観仏日々帖

トピックス~「国華」に掲載、秘仏・百済寺十一面観音像の調査論文


「謎の秘仏」と云ってもよいのではないでしょうか?

その「近江・百済寺の十一面観音立像」の調査報告論文が、「国華」最新号(1407号・2013年1月刊)に掲載されました。

百済寺十一面観音像(国華掲載)
百済寺十一面観音像(国華掲載写真)

この号は、「近江の仏像 特輯」で、全て近江の仏像の解説論文です。

国華1407号目次
国華1407号目次

「近江 百済寺の十一面観音について」という標題の論文が、掲載されています。
伊東史郎氏の執筆です。
この論文が、近々、「国華」に掲載されるという話を、同好の方から数か月前に聞いていましたので、興味津々で楽しみにしていました。
早速、図書館で閲覧してきました。

読んでみて、ちょっと驚きました。
伊東史郎氏はこの論文で、百済寺十一面観音像の制作年代について、

「白鳳時代の金銅仏と間に、より親近性がある。」

と述べ、その時代にこのような木彫仏があった可能性に言及しているのです。


ご存じのとおり、滋賀県東近江市にある百済寺は湖東三山の一つに列せられる古刹です。

百済寺山門..百済寺本堂
百済寺山門                       百済寺本堂    .

本尊・十一面観音立像は、55年に一度ご開帳の秘仏で、文字どおり厳重に秘仏が守られてきたことから、十分な調査がされたことがありません。
制作年代についても、平安前期と云われたり、奈良時代と云われたりしていました。
この一木彫が、もし奈良時代以前の制作であるならば、大注目の仏像です。
しかし、厳重秘仏でよく調査もされていないのですから、「謎の仏像」と云っても良い仏像だと思います。


平成15年(2006)9~10月に、湖東三山一斉御開帳があり、西明寺・薬師如来、金剛輪寺・聖観音菩薩と共に、百済寺・御本尊のご開帳がありました。
この時55年ぶりに、百済寺・本尊十一面観音像が、ご開帳されたのです。
私も、勇んで拝観に出かけました。
大変な賑わいで、お堂の中の人ごみの間をぬって、5~6メートル先の厨子に安置された2メートルを超える立像を拝みました。

その時は、やや遠くからでよく見えなかったのですが、

「平安初期一木彫の厳しさ、迫力が感じられないけれども、もっと古いのだろうか?逆に時代が下がるのだろうか?
出来はそれほどよくないようだが、シルエットや衣文などは古様な感じのする仏像だなあ。
いつごろの制作かと云われても、よく判らない。」

というのが、率直な印象でした。

そして、このご開帳を機に、NHKの「にっぽん心の仏像百選」に、この観音さまが採り上げられました。
写真で見ることもなかなか難しかったこの十一面観音像の姿が、TV映像で放映され、この像に注目されている方々は、大いなる関心を持ってご覧になったのではないかと思います。

NHK放映像...NHK放映像
NHK[にっぽん心の仏像]放映の百済寺十一面観音像

さて、伊東氏の調査論文のご紹介に入る前に、
これまでに、この「厳重秘仏について採り上げられ写真掲載された本」について、紹介しておきたいと思います。

近江愛知郡誌掲載写真百済寺・本尊十一面観音の写真図版が掲載された最も早いものは、昭和4年1929刊行の「近江愛知郡誌」に載せられたものです。
右の写真です。
不鮮明な写真で、これでは何とも云えないというようなものだと思います。

本文では、
「推古天皇法興元年聖徳太子の御願により創建され、十一面観音を本尊とし・・・・」
という、明応7年火災再建時の勧進帳序文の寺伝を紹介しているだけですが、掲載写真の下には「藤原時代制作」と記されています。


その後、本尊十一面観音の写真が掲載された本が出たのは、なんと60年後の平成元年(1989)ことでした。

「近江の隠れ佛~えち三十三佛巡禮」(能登川青年会議所編集発行・法蔵館刊)という本です。
この本は、能登川青年会議所のメンバーが、お寺や地元の人々からの聞き書きを中心に、郷土の未指定仏像の報告書として刊行したものです。

