観仏日々帖

新刊・旧刊案内~「小川晴暘と飛鳥園」 月刊大和路ならら 3月号


月刊誌「大和路ならら」に、「小川晴暘と飛鳥園」と題する特集が組まれました。

「月刊 大和路ならら」 2013年 3月号

地域情報ネットワーク刊  400円

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ちょうど、この観仏日々帖のメインサイト・神奈川仏教文化研究所HPの「埃まみれの書棚から」で、「奈良の仏像写真家とその先駆者たち」という連載を終えた処です。
連載で、「小川晴暘」について採り上げたばかりですが、この月刊誌が出たのが「小川晴暘」の話の掲載が終わってしまってからのことでした。

そこで、こちらの観仏日々帖「新刊・旧刊案内」の方で、追加紹介ということにさせていただこうと思います。

わざわざご紹介したのは、この特集、大変によくまとまった充実した内容だからです。
奈良の仏像写真家「小川晴暘」のことを知りたいと思えば、まずは、この一冊で充分と云っても良いものだと思います。

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この「月刊・ならら」の特集号が、「奈良の仏像写真家とその先駆者たち」の連載よりも先に発刊されていたなら、私も色々手間をかけて、「小川晴暘」のことを調べてまとめることはなかったように思います。
この特集号の「つまみ食い」で、楽勝に書けたのに・・・・・というのが本音の処です。

流石に、プロの編集者の構成です。
「小川晴暘」の人と仕事について、見事にコンパクトにまとめられています。

特集のキャッチコピーは、

「仏像写真を芸術に高めた男」

ですが、このワンフレーズが、小川晴暘の写真の全てを、一言で語っていると云ってもよいでしょう

全27ページにわたる特集です。
内容については、「目次」をご覧になってください。
目次のインデックスをみれば、小川晴暘の人と仕事について、いろいろな角度から、採り上げられているのがよく判ると思います。

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小川晴暘については、「埃まみれの書棚から」で詳しくご紹介しましたので、ここで改めてはふれないでおきます。

神奈川仏教文化研究所HP埃まみれの書棚から「奈良の仏像写真家とその先駆者たち」(第160回161回)をご覧ください。


この特集号で、私が特に面白かったのは、

「小川光三さんに聞く、〈わが父、小川晴暘〉」

という話でした。
ご存じのとおり、小川光三氏は、晴暘の三男で、現在の「飛鳥園」社主です。
肉親の眼から見た小川晴陽のことが語られていて、大変興味深く読むことが出来ました。

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ついでの話ですが、「父・小川晴暘を語る」という形の文章は、このほかに二つあります。

ひとつは、最近刊行されたばかりの、
「小川晴暘の仏像」2012年12月 毎日新聞社刊
に、
小川光三氏による「父、小川晴暘と飛鳥園」という文章が掲載されています。

もうひとつは、
「アジアの彫刻」1968年3月 読売新聞社刊
に、
晴暘の長男・小川光暘氏の「父・晴暘と古美術写真」と題する文章が掲載されています。
小川光暘氏は、同志社大学の日本美術史の教授として著名であった人です。(1995年没)

それぞれに、「小川晴暘という人」を知るには、興味深い文章です。


今回の新刊案内、「月刊 大和路ならら~小川晴暘特集号」は、仏像写真の世界や、小川晴暘・飛鳥園に興味関心のある方には、必携だと思います。
大変面白く、是非お手元に置いて読んでみていただきたいと思い、紹介させていただきました。

この月刊誌、一般の書店やAMAZONでは、扱っていないようですが、「月刊大和路ならら」のHPから、ネットでバックナンバー購入申し込みが可能です。


トピックス~鑑真和上坐像の御身代わり模像の制作を巡る話【その2】


ここからは、今回の「美術院での新事実判明」に関連するであろう、鑑真和上坐像についての伝承や、これまでの議論を、少々つまみ食いしてみたいと思います。

鑑真和上の肖像を造ったという話は、「唐和上東征伝」という古記録に出てきます。

「唐和上東征伝」というのは、淡海三船(おうみのみふね)が著した、鑑真の渡日決意から日本渡航、入滅までを記した伝記です。
日本における鑑真の崇拝者であり、官僚でもあった淡海三船が、鑑真が唐から伴った弟子の思託が著した「広伝」三巻をもとに、一巻本の見事な伝記文学にまとめたものです。
鑑真入滅(天平宝字7年・763)の16年後、宝亀10年に撰せられていますので、その信頼性は高いものとされています。

