観仏日々帖

新刊・旧刊案内~仏像のかたちと心―白鳳から天平へ

「仏像についての色々な本」を、ご紹介するページを設けてみたいと思います。

最近、仏像がらみの本は、仏像ブームに乗っかるように、入門書から専門書まで、ずいぶんたくさん出版されています。
そのなかで、ちょっと目についた面白そうな本を、勝手気ままに採り上げて、ご紹介してみたいと思います。
また、昔に出版された本の中で、「こんな本も出ています」とか、「この本、大変良い本だと思います」といった、ちょっと珍しい本、忘れられそうな本も、【旧刊案内】として、ご紹介できればと思っています。


まず、今回は【新刊案内】から

「仏像のかたちと心――白鳳から天平へ」  金子啓明著 

「2012年7月 岩波書店刊 272ページ 1900円

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「岩波書店刊」と書いてあるので、この本はちょっと中身が違うのかなと思って、書店の棚から手に取りました。

仏像の入門書や案内書は、最近続々と出ていますが、「よくわかる仏像」「仏像の見方」「仏像を知る」といった題名のものばかりで、どの本も似たり寄ったりの内容です。
書店で手に取ってみても、パラパラとみて、買わずに棚に返すことがほとんどです。

目次と、巻末の初出一覧をみて、「これは買っておこう」と思いました。


目次は、次のようになっています。

第1章 :白鳳の聖なる思惟―中宮寺・半跏思惟像(表現の特色技法の特色 ほか)
第2章 :極楽浄土の生命とかたち―法隆寺・阿弥陀三尊像(小金銅仏橘三千代 ほか)
第3章 :若き古代 平和と繁栄の理想仏―薬師寺・薬師三尊像(薬師寺の創建薬師寺の理想 ほか)
第4章 :美少年の内面に渦巻くドラマ―阿修羅と興福寺西金堂の仏たち(天平創建時の興福寺と伽藍西金堂の仏像 ほか)
第5章 :無限大の宇宙を浄化する光―東大寺大仏と天平彫刻(大仏以前の東大寺と仏像東大寺大仏)


長く東京国立博物館に在籍し、現在、興福寺国宝館館長の、金子啓明氏の著作です。

これらの文章の初出誌は、このようになっています。
金子氏が東京国立博物館で自ら手掛けた特別展の図録に載せられた論文と、ミューゼム誌掲載論文を大きく加筆修正されたもので構成されています。
初出誌一覧


「これは買っておこう」と手元に置いた本でも、そのうち読もうかと思いつつ、書棚に埃まみれになってしまうことが、結構多いのですが、
この本は、興味深く、新鮮な気分で、久々に一気に読み終えました。

具体的な内容については、くどくどご紹介するのも難しく、買って読んでもらうしかないと思います。

一昔前、彫刻史の研究者が書いた本は、仏像彫刻の様式展開、発展を美術史的に考え、採り上げた仏像をその中にどのように位置付けるかということを論じたものが主流でしたが、最近はそれに加えて、その仏像造立の政治的背景、思想的背景や造立関与者、典拠経典などについて論じられるようことが深められてきているように思えます

この本も、白鳳天平の名品の仏像の、「造立思想や造立精神」にスポットを当てて書かれています。

もちろん彫刻史の専門家が書き下ろした本ですから、仏像彫刻作品としての美術史的記述は、最近の研究成果などをきっちりと踏まえたもので、大変勉強になります。
しかし、私にとって新鮮だったのは、
「これらの白鳳天平仏の名作が造られた造像背景としての精神性や世界観とはどのようなものであったろうか?」
というテーマが、しっかり掘り下げて論じられていることでした。
本書の題名が「仏像のかたちと心」となっており、本の帯に「仏像の“かたち”は何を語りかけてくるのか」と書かれているとおりです。

そのあたりのことで、印象に残った部分をご紹介しておきたいと思います。

中宮寺の半跏思惟像では、

この像を白鳳期(天武・持統・文武天皇の時代、672~707)の制作とし、弥勒信仰、聖徳太子への太子信仰と法隆寺の釈迦三尊、救世観音との関連性、女性の太子信仰への傾倒などといった点を、大変丁寧に具体的事例を踏まえて論述したうえで、
造像背景に、聖徳太子思慕の太子信仰の強まりの中で、思惟する太子のイメージと、弥勒菩薩のそれとが重層する理想の姿として表現されたのが、この半跏思惟像であるという考えが記されています
中宮寺・半跏思惟像
そして、結論としてこのように結んでいます。

