観仏日々帖

古仏探訪~三重伊勢市・太江寺 千手観音坐像


今回も、三重の仏像のご紹介です。
伊勢市二見町にある太江寺(たいこうじ)の千手観音坐像です。

重要文化財に指定されていますが、余り知られていない仏像だと思います。
私も、今回訪ねるまでは、全くその存在を知りませんでした。

この三重観仏旅行で伊勢市に泊まることになったので、近くに観るべき仏像はないだろうかと調べて見ましたら、

「太江寺の千手観音坐像」

という仏像があるのを知りました。
私の好きな平安古仏ではなく、鎌倉時代の仏像なのですが、重要文化財の仏像でもあり、是非一度拝してみたいものと訪れることにしたのでした。

太江寺は、夫婦岩で有名な二見浦(ふたみがうら)からほど近いところに在ります。

二見浦・夫婦岩
二見浦・夫婦岩


20130727taikouji2.jpg二見浦にも寄ってみましたが、土産物屋、屋台の食べ物屋も立ち並んで、相変わらず大勢の観光客で賑わっていました。
二見浦は、小学校の修学旅行で、夫婦岩の近くにあった「二見館」という旅館に泊まって以来、来たことがありませんでした。
50年余ぶりの再訪ということになります。
夜、枕投げをしてふざけたり、夫婦岩のご来光を拝んだような記憶が突然よみがえってきて、大変なつかしく思い出されました。


太江寺は、夫婦岩への入り口から2~300メートルぐらいの間近の小高い丘に在るのですが、本当にひっそりしていて、誰も人影を見ることは出来ませんでした。
二見浦に来た人たちも、この太江寺によることはないようです。

仁王門から階段を上ってしばらくすると、本堂が見えてきます。
本堂は、ちょっとさびれて荒れたようで、ひっそりと建っているという感じです。

太江寺・仁王門
太江寺・仁王門

太江寺・本堂
太江寺・本堂

やぶ蚊の攻撃に悩まされている処に、ご住職が見えられました。
お堂の中に入れていただくと、早速読経が始まりました。

実は、この太江寺の御本尊・十一面観音像は、秘仏になっており、普段は拝することができません。
ご拝観のお願いの連絡を入れた時には、奥様かと思われる女性が電話口で、
「御本尊は、秘仏になっているので拝観は出来ないのですけれども、お厨子の側面の扉を開いて、横の方から覗いて拝んでいただくのでよろしければ・・・・」
というお話をいただき、伺いました。

きっと正面からのご拝観は無理なのだろうなと思っていましたら、読経が済むと、ご住職がお厨子の正面の扉を開けてくださいました。

「普段は、ご開帳しないのですが、わざわざ遠くから来られたので拝んでいただくことにしました」

という、有難いお話です。
薄暗い堂内に、厨子の中だけが明るい照明に照らし出されて、千手観音像が浮き出るように見えてきました。
間近に寄って拝することが出来ました。

開扉された太江寺・十一面観音坐像
開扉された太江寺・十一面観音坐像

像高150.3㎝、鎌倉時代の千手観音坐像です。

如何でしょうか?

想像していたよりも、圧倒的に立派で、結構迫力を感じるのにびっくりしました。
カヤ材の素地で、いわゆる檀像風の仏像です。
素地に黄色の檀色着彩がほどこされているようです。

太江寺・十一面観音坐像側面
太江寺・十一面観音坐像側面

寄木造ということですが、何処で寄せてあるのか素地なのによく判りません。
大変、精緻に仕上げられています。
つるつるとしたほどに滑らかに仕上げられていますが、彫技の冴えには鋭いものを感じます。
膝の衣文の仕上げや、顔貌の仕上げを見ていると、仏工のノミの技の冴えを誇るかのようです。
そして、彫技を誇るだけの像というよりは、全体のバランスも良くとれてなかなか出来の良い像と感じました。
「良く上手にできている」だけではなくて、結構、存在感も感じるのです。