唐大和上東征伝~観智院本
唐大和上東征伝~観智院本

「東征伝」には、このような物語が記されています。

天平宝字7年(763)春、大和上の弟子・忍基は、ある夜唐招提寺講堂の棟梁が砕け折れる夢を見た。
忍基は、大和上の遷化が近づいていることだと思い、多くの弟子を率いて鑑真の肖像を造った。
5月6日、大和上は西に向かって結跏趺坐したまま76歳の生涯を閉じた。
死して3日を経っても頂にはなお体温があるように感じられたので、葬ることがためらわれたが、やがて火葬に付した。
大和上は、かねがね弟子の思託に、
「願わくば坐死したい。そして戒壇院に影堂を立てるように」
と語っていた。


鑑真和上墓所
鑑真和上墓所

鑑真が生きているうちに、その弟子たちが寄り合って鑑真の肖像を造った、
と書かれているのです。
確証はありませんが、この肖像が、現存する鑑真和上坐像だと考えられています。

まだ生きているうちに、「死ぬのを予期して肖像を造る」というようなことが、本当にあるのでしょうか?
死後に「遺徳を偲んで肖像を造る」というのが普通のような気もします。
これは、作り話なのでしょうか?

鑑真和上像が造りはじめられたタイミングについては、色々な考え方があるようです。

例えば、町田甲一氏は、

「和上示寂直後に(当時、生前に寿像を造るという風はなかったと思われるから)、親しくその謦咳を接しえた人によって、その風格を写して造られたものは明らかである。」
(町田甲一著「古寺辿歴」 1982年 保育社刊)
と述べていますが、

一方、毛利久氏は、

「像の作者は、おそらく和上の身辺にあった人であり、しかも死去の直前にこの像が作られたという古い伝えも、作品の迫真性のゆえに信じてよいであろう。」
(毛利久著 「日本の美術・肖像彫刻」 1977年 至文堂刊)
と記しています。

鑑真和上像...鑑真和上像
鑑真和上坐像

真実については、今になっては、誰も判らないのですが、
その解明に関係がありそうな話を、ちょっとピックアップしてみたいと思います。


まずは、像の造形表現についてです。

いま残されている「鑑真和上坐像」をじっくり眺めると、その他の高僧の肖像彫刻と較べて、造形表現に大変特徴があることが、これまでも指摘されていました。

一言でいうと、「超写実、超リアル表現」であるということです。

閉じた眼の左右の大きさははっきり違いますし、眉の毛や口辺の髭、まつ毛なども克明に丁寧に描かれています。
なんと少しよじれた耳の毛まで、一本一本描き込まれています。
糞掃衣(ふんぞうえ)~袈裟のこと~の模様や繋ぎ目なども精密に描かれています

鑑真像~まつ毛
鑑真像~まつ毛

鑑真像~髭....鑑真像~耳の毛
鑑真像~髭            鑑真像~耳の毛

天平時代以後、高僧の肖像彫刻は数多く造られていますが、いずれも理想化、象徴化した表現の要素がみられます。
これほどの写実に徹した例は鑑真像以外には見られないのです。

どうしてこのような異常ともいえるほどの写実的な肖像が造られたのでしょうか?


この疑問に対して、かつて、興味深い考え方が示されました。

小杉一雄氏が提起したもので、

「鑑真和上像の造像成立の背景には、中国唐代の高僧にみられる真身像(ミイラ)やそれから派生した加漆肉身像、遺灰像(ゆいかいぞう)の存在が大きく影響している。」

という考え方です。

・「真身像」というのは、遺体がそのままミイラ化した像です。

・「加漆肉身像」というのは、自然にミイラ化するのは難しいので、遺骸を麻布で覆い固めて人工的に肉身固化(ミイラ化)をはかった像です。

・「遺灰像」(ゆいかいぞう)というのは、火葬した死者の遺灰を塑土に混ぜて造る像です。

加漆肉身像(広東省南華寺)8世紀
加漆肉身像(広東省南華寺)8世紀

何やら、随分気味が悪いのですが、中国唐の時代には、高僧は真身像になるはずだという思想があり、このような像を供養礼拝する風習が生じ、こうしたなかで高僧の場合は加漆肉身像を造り、お堂に安置し礼拝するようになったのだそうです。

