観仏日々帖

新刊旧刊案内~「国華余芳」多色石版図集(明治15年刊)について 【2017.3.3】


【手に入れた、珍しい明治初期の図集「国華余芳」】



「国華余芳」(こっかよほう)多色石版図集を、手に入れました。

「『国華余芳?』 そんなもの聞いたことは無い!」
「多色石版図集? ますますよく判らない!」

このように思われた方が、沢山いらっしゃるのではないでしょうか?

「国華余芳」多色刷石版図集3冊
「国華余芳」多色刷石版図集3冊

確かに「国華余芳」という図集は、ほとんどといって良いぐらいに、世に知られていないのではないかと思います。
この「国華余芳」は、明治15年(1882)、印刷局の手によって、当時の印刷技術の粋を集めて造られた、カラー刷り石版図集です。

「正倉院御物」「伊勢内外神宝部」「古書之部」の三部構成になっています。



【精巧、美麗な宝物図版に、眼を奪われる「国華余芳」】


まずは、「国華余芳」の写真をご覧ください。

「正倉院御物」の冊です。
長い紙を折りたたんでいる折帖仕立てになっており、25図が収められています。
正倉院に秘された鏡や絵箱の宝物が描かれており、三部のなかで、最も美しい図集です。

「国華余芳・正倉院御物」

「国華余芳・正倉院御物」収録図版1

「国華余芳・正倉院御物」収録図版2

「国華余芳・正倉院御物」収録図版3

「国華余芳・正倉院御物」収録図版4

「国華余芳・正倉院御物」収録図版5

「国華余芳・正倉院御物」収録図版6
「国華余芳・正倉院御物」~多色石版図版


「伊勢内外神宝部」の冊です。
伊勢神宮の社殿や剣などの神宝、19図が収められています。

「国華余芳・伊勢内外神宝部」

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版1

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版2

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3
「国華余芳・伊勢内外神宝部」~多色石版図版


「古書之部」の冊です。
宸翰、高僧などの古筆が、24図収められています。

「国華余芳・古書之部」

「国華余芳・古書之部」収録図版

「国華余芳・古書之部」収録図版2
「国華余芳・古書之部」収録図版


如何でしょうか?
写真ではありますが、国華余芳の原色図譜の精緻な美しさがお判りいただけたのではないかと思います。



【10年前に開催された展覧会、「国華余芳の誕生展」】


今から10年前、平成19年(2007)に、「国華余芳の誕生~明治における古美術調査の旅」という展覧会が開催されました。

国華余芳の誕生展チラシ

国立印刷局が運営する「お札と切手の博物館」で開催された展覧会です。

この展覧会に、「国華余芳」の原本や、国華余芳の誕生に至る関係作品等が展示されたのでした。
私は、明治初期に制作された、この「国華余芳」という出版物に、以前から関心がありましたので、早速、出かけてみました。

お目当ての「国華余芳」の原色石版図の現物は、期待以上の驚くべき美しさで、見惚れてしまいました。

「こんなに精緻で美麗な多色刷り印刷物が、明治の初年にできていたのか!」

と、感嘆の声をあげてしまいました。
とりわけ正倉院宝物の螺鈿鏡や飾箱の図版の、色鮮やかで細密な美麗さには、眼を奪われてしまいます。

「国華余芳の誕生展」国華余芳図版の展示風景
「国華余芳の誕生展」~国華余芳図版の展示風景

「国華余芳」図版の石版原版
「国華余芳の誕生展」~図版の石版原版

展覧会のパンフレットには、

「本展でとりあげた『国華余芳』は、写真帖・多色石版図集ともに、美術的にも歴史的にも非常に価値のあるものですが、残念ながら、一般にはほとんど知られていません。」

と書かれています。
きっと少部数だけ印刷されたに違いなく、なかなか目にすることはない貴重な図集ということです。



【なんとNET「日本の古本屋」に、「国華余芳」が出ているのを発見!】


それから10年が経ちました。

数か月前、ネットの「日本の古本屋」を、なんとなく検索していると、なんと「国華余芳~多色石版図集」が売りに出ているではありませんか!
それも、「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」が3冊セットで出ていたのです。

「あの『国華余芳の誕生展』に展示されていた、『国華余芳』を手元に置くことが出来るのか!」

そう思うと、心高鳴るというのか、ワクワクしてきました。
ちょっと高かったのですが、思わず「購入する」をクリックしてしまいました。

数日後、我が家に「国華余芳」が届きました。
早速、ページをめくると、次々と色鮮やかな正倉院宝物の細密図が、眼前に現われます。
展覧会でガラス越しに観たのとはまた違って、現物を手に取って眼近に観るというのは、格別のものがあります。
こういうのを、「眼福」というのでしょう。


ちょいと嬉しくなり、仏像の話ではないのですが、この観仏日々帖で、ご紹介させていただきたくなったのでした。



【古美術調査の旅と、「国華余芳」が誕生するまで】


ここで、「国華余芳」というのはどのようなものなのか、「国華余芳」が制作されるに至るいきさつについて、簡単にふれてみたいと思います。

「国華余芳」は、ご紹介した多色石版図集3冊に加えて、写真帖5冊とで構成される出版物です。

明治12年(1879)、政府の印刷局は、大々的な古美術調査旅行を実施します。
一行12名、約5か月間をかけて各地を巡るという古美術調査でした。
この古美術調査旅行の成果物として、当時の技術の粋を集めて、調査宝物の石版図集と、寺社などの古建築や景観の写真帖を制作したのです。

それが「国華余芳」なのです。

この印刷局による古美術調査旅行は、明治維新以来の政府の大々的古美術調査としては、第2回目となるものでした。



【近代最初の政府、古美術調査は「壬申検査」(明治5年)】


最初の古美術調査は、よく知られていると思いますが、明治5年(1872)に実施された「壬申検査」と呼ばれるものです。

政府は、古美術品の散逸、破壊を憂慮し、明治4年「古器旧物保存方」を布告して、府県に管内社寺等の文化財の目録を提出させました。
それを元に、明治5年に、現物確認の宝物調査を行つたのが「壬申検査」です。
壬申検査は、政府による最初の文化財調査となるもので、調査は文部省の町田久成、蜷川式胤によって行われました。

町田久成.蜷川式胤
町田久成(左)、蜷川式胤(右)

我が国近代における文化財保護の嚆矢となるものと云われています。

この時の調査記録としては、同行の写真師・横山松三郎が撮影したステレオ写真と、「壬申検査宝物図集81冊」(重要文化財)が制作され、現存しています。

「壬申検査宝物図集」

「壬申検査宝物図集」収録図

「壬申検査宝物図集」収録拓本
「壬申検査宝物図集」収録図と拓本

この「壬申検査宝物図集」は、拓本と手描きの詳細複写によってなるもので、印刷物ではありませんでした。



【印刷局長・得能良介が企画した、明治12年の古美術調査】


「壬申検査」の7年後、今度は、政府の印刷局において、大々的な古美術調査旅行が実施されることになったのでした。

印刷局というのは、当時、主にお札と切手の印刷を行っていた処です。

明治草創期の印刷局では、当初外国に委託していた紙幣の国産化に向けて、お雇い外国人を招聘し、様々な新技術を学んで偽造防止、品質向上に努めていました。
有名な版画家、画家のキヨッソーネも、印刷局に招聘されたお雇い外国人でした。

当時の印刷局長であった得能良介は、キヨッソーネから、
「西欧諸国で日本美術を愛好する風潮が高まり、日本の古美術品が安価に外国へ販売され、大量に流失している」
という現状を聞かされたといいます。

キヨッソーネ.得能良介
キヨッソーネ(左)、得能良介(右)

そこで、印刷局長、得能良介は、各地の古美術調査旅行を行うことを企画発案します。

得能良介は、

・日本の貴重な古社寺等の宝物、文化財を調査し、これを記録して後世に残すこと

・調査を通して、図柄の題材を求め、紙幣のデザインに反映させるなど、印刷局の技術向上を図ること

を、企図したのでした。
印刷局では、お札や切手の図案や模様などの意匠を創案する必要があり、また偽造、模造を許すことがない最高レベルの印刷技術を保持する必要があったのです。

得能良介は、この古美術調査旅行の記録日記「巡回日記」を著しています。

得能良介記「巡回日記」.得能良介記「巡回日記」の復刊出版本(1996年刊私家出版)
得能良介記「巡回日記」(左)と、199年に私家本で解説等を附して出版された復刊本(左)

得能は、その中で、キヨッソーネをこの旅行に同行した理由を語って、このように記しています。

「山川ヲ跋渉シ、我ガ国ノ神社、仏閣、官民秘蔵ノ古器、古画ヲ見、人情、風俗如何ヲ審ラカニセバ、他日、筆ヲ執ルニ當ツテ、必ズ大イニ覚悟スル所ノモノアラン」

即ち、

ものを描くためにはその対象が造られた背景や風俗を理解することが必要であり、ただ姿形をなぞるのでは、本当にそのものを描いたことにならない。
そのため今回の旅で、古器古画を見、各地の風俗・人情を知って業務の参考としてもらうためにキヨッソーネを同行させたのだ。

と語っているのです。

得能良介(左)キヨッソーネ(右)
得能良介(左)キヨッソーネ(右)

「壬申検査」は、文化財保護、保存を主目的とした古美術調査でしたが、
印刷局の「古美術調査旅行」は、日本のデザイン、印刷レベルの向上、練磨の目的を併せ持つ古美術調査と云えるものであったといえるのでしょう。



【総勢12名、142日間で各地を巡った、古美術調査旅行】


印刷局の古美術調査旅行は、どのようなものであったのでしょうか?

明治12年(1879)年5月1日に旅立った古美術調査旅行は、なんと142日間の長きにわたり各地を巡ります。

印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート
印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート

伊勢神宮や東大寺・正倉院、日光東照宮を訪ねるなど、ご覧のとおりのルートを巡り、この年の9月19日に東京へ帰着したのでした。
調査旅行のメンバーは、局長の得能良介、お雇い外国人キヨッソーネをはじめ、写真技師、古器物鑑定担当など、総勢12名でした。

記録によると、調査した器物総数は、2426点、撮影した写真は510枚、模写図は200枚に及びました。

古美術調査の旅~日程参加者等の概要
古美術調査の旅~日程参加者等の概要



【古美術調査の成果を、印刷物に実現した「国華余芳」】


142日間にわたる古美術調査旅行から帰京したのち、印刷局調査団が旅で鑑賞した古器物、景勝を多色石版図集や写真帖として発行したのが、『国華余芳』です。

「国華余芳」多色石版図集
「国華余芳」多色石版図集

『国華余芳』の題字は、「受け継がれるべき国のすぐれた宝」という意味に取ることができます。

局長・得能良介は、国華余芳の巻頭言において、

「国華余芳ト題シ 之ヲ工場製品ノ儀範トナシ 以テ世ニ廣メ 愛国ノ志操ヲ培養スルノ具ト為ント欲ス」

と綴っています。

「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言
「国華余芳」の得能良介執筆・巻頭言、(右)文末引用部分

『巡回日記』においても、この『国華余芳』を、工場の模範とするほか、世間に日本の風景や芸術を広く伝えようとする製作趣旨を語っています。
まさに我が国の「国華余芳」を、印刷局の技術で世に示し伝えんとする、得能良介の思い入れ、気概が伺えるようです。



【写真帖と多色石版図集を制作刊行】


そして、当時の我が国の最高峰のレベルの技術を以て、「国華余芳・写真帖、石版図集」の制作にあたったのでした。

「国華余芳・写真帖」は、古美術調査旅行で撮影した文化財や景勝の写真を選りすぐって発行したものです。

「国華余芳・写真帖」

「国華余芳・写真帖」収録写真1

「国華余芳・写真帖」収録写真2

「国華余芳・写真帖」収録写真3
「国華余芳・写真帖」収録写真

撮影した写真技術師は、三枝守富です。
写真帖は5分冊で、一冊につき概ね25枚、主に神社や仏閣などの建造物や、山川などの景勝を被写体とした写真が納められています。
この写真帖は、明治13年(1880)に完成しました。


「国華余芳・多色石版図集」は、精密な原色版図集です。

カラー写真が存在しなかった当時、多色石版印刷は写実的で細密な原色再現の、最高レベルの印刷技術でした。
「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」に分かれ、それぞれ25枚、19枚、24枚の図を収めた、折本式の冊子となっています。
国華余芳に収められた石版画は、明治期を代表する石版技師・石井重賢(鼎湖)の指揮のもとに制作されたものです。
宝物の再現にあたっては、工芸官の本多忠保、斎藤知三による入念な現物調査、考証を経て、極めて写実的にすぐれたものになっています。

国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版
国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版

正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」
正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」のカラー写真

多色石版図集は、明治14年から15年にかけて発行されました。


印刷局において、画期的な古美術調査の旅を実現し、「国華余芳」の制作させた、得能良介は、職務中に倒れ、58歳でその生涯を閉じました。
国華余芳が完成した翌年の、明治16年(1883)12月のことでした。

得能良介
得能良介



【明治に入ってから、新たに伝わった石版印刷技術】


ところで多色石版印刷というのは、どのような印刷技術を云うのでしょうか?