近江の隠れ佛掲載写真そういういきさつであったからでしょうか、厳重秘仏の本尊・十一面観音像の開扉撮影が許されたようで、側面上半身写真が掲載されています。
右の写真です。
本書には、斉藤望氏が、「近江愛知の仏たち」という解説を執筆、百済寺十一面観音像についても言及されています。

詳しく調べてみないとわからないが、としながらも、

「奈良時代の制作とも受け取れるところが見られる」

と記されています。

同じく斉藤望氏執筆の「湖東の仏たち」(「仏像を旅する~東海道線」至文堂1990年刊)にも、同じ写真が掲載されていますが、ここでは
「立ち木仏として造られ、ノミ跡を残す霊木化現の仏像である」
旨の記述だけで、制作年代には言及されていません。

もうひとつだけ、本像の写真が掲載された本があります。
「東近江市史・愛東の歴史 第1巻・資料編」で、平成15年御開帳後の平成20年(2008)の刊行です。
ご覧のような正面、頭部、下半身の写真が掲載されています。

東近江市史掲載写真
東近江市史・愛東の歴史~掲載写真

解説は榊拓敏氏で、


「頭部を前方に突き出す点や、両手の大半を含んで頭頂から蓮肉部までを一材から彫出する点、さらには裙の衣文の特徴から、本像の制作年代は奈良時代後期から平安時代前期頃を想定するのが妥当であろう」

と、述べられています。

これまで、百済寺の本尊・十一面観音について言及したものは、多分これだけしかないのではないかと思います。

針葉樹で造られた大型一木彫像といえば、普通は平安時代の仏像という処ですが、いずれも奈良時代に遡る制作である可能性を示唆しています。
無指定で修理の多い仏像ながら、興味津々の謎の仏像だと思うのですが、如何でしょうか?


前置きは、ここまでにして、伊東史郎氏の調査論文をご紹介したいと思います。

この調査は。東京文化財研究所の津田徹英氏を研究代表とする「出光文化福祉財団助成金」により行われ、像底や内刳り内の調査などかなり詳細に実施されたようです。

論文では、形状、構造、保存状態、修理状況などについて、詳細に述べられています。
その内容についてふれていくと、膨大なものになってしまいそうなので、詳しい内容は「国華」を読んでいただくことにして、ここでは伊東氏の制作年代などについての見解だけを、ご紹介したいと思います。

伊東氏は、造立時期の判断材料として、本像の「白鳳時代の小金銅仏との類似性」を多く指摘されています。

例えば、次のような点が、指摘されています。


・天冠台両側と臂釧外側に置かれた八瓣花に近い花文は、法隆寺献納宝物菩薩像(168号・179号)、兵庫・一乗寺観音菩薩像にみられること。

天冠台....臂釧
百済寺十一面観音・天冠台                  臂釧       .

顔面部....献納宝物168号像
百済寺十一面観音・顔面部             献納宝物168号像      .

・顔貌は、小さい目、短い鼻梁、小さく厚い唇などにより、童子を思わせる。
このような特徴は、木彫像では大阪孝恩寺の弥勒仏像・薬師如来像、小金銅仏では法隆寺献納宝物153号如来像、168号菩薩像に比較的よく似ている。

・耳の内側が枝分かれした植物文のようであるが、このような耳は、飛鳥時代以来木彫像には例がないが、小金銅仏ではよくある。
大分・長谷寺観音菩薩像、柞原八幡宮如来像、一乗寺観音菩薩像のものに非常に似ている。

側面耳部......大分長谷寺観音像
百済寺十一面観音・側面耳部             大分長谷寺観音像     .

そして、制作年代の推定については、次のように述べられています。

「本像の造形は、同じ一木彫像でありながら、鑑真渡来を契機に始まり平安時代前期に盛行するそれに比べ、さまざまな点で異質で、むしろここに述べたように、自鳳時代の金銅佛との間により親近性がある」

「白毫相や三道相のないことを含めて、その特徴が初期一木彫像の通念からはずれるところが多く、むしろ自鳳時代金銅佛に通じる要素が少なくない。
鑑真渡来より前の限られた木彫像遺品に本像に類似するものがないので、早急な結論はつつしむべきとして、奈良から離れているという地方性に配慮しつつも、いくつかの共通鮎からして、その時代相を反映していることを考えてよいのではないだろうか」

側面.......背面
百済寺十一面観音・側面             背面                       .