小杉氏は、「唐大和上東征伝」のなかの、
「我若し終亡のときは、願わくば坐死せん」
という、意味深い遺言が記されていることに注目しました。

・鑑真和上にも、「坐したままの状態で死す」という、唐時代の高僧真身像化への思いがあったに違いない。
・真身像ではなく肖像をもってかえられたが、耳の毛まで描く超写実像になっているのは、このような思想背景があったからだ

と考えたのです。

この説は、今から75年も前の昭和13年(1938)の出された説です。
随分、昔の話なのですが、大変鋭い切り口からの考え方だと思います。
「肉身像及び遺灰像の研究」「鑑真和上の肉身像説と朱櫃入定説」という論文です。
(小杉一雄著「中国仏教美術史の研究」所収 1980年 新樹社刊)

奈良美術の系譜
この論文は難しげなのですが、その後小杉氏が出された美術エッセイ「奈良美術の系譜」(1993年平凡社刊)に、
「鑑真和上の弟子たちは和上をミイラにしたかったのだ」
という標題で、その考え方がやさしく判りやすく語られています。


このような主旨を述べられていたのは、大変印象的で、なるほどと思いました。

鑑真像の超リアルな表現の理由を考えるには、見逃すことのできない二つの事情がある。

第一の事情は、
数回に及ぶ艱難辛苦の航海の末にやっとのことで日本に辿りついた、鑑真と弟子たちの緊密で、切っても切れない師弟一丸の関係である。
「あの徹底した写実に対する熱情は、弟子たちの切実な思い以外の何物でもあるまい。
これが第一の事情で、高僧の死後、遺徳を偲んで造る一般的な肖像彫刻とは全く違うわけである。」

第二の事情は、
鑑真像が、弟子たち自らが制作した像と考えれば、「造る方も中国人、造られる方も中国人」という日本の肖像彫刻史に全く類例のない造られ方の像であるということである。
この像は、日本という場所で造られたが、(弟子にも彫刻の技量をもった者がいたに違いなく)その本質は完全に中国製なのである。

このような理解のもとに、次のような考え方を述べています。


「従来の美術史家は、この肖像を天平時代の彫刻として見るが、私は以上に述べた二つの事情から、この肖像を盛唐時代の代表的中国肖像彫刻と見るべきであると思う。
そうなると、視野が全く違ってくる。
天平彫刻としてならば、前例のない我が国最初の肖像彫刻であっても、盛唐時代の中国肖像彫刻としてならば、少なくとも4世紀以来の中国肖像彫刻史中のものとなる。

そして、私の研究によれば、当時の僧侶の肖像は、僧侶のミイラである肉身像や、肉身像に乾漆彫刻の技法を加えた加漆肉身像の存在を無視しては考えられないものなのである。
つまり鑑真の弟子たちが異常なまでの写実に徹して、生くるが如き鑑真像の造立に情熱を傾けた理由は、彼らの念頭に当時の中国の僧侶としては常識である、肉身像の存在があったからであると私は思うのである。」

「ウーン、なるほど」と、ちょっと唸ってしまいました。
私には、結構、説得力のある考え方だと思いました。


さらには、こんな話もあります。
昭和10年の修理の時に。鑑真像の内部の頭部から腹部にかけて白い粗い砂が塗られていることがわかりました。

小杉氏は、
「この白い粗い砂こそは、鑑真和上の骨灰に違いない。」
と考えたのです。


「お骨はお墓に葬ったものの、弟子たちとしては、せめて骨灰を鑑真像の内部に塗りつけずにはいられなかったのであろう。
そうすることで、鑑真像は生くるが如き肖像であるとともに、鑑真和上の遺灰像としての性質も兼ねそなえることになって、内容外観ともに理想的かつ究極の肖像となり、弟子たちの目にはますます坐ますが如く映ったに違いないと思うのである。」

と述べているのです。

これこそ、科学的な分析調査でもしてみないと、なんともわかりかねる話で、「謎また謎」ということになるのでしょう。
皆さん、どのように感じられるでしょうか?


