観仏日々帖

新刊旧刊案内~嬉しい、一目瞭然の「図版吹出し解説」 芸術新潮・運慶特集(2017/10月号)  【2017.11.5】


この秋、
「どこもかしこも、運慶で持ち切り!」
といった有様です。

東博・運慶展の盛況ぶりはもとより、テレビも運慶番組を連発、本や雑誌も「運慶の・・・」という特集本が数え切れないほどです。
ここまでヒートアップするのかと、あきれてしまいますが、今更ながらに「運慶の威力」を思い知らされたような気がします。

書店の新刊棚には、「運慶本」と「運慶特集雑誌」が、これでもかという程に沢山並んでいて、どれもこれも大同小異という感じです。



【こんなスタイルの仏像解説本を待っていた~芸術新潮・運慶特集】


その運慶本のなかで、

「オーッ! こんな仏像解説を、待っていたのだ!」
「こんなスタイルの仏像解説本があると、嬉しいのだけれど!」

そう、前から思っていた本を見つけたのでした。

それは、
 「芸術新潮 2017年10月号 ~特集・オールアバウト運慶~」
です。

芸術新潮・オールアバウト運慶~2017年10月号


私が、「こんなのを待っていた、これは嬉しい」と思ったのは、ここで論ぜられている運慶についての解説の内容云々ではなくて、
「仏像解説のレイアウト」
なのです。

掲載された仏像写真のそれぞれのパーツに、線引きで吹き出しがあり、コンパクト解説が付されているのです。
円成寺・大日如来像の写真&解説を、ご覧になってみてください。

芸術新潮・掲載の円成寺・大日如来像の「図版吹き出し解説」
芸術新潮・掲載の円成寺・大日如来像の 「図版吹き出し解説」


【特徴、着目ポイントが一目瞭然の「図版吹き出し解説」】


如何でしょうか?

新スタイルです。

これまでの仏像の解説本は、仏像写真と解説文が、「写真は写真」「解説文は解説文」と、それぞれ別々に掲載されていたと思います。
この芸術新潮・特集では、仏像写真そのものの各部や衣文などの注目パーツに、直接線引きを施して、吹き出し的にポイント解説が書かれているのです。
「運慶作品カルテ」と題されており、監修:瀬谷貴之氏、文:高山れおな氏(新潮社)ということです。

私は、 「画像吹き出し解説スタイル」  と名付けてみました。

このスタイルの仏像解説本は、ご紹介の「芸術新潮・運慶特集」が本当に初めてなのかどうか、判りません。
私は、これまで見たことがある本・雑誌では、出会ったことがありませんでした。

美しい仏像写真を鑑賞するという意味では、吹き出し線が各所にあると、目障りになるのかと思います。
しかし、その仏像の特色、着目ポイントを、一目瞭然で即座に理解するには、これほどに判りやすいスタイルは無いと思うのです。


それでは、芸術新潮の円成寺・大日如来像写真には、どのような「画像吹き出し解説」が付されているのでしょうか。
その解説文を、一通りご紹介します。


【頭頂部】
冠から上端がとびだす程の高々とした髻は平安初期の作例に倣うものだが、正面を花形に束ねるのは僧の仏画の影響か。

【天冠台部】
冠は後補だが天冠台(てんかんだい)は当初のもの。
通常は木から彫り出すが、金属製としたのは新機軸。

【眼部】
玉眼は目に水晶をはめることで現実感を出す技法で、鎌倉時代に一般化する。
この像は玉眼を使用したもっとも早い例の一つ。

【条帛部】
上半身をタスキ状にめぐる条帛(じょうはく)は、本体と別材で作って貼り付けている。
こんな面倒な方法をとった理由については28~29頁のコラム参照。

【腕部】
胸の前で左手をこぶしに握り人差し指をたて、それを右手で握るのが智拳印(ちけんいん)
金剛界大日のしるしである。
胎蔵界大日はお腹の前で掌をかさねる定印(じょういん)を結ぶ。

【膝前部】
下半身をおおう裳(も)と腰布に刻まれた衣文は、当時の主流だった定朝様の非常に浅く、様式化した衣文にくらべ、より自然な印象。
ただ、後の願成就院や浄楽寺の像にくらべれば、まだおとなしめ。

【台座部】
台座のうちいちばん上の蓮華部(れんげぶ)は当初のもの。
大正10年(1921)の修理に際し、その天板の裏から墨書銘が発見された。
これが近代的な運慶研究の出発点になった。

【台座下部】
台座の敷茄子(しきなす)から下框(したがまち)にかけては、美術院による補作。

【光背部】
光背の周辺部は失われたが、円盤状の頭光(ずこう)と身光(しんこう)は当初のもの。



このような感じです。
写真の当該部分に、このようなワンポイント解説が吹き出していますので、本当に、「一目瞭然」、判りやすいのです。
文章の説明を読んで、その当該部分の写真をみつけて確認しなくても、一目で頭にスーッと入ってくるのです。



仏像の姿や形、構造などを、文字、文章で、きっちり表現、説明するというのは、なかなか厄介なことのように思えます。

その例を、いくつか見てみたいと思います。


【資料的、学術的に完璧な記述の「日本彫刻史基礎資料集成」~無味乾燥で、難しい】


一番、資料的、学術的な説明文というと、なんといっても 「日本彫刻史基礎資料集成」(中央公論美術出版社刊) ということになるでしょう。

この本では、このような項目立てで、順に表記されています。


【銘 記】

【形 状】

【法 量】

【品質構造】

【伝来】

【保存状態】


「日本彫刻史基礎資料集成・第4巻」の円成寺・大日如来像の解説
「日本彫刻史基礎資料集成・第4巻」の円成寺・大日如来像の解説

まさに、基礎資料ですから、事実が淡々と記されているだけです。

これ以上の精密な表記はないのでしょうが、読む側にとっては無味乾燥そのものと云えるものです。
相当に、表現に慣れないと、どのような形状や構造を説明しているのか、皆目判らないというのが本音の処です。



【つい面倒で読み飛ばしてしまう、論文の造形・構造の記述~文字だけの記述は、判りにくい】


論文などの、仏像の姿かたち、造形や構造について述べた文章も、なかなか判りにくいのではないでしょうか。
私などは、そこの処は、とっつきにくくて、ついつい読み飛ばしてしまいます。

例えば、円成寺大日如来について、山本勉氏が書かれた論文、

「円成寺大日如来像の再検討」 (山本勉 )国華1130号 1990.1

では、このあたりの処が、どのように記述されているでしょうか?

形状については、

本像は像高98.2㎝、髪際高76.8㎝の等身大で、智拳印を結び、右脚を外にして結跏趺坐する金剛界大日如来像である。
いわゆる高髻を結び、頭髪はすべて毛筋彫りとする。
鬢髪一條が耳をわたる。
もと各耳後ろをとおって肩上にいたる垂髪をあらわしていた(今右肩部分のみ残る)
白毫相をあらわす(水晶嵌入、大正修理時の新補)
天冠台を付け、その上に宝冠を戴く(いずれも銅版製鍍金、宝冠は近世の新補)
條帛をかけ、折返しつきの裙をつけ、腰布を腹前で結ぶ。
銅版製鍍金の胸飾り・臂釧・腕釧をつける(胸飾りから瓔珞を垂らす)
光背は、頭光、身光、光脚からなる二重円光で、いま周縁部を失っている。
台座は六重の蓮華座であるが、敷茄子以下の部分は大正修理時の新補である


構造については、

本像はヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌入する。
頭・体の根幹部は正中線で左右二材(幅左方22.2㎝、右方23.6㎝、奥各26.5㎝)を矧ぎ寄せて彫成する。
左右二材とも内刳りをほどこしたうえで、三道のやや下方で割首する。
両脚部は横木一材製(奥24.0㎝)で内刳りし、両腰脇部に各一材(内刳り)、裳先を矧ぐ(亡先)
両腕は肩・上膊半ば(臂釧の取り付け位置)、臂、手首で矧ぐ。
髷は別材製で丸枘(大正修理時の新補)を雇枘として挿しこむ(大正修理時の図解によると頭頂のそれを受ける部位に薄板一枚をはさむようである)
後頭部下方に矧ぎ目をはさんで左右各一の矧ぎ木(大正修理時の新補)がある。
像表面は、頭髪部をのぞいて布貼り錆漆下地をほどこしたうえ漆箔しあげとする。
頭髪部は木地に群青彩とし、元結い紐は朱彩とする。
・・・・・・・・・・

このように記述されています。

ウーンと唸ってしまいます。

確かに、凝縮して精密に記述すれば、このようになるのだと思います。
論文の記述としては、絶対に必要なことなのでしょう。

ところが、恥ずかしながら私には、この記述の文章をすらすらと読んで、仏像の姿かたちやその構造、後補部などが、手に取るように浮かんでこないのです。

研究者の人は、このような記述が、苦も無くすらすら出来て、読んだだけで写真映像のように、仏像の姿かたちが、頭に浮かんでくるのかもしれません。

しかし、私などには、チンプンカンプンとまではいいませんが、慣れていないせいか難解表現で、写真を横に置いて一つ一つチェックしてみて、やっとこさ記述内容が、何とか判るという処です。
そんなわけで、仏像の姿かたち、構造の詳細記述の部分は、とっつきにくくて、面倒臭くて、ろくすっぽ読みもせずに、読み飛ばすのが常というふうになってしまっています。



【啓蒙書でも、造形・構造のコンパクトで平易な記述は、なかなか大変】


これは、研究論文の話でしたが、一般向けの啓蒙本でも、仏像の姿かたちや構造などを、誰にもわかりやすく平易に記述するのは、なかなか骨のようです。

昔、平成の最初の頃、ベストセラーになったこの本、

「魅惑の仏像」全28巻 毎日新聞社刊

の、円成寺・大日如来像の巻(第28巻・1996刊)の記述を見てみたいと思います。

「魅惑の仏像・第28巻~大日如来」毎日新聞社1996年刊

西川杏太郎氏の解説記述です。

「しかし円成寺の大日如来像は(注:藤原風の仏像とは)だいぶ違います。
頭髪は毛筋を細かく刻み出し、頭上の髻も膨らみを持たせて高く豊かに結い上げていますし、肉厚く引きしまった体の肉付けにも、またゆったりと組んだ両膝に自然に流れるように刻む衣のひだにも、大変個性があります。
・・・・・・・
上体は両肩や背中に肉を厚くつけ、腰できりりと引きしめ、智拳印を結ぶ両腕のかまえ方も、空間をゆったりと抱きかかえるようにまとめ、全体として安定感のある力強さが示されています。」


「この大日如来像は檜の寄木造で、眼には玉眼(レンズ状にみがいた水晶の眼を内側から嵌め、これに瞳を描いてあらわす技法)をはめています。

「魅惑の仏像」円成寺・大日如来像の解説掲載の構造図
「魅惑の仏像」円成寺・大日如来像の解説掲載の構造図

図に示したように鼻筋を通る正中線を境にして、頭部から胴までを左右二つ各材(A・B)を矧ぎ合わせ、両膝には横一材(C)を寄せるという寄木造の技法で造られています。
そして頭頂の髻(D)、両腕(肩、上腕、ひじ、手首で接合)、それに両腰脇(E・F)などに別材を寄せる典型的なものです。
像の内部は、きれいにくりぬいて空洞にし、また制作の途中で頸筋にノミを入れて頭と胴を割り離し、像の細かい部分の彫刻を済ませてから再び頭と胴を接合する「割り首」(S)の技術も用いています。
・・・・・・・・・
台座は、蓮肉と蓮弁は古いのですが、これ以外の部分はすべて大正時代の修理の時に奈良美術院(美術院国宝修理所)によって後補され、六重蓮華座に仕立てられているのです。
光背は二つの円相をつないだ二重円光で、これは像と同時の制作です。
いまその外周につけられた周像はすべて失われています。」

読んで見られて如何でしょうか?