また、後頭部及び體背部から内刳りを入れ、體部の内刳りは共木彫出の蓮肉部下に抜けていること(背板で蓋)などにも着目した総合結論として、

「百済寺十一面観音像は、その技法構造が一見古式の一木造として、特段変わったところがなさそうだが、除去部分の多い木取りや蓮肉下に抜ける内割りなどは特異といえ、またその細部造形が初期一木彫像と同列に扱えない要素の多いことは上述のとおりである。

これに匹敵する木彫像を現状で指摘することが難しいので、断定するには至らないけれど、化佛・装身具の文様・顔貌・耳などの表現につき自鳳時代の金銅佛との間にある平行現象に著目したというのが本稿の趣旨であつた。」

「その時代、このような木彫像のあつたことを證するには、別の角度からの検證も必要であろう。
非破壊という條件はあるものの、もし修理などに際して試料が得られれば、放射性炭素年代測定などを始めとする科學的な調査が可能になり、そこで得られる概略の時代把握が様式史的理解を補うのに役立つのではないかと思う。」

このような結語で結ばれています。

明快ではないものの、白鳳~奈良時代制作の可能性を示唆されているように読み取れます。

白鳳までを視野に入れるとすると、この像が、飛鳥白鳳の木彫用材であるクスノキ材ではなく、針葉樹材でつくられていることがちょっと気になります。
2つのサンプルの調査によると、1つがヒノキ材ともう1つがカヤ材であるとのことです。(根幹部と蓋板が別の樹種かも知れないとのこと)


いずれにせよ、この百済寺・十一面観音像は、従来の一木彫というものの常識から脱して、新たにいろいろなことを考えさせてくれそうな、「謎の秘仏」というように思います。

ご参考までに、この十一面観音像の法量を掲載しておきます。

百済寺十一面観音・法量
百済寺十一面観音・法量(国華掲載~単位:cm)


この仏像のことに思いを巡らせていると、奈良時代以前の制作に遡る可能性が強く云われている、二つの寺の仏像のことを思い出しました。

吉野の世尊寺・十一面観音像と、大阪の孝恩寺の仏像群です。
ともに、興味深い開基伝承を持つお寺です。

世尊寺は比蘇寺・現光寺・栗天奉寺とも称し、『日本書紀』に記される放光樟像を安置した吉野寺に起源をもつとされる寺です。
この十一面観音像が、その放光樟像だという伝承もありますが、丸みのある衣文には乾漆像に通じる捻塑的表現が認められるなど、奈良時代の制作といわれる像です。

世尊寺....世尊寺十一面観音像
世尊寺            世尊寺十一面観音像     .

孝恩寺は、行基開基と伝えられる寺で、木積という地にあり、木積観音とも呼ばれています。

孝恩寺河内の地に生まれた行基にとって、造寺造仏などに大量に必要とした木材の集積地であったのが、この木積の地であったと云われています。

大変「アクの強い、クセのある」異様な空気感をもった仏像群です。

一般的には平安前期と云われていますが、奈良時代の制作ではないかという見方をしている人も結構いる仏像群です。


孝恩寺像...孝恩寺像
孝恩寺 弥勒菩薩坐像           跋難陀龍王立像         .


そして、近江・百済寺は、聖徳太子の開基と伝えられています。

本尊・十一面観音は、法興元世に聖徳太子自ら瑞香木を刻んだ立ち木仏という伝承で、「植木観音」とも呼ばれています。
この近江八幡市から東近江市にかけての地には、聖徳太子開基伝承を持つ寺々が密集しています。
百済寺をはじめ、長命寺、願成就寺、石馬寺、西明寺、石塔寺などです。

このあたりは古くは法隆寺の所領であった地で、田中日佐夫氏は自著「近江古寺風土記」で、「聖徳太子のテリトリー」と名付けています。

聖徳太子のテリトリー
東近江の聖徳太子開基伝承の寺々(聖徳太子のテリトリー)

こうした開基伝承と、古代における重要拠点であった地に伝わる仏像に思いを巡らせると、「これらの仏像の不可思議さ」に想像を逞しくしてしまいそうです。

・百済寺の本尊・十一面観音像は、いつごろ造られた仏像なのだろうか?