「中宮寺の半跏思惟像は、表現の上では飛鳥の伝統様式と白鳳の新様式が、信仰的には聖徳太子思慕と兜率天の弥勒信仰が、心理的には瞑想的な思惟と女性的なやさしさが複雑な織物のように重なっている。
そしてそれぞれの要素が、半跏思惟像という一つの仏像の中で溶け合い、絶妙に調和することで瞑想的な思惟の理想が追求されている。」



最も、鮮烈に印象に残ったのは、薬師寺薬師三尊像についての話です。

薬師三尊問題は、触れれば触れるほどややこしく話が長くなりそうなので、印象に残ったエッセンスだけを紹介します。

この薬師三尊像の造形思想として、金子氏が一番強調して訴えているのが東塔擦銘の「巍巍蕩蕩たり、薬師如来」という言葉です。
「巍巍蕩蕩」とは、高大で堂々とした様子を意味する言葉。

金堂本尊造立の目的は、病気回復、天下泰平などの現世利益的な役割を律令国家の官大寺として果たすことにあり、その本尊となるべき薬師如来像は、機能的にも、像容的にも国家の期待に応えるものでならなかったはずで、その表現こそが「巍巍蕩蕩」とした姿そのものでなくてはならなかった。

そして、
「巍巍蕩蕩とした薬師如来は、大いに誓願を立て人々を救済する。」という言葉は、天武・持統天皇によって力強く樹立された初期律令国家が、天下に対して発した誓いの言葉であって、それを具現したのが本尊の姿である。
それが仮に平城薬師寺での制作であるとしても、その理想は実現しなければならないことであったろう。

このように、論じています。



薬師寺・金堂薬師三尊像


この「巍巍蕩蕩」宣言の具象化としての薬師三尊像の姿が、そこにある。
天武発願・持統建立の薬師寺金堂三尊は、当時、「巍巍蕩蕩」そのものであったはずだ。
現三尊が、仮に天平新鋳であったとしても、この精神具現化を図ろうとしたものでなければならない。
という話は、
わざわざ言われるまでもなく当たり前のようなことなのですが、このように敢えて強調して訴えられると、何やらズシリと来るようなものを感じた次第です。


私は、薬師寺金堂三尊は、天平新鋳であろうと思っているのですが、
金子氏は、この薬師三尊像を「本薬師寺の本尊で、移座、白鳳説」を想定しています。

その考え方について、藤原京から平城京への移転に際し、大安寺が唐の新たな伽藍配置の導入など新様式に拠ったのに対し、薬師寺は本薬師寺伽藍を忠実に写し伝統を重視する姿勢をとっていることを指摘したうえで、このように述べています。

「金銅の薬師三尊像は薬師寺全体の本尊であり、寺として最も重要な仏像である。そこには、繍仏以上に本薬師寺から平城薬師寺に移さなければならない必然性がある。
仮に平城京で新しく造られたにしても、・・・・・・・・・薬師寺の伝統重視の姿勢からすれば、本薬師寺の本尊の形を全く無視して、新規の表現に切り替えることは考えにくい。」

こう言われると、ちょっとばかりそのような気分になってきます。

見飽きるほど見慣れた、薬師寺金堂三尊ですが、
今度は、「巍巍蕩蕩」という言葉を、心の中で何度も呪文のように唱えながら、眼前に拝しに行こうかしらん。
薬師寺を再訪してみねば、という気分にさせられました。


とりとめまとまりのない、新刊案内になりましたが、
本書のあとがきに記された、金子氏の言葉を最後にご紹介して、終わりたいと思います。

「この本で取り上げた仏像は、人の心と結ばれています。
それらのかたちはとても魅力的です。
しかし、そこにはかたちを支える精神性があります。
それがあってかたちは初めて生き生きとしたものになります。
この本では、形の発する言葉に耳を傾けることを大切にしたつもりです。
そして、像に宿る精神的な要素を少しでも見出すことが出来ればと思いました。」

古仏探訪~亀岡市、甘露寺・十一面観音坐像


美しく、魅力ある仏像写真を見て、期待に胸を膨らませて出かけたのだけれども、直に仏像を拝すると、「ちょっとがっかり」ということがあります。

地方の仏像を訪ねたときに、よくこうした経験をします。
地方仏探訪で著名な、丸山尚一氏が撮られた写真などは、ライトによる陰影のつけ方が上手で魅惑的で、写真うつりが大変良い地方仏が多いように思います。
「ちょっとがっかり」してしまうのは、自分自身が写真の世界の中で、仏像の魅力のイメージを膨らませ過ぎているからかも知れません。