先の研究論文の記述に較べると、格段に平易で判りやすく、私にでもイメージがわいてくる感じはします。
ただ姿、形の各部分を、わかりやすく記述するというのは、なかなか難しそうです。
きちっと書くと、文章が長くなってしまうからか、かなり省略というか簡単に記されています。

構造の方も、文章でこれを平易に説明するというのは、なかなか骨が折れることが伺えます。
構造略図が掲載されているので、これを横目に見ながら読むと、なるほどと、よく判ります。


ご紹介したような、これまでに書かれた論文や書籍の、
「仏像の姿かたちの記述、構造、後補部分の記述、造形の特徴の記述」
などを、読んでいると、

気を入れて読んでやろうと思う時は、写真図版といちいち照らし合わせながら、ちゃんと理解するように頑張ってみるのですが、普段は、ついつい適当に読み飛ばしてしまいがちになっています。



【仏像写真図版に吹き出し解説を入れると、一目瞭然?~かねがね、思っていたこと】


「仏像写真図版の当該部分に、直接、解説記述を吹き出しのように入れてくれると、素人には本当に判りやすいんだがなー・・・・・」
「図版吹き出し解説スタイルの本があれば、一目瞭然で、本当嬉しいな!」
「図版吹き出し解説をいったん見てから、その後でしっかりした文章解説を読めれば、最高なんだけれども・・・」

そんなことを、かねがね、心の中で考えていたのです。

そんなことは、
「ちょっとマニアックな愛好者の我儘なのか?」
と思っていた処、

新刊の「芸術新潮・運慶特集」で、そのようなスタイルが一部採用されているのを見つけたというわけです。

「これは嬉しい、一目瞭然 !!」
「我が意を得たり !!」

と喜んでしまいました。

「芸術新潮・運慶特集」では、ご紹介の、円成寺・大日如来像だけではなくて、主なる運慶作品について、このスタイルの「図版吹き出し解説」が掲載されています。

一二、ご紹介すると、ご覧のような感じです。

芸術新潮・掲載の願成就院・阿弥陀如来像の「図版吹き出し解説」
芸術新潮・掲載の願成就院・阿弥陀如来像の「図版吹き出し解説」

芸術新潮・掲載の光得寺・大日如来像の「図版吹き出し解説」
芸術新潮・掲載の光得寺・大日如来像の「図版吹き出し解説」

このような「図版吹き出し解説」スタイルの本が、もっともっと増えていってくれると、嬉しいなと思います。

芸術新潮の「図版吹き出し解説」は、ちょっと簡単すぎて物足りない感もあります。
「吹き出し解説」をもっと詳しくするとか、側面、背面写真も入れて「図版吹き出し解説」を付けるとかいう本が出現すれば、仏像の姿かたち、造形の特徴、構造、後補部分などが、より詳細に一目瞭然でになって、嬉しいなと思う処です。


ずっと前から、こんなスタイルの仏像解説があったら良いなと思っていた「図版吹出し解説」スタイル本を発見して、ちょっと嬉しくなって、紹介させていただきました。



【ついでにご紹介~とても便利な、仏像持物などのイラスト吹き出し解説本】


ついでにご紹介ですが、

「仏像図解新書」 石井亜矢子著・岩崎隼画 小学館新書 2010年刊

という本も、なかなか役立つ本です。

「仏像図解新書」 小学館新書 2010年刊

仏像の諸尊格、即ち、如来・菩薩・明王・天部の、それぞれの尊像別に、持物や着衣、飾り物、印相などなどの名称と一言解説を、 「イラスト図吹き出し解説」 したものです。

釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音・・・・・・
といった尊像別に、いわゆる「儀軌」に定められた、印相や持物、着衣等の名称が「イラスト図吹き出し」で記されています。

80余の尊像について、イラストが載せられていますが、そのうちのいくつかをご覧ください。

「仏像図解新書」掲載の十一面観音のイラスト吹き出し解説
「仏像図解新書」掲載の十一面観音のイラスト吹き出し解説

「仏像図解新書」掲載の如意輪観音のイラスト吹き出し解説
如意輪観音のイラスト吹き出し解説

「仏像図解新書」掲載の降三世明王のイラスト吹き出し解説
降三世明王のイラスト吹き出し解説

「仏像図解新書」掲載の梵天のイラスト吹き出し解説
梵天のイラスト吹き出し解説


それぞれの尊像の「印相や持物の名称」がまさに一目瞭然で、大変便利です。

先程来ふれてきた、論文などに記述された、仏像の姿かたちの表現を理解するためのアンチョコに格好な新書で、お薦めです。


新刊旧刊案内~「小説 日本博物館事始め」 西山ガラシャ著  【2017.7.8】


町田久成について描かれた、こんな本が出ました。


「小説 日本博物館事始め」 西山ガラシャ著 
 
2016年3月 日本経済新聞出版社刊 【256P】 1600円


西山ガラシャ著「日本 博物館事始め」


「町田久成? その人だれ?」

そう思われる方が、多いことと思います。



【東京国立博物館・庭園に建つ、町田久成顕彰碑】


東京国立博物館の本館の裏に、庭園があります。
その庭園の一角に、立派な石碑が立っています。

東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」

東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」~説明板
東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」

「町田石谷君碑」(石谷は久成の号)と題する、町田久成の業績をたたえる顕彰碑です。
碑文が刻されていますが、その一節に

「博物館ハ則チ君ガ提議シテ創設スル所ナリ」

とあります。

「この上野の地に、大博物館の創設を成し遂げた。」

この簡潔な一文に、町田久成、その人の業績が、凝縮されているといっても良いのかもしれません。

上野の博物館が開館したのは、明治15年(1883)のことでした。



【博物館の創設者、近代文化財保護の先駆者~町田久成】


この大博物館の創設にかけた町田久成という人物を描いた本が、ご紹介の「小説 日本博物館事始め」です。

町田久成(明治5年・34歳)
町田久成(明治5年・34歳)

AMAZONの本書内容紹介には、このように書かれています。

「明治15年、現在の東京国立博物館が竣工した。
外交官の道を断たれた男の、もうひとつの夢の実現でもあった。

『御一新とともに、寺や城は壊され、仏像や書画骨董が海外に流出していく。
<日本が生き残る道は西洋の物真似しかない>
と多くの人は信じているが、文明開化の時勢に流されて、日本の美と技をうち捨ててはおけぬ。
自分ひとりでもミュージアムを創る。
留学中に観た大英博物館のようなミュージアムを』

旧物破壊・廃仏毀釈の嵐に抗い、大久保利通、島津久光、岩倉具視など新政府の錚々たる面々が相見え火花を散らす政争に巻き込まれながらも、粘り強く夢を形にした官僚、町田久成。
幕末には薩摩国主の命で英国に留学した経験も持つ男を主人公として、維新の知られざる側面に光を当てたユニークな歴史小説です。」


設計者・コンドル筆の上野の博物館
設計者・コンドル筆の上野の博物館

町田久成という人物、本当に知られていないと思うのですが、明治維新以降の近代文化財保護保存の歴史を語るとき、また国立博物館の歴史を振り返るとき、忘れることは出来ません。


町田の業績として語られる、

・我が国文化財保護法の先駆となる「古器旧物保存方」の布告(明治4年・1871)

・近代初の文化財調査である古社寺宝物調査「壬申検査」の実施(明治5年・1872)

・東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)の上野の地での創設(明治15年・1873)

といった事柄は、まさに「近代文化財保護、保存の先駆者」そのものと言えるものでしょう。

明治期のこうしたテーマというと、必ず、その名が思い出され語られるのは、岡倉天心ですが、町田久成こそ、その先駆けとして、近代日本の文化財保護行政の方向を定めた重要人物なのです。

もっと、もっと広く知られ、語られていてもよい人物だと思っています。


町田久成の業績、人物像については、かつて、神奈川文化研HPに
と題する連載で、ご紹介をしたことがありますので、そちらをご覧いただければと思います。



【人間、町田久成を描き出した歴史小説~「日本博物館事始め」】


この町田久成にスポットライトを当て、博物館創設への生きざまを描いた歴史小説とは、何とも珍しい本が出たものです。
私にとって、「町田久成」について書かれた本となれば、捨てておくわけにはいきません。
早速、購入しました。

「目次」は、ご覧のとおりです。

西山ガラシャ著「日本 博物館事始め」~目次

一読してみた感想は、

「上野の博物館の創設を舞台回しに、人間、町田久成の生き様や、時代の空気を描き出した小説」

というものでした。
「小説」と題名の頭に冠している通り、町田久成を取り巻く人間模様など、まさに小説的要素が濃い内容となっています。

著者の西山ガラシャ氏は、1965年名古屋市生まれ。
2015年、『公方様のお通り抜け』で第7回日経小説大賞を受賞しデビューし、この本が、受賞後の第一作となるそうです。
まさに、作家として、「人間、町田久成」を描き出した作品ということなのだと思います。


