観仏日々帖

今、蟹満寺が熱い! ~シンポジウム行ってきました~

4月15日(日)、「蟹満寺釈迦如来像」についてのシンポジウムが、開催されました。
【「古代大型金銅仏調査記念シンポジウム」国宝・蟹満寺釈迦如来坐像の再検討~体内調査から見えはじめたもの~】という標題です。
蟹満寺の在る棚倉駅の近く、木津川市山城総合文化センターでの開催。
山城総合文化センター
結構、辺鄙な場所で、前宣伝もあまりなかったので、
「そんなにたくさん人が集まるだろうか」
と思いながらも、わざわざ横浜から出かけてみました。
意外や意外、会場は大盛況で、200人以上の参加。研究者の方も、沢山参加していたようです。
朝10時から夕刻5時に及ぶ長丁場でしたが、ダレたり疲れ気味になったりということもなく、活発な質疑応答もあり、熱のこもった、充実したシンポジウムでありました。
「今、蟹満寺が熱い!!」
そんな思いに、強く駆られた一日でありました。


シンポジウムの内容について、興味深く面白かった話をご紹介したいのですが、
まずはその前に、「何故、今、蟹満寺が熱いのだろうか?」
その訳について、蟹満寺釈迦像のこれまでの論点や経緯などを、ちょっと振り返ってみたいと思います。
蟹満寺釈迦如来像
蟹満寺釈迦像は、今に伝わる古代の丈六金銅仏5躯のうちの1躯という重要作例です。
ところが、意外に人気がないというか、一般には良く知られていない像です。
残りは、飛鳥大仏、興福寺(山田寺)仏頭、薬師寺金堂薬師三尊、薬師寺講堂三尊です。

飛鳥大仏、興福寺仏頭、薬師寺金堂三尊などは、教科書にも登場するほど超有名ですが、
蟹満寺像は、特段、出来が悪いということはないのに、日蔭者のような気がします。
お寺の立地が辺鄙な処に在り訪れにくい、ということもあるでしょう。
この仏像の来歴に確かな記録がなく、位置づけが難しいということにも、理由があるようです。
これだけの立派な大金銅仏なのに、造立時からの由来を示す記録が、全くと言ってよいほどにないのです。
その姿から、白鳳時代と考える人が多いようですが、天平時代と考える人もおり、議論の分かれるところでした。

いずれにせよ、この金銅釈迦如来像は、いつの頃か何処からか蟹満寺に移座されてきた客仏であると、従来考えられていました。
蟹満寺が「蟹の報恩物語の縁起」を伝えることから、草創時の本尊はこの像ではなく、観音像と考えられていたからです。
したがってこれまでの論点は、白鳳~天平時代と考えられるこの丈六金銅仏が、何時?何処から?移されてきたのかという来歴検証が、最大のテーマでした。
いろいろな説が出され、原所在については、光明山寺、井手寺、高麗寺、恭仁京山背国分寺などと論じられていましたが、決定打は無し、という状況でした。


ところが、平安時代の草創かと思われていた蟹満寺が、「白鳳時代の創建に間違いない」ということが、1990年の発掘調査で判明したのです。

以来、7次にわたる発掘調査が行われた結果、次のような事実が判明しました。

*蟹満寺は、白鳳時代創建の古代寺院であること。
*創建時期は、出土瓦の同笵瓦との比較から、高麗寺瓦よりも古く、680~690年前後の造営開始と推定されること。
*金堂跡の規模は、本薬師寺金堂跡とほぼ同規模で、丈六仏が安置されるにふさわしいものであったこと。
*現蟹満寺釈迦像の安置位置は、発掘金堂跡の本尊位置からほとんど動いていないと判断されること。

蟹満寺金堂跡蟹満寺出土瓦

驚くべき「新事実発見」でした。

豪族の私寺クラスと思われていた蟹満寺が、白鳳創建の官大寺クラスの大寺院であることが判ったのです。
それにもましての驚きは、現釈迦像の安置位置が金堂跡本尊位置と同じであったということで、この丈六金銅仏が、蟹満寺創建当初からの本尊である可能性が極めて大きくなったのです。