太江寺・十一面観音坐像顔部.....太江寺・十一面観音坐像顔部
太江寺・十一面観音坐像顔部


ほの暗いお堂の中で、厨子の中が照明で照らし出されて浮き上がるように目に映る、というシチュエーションの効果にかなり影響されているのかもしれません?
どうしても、感動的な印象を受けてしまいます。

ほの暗い本堂に照らし出される太江寺・十一面観音坐像
ほの暗い本堂なか、厨子の中に照らし出される太江寺・十一面観音坐像

その辺を加味しても

「鎌倉の仏像としては、なかなか出来の良い立派な彫像」

だと思いました。


さて、この仏像のことは、どのように解説されているのでしょうか?

この像への関心が出てきましたので、戻ってから調べてやろうと思って、図書館で解説資料を探してみましたが、意外にも、ほとんどないのです。
「伊勢市史・文化財編」(2007年刊)、「伊勢の文化財」(1981年刊)
のどちらにも、写真も解説文も全く掲載されていません。
大正5年(1916)5月に旧国宝(現重要文化財)に指定されている仏像で、伊勢市で重要文化財指定を受けている仏像は6件しかないのに、採り上げられていないのです。
どうしてなのか、不思議なことです。
きちんと調査されたことがないからなのでしょうか?


「仏像集成・近畿編」(1997年刊)に、写真・解説が載っているのを見つけました。

解説全文を紹介しますと、次のとおりです。

太江寺・十一面観音坐像正面

「この千手観音坐像は、二見浦の興玉神(おきたましん)と関係があると云われている。
寄木造の素地像で頭髪、眉、目、唇のみに彩色を施す檀像風の仏像である。
繊細に美しく整えられており、彫刻としての存在感よりも工芸的な美しさをもつ。

肉身の表現はやや無機的になり、人形のような印象を受けるが、鎌倉時代も降ったころによく見受けられる作風である。
ただこの仏師は、工芸的な技量が卓越しているために、鎌倉時代後半のやや泥臭い印象がないのであろう。」


「工芸的な美しさ」とか「人形のような印象」
というフレーズで表現され、彫刻としての存在感が薄いように解説されています。

太江寺・十一面観音坐像側面
直に拝した感覚からいうと、
「工芸的な美しさで、人形のような印象・・・」
と言ってあげるのは、ちょっと可愛そうで、

「鎌倉の後半期とすれば、なかなか出来が良くて、仏像としての存在感も感じる」

と云ってあげたい気になります。


中央の仏像に照らし合わせると、どれに似ているかといわれると、難しくてよく判りませんが、それなりの腕のある中央仏師の作ではないだろうかという気がしました。



さて、この太江寺は、寺伝によれば、

天平年間(729年 - 749年)奈良の大仏勧進のため諸国を行脚していた行基が、天照大神のお告げを受けて、二見浦で興玉神を参拝したところ、金色の千手観音を感得した。
その姿を刻んで祀るため開創したのが当寺で、鎮守社として興玉社も境内に祀った。

と、伝えられています。

また、現本尊の造立については、

文治年間(1185年 - 1190年)伊勢神宮の神主である荒木田成長が、当寺の衰退をみて現本尊の千手観音坐像を寄進し、諸堂を再建、再び隆盛を極めた。
頭部に興玉神のご神体の観音像が納められている。

と云われています。

この伝えをそのまま信じれば、現本尊・十一面観音坐像は、鎌倉初期の仏像ということになりますが、私にはよく判りません。



「伊勢の片隅で、想定外の出来のいい立派な仏像に、出会うことができた。」

これが、私の素直な感想です。

皆さんも、一度、太江寺を訪れて、直に拝してみてはいかがでしょうか。
愛好する「平安古仏」ではないのですが、是非、お薦めしたい仏像です。

トピックス~「国華」創刊期の高橋健三と岡倉天心【その2】

【その1】では、「国華」の創刊期の事情やいきさつについて振り返ってみました。


さて、そろそろ高橋健三の話に入って行きたいと思います。

新聞記事には、高橋健三所蔵文書が見つかったことを端緒に「研究報告書」が出されたと書かれていました。
神奈川県立博物館の御執筆者に問い合わせて見ましたら、非売品の研究報告書ですが、参考になるのならと、報告書を頂戴いたしました。

