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観仏日々帖

こぼれ話~興福寺仏頭 発見の日はいつか?  〈興福寺仏頭発見物語~付けたり〉 【2017.10.21】


「興福寺仏頭発見の日はいつか?」

こんな表題が、ふと目にとまりました。

「論文検索サイトCiNii」で、他のテーマを検索していたら、偶然に、見つけたのです。
こんな論考があったとは、全く知りもしませんでした。

「どのような話が書かれているのでしょうか?」
「興福寺仏頭が発見されたいきさつは、はっきりしているはずなのに、何をいまさら・・・・」

と、一瞬思いましたが、読まないわけにはいきません。

興福寺仏頭(山田寺旧仏)
興福寺仏頭(山田寺旧仏)

このような論考です。

「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」吉崎瑞光執筆  
奈良美術研究第15号 2014年3月刊所載

早速図書館へ出かけて、読んでみました。

吉崎瑞光執筆「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」
吉崎瑞光氏執筆「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」



【仏頭の本当の発見日は一日違うのか ~10/29か? 10/30か?】


論考の中身は、興福寺仏頭の「本当の発見の日」については、

・新出の興福寺「寺務所日誌」には「昭和12年10月29日」と記載されている。

・従来は、「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」(黒田曻義氏執筆)記載の「昭和12年10月30日発見、31日取出し」とされてきた。

「いずれの日が正しいのか、信憑性があるのかを、検討、検証する」というものでした。

「一日違うかどうかなんて、どうでもいいじゃないか!」
「一日違ったところで、興福寺仏頭発見の意義だとか、美術史上の位置づけが、変わったりするのか?」

このようにおっしゃる皆さんも、沢山いらっしゃるのではないかと思います。

そのとおりなのですが、現在、神奈川仏教文化研究所HPに「仏像発見物語」を連載中で、今年7月に「【第6話】興福寺・仏頭(山田寺旧仏) 発見物語」を掲載させていただいたばかりなので、放っておける問題ではありません。

実は、私もHP掲載時に、新出の「寺務所日誌」の日付と、黒田曻義氏執筆「発見記」の日付が相違することに気づいたのですが、そう気に留めはしませんでした。



【新たに明らかになった「興福寺寺務所日誌」の仏頭発見の記載日~10/29】


新出の「寺務所日誌の記録」というのは、2013年9~11月に東京藝大美術館で開催された「国宝興福寺展」に合わせて、興福寺が行った調査によって、初めて明らかになったものだということです。

この「寺務所日誌」の仏頭発見の記録の日付が、「昭和12年10月29日」と記されていたのです。

展覧会開催時の仏頭展公式ホームページ(現在、このHPは抹消され見ることは出来ません)には、この新出の事務所日誌の当該日付部分の画像が掲出され、このような説明が付されていました。

新たに確認された興福寺寺務所日誌の「仏頭発見」の記載(10/29之条)
新たに確認された興福寺寺務所日誌の「仏頭発見」の記載(10/29之条)
2013年開催・仏頭展公式ホームページに掲載


「昭和12年に仏頭が発見された当初は、史実の確認などのため報道は直ちにされず、数日後に報じられた新聞や研究論文などでは、発見された日を10月30日や31日とするものが散見されましたが、本展開催に合わせて興福寺が行った事前調査で、寺の公式記録である寺務所日誌に仏頭が10月29日に発見されたとする記載が残されていることが確認されました。」


吉崎氏は、論考「興福寺仏頭発見の日はいつか」の中で、

「興福寺では、10月29日を『仏頭発見の日』と決められたようである」

と述べ、「本当に10月29日で良いのか」という問題意識で、この論考を執筆されたようです。



【「仏頭発見日」について、語られた資料を振り返る】


「仏頭発見日」に関わる資料の内容についてみながら、吉崎氏の論考のポイントの要約を、ご紹介したいと思います。


仏頭の発見日が、昭和12年(1937)10月30日の夕刻で、翌31日に台座内から取り出したというのは、これまで、疑いのない事実とされていました。



【発見者自ら執筆の「発見記」によると、10/30夕刻に発見】


これは、東寺興福寺東金堂の解体修理を担当し、発見の現場にいた黒田曻義氏が自ら執筆した「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」に、はっきりと書かれているからです。

黒田曻義氏執筆「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」
黒田曻義氏執筆「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」

このように語られています。

黒田曻義氏
黒田曻義氏
「10月30日のそれもタ冷えのする秋の暮色がひそひそと堂内に漂ひ初めた頃であった。
そしてその来迎壁の撤去によって、はしなくも本尊重座内部に、木箱とその上に正面に對って奉安せられた鋳銅の仏頭とを発見したのである。
・・・・・・・・・
翌31日は日曜日であったが、技師も早朝から出て来られ、寺にも通告して総務板橋良玄師、事務長樋口定俊師、信徒総代中村雅眞氏等の立曾いを得て、先づ仏頭を取出した。」

この文章は、昭和12年12月発行の「東洋美術」25号に、「昭和12年11月23日稿」として掲載されたものです。

興福寺仏頭が東金堂薬師像台座下から発見された時の状況
興福寺仏頭が東金堂薬師像台座下から発見された時の状況

自ら発見調査した黒田氏が、その驚きも冷めやらぬ、発見からひと月もたたぬ頃に書かれたものですから、発見日を間違うなどということは、考えられないことだと思われます。



【新たに公開された「興福寺寺務所日誌」には、10/29之条に発見記録が】


ところが、今般、発見日が「昭和12年10月29日」という、興福寺寺務所日誌の記述が発見されたというのです。
仏頭展公式ホームページに掲載された寺務所日誌の画像を見ると、このように記されています。

興福寺寺務所日誌「10/29之条・仏頭発見の記載」
興福寺寺務所日誌「10/29之条・仏頭発見の記載」

「十月二十九日  雨天
目下修繕工事足場取付中ノ東金堂本尊蓋座下ヨリ
旧本尊ノ御首并ニ御首ノ台中唐櫃ノ中ヨリ一尺五寸
位ノ銀ノ御手ヲ発見ス
御首ハ何時代ノ鋳造ナリヤ不明ナレトモ文献ヲ綜合スルニ
治承四年災焼ノ折東金堂衆ニ依テ山田寺ヨリ持
チ来リシモノナラン東金堂本尊ハ山田寺ノモノナリトハ諸
処ニ散見スル所ナリ山田寺最初ノ本尊トスレハ天武天皇
ノ御願ニ依リ石川麿追福ノ為ニ鋳造セラレシモノ也
・・・・・・・・・・」

寺務日誌の「10月29日之条」に記されているのですから、こちらを信用すれば、10月30日ではなくて、一日前の10月29日ということになります。



【発見の後日に書かれたとみられる、寺務所日誌の発見記録~日付相違か?】


仏頭展公式ホームページのコメント作者は、

「発見当初から数日間の鑑定結果を踏まえた形で、後日まとめて詳細に記したと見られ、淡々とした文章ながら、寺内を揺るがす今世紀の発見。であったことが読み取れます」

と、後日、「10月29日付けの記述」がなされたのであろうと推定しています。



【「10/30、仏頭発見の事実は動かず」~吉崎氏の検証の結論】


吉崎氏は、論考において、寺務日誌の記述内容の検討検証を行ったうえで、

「『十月二十九日  雨天』の筆跡と本文の筆跡が、私のような素人でも明らかに異なることがわかるので、29日の記述は、仏頭が旧山田寺本尊であるとの見解が一致したのちに書かれたのであろう」

「恐らく、30日の条に記入すべきものが、29日の条に紛れたものと思わざるを得ない。」

と述べています。

そして、
寺務日誌の日付から、「仏頭発見日を10月29日」とすることは疑問といわざるを得ず、「10月30日発見、翌31日取り出し」とする、当時の修理工事関係者の記録を否定することは不可能だと思われる
と、結論付けています。


また、吉崎氏は、

「10月29日付けの寺務所日誌がいつ頃記入されたと考えられるか?」

という点については、このように述べてています。

「先に紹介した仏頭発見前の足立康の2編の論文や、発見時の関係者の見解が事前に内容を興福寺に開示しているとすれば、11月上旬頃までには、10月29日のような記事ができていたと言うことはなかろうか。」

ここにふれられた、「足立康の2編の論文」というのは、仏頭発見以前に書かれた「興福寺東金堂再建年代考」(「史蹟名勝天然記念物第7集9号・1932.09)と「石川麻呂追福の仏像」(史学雑誌46巻2号・1935)という論文です。
足立康氏は論文で、興福寺東金堂衆が山田寺から薬師三尊像を奪取し東金堂本尊としたことや、その像が蘇我倉山田石川麻呂追福の像であることに言及しています。

吉崎氏は、寺務所日誌の記録者が、この足立説があることを、発見日当日までに既に知っていて、そのように記すことが出来たとは到底思えないと述べ、発見時の関係者の見解が興福寺に示されて以降に、この寺務日誌が書かれたと推定しています。


以上が、「仏頭発見日」に関わる、二つの資料「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」「興福寺寺務所日誌」の内容についてと、吉崎瑞光氏の論考「興福寺仏頭発見の日はいつか」の要約ポイントのご紹介です。