そのように考えられるとすれば、蟹満寺釈迦像は白鳳時代680~690年ぐらいの制作ということになります。
蟹満寺像の制作年代が固まるということは、仏教美術史の世界では、白鳳から天平への金銅仏の編年、様式展開を考えるうえで、大変大きな意味を持ってきます。
興福寺(山田寺)仏頭は、天武14年(685)の造立で間違いないのですが、
薬師寺金堂三尊はいわゆる移建・移座についての「薬師寺論争」があり、白鳳期の持統2年(688)、持統11年(697)造立移座説と、養老2年(718)平城京移転後の天平新鋳説とがあり決着がついていません。
いずれの金銅丈六仏も、当時の官営工房で制作された一流の仏像であることに間違いありませんから、これらの仏像の編年、「白鳳」「天平」様式の画期やその内容、唐・新羅からの文化的影響・流入時期などを考えたり議論するうえで、蟹満寺像の造像時期は、きわめて重要な問題になってくるということです。

興福寺(山田寺)仏頭薬師寺金堂薬師如来像


私は個人的には、薬師寺金堂三尊は、天平新鋳で「バリバリの唐様式」を反映した、天平様式の父と云っても良い、超一流の造形の仏像だと思っています。
学生時代、町田甲一の「薬師寺」について論じた本を読んで大ファンになり、「なるほどその通りだ!」と一人納得してしまって以来でしょうか?そのように感じています。
また、蟹満寺の釈迦像は、白鳳造立という考えが大勢なのかもしれませんが、私は、この仏像は、「天平期に入ってしばらくしてからの制作なのではないか」と、秘かに感じております。
白鳳期のブロック状の造形や衣文線の生硬さなどから、一見白鳳期のように見えるのですが、その厳しさを顕した顔貌、とりわけ眼の弧を描く線(上瞼が直線的で、下瞼が凹曲する)を見ると、私には、法華堂不空羂索観音の眼に代表される「天平の眼線」をしているように思えるのです。


薬師寺金堂薬師如来像・顔正面蟹満寺釈迦如来像・顔正面東大寺法華堂不空羂索観音像・顔正面


このシンポジウムの討論の司会をされた文化庁の奥健夫氏が、蟹満寺の制作年代と薬師寺金堂三尊との前後関係についての諸説を、一覧表にまとめられていました。
判りやすいので、ここに掲載しておきます。
蟹満寺釈迦像制作年代諸説一覧


さて、前置きはこれくらいにして、そろそろ「シンポジウムの内容」について、お伝えしたいと思います。

このシンポジウムは、標題に「体内調査から見えはじめたもの」とあるように、この像の科学的調査、分析結果を踏まえて、その結果報告と重要な判明事実や問題点をテーマとして、開催されたものです。
蟹満寺では、本堂を再建することとなり、2008年3月から1年5か月にわたり、再建に際し、移動した像が徹底調査されました。
制作技法についての科学的調査が行われ、三次元レーダー計測、蛍光X線成分分析、炭素14年代測定、X線透過撮影のほか、鋳造技術者による体内調査が行われたのです。

シンポジウムのプログラムは、次のとおりです。

シンポジウムプログラム

ご覧のように、丸一日、「蟹満寺金堂釈迦像」のみのテーマで、質疑応答時間には松山鉄夫氏や藤岡穣氏といった著名な美術史学者からの質問があるなど、大幅時間超過する熱のこもったものでありました。

