観仏日々帖

古仏探訪~京都・神光院  薬師如来立像

この仏像、いかがでしょうか?

神光院薬師如来正面     神光院薬師如来像

なかなかのボリューム感で、迫力もあり、魅力的だと思いませんか。
両腿のたくましい隆起や、胸から腹にかけての量感あふれる肉身の表現は、「バリバリの9世紀平安前期彫刻に間違いない」と云って良い古像だと思います。
顔に少し後の手が入っていることや、両手先が後補でそぐわないのが残念ですが、体躯の部分に焦点を絞ってしっかり観ると、荒々しく粗野な衣文の彫口や、迫ってくるような量感には、何やらオーラのようなものを感じさせるような気がします。

この薬師如来像は、京都市上賀茂神光院町にある放光山神光寺という真言宗の寺に祀られています。
未だ文化財指定を受けていない、「無指定」の仏像です。
像高は121.5㎝。
カヤ材と思われる一木彫で、木心を中央後方に外して彫り出しており、現在は、泥地による古色を呈しているが、素地の像であったと思われるそうです。

去年の夏に、皿井舞氏により研究誌に紹介された、いわば新発見と云っても良い平安初期仏像です。

美術研究404号「研究資料~京都神光院蔵 木造薬師如来立像」(皿井舞 2011/8)

に、本像が紹介されると共に、論考が掲載されました。

皿井氏は、本像の制作年代について、次のように記されています。

神光院薬師如来像上半身「大腿部の量感を強調する腹下部正面のY字形衣文や、地髪とほぼおなじ幅で垂直に立ちあがるうず高い肉髺などのかたち、あるいは奥行きのある体躯のボリューム感など、本像には、平安初期一木彫像の典型的な作風がみとめられる。」

「本像にみられる、正面大衣の下線に立ち上がりをつけながら波打たせる処理は、唐招提寺伝薬師如来立像や神護寺薬師如来立像など八世紀後末期の木彫像のものに近い。
また、やわらかな丸みのある衣文、大ぶりな肉髺、控えめながら頭部を前方に突き出す姿勢などは古い要素とみなされる。
こうした諸要素を考え合わせれば、本像の制作年代は承和年間を少しさかのぼる九世紀前半に位置づけるのが妥当ではないだろうか。」

美術研究誌で、この仏像の写真を、初めて見たとき、
「これは、なかなかすごい!粗い彫口だが、何やら霊威を発しているようだ!バリバリの平安初期仏像だ!」
と、強いインパクトを感じたのでありました。

皿井論文によれば、「伊東史朗氏より本像の存在をご教示いただいた」そうです。
これだけの古像、それも霊威表現を感じる像となれば、古密教仏像研究の井上正氏の専売特許の筈なのに、井上氏が古密教仏について書かれた論文などには、この仏像のことは採り上げられていないようです。
本当に知られていなかったのでしょうか? 不思議と云えば、不思議に感じます。
「京都というところは、奥深いねー!こんな古仏が、無指定の仏像として埋もれているのだから。」
と今更ながらに、実感したのでありました。

私のこよなく愛する、平安初期仏像の新発見。
「早速、拝観に行こうじゃないか」
と、決意したのでありました。

神光院は、有名な上賀茂神社から、西に1キロほどのところにあります。

私はこのお寺のことは全く知りませんでしたが、神光院町という地名にもなっているように、良く名の知れた寺院だそうです。
東寺、仁和寺と並ぶ「京都三大弘法」として有名で、地元では「西賀茂の弘法さん」の愛称で親しまれています。
幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月が、晩年、神光院に隠棲していたそうで、境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑とともに、茶室(蓮月庵)が残されています。
明治初期に廃仏毀釈運動を受け、一旦は廃寺となりましたが、1878年(明治11年)再興されたそうです。

神光院山門 神光院本堂
神光院 山門                     神光院 本堂

格式の高いお寺さんの古仏像ですから、拝観はなかなか難しいのではと、お願いの手紙を出してから、恐る恐る電話してみましたら、ご住職は「私が居るときだったら、何時でも良いですよ」と、拝観のご快諾をいただきました。

喜び勇んで、この3月、同好のHさんと、ご拝観に出かけました。

神光院薬師如来像 安置状況この像は、本堂に安置されていますが、御本尊は「弘法大師像」で、厨子は閉じられており、本尊厨子の西側に他の仏像と並んで、脇仏として安置されていました。
他の仏像の陰で、目立たずひっそりと安置され、「これが話題の平安初期古仏です」といわれないと、気にもかけずにやり過ごしてしまいそうな感じでした。
この古像が、これまで知られていなかった、着目されていなかったことを物語るような、安置のされ方です。
案内いただいた本堂の中は大変暗かったのですが、ご住職が手持ちの明るいライトでこの像を照らしていただけました。
ライトに照らし出されたこの古仏の姿を、暗闇のなか浮かび上がるように拝することができました。
果たして、私の眼に入ってきた薬師像の姿は、期待に違わぬガツンとしたインパクトのあるものでした。