【仏頭発見新聞記事に報じられた発見日は?~発見2日後に10/30と報道】


最後に、私が、当時の新聞記事に書かれたことから、確認できたことについて、付け加えさせていただきたいと思います。

まず、仏頭発見日についてです。

「興福寺仏頭の発見」について、初めて新聞報道されたのは、11月2日の夕刊・大阪毎日新聞等々でした。

大阪毎日新聞11月2日夕刊の発見報道記事
大阪毎日新聞11月2日夕刊の発見報道記事

この大阪毎日新聞の記事には、

「去る10月31日その内陣を解体工事中、本尊薬師如来台座の内部に二重の木箱を発見・・・・・」

と書かれています。

また、11月3日付け大阪朝日新聞記事には、

「去月(注:10月)30日内陣の一部を取り除き、本尊薬師如来後方の十二神将の厨子のはめ板を取外したところ本尊台座の中の箱の上に・・・・・・
古びた仏頭一つが載せてあり、翌31日興福寺、社寺課関係者立会裡に箱を開くと・・・・・・・」

と書かれています。

11月3日付け大阪朝日新聞の発見報道記事
11月3日付け大阪朝日新聞の発見報道記事

これは、発見後2日目の新聞記事であり、黒田氏が、後に発見記に記した「30日発見、翌31日取出しというのが記憶相違」ということはあり得ないでしょう。

万が一にもの可能性としては、興福寺サイドが、なんらかの特別の事情で
「29日の発見を、一日遅れの30日として発表するよう要請した。」
ということもありましょうが、これも考えられないことでしょう。



【仏頭の由来も発見記事と同時に報道~「山田寺旧仏、石川麻呂追福の像」~】


もう一つ、興福寺の寺務所日誌の記録者が、発見された仏頭が「山田寺旧仏、蘇我倉山田石川麻呂追福の像」である可能性を、すぐに認識していたのかどうかということです。

大阪朝日新聞11月3日(11/2夕刊?)の発見報道記事
大阪朝日新聞11月3日
(11/2夕刊?)の発見報道記事
11月3日付(11/2夕刊記事か?)の大阪朝日新聞記事には、

「岸古社寺技師、足立康博士らが調査した結果、文治3年に東金堂衆が大挙して山田寺に押し寄せ、講堂から奪取した丈六の薬師如来像の仏頭ではないかと見られるに至った。

この山田寺の薬師堂は、天武天皇が創立者の石川麿御追福のために御寄進あらせられたもので、東金堂に移されその本尊として安置され後に罹災したものである。・・・・・」

と、早くもその伝来について、はっきり記されています。

寺務所日誌の記録者は、発見後すぐ調査関係者からの報告により、「山田寺旧仏、蘇我倉山田石川麻呂追福の像」である可能性を知ることとなったでしょうし、もしかしたら、仏頭発見以前から、この伝来についての話も知っていたかもしれません。



このような新聞報道の記事を振り返ってみても、仏頭の「30日発見、翌31日取出し」の事実は、動くことがないようです。

また、「10月29日付けの寺務所日誌」の事後記入のタイミングについても、発見から数日後もたたぬうちということも、十分考えられるのではないでしょうか。



いずれにしても、冒頭にふれさせていただきましたように、仏頭発見の日が、たった一日違ったところで、何の影響もないと云って差し支えないでしょう。

余りに些細なことにこだわった話でしたが、HP連載「興福寺仏頭発見物語」に関連するテーマとして、紹介させていただきました。


今後、興福寺において、10月29日を「仏頭発見の日」とするようになるとすれば、これから多くの年月を重ねていくうちに「10月29日発見」が、定説、事実として語られていく時が来るのかもしれません。


こぼれ話~奈良の仏像写真家、「鹿鳴荘」永野太造氏のこと  【その2】  【2017.8.26】


ここからは、永野太造氏が、戦後「鹿鳴荘」店主となり、仏像写真家としての知られるようになっていく軌跡を振り返ってみたいと思います。


【戦後、三代目「鹿鳴荘店主」となった永野太造氏~仏像写真はズブの素人で独学】


永野太造氏が、鹿鳴荘の店主となったのは、戦後のことです。

永野氏は、大正11年(1922)8月16日大阪市生まれ。
戦前は、大阪市内の料亭鶴屋で板場修行をしていたということです。
戦後、軍隊から復員後、父方の伯父が営んだ永野鹿鳴荘を継ぐことになりました。
永野太造氏、20歳代のことかと思われます。

永野氏は、写真についてはズブの素人だったのですが、長谷川伝次郎「大和仏像写真展」に刺激を受けて写真撮影を始めたということです。

写真家・長谷川傳二郎氏長谷川傳二郎撮影仏像写真~法隆寺・夢違観音像
写真家・長谷川傳二郎氏と、同氏撮影~法隆寺・夢違観音像

まさに、独学、独力で写真撮影技術を習得していったのでした。

永野氏自身は、写真を始めたころについて、昭和57年の日本経済新聞・文化欄の記事で、このように語っています。

永野太造撮影薬師寺東院堂・聖観音像
永野太造撮影~薬師寺東院堂・聖観音像
「復員して店を継いだ私は、大阪の大丸百貨店で長谷川伝次郎さんが撮影した『大和仏像写真展』を見た。
その写真に刺激を受けて、独学で写真を撮り出した。

まず許可のいらない石仏や仁王さんなどを写して修行していたら、薬師寺の橋本凝胤長老が、『しっかりやれ』と応援して下さった。

最初にとった仏像は、薬師寺の東院堂にある『聖観音』である。
その後は橋本長老に紹介して頂き、いろんな寺を写して回った。」
(「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」1982.9.18付日本経済新聞朝刊)

この日経新聞掲載「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」は、永野太造氏自ら執筆したもので、浄瑠璃寺・吉祥天像の厨子の修復運動からスタートし、仏像鑑賞見学会に発展した「吉祥会」の活動などを、世話役の永野氏が紹介するというものです。

この中で、自身が、仏像写真家となったいきさつ、足跡などに少しだけ触れられています。
この新聞記事が、永野氏が写真家人生を回顧して語った唯一の文章ではないかと思われます。、



【小林剛氏との出会い~仏像写真家として大きな飛躍のキッカケに~
~奈文研・草創期を支えた写真家として活躍】

小林剛氏
小林剛氏
そのような永野太造氏が、仏像写真の専門家として、大きく飛躍したのは、小林剛氏との出会いでした。

ご存じのとおり、小林剛氏は奈良国立文化財研究所所長をつとめた仏教彫刻史研究の大御所ともいえる著名な研究者です。
ちょっと年配で仏教美術にご関心ある方なら、その名を知らない方はおられないでしょう。

小林剛氏は、昭和27年4月、新たに設立された奈良文化財研究所の美術工芸研究室長として着任します。
設立当初の奈良文化財研究所は奈良博の近く、現在の仏教美術資料研究センターの建物に置かれました。

開設当初、奈良国立文化財研究所が置かれた、現仏教美術資料研究センター
開設当初、奈良国立文化財研究所が置かれた、現仏教美術資料研究センター

いきさつは判りませんが、小林剛氏は、鹿鳴荘・永野太造氏に、仏像をはじめとする文化財写真の撮影を依頼します。
以降、小林剛氏と共に、長きにわたり、各地をめぐり膨大な写真撮影に携わることになります。

永野氏は、このように回顧談を語っています。

「昭和27年、奈良国立文化財研究所が設立、小林剛先生が彫刻室長になって来られた。
幸いなことに小林先生から調査のための写真の応援を依頼され、以後、一緒に15年間、仏像、経巻、工芸品、絵画、建築など無数の文化財を撮って回った。
東は岩手、西は大分まで足を延ばし、一年の内10か月は家に帰らなかったこともある。
ネガは、2万点ほどになったろう。」
(「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」1982.9.18付日本経済新聞朝刊)

この小林剛氏とのコンビによる写真撮影の実績によって、仏像写真の専門家としての地位を名実ともに築くことが出来たのだろうと思います。



【小林剛氏著書の掲載写真の多くは、永野太造撮影写真】


小林剛氏は、昭和44年(1969)に急逝するまで、自身の仏教美術の著作で、永野太造氏の撮影写真を用いるようになっていったようです。

永野大造氏の写真を掲載したことが明記されている著作をピックアップしてみると、以下のものがありました。

永野太造氏撮影写真掲載が明記された、小林剛氏著作


「日本彫刻美術」小林剛・松本楢重著、永野太造写真(鹿鳴荘1953年刊).「浄瑠璃寺」小林剛・森蘊著、永野太造写真(鹿鳴荘1957年刊)

「奈良の美術」小林剛著・永野太造写真(創元社1958年刊).「肖像彫刻」小林剛著(吉川弘文館1969年刊)



【古くから、古美術関係書を出版していた「鹿鳴荘」】


小林剛氏の著作の中に、出版社が「鹿鳴荘刊」となっているものがあるのに、お気づきになったと思います。

鹿鳴荘は、永野太造氏の先代の頃から、茶店写真販売などの他に、古美術関係書の出版も手掛けていました。
私が調べてみた限りでは、次のような出版物が鹿鳴荘の手で刊行されていました。