実は私は、今回調査で、中型土が600年代後半という分析結果(C14年代測定)が出たという話を事前に知っておりましたので、
今回のシンポジウムでは、
シンポジウム風景
「白鳳時代(7世紀末近く)制作が確定した」とか、
「軍配は白鳳方に上がったけれども、何か物言いでもあるか?」
といった報告になるのだろう。
「私は、天平時代もありと思っていたのだけれども、それはもう無理筋になるのだろうな!」
そんな気持ちで参加してみました。
ところが、なかなかそう単純には、事は運ばないようで、
「簡単に時代判定を決定できるものではない」
という議論のように、強く感じました。


私が、シンポジウムでの発表のなかで、特に重要事実・問題点と感じたことは、次のようなことです。

① 蟹満寺像の重量は、薬師寺金堂像(4947㎏)に較べ、半分以下の軽さ(2172㎏)であり、銅厚が大変薄く造られていること。
② 鋳造法は、蝋型鋳造であるか分割型(削り中型)のいずれであるかは、判定できなかったこと。
③ 金属成分分析(蛍光X線分析)によると、ヒ素成分が多いことなどが、東大寺大仏の金属成分に比較的近いこと。
④ 金彩は、水銀アマルガム鍍金ではなく、漆箔像であった可能性が高いこと。
⑤ 面部に鋳掛が施され、目鼻立ちが、結構修正されていること。(鋳造当初の修正である可能性が大)
⑥ 型持ちは、画鋲型の型持ちで、薬師寺金堂三尊の型持ちと類似していること。
⑦ 中型土の1片の年代は、炭素14年代測定によると、650~695年に帰属する可能性が大であること。(確率58.2%、右腕内にたまった土片を測定)

皆さんは、この事実をご覧になって、どのように感じられたでしょうか?


特に興味深かった説明、印象に残った点について記しておきたいと思います。

【像の重量が大変軽い、即ち銅厚が薄い】蟹満寺釈迦像内部
ことについては、「技術が進歩すれば薄く鋳造できるとは考えることはできない」そうです。
三船温尚氏がそのように解説されていました。
むしろ、鋳造家の立場からは、「薬師寺金堂三尊の銅厚の方が、厚すぎる(重すぎる)」と感じられるそうです。

【漆箔の金色像であったと推定される】
という話は、大きな驚きでした。
古代金銅仏は、鍍金以外はないものだと思い込んでおりましたので。
当初と思われる、表面の「金」の分析データから、水銀が全く検出できないことから、アマルガム鍍金ではなかった可能性が大で、漆箔技法であった見られるとのことでした。

【目鼻立ちが、修正されている】
点については、鋳造の不具合ではなく、面貌を修正したとみるべきで、鋳造当時の修正である可能性が大であるそうです。
あの目鼻立ちが、天平期に入ってから修正されたという可能性は低そうでした。

【中型土の年代分析】
については、銅像の内壁に残った中型土を採取することは、文化財保存の立場から不能であったことから、右腕内部にたまった土を掃除機で吸い取り、その3片を年代分析にかけたものだそうです。
会場から、中型に使う真土(まね)は、当時何度も再利用されていたはずで、その可能性と測定年代の妥当性についての質問が出ていました。
この点については、再利用の際も藁などを新たに混ぜることになり、その成分がC14年代に反映するし、何十年間も同じ真土を使い続けるということが考えられるだろうか、とのコメントがされておりました。

それぞれの事実をもとに、制作年代を論じようとすると、白鳳説・天平説いずれのサイドからも、論陣を張れそうにも思えます。


白鳳時代、690年前後制作の立場に立てば、次のような論陣も想定できそうです。

「白鳳伽藍の金堂基壇跡の位置に変わらずに安置されている現丈六金銅仏が、創建当初本尊であると考えるのがごく自然であるし、白鳳金堂完成後に、長らく丈六本尊が鋳造されなかったとは考えられない。
中型土の年代分析結果(650~695年)が、現本尊白鳳造立を実証しているではないか。
重量が軽いことについては、技術が進歩すれば薄く鋳造するようになるとは考えられない。
薬師寺金堂三尊の型持ちと類似していることは、この像が600年代の末年代に近いことを示唆している。
なによりも、全体のブロック状のモデリングや衣文の流れの形式美的生硬さなどが、この像が白鳳彫刻であることを雄弁に物語っているではないか。」