「やっぱりすごいねー!」「迫力十分!」「粗い彫口だけれども、精神性勝負の仏像」「畏怖感というか威力のようなものを感じる」「金剛心院の如来像にちょっと似ている」
「どうして、これだけの古仏像が、今まで全く知られていなかったのだろう??」
こんな印象の言葉を、Hさんと交わしたのでありました。


この写真が、お堂でライトに浮かび上がった薬師如来像のお姿です。
この像が発するオーラや魅力を感じていただけるでしょうか??
神光院薬師如来像    神光院薬師如来像上半身


神光院薬師如来上半身   神光院薬師如来衣文



ところで、こんな平安初期の古像が、何故「神光院」に存在しているのでしょうか?

神光院は、鎌倉時代、建保年間(1213~18)創建のお寺です。
上賀茂神社
皿井論文によれば、この薬師如来像は、
「上賀茂神社伝来の古像であった可能性が高い」
そうです。

皿井氏は、
明治期の「神光院什器帳」に、本像が上賀茂社の神宮寺に安置されていた像で慶応3年に神光院に安置したという記述があることや、上賀茂神社における神仏習合と分離の経緯などを詳細に考証して、
「本薬師像は、平安前期草創の上賀茂神社佛教施設・岡本堂安置像で、上賀茂神社神宮寺を経て、明治期の神仏分離で神光院に移された」
可能性が高いとしています。


また、皿井氏は、近年、八世紀末の制作になる京都・神護寺薬師如来像の造像背景を再検討し、大変興味深い新たな考え方を論じています。
神護寺薬師如来像
この像の造像背景については、なんといっても中野玄三氏の「怨霊調伏説」が、有名です。
即ち、和気清麻呂に対する道鏡の怨霊の祟りや、道鏡一派の呪詛を防御するため本像が造られ、それ故に森厳、畏怖を感じさせる恐ろしげな相に造られたのだという説です。

この説を支持する人は大変多いのですが、その後、色々な議論が提起される中で、
皿井氏は、この像が、神本来の威力を肯定的にとらえ、「仏力をもって神威を増す」という、八世紀後半頃にあらわれた神仏習合の論理を背景につくられたものであるとの新たな見解を提起しています。

そして、神光院薬師如来立像についても、賀茂大神のために建てられた岡本堂にあったものだとすれば、
平安時代前期における基準的作例の一つとなり、また神仏習合による造像の具体的なありようを示す遺品として、きわめて重要な意味をもつこととなる。
神護寺薬師像と同様に、「仏力をもって神威を増す」という神仏習合思想を背景に造立されたものだったと考えられる。
と、しています。

そうか、この薬師像の迫力、威力は、上賀茂社の神仏習合仏であることのなせる業なのか?
そんな気持ちでこの像を凝視していると、この像の体躯から発散する「霊威」とか「オーラ」を、益々強く感じる気分になってきたのでありました。


皿井氏が主張する、神光院薬師像の来歴説が認められていくようになったら、この仏像の位置づけは大変重要なものになり、一気に大出世してしまうかもしれません。

苦労して拝観に出かけてみても、期待外れであったり、写真より大きく見劣りしてしまう仏像であったりすることも、結構あるのですが、
この神光院薬師如来像は、実物を拝観して、期待に叶う迫力、インパクトを与えてくれた平安前期の古像でありました。
この像の来歴が、上賀茂社伝来であろうとなかろうと、魅力を感じる古仏です。

また、そのうちに再訪して拝したい仏像だという気持ちを心に抱いて、神光院を後にしました。


新指定文化財展見てきました~弥勒寺・弥勒仏坐像と高成寺・千手観音立像~

5月1日、東京国立博物館で開催中の「新指定文化財展」に行ってきました。

新指定の国宝重要文化財、48件のうち47件が展示されています。
私の注目仏像は、重文指定へのスピード出世の、弥勒寺(大和高田市)・弥勒仏坐像と高成寺(小浜市)・千手観音立像です。
他にも注目仏像がいろいろ出陳されていますが、平安前中期の古仏をこよなく愛する私は、この2躯をじっくり観るために、朝一番で出かけました。

弥勒寺・弥勒仏像は、本館一階の彫刻展示室での展示でした。

弥勒寺弥勒坐像・本堂安置半丈六(147.3㎝)の大型坐像で、その堂々たる体躯を目の当たりにすることが出来ました。
「この仏像が、重要文化財指定」という話を聞いたとき「やっぱりね!やったね!」と納得したというのが、正直な感想でした。