鹿鳴荘によって刊行された出版物の一覧


鹿鳴荘刊「仏像通解」..鹿鳴荘刊「奈良県下国建見学提要」

鹿鳴荘刊「仏像彫刻案内」鹿鳴荘刊「仏像彫刻~知識と鑑賞」


永野太造氏が発行人になっている3冊には、もちろん永野太造撮影写真が使われています。



【美術書に、ポスターに、~広く知られるようになった「永野太造の仏像写真」】


小林剛氏とコンビで写真撮影を担った永野氏は、まさに昭和27年(1952)に創立された奈文研の専属写真家のような仕事ぶりであったと思われ、「奈良文化財研究所の草創期を支えた写真家」ともいえる存在でした。

昭和31年には、近畿日本鉄道制作「奈良大和路」ポスターが、国際観光ポスター展グランプリを受賞します。

国際観光ポスター展グランプリを獲得したポスター~永野太造氏撮影、東大寺法華堂・月光菩薩像~
国際観光ポスター展グランプリを獲得したポスター~永野太造氏撮影、東大寺法華堂・月光菩薩像~

このポスターの東大寺法華堂・月光菩薩像の写真を撮ったのが、永野太造氏でした。
こうしたなかで、仏像写真家としての名声、地位も、着々と確立していったと思われます。

永野氏の仏像写真は、ポスターやカレンダーなどにも、多く使われるようになりました。
また、六大寺大観などの掲載写真も、そのいくつかを永野氏が撮影しています。

冒頭にもご紹介したように、

奈良六大寺大観・第14巻「西大寺」(岩波書店・1973年刊)

大和古寺大観・第5巻のうちの「不退寺」(岩波書店1978年刊)

大和古寺大観・第7巻のうちの「浄瑠璃寺」(岩波書店1978年刊)

古寺巡礼シリーズ (淡交社・1979年刊)

の掲載写真は、永野太造氏の撮影によるものです。

奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(四仏像)
奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(四仏像)

奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(愛染明王像)
奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(愛染明王像)

大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(九体阿弥陀像)
大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(九体阿弥陀像)

大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(吉祥天像)
大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(吉祥天像)



【唯一の個人写真集となった本~「奈良の仏像 七十」】


仏像写真家として著名であった永野太造氏ですが、個人の仏像写真集を出版するということはありませんでした。

唯一の仏像写真集と云える本は、奈良の美術印刷の老舗、岡村印刷工業の創業70周年を記念して出版された、

「奈良の仏像七十」  写真:永野太造 解説:青山茂 1990年4月刊 非売品

という、大型豪華本です。

永野太造唯一の個人写真集ともいえる、「奈良の仏像七十」(岡村印刷工業1990年刊)

この写真集は、岡村印刷工業が毎年制作してきた「古彫塑カレンダー」の中から、70点の仏像写真を選んで、創業70周年記念の贈呈配布用に作った本です。
この「古彫塑カレンダー」シリーズの仏像写真を、昭和30年(1955)の第1集以来、直近第36集まで、撮影していたのが永野太造氏でした。

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(東大寺戒壇堂・増長天像)
「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(東大寺戒壇堂・増長天像)

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(聖林寺・十一面観音像)
(聖林寺・十一面観音像)

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(法華寺・十一面観音像)
(法華寺・十一面観音像)


永野太造氏は、平成2年(1990)に、68歳の若さで逝去しました。
その1年ほど前に転んで頸椎を損傷したことが原因で、急逝されたということです。

奇しくも、亡くなった年に出版された「奈良の仏像七十」が、永野氏唯一の個人写真集、遺著となりました。


【永野の遺品、膨大なガラス乾板資料が、帝塚山大学に寄贈へ
~貴重な仏像写真資料の永続保存実現】

鹿鳴荘では、永野太造氏が亡くなられてから、しばらくの間は、仏像写真や美術図書の販売など続けられていましたか、太造氏の御長男が急逝されたこともあってか、いつの頃からか、茶店土産物販売に専念されるようになり、現在の姿での営業となっているようです。

仏像写真を継ぐ人がいなくなってしまったなかで、太造氏が残した仏像写真や関係資料が、散逸したり、失われてしまうこともあるのではないかとの心配もあった訳ですが、冒頭でご紹介したように、平成27年(2015)、膨大な「ガラス乾板資料」等が、帝塚山大学に寄贈されることになったのでした。



【寄贈実現へのいきさつ~永野氏写真パネル「展示実習」企画展がきっかけ】


寄贈が実現した経緯は、次のようなものであったようです。

帝塚山大学と鹿鳴荘・永野太造氏との縁のはじまりは、青山茂氏であったようです。
青山茂氏は、『斑鳩の匠 宮大工三代』など、いわゆる「奈良学」に関する多数の著作で知られた仁ですが、長らく帝塚山短期大学教授の職にありました。
永野太造氏との交流もあり、永野氏の写真集「奈良の仏像七十」の解説執筆も青山氏によるものです。
また、青山氏は、永野氏撮影の仏像写真パネル100枚以上を、大学で購入していました。

「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻~永野鹿鳴荘の写真作品から」ポスター
平成26年(2014)1月、大学博物館に保管された、この写真の確認と、写真パネル展示実習の目的で、博物館実習生による「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻~永野鹿鳴荘の写真作品から」という企画展示が行われました。
この企画展示の準備作業で、鹿鳴荘の永野太造氏の子息、息女に協力を仰ぐことになり、これがきっかけとなり、将来的な一括保存の希望を受けて、写真資料の寄贈の実現へと至ったということです。

寄贈された「ガラス乾板資料」の総数は、6934枚という膨大なものです。
昭和27年(1953)から46年(1965)の間に、撮影されたもので、永野氏はこの20年間、ガラス乾板を使用して撮影していたと思われます。

「ガラス乾板」というのは、今ではなじみがありませんが、感光する写真乳剤を塗ったガラス板のことで、この乾板をもとに写真を焼き付けるものです。
フィルム写真が普及レベルアップする前の、明治から昭和40年代にかけて、学術、美術写真などで使用されていたものです。

永野太造氏撮影のガラス乾板
永野太造氏撮影のガラス乾板

鹿鳴荘・永野氏宅に残された膨大なガラス乾板の保管の様子
鹿鳴荘・永野氏宅に残された膨大なガラス乾板の保管の様子

近代奈良の仏像写真史を語るうえでの、大変貴重な写真資料が、帝塚山大学博物館で永続的に保存されることになった訳で、本当に喜ばしいことだと思います。



【近代奈良の文化史を語るうえで、忘れてはならない永野氏の功績】



最後に、永野太造氏がのこした、特筆すべき功績を二つご紹介しておきたいと思います。

自身の写真撮影そのものとは、ちょっと違うのですが、忘れてはならない話だと思うのです。



【奈良古美術写真の草分け、「工藤精華」写真資料の、奈良市への寄贈保存に尽力】


第一は、奈良の古美術写真の草分け、工藤精華の遺した写真資料の散逸を防ぎ、奈良市への寄贈に尽力し、その実現を果たしたのが永野太造氏であるということです。

ご存じのとおり、工藤精華(利三郎)は、奈良の地で仏像写真の専門家として、はじめて古美術写真を撮影し、営業した人物です。
明治26年(1893)、奈良市へ移り住み、猿沢池東畔の菩提町に写真館「工藤精華堂」を開業しました。
そして豪華写真集「日本精華」全11輯を、明治41年(1908)から大正15年(1926)まで、18年間にわたり個人出版により刊行しました。

工藤精華刊「日本精華」「日本精華・第一輯」1908年刊
工藤精華が個人出版で刊行した「日本精華」

「日本精華」に収録されている、奈良の古仏像の写真は、当時のありのままの姿を伝える誠に貴重な写真資料となっています。

「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、興福寺・阿修羅像写真~明治修理の前の手が損傷した写真~
「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、興福寺・阿修羅像写真
~明治修理の前の手が損傷した写真~


「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、三月堂・月光菩薩像写真~明治修理で手先が修復される前の写真~
「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、三月堂・月光菩薩像写真
~明治修理で手先が修復される前の写真~


工藤精華の遺した写真資料は、永野太造氏の尽力などにより、昭和42年(1967)に奈良市に寄贈され、現在は、入江泰吉記念奈良市写真美術館に所蔵されています。
2008年には、ガラス乾板1025点が、貴重な近代文化史料として、国登録有形文化財に登録されるに至りました。

工藤精華の写真資料が所蔵されている入江泰吉記念奈良市写真美術館
工藤精華の写真資料が所蔵されている入江泰吉記念奈良市写真美術館

工藤精華の生涯などについては、以前、神奈川仏教文化研究所HPの「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」「精華苑 工藤利三郎」として採り上げていますので、ご覧ください。



【散逸寸前だった、工藤精華ガラス乾板等資料の保存を提唱、市寄贈に向け奔走】


奈良市への寄贈に至るいきさつを、振り返ってみたいと思います。

工藤精華は、昭和4年、81歳で逝去します。
工藤の撮影した写真とガラス乾板は、養女であるコトノさん(お琴さん)のもとに残されていました。
お琴さんは、戦後、何度か、この写真資料の売却処分を考えたようですが、当時は、なかなか、買い手、引き取り手が見つからなかったとの話です。