当時の、図案画像など印刷技法としては、

凸版としての木版印刷
凹版としての銅版印刷
平板としての石版印刷

とが存在しました。

木版印刷は、江戸時代の浮世絵に代表される、我が国伝統の印刷技術です。
明治時代に入ってからも、美術書の原色版印刷に用いられ、例えば「国華」や「真美大観」のカラー図版は多色刷り木版印刷が使われています。

「国華」創刊号
「国華」収録の多色木版刷り図版
「国華」創刊号と収録の多色木版刷り図版


「真美大観」「真美大観」収録の多色木版刷り図版
「真美大観」と収録の多色木版刷り図版


銅版印刷は、エッチングと云われる技術で、江戸後期、司馬江漢以来の伝統でによるものです。
緻密な描線が描けることから、紙幣の印刷はこの技法を使って行われています

明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣


そして、石版印刷は、リトグラフと呼ばれるもので、1798年ドイツのセネフェルダーによって発明されました。
印刷原版に石版を用い,脂肪と水が反発し合うことを利用して、平面の上に油性インクで文字、画像を描くだけで印刷を可能とする技術です。
日本には、明治初年にその石版技術が導入されました。

石版と印刷のありさま
石版と紙に印刷している様子

明治期のカラー刷りの多色石版印刷は、三原色を組み合わせて色を表現するのではなくて、熟練した職人が勘を頼りに色分けを行い、その色の数だけ石版面を用意しなければなりませんでした。
印刷する際には、十数個ある版を順番に刷っていくのですが、頼りは石と紙に付けられた見当(目印)のみで、ズレが内容に刷り重ねるのは、大変な手間と技術を要する作業であったといいます。



【最高峰の多色石版印刷技術で制作された「国華余芳」~印刷局の偽造防止研究の一環~】


「国華余芳・多色石版図集」も、当時の最高峰の多色石版印刷技術を以て作成されたのでした。

印刷局で、多色石版の制作にあたったのは、石井鼎湖でした。
石井鼎湖が印刷局石版科長の任にあった間に、当時の民間では出来得可くもない精巧な複製的多色石版の出版物が、いくつか制作されました。
「国華余芳」はその代表作品ですが、その他には、明治10年(1877)制作の「玉堂富貴」、明治16年制作の「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」「なみまの錦」「卓上静物」などの作品が残されています。

「玉堂富貴」(明治10年)
「玉堂富貴」(明治10年)

「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)
「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)

「なみまの錦」(明治16年)
「なみまの錦」(明治16年)

「卓上静物」(明治16年)
「卓上静物」(明治16年)


これほどの高度な印刷技術を以て「国華余芳」などを制作したのは、紙幣や切手の偽造防止、模造防止対策の一環としての印刷技術研究の為でもあったそうです。
一方、防贋技術開発という側面があったために、一人一業で、その技術を秘守して決して漏らさないということとなり、印刷局の優れた多色石版の技術は、後の世に広く伝えられなかった、ということなのだそうです。

「なるほど!」
と、技術が秘された訳は理解できるのですが、大変残念なことです。

こうした石版印刷の技術は、大変手間がかかるために、その後、写真製版技術の発達、印刷技術の発達によって、写真や図版そのものを機械的に忠実かつ大量に再現できるようになっていくと、一部の美術作品を除いて、用いられなくなってしまいました。

そして「国華余芳」という美麗石版印刷の極致のような存在も、忘れられていったのでしょう。



【民間でもつくられた、美しい石版印刷図譜「観古図説」】


最後に、ついでの話です。

明治初期、ご紹介したように印刷局では、多色石版印刷のカラー図集が制作されていましたが、民間でも石版印刷による美しい図譜が制作されていました。
その代表的なものとして、蜷川式胤によって刊行された「観古図説・陶器之部」があげられるのではないかと思います。
「観古図説・陶器之部」は、蜷川式胤が収集した陶磁器などを、石版印刷図譜として刊行したものです。

「観古図説」
「観古図説」

美しい手彩色石版印刷の「観古図説」の図譜写真をご覧ください。

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)
「観古図説」収録図譜(昭和48年歴史図書社復刻図版)

写真は、昭和48年に歴史図書社から、原本そのままに精密復刻された復刻版によるものですが、陶磁器の微妙な質感が再現され、品格ある美麗な彩色が見事な図譜であることが実感されると思います。


この図譜は、多色印刷ではなく、モノクロームの石版印刷の上から手彩色により色付けを施したものです。
第1冊が明治9年(1876)に刊行され、明治13年(1880)まで、全7冊が刊行されました。
亀井至一の描いた挿図をふんだんに用い、民間で石版印刷を進めた玄々堂の刊行となっています。
「国華余芳」が作成される数年前の出版です。
「国華余芳」の多色石版印刷の最高峰レベルの図版と較べると、「観古図説」の図版はやはり見劣りしてしまうのですが、上品な石版手彩色の美しさには、惹きこまれるものがあります。

「観古図説」を刊行した蜷川式胤は、先にふれたように、近代初の古美術文化財調査と云われる「壬申検査」に町田久成とともに赴いた人物で、「壬申検査宝物図集」の制作にもかかわっています。

蜷川式胤
蜷川式胤

文化官僚でありましたが、明治初期の好古家、古美術研究家としても知られ、エドワード・S・モース(大森貝塚の発見者)の陶磁器蒐集の師であったことは有名な話です。

この「観古図説・陶器之部」の図譜も入手して手元に置きたいところなのですが、余りにも稀少かつ高価で、全く手が出るものではありません。
私は、何とか、昭和48年(1973)に歴史図書社により、蜷川家伝存本から精巧複製された復刻版を手に入れました。
復刻版と云えども、明治の刊行当時を十二分にしのばせる美麗な図譜で、時々、書架から取り出して目を愉しませています。

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)
観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)



今回は、仏像関係の話ではなくて、申し訳ありませんでしたが、
明治初期の美麗な多色石版図集「国華余芳」を手に入れることが出来、嬉しくて、このご紹介記事を綴らせていただきました。


この話で、明治初期の古美術調査と図譜の世界に、ちょっとご関心を待たれることになれば、嬉しき限りです。


新刊旧刊案内~「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」 と 研究史本いろいろ 【2017.2.4】


「美術史研究のあゆみ」シリーズの最新刊が出版されました。


「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、片岡直樹編著 
2016年12月 里文出版刊 【303P】 2500円


唐招提寺~美術史研究のあゆみ


そろそろ、このシリーズの新刊が出るのではないかと期待していましたので、早速、購入しました。

この本は、唐招提寺についての美術史研究上のテーマについての、研究史をまとめた本です。

本の帯には

「鑑真大和上像ほか唐招提寺美術の最新の研究成果をまとめた一冊!
鑑真の御寺奈良・唐招提寺には天平以来の数多くの仏教美術品が伝えられている。
その研究史をたどる一歩進んだ美術書。」

と記されています。

本の題名でご想像がつく通り、テーマ別の研究史について、これまでの諸説から最新の研究成果までが、コンパクトにまとめられた本です。

「唐招提寺の創立」「金堂創建と金堂三尊」「鑑真和上像」「新宝蔵・旧講堂の木彫群」

等々が、テーマとして採り上げられています。

目次をご覧ください。

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次2唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次1

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次4唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次3

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次5

テーマ別に、研究史についての概説が、20~30ページにコンパクトにまとめられ、過去の研究、論争、最新の研究成果、課題などが、大変わかりやすく、読みやすく述べられています。
一般の解説書から、一歩踏み込んだ研究史の概説、解説書と云えるものだと思います。



【一般解説書で飽き足らない方の、知的興味をくすぐる研究史本】


こうした研究史をたどった本は、仏教美術を愛好する者にとっては、大変有難く、また便利な本です。

奈良や京都の古社寺や仏像を巡り、だんだんと仏教美術に興味がわいてくると、一般的な、仏像のガイドブックや解説本で飽き足らなってくるのではないでしょうか?

私も、仏教美術に少し興味がわいてきた昔を振り返ってみると、古社寺、仏像巡りをしているうちに、いくつかの美術史の大きな論争、議論があるということがおぼろげながら知るようになりました。

「法隆寺再建非再建論争」「薬師寺金堂三尊、移坐非移坐論争」「平安初期木彫誕生の謎」

といった話です。

「面白そう、興味深い話だな」
「もう少し、深く知りたいな」

と思ったのですが、どんな本を読んだら、こうした論争や議論の全体感が判るのかというのが、よく判りませんでした。
ちょっと突っ込んで知りたいと思っても、なかなか手ごろでコンパクトにまとめた研究史の解説書というのは、全くありませんでした。

知ろうとすると、ものすごく難解で高価な研究書とか、美術研究誌に掲載されている研究論文にチャレンジするしかなかったのではないかと思います。
ただの、愛好、趣味の者にとっては、ちょっと読んでみても、難し過ぎてギブアップという世界でした。

こんな知的興味をくすぐるような、論争史や研究史をまとめた本があったら、本当に嬉しいなというのが、若き頃の願望であったように思います。



【早稲田大学、大橋一章氏を中心に、長らく刊行されている「美術史研究のあゆみ」シリーズ】


この「美術史研究のあゆみ」シリーズの本は、こうしたニーズにぴったりという本なのではないかと思います。

30年ほど前から、刊行が始まりました。
いずれも「コンパクトにまとめられた研究史解説書」となっています。

一般の解説書では、ちょっと飽き足らなくなってきた
仏教美術史の議論あるテーマについて、一歩深く知りたい
興味関心はあるが、専門書、研究書を読もうとまでは思わない

といった方には、大変面白く、興味深い本なのではないかと思います。

このシリーズ、早稲田大学の大橋一章氏を中心に、刊行が続けられているものです。
これまでに全部で、8冊刊行されています。
この機会に、どんな本が出ているのかだけを、ご紹介しておきたいと思います。
個別の内容に立ち入ると、大変ですので、本の名前と書影の羅列になってしまいますが、ご参考になればと思います。

出版年順にご紹介します。



【最初の2冊は、主要な論争テーマを取り上げた研究史本】



「寧楽美術の争点」大橋一章編著 1984年10月 グラフ社刊 【317P】 1800円

寧楽美術の争点

もうずいぶん前の話になりますが、この新刊本を、本屋で見つけた時、
「こんな本が出るのを、待っていたのだ!」
思わず、そう叫びそうになりました。

採り上げられたテーマの目次は、このようなものでした。

寧楽美術の争点・目次

面白そうで、興味をそそるテーマばかりです。
早速買って、読み耽った思い出があります。

法隆寺論争についての本を除いては、仏教美術の論争史、研究史だけをまとめた本は、それまで全くなかったのです。

町田甲一氏は、本書の裏表紙の推薦文にこのように書いています。

「法隆寺論争がなかったら、若草寺塔心礎の寺への返還はなかったろうし、伽藍址の発掘も行われたとしても可成りおくれたことだろうが、それにもまして思うべきことは、その後の『法隆寺学』、さらに上代美術史の今日のような成果は始と期待できなかったであろう。

また薬帥寺論争によって、飛烏より白鳳・天平にいたる上代彫刻の「様式」の内容がようやく正しく埋稗されるようになった。

論争は、それが真面目に行われるとき、必ず新しい成果を生むものであり、新知見を齎し、学問の進化を促すものである。
そしてそのような論争の経緯を手際よく鳥瞰できることは、それらの問題に関心をよせる人たちに適切な指針を提供するはかりでなく、その道に進もうとする新しい研究者には、諸問題についての現時点における歴史的全貌を要約して数えてくれる極めて効率の高い入門書となりスタート台ともなるものである。

そのような古美術に興味をもつ人、新しい若い研究者にこのすぐれた『寧楽美術の争点』を、おすすめしたい。」


この本が出版されてから、10年後、ずいぶん経ってから、「寧楽美術の争点」の続編のような本が出ました。

「論争・奈良美術」大橋一章編著 1994年4月 平凡社刊 【284P】 2860円


論争奈良美術

目次をご覧ください。

論争奈良美術・目次

このようなテーマが採り上げられています。



【その後は、奈良六大寺の研究史本を、着々と刊行中】


以上の2冊は、これまで論争、議論があった主要テーマをまとめたものでしたが、
この後からは、奈良の主要大寺ごとに、研究史をまとめた本が出版されるようになりました。
4~5年おきに、出版されているようです。