「国華」創刊に関する研究~研究報告書
【「国華」創刊に関する研究~新出の高橋健三資料を中心にして~】

という研究報告書です。

ご覧の目次のような内容で、国華草創期と高橋健三の事績について、新発見の高橋健三旧蔵の経営収支報告書、日記、書簡などをもとに、詳細に研究された論考が掲載されていました。

大変、興味深く読ませていただきました。
詳細な論考で、とてもここでご紹介するのは大変に過ぎます。

研究報告目次
研究報告目次

論旨を、思いきって独断で端折って要約すると、このように結論付けられているように思いました。


・従来、「国華」の創刊は、岡倉天心が主役で、高橋健三の協力により進められたというように理解されてきた。

・それは、高橋が国華創刊時、内閣官報局長という職にあり、いわゆる官僚と考えられていたことにもよる。

・しかし、高橋健三は官僚ではあったが、大変な文化人で、こうした方面の人々との交友も深く、日本美術とその研究のあり方についても高い見識を有した人物であった。

・また、印刷出版事業についても、当代有数の出版人と云って良い知識、経験を有しており、美術研究雑誌発刊への主体的な意欲には並々ならぬものがあった。

・「国華」は、高橋のこのような見識と構想に基づいて企画・創刊された側面も、大きかったものがあると考えられる。

・「国華」を支えた人々は、編集面、経理面のメンバーから、図版制作の木版技術の名工に至るまで、ほとんどが高橋の人脈により構成されており、出版事業は、高橋を核として運営されていた。

・最大の資金援助者となる朝日新聞の村山と上野とのつながりも、高橋健三の存在が結節点として重きをなしていた。

高橋人脈図
角田拓朗氏執筆論文所載・高橋健三人脈図(角田氏作成)


・このようにみていくと、「国華」の創刊時から出版事業の中心となっていたのは、岡倉天心ではなく、高橋健三であり、また高橋を支えてきた諸々の人々によるものであったと考えられる。

・明治期に「美術」というものを形成してゆく一つの大きな柱となった「国華」という存在を考える時、高橋健三の果たした功績は大なるものがある。



高橋健三とは、どのような経歴の人物だったのでしょうか?

岡倉天心の方はよく知られていますが、高橋健三はあまり知られていません。

「国華の軌跡」からそのまま引用すると、このように書かれています。

高橋健三「他方、安政2年(1855)生まれで、岡倉より7歳上の高橋健三は、この年(国華創刊の明治22年)35歳。大学南校(東京大学)を中退して、明治12年官界に入り、駅逓局などを経て明治16年太政官報告掛、18年官報局次長、22年には官報局長に在任していた。

やがて、官報局を辞して朝日新聞社客員となり、事実上主筆を務める高橋は、明治期のナショナリストとして欧化の風潮批判などに鋭い筆鋒を揮ったが、偏狭な国粋主義者ではなく、文化・美術への感性と教養も豊かな智識人であった。

・・・・・・・・・・

そして高橋も,維新以後忘れられ置き去りにされている日本文化の現状に慨嘆し、わけても美術・文芸の再評価への強い意欲を抱いていた。

それはまさに岡倉と相通じる希願にほかならず、資質にも近しいものがあるこの両人が、肝胆相照らす仲に進んだのは自然の成り行きであった。」


その後、高橋は、明治29年内閣書記官長の重職に任ぜられたりしますが、明治31年(1898年)7月に肺結核のために、神奈川県小田原の別荘で42歳の若さで没しています。