そのお琴さんも、昭和39年、80歳で逝去します。
遺品となった、工藤精華の写真資料の保存を提唱し、工藤精華の名を残すべく、市への寄託を実現したのが、永野太造氏だったのです。

「奈良いまは昔」(北村信昭著)という本には、そのいきさつについて、このように語られています。

「昭和39年(1964)2月2日、お琴さん(故・工藤精華の養女)は今小路の桜井病院で80歳の生涯を閉じられた。
鹿鳴荘主・永野太造ら近隣役員10名程が世話、特に同月5日、山の寺での告別式は永野さんが力になられたと仄聞している。

尚、すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた膨大な量のコロタイプ写真を保存し、写真原版と共に市に寄託、工藤利三郎の名を残すことを主張し、その実現を見たのも鹿鳴荘主の提唱によるものであった。

近年、工藤精華堂が俄かにクローズアップされ、新聞記事にもなり、NHKのテレビでも紹介されたが、それまでのプロセスには以上のような裏話があったわけである。」
(「奈良いまは昔」北村信昭著・奈良新聞出版センター1978年刊)

今では、工藤精華の仏像写真は、奈良市写真美術館のHPに、主要収蔵品として紹介掲載されるなど、貴重な明治大正期の古美術写真と広く知られるようになっていますが、
永野氏が奈良市への寄贈を実現した昭和42年頃は、それほどに世の認知を受けていなかったのだと思います。

「すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた」

というエピソードも、決して誇張した話ではなかったのでしょう。

忘れ去られようとしていた工藤精華の写真資料。
その貴重性を認識し、後世に残そうという永野太造氏の提唱が無かったならば、
また、その実現に奔走した無償の尽力が無かったならば、
これらの資料は、散逸し失われてしまった可能性は、大いにあったのではないでしょうか。

今では「国登録有形文化財」にも登録されている、工藤精華のガラス乾板資料の保存を実現した、鹿鳴荘・永野太造氏の功績は、忘れてはならないものだと思います。



【浄瑠璃寺・吉祥天像「厨子の復元実現」めざす「吉祥会」
~発起人一員として永野氏が一手に世話役を】

もう一つの永野太造氏の功績は、長年にわたる「吉祥会」の主催運営ではないでしょうか。

「吉祥会」というのは、浄瑠璃寺・吉祥天像の保護と、厨子扉絵の復元修理の実現を目指して、多くの人々から浄財を集める会として、昭和32年(1957)に発足したものです。

浄瑠璃寺・吉祥天像
浄瑠璃寺・吉祥天像

浄瑠璃寺の吉祥天像は、戦前は博物館に寄託されていましたが、昭和27年(1952)にお寺に戻ってきました。
吉祥天像は帰ってきたのですが、お祀りする厨子の方は、その三面の扉と後壁羽目板が、寺外に流出してしまっていたのでした。
扉は、弁財天、梵天帝釈天、四天王像が描かれた鎌倉時代のものですが、明治時代に寺外に流出し、現在は、東京藝術大学の所蔵となっているのです。

明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~弁財天像

明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~梵天像..明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~帝釈天像
明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)
上段:弁財天像、下段(左):梵天像、(右)帝釈天像



この扉絵を模写復元し、厨子の修復を実現しようというのが「吉祥会」で、その会長は浄瑠璃寺の吉祥天様という会です。
当時の浄瑠璃寺住職・佐伯快龍師、奈良国立文化財研究所・小林剛氏が中心となり、永野太造氏も発起人の一人として、会の運営推進の世話役を一手に引き受けたのでした。
おそらく、小林剛氏と永野太造氏とのコンビ関係が、「吉祥会」発足の大きな力になったのではないでしょうか。
会発足の昭和32年(1957)には、小林剛、永野太造両氏の合作共著ともいえる力のこもった一冊「浄瑠璃寺」(鹿鳴荘刊)が、出版されています。

「吉祥会」の尽力の甲斐あって、会の発足から19年を経ましたが、昭和51年(1976)、厨子の復元は見事に実現しました。

扉板と背面板は美術院で製作し、描かれた絵の模写は、原画の所蔵先である東京芸大美術学部保存技術研究室によって行われました。

復元修復なった厨子に安置された浄瑠璃寺・吉祥天像
復元修復なった厨子に安置された浄瑠璃寺・吉祥天像



【厨子復元実現後も、息長く続いた「吉祥会」~平成18年には開催500回迎える】


吉祥会500回記念誌「吉祥 第7号」
吉祥会500回記念誌「吉祥 第7号」
厨子修復の目的は実現した「吉祥会」ですが、併せて開かれていた古社寺・古美術見学会の方はその後も継続し、専門家の講師を迎えて、毎月開催されました。

平成18年(2006)には、なんと吉祥会は開催500回を迎え、記念誌「吉祥 第7号」も発刊されています。

永野氏は、厨子の修復にも尽力されましたが、定例の「吉祥会」の見学会の方も、見学寺院との折衝、会員への案内連絡など一手に引き受け、会の運営を担っていたということです。



【おわりに~記憶にとどめておきたい「鹿鳴荘・永野太造」の足跡】


鹿鳴荘と永野太造氏の話が、少々長くなってしまいました。

奈良博前の茶店、「鹿鳴荘店主・永野太造氏」が、ただただ茶店の店主として終わることなく、

奈文研を支えた写真家として、近代奈良の仏像写真家の一人として、大いなる業績を残した人物であること、

工藤精華写真資料の保存、浄瑠璃寺吉祥天厨子復元実現などに無償の尽力、奔走を行った、近代奈良文化史を語るに、忘れられない人物であること、

など、その軌跡を振り返ることが出来ました。

かつて、HP「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」の中で、「鹿鳴荘・永野太造」についてふれた時には、仏像写真家としての足跡などがほとんどわからなかったのです。

その後、ガラス乾板の帝塚山大学への寄贈を機に、論考も発表され、また、永野氏に関するいくつかの資料を見つけることが出来て、永野太造氏の仏像写真家としての軌跡、その他の功績について、いろいろ知ることが出来ました。



一度、永野氏の足跡を、記憶にとどめ振り返っておきたいと思って、判る範囲ではありますが、「奈良の仏像写真家、『鹿鳴荘』永野太造氏のこと」を、掲載させていただきました。


こぼれ話~奈良の仏像写真家、「鹿鳴荘」永野太造氏のこと [その1]  【2017.8.20】


仏像写真家、永野太造氏と「鹿鳴荘」のことを、振り返ってみたいと思います。

永野太造(ながのたぞう)氏は、戦後活躍した、奈良の仏像写真家です。
飛鳥園の小川晴暘、光三氏や、入江泰吉氏ほど著名ではありませんが、奈良在住の仏像写真家としてはよく知られた存在でした。

鹿鳴荘店主・永野太造氏
仏像写真家・鹿鳴荘店主~永野太造氏

奈良六大寺大観「西大寺」、大和古寺大観「不退寺」「浄瑠璃寺」の仏像写真や、淡交社刊行の「古寺巡礼シリーズ」(昭和54年・1979)の掲載写真などは、永野太造氏の撮影によるものです。
永野氏撮影者写真を、いくつかご覧ください。

西大寺・四仏坐像(宝生如来像)~奈良六大寺大観第14巻「西大寺」掲載写真
西大寺・四仏坐像(宝生如来像)~奈良六大寺大観第14巻掲載写真

西大寺・四天王像(増長天邪鬼)~奈良六大寺大観第14巻「西大寺」掲載写真
西大寺・四天王像(増長天邪鬼)~奈良六大寺大観第14巻掲載写真

浄瑠璃寺・九体阿弥陀仏像(中尊)~大和古寺大観第7巻掲載写真
浄瑠璃寺・九体阿弥陀仏像(中尊)~大和古寺大観第7巻掲載写真

浄瑠璃寺・吉祥天像~大和古寺大観第7巻掲載写真
浄瑠璃寺・吉祥天像~大和古寺大観第7巻掲載写真

ちょっと年配の方には、「奈良博前の鹿鳴荘店主・永野太造」といった方が、馴染みがあるのかもしれません。



【仏像写真と茶店で親しまれた、奈良博前「鹿鳴荘」】


奈良国立博物館「なら仏像館」の東玄関を出たところの傍に、「鹿鳴荘」という茶店があります。

奈良国立博物館・なら仏像館~向かって正面右傍に「鹿鳴荘」がある
奈良国立博物館・なら仏像館~向かって正面右傍に「鹿鳴荘」がある

現在の「鹿鳴荘」~飲み物・土産物を求める観光客で賑わう
現在の「鹿鳴荘」~飲み物・土産物を求める観光客で賑っている

今は、ソフトクリームとか飲み物を売るスタンドのようなお店となっていて、店の前はいつも修学旅行の学生たちで大賑わいです。
この店の屋号が「鹿鳴荘」というのだ、というのを知っている人は、段々少なくなっているのではないでしょうか。

この「鹿鳴荘」、その昔は、仏像写真を販売する店で、茶店も兼ねていました。
永野太造氏は、「鹿鳴荘」の店主で、自身が撮影した仏像写真を販売していたのでした。

2006年当時の鹿鳴荘の外観
2006年当時の鹿鳴荘の外観~仏像写真を販売していた頃が偲ばれる

掲げられていた「鹿鳴荘」の扁額
掲げられていた「鹿鳴荘」の扁額

当時、奈良国立博物館に行った帰りに、「鹿鳴荘」に寄ってみたことを、懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。