この本、町田久成の評伝とか、博物館創設の物語を詳しく語った読み物かと思ったのですが、ちょっと違いました。
そうした知的興味、関心で読むと、少し物足りなく感じられるないかもしれません。



【もう一冊の、博物館と町田久成を知る好著~新書「博物館の誕生」】


この「小説 日本博物館事始め」を、本当に愉しく、興味深く読むためには、 もう1冊、次の本を読まれることをお薦めします。


「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」 関秀夫著
岩波新書 2005年刊  【241P】 780円


関秀夫著「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」

関秀夫著「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」~目次
関秀夫著「博物館の誕生」~目次

この本のAMAZONの内容紹介は、次のとおりです。

「東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)は上野の山につくられた日本最初の近代総合博物館である。
国の中央博物館としての創設から皇室の博物館になるまでの激動のドラマを、明治維新の頃、外交官として活躍し、博物館づくりに情熱をそそいだ創設者、町田久成の生涯と重ね合わせて描きだす歴史物語。」

著者の関秀夫氏は、東京国立博物館名誉館員で、日本考古歴史学専攻の文学博士という研究者です。

新書版の本ですが、上野の博物館創設までの経緯と、町田久成の評伝的物語が、しっかりと要点を漏らさず、コンパクトにまとめられた名著ともいうべき本です。
こちらの方は、知的興味、関心を、十二分に満足させてくれる内容です。
読み物としても、面白く、興味深く愉しめる物語となっています。


この「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」を先に読んでから、「小説 日本博物館事始め」を読むと、明治維新後の博覧会から博物館創設への夢の実現へのいきさつ、苦難の道がよく理解され、小説の作者が語りたかった人間・町田久成についてもよく理解できて、その面白みが判るのではないでしょうか。

町田久成と博物館について書かれた、一般的な単行本は、この2冊しかないでしょう。
2冊セットで読んでみて、それぞれの本が、より興味深く味わいを以て読むことが出来るように思います。



【町田久成をめぐる ~IF~ 「もしも」の話】


ここからは、ちょっと付けたりですが、

「もし、町田久成が、・・・・・・だったとしたら?」

と、私が感じた話を、二つほどご紹介しておきたいと思います。



【もしも、外務省から左遷されていなかったなら?】


一つ目は、
若き日の町田久成が、外務官僚から左遷された話です。

「もし、この左遷がなかったとしたら?」

町田久成は、近代文化財保護の先駆者、博物館創設者として、現代に名を残すことは無かったのです。

町田家は、薩摩藩主、島津一門に連なる名家で、町田久成は26歳の若さで大目付となり、慶応元年(1865)には、藩のイギリス留学使節の監督として、2年余イギリスに滞在しています。

薩摩藩の留学生達(慶応元年・1865~ロンドンにて)前列中央が町田久成
薩摩藩の留学生達(慶応元年・1865~ロンドンにて)前列中央が町田久成

明治維新後は、新政府の外務省、外務大丞に任ぜられています。
新政府の外務官僚としての、スーパーエリートであったのです。
ところが、明治2年に来日した英国アルフレッド王子の接待役としての来賓饗応が厚遇に過ぎたということで、謹慎処分となり、左遷されてしまうのです。

上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃)
上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃)
この左遷は、薩摩の急激な開花政策に異を唱える尊王攘夷派が、反発を示す動きの一環であったようです。
開花派の大久保利通の権威を笠に着たようにふるまう町田久成を標的にして、追い落としたというのが真相のようです。
町田は、外務省を去り、閑職にも等しい大学(文部省)に移ることになりました。


政局に翻弄され、失意の中にあったであろう町田でしたが、新任務、大学(文部省)において、心機一転、「集古館」(博物館)建設、「古器旧物保存」(文化財保護)を、建議します。

そして、博覧会業務等を担当しながら、国家を挙げての大博物館の創設構想の夢をいだき、ついに上野の地に巨大な博物館創設を実現したのでした。
上野の広大な地に、大博物館の建設を実現するというのは、明治の初年においては、並大抵の腕力で出来得るものではないでしょう。
町田久成の毛並みの良さと実力、その後ろ盾となった大久保利通のパワーがあったからこそのことと思われます。

もし、外務省追放左遷という事件がなかったならば、町田久成は、明治期の外務官僚の大物として知られるようになったのかもしれません。



【岡倉天心にも、同じようなエピソードが】


同じような話で、思い出すのは、岡倉天心の話です。

若き日の岡倉天心(明治20年・24歳)
若き日の岡倉天心(明治20年・24歳)
岡倉天心は、東京大学での専攻は政治学で、卒論に「国家論」を数か月かけて書いた処、若くして結婚した基子夫人と喧嘩になり、夫人は、夫が3ヶ月を費やした労作を燃やしてしまうのです。
切羽詰まった天心は、たった2週間で、慌てて代用品の「美術論」を書きあげ提出。
おかげで、成績は下から2番目とふるいませんでした。

この「美術論」が縁となり、文部省に入省し、美術文化行政に関与することとなったという話です。
岡倉は、少年時から英語が堪能で、東大在学中もフェノロサの通訳をしていたという人材です。

この卒論焼却事件がなかったならば、政府の外務官僚として身を立てていた可能性が高かったのではないかとも思われます。


何やら、この二人、話が妙に符合します。

・明治期、近代文化財保護の大貢献者として名を残す、町田久成と岡倉天心が、共に外務官僚の道を進んでいた筈であった。

・或る事件、出来事をきっかけに、共に、心ならずも初志とは違う文化財、美術行政の道を歩むことになった。

・そして心機一転、博物館の創設、古社寺、文化財保護などに力を尽くし、今も、その名が語られる。

面白い話です。

町田も岡倉も、「もしも」このような事件がなかったならば、明治時代における外務官僚の大物とか、政治家として、名を残す人物になっていたのでしょうか?



【もしも、町田久成なかりせば、今の東博は違ったタイプに?
~歴史美術博物館?自然史博物館?産業科学博物館?】


二つ目の話は、

「もし町田久成がいなかったら、現在の東京国立博物館は違ったタイプの博物館になっていたかもしれない。」

という話です。

実は、  「近代日本の博物館の父」  と呼ばれる人物が、二人いるのです。

一人は、町田久成。もう一人は田中芳男です。

上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃).田中芳男
町田久成(左)、田中芳男(右)

田中芳男は、町田久成と同い年で、共に明治初年から博覧会事業、博物館創設事業などに携わった人物です。

町田久成(前列中央)と田中芳男(右向かってから3人目)~明治5年(1872)湯島聖堂博覧会記念写真
町田久成(前列中央)と田中芳男(右向かってから3人目)~明治5年(1872)湯島聖堂博覧会記念写真


当時、博物館の展示内容の性格付けには、三つの考え方がありました。

一つは、「動植物など天産物の自然史系博物館」という構想です。

自然科学を中心とした博物館構想で、動物園や植物園も備えた自然科学の総合博物館をめざそうとするものです。
もう一人の近代日本博物館の父と呼ばれる田中芳男の理想は、このような自然科学系の総合博物館を創設することでした。


二つ目は、「古器旧物など文化財展示のための歴史美術系博物館」という構想です。

考古遺物、古美術品をはじめとした古文化財美術品を展示する博物館をめざそうとするものです。
町田久成が構想した博物館は、この歴史美術系博物館でした。
町田久成は、明治4年に博物館建設の献言を行っていますが、その時、「博物館」という用語を使わずに「集古館建設の献言」を行っています。
当時、「博物館」という用語が、「博覧会とか物産会といった殖産興業的博物館」をイメージさせてしまう懸念をいだき、敢えて、わざわざ「集古館」という言葉を用いているのです。

現在の東京国立博物館は、この町田の構想通りの博物館として運営されています。


三つ目は、「殖産振興のための産業技術系博物館」というものです。

日本の輸出振興、産業発展をめざして、物産や工作機械などの展示を行う産業技術系博物館という考え方です。
この構想は、当然ですが、政府の産業振興のビジョンに沿ったものでした。


田中芳男の夢は、自然史博物館を創設することでした。
一方、町田久成の夢は、歴史美術博物館を創ることでした。

共に、強力な持論を以て推進しようとしたようで、上野の地に創設する大博物館の性格付けには、二人の間に、相当の確執があったようです。

完成時の上野の博物館
完成当時の上野の博物館

上野の動物園を開園したのは、田中芳男の構想によるものです。
町田久成は、動物園に反対であったようですが、博物館が開設された年の明治15年(1882)に、博物館の付属施設として開園しました。

上野動物園の正門(明治40年・1907頃)
上野動物園の正門(明治40年・1907頃)

上野動物園明治25~6年の上野動物園~子供が見えず大人が楽しんでいる
上野動物園明治25~6年の上野動物園~子供が見えず大人が楽しんでいる

上野の「博物館」が創設された当時は、町田久成、田中芳男に代表される二つの構想の確執が、決着を見ていない頃でした。

開館したころの博物館の展示品を見ると、古文化財より天産品の方が断然多いという状況であったようです。

開館当時の博物館~1階天産部陳列室(キリンの剥製が展示されている)

開館当時の博物館~~2階絵画陳列室
開館当時の博物館
(上)1階天産部陳列室~キリンの剥製が展示されている、(下)2階絵画陳列室


初代の博物館長には、町田久成が就任しますが、たった7ヶ月で解任となります。
その後、二代目の館長には、田中芳男が就任しますが、これまた、6ヶ月で辞任となりました。
いろいろな曲折があったようなのです。

そして、開館当時、農商務省の所管であった博物館は、その後、明治19年に宮内省の所管に変更され、皇室に相応しい、古文化財、古美術品を展示する「帝室博物館」として発展していくことになります。
町田久成は、博物館の宮内省への所管変更への動きのなかで、解任となった博物館に、別のポストで数年間復帰し、「歴史美術博物館」への方向付けに、尽力しています。

現在の東京国立博物館の有様を見ると、まさに、町田久成が明治初年に描いた「集古館」の構想の実現したものとなりました。

現在の東京国立博物館
現在の東京国立博物館

一方、田中芳男が抱いた「自然史博物館」への夢は、現在の国立科学博物館、上野動物園に実現されているといえるのでしょう。

国立科学博物館(上野公園内)
国立科学博物館(上野公園内)
現在の上野動物園入口
現在の上野動物園入口



【「町田久成の夢」を実現した、東京国立博物館】


上野の博物館の明治創設期をめぐる、こうした確執、経緯を振り返ってみると、現在の東京国立博物館の庭園に、立派な「町田久成顕彰碑」が建てられているのが、本当に納得できます。

町田久成顕彰碑
町田久成顕彰碑

その碑文に、

「博物館ハ則チ君ガ提議シテ創設スル所ナリ」

と刻まれていることへの、はかり知れぬ思いや重さを、感ぜずにはいられません。

もし、町田久成の「歴史美術博物館」創設への夢や執念が無かったならば、今の地に在る東京国立博物館は、もう少し違った性格の博物館となっていたのかもしれません。


私をはじめ、仏像好き、美術好きの皆さんは、明治初年の町田久成の博物館創設への夢に想いを致し、その功績に、大いに感謝しなければならないのかもしれません。

大津・三井寺法明院にある町田久成の墓
大津・三井寺法明院にある町田久成の墓


新刊旧刊案内~「国華余芳」多色石版図集(明治15年刊)について 【2017.3.3】


【手に入れた、珍しい明治初期の図集「国華余芳」】



「国華余芳」(こっかよほう)多色石版図集を、手に入れました。

「『国華余芳?』 そんなもの聞いたことは無い!」
「多色石版図集? ますますよく判らない!」

このように思われた方が、沢山いらっしゃるのではないでしょうか?