・奈良時代以前に遡ることができる木彫像の世界とは、どのような世界なのだろうか?

こんなことに、ますます興味・関心が深まっていってしまいます。

新刊・旧刊案内~町田甲一著「天平彫刻の典型」



「天平彫刻の典型」 町田甲一著

昭和22年(2047年)12月 座右宝刊行会刊 54ページ 25円

天平彫刻の典型


終戦後、間もなく出版された、薄っぺらい文庫本です。

ただ、著者・町田甲一氏にとってみれば、きっと思い出深い、忘れられない本であろうと、私は思っています。

町田甲一町田甲一氏が、76歳で亡くなってから、もう20年余になり、その名を知らない人も多くなってきているのかもしれませんが、日本彫刻史の世界では大変名の知られた学者で、多くの著作を残した人です。
私も、振り返れば、昭和40~50年代、久野健氏や町田甲一氏の仏像彫刻の著作や論文を読み漁りました。
当時、仏教彫刻史の世界では、脚光を浴びていたお二人であったと思います。
若い頃から仏像が好きで、私同様60歳を過ぎた方々にとってみれば、この二人の著作を読まなかった人はいないのではないでしょうか。


さて、「天平彫刻の典型」という文庫本は、町田甲一氏の処女出版の本です。
天平彫刻の典型
町田氏、31歳の若き頃の出版本です。
町田氏の処女出版本と云うだけなら、わざわざこの旧刊案内でご紹介させていただくほどでもないのですが、そこに書かれた刺激的内容は、結構な波紋を引き起こしました。

町田は、ここで、
「天平彫刻の芸術的理念とその典型作品」
について語っています。

その中で、法華堂・不空羂索観音像と聖林寺十一面観音像の造形を比較して、
不空羂索観音像を天平彫刻の代表作、最優秀作品と称賛し、
片や、聖林寺十一面観音を出来の悪い駄作、愚作と、徹底的にこき下ろしたのです。

このことが、聖林寺十一面観音の美しさを称賛する、当時の美術史学界の大御所、矢代幸雄氏の逆鱗に触れることになりました。
本書出版の余波は結構衝撃的で、その後の町田氏の学者人生にも影響を与えたと、ご本人も語っています。

三月堂不空絹索観音像全身....聖林寺十一面観音像
三月堂不空絹索観音像                  聖林寺十一面観音像    .

天平彫刻の第一級作品とは何か?
芸術作品として、優れた出来の良い仏像彫刻とは何か?

といった、鋭い問題提起をしたわけですが、その分、波紋を引き起こした本となったわけです。


実は、この本、粗末な文庫本のせいなのか、発行部数が少なかったのか、めったに古書店でも見つけることができない、大変珍しい本だと思います。
この本を、手に取って読まれた方は、余りいらっしゃらないのではないかと思います。

そこで、物議をかもした、この本の内容、
「法華堂・不空羂索観音VS聖林寺・十一面観音」
を、少しばかりご紹介してみたいと思います。

天平彫刻の典型・目次町田は、天平彫刻の本質、芸術理念を、
「人間を直接典型として人生主義的人間昂揚の理念の造形的表現を積極的な一目的とする」
と述べています。

抽象的で、ひち難しい言い方ですが、ヴェルフリンの美術様式論をベースにした考え方だと思います。

そして、この天平彫刻の典型とする第一級作品として、次のような仏像を挙げています。

薬師寺金堂・薬師三尊像、法華堂・不空羂索観音像・梵天帝釈天像、興福寺・八部衆及び十大弟子像、法隆寺伝法堂・東ノ間脇侍菩薩像、唐招提寺金堂・盧舎那仏像

薬師寺薬師三尊像....三月堂梵天像
薬師寺金堂薬師三尊像                  三月堂梵天像          .

興福寺阿修羅像
興福寺阿修羅像

法隆寺伝法堂東ノ間右脇侍像....唐招提寺盧舎那仏
法隆寺伝法堂東ノ間右脇侍像                  唐招提寺盧舎那仏像         .