一方、天平説に立てば、逆に、このような論陣が張れそうです。

「蟹満寺が白鳳創建であることは事実だろうが、だからと言って移動可能な本像が、創建当初に造立された仏像と断言するのはおかしいであろう。
何らかの事由で、移座されたり、天平期になってから当地で鋳造という可能性を、否定しきれないであろう。
中型土の年代については、中型に使う真土(まね)は、当時は何度も繰り返して使用したといわれているので、古い年代の中型土であったとしても、混入等は十分ありうる。
金属成分が東大寺大仏に近いことは、天平時代鋳造を示唆しているし、鍍金ではなくて漆箔による金色像であったとしたら、それは東大寺大仏水銀アマルガム鍍金による、水銀鉱毒被害の反省による結果、という可能性も十分考えられる。
重量が、大変軽いことも、鋳造技術進歩の結果と考えることも可能だろう。
そして、造型面からみれば、古様な処はあるものの、面貌・眼線が天平仏のものに類似することや、右脛の同心半円状衣文は天平中期以降に出現すると考えられていることなどが、この像が天平時代制作であることを物語っている。」


いずれにせよ、今回調査で、可能な限りの判断材料が出そろったとも云え、この材料をどのように解釈していくのか、という新たな段階に至ったといえるのではないかと思います。
現段階では、白鳳時代・600年代末頃説の方の優勢勝ちのような気がしますが、私は未だに天平時代制作への思いも、心情的に拭い去れないという気分です。


丸一日、気迫のこもった発表や、熱の入った質疑応答を聞いて、知恵熱が出てしまいそうになってしまいましたが、
「また蟹満寺を訪れて、虚心坦懐に丈六釈迦仏を観てみよう」
と、今更ながらに思い直しました

「今、蟹満寺が熱い!」
オジサンの私も、そんな気持ちになって、夕暮れ間近の山城総合文化センターを後にしたのでありました。


最後に、本の紹介です。
この調査が終わったのを機に、調査報告&考察がまとめられた立派な本が出版されました。
「国宝・蟹満寺釈迦如来坐像~古代大型金銅仏を読み解く~」
蟹満寺国宝釈迦如来坐像調査委員会著  八木書店刊
この本を読めば、調査結果の詳細なデータ・写真影像から、各方面の専門家の考察まで、すべてを知ることができます。
2011年2月出でたばかりで、お薦めなのですが、なんと定価が25000円と余りにも高いのが、最大の問題点です


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神奈川仏教文化研究所 HP再開 のお知らせ

神奈川仏教文化研究所HPを再開しました。
新URLは   http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/
となっております(URLが変わっています)


神奈川仏教文化研究所HPは、2011.4.18の更新が「最後の更新」となっておりました。
その後、NETで見ることも叶わなくなってしまっておりました。
管理人・高見徹氏が、昨年5月に早世され、「主のいないホームページ」となってしまったのです。

このHPは、高見管理人が長年をかけて築き上げられ、管理人の仏像愛好への弛まぬ想いが込められたものです。
沢山の仏像愛好の皆さんが、神奈川仏教文化研究所HPを利用され、更新を楽しみにされておられたことと思います。私も、その一人でありました。
「HPが見られなくなって、本当に残念」「何とか再開できないのか、これまでの内容が見られるだけでもいいから」
という声が、多く寄せられておりました。

高見氏が遺した、これだけの仏像関係情報のコンテンツは、まさに大きな財産といってもよいもので、これを無にしないで何とか再開したいものだと念じ、また、これまでの高見氏との仏像愛好交友の関わりから、私が何とかする役目なのかと思っておりました