「国華余芳」多色刷石版図集3冊
「国華余芳」多色刷石版図集3冊

確かに「国華余芳」という図集は、ほとんどといって良いぐらいに、世に知られていないのではないかと思います。
この「国華余芳」は、明治15年(1882)、印刷局の手によって、当時の印刷技術の粋を集めて造られた、カラー刷り石版図集です。

「正倉院御物」「伊勢内外神宝部」「古書之部」の三部構成になっています。



【精巧、美麗な宝物図版に、眼を奪われる「国華余芳」】


まずは、「国華余芳」の写真をご覧ください。

「正倉院御物」の冊です。
長い紙を折りたたんでいる折帖仕立てになっており、25図が収められています。
正倉院に秘された鏡や絵箱の宝物が描かれており、三部のなかで、最も美しい図集です。

「国華余芳・正倉院御物」

「国華余芳・正倉院御物」収録図版1

「国華余芳・正倉院御物」収録図版2

「国華余芳・正倉院御物」収録図版3

「国華余芳・正倉院御物」収録図版4

「国華余芳・正倉院御物」収録図版5

「国華余芳・正倉院御物」収録図版6
「国華余芳・正倉院御物」~多色石版図版


「伊勢内外神宝部」の冊です。
伊勢神宮の社殿や剣などの神宝、19図が収められています。

「国華余芳・伊勢内外神宝部」

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版1

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版2

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3
「国華余芳・伊勢内外神宝部」~多色石版図版


「古書之部」の冊です。
宸翰、高僧などの古筆が、24図収められています。

「国華余芳・古書之部」

「国華余芳・古書之部」収録図版

「国華余芳・古書之部」収録図版2
「国華余芳・古書之部」収録図版


如何でしょうか?
写真ではありますが、国華余芳の原色図譜の精緻な美しさがお判りいただけたのではないかと思います。



【10年前に開催された展覧会、「国華余芳の誕生展」】


今から10年前、平成19年(2007)に、「国華余芳の誕生~明治における古美術調査の旅」という展覧会が開催されました。

国華余芳の誕生展チラシ

国立印刷局が運営する「お札と切手の博物館」で開催された展覧会です。

この展覧会に、「国華余芳」の原本や、国華余芳の誕生に至る関係作品等が展示されたのでした。
私は、明治初期に制作された、この「国華余芳」という出版物に、以前から関心がありましたので、早速、出かけてみました。

お目当ての「国華余芳」の原色石版図の現物は、期待以上の驚くべき美しさで、見惚れてしまいました。

「こんなに精緻で美麗な多色刷り印刷物が、明治の初年にできていたのか!」

と、感嘆の声をあげてしまいました。
とりわけ正倉院宝物の螺鈿鏡や飾箱の図版の、色鮮やかで細密な美麗さには、眼を奪われてしまいます。

「国華余芳の誕生展」国華余芳図版の展示風景
「国華余芳の誕生展」~国華余芳図版の展示風景

「国華余芳」図版の石版原版
「国華余芳の誕生展」~図版の石版原版

展覧会のパンフレットには、

「本展でとりあげた『国華余芳』は、写真帖・多色石版図集ともに、美術的にも歴史的にも非常に価値のあるものですが、残念ながら、一般にはほとんど知られていません。」

と書かれています。
きっと少部数だけ印刷されたに違いなく、なかなか目にすることはない貴重な図集ということです。



【なんとNET「日本の古本屋」に、「国華余芳」が出ているのを発見!】


それから10年が経ちました。

数か月前、ネットの「日本の古本屋」を、なんとなく検索していると、なんと「国華余芳~多色石版図集」が売りに出ているではありませんか!
それも、「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」が3冊セットで出ていたのです。

「あの『国華余芳の誕生展』に展示されていた、『国華余芳』を手元に置くことが出来るのか!」

そう思うと、心高鳴るというのか、ワクワクしてきました。
ちょっと高かったのですが、思わず「購入する」をクリックしてしまいました。

数日後、我が家に「国華余芳」が届きました。
早速、ページをめくると、次々と色鮮やかな正倉院宝物の細密図が、眼前に現われます。
展覧会でガラス越しに観たのとはまた違って、現物を手に取って眼近に観るというのは、格別のものがあります。
こういうのを、「眼福」というのでしょう。


ちょいと嬉しくなり、仏像の話ではないのですが、この観仏日々帖で、ご紹介させていただきたくなったのでした。



【古美術調査の旅と、「国華余芳」が誕生するまで】


ここで、「国華余芳」というのはどのようなものなのか、「国華余芳」が制作されるに至るいきさつについて、簡単にふれてみたいと思います。

「国華余芳」は、ご紹介した多色石版図集3冊に加えて、写真帖5冊とで構成される出版物です。

明治12年(1879)、政府の印刷局は、大々的な古美術調査旅行を実施します。
一行12名、約5か月間をかけて各地を巡るという古美術調査でした。
この古美術調査旅行の成果物として、当時の技術の粋を集めて、調査宝物の石版図集と、寺社などの古建築や景観の写真帖を制作したのです。

それが「国華余芳」なのです。

この印刷局による古美術調査旅行は、明治維新以来の政府の大々的古美術調査としては、第2回目となるものでした。



【近代最初の政府、古美術調査は「壬申検査」(明治5年)】


最初の古美術調査は、よく知られていると思いますが、明治5年(1872)に実施された「壬申検査」と呼ばれるものです。

政府は、古美術品の散逸、破壊を憂慮し、明治4年「古器旧物保存方」を布告して、府県に管内社寺等の文化財の目録を提出させました。
それを元に、明治5年に、現物確認の宝物調査を行つたのが「壬申検査」です。
壬申検査は、政府による最初の文化財調査となるもので、調査は文部省の町田久成、蜷川式胤によって行われました。

町田久成.蜷川式胤
町田久成(左)、蜷川式胤(右)

我が国近代における文化財保護の嚆矢となるものと云われています。

この時の調査記録としては、同行の写真師・横山松三郎が撮影したステレオ写真と、「壬申検査宝物図集81冊」(重要文化財)が制作され、現存しています。

「壬申検査宝物図集」

「壬申検査宝物図集」収録図

「壬申検査宝物図集」収録拓本
「壬申検査宝物図集」収録図と拓本

この「壬申検査宝物図集」は、拓本と手描きの詳細複写によってなるもので、印刷物ではありませんでした。



【印刷局長・得能良介が企画した、明治12年の古美術調査】


「壬申検査」の7年後、今度は、政府の印刷局において、大々的な古美術調査旅行が実施されることになったのでした。

印刷局というのは、当時、主にお札と切手の印刷を行っていた処です。

明治草創期の印刷局では、当初外国に委託していた紙幣の国産化に向けて、お雇い外国人を招聘し、様々な新技術を学んで偽造防止、品質向上に努めていました。
有名な版画家、画家のキヨッソーネも、印刷局に招聘されたお雇い外国人でした。

当時の印刷局長であった得能良介は、キヨッソーネから、
「西欧諸国で日本美術を愛好する風潮が高まり、日本の古美術品が安価に外国へ販売され、大量に流失している」
という現状を聞かされたといいます。

キヨッソーネ.得能良介
キヨッソーネ(左)、得能良介(右)

そこで、印刷局長、得能良介は、各地の古美術調査旅行を行うことを企画発案します。

得能良介は、

・日本の貴重な古社寺等の宝物、文化財を調査し、これを記録して後世に残すこと

・調査を通して、図柄の題材を求め、紙幣のデザインに反映させるなど、印刷局の技術向上を図ること

を、企図したのでした。
印刷局では、お札や切手の図案や模様などの意匠を創案する必要があり、また偽造、模造を許すことがない最高レベルの印刷技術を保持する必要があったのです。

得能良介は、この古美術調査旅行の記録日記「巡回日記」を著しています。

得能良介記「巡回日記」.得能良介記「巡回日記」の復刊出版本(1996年刊私家出版)
得能良介記「巡回日記」(左)と、199年に私家本で解説等を附して出版された復刊本(左)

得能は、その中で、キヨッソーネをこの旅行に同行した理由を語って、このように記しています。

「山川ヲ跋渉シ、我ガ国ノ神社、仏閣、官民秘蔵ノ古器、古画ヲ見、人情、風俗如何ヲ審ラカニセバ、他日、筆ヲ執ルニ當ツテ、必ズ大イニ覚悟スル所ノモノアラン」

即ち、

ものを描くためにはその対象が造られた背景や風俗を理解することが必要であり、ただ姿形をなぞるのでは、本当にそのものを描いたことにならない。
そのため今回の旅で、古器古画を見、各地の風俗・人情を知って業務の参考としてもらうためにキヨッソーネを同行させたのだ。

と語っているのです。

得能良介(左)キヨッソーネ(右)
得能良介(左)キヨッソーネ(右)

「壬申検査」は、文化財保護、保存を主目的とした古美術調査でしたが、
印刷局の「古美術調査旅行」は、日本のデザイン、印刷レベルの向上、練磨の目的を併せ持つ古美術調査と云えるものであったといえるのでしょう。



【総勢12名、142日間で各地を巡った、古美術調査旅行】


印刷局の古美術調査旅行は、どのようなものであったのでしょうか?