法華堂・不空羂索観音がいかに優れた第一級作品か、
聖林寺・十一面観音像が、いかに駄作、愚作であるか、
を、二像の造形を対比する形で述べています。

全部引用すると長くなりますので、そのエッセンスだけを引用してみます。

聖林寺・十一面観音像については、このように記しています。


・かの愚作極まる聖林寺観音が、その俗受けする形式感情の故に過当の評価を受け・・・・

・聖林寺観音の、いかにも緊りのない贅肉の如き肉質感

・かの聖林寺観音が、此の部分(胸部)の盛り上げを「ぶざま」に誇張し、而もその弾力感を失って弛緩しきっている生気なき肉質感・・・・

・聖林寺観音に於ける如く、間の抜けた無生命的なものではなく(両肩両腕の線について)

・あのふやけたような、腫れぼったい寝呆け顔


「ここまで言うか、ものは程度問題」と云いたくなるほどに、聖林寺・十一面観音像を、徹底的に完膚なきまでに、こき下ろしています。


一方、法華堂・不空羂索観音像については、


「この像は、一見極めて親しみ難い像である。・・・・・
併し乍ら、こうした第一印象にも拘らず、この像の優秀さは見逃し難い。
私は、ややもすれば斯かる第一印象の故に親しまれ難いこの像の不幸を、彼の俗受けのする聖林寺観音の過当なる好遇に対比して、些か弁護してやりたいと思う。」

と述べ、具体的にはこのような言い回しで絶賛しています。

・この羂索観音にあっては、豊かな肉取りの中に、適度の緊りを示し・・・・・

・特にその胸部の表現には、些かの誇張もなく、然も確実な人間観察に基づいて現実に生きている人間の、それも壮年の逞しい胸部を再現している。

・このような逞しい力強い八本の腕が、また実にしっかりと胸部の両側面に結合しており、此等多数の腕を持てあますが如き感は些かも示されていない点は、この作者の非凡さを物語っているものにして、・・・・・

・顔貌の表現は、・・・・・豊かな肉づきの中に凛とした緊張感を示している。・・・・
凛とした力強い男性の容貌を遺憾なく彫出しているものである。


ベタ褒めで、特に緊張感と緊りある造形表現に、芸術作品としての高い評価を与えているように思えます。


そして、聖林寺観音像の世の絶賛について、このような痛烈な批判を浴びせかけています。

天平彫刻の典型・内容「(天平彫刻の芸術理念を)完全に忘れ去って、低級なる俗見が可成り行われている事実がある。
而も、かかる素人者流のディレタンチズムが、斯界の御歴々の観照法の中にも廔々見受けられることは、一層遺憾としなければならない。」

「かの愚作極まる聖林寺観音がその俗受けする形式感情の故に、過当の評価を受け、分不相応の賛辞を得ている事実に至っては、まさに我々は唖然足らざるを得ないのである。
或る学者は、この駄作をギリシャの名品に比すべきものとし、また或る学者は、之にあらずば他のすべての天平の遺品を失うも以て悲しみとしない旨を、臆面もなく述べている。
以て、我々の寒心する所でなくて何であろう。」

この或る学者の一人が、矢代幸雄氏であったということです。
また、「古寺巡礼」で聖林寺観音を絶賛する文章を綴った和辻哲郎にも向けられた言葉であったと思います。

聖林寺十一面観音
矢代幸雄氏は、その代表的著作「日本美術の特質」で、聖林寺十一面観音を、このように称賛しています。



「余が天平彫刻中の最美作と信じて疑わない聖林寺十一面観音像の如きも、その雄勁なる作風と誇らかな態勢とは、全東亜の最高潮を成すと思わるるが、然もすらりと立った端麗なる容姿にはもっとも女らしき優しさを含み、胸の張り腰の捻りに微妙なる嬌羞を感じさせ、更に手の指の仕上げなど、神経の細かなる味いを示して、到底敏感なる日本の作家ならでは出来そうもない、と思わせる。」


矢代幸雄矢代幸雄氏と云えば、ボッティチェッリの研究で国際的評価を得た、美術史界の大御所です。
東大卒で、東京美術学校の教授、美術研究所(後の東京文化財研究所)の所長などを歴任、芸術院会員、文化功労者にもなった著名人です。
この本が出た時は、大和文華館の初代館長職にあり、57歳であったと思います。