ご覧ください。


「法隆寺美術・論争の視点」大橋一章編著 
1998年8月 グラフ社刊 【381P】 2800円


法隆寺美術論争の視点



「薬師寺・1300年の精華~美術史研究のあゆみ」大橋一章、松原智美編著
2000年12月 里文出版刊 【309P】 2500円


薬師寺~美術史研究のあゆみ

薬師寺~美術史研究のあゆみ・目次



「東大寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、斎藤理恵子編著
2003年9月 里文出版刊 【369P】 2500円


東大寺~美術史研究のあゆみ

東大寺~美術史研究のあゆみ・目次



「法隆寺、薬師寺、東大寺、論争のあゆみ」大橋一章著
2006年4月 グラフ社刊 【218P】 1600円


法隆寺・薬師寺・東大寺、論争のあゆみ



「興福寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、片岡直樹編著
2011年11月 里文出版刊 【381P】 2500円


興福寺~美術史研究のあゆみ

興福寺~美術史研究のあゆみ・目次


以上のとおりです。

今般出版された新刊「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」を含めると、奈良六大寺のうち5寺の研究史本が発刊されたことになります。

数年後には、「西大寺」の研究史本が計画されているという話で、それが出版されると、奈良六大寺の研究史本が完結することになるそうです。

一般の解説書から、一歩踏み込んだ仏教美術史にご関心のある方には、お薦めのシリーズだと思います。



【ついでに、昔懐かしい、法隆寺論争の研究史本をご紹介】


「美術史研究のあゆみ」シリーズを採り上げたついでに、もっともっと昔の研究史本を、ちょっとだけご紹介しておきます。

法隆寺の再建非再建論争を中心とした、「研究史本」です。

早稲田の大橋一章氏を中心とした仏教美術史研究史本が出版されるまでは、研究史だけを採り上げた本というのは全く無くて、唯一、「法隆寺論争の研究史本」が存在するだけでした。

今更言うまでもありませんが、法隆寺の再建非再建論争は、明治から昭和を通じて展開された建築史、美術史上の大論争でした。
この世を挙げてといってよいほどの大論争があったからこそ、日本の近代建築私学、美術史学の、これほどの発展はなかっただろうともいわれています。

こんな法隆寺の研究史本が、その昔出ているのです。


「法隆寺再建非再建論争史」足立康編 1941年10月 龍吟社刊 【368P】 3.8円

法隆寺再建非再建論争史


戦前に出版された、法隆寺再建非再建論争をまとめた本です。
法隆寺非再建論の雄であった、足立康氏の編集による本です。
明治時代以来の法隆寺再建非再建論争について、足立康氏が歴史を追って解説、自説を展開しつつ、論者の代表的論考が集成されています。
非再建論者で著名な、平子鐸嶺、関野貞、足立康といった各氏の論考が中心です。

ただ、再建論の代表的大物であった喜田貞吉氏の論考が採録されていません。
前年に、喜田貞吉氏が自説の論考をまとめた本「法隆寺論攷」が出版され、喜田氏の論文が転載不可になったという事情によるものです。

「法隆寺論攷」喜田貞吉編著 1940年9月 地人書院刊 【494P】 5.5円

法隆寺論攷


この喜田貞吉氏の本とセットで読むと、昭和、戦前の法隆寺再建非再建論争の研究史をしのぶことが出来ます。


戦後すぐには、こんな本が出版されました。

「法隆寺の研究史」村田治郎著 194910月 毎日新聞社刊 【332P】 330円

法隆寺の研究史


村田治郎氏は、東洋建築史、中国建築史研究の第一人者で、法隆寺の研究でも知られ、法隆寺に関する数多くの論文を発表している人です。

著者は,序文で、

「この本は法隆寺、とくに金堂、塔婆、中門を中心とする諸問題についての、諸学者の研究の経過と現在到達している点を明らかにして、多くの人々の理解に役立たしめ、且つ新たに研究を始めようとする人達の手引きになることを、目標としている。
私がこんな本の編纂を思い立ったのは、敗戦によって今までの日本は週末を継げたのだから、それを機会に過去のあらゆる学問は総決算して、今後の出発に備える必要があると考えられたからである。」

と述べています。

序文のとおり、法隆寺の論争史、研究史について、いずれの論に偏することなく、大変丁寧にしっかりとまとめられた高品質の本となっています。
当時、法隆寺の研究史を学ぶ、「底本」ともいうべき本になっていたのではないかと思います。

この本、何部刊行されたのかわかりませんが、昭和40~50年代には、なかなかの貴重書でした。
神田神保町の古書店では、2万円程度の値札が付けられて書棚に並んでいました。
到底買えそうにはなく、恨めしそうな目でこの本を眺めていたのを覚えています。
今、NETで検索したら、2000円ぐらいで購入できるようです。
時代が変わったんだなという気が、しみじみとしてきます。


同じ村田治郎氏による「法隆寺の研究史」の本を、もう1冊、ご紹介します。

「法隆寺の研究史」村田治郎著作集第2巻 1987年7月 中央公論美術出版刊 【431P】 9800円

法隆寺の研究史・中公美術出版版

村田氏が1985年に没後、全三巻の著作集が刊行されましたが、その第2巻となっているものです。

昭和24年に刊行された「法隆寺の研究史」と同じ題名になっていますが、大幅に増訂、改訂され、ハイレベルの内容になっています。
村田氏没後に、蔵書、原稿類を整理した処、この新たな増訂原稿が見つかったということです。
この新版の「法隆寺の研究史」は、この新稿によるものであり、旧著とは面目を一新した研究史の論文集となっています。

村田氏は、新稿の序に、旧著について
「初歩の学生諸君に、法隆寺学を容易に理解して頂く内容にしようと思って書いた」
としています。
新版の方は、学問的レベルの法隆寺研究史の論考の集大成といったものになっていると思います。



私の知っている限りでの、仏教美術史の「研究史本」を、ざっとご紹介してみました。
研究史本の世界というのも、知的興味をくすぐって、なかなか面白いものです。

ご関心のある方の、ご参考になれば、有難き限りです。


新刊案内~「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」 貴田正子著  【2016.10.29】


まさか、まさか! 

こんな本が出版されるとは、思いもしていませんでした。


新薬師寺・香薬師像は、白鳳時代の名品として人々の心を魅了してきました。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~飛鳥園・小川晴暘撮影写真

昭和18年に盗難に遭い、今も、行方知れずとなっています。
まさに、「伝説の白鳳美仏」と云える仏像なのです。

香薬師像の右手先部分は、当時、盗難を免れたものの、その後行方不明となっていました。
その右手先が、70年余を経て行方が判明し、新薬師寺に返還奉納されたというのです。

今般、出版された「香薬師像の右手」という本は、香薬師像の盗難事件の発生から、その後の顛末、今般の右手先の所在の発見までを克明にたどったノンフィクション・ドキュメントなのです。


「香薬師像の右手~~失われたみほとけの行方」  貴田正子著
2016年10月 講談社刊 【243P】 1600円


新刊・香薬師像の右手



【「香薬師像の右手発見」の新聞記事に、ビックリ!】


10月12日、読売新聞の朝刊に、こんなビックリの記事が掲載されました。

「盗難の重文仏像の右手か   新薬師寺に返還  専門家、本物と判断」

という大きな見出しです。

香薬師像右手発見を報ずる新聞記事
香薬師像右手発見を報ずる読売新聞2016.10.12朝刊

新聞記事本文の一部を、ご紹介しましょう。

「奈良市の新薬師寺から1943年に盗まれて行方不明になっている白鳳時代(7世紀半ば~8世紀初め)の仏像の傑作、重要文化財・銅造薬師如来立像(通称・香薬師(こうやくし)像)の右手部分が盗難を免れていたことが分かった。

発見された香薬師像の右手
発見された香薬師像の右手

行方を調査したノンフィクション作家の貴田正子さん(47)が、それに当たるとする右手を確認し、昨年10月に同寺で返還の法要が行われた。
文化庁は科学調査を実施し、本体が未発見のため断定はできないものの、『白鳳時代のものとみて矛盾はない』としている。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
香薬師像は高さ約75センチの金銅製。奈良・法隆寺の観音菩薩立像(通称・夢違観音)や東京・深大寺の釈迦如来倚像と並び、白鳳仏の代表とされる。
明治時代に2度盗難に遭って寺に戻ったが、43年に三たび盗難に遭い、行方不明となった。
右手部分は、最初に盗まれてから寺に戻る間に切断され、発見後に本体とつなぐ補修が行われた。
このため、43年の盗難で本体とともに盗まれたと考えられていた。

貴田さんが調べたところ、43年の盗難時に右手は本体と別に保管されていて盗まれず、一時は警察署が保管していたのを、写真家の小川晴暘が目撃し、随筆に書き残していたことが判明。
その後経緯は不明ながら作家の佐々木茂索(1894~1966)が所持し、後に遺族が神奈川県鎌倉市内の寺に寄贈したという。

12日刊行の貴田さんの著書「香薬師像の右手」(講談社)に書かれている。
・・・・・・・・・・(以下略)」


「そうか、あの香薬師の右手先が見つかって、新薬師寺に戻されたのだ!」

と、ビックリしました。

新聞の見出しが「香薬師像」ではなくて、「盗難の重文仏像」と書かれているのを見て、

「『白鳳の名品・香薬師』といわれても、今や、ピンと来る人があまりいないのか、古い話になってしまったのだ。」

と、妙なところで感心した次第です。

記事には、「香薬師像の右手」という新刊本が出る、と書かれているではないですか。
即座に、書店に駆けつけて購入しました。



【神奈川文化研HPでも採り上げたことのある、香薬師像盗難物語】


実は、私も、新薬師寺・香薬師像の盗難のいきさつなどについて、神奈川仏教文化研究所HPの「奈良の仏像盗難ものがたり~新薬師寺・香薬師如来像の盗難」という連載で、採り上げたことがあるのです。

・失われた香薬師像を偲んで(埃まみれの書棚から・第182回)
・香薬師像盗難事件を振り返る(埃まみれの書棚から・第183回)
・その後の香薬師像あれこれ(埃まみれの書棚から・第184回)

この連載では、
香薬師像が3度の盗難に遭ったことと、盗難事件のいきさつ、
かつての盗難事件の際切断された右手先が盗難の免れたこと、
その後、3体の模造が、盗難前に型抜きされた石膏型から複製制作されたこと
などの話について、綴っています。

ご覧いただけると、盗難事件とその後の顛末の概略が、お判りになると思います。

そんなわけで、私にとっては、「香薬師像盗難事件」について書かれた本となると、興味津々、何をおいても必読という処です。



【香薬師盗難から右手発見までの、真迫のドキュメント新刊本】
~著者20年にわたる執念の追跡の軌跡~

本を手にして、一気呵成に読破しました。
私も、香薬師盗難事件について、結構調べてみたつもりなのですが、全く及びもつかない深く詳しいレベルで、徹底調査、徹底取材された、凄い内容です。
「よくぞ、此処まで調べ上げられたものだ!」
敬服としか、言いようがありません。
ただただ驚嘆、讃嘆の一語に尽きます。
この本を読んで、これまでモヤッと疑問に思っていたことのほとんどが、霧が晴れるようにスッキリわかりました。

著者の貴田正子氏は、ノンフィクションライター。
1993年に、産経新聞社に入社。
新人の地方支局時代に香薬師如来像の石膏複製の取材をしたのをきっかけに、香薬師像の独自取材をはじめ、20年以上にわたり香薬師像の行方を追う取材活動を続けてきたそうです。

そして、取材の果てに、昨年の夏、ついに香薬師の右手を発見。
その執念の取材過程をまとめて上梓したのが、本書「香薬師像の右手」という訳です。

AMAZONには、このように本書の内容紹介がされています。

「奈良・新薬師寺の香薬師立像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作と言われていた美仏。
あまりの美しさから『金無垢でできている』という噂がたち、明治時代に2度盗まれたが、手足を切られ、純金製でないことが分かると2度とも道端に捨てられているのが発見され、寺に戻った。

そして昭和18年、3回目の盗難に遭う。
『国宝香薬師盗難事件』は、戦時中の新聞にも報じられ、仏像ファンたちに大きな衝撃を与えた。
2度盗まれて戻ってきた像だったが、今回ばかりは発見されず、未だ行方が分からない。