明治12年(1879)年5月1日に旅立った古美術調査旅行は、なんと142日間の長きにわたり各地を巡ります。

印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート
印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート

伊勢神宮や東大寺・正倉院、日光東照宮を訪ねるなど、ご覧のとおりのルートを巡り、この年の9月19日に東京へ帰着したのでした。
調査旅行のメンバーは、局長の得能良介、お雇い外国人キヨッソーネをはじめ、写真技師、古器物鑑定担当など、総勢12名でした。

記録によると、調査した器物総数は、2426点、撮影した写真は510枚、模写図は200枚に及びました。

古美術調査の旅~日程参加者等の概要
古美術調査の旅~日程参加者等の概要



【古美術調査の成果を、印刷物に実現した「国華余芳」】


142日間にわたる古美術調査旅行から帰京したのち、印刷局調査団が旅で鑑賞した古器物、景勝を多色石版図集や写真帖として発行したのが、『国華余芳』です。

「国華余芳」多色石版図集
「国華余芳」多色石版図集

『国華余芳』の題字は、「受け継がれるべき国のすぐれた宝」という意味に取ることができます。

局長・得能良介は、国華余芳の巻頭言において、

「国華余芳ト題シ 之ヲ工場製品ノ儀範トナシ 以テ世ニ廣メ 愛国ノ志操ヲ培養スルノ具ト為ント欲ス」

と綴っています。

「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言
「国華余芳」の得能良介執筆・巻頭言、(右)文末引用部分

『巡回日記』においても、この『国華余芳』を、工場の模範とするほか、世間に日本の風景や芸術を広く伝えようとする製作趣旨を語っています。
まさに我が国の「国華余芳」を、印刷局の技術で世に示し伝えんとする、得能良介の思い入れ、気概が伺えるようです。



【写真帖と多色石版図集を制作刊行】


そして、当時の我が国の最高峰のレベルの技術を以て、「国華余芳・写真帖、石版図集」の制作にあたったのでした。

「国華余芳・写真帖」は、古美術調査旅行で撮影した文化財や景勝の写真を選りすぐって発行したものです。

「国華余芳・写真帖」

「国華余芳・写真帖」収録写真1

「国華余芳・写真帖」収録写真2

「国華余芳・写真帖」収録写真3
「国華余芳・写真帖」収録写真

撮影した写真技術師は、三枝守富です。
写真帖は5分冊で、一冊につき概ね25枚、主に神社や仏閣などの建造物や、山川などの景勝を被写体とした写真が納められています。
この写真帖は、明治13年(1880)に完成しました。


「国華余芳・多色石版図集」は、精密な原色版図集です。

カラー写真が存在しなかった当時、多色石版印刷は写実的で細密な原色再現の、最高レベルの印刷技術でした。
「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」に分かれ、それぞれ25枚、19枚、24枚の図を収めた、折本式の冊子となっています。
国華余芳に収められた石版画は、明治期を代表する石版技師・石井重賢(鼎湖)の指揮のもとに制作されたものです。
宝物の再現にあたっては、工芸官の本多忠保、斎藤知三による入念な現物調査、考証を経て、極めて写実的にすぐれたものになっています。

国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版
国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版

正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」
正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」のカラー写真

多色石版図集は、明治14年から15年にかけて発行されました。


印刷局において、画期的な古美術調査の旅を実現し、「国華余芳」の制作させた、得能良介は、職務中に倒れ、58歳でその生涯を閉じました。
国華余芳が完成した翌年の、明治16年(1883)12月のことでした。

得能良介
得能良介



【明治に入ってから、新たに伝わった石版印刷技術】


ところで多色石版印刷というのは、どのような印刷技術を云うのでしょうか?

当時の、図案画像など印刷技法としては、

凸版としての木版印刷
凹版としての銅版印刷
平板としての石版印刷

とが存在しました。

木版印刷は、江戸時代の浮世絵に代表される、我が国伝統の印刷技術です。
明治時代に入ってからも、美術書の原色版印刷に用いられ、例えば「国華」や「真美大観」のカラー図版は多色刷り木版印刷が使われています。

「国華」創刊号
「国華」収録の多色木版刷り図版
「国華」創刊号と収録の多色木版刷り図版


「真美大観」「真美大観」収録の多色木版刷り図版
「真美大観」と収録の多色木版刷り図版


銅版印刷は、エッチングと云われる技術で、江戸後期、司馬江漢以来の伝統でによるものです。
緻密な描線が描けることから、紙幣の印刷はこの技法を使って行われています

明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣


そして、石版印刷は、リトグラフと呼ばれるもので、1798年ドイツのセネフェルダーによって発明されました。
印刷原版に石版を用い,脂肪と水が反発し合うことを利用して、平面の上に油性インクで文字、画像を描くだけで印刷を可能とする技術です。
日本には、明治初年にその石版技術が導入されました。

石版と印刷のありさま
石版と紙に印刷している様子

明治期のカラー刷りの多色石版印刷は、三原色を組み合わせて色を表現するのではなくて、熟練した職人が勘を頼りに色分けを行い、その色の数だけ石版面を用意しなければなりませんでした。
印刷する際には、十数個ある版を順番に刷っていくのですが、頼りは石と紙に付けられた見当(目印)のみで、ズレが内容に刷り重ねるのは、大変な手間と技術を要する作業であったといいます。



【最高峰の多色石版印刷技術で制作された「国華余芳」~印刷局の偽造防止研究の一環~】


「国華余芳・多色石版図集」も、当時の最高峰の多色石版印刷技術を以て作成されたのでした。

印刷局で、多色石版の制作にあたったのは、石井鼎湖でした。
石井鼎湖が印刷局石版科長の任にあった間に、当時の民間では出来得可くもない精巧な複製的多色石版の出版物が、いくつか制作されました。
「国華余芳」はその代表作品ですが、その他には、明治10年(1877)制作の「玉堂富貴」、明治16年制作の「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」「なみまの錦」「卓上静物」などの作品が残されています。

「玉堂富貴」(明治10年)
「玉堂富貴」(明治10年)

「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)
「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)

「なみまの錦」(明治16年)
「なみまの錦」(明治16年)

「卓上静物」(明治16年)
「卓上静物」(明治16年)


これほどの高度な印刷技術を以て「国華余芳」などを制作したのは、紙幣や切手の偽造防止、模造防止対策の一環としての印刷技術研究の為でもあったそうです。
一方、防贋技術開発という側面があったために、一人一業で、その技術を秘守して決して漏らさないということとなり、印刷局の優れた多色石版の技術は、後の世に広く伝えられなかった、ということなのだそうです。

「なるほど!」
と、技術が秘された訳は理解できるのですが、大変残念なことです。

こうした石版印刷の技術は、大変手間がかかるために、その後、写真製版技術の発達、印刷技術の発達によって、写真や図版そのものを機械的に忠実かつ大量に再現できるようになっていくと、一部の美術作品を除いて、用いられなくなってしまいました。

そして「国華余芳」という美麗石版印刷の極致のような存在も、忘れられていったのでしょう。



【民間でもつくられた、美しい石版印刷図譜「観古図説」】


最後に、ついでの話です。

明治初期、ご紹介したように印刷局では、多色石版印刷のカラー図集が制作されていましたが、民間でも石版印刷による美しい図譜が制作されていました。
その代表的なものとして、蜷川式胤によって刊行された「観古図説・陶器之部」があげられるのではないかと思います。
「観古図説・陶器之部」は、蜷川式胤が収集した陶磁器などを、石版印刷図譜として刊行したものです。

「観古図説」
「観古図説」

美しい手彩色石版印刷の「観古図説」の図譜写真をご覧ください。

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)
「観古図説」収録図譜(昭和48年歴史図書社復刻図版)

写真は、昭和48年に歴史図書社から、原本そのままに精密復刻された復刻版によるものですが、陶磁器の微妙な質感が再現され、品格ある美麗な彩色が見事な図譜であることが実感されると思います。


この図譜は、多色印刷ではなく、モノクロームの石版印刷の上から手彩色により色付けを施したものです。
第1冊が明治9年(1876)に刊行され、明治13年(1880)まで、全7冊が刊行されました。
亀井至一の描いた挿図をふんだんに用い、民間で石版印刷を進めた玄々堂の刊行となっています。
「国華余芳」が作成される数年前の出版です。
「国華余芳」の多色石版印刷の最高峰レベルの図版と較べると、「観古図説」の図版はやはり見劣りしてしまうのですが、上品な石版手彩色の美しさには、惹きこまれるものがあります。

「観古図説」を刊行した蜷川式胤は、先にふれたように、近代初の古美術文化財調査と云われる「壬申検査」に町田久成とともに赴いた人物で、「壬申検査宝物図集」の制作にもかかわっています。

蜷川式胤
蜷川式胤

文化官僚でありましたが、明治初期の好古家、古美術研究家としても知られ、エドワード・S・モース(大森貝塚の発見者)の陶磁器蒐集の師であったことは有名な話です。

この「観古図説・陶器之部」の図譜も入手して手元に置きたいところなのですが、余りにも稀少かつ高価で、全く手が出るものではありません。
私は、何とか、昭和48年(1973)に歴史図書社により、蜷川家伝存本から精巧複製された復刻版を手に入れました。
復刻版と云えども、明治の刊行当時を十二分にしのばせる美麗な図譜で、時々、書架から取り出して目を愉しませています。

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)
観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)



今回は、仏像関係の話ではなくて、申し訳ありませんでしたが、
明治初期の美麗な多色石版図集「国華余芳」を手に入れることが出来、嬉しくて、このご紹介記事を綴らせていただきました。


この話で、明治初期の古美術調査と図譜の世界に、ちょっとご関心を待たれることになれば、嬉しき限りです。


新刊旧刊案内~「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」 と 研究史本いろいろ 【2017.2.4】


「美術史研究のあゆみ」シリーズの最新刊が出版されました。


「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、片岡直樹編著 
2016年12月 里文出版刊 【303P】 2500円


唐招提寺~美術史研究のあゆみ


そろそろ、このシリーズの新刊が出るのではないかと期待していましたので、早速、購入しました。

この本は、唐招提寺についての美術史研究上のテーマについての、研究史をまとめた本です。

本の帯には

「鑑真大和上像ほか唐招提寺美術の最新の研究成果をまとめた一冊!
鑑真の御寺奈良・唐招提寺には天平以来の数多くの仏教美術品が伝えられている。
その研究史をたどる一歩進んだ美術書。」

と記されています。

本の題名でご想像がつく通り、テーマ別の研究史について、これまでの諸説から最新の研究成果までが、コンパクトにまとめられた本です。

「唐招提寺の創立」「金堂創建と金堂三尊」「鑑真和上像」「新宝蔵・旧講堂の木彫群」

等々が、テーマとして採り上げられています。

目次をご覧ください。

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次2唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次1

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次4唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次3

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次5

テーマ別に、研究史についての概説が、20~30ページにコンパクトにまとめられ、過去の研究、論争、最新の研究成果、課題などが、大変わかりやすく、読みやすく述べられています。
一般の解説書から、一歩踏み込んだ研究史の概説、解説書と云えるものだと思います。



【一般解説書で飽き足らない方の、知的興味をくすぐる研究史本】


こうした研究史をたどった本は、仏教美術を愛好する者にとっては、大変有難く、また便利な本です。

奈良や京都の古社寺や仏像を巡り、だんだんと仏教美術に興味がわいてくると、一般的な、仏像のガイドブックや解説本で飽き足らなってくるのではないでしょうか?