この矢代幸雄氏をはじめとした、聖林寺観音絶賛派に、これだけ激しく、痛烈に咬みついたら、いくらなんでもそれは怒るでしょう。
それも、30歳を過ぎたばかりの少壮の徒の発言です。
この本で、「矢代幸雄の逆鱗に触れた」というのは、「そりゃそうでしょう」と思います。


この「天平彫刻の典型」出版にまつわる話について、私は、町田甲一氏の著作、「大和古寺巡歴」(S51・1976刊)、「古寺辿歴」(S57・1982刊)で、初めて知りました。
町田は、これ等の著作で、30年ほど前の思い出話として、「天平彫刻の典型」の話を振り返っています。
そして、此等の仏像についての自分自身の見方、考え方を、当時以上により丁寧に、より判りやすく語っています。



ちょっと抜粋でご紹介します。


「(「天平彫刻の典型」の記述については)私も当時は若かったから、偶像化された権威に対する反抗といったような気負った気持ちもあって、青年らしい血気から、かなり手きびしく酷評したわけだが、しかしいまの私は若い時のように激しく酷評はしないけれども、本質的には少しもその評価を変えていない。」

三月堂不空絹索観音像「法華堂不空羂索観音の方は、暗いお堂の中に、・・・・不自然で不利状況下に、下の方から極端に見上げる形で拝せられるために、そしてまた戦前は写真撮影も、いろいろな点から充分にこの像の良さを伝え得ていなかったので、不遇にも多くの人に正しく評価されるところがなかったのである。

これに反して、聖林寺観音の方は、日本の仏像としては珍しく西欧風の一見堂々たる体躯を示し、全体として俗受けする雰囲気を持っている。
明治大正期の西欧教養主義の盛んであったころは、当時の人文教養主義者たちの好みにアッピールし、そのような人たちの共感を大いに買いえたように思われる。

当時、奈良博物館の中央のケースの中に、特別に優遇されて陳列されていたことも、大いに与って力があったのかもしれない。
そして太平洋戦争中までは、美術史の大家たちも、みなこの像を激賞していた。
しかし、もう正しく見直されていいころである。」
(「大和古寺巡歴」)

「私が最初にこの聖林寺十一面観音を酷評した当時(昭和22年)、多くの人は私を支持しなかった。
むしろ多くの人は私の評価にたいしてきわめて批判的であり、表立ってではなかったが、時に厳しく私をなじる人もいた。
矢代さんには、その逆鱗に触れて爾来長くその不興を買った。」

「最近では・・・・嬉しいことには漸時、この像の天平の絶品ならざることを認める人が多くなり、さらに多くの人が、少なくとも従来のベタ讃めの評価に批判的となり、客観的に見直そうという気持ちを、この像に対して改めて抱き始めていることである。」
(「古寺辿歴」)


この町田の文章を読んで、私は「全くその通りだ、同感!」の意を強くしました。

というのも、当時の私は「町田甲一かぶれ」とでも云って良い感じで、町田の著作は一生懸命に読み漁り、書いていること、論じていることは、無条件に大賛成という心情でありました。
町田の日本彫刻史の様式論や、仏像彫刻の芸術作品としての評価を論じたものに、惚れ込んでいたように思います。

私も、法華堂・不空羂索観音像について、このような感想を記したことがあります。


この巨像を見上げると、「沈鬱とした静謐感」「締りのある緊張感」で、我々の前に迫ってきて、「深い精神性のある優れた造型、芸術作品というのはこういう像をいうのだ」と語りかけられているように感じてしまう。

脱活乾漆像は、麻布・漆を重ねた中空の張りぼて、張子のような構造で、その分、どうしてもマイルドで軟らかな表現にならざるを得ないのであるが、この不空羂索観音像は、強くパーンと張りつめた状態にあるようだ。

ゴムマリにたとえれば、良質のゴムに空気がしっかり注入されて、張りと弾力にあふれている状態が、しっかり保たれているような感じを強く受けるのである。
これだけの巨像を、よくぞ張りのある緊張感を保って、破綻を起こさずに造り上げたものだと、その技量の見事さに賛嘆の声を上げてしまう。