しかし如何せん、パソコン・HP知識ゼロに近い、ど素人の私。
気持ちはあっても、どのようにしたらできるのかも皆目わからず、そのままにしておくしかありませんでした。
最近になって、思い直して、「はじめてのホームページ入門」といった本を、たどたどしく開くところから始めました。
悪戦苦闘、やっとのことで、かろうじてHPを再度WEB上で見ることができるところまで、こぎつけました。

新しいコンテンツの充実などは、到底かないません。
よちよち歩きで、神奈川仏教文化研究所HPを維持するのが、やっとというところです。
何とか、「秘仏開帳情報や展覧会情報」、「埃まみれの書棚から」連載継続などだけは、続けていければと思っております。
2週間に一度ぐらいの情報更新が出来ればというのが、努力目標といった処です。

何とかHP再開できましたことをお知らせいたしますと共に、
長らくのクローズであり、HPのURLも変更となりましたので、お知り合いなど同好の方々にHP再開のご紹介などいただけましたら有難く存じます
よろしくお願いいたします。

神奈川仏教文化研究所HP 新管理人

高見徹さん を 偲んで

神奈川仏教文化研究所ホームページ管理人・高見徹さんは、昨年(2011)5月、急逝されました。
未だ61歳の早世でありました。


高見徹さん、彼と初めて出会ったのは私が大学2年の時、昭和45年(1970)のことでした。
「古寺探訪同好会」という大学のクラブに、一年後輩として入会してきたのです。
当時、彼は、古寺古仏探訪にも興味関心を持っていましたが、テニス同好会にも所属、そちらにも熱が入っていました。
結構イケメンで、ギターの弾き語りでカレッジフォークを切々と歌い上げ、いわゆるもてるタイプで、マルチに大学生活を楽しんでいたのではなかったでしょうか。

「同好会」では、地元関西在住の地の利を活かし、奈良・京都の有名どころの仏像を見て回り、仏像彫刻の美しさや魅力に惹きつけられて、仏教彫刻史についての本も読みかじるといった処ではありましたが、お互いに、さほどは仏像探訪に熱が入るということではありませんでした。


工学部・理系で、仏像一本やりでもなんでもなかった彼を、「仏像の世界」に決定的に引き込んだのは、昭和46年夏に共に出かけた、東北仏像探訪旅行でありました。

「生きている仏像たち~日本彫刻風土論」生きている仏像たち

丸山尚一著の、この本が出たのが昭和45年11月。
この本が、我々の地方仏との初めての出会いです。
奈良・京都の中央仏しか知らない我々には、ここに綴られた地方仏の世界は、新鮮な感動でした。
「地方佛の魅力に直接ふれてみたい、風土と共に生きる仏像に、出会ってみたい」
「夏休みに、東北仏像探訪にみんなで行ってみようか」
金は無いけれど、ヒマだけはある学生の身。貧乏旅行ながら、初めての地方仏行脚に5~6人で出かけたのでした。


岩手・水沢の片田舎にある「黒石寺・薬師如来像」を訪ねました。
黒石寺薬師如来像一日数本しかバスがない辺鄙な処、夕刻に着いて、その晩は黒石寺の檀家総代のお宅に、ごろ寝で宿泊。
翌朝、朝露に濡れた境内に朝陽が燦々と降り注ぐ中、薬師如来像を拝しました。

貞観4年(862)の銘のある、平安初期佛。
その魁偉な異貌から発する「強烈なインパクト・オーラ」は、今もこの眼に焼きつき忘れられません。

この時の、心揺さぶられた鮮烈な感動。
彼が、仏像の持つ魅力にとりつかれ、ライフワークにまで転じていった、「心の原点」になっているのではないかと思います。



そして、仏像の世界に決定的にのめり込んでいくことになったのは、同じその年の秋に東京国立博物館で開催された、「平安彫刻展」でありました。平安彫刻展

全国各地から平安彫刻の名品・優品が集められ、今でも歴史的展覧会と語り継がれる、画期的展覧会でした。
入口・第一室には四国・正花寺菩薩立像、庄部落菩薩立像、会津・勝常寺薬師三尊像、三重・慈恩寺薬師立像、佐渡・国分寺薬師坐像などが展示されていました。
会場に入った途端に、想定外の迫力に圧倒され、思わず後ずさりしそうになってしまったことは、今でも鮮烈に記憶に残っています。
彼(我々)は、「平安(前期)彫刻の魅力」の虜になってしまったと、云ってよいのかもしれません。