この行方不明の香薬師を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。
新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査では、まるでミステリー小説を地で行くような展開に。
その結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、『本物の右手』の存在をつかむ……。

美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、衝撃のノンフィクション」

まさにこの内容紹介通りの中身の本で、盗難事件にいきさつや、右手先の追跡発見について、息もつかせずテンポよく読ませます。
流石に、新聞記者出身のノンフィクションライター、惹き込むように読ませる文章で、ミステリー、ドキュメンタリーの世界に浸る気分です。
また、取材したことをライターとして書かれたものではなく、筆者、貴田氏が自らのライフワークとして、執念を以て調査追跡した物語であるだけに、その迫力に胸撃たれるものを感じます。



【香薬師盗難とそれにまつわる話が、見事に網羅された、愛好者必読の書】


本書の目次は、ご覧のとおりです。

香薬師像の右手~目次


この一冊を読めば、香薬師像の盗難事件と、それにまつわるあらゆる話を詳細に知ることが出来ます。
物語の詳しい内容は、是非本書をお読みになってみていただきたいのです。

その中で、私が、とりわけ興味深かった話、新たに知った話のポイントだけを、ここで、ご紹介しておきたいと思います。

香薬師像盗難事件の顛末などについて、ある程度ご存じであることを前提にして、本書を読んで、私が新たに知った話、疑問が晴れた話だけを採り上げてみたいと思いますので、少々マニアックで隘路に入った話になりますが、ご容赦ください。



【発見された右手は、明治33年、1回目の盗難時に切断されたものだった】


第2章の「香薬師盗難事件」についてです。

香薬師像は、明治33年(1900)、明治44年(1911)、昭和18年(1943)の3回、盗難に遭いました。
本書では、この3回の盗難についての顛末が、大変詳しく語られています。
当時の、香薬師の写真、新聞記事、当局に提出された盗難・発見届などが詳細に紹介されており、誠に興味津々です。

3回目の盗難後、現在まで行方不明となっているのですが、その時
「香薬師仏の本体は盗まれたが、右手首と両足は厨子に残されていた。」
と、小川晴暘氏は記しています。
両足は木製の後補ですが、右手先は白鳳当初の本物なのでした。


私がこの盗難事件のいきさつを調べてみたとき、この両足と右手の切断がいつなされたのか、書かれたもので違いがあって、はっきりしませんでした。

もう一つ、不思議に思ったのは、
「どうして右手首と両足は厨子に残されたのだろうか?」
ということでした。
盗賊が香薬師像を乱暴に扱ったので、接合部分が外れてしまったのだろうと思っていました。

本書では、盗難事件の経緯の徹底的な調査によって、この疑問を、見事に解決してくれていました。

右手、両足が切断された時期と状況について、詳しく記されていました。

1回目の明治33年(1900)の盗難時に右手先が、2回目の明治44年(1911)の盗難時に両足先が切断されたというのが、事実だそうです。
2回目の盗難で、右手先が再度切断された後は、右手先と腕は銅板で接合されたということです。

そして、一番ビックリしたのは、昭和17年(1942)に香薬師像の石膏型をとった時、新たに銅で右手、両足、台座を制作し、新造の右手、両足を溶接して香薬師像に接いだのだという、驚きの事実でした。
香薬師像の石膏型をとった話は、この後、ふれさせていただきますが、この話が事実なら、本物の右手は、昭和17年以降、香薬師像とは別に保管されていたのだということになります。

昭和18年に入った盗賊は、新造の右手、両足が接がれた香薬師像を持ち去ったのだということらしいのです。

本書で解明されたこの新事実には、本当にビックリしました。
そして、従来よく判らなかった、ちょっとした疑問がスッキリ解消しました。


3枚の古い写真をご覧ください。

・明治33年の一度目盗難の前にとられたもの(明治21年・1888~小川一眞撮影)
・その後、明治44年の二度目の盗難前にとられたもの(明治41年・1908刊「日本精華第1輯」所載、工藤精華撮影)
・昭和18年の三度目の盗難前にとられたもの(小川晴暘撮影)

この写真をご覧になると、撮影された時期によって、右手の様子、接合の状況が違うのが、お判りいただけるかと思います。


一回目の盗難前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影.明治21年小川一眞撮影写真の右手
1回目の盗難(明治33年)前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影
右手に切断痕は見られないが、もともと右手首あたりに傷みはあった様子



明治~大正期の香薬師像写真~工藤精華撮影.工藤精華撮影写真の右手
2回目の盗難(明治44年)前の香薬師写像真~明治41年刊「日本精華第1輯」所載・工藤精華撮影
切断された右手が腕に接合されている痕が判る



昭和~3回目盗難前の香薬師像写真~小川晴暘撮影.小川晴暘撮影写真の右手
3回目の盗難(昭和18年)前の香薬師写像真~小川晴暘撮影写真
再度切断された右手と腕が、銅板で接合されているのが判る



この3枚目の小川晴暘撮影の写真は、石膏型がとられる昭和17年(1942)以前に撮影されたものということになります。

その後に、新造の右手、両足先に取り替えられ、右手はお厨子の中かそのほかの処に別に保管されていたということであったのでしょう。

第2回目盗難後発見時の右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
第2回目盗難後、発見時に撮影された右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
昨年、新薬師寺に保管されていたのが発見された(「香薬師像の右手」所載写真より転載)





【香薬師像の模造・石膏型は、2種類、型抜きされていた~盗難1年前、昭和17年に~】


第4章の「香薬師の複製制作」についてです。

香薬師像は、3体の鋳造模造が残されているのが知られています。
本物と見紛うほどの、素晴らしい出来の鋳造模造です。

香薬師像が3回目の盗難に遭う1年前、昭和17年(1942)に、本物の香薬師から石膏型が型取りされました。
この石膏型から、香取秀真氏により鋳造されたものです。
それぞれ新薬師寺、奈良国立博物館、鎌倉・東慶寺に所蔵されています。

新薬師寺では、境内の香薬師堂に秘仏として祀られています。
東慶寺では、年に一回、期間を限って宝物館に展示されます。
奈良博所蔵像は、2015年開催の「白鳳展」に展示されました。

東慶寺蔵~香薬師像・鋳造模造奈良国立博物館蔵~香薬師像・鋳造模造
香薬師像鋳造模造~(左)東慶寺所蔵像、(右)奈良国立博物館所蔵像

3体の香薬師の模造の存在については、仏像愛好者には、それなりに知られている話だと思います。

佐々木茂索
佐々木茂索氏
この香薬師の模造は、盗難行方不明となった7年後、昭和25年(1950)に、文藝春秋社の社長、佐々木茂索氏が費用全額を負担し、模造鋳造したものです。
佐々木氏が、亡き妻の供養にと、香薬師の模造鋳造を引き受けたのだそうです。
1体は新薬師寺に寄贈され、1体は佐々木茂索氏の所蔵となりました。
本書では、新薬師寺所蔵以外の2体が、現在、奈良博と東慶寺の所蔵となっている経緯についても詳しく語られていました。

それよりも、新たに知ってビックリしたのは、石膏型をとったのは一人ではなく、昭和17年、2人の手によって型取りされていたということが、書かれていたことです。

石膏型をとったのは、竹林薫風氏と水島弘一氏です。
先にご紹介した3体の鋳造模造は、水島弘一氏の手で取られた石膏型によるものだそうです。
竹林薫風氏の石膏型による鋳造模造も存在するそうで、筆者の貴田氏は、竹林型、斎藤明氏鋳造の香薬師模造を、平成25年(2013)に入手されたということです。

筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
「香薬師像の右手」所載写真より転載


また、鋳造ではなく、石膏像の模造もあるようです。
全く知らなかった、新事実でした。

実は、この石膏型を誰がとったのかという話について、作家の島村利正氏(1912~81)が、自著で、小川晴暘氏がこのように語っていたと記しています。
島村氏は、小川晴暘氏が経営した飛鳥園で働いていたことがある人です。

「香薬師は、わたし(小川晴暘のこと)が箔抜きしてありますから、複製で原型を偲ぶことが出来るかもしれません。・・・・・・」
(「宝冠」・単行本「霧の中の声」所収、1982.3新潮社刊)

貴田氏は、本書で、
「飛鳥園にも、小川晴暘所蔵の香薬師石膏像があった。
水島型から抜いたものかもしれない。」
と述べられていますが、そのことをさすのかもしれません。

私は、てっきり小川晴暘の語った箔抜きというのが、3体の模造鋳造の元型だったのだと思い込んでいたのですが、そうではなかったようです。



【香薬師・右手は東慶寺にあった~新薬師寺から佐々木氏の手に、遺族が東慶寺に奉納】


第6章の「香薬師像の右手」についてです。

いよいよ、香薬師像の右手発見の物語です。
結論からお話しすると、「香薬師像の右手」は、鎌倉の東慶寺に所蔵されていたのでした。

貴田氏が、右手を発見するまでの顛末を簡単にまとめると、次のとおりです。

「香薬師像の右手」は、新薬師寺でも、盗難後、右手が残されていたことを知る人もいないほどに、忘れ去られていました。

近年、新薬師寺の現住職、中田定観氏が、東京芸大名誉教授の水野敬三郎氏から、
「昔、香薬師の右手を見たことがある」
という話を耳にします。

貴田氏は、この話を受けて水野氏を訪問、
「昭和37年頃、水野氏は、久野健氏と共に、佐々木茂索氏宅で香薬師の右手を実見し、写真も撮影した。」
という事実を知ります。
早速、佐々木家を訪ねますが、香薬師に右手は、佐々木家には残されていませんでした。

貴田氏は、この情報をベースに右手の行方を追跡、ついに、現在、東慶寺に所蔵されていることを突き止めたのです。
佐々木茂索氏が所蔵していた香薬師像の模造が、佐々木氏没後、平成4年(1992)に東慶寺に寄贈されていることから、佐々木氏旧蔵の「香薬師の右手」もまた、東慶寺に奉納されているのではないかと推測したのでした。

貴田氏と新薬師寺が、東慶寺に丁重にお尋ねした処、果たして、「香薬師の右手」は、東慶寺で預かられていました。
香薬師模造の東慶寺への寄贈の8年後、平成12年に佐々木家から奉納されていたのでした。
香薬師右手が納められた箱蓋には、、
「新薬師寺香薬師御手也 故有テ昭和廿五年首夏此箱ヲ造リ奉安ス」
と箱書きがされていました。

香薬師像の切断された右手に間違いないとみられるものでした。


桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手

佐々木氏による由緒書が記された箱の蓋
桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手~箱の蓋に佐々木氏による由緒書が記される
「香薬師像の右手」所載写真より転載



「香薬師像の右手」は、その後のやり取りを経て、東慶寺、佐々木家から新薬師寺に戻されることの快諾がえられ、65年ぶりに、元の新薬師寺に帰還することになったのでした。

昨年(2015)10月、新薬師寺に於いて、香薬師像の右手の返還を報告する法要が厳粛に執り行われたということです。

誠に数奇な運命の物語といってよいものでしょう。

「香薬師の右手」は、どうして佐々木茂索氏のもとに所蔵されていたのでしょうか?
きっと香薬師像の模造鋳造が行われ、新薬師寺にその1体が寄贈された時に、新薬師寺から謝意の意味もあって佐々木氏に贈られたのではないでしょうか?

東慶寺のHPに、香薬師如来像・模造についての解説ページがありますが、そこには模造制作のいきさつが、このように記されています

「(香薬師像が盗難行方不明となり・・・・)
時の住持の悲嘆を見かねて、東大寺の上司海雲師が文芸春秋・社長佐佐木茂索氏に話し、
氏もこれに同情し、幸いに寺にこの立像の石膏模型のあるのを利用し、昭和25年に3体の模造を鋳造、
一体を新薬師寺に寄贈し一体を国立博物館に、もう一体を佐佐木家に所蔵したが、
佐佐木茂索27回忌に東慶寺に寄贈された。」

この時の模造鋳造費用は、全額佐々木氏が負担していますので、新薬師寺からお礼の意味も込めて、香薬師の右手が佐々木氏に贈られたとしても、不思議なことは無いように思えます。

この解説は、久野健氏によって書かれたものです。
水野敬三郎氏と共に、佐々木氏宅で「香薬師像の右手」を見たという、久野氏です。


余談ですが、「香薬師像の右手」が、佐々木茂索氏のもとにあることは、仏教美術関係者の間では、「知る人ぞ知る」といった話なのではなかったかと思われます。

実は、この神奈川仏教文化研究所HPの、「盗難文化財の歴史」のページに、新薬師寺・香薬師像盗難の話が短く載せられています。

そこには、
「右手首は、新薬師寺から譲られた某氏が所蔵している。」
と記されています。

この文章を書いたのは、HPの前管理人(故人)です。
久野健氏とも親交のあった人でしたので、香薬師の右手を佐々木茂索氏が所蔵しているのを、久野氏から聞いて知っていたのではないでしょうか?