町田氏に感化されたのだと思いますが、このように感じたのも、心底からの本音でありました。
聖林寺十一面観音像の方は、天平末の盛期を過ぎた爛熟というか、日没の抒情性というか、そうした「壊れかけそうな美」という感じがするのです。


さて、昨年から、法華堂・不空羂索観音像が、法華堂の修理のためにお堂から移され、新設の東大寺ミュージアムに展示されています。
皆さんご存知のとおりだと思います。
この像が、お堂を出て、博物館でガラス越しに展示されたのも初めてのことですし、
あの豪華な宝冠を外した姿で、観ることができるのも、初めてのことです。

東大寺ミュージアム展示不空羂索観音像....東大寺ミュージアム展示不空羂索観音像
東大寺ミュージアム展示・不空羂索観音像

ご覧になったご感想は、如何だったでしょうか?

私は、不空羂索観音像絶賛派でありますから、あの暗いお堂から出て、明るい白日の下で間近に不空羂索観音を拝することが出来たら、どれほど感動するだろうか!
あの素晴らしい天平随一の造型をミュージアムで観れたら、これまで以上に、その優れた第一級の仏像彫刻の美を体感できるに違いない!
そんな期待に胸ふくらませて、東大寺ミュージアムに出かけました。

果たして、明るいライトのもとで、宝冠を外した不空羂索観音のお姿を眼の前にして、私は
「ウーン!」
と唸ってしまいました。
想定したほどの感動がなかったのです。

出来の良い仏像であることに変わりないことはもちろんですが、

東大寺ミュージアム展示三月堂不空羂索菩薩像・一寸胴長に過ぎて、上体と下肢のバランスが今一歩かな?

・宝冠を外すと、肩から胸が少々過大で、ぎこちなさがあるのかな?

・胸から肩にかけて、ゴムまりがパーンと張り切ったような弾力感があると思っておいたけれど、ちょっと硬く固まったような感じがしないでもない?

・全体として、凛とした締まり或る緊張感に溢れていたように思っていたが、ライトの下では、それほどには感じないな。宝冠を外した姿のせいだろうか?

こんな気持ちになってしまいました。

たしか、町田は、不空羂索観音像は暗くて狭いお堂の中で鑑賞されるので、不利な状況にあると書いていました。
ところが、明るいライトの下に引き出された方が、ちょっと見劣りしてしまう。
暗いお堂の中の時の方が、素晴らしい造型に見えるように思えてしまうのです。
天平彫刻の第一級作品であることには間違いないけれども、「もろ手を挙げて、これぞ天平の精華と大絶賛すべき仏像」と云ってしまって良いのだろうか?
そんな疑問が、少々、心の中に忍び込んできました。

皆さんは、法華堂の中で観る不空羂索観音像と、ミュージアムで観る不空羂索観音像に、そでぞれ、どのような印象・感想を持たれましたでしょうか?

人の眼、感性というのは、なかなか微妙で難しいものだと、つくづく感じました。



話しは、文庫本「天平彫刻の典型」に戻ります。

こんな本があるのだということを知った私は、何とか手に入れて、直に読んでみたいものと、古書店を探し回りましたが、なかなか見つかりません。
やっと、ある古書目録の中にこの本を見つけ、入手するのに数年を要しました。

天平彫刻の典型・町田甲一氏サイン実は、私の手元にある本には、
「恵存 朝田純一様 町田甲一」
の、サインがあります。

当時、妻がNHKカルチャーの町田氏の講座に通っていました。
そこで「この本に、サインをもらってきてくれないか?」と頼んだのです。

妻がサインをお願いすると、町田氏は、
「随分、めずらしい本をお持ちですね。これは若気の至りの本で、新しい自分の著作に取り換えてあげましょう。」
と云われたそうです。
妻は、
「町田先生のご本は、主人は全部持っておりますので」
と切り返し、取り上げられそうになる処を、サインをいただいて帰ってきたとのことでした。

やはり町田氏も、血気盛んに過ぎた若書きの本は、「回収」されたかったのでしょうか?