それからは、休暇の度毎に、四国路、山陽路、山陰路、九州路等々と、全国各地の地方平安仏を訪ねて廻りました。
廻れば廻るほど、益々、仏像の世界に惹き込まれていったのではないでしょうか。


そして卒業、社会人。
一年先に会社員となった私は、仕事に追いまくられ、仏像探訪に時間を割く心の余裕は全く無し。
それから30年ほどは、仏像探訪とは全く縁のない生活を過ごすことになってしまいました。
たまの休日に神田神保町へ出かけ、仏像の本を買うことだけが、仏像の世界にかろうじて心を繋ぎとめる最後の砦、といった処であったでしょうか。

翌年、企業人となった彼は、情けない私とは大違い。
仕事の世界も、趣味・ライフワークの仏像の世界にも、全力投球で取り組むという人生となりました。
川尻さんとの出会いがありました。
川尻裕治氏は、東京寧楽会主宰、神奈川仏教文化研究所所長を務められている仁。
関東古寺の仏像
彼は、関西から上京後まもなく、東京寧楽会20周年行事として刊行された本「関東古寺の仏像」(芸艸堂刊)を見て、自ら寧楽会の門を叩いたそうです。それからは、川尻氏の右腕として、寧楽会主力メンバーとしての活躍が始まり、その縁で、仏教彫刻史研究の第一人者、久野健先生との交流も始まります。
寧楽会の活動を中心に、日本全国各地の仏像探訪だけでなく、韓国・中国などへも、忙しい仕事の合間を縫って、頑張って出かけていたようです。


そして、何よりも特筆しなければならないことは、
この「神奈川仏教文化研究所」のホームページを、ここまで充実したものに、育て上げ、創り上げたことでありましょう。
彼が、このホームページを立ち上げたのは、平成11年(1999)のことでありました。
独力で、細々と立ち上がったホームページは、それから10年余、その内容の多彩さ、充実度では、仏像専門HPの中でも有数の有力サイトに成長しました。
仏像愛好家にとってみれば、なくてはならないHPといっても過言ではないと思います。
その多彩なコンテンツのほとんど全部を、彼一人で創り上げてきたのですから、その大変さと努力たるや並大抵のものではなかったのではないかと思います。
近年は、HPの運営更新、内容充実に、多くのエネルギーをかけ愛情を注いでいました。

もう一つ、アマチュア仏教美術愛好家とは、とても言えないほどの玄人はだしの専門的レベルの知識を有していましたので、共著とはいうものの、何冊もの執筆本を出版したことは、大いに記憶にとどめておかなければなりません。

彼が分担執筆した本は、次のとおりです。
*秘められた百寺百仏の旅  久野健監修  里文出版刊  昭和55年
*仏像鑑賞の旅       久野健編   里文出版刊  昭和56年
*古寺散策         川尻祐治著  里文出版刊  昭和58年
*小百科 彫刻       久野健鑑修  近藤出版刊  昭和60年
*東京近郊仏像めぐり               学研刊    平成21年
*鎌倉仏像めぐり                 学研刊    平成22年

高見執筆本

        
9年ほど前、十数年ぶりという久し振りで、彼と飲む機会がありました。
当然に仏像談義となり、彼から
「ホームページに何か書いて載せてみませんか?最近は少しはヒマになったのでしょう、頼みますよ」
と持ちかけられ、
「こんなロートルの出る幕じゃないと思うけど、記事の埋め草替わりで良かったら」
と書き始めたのが「埃まみれの書棚から~古寺古仏の本~」の連載でありました。
それ以来、私も、時間にも少々余裕が出来たこともあり、学生の頃に還ったように、彼と各地の仏像探訪や秘仏開帳に出かけたり、仏像同好の士との交遊の場にも参画するようになりました。
仕事々々で、全くご無沙汰であった私を、仏像愛好の世界に引き戻してくれ、仏像への情熱を少しばかり蘇らせてくれたのも、彼のお蔭でありました。