大和高田の弥勒寺本堂で、この仏像を初めて観たのは、昨年(2011)8月のことです。
近畿文化会主催の「奈良県中南部の仏像を巡る」に参加し、その存在を初めて知ったのです。
訪れると、本堂は、今にも崩れてしまいそうに一寸傾いており、そんなみすぼらしいお堂には不似合いの、立派な仏像が安置されていました。

「オー、これは、掘り出し物の、仏像ではないか!なかなか良いねー!」
「どっしり、ムッチリ、太造り、ちょっとずんぐり」
「両胸の張りが、弾力あるゴムまりのよう。顔(頭部)も、丸いまりのよう。」
はじめて見た時の、第一印象でした。
像容や造形は、写真でご覧のとおりですが、
平安前期彫刻の厳しい迫力とかパワーとかを感じさせる仏像というわけではなく、
「ゆったり、どっしりとした安定感、重厚感」で惹き込む仏像です。
堂々としていて「観ていて心落ち着く仏像」という感じがします。
特に、胸から腹にかけてのムッチリとした肉身表現が魅力的で、印象に残ります。
どう見ても、平安中期ごろの大変立派な仏像です。

弥勒寺弥勒坐像・正面弥勒寺弥勒坐像 頭部

文化庁の指定解説では、
「10~11世紀の奈良地方造像の典型的特色を示し、造東大寺所所属工人の系譜を引く工房の手になると思われる。」
と解説されています。

ところがこの仏像、これまで平安古仏として認められていなかったようで、平成21年(2009)の奈良県教育委員会による調査で、見出されたのだということです。
それから一気に、重要文化財へのスピード出世です。
どうして、こんな立派な仏像が、今まで埋もれていたのでしょうか?
これだけ大きな仏像ですから、その存在が知られていなかったというのではないでしょうが、寺の縁起に引っ張られたのか、後世の上塗りのためか、近世の像と思われていたようです。

今回の重文指定を報道した、奈良新聞の記事では、このように紹介されています。

「大和田高田市土庫の弥勒寺の本尊、弥勒仏坐像(平安時代)が国の重要文化財に指定されることが決まった。同寺の本堂は全体が傾き、壁に大きな亀裂が走るなど老朽化。地震による倒壊も懸念されていた。今秋には修理が終わる予定で、地元にとって二重の朗報となった。
 寺伝によると、弥勒寺は天文7(1538)年に当麻一族の祈願寺として創建された。本尊は平安仏で、同寺創建までの所在は分かっていない。

弥勒寺本堂無住寺として荒れ果てていたが、平成21年に現住職の伊藤教純さん(69)が入って再興に着手、本堂が見えないほどに茂っていた雑草を刈り取り、つり鐘も鳴るようにした。
 だが、多額の費用が必要となる本堂の修理は手が付けられず、本尊の弥勒仏坐像も床の傷みで傾いていたという。
 弥勒仏坐像が県の文化財に指定されたことで道が開け、本堂の修理にも県補助が受けられることになった。
 昨年9月には本尊が奈良国立博物館に“一時避難”。骨格だけを残す半解体修理が始まった。傷みの激しい部材や瓦を交換してよみがえらせる。
 本尊は高さ147センチの「半丈六」で、平安時代の大型彫像として貴重という。平成26年には寺に戻る予定だ。
 伊藤住職は「隠れ寺のような場所だが、歴代住職や地元の人々によって守られてきた。本尊が重要文化財として世に出ることができてうれしい」と話している。


特筆すべきことは、この仏像が、檜材ではなく、サクラ材と思われる広葉樹で作られていることと、半丈六の大型坐像であるにもかかわらず、膝前まで一木から彫り出されていることです。
考えられないほどの、よほどの桜の巨木から彫り出されたのでしょう。
中にウロがあるようですので、何か所縁のある霊木から彫り出された像であろうということです。

大岡寺 薬師如来像滋賀・甲賀市の大岡寺の薬師如来像が、霊木と思われる材を使って、膝前の造形が窮屈になりながらも、全体を無理に一木から彫り出しているのを思い出しました。


弥勒寺像も、膝前の造形が扁平で、結跏趺坐の足裏も不自然な表現になっているのが、随分気になります。
上半身のムッチリとしたボリューム感と比べて、膝前は扁平で躍動感不足がありありという感じです。
やはり、無理に窮屈に、一材から彫り出した為なのではないかと思われます。



弥勒寺 弥勒坐像脚部


この像が造られた、10~11世紀になっても、巨木の霊木から、仏像全体を丸々彫り出すことへの「こだわり」が強くあったのであろうか?
そこまでこだわらせたものは、なんであったのであろうか?
そんな思いが、またふつふつと、こみあげてきたのでありました。