もうひとつ、大変興味深い話があります。

鑑真和上坐像は、その昔は、紙で造られた像だと考えられていました。
頭頂部、胸、膝頭などの破損部分が、紙張りで補修されていたことや、軽量であることから、紙製と思われたようです。
12キログラムしかありません。

昭和10年(1925)に、鑑真像が修理された時、この像が紙製ではなく「脱活乾漆像」であることが判明しました。

昭和10年修理時の写真...昭和10年修理の写真
昭和10年修理の写真

当時、このことが判明したのは、結構な驚きであったようで、安藤更生氏が、
「唐招提寺鑑真和上像は夾紵像なり」
(安藤更生著「奈良美術研究」所収 1962年校倉書房刊)
と題する論文を発表したりしています。
「夾紵像」とは、「脱活乾漆像」のことです。

麻布の層が極めて薄いことも、この中で指摘されています。
修理時の、像底からの写真を見ると、厚みが薄いことがよく判ると思います。
それで像が軽いのかもしれません。


こうして、「唐代和上東征伝」の鑑真入滅のときの話や、小杉一雄氏の「鑑真和上像制作についての考え方」などなどのエッセンスを振り返りながら、
最近の新聞報道で報ぜられた事実を重ね合せていくと、いろいろな「想像」「空想」が、頭をよぎって来るようです。


私も、こんな話を知るまでは、鑑真和上像は「天平時代の乾漆像の素晴らしい作品」としか思ったことはありませんでした。
誰が造ったのだろうか? とか
生前につくったのか、死後につくったのか?
などということは、考えたこともありませんでした。


もう一度、今般、美術院の鑑真和上坐像模像制作の過程で判明した事実を、復習してみたいと思います。

ポイントは、

・木屎をへらで造形せず、手の指で形を整えている。
・麻布を張った段階で細部まで造形されており、木屎漆の層が大変薄い。
・彩色の上から、油を塗布している。

という技法が、我が国の脱活乾漆像制作技法上類例がないということでした。

そして、このことは、日本の仏工などの手によるものではなく、
「唐渡来の弟子たちによって、鑑真像が制作された可能性が考えられる。」
というものです。

鑑真和上像「唐大和上東征伝」の云う

「弟子忍基は、大和上の遷化が近づいていることだと思い、多くの弟子を率いて鑑真の肖像を造った。」

という記述が、作り話ではなく、信憑性を帯びてきたようです。

こんな話も聞いたことがあります。

「鑑真像のあのリアルな表現は、本物のモデルを前に置いて写していくという造り方でないと、絶対にできるものではない。
死後に、生前の姿を再現した造形とは、どう見ても考えられない。」


やはり、「東征伝」に伝えるように、生前に弟子たちが、懸命に克明に師・和上の姿を写しとったのが、鑑真和上像だと思いたくなってきます。


また、小杉一雄氏の云う、

・鑑真像は、「造る方も中国人、造られる方も中国人」であった。
・中国の高僧を祀る真身像や加漆肉身像の思想を背景に、弟子たちが異常なまでの写実に徹し、生くるが如き鑑真像を造立した。
・当時の中国の僧侶としては、このように造るのは常識であったろう。

という所説が、今般の新事実の判明によって、長らくの時を経てまた、俄然輝きを放ってきたように思えるのです。

鑑真像が麻布層も木屎漆層も薄く、大変軽量に造られているということなどは、

鑑真和上の弟子たちが、折々の場面で「師・和上は、共に坐ます」ことが出来るように、持ち運びしやすくするためもあったのだろうか?

などと、勝手な想像・空想も逞しくしてしまいます。


私は、鑑真和上坐像は、博物館などで何度か観たことがありましたが、数年前に機会があり、御影堂のお厨子の中に安置されたお姿を、大変静かな雰囲気の中で拝する機会がありました。
そこで、じっと拝していると、

「生けるが如くに、静かにそこに坐まします。」

そんな、不可思議な感覚がよぎった記憶があります。

鑑真像の安置された姿


今回の、美術院の鑑真和上坐像の模像制作によって、新たに知ることができた事実は、
私たちを、
鑑真和上が艱難辛苦の上に日本に渡来し、その生涯を終えた、いにしえの奈良の時代に、もう一度、我々を引き戻してくれたような気がします。

また、鑑真和上やその弟子たちの心情や想いに、今一度、心を寄せて想像したり、空想したりという、ロマンの世界へ導いてくれたようにも思いました。