ちょっと、長々と、マニアックな細かいことを書き連ねてしまいました。
私の大変興味深い分野の話でしたので、話がついつい、隘路に入ってしまいました。

こんな細かい話はさて於いて、本書

「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」貴田正子著

は、誠に興味深い本です。
是非、ご一読をお薦めします。

香薬師像を巡る数奇な物語に、みるみる惹きこまれてしまうのは、間違いありません。
若き日の出来事から「香薬師像の虜」になった貴田氏の、香薬師像への思慕と、右手の行方追跡への深き思いが伝わってくるノンフィクションです。


いつの日にか、香薬師像そのものが発見される日が来ることを、願うばかりです。


新刊旧刊案内~「仏像再興~仏像修復をめぐる日々」 牧野隆夫著 【2016.4.10】


仏像の修理修復をめぐる「ちょっと変わった本、考えさせられる本」が出ました。


「仏像再興~仏像修復をめぐる日々」 牧野隆夫著
2016年2月 山と渓谷社刊 【333P】 1800円


「仏像再興」牧野隆夫著

「仏像再興」牧野隆夫著



【知られざる仏像の修復をめぐる本】


「仏像の修理修復について書かれた本」というと、誰もが知っている有名な仏像の修理についての話をテーマに、

・修理の苦労話、打ち明け話、墨書銘や納入品の発見話、
・修理で分かった仏像の内部構造や造像技法の話、
・修理修復についての手法や技法の話

こんなことが書かれた本を想像してしまいます。

ところが、本書には、このような話は、ほとんど出てきません。
また、奈良、京都の著名な仏像の話や、国宝、重要文化財に指定された仏像の話は、全く登場しないのです。
登場するのは、伊豆や東北といった地方に残された県指定や町指定の仏像の修理修復についての話ばかりです。
「そんな仏像あったのかしら?」
と、首をかしげてしまうような、知られざる仏像ばかりです。


本書の目次をご覧ください。

「仏像再興」目次

目次に名前が挙げられて仏像のことを、よくご存じの方は、あまりいらっしゃらないことと思います。

地域の信仰の中で営々と守られてきた仏像を、如何に修復し守り続けていくのかという世界に身を置いてきた、著者・牧野氏の人生の道程を綴った本と云えるのだと思います。



【「仏像の町医者」の仏像再興】


本書の副題には、

「仏像の『町医者』三十数年の記録」

という、コピーが記されています。

牧野隆夫氏は、古仏像の修理修復に携わってきた方ですが、自らを「仏像の町医者」と称しています。

牧野隆夫氏
牧野隆夫氏
これは、京都にある「美術院国宝修理所」を、「国立の総合大病院」と例えるならば、牧野氏自身は、まさに「仏像の町医者」として、修理修復に取り組んできたということを、象徴的に言い顕しているのだと思います。

ご存じのとおり、公益財団法人・美術院国宝修理所は、我が国、最高レベルと云ってもよい、仏像、美術工芸品の修理修復機関です。
国の国宝、重要文化財に指定されている仏像や、それに準ずる仏像の修理修復は、すべてと云ってよいほどに美術院国宝修理所の手によって修理修復されます。
当然に、修理される仏像は、国、地公体の手厚い補助金が交付され、最高最新レベルの丹念な修理が施されることになります。


牧野隆夫氏が修復にあたる仏像は、美術院が手掛けるような国宝、重要文化財級の仏像ではなく、県・市町村指定文化財か無指定の仏像です。
修理の補助金もなかなか出ない古仏像たちです。
文化財としてのグレードは、ランクが下ということになりますから、国の保存修理への手は回らないのは当然のことで、資金面からも、破損、朽損したまま放置されてしまう宿命にありがちです。

「立派な総合病院」に入院するのは、お金もなく難しくて、「町医者」の手で直してもらうしかない仏像とでもいうのでしょうか。
こうした仏像は、各地に夥しい数が残されています。
平安鎌倉の古仏像もあれば、江戸時代の新しいものもありますが、文化財としての価値とは関係なく、地元の人々の熱い信仰の対象として、長く守られてきているのです。

牧野氏は、こうした仏像達を、修理修復する、まさに「町医者」の道を歩んでいます。
本書を読み進んでいくと、

・資金面で対応できる範囲での、出来得る限りでの修理修復
・人々の信仰する仏像の姿と、文化財としての修復との兼ね合い

などを如何に進めるかといった、ジレンマ、問題提起が、各所に綴られています。

工房で国清寺釈迦如来像の修復作業をする牧野隆夫氏
工房で伊豆・国清寺釈迦如来像の修復作業をする牧野隆夫氏



【読み進むうちに、いろいろ考えさせられる本~内容紹介と書評】


Amzonの本書の内容紹介には、このように書かれています。

「三十数年にわたり、地方の仏像修復を手掛けてきた「仏像の町医者」牧野隆夫氏による仏像修復の記録。

京都・奈良の有名寺院に祀られる国宝級の美仏以外に、全国各地には数百万体の仏像が存在する。
長い時を経てその多くは壊れかけ、ひそかに朽ち果てようとしている像も少なくない。
これらの仏像は、現在まで誰がどのようにして守ってきたのか?
昔の人々は、仏像の修復を、「再興(=再び興す)」という言葉で表し、実践してきた。
著者が出逢った仏像たちに残されたその痕跡は、学術資料的価値の保存に偏った、現代「文化財修理」とは、まったく別の考えに立脚したものだった。

「人はここまで壊れたものを、なぜ直そうとするのだろうか」
日本人にとっての仏像とは、いったい何であったのか?
現代の「仏像再興」とは?
「美仏」めぐりだけでは決して見えてこない「日本の仏像」の本質が見えてくる。

仏像愛好家、日本の文化をもっと知りたい人へ――修復家からの一冊。」


読売新聞の書評欄にも、本書が採り上げられていました。
清水克行氏(日本史学者・明治大教授)による書評ですが、その一部も、ご紹介しておきます。

「・・・・・・・
現在、全国の仏像の数に比して、修復技術者の数が圧倒的に足りない。
味方であるはずのお寺の住職や研究者のなかにも、無理解な人が少なくない。
また、それに付け込んで怪しげな仏像「修復」業者たちも暗躍する。
過去には明治の廃仏毀釈、そして平成の大震災が、仏像たちの受難にさらに拍車をかける。

本書には、そうした現実に直面した著者が仏像修復を生涯の仕事と志すまでの若き日の経緯と、いま抱えている課題が率直に語られている。
そのなかで、信仰と文化財保存の谷間で「修復」とはいかにあるべきか、修復の「報酬」はどうあるべきか、といった問題も語られてゆく。

悲しいかな、政府が「文化芸術の発信」を謳いながらも、そうして失われてゆくものを個人の力で辛うじて食い止めているのが、この国の現状なのだ。
それでも、著者の修復作業が若い学生たちとともに行われ、著者のもとから明日の修復師たちが育っていっているのが、大いなる救いだ。

本書には著者に修復された御仏の美しい姿の数々が鮮明な写真で並ぶ。
いつの日か、著者たちの尊い労苦を思いながら、その実物を拝してみたいと思った。」

(2016年03月21日付、読売オンライン掲載)


私が、くどくどと本の内容の説明を書くよりも、このAmzonの紹介、清水克行氏の書評をみていただいた方が、よほど本書の魅力が、的を射てコメントされていると思います。


私も、本書で、牧野氏の仏像再興への取り組みの日々を、いつもの仏像の本を読むのと全く違う気分で読みました。

日頃、仏像を拝するとき、ついつい文化財、彫刻作品として見て、出来の良し悪しを云々してしまいます。

しかし本書に登場し、再興される仏たちは、土地土地に伝えられ、朽ちたり壊れたりしながらも、人々の信仰の中で祀られ守られてきた仏たちです。

私も、全国各地の「地方仏」を、随分訪ねて回りましたが、保存・修復もままならず、さびれたお堂や地区の集会所のようなところに祀られた仏像に、随分出会いました。
最近は、過疎が進む中、住職もいなくなって無住となり、地元の人々の熱い信仰と心持で、やっとのことで守られている像も多いようです。
平安~鎌倉の古仏でも、痛々しいほどに、朽損していたり、あまりに稚拙な上塗りがされていたりすることがあるのですが、
「大切な仏様なので修理したいのですが、なかなか費用も無くて難しいのですよ。」
という話を、何度も聞かされたことがあります。

こうした仏たちを、如何に苦労して修理修復していったのかという物語が、本書の中で、人肌で語られています。

牧野氏は、仏像修理修復のことを、「仏像再興」という言葉で呼んで、このように語っています。。

「昔の人々は、修理のことを再興と言った。
仏像再興とは、壊れ朽ち果てようとしていた仏像を再び興すということで、人々が仏像とともに生きていこうという意思を表し、像に永遠の命を託した言葉である。」

乏しい修理資金の中で再興を進めるため、大学の講座テーマに「仏像修復」を組み込んで、学生達とともに仏像再興に取り組む苦労話などを読んでいると 、何やら心撃たれるものと、ほっとするものを感じました。

向居薬師堂・薬師如来坐像~反故紙で表面貼りされている
山形・向居薬師堂・薬師如来坐像(修理前)~反故紙で表面貼りされている

東北芸術工科大学の学生達に担がれお堂に戻る向居薬師堂・薬師像
東北芸術工科大学の学生達に担がれ、お堂に戻る向居薬師堂・薬師像

修復が終わり、お堂に戻された向居薬師堂・薬師像
修復が終わり、お堂に戻された向居薬師堂・薬師像

仏像の「文化財」としての重要性もさることながら、
「地域の人々の心と共に在る仏像という文化」
を如何に守り引き継いでいくかは、本当に悩ましいことだなと、今更ながらに感じた次第です。

いつもご紹介する本は、「興味深くとか、興味津々でとか、愉しく面白く」読んだ、と書くのですが、
今回は、「しみじみとか、心にズッシリとか、なにやら考えさせられて」そんな気持ちで読み進みました。



【いくつかの発見物語】


こうした中でも、牧野氏は、いくつかの大きな発見に遭遇しています。

ひとつは、昭和59年(1984)、伊豆修善寺の本尊・大日如来坐像の体内から、「承元4年 大仏師 実慶」の墨書銘を発見し、1210年に慶派・実慶の作であることが明らかになった話です。
このとき体内から発見された「黒髪」が、北条政子のものではないかと、新聞紙上などを大いに賑わせたことは、ご記憶にあるかもしれません。

修善寺・実慶作大日如来坐像修善寺・大日如来坐像の体内に遺された実慶作の墨書銘
修善寺・大日如来坐像と、体内から発見された実慶作の墨書銘


そして、静岡県函南町の桑原薬師堂の阿弥陀三尊像からも、同じく、仏師「実慶」の墨書銘を発見しました。
桑原薬師堂・実慶作阿弥陀三尊像
桑原薬師堂・実慶作阿弥陀三尊像

両像共に、それまで県指定文化財でしたが、この「実慶銘の大発見」によって、国の重要文化財に指定されることになりました。

もうひとつは、山形県長井市・普門坊の秘仏・馬頭観音像(県指定文化財)の修復に際し、これまで江戸時代の制作と考えられていた像が、鎌倉時代の制作であることが明らかになった話です。

山形普門坊・馬頭観音像
山形普門坊・馬頭観音像

本書には、その時の、驚きの発見の有様などが、活き活きと語られています。。



【著者主宰工房や、執筆連載のご紹介】


著者の牧野隆夫氏の経歴は、次の通りです。

牧野隆夫氏(東北芸術工科大学において)
牧野隆夫氏(東北芸術工科大学において)
1950年、岡山県生まれ。

東京藝術大学大学院美術研究科保存修復技術彫刻専攻修了後、伊豆半島で仏像修復。
「吉備文化財修復所」を設立し、各地の仏像の調査と約300体の修復を手がける。

12年間東北芸術工科大学教授。
退任後同大学卒業生と山形県に(有)東北古典彫刻修復研究所を設立、同研究所代表。

山形県文化財保護委員、東京学芸大学等非常勤講師。

氏の主催する「吉備文化財修復所」「東北古典彫刻修復研究所」は、それぞれHPがNET上に掲載されています。
修復の仕事の概要や、修理実績などが、掲載されています。


牧野氏の仏像修復の話についての、最新の耳寄り情報です。

氏は、現在、伊豆新聞に「伊豆の仏像修復記」と題する連載を執筆掲載中です。
本書「仏像再興~仏像修復をめぐる日々」の伊豆バージョンが、ドキュメントタッチで詳しく語られています。
週1回掲載で、現在で、連載・第42回となっています。
この連載は、伊豆新聞HPに掲載されていますので、WEB上で読むことが出来ます。
ご関心のある方は、是非ご覧ください。