私の若い頃には、壁には、額に入れた立派な仏像写真パネルが沢山飾られており、手前の台には、木枠の格子の中の一つひとつに、手札型くらいの仏像写真が、ぎっしりと並べられていました。

鹿鳴荘の中の壁面に掲げられた仏像写真パネル
鹿鳴荘の中の壁面に掲げられた仏像写真パネル

私も、何度か、そのなかから仏像写真を購った思い出があります。
永野太造氏、ご本人が、応対に出られていたこともありました。

私が鹿鳴荘でかつて購入した仏像写真
私が鹿鳴荘でかつて購入した仏像写真

仏像写真の販売は、永野太造氏が平成2年(1990)に没した後、しばらくは続けられていましたが、その後、閉じられてしまい、「鹿鳴荘」は現在のような姿になっています。



【今では、無くなってしまった仏像写真専門の販売店】


近代奈良で、「仏像写真家が経営する写真販売店」で知られた店と云えば、

・明治大正年間では、工藤精華(利三郎)の「工藤精華苑」

・大正末年開業の、小川晴暘の「飛鳥園」

・明治年間開業で、戦後、永野太造が店主となった「鹿鳴荘」

の三つの名が、挙げられるのではないでしょうか。

残念ながら、現在も仏像写真販売の店として営業している処はありません。

「飛鳥園」の「仏像写真ギャラリー」という立派な写真販売ショップは、最近まで営業していたのですが、一昨年、2015年11月に、とうとう閉店となってしまいました。

閉店となった「飛鳥園仏像写真ギャラリー」
閉店となった「飛鳥園仏像写真ギャラリー」

仏像写真の「飛鳥園」の事業は、現在も変わりなく営業されているのですが、写真販売のショップギャラリーは閉じられたということです。
NETの画像などが簡単に検索出来てしまう現代では、「仏像写真の販売」という商売は、なかなか需要が無くなってしまっているのでしょう。



【採り上げた本が見つからなかった、鹿鳴荘・永野太造氏の話】


工藤精華、小川晴暘、入江泰吉をはじめとする「奈良の仏像写真家」の話は、以前に、神奈川仏教文化研究所HPの「埃まみれの書棚から~奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」という連載で採り上げ、紹介させていただいたことがあります。

その中で、「鹿鳴荘・永野太造氏の話」も採り上げたのですが、その時は、残念ながら詳しくご紹介することが出来ませんでした。
永野氏の足跡や、その人についてふれた文章、資料などが、見当たらなかったのです。
少し調べてみたのですが、見つけることが出来ませんでした。。

何とか永野氏のことについて知りたいと、6~7年前に、「鹿鳴荘」を訪ねて、

「永野太造氏のことを知りたいのですが、教えていただけませんでしょうか?」

とお願いをしてみましたら、太造氏の次男の方から、鹿鳴荘の歴史と永野太造氏が仏像写真家となったいきさつや、父君の思い出話を聞かせていただくことが出来ました。

その時にお聞きした話は、HP「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者~(6)鹿鳴荘 永野太造」の項で、紹介させていただいた通りです。

その折にも、ご子息から
「父君は、平成2年(1990)、68歳で亡くなったが、太造氏について書かれたものは、何も残されていない。
残された写真をせめてデジタル映像化して残しておきたいと思っているが、手が付けられていない。」
と、お聞きしました。

この話をお聞きしたとき、
「残念なことながら、時代はどんどん変わり、移ろい行くものだなあ・・・・
『仏像写真家・永野太造』のことも、『仏像写真の鹿鳴荘』のことも、だんだん忘れ去られていくのだろうか?」
と、寂しい気持ちになった記憶があります。



【帝塚山大学に寄贈された「永野太造写真資料」~記念展覧会もいくつか開催】


一昨年の暮れ、2015年12月のことです。
「仏像写真家・永野太造展」ポスター~2015.12開催
「仏像写真家・永野太造展」ポスター~2015.12開催

こんな展覧会ニュースが目にとまりました。
「仏像写真家・永野太造展」
が、奈良県文化会館で2日間(12/12~13)だけ開催されるというのです。

「どうしてこんな展覧会が?」

とビックリしたのですが、

なんと、
「帝塚山大学に、永野太造氏撮影の写真ガラス乾板、約7000枚が寄贈されることになった」
ということです。

これを記念して、写真作品とガラス乾板を展示する展覧会の開催となったのでした。

「これで、永野太造氏の写真原版が、散逸したり失われたりせずに、長らく守られることになった。」

と、ホッとしたというか、嬉しい気持ちになりました。

奈良県文化会館での「仏像写真家・永野太造展」開催風景
奈良県文化会館での「仏像写真家・永野太造展」開催風景


このガラス乾板の寄贈、記念展覧会の開催を契機に、「奈良の仏像写真家、永野太造」を回顧する展示会などが、立て続けに開催されています。

「永野太造展―永野鹿鳴荘ガラス乾板資料を中心に―」  2016年12月(帝塚山大学付属博物館)

「永野太造作品展―草創期の奈文研を支えた写真家―」  2017年5月(平城宮跡資料館)

「永野太造展―永野鹿鳴荘ガラス乾板資料を中心に―」ポスター~2016.12開催「永野太造作品展―草創期の奈文研を支えた写真家―」ポスター~2017.5開催


また、帝塚山大学の服部敦子氏による、永野太造氏の業績や軌跡をたどる講演会の開催、論文発表なども行われました。

講演会「写真家・永野太造氏の軌跡」  永野太造展記念講演会2015.12.12

論文「永野太造氏撮影ガラス乾板資料の寄贈経緯とその資料性について」(服部敦子)  帝塚山大学付属博物館報11号2016.3


これまで、業績などについて振り返られた資料がなく、

「このまま忘れ去られてしまうのだろうか?」

と思っていた、永野太造氏でしたが、これらのイベントなどを契機に、思わぬスポットライトがあてられることになりました。
「写真家としての軌跡」について随分明らかになり、知ることが出来ました。

そこで、現在判る範囲で「鹿鳴荘のこと」「永野太造氏のこと」について、振り返っておきたいと思った次第です。
HP連載「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」の「永野太造氏についての追加編」としてご覧いただければ有難い処です。



【明治30年、奈良帝国博物館前の茶店として開業した「鹿鳴荘」】


まずは、「鹿鳴荘」の歴史を振り返ってみたいと思います。

「鹿鳴荘」は、明治30年(1897)に、現在の地に開業したようです。
奈良帝国博物館が開館したのは明治28年(1895)のことですから、その2年後、博物館の指定によって博物館公園内に茶店として建てられたということです。

明治28年開設時の奈良帝国博物館
明治28年開館当時の奈良帝国博物館

永野太造氏は、「鹿鳴荘」の三代目主人です。
初代、二代目は写真家ではありませんでしたが、茶店と併せて、仏像写真の販売や古美術関係の本の出版なども手掛けていたようです。



【大正末年の「鹿鳴荘の有様」を偲ぶ、古い小冊子~「目録」】


最近、たまたま、こんな珍しい冊子を、古書店で手に入れました。
大正年間の「鹿鳴荘」の取り扱い販売目録で、42ページの冊子となっています。

「目録 古美術写真及図書類 第1回 奈良博物館苑内  鹿鳴荘」

という標題で、大正14年(1924)年に発刊されています。

永野太造氏が店主となる前、二代目の頃のものです。
冊子の表紙、写真目録の一部などをご覧ください。

大正14年頃発刊の鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録
大正14年頃発刊の鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録

鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録の目次
鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録の目次

古美術写真(仏像の焼付写真)の目録ページ(497種類掲載)
古美術写真(仏像の焼付写真)の目録ページ(497種類掲載)

奈良帝室博物館発行コロタイプ写真の目録ページ(種類掲載)
奈良帝室博物館発行コロタイプ写真の目録ページ(125種類掲載)

鹿鳴荘の宣伝、来店促進するページ
鹿鳴荘の宣伝、来店促進するページ

古美術写真(仏像の焼付写真)は、497種類
奈良帝室博物館発行コロタイプ写真は、125種類
目録掲載されています。
他には、仏教美術関係の図書の販売取扱も行っていたようです。
販売していた仏像焼付写真については、当時は店主が写真家ではなかったはずなので、どなたかの撮影のものを販売していたのでしょう。

いずれにせよ、大正年間の終わりには、「茶店兼古美術写真販売」という営業スタイルが確立されていたようです。



【その2】では、永野太造氏が鹿鳴荘店主となり、仏像写真家としての地歩を築いていく足跡を辿っていきたいと思います。


トピックス~「唐招提寺・仏の手の掌に埋め込まれたもの」仏像の手の話⑧  【2017.7.22】



「仏像の手の掌の中に、何か納入物が埋め込まれている。」

そんな話を、聞かれたことがあるでしょうか?