高橋健三という人物も、大変な大人物であったようです。

ただ、岡倉天心が、近代美術文化史上のあまりにも偉大な巨星であったために、その陰に隠れてしまったということなのでしょうか。
「国華」発刊という大業績も、岡倉天心をもって語られ、高橋健三はわずかに共同創刊者としての名を留めるということになってしまったのかもしれません。

「国華創刊といえば岡倉天心」
というイメージが、何時頃から定着していったのかはよく知りませんが、
昭和15年(1940)年11月発行の「国華600号」に収録された「国華沿革略」には、このように記されています。

「国華は明治22、憲法発布の年の10月、時の官報局次長高橋健三氏に依て発起せられ、東京美術学校岡倉覚三氏の協力を得て月刊美術雑誌として創刊せられた。」

ここにでは、発起者が高橋健三、協力者が岡倉天心であったと述べられているのです。
存外、真実が語られているのかもしれません。
執筆者の人選や執筆テーマなどについては天心が深くかかわり、「国華」出版印刷事業全体については高橋が全て運営をしていたということなのかもしれません。


また、明治34年(1901)から44年の長きに亘り「国華」主幹を務めた瀧精一は、高橋健三の甥にあたる人物です。

高橋は瀧の東洋美術研究者としての資質に着目、「国華」編集の任に登用する意思を、村山・上野に漏らしていたのではないかと、推測されています。
これもまた、「国華」の中核が、高橋健三であったことを物語っているようです。


余談ですが、高橋健三と岡倉天心は、明治26年頃、絶交します。

高橋健三から岡倉天心に、絶交状が出されたとのことです。
絶交の事由については、これまで明らかではなく、
「天心の詩人的無軌道の行為が祟って」
などとされていたようです。
今回の高橋資料のなかに天心の債務に関する史料が発見され、天心の金銭トラブル問題が大きく横たわっていたのではないかと考えられるとのことです。
天心が金銭的に無頓着で、豪遊をしたり放漫な面があったことは、良く知られていますので、納得できる話といえそうです。


今回の新聞記事

【「国華」創刊期に悪戦苦闘~高橋健三の資料から判明】

を、読んだことがきっかけで、

国華創刊者の一人とされる高橋健三と、国華創刊期の頃について、調べて見たり勉強したりすることが出来ました。
そして、高橋健三という人物と果たした功績にもふれることが出来ました。

皆さんには、ご関心があまりなかったかもしれませんが、「明治期の文化財保護」や「日本美術の発見」ということに関心が強い私にとっては、大変興味深い話でした。



最後に、本題と全く関係のない話なのですが、
「国華」創刊号に関連して、私が気になっていることがあります。

国華創刊号の目次をみると、挿画として

「無着像  ビゲロー氏所蔵写真  小川一真製写真版」

と記してあります。

国華創刊号目次
国華創刊号目次


ビゲローが、興福寺北円堂の運慶作「無着像」を所蔵していたということなのでしょうか?

無着像写真
国華創刊号掲載・無着像写真(小川一真撮影)


これについては、「国華の軌跡」の本に、このようなエピソードが記されています。

「挿話の伝えるところ、その折(明治21年近畿地方古社寺調査の時~天心・高橋も参加)、文部省美術顧問ビゲローに奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。
我が国の古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」

これによると、無着像は一時ビゲローの手に渡り、また何らかの事情で興福寺に戻されたということになります。
もしくは、ビゲローは売買の約束をしたのか、代金は払ったが無着像を未だ引取りはしていなかったとも考えられますが、「国華目次」には「ビゲロー氏所蔵」となっていますので、普通に考えれば一度引きとっていたということになるのでしょう。