私も、仏教美術に少し興味がわいてきた昔を振り返ってみると、古社寺、仏像巡りをしているうちに、いくつかの美術史の大きな論争、議論があるということがおぼろげながら知るようになりました。

「法隆寺再建非再建論争」「薬師寺金堂三尊、移坐非移坐論争」「平安初期木彫誕生の謎」

といった話です。

「面白そう、興味深い話だな」
「もう少し、深く知りたいな」

と思ったのですが、どんな本を読んだら、こうした論争や議論の全体感が判るのかというのが、よく判りませんでした。
ちょっと突っ込んで知りたいと思っても、なかなか手ごろでコンパクトにまとめた研究史の解説書というのは、全くありませんでした。

知ろうとすると、ものすごく難解で高価な研究書とか、美術研究誌に掲載されている研究論文にチャレンジするしかなかったのではないかと思います。
ただの、愛好、趣味の者にとっては、ちょっと読んでみても、難し過ぎてギブアップという世界でした。

こんな知的興味をくすぐるような、論争史や研究史をまとめた本があったら、本当に嬉しいなというのが、若き頃の願望であったように思います。



【早稲田大学、大橋一章氏を中心に、長らく刊行されている「美術史研究のあゆみ」シリーズ】


この「美術史研究のあゆみ」シリーズの本は、こうしたニーズにぴったりという本なのではないかと思います。

30年ほど前から、刊行が始まりました。
いずれも「コンパクトにまとめられた研究史解説書」となっています。

一般の解説書では、ちょっと飽き足らなくなってきた
仏教美術史の議論あるテーマについて、一歩深く知りたい
興味関心はあるが、専門書、研究書を読もうとまでは思わない

といった方には、大変面白く、興味深い本なのではないかと思います。

このシリーズ、早稲田大学の大橋一章氏を中心に、刊行が続けられているものです。
これまでに全部で、8冊刊行されています。
この機会に、どんな本が出ているのかだけを、ご紹介しておきたいと思います。
個別の内容に立ち入ると、大変ですので、本の名前と書影の羅列になってしまいますが、ご参考になればと思います。

出版年順にご紹介します。



【最初の2冊は、主要な論争テーマを取り上げた研究史本】



「寧楽美術の争点」大橋一章編著 1984年10月 グラフ社刊 【317P】 1800円

寧楽美術の争点

もうずいぶん前の話になりますが、この新刊本を、本屋で見つけた時、
「こんな本が出るのを、待っていたのだ!」
思わず、そう叫びそうになりました。

採り上げられたテーマの目次は、このようなものでした。

寧楽美術の争点・目次

面白そうで、興味をそそるテーマばかりです。
早速買って、読み耽った思い出があります。

法隆寺論争についての本を除いては、仏教美術の論争史、研究史だけをまとめた本は、それまで全くなかったのです。

町田甲一氏は、本書の裏表紙の推薦文にこのように書いています。

「法隆寺論争がなかったら、若草寺塔心礎の寺への返還はなかったろうし、伽藍址の発掘も行われたとしても可成りおくれたことだろうが、それにもまして思うべきことは、その後の『法隆寺学』、さらに上代美術史の今日のような成果は始と期待できなかったであろう。

また薬帥寺論争によって、飛烏より白鳳・天平にいたる上代彫刻の「様式」の内容がようやく正しく埋稗されるようになった。

論争は、それが真面目に行われるとき、必ず新しい成果を生むものであり、新知見を齎し、学問の進化を促すものである。
そしてそのような論争の経緯を手際よく鳥瞰できることは、それらの問題に関心をよせる人たちに適切な指針を提供するはかりでなく、その道に進もうとする新しい研究者には、諸問題についての現時点における歴史的全貌を要約して数えてくれる極めて効率の高い入門書となりスタート台ともなるものである。

そのような古美術に興味をもつ人、新しい若い研究者にこのすぐれた『寧楽美術の争点』を、おすすめしたい。」


この本が出版されてから、10年後、ずいぶん経ってから、「寧楽美術の争点」の続編のような本が出ました。

「論争・奈良美術」大橋一章編著 1994年4月 平凡社刊 【284P】 2860円


論争奈良美術

目次をご覧ください。

論争奈良美術・目次

このようなテーマが採り上げられています。



【その後は、奈良六大寺の研究史本を、着々と刊行中】


以上の2冊は、これまで論争、議論があった主要テーマをまとめたものでしたが、
この後からは、奈良の主要大寺ごとに、研究史をまとめた本が出版されるようになりました。
4~5年おきに、出版されているようです。

ご覧ください。


「法隆寺美術・論争の視点」大橋一章編著 
1998年8月 グラフ社刊 【381P】 2800円


法隆寺美術論争の視点



「薬師寺・1300年の精華~美術史研究のあゆみ」大橋一章、松原智美編著
2000年12月 里文出版刊 【309P】 2500円


薬師寺~美術史研究のあゆみ

薬師寺~美術史研究のあゆみ・目次



「東大寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、斎藤理恵子編著
2003年9月 里文出版刊 【369P】 2500円


東大寺~美術史研究のあゆみ

東大寺~美術史研究のあゆみ・目次



「法隆寺、薬師寺、東大寺、論争のあゆみ」大橋一章著
2006年4月 グラフ社刊 【218P】 1600円


法隆寺・薬師寺・東大寺、論争のあゆみ



「興福寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、片岡直樹編著
2011年11月 里文出版刊 【381P】 2500円


興福寺~美術史研究のあゆみ

興福寺~美術史研究のあゆみ・目次


以上のとおりです。

今般出版された新刊「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」を含めると、奈良六大寺のうち5寺の研究史本が発刊されたことになります。

数年後には、「西大寺」の研究史本が計画されているという話で、それが出版されると、奈良六大寺の研究史本が完結することになるそうです。

一般の解説書から、一歩踏み込んだ仏教美術史にご関心のある方には、お薦めのシリーズだと思います。



【ついでに、昔懐かしい、法隆寺論争の研究史本をご紹介】


「美術史研究のあゆみ」シリーズを採り上げたついでに、もっともっと昔の研究史本を、ちょっとだけご紹介しておきます。

法隆寺の再建非再建論争を中心とした、「研究史本」です。

早稲田の大橋一章氏を中心とした仏教美術史研究史本が出版されるまでは、研究史だけを採り上げた本というのは全く無くて、唯一、「法隆寺論争の研究史本」が存在するだけでした。

今更言うまでもありませんが、法隆寺の再建非再建論争は、明治から昭和を通じて展開された建築史、美術史上の大論争でした。
この世を挙げてといってよいほどの大論争があったからこそ、日本の近代建築私学、美術史学の、これほどの発展はなかっただろうともいわれています。

こんな法隆寺の研究史本が、その昔出ているのです。


「法隆寺再建非再建論争史」足立康編 1941年10月 龍吟社刊 【368P】 3.8円

法隆寺再建非再建論争史


戦前に出版された、法隆寺再建非再建論争をまとめた本です。
法隆寺非再建論の雄であった、足立康氏の編集による本です。
明治時代以来の法隆寺再建非再建論争について、足立康氏が歴史を追って解説、自説を展開しつつ、論者の代表的論考が集成されています。
非再建論者で著名な、平子鐸嶺、関野貞、足立康といった各氏の論考が中心です。

ただ、再建論の代表的大物であった喜田貞吉氏の論考が採録されていません。
前年に、喜田貞吉氏が自説の論考をまとめた本「法隆寺論攷」が出版され、喜田氏の論文が転載不可になったという事情によるものです。

「法隆寺論攷」喜田貞吉編著 1940年9月 地人書院刊 【494P】 5.5円

法隆寺論攷


この喜田貞吉氏の本とセットで読むと、昭和、戦前の法隆寺再建非再建論争の研究史をしのぶことが出来ます。


戦後すぐには、こんな本が出版されました。

「法隆寺の研究史」村田治郎著 194910月 毎日新聞社刊 【332P】 330円

法隆寺の研究史


村田治郎氏は、東洋建築史、中国建築史研究の第一人者で、法隆寺の研究でも知られ、法隆寺に関する数多くの論文を発表している人です。

著者は,序文で、

「この本は法隆寺、とくに金堂、塔婆、中門を中心とする諸問題についての、諸学者の研究の経過と現在到達している点を明らかにして、多くの人々の理解に役立たしめ、且つ新たに研究を始めようとする人達の手引きになることを、目標としている。
私がこんな本の編纂を思い立ったのは、敗戦によって今までの日本は週末を継げたのだから、それを機会に過去のあらゆる学問は総決算して、今後の出発に備える必要があると考えられたからである。」

と述べています。

序文のとおり、法隆寺の論争史、研究史について、いずれの論に偏することなく、大変丁寧にしっかりとまとめられた高品質の本となっています。
当時、法隆寺の研究史を学ぶ、「底本」ともいうべき本になっていたのではないかと思います。

この本、何部刊行されたのかわかりませんが、昭和40~50年代には、なかなかの貴重書でした。
神田神保町の古書店では、2万円程度の値札が付けられて書棚に並んでいました。
到底買えそうにはなく、恨めしそうな目でこの本を眺めていたのを覚えています。
今、NETで検索したら、2000円ぐらいで購入できるようです。
時代が変わったんだなという気が、しみじみとしてきます。


同じ村田治郎氏による「法隆寺の研究史」の本を、もう1冊、ご紹介します。

「法隆寺の研究史」村田治郎著作集第2巻 1987年7月 中央公論美術出版刊 【431P】 9800円

法隆寺の研究史・中公美術出版版

村田氏が1985年に没後、全三巻の著作集が刊行されましたが、その第2巻となっているものです。

昭和24年に刊行された「法隆寺の研究史」と同じ題名になっていますが、大幅に増訂、改訂され、ハイレベルの内容になっています。
村田氏没後に、蔵書、原稿類を整理した処、この新たな増訂原稿が見つかったということです。
この新版の「法隆寺の研究史」は、この新稿によるものであり、旧著とは面目を一新した研究史の論文集となっています。

村田氏は、新稿の序に、旧著について
「初歩の学生諸君に、法隆寺学を容易に理解して頂く内容にしようと思って書いた」
としています。
新版の方は、学問的レベルの法隆寺研究史の論考の集大成といったものになっていると思います。



私の知っている限りでの、仏教美術史の「研究史本」を、ざっとご紹介してみました。
研究史本の世界というのも、知的興味をくすぐって、なかなか面白いものです。

ご関心のある方の、ご参考になれば、有難き限りです。


新刊案内~「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」 貴田正子著  【2016.10.29】


まさか、まさか! 