  
仏像の体内(内刳りの中)に納入物が納められている、いわゆる像内納入品、体内納入物の話については、皆さん、よくご存じのことと思います。

体内に納入物が納められている仏像は、数え切れないほど数多くあります。

そのなかでも、

五臓六腑が納められた、清凉寺・釈迦如来像

極彩色の心月輪・蓮台が納められた、平等院鳳凰堂・阿弥陀如来像

厨子入り檀像、板彫五輪塔、水晶珠・心月輪が納められた、興福寺北円堂・弥勒仏像

などは、超有名処といって良いのではないでしょうか。

986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像清凉寺・釈迦如来像の体内に納入された布製の五臓六腑
986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像と体内に納入された布製の五臓六腑

定朝作~平等院・弥陀如来像平等院・弥陀如来像の体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台
定朝作~平等院・弥陀如来像と体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台

運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像興福寺北円堂・弥勒仏像の体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など
運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像と体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など

ところが、体内の内刳りの中ではなくて、体の一部分に、納入物が埋め込まれているという話は、あまり聞いたことがありません。



【唐招提寺には、手の掌に納入物がこめられた仏像が・・・】


これからご紹介するのは、

「唐招提寺には、仏像の手の掌の中に、納入物が納められた像が何躯かがある。」

という話です。

何故だかはわからないのですが、「手の掌に、納入物が納められている仏像」が存在するのは、唐招提寺に残された仏像だけなのです。

「金堂・廬舎那仏坐像の手の掌の中と、瞳の奥に、珠が」

「木心乾漆菩薩像2躯の手の掌の中に、珠が」

「金堂・薬師如来像の手の掌の中に、古銭が」

それぞれ、納められているのです。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像2躯、(左)伝観音像

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

現在、発見されている限りでは、唐招提寺の仏像以外で、手の掌への納入品が確認された例は、全くないのです。

何とも、不思議なことです。



【本尊・廬舎那仏の両手には、埋め込まれた数珠玉が~X線撮影で判明】


廬舎那仏像の手のなかから納入物が発見、確認されたのは、近年のことです。
それまでは、全く知られていませんでした。

発見のいきさつを、ちょっと振り返ってみたいと思います。

平成15年(2003)4月、こんな新聞報道がありました。

「X線撮影で本尊の両手に埋め込まれた数珠玉が判明 奈良・唐招提寺金堂」
(毎日新聞)

「鑑真の遺品? 謎の珠 仏の力増す? <唐招提寺本尊>」
(朝日新聞)

という見出しです。

唐招提寺金堂は、2000年から10年がかりでの解体修理、「平成の大修理」が行われました。
その間、2003年に廬舎那仏像と千手観音像の保存修理が行われました。
本尊・廬舎那仏像のX線撮影を行った処、両手のひらに数珠玉が埋め込まれていることが判明したという報道です。

朝日新聞の記事をご紹介すると、このような内容でした。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「解体修理の前半が終わり、24日、報道関係者に公開された唐招提寺金堂の本尊の盧舎那仏坐像と千手観音立像について、関係者が注目したのは盧舎那仏の両手のひらに数珠の珠(たま)が埋め込まれていたことだった。

『開祖の鑑真和上の遺品の数珠では』といった憶測も出て、謎の数珠への『ロマン』が一気に膨らんだ。
X線撮影で見つかった珠は水晶など鉱物質のもので、中央に貫通した穴があるため、数珠とわかった。

唐招提寺では、金堂の薬師如来立像(国宝)の左の手のひらに銅銭3枚が塗り込められている例と、収蔵庫の木心乾漆菩薩立像(重要文化財)の胸部と手のひらに瑠璃色の珠が込められている例と、類例が2体ある。
だが、他の寺では今のところ確認されていない。
このため、鑑真が中国から伝えた可能性も考えられている。

文化庁美術学芸課の奥健夫・文化財調査官は
『中国では、手のひらという例は見られないが、みけんや胸に珠を収めた例は文献にある。
仏の力を増すという意味があるのではないか』
と話す。

数珠の珠の材質が知りたいところだが、文化庁は保存上の問題はないため、後半の修理でも取り出さない方針という。永遠の謎で終わるかもしれない。」
(2003年4月25日付、朝日新聞・奈良版)

埋め込まれた「珠」が、鑑真和上の遺品かどうかは別としても、大変興味深い「手の掌に珠」発見の話でした。



【瞳の裏にも、珠が埋め込まれていた】


廬舎那仏のX線調査で判明した新事実のポイントは、次のようなものでした。

・両手の掌に、珠が、それぞれ大小2個ずつ埋め込まれている。

・珠の径は、約1.1センチ、0.9センチで、孔が貫通していることから、数珠玉と思われる。

・両眼の瞳には、石か焼き物の硬質材の、黒く塗られた半円板が貼り付けられている。

・その半月板の瞳の裏(あるいは内部)に、0.6センチ程の珠のような物体がこめられている。

X線撮影画像をご覧ください。
ごく小さな球が、手の掌と瞳の裏に込められていることが判ります。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先とX線撮影写真~
手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先

廬舎那仏左手のX線撮影写真~珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先とX線撮影写真~
珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える
(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真




【唐招提寺の菩薩像2躯の手にも、珠の埋めこみが】


このような珠が、仏像にこめられているという例は、他には全くありません。

唯一、同じ唐招提寺の菩薩像2躯に、珠がこめられた仏像が存在するのです。

奈良末平安初期の作とみられる、木心乾漆造りの菩薩立像2躯です。
1躯の菩薩像(伝観音像)の胸に小孔が穿たれ、奥深く瑠璃一粒が納められていることは、前から知られていたのですが、
昭和53年(1978)に、本間紀夫氏によって行われたX線撮影で、2躯の菩薩像の手の掌に珠がこめられていることが判明したのです。
菩薩像(伝観音像)の左手の中と、もう1躯の菩薩像の右手と思われる残欠の中に、珠がこめられていたのでした。

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)
木心乾漆菩薩像の右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)と右手先のX線撮影写真
手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)木心乾漆菩薩像の欠失手のX線撮影写真~手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)とX線撮影写真
手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


菩薩立像の手のなかに珠がこめられているのが発見された時は、さほどの話題にならなかったのだと思います。
ところが、本尊・廬舎那仏像の手の掌のなかにも、珠(数珠玉)がこめられていたのが判明し、今度は、新聞記事に採り上げられるような話題になったという訳です。



【廬舎那仏の手と瞳にこめられた珠~その意味は?】


他にこうした例がないだけに、

「どうして、唐招提寺の仏像の手だけに・・・・・?」
「手のなかに珠をこめるのは、どんな意味があるんだろうか?」

と、俄然、注目を浴びるようになったのだと思います。

数珠玉をこめるというのは、なんらかの宗教的な意味があることは、間違いありません。
まだ、これだという解釈の決定打は、はっきりしないようです。

伊東史朗氏は、新聞の取材コメントで、

「貴重なものを埋め込むことで、信仰の深さや、仏像の高貴さを表そうとしたのではないか。」
(毎日新聞記事)

と語っています

発見に関わった文化庁の奥健夫氏は、もう一歩踏み込んで、このような見方を述べています。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「それらは(注:唐招提寺の仏像の手の掌に納入物があること)観念の上で、仏がその具体的な力を行使する道具である手の働きを増すことを願っての所為であろうと思われるが、特に廬舎那仏像についてはその造像の所依経典である『梵網経』に、自誓受の前に得るべき『好相』として仏の摩頂(頭を撫でること)を受けることが述べられていることとの関連が注目される。

菩薩戒を得るために像の前で慨悔する者は、その低く差し出された右手が自らの頭上に及ぶのを思い描きつつ、掌を注視したことであろう。

これらの二つの工作(注:瞳の裏と手の掌に、数珠玉がこめられていること)は、像が拝する者を目でとらえ、これに力を及ぼすことが期待されているとみられる点で、廬舎那仏像の性格を考える上で非常に重要な発見といえる。」
(「金堂の平成大修理で判明した祈りの造形」(奥健夫)週刊朝日百科・国宝の美13号2009.11)

「好相」とは、仏を見る神秘体験で、これによって懺悔が完了したことが証明されるというものだそうです。
瞳裏と手の掌に数珠玉が埋められたというのは、まさに「仏を見るという神秘体験」の中で、拝する者を仏に見つめられ、その手で頭を撫でられるという、宗教的な思いがこめられたということなのでしょうか。

それにしても、「手の掌に珠をこめた」仏像が、唐招提寺だけにしか存在しないというのは、何とも不思議なことです。
新聞記事の「鑑真の遺品の数珠玉か?」という記事ではないですが、ついつい鑑真と何らかの関係があるのではないかとの空想を巡らせてしまいます。



【金堂・薬師如来像の手の掌に埋め込まれていた、3枚の銅銭】


もう一つ、金堂・薬師如来立像の左手の掌に古銭が埋め込まれていた話も、振り返っておきたいと思います。

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

こちらの発見は、薬師像の制作年代推定の有力証拠となったため、よく知られている話で、ご存じの方が多いのではないかと思います。

薬師如来像の手の掌に、3枚の銅銭が埋め込まれているのが発見されたのは、昭和47年(1972)2月のことでした。

薬師如来像の表面の漆箔の浮き上がりが目立つため、一応の修理が行われた際、左手の掌の中央部に浮き上がりがみられました。
これを固定するために表層を起こすと、そこに、小さな丸い穴があけられ、3枚の銅銭が重ねて納入されていました。
「和同開珎、隆平永宝、万年通宝」の三枚です。

薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」

発見された時の所見によると、この納入が、造立当初に行われたことは間違いないとみられるものでした。



【銅銭発見により、薬師像制作年は延暦15年以降と判明
~金堂三尊の制作年代研究に大きな進展】


この銅銭の発見は、彫刻史研究上の大発見になりました。
これらの銅銭が鋳造された時期よりも、仏像の制作の方が古いということはあり得ず、制作年の上限を特定できることになるからです。

発見された銅銭のなかで、最も新しく作られたのは「隆平永宝」でした。
「隆平永宝」は、延暦15年(796)11月の詔により鋳造されたもので、薬師像の造立は、この時期を遡り得ないことが明らかになったのです。

唐招提寺金堂の三尊、廬舎那仏像、千手観音像、薬師如来像の制作年代については、この発見まで、同時期の制作か、時代差があるかなどについて、様々な議論がありました。

唐招提寺金堂・千手観音像
唐招提寺金堂・千手観音像

廬舎那仏像は脱活乾漆造り、千手観音・薬師如来像は木心乾漆造りと、技法が違うことから製作年代差があるのではないかとか、
薬師如来像などは、太腿の隆起を強調したY字状の衣文の平安初期的特徴から、奈良時代の制作ではなく平安時代に入ってからのものではないかともいわれるなどの疑問が呈されていました。

「隆平永宝の発見」は、これらの疑問を一気に解決したともいえるもので、薬師像は、奈良時代のものではなく、平安時代に入ってからの制作であることが明確になり、薬師像にみられる平安初期的な特徴が、美術史的に素直にすんなり理解できるものになったのでした。

現在では、廬舎那仏像は奈良時代の制作、その後に千手観音像、最後に薬師如来像という順に制作されたというのが、一般的な見方になっていると思います。



ところで、古銭を納める仏像についてですが、体内に古銭を納入する例はいくつかあり、最も有名なのは、清凉寺・釈迦如来立像でしょう。
背刳りの蓋板の裏にびっしりと銅銭が張り付けられていました。

清凉寺・釈迦如来像の背板があてられた背面釈迦如来像の背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭
清凉寺・釈迦如来像の背面と背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭


しかし、手の掌に古銭が埋め込まれているという仏像は、唐招提寺・薬師如来像だけです。

唐招提寺には、廬舎那仏像の造像以来、手の掌に何かを埋め込むことにより、宗教的な力を一層付与するという伝統が息づいていたのでしょうか?



【不思議な謎~どうして唐招提寺の仏像の手だけに・・・・】


今回の「仏像の手の話」は、

「唐招提寺の仏像の手の掌にだけ、何故だか、納入物かこめられている。」

話をご紹介しました。

どうして、唐招提寺に残る仏像にだけなのでしょうか?
この謎が、なかなか解明されるのは難しそうですが、不思議なことで、大変興味深い話です。



「仏像の手の話」を8回にわたって連載させていただきました。
そろそろネタ切れとなってしまいましたので、「今回で、おしまい」とさせていただきたいと思います。


こぼれ話~「常念寺(京都精華町)・菩薩像は、薬壺を持っていたのか?」仏像の手の話⑦  【2017.7.1】


【平安前期の優作、一木彫像~常念寺・菩薩像】


京都府相楽郡精華町にある常念寺の菩薩立像を、拝されたことはあるでしょうか?

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像(平安前期・重要文化財)

常念寺は、京都府の南の外れ。
もうすぐ奈良という、「祝園」(ホウソノ)駅の近くの古い集落の一角にあります。

祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺
祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺

平安前期、9世紀の、素晴らしい一木彫像です。
像高170.5㎝、ケヤキ材の等身像で、重要文化財に指定されています。

常念寺・菩薩立像

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像

キリリと引き締まった緊張感あふれる、堂々たる当代一流レベルの優作です。

「凛として、静かなる雄渾さ」

を感じさせる、見事な造形といって良いと思います。
私の大好きな仏像です。



【昭和修理前は、「薬壺を手に持つ姿」をしていた常念寺像】


この平安前期の菩薩立像が、

「左手に、薬壺を持っていたのだろうか?」

というのが、今回のお話です。

「何を、馬鹿なことを云っているのか。」
「菩薩像が、薬壺を持っているなんて、あり得ないでしょう!」
「薬壺を持っているのは、薬師如来だけで、菩薩とは尊格が違うのだから。」

と、一笑に付されてしまいそうな話です。

現在の、常念寺・菩薩像の姿を見ると、右手は垂下し、左手は屈臂して指を捻じています。

常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する
常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する

ところが、かつては、左手に薬壺を持っていたのです。
この菩薩像、昭和25年(1950年)に修理されているのですが、修理前の写真が残されていますので、ご覧ください。

昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている
昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている

ご覧のとおり、この修理以前は、左手に薬壺を持った姿に造られていたのです。

本像は、両手肘から先は、共に後補でしたので、昭和修理の際に、薬壺を持つ後補の手は取り除かれて、現在の、指を捻じる姿に改められたのでした。

昭和修理後の左手
昭和修理後、指を捻じる姿に改められた左手先



【江戸時代には、間違いなく「薬師像」として祀られていた】


後補の薬壺を持つ手は、江戸時代に造られたと思われるものです。
この修理時に取り除かれた、薬壺を持った手は、現在もお寺に残されています。

昭和修理以前についていた薬壺を持つ左手先~江戸時代の後補
昭和修理以前についていた江戸時代の後補の薬壺を持つ左手先
お寺に残されている


また、常念寺のお堂には、この菩薩像と共に祀られていた、江戸時代の十二神将像も伝えられています。

常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)
常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)

ご存じのとおり、十二神将は、薬師如来の眷属です。
この菩薩像、江戸時代には、何故だか「薬師像」として祀られ、拝されていたのは間違いありません。

ただ、そうだとしても、

「薬師像として祀られていたというのは、近世になってからの話でしょう。
後世になってから、無理に薬師に改変されたに違いない。
なんらかの事情で、造像時の菩薩という尊格とは関係なく、薬師信仰の仏様に充てられたということじゃないの?」

と考えるのが、常識的ということになるのでしょう。
昭和25年の修理の時も、そのように考えられたから、今の左手の姿に改められたのだと思います。



【平安時代の制作当初から、「薬師像」として造られたとの新たな見方】


ところが、近年、この常念寺の菩薩像は「神仏習合像」で、

・平安前期造立当初から、薬師像として制作されたに違いない
・制作当初から、左手に薬壺を持つ姿に、造られていたのかもしれない

とみる考え方が、有力になってきたのです。

結論から云うと、常念寺の菩薩像は、

・神仏習合の思想に基づく、仏としての神像で、「菩薩の姿をした神様」として造られた。
・古記録に、「薬師菩薩」と称されている造像例と考えられる。

というのです。

「薬師は、如来じゃないの?
薬師が菩薩だなんて、そんな話聞いたことがない!」

と、おっしゃる方も多いのではないかと思います。


ここから、どうして常念寺の菩薩像が、神仏習合の「薬師菩薩」像と考えられるのかという話をみていきたいと思います。



【祝園神社の神仏習合像として造立された、常念寺・菩薩像】


まずは、常念寺・菩薩像の来歴です。

本像は、もともと祝園神社のなかにあった薬師寺の本尊として祀られていました。

祝園神社
祝園神社

明治の神仏分離の運動のなかで、明治11年(1878)に、神社関係者の菩提寺であった常念寺に、客仏として移されたと伝えられています。
先にふれたように、この像が、祝園神社・神宮寺において薬師像として祀られていたのは間違いなく、常念寺でも、境内に薬師堂が建てられて安置されています。

常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」
常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」"

祝園神社の歴史をたどると、崇神天皇時代の創立と伝える神社ですが、平安時代の初期には、この神社が存在したことが、明らかになっています。
平安時代に書かれた法制書「新抄格勅符抄」に、大同元年(806)、祝園神の封戸を認定する文書が収録されていることから、判るそうです。

常念寺・菩薩像は、この祝園神にかかわる神仏習合像として造立されたものと見られており、
伊東史朗氏は、貞観元年(859)に、祝園神が従五位上に進んだという記録があることから、この頃の制作の像の可能性があるとしています。(「精華町史」1996年刊)

いずれにせよ、常念寺像は、祝園神社、祝園神にかかわる神仏習合像として平安前期に造立され、長らく、「薬師」として祀られてきたというのは間違いないようです。



【「神」の姿は「菩薩」のカタチであらわされた神仏習合思想】


それでは、何故、神社で「菩薩」の姿をした「薬師」が造られたというのでしょうか?