写真を見た印象では、それほどでもなく、「まあ、訪ねてみようか」というような気持で出かけ、直にその姿を拝したら、
「予想外にびっくり!」「期待をはるかに上回る、魅力溢れる仏像だ!」
そんな、「嬉しい方に期待外れ」という仏像に出会うことは、そう数多くありません。

昨年(2011)12月、京都府亀岡の仏像を訪ねたとき、そんな少ない「想定外の素晴らしい仏像」との出会いを経験しました。
京都へ出かけたのですが、一日余裕があったので、まだ行ったことがない亀岡へ寄ってみることとしました。
他に、一度拝してみたい期待の仏像があったのですが、折角行くのでもう一つぐらい見たいと思って選んだのでした。

この仏像写真を見て、行ってみることとしたのです。
甘露寺・十一面観音坐像


「京都の美術工芸(乙訓・北桑・南丹編)」京都府文化財保護基金編(1980刊)
という本に載っておりました。
「甘露寺・十一面観音坐像、像高85㎝、
住所:亀岡市東別院町」
と、あります。

本の解説に、
「制作は9世紀末乃至10世紀初頭であろうか。ともかくこの地方で最も注目すべき古像である。」
と書いてありましたので、
これは一度寄ってみても良いか、と思って出かけました。

甘露寺・本堂甘露寺は、保津川下り観光のスタート地として有名なJR亀岡駅から、南へ10㎞弱の山の中に在ります。

もう3~4㎞南へ行くと、大阪府豊能町とか茨木市という場所です。
結構山の奥という感じで、判りにくい細い山道をやっと見つけて、曲がりくねった急坂を往くと、そこに甘露寺がありました。


甘露寺・十一面観音坐像早速ご住職にご案内頂き、本堂の帳の中に安置された「十一面観音坐像」を拝することが出来ました。
少し見上げるような高さのところに、半開きの帳の中に坐した姿が眼に入ってきました。

「オッ!! これは立派。平安古像だし、堂々として出来が素晴らしい。」
「写真で見たのと、全然違うじゃないか!」
一瞬見ただけですが、これは注目の仏像だと感じました。

本に載っていた、真正面から撮った写真では、陰影の抑揚不足で平板な感じに見えます。ちょっとさえない感じで、さほど魅力を感じなかったのです。
ところが実物の像は、写真とは大違い。
豊満で肉付け豊か、堂々とした迫力に満ちた仏像でありました。
「想定外の、出来の良い仏像との出会い」とは、こんな時のことを云うのでしょうか?

これが、その時、撮らせていただいたお写真です。
上手くは撮れていませんが、本の掲載写真の感じと大分違って、豊満な迫力を感じていただけるのではないかと思います。

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ご住職が、よく見えるように帳を拡げていただき、間近に寄ってじっくり拝することが出来ました。
観れば見るほど、なかなか良い仏像です。
お顔の「ふくらみと張り」が、ボリューム感みなぎる感じで、何とも魅力的です。
胸のあたりは、はちきれそうにパーンと張り、胴をきゅっと絞って、胸の緩みのない張りを強調した感じです。

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衣文線は深くはないが、きっちり鎬立っています。
お顔から胸にかけての造形は、「張りのある豊満さ」を感じ、奈良後期のムッチリとした肉身表現の思い起こされるものもありました。
特に、しもぶくれの顔の造形は、奈良後期と云われる唐招提寺・衆宝王菩薩像や香川正花寺・菩薩立像の顔の面影を、思い出させるような気がしました。

唐招提寺・伝衆宝王菩薩立像...........香川・正花寺菩薩立像
唐招提寺・伝衆宝王菩薩立像              香川・正花寺菩薩立像

亀岡の山の中に、こんなに「古様の堂々たる雄大さ」を感じさせる仏像が残されていたのだという驚きと、「想定外」の素晴らしい平安古仏に出会えた喜びを感じ、じっくりじっくり、この十一面観音坐像に見入ってしまったのでありました。

解説には9C末~10Cとありましたが、平安期も随分古い頃の制作のような気もします。

ご住職が、
「近年、京都の美術院に修理をしてもらって、修理が出来た処でやっと府の指定文化財にしてもらったのですよ。
修理の時の資料がありますが、ご覧になりますか?」
と、おっしゃっていただきました。
「是非、是非お願いします。」と、早速ご拝見。

