籍を置かれた人ですが、現在は京都大学大学院教授の任にあります。

仏師関係の著書も多く、
「運慶―天下復タ彫刻ナシ」(ミネルヴァ書房)
「日本中世の仏師と社会」(塙書房)
といった著作があります。


この本は、吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」の一冊(第366巻)として出された本なので、どちらかといえば、やさしく気楽に愉しく読めるのではないかと思って読み始めました。
仏師の歴史など良く知らない人にも、入門書的にやさしく読めるのではないかと思ったのです。

とことが、読み始めると、少々予想と違いました。
わかりやすく、思いきって大胆に割り切って書いてあるというよりも、すごくきっちりと書かれているのです。
書かれている文章は、それぞれ研究者の諸説をきっちりふまえて、誰の説であるかとか、誰が指摘した・実証したということに、必ずふれながら、解説、説明が進められています。

例えば、平安初期木彫造仏を解説した個所は、こんな感じです。



「平安時代以後造像の中心となる木彫像は、奈良時代の後半から製作がさかんになると考えられていた木心乾漆像の心木が発展していったものという見解(丸尾、1922年)が、半世紀ほど聞までは定着化していたところがあったからである。

しかしながら、近年の彫刻史研究では奈良時代の木彫の評価が急速に進んでいる。

そのきっかけを作ったのが、久野健氏の見解(久野、1957年)である。
久野氏は、『日本霊異記』に収められた俗人、私度僧にまつわる木彫像製作の説話から、官営工房以外の民間の造仏においては木彫像の製作がかなり行われ、こうしたことを背景に京都・神護寺薬師如来立像のような平安時代の冒頭を飾る造形的完成度が高い木彫像が生まれてきたとした。

奈良時代の木彫像の再評価は、行基の仏像製作といった伝承を尊重する井上正氏の研究(井上、1986年)等によって、よりいっそう議論が深化していった。
ただ、どの像を奈良時代の像と見なすかといった、遺品の具体的な検証といったことになると見解の一致をみないことも多い。」


仏師や、仏所工房などについても、このような感じです。
きっちり先行研究にふれられながら、解説が進められています。

また、平安時代以降は、数多い造仏記録や、造主の諸貴族の名前、今は亡き寺院の名前、それらの出典となる古記録の名前などが、あふれるように挙げられながら文章が進みます。

通史的概説書のボリュームのページ数の中に、このように盛り込まれているので、結構、骨のある内容になっています。
仏師の話となると、あまりよく知らない私にとっては、それなりに気合を入れて読まないと、著者の云わんとするところを理解するのがシンドイという感じがしました。
さらりと気楽に読めるという予想に反して、事前知識が少ないと、歯ごたえが結構あるように思えました。

その分、「内容の中身が濃く、きっちり論ぜられた本」だということなのだと思います。

詳しい内容は、実際に読んでいただくとして、私が、大変印象に残ったのは、
著者が、仏師というものを考えるうえで、「聖なる造形を造る宗教者」という側面を、意識して書かれていることです。

著者は「あとがき」で、このように記しています。


「仏師は、平安時代半ばからその主要な者たちは、形式的には僧籍を有するようになり、聖なる造形を造る宗教者という側面も無視できなくなる。
そのいっぽう、先にふれたように手工業者であるので、利潤の追求も行っている。
要は、仏師というのは、大変複雑な性格を有する人々であり、さまざまな側面をのべることはかなりの困難さを伴うことに改めて気づかされたのである。

特に重要なのは、建前としての側面もあるが、彼らが聖なる造形を造る人々であった意味であろう。

このことは、他の手工業者と仏師を区別する極めて重要な鍵であるが、こうしたことはなかなか資料からはうかがうことが出来ないのである。
本書では、このことをある程度意識して執筆しているが、なかなか書き切れていないことも事実である。

近年は、仏師のこうした側面にも光を当てようとする研究も始まってきているように思われる。
本書が、そうした試みに対して少しでも刺激を与えられたら幸いである。」


本文中にも、定朝の師(親?)である康尚が、仏師として初めて「講師」という僧職を与えられたことについて、このように述べられています。


「そこで注目したいのが、聖なるものは聖なる僧によってのみつくられ得るという観念がこの時期定着していった可能性があることである。

要は、時代環境として仏師は僧籍を有する者が多くなり、その傾向を助長したのが聖なるものは聖なる僧によってのみつくられ得るといった観念の広まりだったのではないだろうか。」


たしかに、仏師については、その工房や、社会経済的側面からとらえて論じたり、
仏像という彫刻作品の作者としての芸術的技量や創造力といった観点から論ぜられたりしていますが、

「聖なる造形を造る宗教者」

という側面からは、余り論ぜられていないような気もします。

ご一読をお薦めする本です。



ついでに、「仏師」をテーマにした既刊本を、ご紹介しておきたいと思います。
より深く興味を持たれた方に、ご参考になればと思います。


仏師の通史的な解説書としては、この3冊をご紹介します。

「日本の彫刻~歴世の名工を追って~」 小林剛著 
1965年 至文堂刊 【156P】 490円


歴代の著名な仏師をラインアップし、それぞれの事績を古記録から辿ると共に、残された個別の作品について解説された本です。


「仏師の系譜」 佐藤昭夫著
1972年 淡交社刊 【243P】 1000円


飛鳥時代から江戸時代までの著名な仏師とその一門、仏所などの活動やその作品を辿りながら、仏師という作家の姿を浮き彫りにしようと解説されています。
判りやすく平易で、読みやすい内容だと思います。



「日本の仏像と仏師たち」 宇野茂樹著
1982年 雄山閣刊 【191P】 6200円


造仏工、仏師の歴史を丁寧に辿った本ですが、解説書というより論考という方があたっているようにも思います。
はしがきに
「この拙著は、仏師系譜を述べるだけを本旨としたものではなく、仏師社会をも眺めながらその生活を考えていこうとした。」
と記されているように、仏師の生活という視点でも記されている処は興味深いところです。

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専門的研究書では、次の2冊をご紹介しておきます。


「日本彫刻史作家研究~仏師系譜をたどって~」 小林剛著
1978年 有隣堂刊 【491P】 7000円


小林剛氏が「日本彫刻作家研究の一節」の副題のもとに、研究誌に発表された論文を集めたもので、そのほとんどが、氏の博士論文「日本彫刻史における仏師の研究」に所収されているそうです。
日本の古い彫刻作家について、広く資料を渉猟し、現存する作例について論究するという構成になっています。
小林剛氏の没後に出版されました。
先に紹介した、「日本の彫刻~歴世の名工を追って~」は、これの平易なダイジェスト版と云って良いものだと思います。


「日本古代仏師の研究」田中嗣人著 
1983年 吉川弘文館刊 【385P】 7000円


日本思想史、日本美術史の研究者である、田中嗣人氏の博士論文を、単行本として刊行されたものです。
仏師に関連する詳細な文献研究がなされていますが、ちょっと難しすぎて歯が立たないという感じです。