この話は「神仏習合思想史」とか「神像の成立」といったことに、関わってくるわけですが、思い切って端折って云うと、こんな話になろうかと思います。

奈良時代、神仏習合の思想によって神宮寺などが造られ、「神」は神身を離れて仏道に帰依し、「菩薩」と称されるようになります。
よく知られる話ですが、

「天平宝字7年(763)に、多度神が仏道に帰依したいと満願禅師告げ、満願は小堂と神像を造立し、多度大菩薩と号した。」
(多度神宮寺伽藍縁起資材帳)

とされています。

多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳~冒頭部(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
7~10行目に「仏道に帰依し・・・・神像を造立し、多度大菩薩と号した」との記述がある


また、八幡神のことを「八幡大菩薩」と称するのは、ご存じのとおりです。

「神」は、「如来」ではなくて「菩薩」のかたちで、その姿を現したという訳です。



【「文徳実録」にある、「神の姿をあらわす薬師菩薩」の作例か?】


そして、平安前期には、「薬師菩薩」という神の概念が生まれてきたようです。
六国史の第五「文徳実録」の天安元年(857)年の条に、

「常陸国に在る大洗磯前、酒列磯前両神、薬師菩薩名神と号す」

と、記されているのです。
この二つの「神」が「薬師菩薩」と称され、「薬師菩薩名神像」が造られ祀られていたとみられるのです。

大洗磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)

酒列磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)
大洗磯前神社(上)と酒列磯前神社(下)~薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる~"

この「薬師菩薩」の造像遺例が、常念寺・菩薩像と考えられるという訳です。
神仏習合の「薬師菩薩像」として造立された像なのであれば、

「制作当初から、左手に薬壺を持った姿に、造られていたかもしれない?」

という想定は、それなりに真実味を帯びてくるということになってくるのです。

常念寺像が、神の姿を現す薬師菩薩像だといわれると、その厳しく凛々しい「静かなる雄渾さ」を感じさせる表情や造形が、まさに、神像としての神威を顕しているような気持ちになってきます。

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)
厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)


「本当に、薬師菩薩像だったのでしょうか?」
「薬壺を持っていたのでしょうか?」

誠に、興味深い話です。

一方で、
「きっと、神仏習合の薬師菩薩像に違いない。」
とされる菩薩形の像は、常念寺像の他に、具体例を聞いたことがありません。
当時、「薬師菩薩」という神仏習合像が、それなりに造られていたのであれば、同様の作例が、もっと遺っていそうに思うのですが・・・・・

「神仏習合の薬師菩薩」という像が、まだまだ存在するのでしょうか?



【天部形なのに薬壺を手に持つ、もう一つの平安古仏~広隆寺・勅封薬師像】


実は、如来形ではないのに薬壺を手に持つ像が、もう一つ存在します。

「天部形なのに、左手に薬壺を持っている。」

のです。

ご想像がつく方が多いのではないかと思うのですが、京都太秦・広隆寺にある「勅封・薬師如来」と呼ばれている像が、それです。

この薬師像は、明治維新までは勅封の秘仏とされ、現在は、広隆寺の霊宝館の閉じられた厨子のなかに祀られています。
毎年、11月22日の一日に限ってご開帳されます。

この像は、「薬師如来」とされているのですが、その姿はちょっと変わっています。

広隆寺・勅封薬師如来像

広隆寺・勅封薬師如来像
広隆寺・勅封薬師如来像

ご覧のとおりです。

一見して天部形の姿をしていますが、左手に薬壺を持っているのです。
両手先は後補なので、造立当初から、薬壺を持っていたのかどうかはわかりませんが、古来、「薬師像」として祀られてきた像であることは間違いありません。

この像の制作年代は、平安前期のものと考えられており、重要文化財に指定されています。
像高97.6㎝、両手首先以外はすべて針葉樹の一材から彫り出され、内刳りはありません。



【天部形と菩薩形とが同居する薬師像?】


それにしても、不思議な姿をしています。

どう見ても、吉祥天とか梵天・帝釈天といった天部の衣をつけているのですが、よく見ると、天冠台を被り条帛を着けています。
天冠台、条帛は、天部の像には見られるものではなく、「菩薩」が身に着けるものです。
そして、薬壺を持っているのです。
天部と、菩薩と、(薬師)如来のスタイルが、同居しているのです。

どうして、このようなお姿に造られたのでしょうか?



【神仏習合像として神社で祀られていた、広隆寺・勅封薬師像】


この像の由来については、諸説あるのですが、もともと神社にあったもので、神を仏の姿にあらました像と云われています。

岡直巳氏は、

「広隆寺来由記」の檀仏薬師の項に、向日明神が神木に仏の形であらあれ、神が自らの姿にたいして「南無薬師仏」と唱えて拝んだことが説話的に述べられており、この像が天部形薬師像にあたる。(「薬師菩薩神社の神体考」神像彫刻の研究所収1966年刊)

としています。

伊東史郎氏は、

山城の乙訓社から、延暦13年に大原寺へ移された神験ある「仏像」が、平安後期に広隆寺に移されたという古記録があり、この像が現存像にあたる。(「広隆寺本尊薬師像考」学叢18号1996.3)

としています。

いずれにせよ、広隆寺の勅封・薬師像は、神社において神仏習合の像として造られた像なのです。
神の姿を、天部と菩薩の姿をミックスした形に表現した、薬師菩薩像として造られたということなのでしょうか?
やはり、当初から、薬壺を持つ姿に造られたのかもしれません。


菩薩形の薬師菩薩像の例は、ご紹介した常念寺・菩薩像の他には、明らかに該当するといわれるものがないのですが、
天部形の薬師像、神像とみられている像は、他にもいくつか存在しています。

同じ広隆寺の薬師堂安置の天部形薬師像、京八幡市・薬薗寺の吉祥薬師像、箕面市・勝尾寺の天部形像などです。

広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像.薬薗寺・吉祥薬師像
(左)広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像、(右)薬薗寺・吉祥薬師像

勝尾寺・天部形神像
勝尾寺・天部形神像


薬薗寺の吉祥薬師像は、もともと石清水八幡にあったと伝えられており、現在も、日光・月光菩薩像(室町時代)が脇侍で、薬師像として祀られています。
勝尾寺像は、両手を拱手し、笏を執っており、明らかに神像として造られたものと見られます。



【奥深く興味深い、神像と神仏習合の世界~神像なのか、僧形像なのか、仏像なのか?】


「神像」というと、一般的には、薬師寺の三神像や熊野速玉神社の女神、男神像のような姿の像を想像してしまいます。

薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像

熊野速玉神社・速玉大神像熊野速玉神社・熊野夫須美大神像
熊野速玉神社~速玉大神像(左)、熊野夫須美大神像(右)

僧形の八幡神坐像を別にすれば、みな高貴な人の服装というか、貴人の姿のように現されています。
昔は、神像といえば、当然に、このスタイルの像のことであったのだと思います。

ところが、近年は、いわゆる一般的な神像の姿をした像が造られる前に、そうではないスタイルの神像が造られていたのではないか、と云われるようになってきました。
神仏習合のなかで、神の姿は、僧の形や仏の姿で造り始められ、こうした像が、いわゆる一般に神像と呼ばれる像とは別に、結構存在するのではないかというのです。

何を以て「神像」という言葉を定義するかというのは、なかなか難しい問題だと思うのですが、

先にご紹介した薬師菩薩、吉祥薬師と呼ばれるような像も、神仏習合における神の姿を現す像、即ち神像として造られたのではないか?
また現在、僧形像とか地蔵菩薩像と呼ばれている像も、神の姿を僧のかたちであらわした神像として造られたものもあるのではないか?

とみられるようになってきたようです。

もともと姿などなかった神を、神像として「カタチ」にあらわすようになったのは、奈良時代の後期ぐらいからかと思うのですが、その最初期は僧形神像の姿で造られ、その後、菩薩形、天部形の神像が制作されるようになった。
こうしたなかで、一方では、貴人の姿の、いわゆる一般的な神像も作られるようになったというのが、最近の考え方になってきているようです。

かつては、こうした僧形や菩薩・天部形に造られた像は、僧形像や仏像と考えられ、神像とはみられていなかったのですが、実は神像として造られたのだという訳です。


平安前期までの制作の像で、近年、神像ではないかとみられるようになった像と、一般的な神像の代表的例を挙げると、ご覧のようなものになります。

平安前期までの、神像(神仏習合像)との見方がある像の代表例


箱根神社・万巻上人像神応寺・行教律師像
箱根神社・万巻上人像(左)、神応寺・行教律師像(右)

橘寺・日羅像.弘仁寺・明星菩薩像
橘寺・日羅像(左)、弘仁寺・明星菩薩像(右)

融年寺・地蔵菩薩像.法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)
融年寺・地蔵菩薩像(左)、法隆寺・地蔵菩薩像~大御輪寺伝来(右)

こうした見方は、まだまだ一般的な見方として、定着したとはいえないようですが、神仏習合と神像の始まり、初期神像の有様を考えていくうえで、大変興味津々のテーマです。


「仏像の手の話」ということで、
「如来の姿ではないのに、薬壺を手に持っている」
不思議な像の話から、
神の姿を仏の姿で現した仏像?神像?という神仏習合の世界について、少しばかり垣間見てみることになりました。


常念寺の菩薩像は、本当に薬壺を持っていたのでしょうか?

神の姿を現したという「薬師菩薩」であったのでしょうか?



常念寺の菩薩像と初期神像の話は、以前、観仏日々帖に「古仏探訪~京都府精華町・常念寺の菩薩立像 【その2】」に、採り上げたことがあります。
そちらもご覧いただければと思います。


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