かねがね、どうしてなのだろうかと思っているのは、

興福寺で明治期、
「無着像が売られたとか、売られたが戻ってきた」
といった、挿話や秘話が書かれたものを、他には見たことがないのです。

興福寺の廃仏棄釈や仏像の流出、売却などについては、いろいろな本や資料に、結構詳しく採り上げられています。
薮中五百樹氏執筆の

「明治時代に於ける興福寺と什宝」立命館大学考古学論集Ⅲ-2(2003)
という論文が、こうした仏像の移動などについて最も詳しい論考ではないかと思うのですが、そこにも無着像のことは何も触れられていません。

興福寺の廃仏棄釈と仏像の流出については、
[埃まみれの書棚から~第141話第142話
に書いたことがありますので、参照いただければと思います。


「どうも不思議だな?」と思いながら、
「国華」目次をよくよく見ていて、気が付いたことがあります。
全く的外れの疑問なのかもしれませんが、このようなことです。

目次の、図版の記載をみると、
無着像以外の掲載美術品は「フェノロサ氏所蔵」といったように「○○氏所蔵」と記してあるのに、
無着像だけが「ビゲロー氏所蔵写真」と書いてあるのです。
「所蔵」の後に「写真」という言葉が付加されています。

20130706kokka17.jpg.......................20130706kokka16.jpg
国華目次・無着像写真の記載           国華目次・岩佐又兵衛美人図版画の記載


同じ創刊号に掲載の、岩佐又兵衛筆美人図のほうは、「ビゲロー氏所蔵」と記されています。
無着像だけ「所蔵」ではなく、「所蔵写真」と書いてあるのは、何か意味があるのでしょうか?


ビゲローが無着像を所蔵しているのに、後ろに「写真」という言葉をつけただけなのでしょうか?
それとも、ビゲローが持っていたのは「無着像の写真版」ということで、無着像そのものを所蔵していたと訳ではないということなのでしょうか?

本文の無着像の解説をみると、

「無著菩薩ノ塑像ハ南都興福寺中金堂ニ安置スル所ニシテ天親菩薩卜一対ノ内ナリ」

とあり、無着像は興福寺中金堂に安置してあると書かれています。

また、明治20年頃の興福寺中金堂内陣を撮影したと云われる写真には、ご覧のとおり、無着像と世親像がしっかりと写っています。(国華の創刊は、明治22年です)

明治20年頃の中金堂内陣
明治20年頃の興福寺中金堂内陣古写真(「興福寺の全て」田川俊映・金子啓明監修所載)


「国華」創刊号の図版に使われている無着像の写真は、小川一真の撮影による有名な写真です。
「国華」の掲載写真は全て小川一真が請け負っており、コロタイプ印刷も小川一真が引き受けています。
そうであれば、「ビゲロー氏所蔵写真」と「写真の所有者がビゲローである」というようにわざわざ記すのも、変のように思えます。

どうもよくわからないのです。

「無着像は、本当にビゲローに、一度売り渡されたのであろうか?」
「無着像が売られたとしたら、どのようにして興福寺に戻されたのだろうか?」

どなたか、このことについてご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
何かご存じのことがありましたら、是非ご教示ください。


どうでもいいような、とるにたらない疑問なのかもしれませんが、
「国華」創刊号の目次の「記述」を見るたびに、大変気になっていることなのです。

トピックス~「国華」創刊期の高橋健三と岡倉天心【その1】


5月に、朝日新聞にこんな記事が掲載されました。

朝日新聞記事


「国華」という美術研究誌は、美術史にちょっと興味のある方なら誰でもその名をご存じだと思います。
日本を代表する、権威ある美術研究誌です。

新聞記事は、このような主旨を伝えています。

「国華社」は関東大震災で被災し資料が失われたため、国華草創時の詳細は不明なことが多かったが、創刊者のひとりである高橋健三所蔵の書簡や経理文書などが見つかった。
文書からは、草創時の「国華」は天心を中心に語られがちだが、実際は政府の官報局長の高橋が核になっていたことが浮かび上がった。