伊豆の仏像修復記・第1回~「實慶作」墨書くっきり 境内の興奮

第2回以降は、「伊豆の仏像修復記・第1回」のページ画面右上の検索ワード欄に「伊豆の仏像修復記」と入力して検索すると、全部の回のインデックスが表示されます。



【近年、仏像修理について書かれた本】


ところで、近年、時ならぬ仏像ブームだといわれる中で、「仏像修理」にかかわる人の著書も、結構刊行されるようになりました。

仏像修理に関する本については、以前に、神奈川仏教文化研究所HPの「埃まみれの書棚から~明治の仏像模造と修理【修理編】」で、紹介させていただきましたので、参考にしていただければと思います。
そこでは、ご紹介したのは、結構古い本ばかりでした。

ちょうどよい機会ですので、近年、ここ5~6年の間に出版された、仏像修理にかかわる本を、ここでご紹介しておきたいと思います。
単純な、本の羅列になりそうですが、ご勘弁ください。


「壊れても仏像~文化財修復のはなし」飯泉太子宗著 
2009年白水社刊 【229P】1700円

「時をこえる仏像~修復師の仕事」飯泉太子宗著  
2011年筑摩書房刊 【168P】780円

「壊れても仏像」飯泉太子宗著「時をこえる仏像」飯泉太子宗著


「修復という仕事は、実は仏像を見るには一番いいポジションである。
実際の修復現場から修理過程の写真を使って、知られざる仏像の姿をリポート。
修復者の視点から描く仏像の入門書。」
「仏像の修復の現場を案内しながらだからこそ知り得る少し変わった、仏像の見方を紹介。観て・触れて・解体して・直して・考えた仏像入門。」

このような、内容紹介がされています。
仏像修理に携わった眼から見た、仏像のはなし、仏像随筆で、気楽に愉しく読める本です。

著者・飯泉太子宗氏は、1974年生まれで、美術院国宝修理所に勤務後、牧野隆夫氏主宰の「吉備文化財修復所」に勤務後、自ら「古仏修理工房」を設立、仏像修復に携わっている仁です。



「天平の阿修羅再び~仏像修理40年・松永忠興の仕事」関根真理編著 
2011年日刊工業新聞社刊 【183P】 1400円

「天平の阿修羅再び」関根真理編著

著者・松永忠興氏は、昭和16年(1941)生まれ。
東京芸術大学彫刻科・修士課程修了後、美術院国宝修理所に入所し、西村公朝氏の下、多数の国宝仏像の修理に携わりました。
美術院・研究部長を務め、平成20年(2008)退任後、「和束工房」を主宰し、仏像修理や後継者育成にあたっている仁です。

本書は、美術院在籍時代に修復に携わった主要仏像についての、回顧、回想が語られています。
松永氏は、仏像修理のほかに、美術院国宝修理所にて制作した、古仏像の模造制作にも携わり、観心寺・如意輪観音坐像、興福寺・阿修羅立像の模造、円成寺・大日如来坐像の模造を制作しました。
本書の題名「天平の阿修羅再び」は、阿修羅像の模造制作に因んで名づけられたものです。



「祈りの造形~評伝・西村公朝の時空を歩く」大成栄子著 
2015年新潮社刊 【303P】 1500円

「祈りの造形」大成栄子著

「西村公朝」という名前は、皆さん、良くご存知のことと思います。
仏像修理の第一人者として、長年、美術院国宝修理所の所長を務めた人です。
仏像修理の世界よりも、嵯峨野・愛宕念仏寺の住職として、仏像彫刻作家として、また数多くの著作でも著名です。
西村公朝氏、本人の著作は数えきれないほどで、AMAZONで検索すると30~40冊ありました。

本書は、昨年刊行された、西村公朝氏の評伝です。
著者の大成栄子氏は、西村公朝氏の長女にあたる方です。
父、西村公朝氏の生誕から、
「美術院の仏像修理技術者として、愛宕念仏寺の住職・僧侶として、仏像彫刻作家として」
それぞれの世界での姿と足跡が、丹念に綴られています。



「壊れた仏像の声を聴く~文化財の保存と修復」籔内佐斗司著 
2015年角川学芸出版刊(角川選書)  【176P】 1600円

「壊れた仏像の声を聴く」薮内佐斗司著

籔内佐斗司氏の名前は、ご存じの方も多いのではないかと思います。
2010年、平城遷都1300年祭のマスコットキャラクター「せんとくん」をデザインした方として、世に広く知られています。
仏像修復の第一人者ですが、彫刻家として著名です。
現在は、東京藝術大学大学院教授(文化財保存学)で、同大学大学院美術研究科保存修復研究室において仏像の古典技法・修復技術の研究、指導に携わっている仁です。

薮内氏の指導する研究室は、
「東京藝術大学 大学院美術研究科文化財保存学専攻 保存修復彫刻研究室」
という立派なHPを作成しており、仏像の修理修復に関する、興味深く充実したコンテンツが、盛り沢山に掲載されています。
是非一度、ご覧ください。

本書の方は、文化財保護に関する一般的な知識や、日本の仏像彫刻の歴史、さらに実際の仏像修復の様子などが記されており、文化財の保存と仏像の修理修復のガイダンス的な内容になっています。
仏像彫刻の世界に詳しい方には、ちょっと内容が物足りないかもしれません。


一昔前だと、こんな仏像の修理修復といったマイナーな方面の本が、いくつも出版されるなど、考えられないようなことのように思います。


仏像を愛好するものにとっては、大変有難いことです。

ご関心ありそうな本、一読されてみてはいかがでしょうか。


新刊・旧刊案内~「仏師たちの南都復興」 塩澤寛樹著  【2016.3.12】


久々に、興味津々の本に遭遇しました。
面白いというよりは、知的興奮を刺激される内容で、読み始めると止まらなくなってしまいました。
一気呵成に、読んでしまいました。


「仏師たちの南都復興~鎌倉時代彫刻史を見なおす」塩澤寛樹著
2016年2月 吉川弘文館刊 【304P】 3800円

仏師たちの南都復興


新刊本を、書店で手に取ると、カバーには、このようなキャプションが書かれていました。

「平氏一門によって一夜のうちに灰燼に帰した南都(興福寺・東大寺)は、誰の手によってどのようにして復興されたのか。
朝廷・摂関家・幕府・寺家それぞれの思想や意図を明らかにするとともに、多くの作例から復興造像と仏師たちの関連性を探る。
造像の担い手を運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ、新たな鎌倉時代彫刻史の地平を広げる。」


「造像の担い手を、運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ・・・・」か?

「これは面白そうだ」

と、値段が少々高めでしたが、早速購入したのでした。



【鎌倉時代造像は、「慶派・新様式の独壇場ではなかった!」という問題提起】


結論から先にご紹介しましょう。

塩澤氏は、本書で次のような新たな問題提起をしているのです。
塩澤寛樹氏
塩澤寛樹氏


・これまでの鎌倉彫刻史の語り方は、一般には、
治承の兵火で焼亡した南都の復興造像に際し、運慶、快慶らの活躍により慶派が、一気に主役の座にのし上がり、その中で鎌倉彫刻の新様式が完成され、それを基盤として慶派が鎌倉時代の造像界に覇を唱えた。
とされている。

しかしながら、実のところは、そういう訳でもなかったというのが実態である。

・鎌倉時代の造像は、慶派の一人勝ちでも、誰もが慶派の新様式の仏像になびいたというわけでもない。
当時の造像は、院派、円派、慶派の正系三派体制の下で行われていた。
南都復興造像においても、都の造像に倣い、きっちりと正系三派体制の原則は守られていて、慶派のみが、圧倒的優位に立ったというようには考えられない。

・現代では、運慶、快慶を代表選手とした鎌倉新様式に、評価のスポットライトがあてられ、
「鎌倉彫刻≒慶派の時代」
であったかのように受け止められがちである。

・しかし、よく検証してみると、鎌倉時代の造像界は、
「伝統様式の延長線の院派、円派」と、「新様式の慶派」の三派が、
諸寺の造像を鼎立してシェアするという、正系三派体制が守られていたというのが、現実の姿であった。


以上のような、考え方、問題提起です。
この見方、考え方、皆さん如何でしょうか?

鎌倉時代彫刻に造詣の深い方々には、この話、それほどの驚きでも、何でもないのかもしれません。
鎌倉彫刻にはなじみが薄く、苦手分野の私には、本当に「ビックリポン」の話でした。

「鎌倉時代の彫刻と云ったら、運慶、快慶でしょ!
南都復興造像以降は、慶派の一人勝ちの時代じゃなかったの?

慶派は、ダイナミックな新様式で新風を吹き込み、鎌倉幕府の後ろ盾もあって、慶派全盛の時代になっていったと、美術史の本に書いてあったと思うのだけれど?」

これが、私の、素直な鎌倉時代彫刻のイメージです。
この塩澤氏の本は、そんな私の既成概念を打ち砕くような、インパクトを感じさせるものだったのです。


それでは、もう少し詳しく、本書における塩澤氏の考え方を、ご紹介していきたいと思います。


≪本書の構成~目次のご紹介≫

主要目次をご覧ください。

仏師たちの南都復興・目次1
仏師たちの南都復興・目次2

ご覧のとおり、南都復興の経過と、それに伴う興福寺、東大寺の仏師選定について詳しくたどり考証し、これを踏まえた「南都復興の造像世界」をどのように評価すべきかといった流れの内容になっています。

この話を順にたどっていくと、大変なことになってしまいますので、詳しくは本書を読んでいただくことにして、私が興味津々だったポイントだけ、ご紹介しておきたいと思います。



【院・円・慶派の正系三派体制で進められた南都復興造像
~慶派主役という定説への疑問?~】

まずは、「南都復興造像を契機に、慶派が主役の座に躍り出た」というのは、本当なのか?
というテーマについてです。


≪南都復興造像担当仏師の一覧と、慶派の独壇場という定説≫

本書に掲載されている、

「東大寺・興福寺主要堂宇における、主な造像の担当仏師一覧」

をご覧ください。

南都復興造像・堂塔別担当仏師一覧

この一覧をざっと眺めてみると、慶派、院派、円派、それぞれの名前が見られますが、康慶、運慶、快慶、定覚といった慶派の仏師の名前が、かなり多いように思えます。

「南都復興造像は、やっぱり、慶派が主流、主役だったということで、間違いないのじゃないの?」

そのように見えてくるのです。

鎌倉彫刻史の権威として著名であった毛利久氏は、

「南都復興で、慶派が主役に躍り出た」

とし、それ以降についても、

慶派の京都京都拠点・七条仏所址
慶派の京都京都拠点・七条仏所址
「建久9年(1198)から翌年にかけて、院尊と明円があいついで死去したころに、運慶一派が南都(奈良)から大挙して京都に出てきた。
京都の造像界でも、古いものから新しいものへの交代が行われたのである。

運慶は、京都の七条に仏所を設けたので七条仏所とも呼ぶようになった。
運慶及びその流派はもちろん、快慶派の仏師も、京都を中心として盛んな制作活動を繰り広げた。
世はまさに慶派全盛の時代となったのである。」
(日本の美術・第11巻「運慶と鎌倉彫刻」1964年平凡社刊)

このように述べています。


塩澤氏は、こうした
「南都復興を契機として、慶派が鎌倉彫刻の主流となっていく」
という従来の論説、すなわち定説を集約すると、
概ね、次のように語られると本書で述べています。

鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって完成、推進された。
南都復興初期には守旧派の院・円両派も未だ参加しているが、東大寺大仏殿内諸像の頃、ないし院尊・明円の没を境に、以後は運慶ら慶派の独壇場となる。
つまり、南都復興は彼らの飛躍の舞台となり、同時に鎌倉彫刻における新様式を推進させる舞台ともなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至る。
そして、慶派が培ってきた奈良古典の学習や南都復興における古像復興という性格が、復興造像(ひいては鎌倉時代彫刻)に天平復古という性格をいっそう強く植え付けることとなった。