彼は、ここ1~2年、地方仏行脚や秘仏開帳などに、良くそこまで頑張るなと思うほどに、精力的に出かけていました。
一昨年には、2度目の中国石窟仏探訪((龍門・鞏県石窟)の旅にもでかけました。
なにやら「見るべき仏像は、絶対見逃すまい」という、気迫・執念のようなものを感じました。
年齢とともに、仕事以外に割ける時間的余裕が出てきたこともあるでしょう。
ただ彼には持病があり、最近年一回は検査入院もしていましたので、元気に動き回れるうちに、
[見たい仏像を、見残すことが無いように]との思いでいるのでは?
なにやら、彼は生き急いでいるのではないか?
ふと、そんな気持ちがよぎるようになったことは、事実でした。
そんな気がかりが、現実になってしまったことは、本当に哀しいことです。

最後に彼に会ったのは、昨年の4月30日、東京国立博物館でありました。
「4月半ばに入ってから、ちょっと体調がすぐれないので、病院にいるけれども、すぐに回復する予定、5月には身内と奈良旅行をするので段取り中」
という話でありました。
ところが、博物館に来た時には、ご子息兄弟が一緒に付き添ってこられ、薬の影響か、ふらつくようで少々痛々しい有様には、びっくりさせられました。

彼がなんとしても観たかったのは、岡山・大賀島寺の千手観音像でした。
大賀島寺千手観音像
この仏像は、その存在が世に知られるようになったのは、数年前のことでした。
平安前期・9世紀の名品、素晴らしい仏像であることが仏教芸術誌に紹介されました。
ところが、33年に一度開扉の絶対秘仏で、出版物にも写真がほとんど載っていない仏像です。
5年ほど前、彼と岡山方面に仏像探訪旅行に行ったときに、「ダメもと」でこの仏像のある大雄山山頂まで行ったのですが、当然に秘仏で拝観を断られて、閉じられた厨子を、恨めし気に眺めた思い出があります。
発見されたのを機に、昨年、一気に重要文化財に指定されることになり、指定に際し二週間に限り、博物館で展観されることになったのです。
ここで観るのを逸すると、向こう十数年、観ることはかなわないことになる仏像です。
彼は、私へのメールで、
「これだけは這ってでもいきたいと思っています。体調との相談ですが,何とかしたいと思っています。」
と送信してきました。

当日、博物館での彼の姿には、本当に心配になりましたが、
私は、彼が最後に「大賀島寺の千手観音像」を眼前に、自分の眼で見ることができて、それで逝ったということは、
彼の仏像人生にとって見れば、きっと「本望」であったのではなかったかと思っております。

まさかそののち10日余で、逝ってしまうとは、想像もつかず、あまりにも突然の哀しみに茫然としてしまいました。
葬儀には、会場に長い行列を成すほどに数多くの方々が参列され、彼の交友関係の広さ、良き人柄を、今更ながらに思い起こさせるものでありました。
謙虚で、誰からも好かれ親しまれ、頼りにされる人柄の人でした。
気さくに、面倒なことでも何でも労を惜しまず引き受けてくれる人でした。
一家の長として、企業人として心より惜しまれる人でありますが、仏教美術愛好の仲間の人々、縁のあった人々からも、本当にその早世を惜しまれる人です。

神奈川仏教文化研究所のホームページは、彼の最も愛着のあった遺産であったと思います。
拙い私ではありますが、このホームページを維持、継続することで、彼の「仏像愛好への思い」を受け継いでいくことになればと、念じております。


朝田 純一 記