「国華」の創刊は、岡倉天心というよりも、高橋健三がその中核になって進められていたことが判明したというのです。

高橋健三
高橋健三

国華は、高橋健三と岡倉天心が共同で明治22年(1889)に創刊したのだそうですが、私も、国華の創刊というと、岡倉天心のことがまず頭に浮かんできます。

岡倉天心
岡倉天心

なんといっても「国華」という誌名の名付け親であったということですから。
岡倉天心の名が、余りにも偉大でポピュラーであることから、
「国華といえば岡倉天心」
と思われるようになり、共同創刊者であった高橋健三の名は、その大きな影に隠れて忘れられてしまったようです。

高橋健三といわれても、
「そんな人がいたのだろうか? あまり良く知らない人物だなー」
というのが、実感です。


明治期の日本美術研究の道程を振り返る時、「国華」を置いて語ることは出来ません。
「国華」が、明治期の日本美術の発掘、評価、研究に多大な寄与をしたことは、ご存じのとおりです。

東京国立博物館HPでは、「国華」について、このように解説しています。
「国華創刊120年記念特別展」での説明文です。


(右の写真は、国華創刊号です。)
「国華」創刊号

『國華』とは
 
『國華』は、明治22年(1889)10月に岡倉天心、高橋健三らによって創刊されました。
現在も刊行されている美術研究誌としては世界最古の歴史を誇り、その名は広く海外にも知られています。
『國華』という名称は、岡倉天心による創刊の辞「美術ハ國ノ精華ナリ」から採られたものです。
それに従い、『國華』は日本と東洋の優れた美術について第一線の研究者による質の高い論文を掲載し、また埋もれていた名品を数多く紹介してきました。
2008年4月には、1350号が発行されています。


国華目次草稿
新たに発見された国華創刊号【目次】の草稿>
「創刊の辞」は天心執筆といわれていたが、それが裏付けられた



余談ですが、「国華」は豪華で稀少な研究誌で、揃いの古書価が格段に高いことでも有名です。
「日本の古本屋」で検索してみましたら、明治22年創刊から平成23年(1338号)までの「大揃い」は、なんと1260万円の値がついていました。
ビックリの値段です。


この新聞記事を機会に、明治の「国華」創刊の頃について振り返ってみたいと思います。
そして、高橋健三という人物についても、ふれてみたいと思います。


まずは、「国華」創刊期の事情やいきさつを見てみたいと思います。

「名品探索百十年・国華の軌跡」という本があります。
「名品探索百十年~国華の軌跡」
平成15年(2003)国華創刊110年を記念して、水尾比呂志氏が「国華の歴史」を執筆まとめたものです。
そこには、国華草創期のことが詳しく、興味深く記されています。
47ページの冊子本ですが、残念ながら非売品です。

本書から、創刊事情を要約すると、このようです。

「国華」は、明治22年(1989)10月に創刊された。

当時は、フェノロサ、天心を美術取調係として欧米に派遣したり(明治19年)、東京美術学校を設立したり(明治20年)、全国宝物取調局が設置されたり(明治21年)、「日本美術再発見」の時流にあった。
この時流に棹さして「国華」の創刊は、当代の官野の有識者を糾合した、一大文化プロジェクトの事業であった。
国華創刊を推進したのが、天心・岡倉覚三と、自恃・高橋健三であった。

岡倉・高橋が構想したのは、精巧な図版と充実した論考を兼ね備えた、超豪華版の月刊誌。
創刊号は、「定価金壱円」という、高価なものであった。
原色図版は、木版色摺りで当代一流の名工彫り師がこれにあたり、百三十度摺りから百六十度摺りという、超絶技巧を極めたものであったという。
単色図版は、当代最新写真技術を米国で習得した小川一真の撮影写真を用い、コロタイプ印刷という明暗濃淡の微妙さを再現できる精密な印刷法を用いた。