こんな本が出版されるとは、思いもしていませんでした。


新薬師寺・香薬師像は、白鳳時代の名品として人々の心を魅了してきました。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~飛鳥園・小川晴暘撮影写真

昭和18年に盗難に遭い、今も、行方知れずとなっています。
まさに、「伝説の白鳳美仏」と云える仏像なのです。

香薬師像の右手先部分は、当時、盗難を免れたものの、その後行方不明となっていました。
その右手先が、70年余を経て行方が判明し、新薬師寺に返還奉納されたというのです。

今般、出版された「香薬師像の右手」という本は、香薬師像の盗難事件の発生から、その後の顛末、今般の右手先の所在の発見までを克明にたどったノンフィクション・ドキュメントなのです。


「香薬師像の右手~~失われたみほとけの行方」  貴田正子著
2016年10月 講談社刊 【243P】 1600円


新刊・香薬師像の右手



【「香薬師像の右手発見」の新聞記事に、ビックリ!】


10月12日、読売新聞の朝刊に、こんなビックリの記事が掲載されました。

「盗難の重文仏像の右手か   新薬師寺に返還  専門家、本物と判断」

という大きな見出しです。

香薬師像右手発見を報ずる新聞記事
香薬師像右手発見を報ずる読売新聞2016.10.12朝刊

新聞記事本文の一部を、ご紹介しましょう。

「奈良市の新薬師寺から1943年に盗まれて行方不明になっている白鳳時代(7世紀半ば~8世紀初め)の仏像の傑作、重要文化財・銅造薬師如来立像(通称・香薬師(こうやくし)像)の右手部分が盗難を免れていたことが分かった。

発見された香薬師像の右手
発見された香薬師像の右手

行方を調査したノンフィクション作家の貴田正子さん(47)が、それに当たるとする右手を確認し、昨年10月に同寺で返還の法要が行われた。
文化庁は科学調査を実施し、本体が未発見のため断定はできないものの、『白鳳時代のものとみて矛盾はない』としている。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
香薬師像は高さ約75センチの金銅製。奈良・法隆寺の観音菩薩立像(通称・夢違観音)や東京・深大寺の釈迦如来倚像と並び、白鳳仏の代表とされる。
明治時代に2度盗難に遭って寺に戻ったが、43年に三たび盗難に遭い、行方不明となった。
右手部分は、最初に盗まれてから寺に戻る間に切断され、発見後に本体とつなぐ補修が行われた。
このため、43年の盗難で本体とともに盗まれたと考えられていた。

貴田さんが調べたところ、43年の盗難時に右手は本体と別に保管されていて盗まれず、一時は警察署が保管していたのを、写真家の小川晴暘が目撃し、随筆に書き残していたことが判明。
その後経緯は不明ながら作家の佐々木茂索(1894~1966)が所持し、後に遺族が神奈川県鎌倉市内の寺に寄贈したという。

12日刊行の貴田さんの著書「香薬師像の右手」(講談社)に書かれている。
・・・・・・・・・・(以下略)」


「そうか、あの香薬師の右手先が見つかって、新薬師寺に戻されたのだ!」

と、ビックリしました。

新聞の見出しが「香薬師像」ではなくて、「盗難の重文仏像」と書かれているのを見て、

「『白鳳の名品・香薬師』といわれても、今や、ピンと来る人があまりいないのか、古い話になってしまったのだ。」

と、妙なところで感心した次第です。

記事には、「香薬師像の右手」という新刊本が出る、と書かれているではないですか。
即座に、書店に駆けつけて購入しました。



【神奈川文化研HPでも採り上げたことのある、香薬師像盗難物語】


実は、私も、新薬師寺・香薬師像の盗難のいきさつなどについて、神奈川仏教文化研究所HPの「奈良の仏像盗難ものがたり~新薬師寺・香薬師如来像の盗難」という連載で、採り上げたことがあるのです。

・失われた香薬師像を偲んで(埃まみれの書棚から・第182回)
・香薬師像盗難事件を振り返る(埃まみれの書棚から・第183回)
・その後の香薬師像あれこれ(埃まみれの書棚から・第184回)

この連載では、
香薬師像が3度の盗難に遭ったことと、盗難事件のいきさつ、
かつての盗難事件の際切断された右手先が盗難の免れたこと、
その後、3体の模造が、盗難前に型抜きされた石膏型から複製制作されたこと
などの話について、綴っています。

ご覧いただけると、盗難事件とその後の顛末の概略が、お判りになると思います。

そんなわけで、私にとっては、「香薬師像盗難事件」について書かれた本となると、興味津々、何をおいても必読という処です。



【香薬師盗難から右手発見までの、真迫のドキュメント新刊本】
~著者20年にわたる執念の追跡の軌跡~

本を手にして、一気呵成に読破しました。
私も、香薬師盗難事件について、結構調べてみたつもりなのですが、全く及びもつかない深く詳しいレベルで、徹底調査、徹底取材された、凄い内容です。
「よくぞ、此処まで調べ上げられたものだ!」
敬服としか、言いようがありません。
ただただ驚嘆、讃嘆の一語に尽きます。
この本を読んで、これまでモヤッと疑問に思っていたことのほとんどが、霧が晴れるようにスッキリわかりました。

著者の貴田正子氏は、ノンフィクションライター。
1993年に、産経新聞社に入社。
新人の地方支局時代に香薬師如来像の石膏複製の取材をしたのをきっかけに、香薬師像の独自取材をはじめ、20年以上にわたり香薬師像の行方を追う取材活動を続けてきたそうです。

そして、取材の果てに、昨年の夏、ついに香薬師の右手を発見。
その執念の取材過程をまとめて上梓したのが、本書「香薬師像の右手」という訳です。

AMAZONには、このように本書の内容紹介がされています。

「奈良・新薬師寺の香薬師立像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作と言われていた美仏。
あまりの美しさから『金無垢でできている』という噂がたち、明治時代に2度盗まれたが、手足を切られ、純金製でないことが分かると2度とも道端に捨てられているのが発見され、寺に戻った。

そして昭和18年、3回目の盗難に遭う。
『国宝香薬師盗難事件』は、戦時中の新聞にも報じられ、仏像ファンたちに大きな衝撃を与えた。
2度盗まれて戻ってきた像だったが、今回ばかりは発見されず、未だ行方が分からない。

この行方不明の香薬師を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。
新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査では、まるでミステリー小説を地で行くような展開に。
その結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、『本物の右手』の存在をつかむ……。

美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、衝撃のノンフィクション」

まさにこの内容紹介通りの中身の本で、盗難事件にいきさつや、右手先の追跡発見について、息もつかせずテンポよく読ませます。
流石に、新聞記者出身のノンフィクションライター、惹き込むように読ませる文章で、ミステリー、ドキュメンタリーの世界に浸る気分です。
また、取材したことをライターとして書かれたものではなく、筆者、貴田氏が自らのライフワークとして、執念を以て調査追跡した物語であるだけに、その迫力に胸撃たれるものを感じます。



【香薬師盗難とそれにまつわる話が、見事に網羅された、愛好者必読の書】


本書の目次は、ご覧のとおりです。

香薬師像の右手~目次


この一冊を読めば、香薬師像の盗難事件と、それにまつわるあらゆる話を詳細に知ることが出来ます。
物語の詳しい内容は、是非本書をお読みになってみていただきたいのです。

その中で、私が、とりわけ興味深かった話、新たに知った話のポイントだけを、ここで、ご紹介しておきたいと思います。

香薬師像盗難事件の顛末などについて、ある程度ご存じであることを前提にして、本書を読んで、私が新たに知った話、疑問が晴れた話だけを採り上げてみたいと思いますので、少々マニアックで隘路に入った話になりますが、ご容赦ください。



【発見された右手は、明治33年、1回目の盗難時に切断されたものだった】


第2章の「香薬師盗難事件」についてです。

香薬師像は、明治33年(1900)、明治44年(1911)、昭和18年(1943)の3回、盗難に遭いました。
本書では、この3回の盗難についての顛末が、大変詳しく語られています。
当時の、香薬師の写真、新聞記事、当局に提出された盗難・発見届などが詳細に紹介されており、誠に興味津々です。

3回目の盗難後、現在まで行方不明となっているのですが、その時
「香薬師仏の本体は盗まれたが、右手首と両足は厨子に残されていた。」
と、小川晴暘氏は記しています。
両足は木製の後補ですが、右手先は白鳳当初の本物なのでした。


私がこの盗難事件のいきさつを調べてみたとき、この両足と右手の切断がいつなされたのか、書かれたもので違いがあって、はっきりしませんでした。

もう一つ、不思議に思ったのは、
「どうして右手首と両足は厨子に残されたのだろうか?」
ということでした。
盗賊が香薬師像を乱暴に扱ったので、接合部分が外れてしまったのだろうと思っていました。

本書では、盗難事件の経緯の徹底的な調査によって、この疑問を、見事に解決してくれていました。

右手、両足が切断された時期と状況について、詳しく記されていました。

1回目の明治33年(1900)の盗難時に右手先が、2回目の明治44年(1911)の盗難時に両足先が切断されたというのが、事実だそうです。
2回目の盗難で、右手先が再度切断された後は、右手先と腕は銅板で接合されたということです。

そして、一番ビックリしたのは、昭和17年(1942)に香薬師像の石膏型をとった時、新たに銅で右手、両足、台座を制作し、新造の右手、両足を溶接して香薬師像に接いだのだという、驚きの事実でした。
香薬師像の石膏型をとった話は、この後、ふれさせていただきますが、この話が事実なら、本物の右手は、昭和17年以降、香薬師像とは別に保管されていたのだということになります。