弥勒寺・弥勒坐像は、最近、拝した平安古仏の中でも、再見、三見の値打ちのある魅力ある像だと、私は思っております。
東博でまた観ることができたことは、大きな喜びでありました。



次は、高成寺(小浜市)の千手観音像です。

二階のガラス張りの処に展示されていました。
正面からはしっかり鑑賞できるのですが、側面からじっくり観られないのが、残念な処です。

高成寺 千手観音像
文化庁の解説によると、
「等身の千手観音像で、針葉樹の一木造りになる。太造りの躰型や衣文に刻まれる翻波式衣文などに平安初期(9世紀半ば~後半)の特色を示す。若狭姫神社伝来と伝え、神仏習合にかかわる造像である可能性がある。
平安初期作例の中で、優れた作行を示す像の一つとして評価される。」
と、解説されています。

私には必見の、平安初期の仏像です。


私はこの仏像の存在を、今回の重文指定まで、全く知りませんでした。
「高成寺・千手観音像、9世紀作で重文指定」ときいて、本当にびっくりです。

高成寺高成寺の場所を調べてみると、小浜市青井というところで、JR小浜駅から西北に徒歩15分くらいの場所です。
何度も小浜を訪れているのに、この仏像のことを知らなかったとは・・・・・・・・
早速、「若狭小浜の文化財」や「福井県史~若狭の仏像~」という本を書架から取り出してみましたが、全く掲載されておりません。

良く調べてみると、平成21年(2009)に、初めて県指定文化財に指定されていました。
どのようないきさつで平安初期の重要古仏として見出されるようになったのでしょうか?
興味津々です。
これまた、あっという間に重要文化財というスピード出世です。


まずは、高成寺・千手観音像と初めてのご対面、じっくりと鑑賞。
181㎝の等身大像。

正面から見た第一印象は、「見るからに平安初期彫刻」という、ダイナミックなパワーや、迫力をさほど感じない、おとなしい感じを受けました。
正面写真をご覧になって、皆さんどう感じられるでしょうか?
「どうしてだろうか?」とゆっくり観てみると、後補や彫り直し部分が多いために、そちらが目くらましのようになり、少々弱い感じに見えるようです。
高成寺 千手観音像 上半身
私の見た感じは、お顔が少しだけ彫り直してあり藤原風のやわらかな表情になっている気がします。
脇手の多臂手と宝鉢を持つ正面手が線の細い後補、合掌手の腕先も後補らしくやわらかな線になっているようです。足先も後補らしい。
首から下、裳裾までの体躯の部分に。当初の造形が良く残っているようです。
この像をしっかり見極めるには、根幹材の部分に絞って、観ていくことが必要なようだ。

そんな眼でじっくり目を凝らしてみると、「なかなかの平安前期古仏」の姿が、くっきりと浮き上がってきました。
肩・胸から腹回りの肉付きは厚く、ムッチリという言葉がフィットするし、腰回りのボリューム感は流石という感じがします。
衣文の彫りも、抉るような鋭さ・厳しさまではいかないが、彫口には鎬立ったものがあります。
正面から観るよりも、斜めの方、ボリューム感が良く見える処から観ると、平安前期古仏ということに十二分に納得が行く仏像でした

高成寺 千手観音像 脚部



この仏像は、江戸時代の『若狭郡県志』によると、若狭姫神社(遠敷明神)本地仏千手観音であった可能性があるそうです。
若狭姫神社は、 若狭国一之宮で上社(若狭彦神社)と下社(若狭姫神社)に別れ、両社を合わせて若狭彦神社と称しているそうです。
若狭姫神社は、養老5年(721年)に、上社より分祀して創建されたと伝えられています。
東大寺二月堂のお水取りに際して、若狭から二月堂に水を送る、有名な「お水送り神事」は、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われています。

若狭姫神社遠敷神社 お水送り

全体から受ける印象は、平安初期の特性をみせながらも、衣文の彫口や肉身の造形にややマイルドな感じもするので、少し時代が下がるのかもという気もしました。
しかし、この千手観音像が、若狭姫神社の神仏習合像であったとすれば、平安初期(9世紀)まで遡る像である蓋然性は、高まることになるのだろうし、「お水送り」というロマンチックな伝承なども付加されて、その魅力度がランクアップしたような気がしてきました。

他にも、観るべき重文新指定仏像が、数々立ち並んでいましたが、
今日は、ターゲットの2躯のスピード出世平安古仏をゆっくり、じっくり鑑賞でき、私なりの満足感に浸りながら、東博を後にしました。