私も、その通りだと思います。



【本書の問題提起~実は慶派の独壇場ではなかった、南都復興造像】


ところが、塩澤氏は、この定説に大いなる疑問を抱き、新たな問題提起をしているのです。


≪4期に区分して、仏師分担を検証してみると~守られている正系三派体制≫

南都復興造像は、実際には、慶派の独壇場であったのではなくて、4期に分けて検証してみると、どの時期においても、造像分担は

「院派、慶派、円派の正系三派体制分担の原則」

に則っていると論じているのです。


本書でいう「南都復興の4期」というのを、一表にしてみると、以下の通りです。

南都復興造像の4期の区分

塩澤氏の担当仏師の検証、問題提起が判りやすくなるように、先にご紹介した、本書掲載の「主な造像の担当仏師一覧」を、勝手に加工してみて、この4期別に分けて、三派を色分けした一覧表をオリジナルで作ってみました。

南都復興造像・4期区分した堂塔別担当仏師一覧1
南都復興造像・4期区分した堂塔別担当仏師一覧2

この一覧表をご覧いただきながら、本書、塩澤氏の考え方をご紹介したいと思います。


≪興福寺復興造像推進は、正系三派のバランス分担~筆頭、格上は円派≫

まず第1期、
興福寺復興の仏師担当が決められた時期です。
この時は、金堂・明円、講堂・院尊、食堂・成朝、南円堂・康慶、南大門・院実、それぞれこのような担当となりました。
正系3派、院派、円派、慶派にバランスよく担当が割り振られており、中でも最も重要な金堂造像は、明円・円派が担っている、としています。


≪東大寺復興造像は、院派、慶派の拮抗分担~格上は院派か??≫

第2期は、
興福寺では、第1期で計画された復興造営が、本格的に進められました。
東大寺では、鋳造修像された大仏の大仏殿を建立し、大仏光背と堂内諸像6躯、中門二天像、南大門金剛力士像と、巨像10躯が造立された時期です。

東大寺大仏殿・虚空蔵菩薩像(江戸時代制作像).東大寺大仏殿・多門天像(江戸時代制作像)
東大寺大仏殿内の巨像~虚空蔵菩薩像(左)、多門天像(右)~共に江戸時代制作再興像

東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作).東大寺南大門・金剛力士像(吽形像)
東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)


◆慶派独壇場論の拠り所となったのは、大仏光背制作(院派)の過小評価

一般には、この東大寺の大仏殿内諸像等の仏師分担の状況から、南都復興における慶派の独壇場が始まるとされています。
大仏殿、南大門などの巨像10躯すべての造像を慶派が担ったことから、そう考えられているのです。
それに比して、円派は東大寺造像にかかわれず、院派は、わずかに大仏光背の担当にとどまった。
主要巨像の造像は、鎌倉幕府、頼朝の後ろ盾もあって、慶派が独占しており、慶派の一人勝ちになったのは明らかだ。
このようにみられているのです。

例えば、三宅久雄氏は、

「本尊廬舎那仏に始まる東大寺諸像復興の特色は、興福寺と違って源頼朝の強力な支援を受けたこと、京都仏師はわずかに建久5年(1194)に大仏光背を制作した院尊、後には建保6年(1218)東塔4仏のうち2体を制作した院賢、院寛くらいであることである。」
(日本の美術459号「鎌倉時代の彫刻」2004年至文堂刊)

として、奈良仏師・慶派の重用を論じていますし、

古くは、毛利久氏が、
「京都仏師は、付属的な大仏光背の制作に留まる」
(「定朝より運慶へ」美術史31号1958年)
このように述べて、慶派(奈良仏師)の独壇場となっていったとしているのです。


◆実は、大仏光背制作は最上位、最格上の仕事~担当は院派

東大寺大仏殿・大仏光背(江戸時代制作)東大寺大仏殿・大仏光背(江戸時代制作)
大仏光背(江戸時代再興制作)~光背造像は最格上の仕事だったか?

これに対して、本書、塩澤氏は、

・大仏光背の制作というのは、決して付属的な仕事ではなく、大仏殿諸仏造像の中で、最上位の仕事であった。
・光背制作は、如来本体の一部というべき、最重要の仕事とみるべきである。
・院派、院尊は、最も格上の仕事を担ったことを意味しており、東大寺復興造像では、院派、慶派の2派によって、相応に分担されていると考えるべきである。
・大仏光背制作の重みを、軽く評価したことから、慶派の独壇場という見方になってしまっていたのだ。

としているのです。


≪南都復興造像の位置付けが低まった3~4期
~他派の関心低かった慶派・興福寺北円堂造像≫

第3~4期は、
東大寺の東塔、講堂の造営が行われ、興福寺は復興の仕上げとしての北円堂の造営が行われた時期です。

塩澤氏は、
興福寺北円堂
興福寺北円堂

・東大寺復興では、東塔、講堂の造仏担当仏師を見ると、院派・慶派の分担拮抗の状況が続いたとみられる。
・興福寺については、北円堂造像を慶派が担っていることが、慶派独壇場の見方の有力な拠り所にもなっているが、北円堂は興福寺復興の最後に回された公家の関与のない仕事で、位置づけの低いものであった。
・院派、円派からすれば、北円堂の仕事は、さほどの関心事ではなく、むしろ都、京都の仕事が関心事、優先事であったに違いない。

と述べて、この時期も、決して慶派の独壇場となって、院派、円派が駆逐されてしまっていたというわけではないとの見方を示しています。

また、3~4期になると、

・南都復興造像もピークを過ぎてきて、正系3派の軸足が京都の方に移っていく時期になる。
・その頃の京都における主要な造像、法勝寺、蓮華王院などの造像の仏師分担を見ると、院派、円派、慶派の正系3派体制による分担がしっかりと維持されており、東大寺復興造像にかかわらなかった円派も、決して退潮を招いていたわけではない。

総合的にみると、南都復興造像については、正系三派体制の原則が維持されており、都(京都)における造像を含めてみていくと、都、南都の造像は、正系三派体制がしっかりと維持、確立していたとみるのが、妥当と考えられる、と述べています。

上手くまとめられていませんが、このような結論に達しているのです。



【「都の天皇王権造像」と「東国の鎌倉幕府造像」という、鎌倉時代造像の二元性】


塩澤氏は、このような南都復興造像の仏師担当状況、正系三派の分担状況の検討を踏まえて、鎌倉時代彫刻の造像状況の実態について、以下のような新視点の見方を提起しています。

・鎌倉時代の造像を、都を中心とした朝廷、公家などによる「天皇王権の造像」と、「鎌倉幕府の造像」とに分けて考えると、「天皇王権の造像」では、正系三派体制かしっかりと維持、確立されていた。
一方、東国を中心とする「鎌倉幕府造像」に於いては、正系三派体制は成立せず、運慶はじめ慶派一派が主として用いられている。

・圧倒的に多くの仏像が造像されたのは、都(京都)を中心とする「天皇王権の造像」であるが、そこでは、南都復興造像も含め、鎌倉時代を通じて院派、円派、慶派の正系三派体制が維持されていたのが実態で、決して慶派の独壇場となったということは無かった。

・おそらく、鎌倉時代を通じて京都で最も大きな勢力を保ったのは、院派であったとみられ、院派が主導権をとる南北朝時代へとつながっていく。
足利尊氏が京都に進出してから院派を重用したのも、院派が当時の最大勢力であったことが理由でないかと思われる。

・鎌倉時代彫刻の実態を、大括りに俯瞰すると、
正系三派体制による「天皇王権の造像」と、慶派が主役の「鎌倉幕府の造像」という二元性、
新様式、新時代型の慶派と、伝統的表現型の院派、円派という二元性、
といった、多様性の中でみていく必要があろう。


皆さん、このような新視点、問題提起について、どのように感じられたでしょうか?
詳しくは、本書をしっかり読んでいただくしかないのですが、

「なるほど、そうだったのか!」

と、納得された方もおられるでしょう。

「これまで言われている、南都復興を契機に慶派の全盛時代になるという考えの方が、よほど納得的だ。
本書の見方、考え方には、ちょっと無理があるのでは?」

と、思われる方もあるのではないかと思います。



【「鎌倉時代彫刻は慶派の時代」という定説が造られた訳は?】


本書では、もうひとつ、興味深い話が述べられています。

日本美術史、日本彫刻史の中で、

「どうして、鎌倉彫刻史は、運慶・快慶を代表選手とする慶派独壇場の時代と云われるようになったのか?」
「どうして、運慶を中核に慶派が鎌倉彫刻様式を形成したという、運慶・慶派偏重の考え方が定着したのか?」

というテーマについてふれられているのです。


≪明治期以降の鎌倉彫刻の論述~一貫して運慶・快慶一色の見方で定着化≫

明治以降の日本美術史研究に於ける、「鎌倉彫刻」についての論述が、振り返られています。
次のようにまとめられるということです。

・明治中期の、岡倉天心「日本美術史」や、「稿本帝国日本美術略史」の頃から、鎌倉彫刻は、運慶、快慶中心で論述されており、その後も、一貫して運慶の評価は高まっていく。
こうした中で、運慶が鎌倉様式の完成者であり、彼によって完成された鎌倉新様式が時代を席巻し、その成立の際、南都復興が大きく作用したという筋立てが定着していく。
この定説を昭和前期に築いたのは、源豊宗氏、丸尾彰三郎氏の論述に追うところが大きい。

・戦後には、願成就院像、浄楽寺像という運慶作品の大発見があり、運慶様式と鎌倉幕府、関東武士とのかかわり合いの強さが、運慶様式成立に作用したという視点が一層加味されるが、その後の、毛利久氏、久野健氏、西川新次氏等々の主要著作、論述をみても、
「鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって完成、推進された。
南都復興は彼らの飛躍の舞台となり、同時に鎌倉彫刻における新様式を推進させる舞台ともなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至る。」
というように集約される見方が、一層定着し強固なものになっていった。

願成就院・阿弥陀如来像浄楽寺・阿弥陀如来像
運慶作品であることが発見された願成就院・阿弥陀如来像(左)、浄楽寺・阿弥陀如来像(右)

・鎌倉彫刻が、「多元的である」と論じた研究者には、古くは、金森遵氏、谷信一氏がいるが、そうした見方は、数少ないマイナーなもので、重視されることは無かった。
近年では、根立研介氏が、貴族を中心とする権門の造仏に京都仏師が重要な位置を占めていたと指摘しているのが特記されるぐらいである。

たしかにその通りで、どんな本を読んでみても、鎌倉彫刻の処は、運慶、快慶一色というか、
「鎌倉彫刻≒慶派、運慶、快慶の時代」
という論調で綴られています。
ほとんどのページ数は、運慶、快慶に割かれています。
院派や円派の仏像についての話などは、何も書いていないか、ほんの少しだけ申し訳のように触れられているという感じです。

特に近年は、光得寺・大日像、眞如苑・大日像、光明院・大威徳像など、運慶作と推定される作品の発見が続き、マスコミでセンセーショナルに採り上げられるなど、まさに「運慶フィーバー」といってもよいような状況です。

光得寺・大日如来像(推定運慶作)眞如苑・大日如来像(推定運慶作)
新発見の運慶作推定作品~光得寺・大日如来像(左)、眞如苑・大日如来像(右)

光明院・大威徳明王像(運慶作)
新発見の運慶作推定作品~称名寺光明院・大威徳明王像

「鎌倉彫刻=運慶、快慶」というイメージは、ますます盛り上がっているといってもよいのでしょう。


≪現存しているのは、何故か慶派の仏像ばかり
~現存像を語ることは、慶派を語ることになってしまう不思議≫

塩澤氏は、
どうしてこうした見方が定着したと考えられるのか?
本来はどのような視点で見るべきなのか?
について、いくつかの見方を提示しています。

云われるまで気づきもしなかったというか、その意外さに驚いたのが、現存作例の話でした。

南都復興の時に造像された仏像の中で、
「現存している仏像は、偶然にも慶派の作例だけなのだ」
という話です。
院派、円派の仏像は、全部焼失してしまって、跡形もなくなってしまっているのです。

南都復興造像の現存像は、

興福寺では南円堂・不空羂索像他諸像(湛慶)、食堂・千手観音像(当初成朝担当・その後慶派により完成)、西金堂・釈迦像(運慶)、北円堂・弥勒像他諸像(運慶)、
東大寺では、南大門・金剛力士像(運慶・快慶他)、八幡宮・僧形八幡神像

などで、見事に慶派の作品だけなのです。

興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)興福寺西金堂・釈迦如来仏頭(運慶作)
左・興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)、右・興福寺西金堂・釈迦如来仏頭(運慶作)

興福寺食堂・千手観音像(当初成朝担当~後に慶派により制作)
興福寺食堂・千手観音像(当初成朝担当~後に慶派により制作)