昭和18年に入った盗賊は、新造の右手、両足が接がれた香薬師像を持ち去ったのだということらしいのです。

本書で解明されたこの新事実には、本当にビックリしました。
そして、従来よく判らなかった、ちょっとした疑問がスッキリ解消しました。


3枚の古い写真をご覧ください。

・明治33年の一度目盗難の前にとられたもの(明治21年・1888~小川一眞撮影)
・その後、明治44年の二度目の盗難前にとられたもの(明治41年・1908刊「日本精華第1輯」所載、工藤精華撮影)
・昭和18年の三度目の盗難前にとられたもの(小川晴暘撮影)

この写真をご覧になると、撮影された時期によって、右手の様子、接合の状況が違うのが、お判りいただけるかと思います。


一回目の盗難前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影.明治21年小川一眞撮影写真の右手
1回目の盗難(明治33年)前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影
右手に切断痕は見られないが、もともと右手首あたりに傷みはあった様子



明治~大正期の香薬師像写真~工藤精華撮影.工藤精華撮影写真の右手
2回目の盗難(明治44年)前の香薬師写像真~明治41年刊「日本精華第1輯」所載・工藤精華撮影
切断された右手が腕に接合されている痕が判る



昭和~3回目盗難前の香薬師像写真~小川晴暘撮影.小川晴暘撮影写真の右手
3回目の盗難(昭和18年)前の香薬師写像真~小川晴暘撮影写真
再度切断された右手と腕が、銅板で接合されているのが判る



この3枚目の小川晴暘撮影の写真は、石膏型がとられる昭和17年(1942)以前に撮影されたものということになります。

その後に、新造の右手、両足先に取り替えられ、右手はお厨子の中かそのほかの処に別に保管されていたということであったのでしょう。

第2回目盗難後発見時の右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
第2回目盗難後、発見時に撮影された右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
昨年、新薬師寺に保管されていたのが発見された(「香薬師像の右手」所載写真より転載)





【香薬師像の模造・石膏型は、2種類、型抜きされていた~盗難1年前、昭和17年に~】


第4章の「香薬師の複製制作」についてです。

香薬師像は、3体の鋳造模造が残されているのが知られています。
本物と見紛うほどの、素晴らしい出来の鋳造模造です。

香薬師像が3回目の盗難に遭う1年前、昭和17年(1942)に、本物の香薬師から石膏型が型取りされました。
この石膏型から、香取秀真氏により鋳造されたものです。
それぞれ新薬師寺、奈良国立博物館、鎌倉・東慶寺に所蔵されています。

新薬師寺では、境内の香薬師堂に秘仏として祀られています。
東慶寺では、年に一回、期間を限って宝物館に展示されます。
奈良博所蔵像は、2015年開催の「白鳳展」に展示されました。

東慶寺蔵~香薬師像・鋳造模造奈良国立博物館蔵~香薬師像・鋳造模造
香薬師像鋳造模造~(左)東慶寺所蔵像、(右)奈良国立博物館所蔵像

3体の香薬師の模造の存在については、仏像愛好者には、それなりに知られている話だと思います。

佐々木茂索
佐々木茂索氏
この香薬師の模造は、盗難行方不明となった7年後、昭和25年(1950)に、文藝春秋社の社長、佐々木茂索氏が費用全額を負担し、模造鋳造したものです。
佐々木氏が、亡き妻の供養にと、香薬師の模造鋳造を引き受けたのだそうです。
1体は新薬師寺に寄贈され、1体は佐々木茂索氏の所蔵となりました。
本書では、新薬師寺所蔵以外の2体が、現在、奈良博と東慶寺の所蔵となっている経緯についても詳しく語られていました。

それよりも、新たに知ってビックリしたのは、石膏型をとったのは一人ではなく、昭和17年、2人の手によって型取りされていたということが、書かれていたことです。

石膏型をとったのは、竹林薫風氏と水島弘一氏です。
先にご紹介した3体の鋳造模造は、水島弘一氏の手で取られた石膏型によるものだそうです。
竹林薫風氏の石膏型による鋳造模造も存在するそうで、筆者の貴田氏は、竹林型、斎藤明氏鋳造の香薬師模造を、平成25年(2013)に入手されたということです。

筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
「香薬師像の右手」所載写真より転載


また、鋳造ではなく、石膏像の模造もあるようです。
全く知らなかった、新事実でした。

実は、この石膏型を誰がとったのかという話について、作家の島村利正氏(1912~81)が、自著で、小川晴暘氏がこのように語っていたと記しています。
島村氏は、小川晴暘氏が経営した飛鳥園で働いていたことがある人です。

「香薬師は、わたし(小川晴暘のこと)が箔抜きしてありますから、複製で原型を偲ぶことが出来るかもしれません。・・・・・・」
(「宝冠」・単行本「霧の中の声」所収、1982.3新潮社刊)

貴田氏は、本書で、
「飛鳥園にも、小川晴暘所蔵の香薬師石膏像があった。
水島型から抜いたものかもしれない。」
と述べられていますが、そのことをさすのかもしれません。

私は、てっきり小川晴暘の語った箔抜きというのが、3体の模造鋳造の元型だったのだと思い込んでいたのですが、そうではなかったようです。



【香薬師・右手は東慶寺にあった~新薬師寺から佐々木氏の手に、遺族が東慶寺に奉納】


第6章の「香薬師像の右手」についてです。

いよいよ、香薬師像の右手発見の物語です。
結論からお話しすると、「香薬師像の右手」は、鎌倉の東慶寺に所蔵されていたのでした。

貴田氏が、右手を発見するまでの顛末を簡単にまとめると、次のとおりです。

「香薬師像の右手」は、新薬師寺でも、盗難後、右手が残されていたことを知る人もいないほどに、忘れ去られていました。

近年、新薬師寺の現住職、中田定観氏が、東京芸大名誉教授の水野敬三郎氏から、
「昔、香薬師の右手を見たことがある」
という話を耳にします。

貴田氏は、この話を受けて水野氏を訪問、
「昭和37年頃、水野氏は、久野健氏と共に、佐々木茂索氏宅で香薬師の右手を実見し、写真も撮影した。」
という事実を知ります。
早速、佐々木家を訪ねますが、香薬師に右手は、佐々木家には残されていませんでした。

貴田氏は、この情報をベースに右手の行方を追跡、ついに、現在、東慶寺に所蔵されていることを突き止めたのです。
佐々木茂索氏が所蔵していた香薬師像の模造が、佐々木氏没後、平成4年(1992)に東慶寺に寄贈されていることから、佐々木氏旧蔵の「香薬師の右手」もまた、東慶寺に奉納されているのではないかと推測したのでした。

貴田氏と新薬師寺が、東慶寺に丁重にお尋ねした処、果たして、「香薬師の右手」は、東慶寺で預かられていました。
香薬師模造の東慶寺への寄贈の8年後、平成12年に佐々木家から奉納されていたのでした。
香薬師右手が納められた箱蓋には、、
「新薬師寺香薬師御手也 故有テ昭和廿五年首夏此箱ヲ造リ奉安ス」
と箱書きがされていました。

香薬師像の切断された右手に間違いないとみられるものでした。


桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手

佐々木氏による由緒書が記された箱の蓋
桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手~箱の蓋に佐々木氏による由緒書が記される
「香薬師像の右手」所載写真より転載



「香薬師像の右手」は、その後のやり取りを経て、東慶寺、佐々木家から新薬師寺に戻されることの快諾がえられ、65年ぶりに、元の新薬師寺に帰還することになったのでした。

昨年(2015)10月、新薬師寺に於いて、香薬師像の右手の返還を報告する法要が厳粛に執り行われたということです。

誠に数奇な運命の物語といってよいものでしょう。

「香薬師の右手」は、どうして佐々木茂索氏のもとに所蔵されていたのでしょうか?
きっと香薬師像の模造鋳造が行われ、新薬師寺にその1体が寄贈された時に、新薬師寺から謝意の意味もあって佐々木氏に贈られたのではないでしょうか?

東慶寺のHPに、香薬師如来像・模造についての解説ページがありますが、そこには模造制作のいきさつが、このように記されています

「(香薬師像が盗難行方不明となり・・・・)
時の住持の悲嘆を見かねて、東大寺の上司海雲師が文芸春秋・社長佐佐木茂索氏に話し、
氏もこれに同情し、幸いに寺にこの立像の石膏模型のあるのを利用し、昭和25年に3体の模造を鋳造、
一体を新薬師寺に寄贈し一体を国立博物館に、もう一体を佐佐木家に所蔵したが、
佐佐木茂索27回忌に東慶寺に寄贈された。」

この時の模造鋳造費用は、全額佐々木氏が負担していますので、新薬師寺からお礼の意味も込めて、香薬師の右手が佐々木氏に贈られたとしても、不思議なことは無いように思えます。

この解説は、久野健氏によって書かれたものです。
水野敬三郎氏と共に、佐々木氏宅で「香薬師像の右手」を見たという、久野氏です。


余談ですが、「香薬師像の右手」が、佐々木茂索氏のもとにあることは、仏教美術関係者の間では、「知る人ぞ知る」といった話なのではなかったかと思われます。

実は、この神奈川仏教文化研究所HPの、「盗難文化財の歴史」のページに、新薬師寺・香薬師像盗難の話が短く載せられています。

そこには、
「右手首は、新薬師寺から譲られた某氏が所蔵している。」
と記されています。

この文章を書いたのは、HPの前管理人(故人)です。
久野健氏とも親交のあった人でしたので、香薬師の右手を佐々木茂索氏が所蔵しているのを、久野氏から聞いて知っていたのではないでしょうか?


ちょっと、長々と、マニアックな細かいことを書き連ねてしまいました。
私の大変興味深い分野の話でしたので、話がついつい、隘路に入ってしまいました。

こんな細かい話はさて於いて、本書

「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」貴田正子著

は、誠に興味深い本です。
是非、ご一読をお薦めします。

香薬師像を巡る数奇な物語に、みるみる惹きこまれてしまうのは、間違いありません。
若き日の出来事から「香薬師像の虜」になった貴田氏の、香薬師像への思慕と、右手の行方追跡への深き思いが伝わってくるノンフィクションです。


いつの日にか、香薬師像そのものが発見される日が来ることを、願うばかりです。


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