修理前は、ずいぶん矧ぎ目の緩みや割れが目立っていたほか、頭上面の随分欠失していたようですが、今はきれいに修復されています。
修理資料に、側面から撮った写真がありました。
ご拝観では、側面からが良く見えないのですが、この側面写真を見て、二度びっくり。
側面のボリューム感がすごいのです。何ともパワフルそのものです。

この仏様の堂々たる重厚感を肌で感じ、益々好きになってしまいました。

甘露寺十一面観音坐像(修理前)写真甘露寺十一面観音坐像(側面写真)
修理前写真                       側面写真


この仏像、先に挙げた「京都の美術工芸(乙訓・北桑・南丹編)」の解説にはこのように記されています。

「頭頂面をを植え付け、右手の手首から先、右膝頭を矧ぎ付けるのみで、他はほとんど一材から丸彫りに彫出している。
そのため、膝の奥行が浅いが、肩幅、膝張り共に十分にとり、正面観はまことに堂々としている。・・・・・・・
総じて平安初期一木彫の風を顕著に示すが、衣文などはやや形式的で、彫も浅くなってきている。
制作は9世紀末乃10世紀初頃であろうか。」

材は、美術院修理資料によると「カヤ」と記されています。

「ウムー!やっぱり9C末から10Cか? もう少し古様な感じもするけどなあ・・・」甘露寺十一面観音坐像(脚部)

確かに地方仏にありがちな
「顔から上半身はバッチリ、下半身や衣文になると急に雑でしぼんでしまうというパターンでもあるし、衣文の彫の浅目なのもウィークポイントなのかなー。」

そんな、解説文と自分の感じが一寸しっくり落ち着かないという感じがしながら、甘露寺を後にしました。


久々に「想定外の魅力ある仏像」を拝することが出来た。そんな満足感は十二分なものが有ったのでありました。


それから半年たちました。

亀岡の他の仏像のことを確認することがあって、図書館で、「新修亀岡市史」を見ていると、なんと「甘露寺十一面観音坐像」について詳しく触れているではありませんか。

「仏教美術の伝播」という章に「天平時代の亀岡の仏教美術」「悔過信仰の流行」という項立てがあり、その中に、【甘露寺の十一面観音像 /甘露寺観音像と悔過信仰】という見出しまでもうけられているではありませんか。
早速、10ページ程のその章に目を通すと、オゥー!と声を上げてしまいそうな、興味深い記述を見つけました。
その主旨は、このようなものです。

「甘露寺の在る東西別院町は、平安時代以後仁和寺領弥勒寺別院荘として記録にあらわれるが、山林仏教の発生は仁和寺領になる以前の時代に遡る。
甘露寺十一面観音像は、制作年代は9世紀に下るかもしれないが、天平時代の山林仏教で盛んに制作された木彫像の作風と、同時代の山林仏教で信仰された十一面観音悔過の様相を物語っている。
橘寺・日羅像
その相好は、奈良橘寺の日羅像とよく似た眉や唇に特徴がある。
また上半身の表現や衣文の掛け方は高山寺薬師像(天平末期)とも共通している。

甘露寺十一面観音像は、山林寺院に安置されて悔過法要の本尊となった像であろうが、これを純蜜像とすると、仁和寺の創建(888)を遡らない可能性が出てくるが、この像の様式から見てそこまで制作年代を下げることは出来ない。

やはり甘露寺像は、遅くとも9世紀初頭までに制作され、山林寺院の雑蜜像として悔過信仰の本尊像であったと考えるべきものだろう。」

執筆は、「悔過の芸術」(法蔵館刊)という本で知られる、中野玄三氏です。
ああ、私がこの仏像を見て感じた第一印象と同じような感覚を感じられたのだろうか?
実際の制作年代が、もっと下るのかどうか私にはよく判りません。
ただ、この仏像に奈良末平安初期木彫の初発性と天平古様の匂いを強く感じるというこの文章を発見したのは、ちょっと感動でした。

私としては、今まで何やらモヤッとした気持ちであったのが、本当にスッキリとしたのでありました。


亀岡という地、亀岡の仏像は、それほど際立って取り上げられることはないようですが、結構奥深いものがあるようです。
高山寺薬師坐像も、この4月に重要文化財に指定された東博蔵・天部像も亀岡の地出身の仏像です。

亀岡の平安古仏の続きをもう一回、東博蔵・天部像を中心に、次回は採り上げてみたいと思います。