興福寺北円堂・弥勒如来像(運慶工房作)
興福寺北円堂・弥勒如来像(運慶工房作)

興福寺北円堂・無着像(運慶工房作)興福寺北円堂・世親像(運慶工房作)
興福寺北円堂・無着世親像(運慶工房作)


東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)
東大寺南大門・金剛力士像(運慶快慶等慶派作)

東大寺鎮守八幡宮・僧形八幡神像(快慶作)
東大寺鎮守八幡宮・僧形八幡神像(快慶作)


塩澤氏は本書で、

「院派や円派の仏師によって作られた作例はことごとくといってよいほどに現存せず、奈良仏師嫡流の成朝作例も確認されていないのは、改めて不思議としかいいようがない。
現存しているのは、康慶、運慶らの慶派作例ばかりという、極端なまでの偏りが見られる。
また別の見方をすると、東大寺大仏殿像、興福寺中金堂・講堂像といった、両寺の最も中心的な、言い換えれば格上の作例は全滅しているということになる。
・・・・・・・
この極端な偏りは、先人たちも気付いていたはずであるが、実際に作例が残っているかいないかは、もたらす効果に大変大きな違いが生まれる。
南都復興の造像史が慶派を中心に論述されてきた理由の一つに、知らず知らずこうした現存状況が影響した可能性があるのではなかろうか。」

このように述べています。

「目からウロコ!」

私にとっては、そんな気持ちになりました。

南都復興造像の現存作例を語ろうとするということは、偶然にも、慶派の造像を語るということになるのです。

この話は、南都復興造像に限らず、院派、円派の現存作例と、慶派の現存作例という世界に広げても、同じことが言えそうです。
慶派の作例は、像内銘記などが残されている事例が多く、数多くの現存作例が世に知られています。
これに対して、はっきり院派、円派の作例とすることが出来る作例は、大変少ないのです。
院派、円派作品には、像内銘記を残すものが少ないことや、都・京都の作例のほとんどが焼失してしまっていることによるものだと思われます。

京都~長講堂・阿弥陀三尊像(推定院尊作)
院派作品:京都~長講堂・阿弥陀三尊像(推定院尊作)

京都~宝積寺・十一面観音像(院範・院雲作)
院派作品:京都~宝積寺・十一面観音像(院範・院雲作)

京都~大覚寺・不動明王像(明円作)京都~大覚寺・降三世明王像(明円作)
円派作品:京都大覚寺・五大明王像(左・不動明王、右・降三世明王像~明円作)

京都~勝持寺・薬師如来像(推定円派作)
円派作品:京都勝持寺・薬師如来像(推定円派作)

鎌倉彫刻史が、慶派の仏像の時代のように語られるのは、意外にもこんなところにあるのかもしれません。



【鎌倉当時の実態に立ち戻る~慶派新様、院・円派伝統様の仏像が同居していた、多様な時代】


こんな話も踏まえて、塩澤氏は、本書で、

「現代の価値観や視点から評価するのではなく、復興の実像と当時の社会における等身大の評価を探る。
・・・・・・
近代的価値基準から離れる必要もある。」

と述べています。

塩澤氏の視点に則ると、南都復興造像に於いても、都(京都)での諸々の造像に於いても、慶派新様の仏像と、院派、円派伝統様の仏像が、あちこちに同居していたということになります。
もっと言うと、伝統様式、宋朝様式、運慶様式、快慶様式などが、各所に同居していたということなのだろうと思います。
発願者、施主も、そんな状況にこだわらなかったというか、当たり前に受け入れていたということになります。

鎌倉時代、当時の、各派、各様式の仏像の造像実態をそのまま受け止めて、鎌倉時代彫刻史を論じるならば、
慶派、運慶、快慶の新様式が席巻した時代であったかのように語るのではなく、それも含めて、

「多様な仏像が、多元的な状況の中で制作されていた時代」

と語らねばならないと云ってもよいのでしょう。



【運慶・慶派新様式が、圧倒的評価を受けたわけは?】


本書では、運慶、慶派の新様式表現が、明治期以降、大きく評価された事由として、二つの視点が指摘されています。


≪リアリズム重視の西洋美術概念にマッチした、慶派の造形概念≫

ひとつは、西洋美術概念による「リアリズム重視」の視点です。

塩澤氏は、運慶作品の高い完成度や魅力については、全く同感としながらも、このように述べています。

「確かに運慶は、近現代社会に評価されやすい要素を多く持っている。
運慶の創始独創ではなかったが、長い間続いた定朝様から転換した新様式を完成させたとして、変化と創造性を重んじる近現代の価値観によく適うし、その表現はおそらく定朝が造った京都・平等院阿弥陀如来坐像よりわかりやすく、西洋美術の古典的価値観に通じるところがある。」

運慶をはじめとする慶派の作品は、「写実的でダイナミックで惹きつける魅力がある」けれども、院派、円派の仏像といわれると、「伝統墨守の定型的、類型的造形で、何処が良いの?」という感じで好きになれない、というのが現代感覚だという話です。


≪「守旧的貴族階級を武士階級が打倒」という図式を積極評価する潮流に、ぴったりフィットする慶派の新様式≫

もう一つは、
「平安後期までの守旧的貴族階級は、新興民衆的な武士階級に打倒された。」
という政治史の見方を受けた視点です。

この見方に立てば、文化的な面でも、貴族階級が支持してきた守旧的なものは、新たなる精神の文化に乗り越えられるべきであるという思想的潮流で、評価されていくものだという話です。
つまり、仏像彫刻の世界でも、「守旧的、貴族的な院派・円派」が、「革新的新様式の慶派」に駆逐されていくという図式によって、慶派中心的史観を形成していったのではないかというのです。

塩澤氏はこのように述べています。

「新様式を打ち立てた慶派は、平安後期の長きにわたって墨守されてきた定朝様の停滞を打ち破るという大転換を成し遂げ、新鮮で創造性あふれる仏所とされ、その表現は写実主義に富むとして高く評価された。
運慶を代表作家とする慶派は、新しい時代精神の産物とされ、ここに慶派中心史観の大きな成立契機がある。

その半面で、院派や円派については古代貴族階級と結びついた仏所で、鎌倉時代においても定朝様の域を出ない無気力な仏所であるとされ、鎌倉時代の活動は決して大きな評価をされることはなかったし、しばしば用いられる彼らの「根強い」活動、「守旧的」な作風といった言葉には、かなり否定的ニュアンスが感じられる。」

こうやって、ズバズバと切り込まれると、
「そういわれれば、その通りかもしれない?」
「自分も、このような所謂既成概念の中で、モノを見ていたのかな?」
という気がしてきます。

私も、院派や円派の仏像というのは、藤原様式のマンネリのようで、面白みや新味がないという感じで、興味関心もほとんどありませんでした。
不謹慎かもしれませんが、ちょっと小馬鹿にした感じで見ていたような気がします。


そして、この話は、前話「明治時代の美術史書にみる「仏像の評価」を振り返る」で、テーマとした見方と、二重写しになってくるようです。
前話では、
「美の評価の物差し」「仏像を見る眼の物差し」も、時代時代の美の価値観、思想的潮流に大きく影響を受けて揺れていくものだ
ということを、実感したのですが、

「鎌倉彫刻史と運慶、慶派の新様式をどう評価するか」

という話もまた、同じような視点、時代の価値観の潮流の中で論じられているのかなと、今更ながらに感じてしまいました。


塩澤氏は、この視点に追い打ちをかけるように、厳しい問題提起をしています。


≪鎌倉時代を多元化の時代とみる歴史観転換に、対応していない鎌倉彫刻史観?≫

日本中世の見方は1960年代~70年代に、大きな転換期を迎えたのだそうです。
黒田俊雄氏による、権門体制論と顕密体制論の登場が、その転機と云われているそうです。

権門体制論というのは、
中世の国家権力を構成する支配階級は、公家(皇室、摂関家をはじめとする諸貴族)、寺家(南都北嶺をはじめとする寺社)、武家(鎌倉時代では幕府)という複数の権門によって構成され、諸権門は対立矛盾しながらも相互補完関係が認められる。
院、天皇、摂関家らの支配階級は、中世的権門に変貌しており、決して新興武士階級にとってかわられたのではない、
という考え方です。

まさに、鎌倉という時代は、多元的多様性の中で観ていく必要があるということなのだと思います。

塩澤氏は、これを受けて、中世史像、鎌倉時代像が大きく変貌を遂げる中に於いて、美術史界における鎌倉彫刻史像についてみれば、

「鎌倉時代の彫刻は運慶、快慶に代表され、その契機に南都復興を挙げるという、明治以来の伝統的構図がほぼそのまま残されている。
日本彫刻史を構築してきた偉大な人々の論説に僭越の感を免れないが、ここまでの日本彫刻史は、中世史や中世仏教史において行われてきた中世観の大きな転換、それに際しての活発な議論が踏まえられていないのではなかろうか。
顕密体制の象徴である東大寺、興福寺の復興造像がいずれか一派に極端に偏重されたり、一派だけの勝利に終わるはずはない。
この一点を取っても、その感を抱く。」

と述べて、厳しく大胆な問題提起をしているのです。



【造像構造の二元化と、正系三派体制のなかで考えたい、鎌倉彫刻史】


そして、本書を次のような言葉で、締めくくっています。

「京都の朝廷を中心とする一極集中構造の社会であった平安後期とは異なり、鎌倉時代は京都の朝廷と鎌倉の幕府という、日本に東西二つの中心があった二極構造の社会であったことを理解したうえで、政治史、社会史と同様に彫刻史においても二元的な視点で見ることが求められよう。
・・・・・・・・・
(鎌倉幕府の造像については、当初から奈良仏師及び慶派だけが独占的に主要造像に携わったものであり)
(鎌倉幕府造像は、)正系三派体制が鎌倉時代を通じて堅持された都を中心とする天皇王権の造像とはかなり異なることは明らかである。
逆説的に言えば、南都復興造像で正系三派体制が堅持されたこと自体が、鎌倉幕府造像との違いを際立たせている。
・・・・・・・・・
鎌倉時代を代表する国家的造像であったことは間違いない南都復興造像の実態をありのままに理解し、鎌倉幕府造像との相違も踏まえながら、鎌倉時代彫刻史を二元的視点で眺め、その上に立って総合するという観点で考察すること、これこそが明日の研究に新しい成果をもたらすことであろう。」


本書のカバーのキャプションに、

「造像の担い手を運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ、新たな鎌倉時代彫刻史の地平を広げる。」

と書かれていました。

このキャプション、なるほど、その云わんとするところが、よく判るように思えました。



繰り返しの多いくどい文章になってしまいましたが、以上が、塩澤寛樹氏の新刊「仏師たちの南都復興」の内容のご紹介でした。

これまでになかった、新視点の問題提起の一書だと思います。

私にとっては、知的興味を大いに刺激するというか、久々に知的興奮を覚えた本でした。
本当に、惹き込まれるように読み耽ってしまいました。
この内容について、コメントしたり云々したりするほどの造詣が、全くない私ですが、これまで思ってみたこともない切り口からの、鋭い問題提起だということを、ビンビン感じたというのが率直な感想です。
まだ、全面賛成、共感という気分までには至っていない、というのも本音の処です。

ただこれからは、「鎌倉彫刻史や、運慶、快慶のことを書いた本の読み方、見方」が、随分変わってくるのは間違いないなという気がしています。

皆さんは、如何でしょうか?
私と同様の感想の方もいらっしゃるでしょうし、全く反対の方もいらっしゃるでしょう。
そんなこともう十分承知、という方もいらっしゃるかもしれません。

いずれにせよ、是非とも一読をお薦めしたい一書です。




【おまけ~関係書のご紹介】


最後に、塩澤寛樹の著作を、もう1冊ご紹介しておきます。


「鎌倉幕府造像論~幕府と仏師」塩澤寛樹著 
2009年吉川弘文館刊 【350P】 30000円

鎌倉幕府造像論

鎌倉時代の造像は、正系三派体制による天皇王権造像と、慶派を主体とした鎌倉幕府造像とに区分して、二元的な視点で考えていく必要があると、塩澤氏は論じています。
その鎌倉幕府造像の方をテーマにした論考が、まとめられた本です。

本書は、慶應義塾大学に提出された博士論文「鎌倉幕府造像の実態とその意義」を単行本化して出版されたものです。
「仏師たちの南都復興」の方が読み物としての論考本なのに対して、「鎌倉幕府造像論」の方は研究論文集というものなので、少々堅苦しくとっつきにくいのですが、鎌倉幕府の造像についての詳しい研究書となっています。


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