ここに、国華創刊号の目次と、豪華な図版を掲載しておきますので、ご覧ください。

国華創刊号目次
国華創刊号・目次

伴大納言絵詞
国華創刊号・木版原色精巧図版(伴大納言絵詞)

岩佐又兵衛筆美人図
国華創刊号・木版原色精巧図版(岩佐又兵衛筆美人図)


このようにして船出した「国華」でしたが、その後順風満帆とはいかなかったようです。
なんといっても贅を尽くした雑誌で金がかかりすぎ、赤字続きで直ぐに経営難に陥ったのです。
その難局を救ったのが、朝日新聞社の社主、上野理一と村山龍平の二人でした。

上野理一(右)と村山龍平(左)
村山龍平(左)と上野理一(右)

「国華の軌跡」には、上野、村山の救済のいきさつを語るエピソードが語られています。

「高橋は無類の凝り性、岡倉は放膽な贅沢好みで、二人とも編集費や印刷費、製本費のことなど念頭に置かぬような」作り方だから「その出来あがりの見事なことは舌を巻くようなもの」と感嘆されても、初手から赤字続きにならざるを得なかった・・・・

発刊数年後に、「国華」の文化的意義を説かれて、経営の懇請を受けた村山は、

「新聞社として国華を引き受けることは危険であって、我らのとらぬところである。
しかし、これは新聞社と切り離し、自分と上野君とが、個人の力でお引き受けすればよかろう」

上野もまた、

「このようにして両人揃ってお引き受けしました限りは両人とも破産しませぬ限り、終生変わりないものとお考えくださってよろしいと思います」

このように語ったと云います。

こうして、「国華」は、明治24年(1891)秋から、上野理一と村山龍平によって経営されることになったそうです。

これが「国華」が、現在も朝日新聞社の重要な文化出版事業である所以です。

高橋健三は、明治26年からは朝日新聞社の主筆格の客員となり、「国華」事業にも携わりますが、その後、明治31年に肺結核のため42歳で早逝してしまいます。

一方、岡倉天心は、東京美術学校長をつとめていましたが、明治31年に怪文書などの天心排撃事件が起こります。
天心は美術学校長を非職となり、日本美術院を設立することはよく知られるとおりです。
天心も国華の監修どころではなくなってしまう状況に陥ります。

国華の編集体制も、根本的な立て直しを迫られ、明治34年(1901)には主幹という職位が設けられます。
弱冠28歳の瀧精一が、主幹の任に就きますが、経営状況は大変苦しかったようです。
瀧精一は、その後、昭和20年(1945)に73歳で逝去するまで、44年の長きに亘り主幹をつとめます。
東京帝国大学の美術史学の教授で、美術史学界の重鎮であった人です。

明治38年には、村山、上野両人が国家のために出資した資金の累計は、なんと2万5千円余に上っていたそうです。
これがいかに巨額であったかは、この年の朝日新聞社の1ヶ月の広告収入の総額が3万2千円余であったそうですから、容易に想像がつきます。

「国華の軌跡」は、このように語っています。

「収益なき文化事業とも云うべき国華の存続のために、かかる大金を拠出し続けた村山・上野両人の、篤志と熱情には感嘆のほかはない。」


この後も、そもそも不採算文化事業である「国華」事業は、厳しい経営状況を乗り越えていかざるを得なかったようです。
なかでも関東大震災、太平洋戦争前後には、廃刊の危機に見舞われたとのことです。
このあたりの歴史にふれているときりがありませんので、国華草創期の話は、これぐらいにしておきます。

「国華」は、幾多の困難を乗り越えて、現在も毎月発刊継続され、日本を代表する権威ある美術研究誌の地位をゆるぎなきものとしています。


ここまで、「国華」創刊期の事情やいきさつについて振り返ってみました。
【その2】では、「国華」の創刊と経営に、高橋健三が果たした役割や功績について、ふれていきたいと思います。