観仏日々帖

古仏探訪~回想の地方仏探訪⑥ 「三重 観菩提寺」 【2018.6.9】


三重県伊賀市にある、観菩提寺の十一面観音像。

「若き日の最後の地方仏探訪」 となった、思い出深い仏像です。

この仏像を拝し、発散する

「得も言われぬ物凄い“気”、強烈なオーラ」

に、受けた衝撃は、今でも忘れることは出来ません。

三重 観菩提寺・十一面観音像(平安前期・重文)

三重 観菩提寺・十一面観音像(平安前期・重文)
三重 観菩提寺・十一面観音像(平安前期・重文)



【学生から会社勤めへ~地方仏探訪など、とても無理そうな忙しい職場】


学生時代の後半は、地方仏探訪にハマっていましたが、卒業の時が来て就職、会社勤めとなりました。
職場は東京で、住み慣れた関西の地を離れることになりました。
昭和48年(1973)のことです。

いわゆる日本の高度成長期の最後となる年です。
その頃は「モーレツ社員」とか「企業戦士」とかいう言葉が流行語になったような時代で、私の勤めた職場も、ご多分に漏れずという感じでした。
先輩方を見ていると、毎日夜遅くまで働いて、そのあと飲みに行って、休みの日は、疲れた身体を休めるか、たまった仕事を片付けるかという様子です。
当時は、土曜日は勤務日で、休みは日曜、祝日だけでしたから、なかなか泊りがけでどこかへ出かけるという訳にもいきません。

「これは、奈良、京都はおろか、地方仏探訪に出かけるなどということは、到底できそうなことではないな!」
「これからは、仏像探訪などは、キッパリと諦めるしかないな!」

と覚悟を決めたのでした。



【若き日最後の地方仏探訪旅行へ~愛知から三重方面を探訪】


ただ、入社最初の年は、見習の新人でしたので、何日間かの夏休みがとれることになりました。
そこで、

「これが、最後の地方仏探訪旅行になるのだろう。」

そんな思いで、数日間の仏像探訪に出かけることにしたのでした。

真夏、8月の数日間、一人で、旅に出ました。
教養文庫の「日本古寺巡礼」(社会思想社刊)をポケットにねじ込んで、事前の拝観予約など全く無しで、出たとこ勝負で出かけたのです。

愛知の甚目寺、七ツ寺、岐阜の華厳寺、横蔵寺、滋賀湖南の善水寺、櫟野寺、阿弥陀寺、三重亀山の慈恩寺などを巡りました。



【最後に訪ねた観菩提寺~突然の秘仏拝観のお願いを承知いただく】


この地方仏探訪旅行の最後の最後に訪ねたのが、三重の観菩提寺となったのでした。

宿の予約もない、行き当たりばったりの旅でした。
善水寺のある、国鉄草津線の三雲駅に着いたところで日が暮れて、駅で紹介してもらった安宿に泊まりました。

翌日、観菩提寺を訪ねてみたいと思い、お寺にTELをしてみたのです。

「日本古寺巡礼」(社会思想社刊)掲載の観菩提寺・十一面観音像写真
「日本古寺巡礼」(社会思想社刊)
掲載の観菩提寺・十一面観音写真
「日本古寺巡礼」に、「怪異な十一面観音像」として採り上げられていたのです。
観菩提寺の十一面観音像は、33年に一度の開扉の厳重な秘仏ということでしたので、きっと拝観は無理に違いないと思ったのですが、ダメもとで、TELをしてみたのでした。

ご住職が電話に出られました。
「突然ですが、明日、十一面観音様を拝観させていただけないでしょうか?
秘仏と伺ってはいるのですが、如何でしょうか?」
とお尋ねしました。

当然のことですが。
「観音様は秘仏で、拝観は一切受けていない。」
というお答えです。

今にして思えば、前夜、突然電話して拝観のお願いなどというのは、失礼の極みで恥ずかしき限りです。
ご住職は、あまりの若者からの電話に、ご興味を持たれたのでしょうか、
「随分、若い方のようだが、どうして、うちの観音様を拝観したいのか?」
と、聞いてくださいました。

きっと、当時は、専門家以外の一般人が拝観したいという話は、めったにないことであったのだと思います。

「私は、仏像を愛好していまして、これまで全国各地の仏像を訪ねてきました。
・・・・・・・
この夏は、このような古寺、古仏を巡って来ました。
最後に、観菩提寺を訪ねて、観音様を拝むことができればと思って、
・・・・・」

などなど、縷々、お話ししました。

そうしたところ、ご住職は、何とか拝したいという心持を察していただいたのでしょうか、
「厳重な秘仏にしているのだけれども・・・・・・
そういうことなら、まあ、いらっしゃい。」
と、おっしゃっていただいたのでした。



【東大寺、実忠和尚ゆかりの修正会で知られる正月堂・観菩提寺】


観菩提寺は、三重県伊賀市島ケ原という処にあります。
国鉄(JR西日本)関西本線の、島ケ原の駅で降りて、20分ほど歩いたところです。
まもなく三重県と京都府と奈良県の県境というあたりです。

観菩提寺は、東大寺の開山、良弁僧正の弟子の実忠の創建になると伝えられ、旧正月に行われる修正会の行事が長らく伝えられることから、「正月堂」の名前で親しまれています。

観菩提寺・楼門
観菩提寺・楼門

観菩提寺・正月堂
観菩提寺・正月堂

この正月堂のご本尊が、秘仏・十一面観音像です。
9~10世紀制作の一木彫像で、重要文化財に指定されています。
この観音像は、「異形で呪術的霊気を発する特異な像」だということなのです。

厳重な秘仏として祀られ、33年に一度の開扉とされています。
最近では、平成27年(2015)11月に、8日間の、ご開帳がありました。

2015年に、33年に一度の開帳があったときのポスター
2015年に、33年に一度の開帳があったときのポスター



【ほの暗い厨子から、もの凄い“気”を発散する観音像に、激しい衝撃】


お寺を訪ねると、ご住職が、

「33年に一度開扉の秘仏なのだが、特別に、開扉してあげましょう。」

と、おっしゃっていただき、ご配意に感謝しつつ、正月堂に入堂しました

ご読経の後に、厨子の扉が、厳かに開かれました。
堂内は、暗くて、厨子の中の観音像の姿がはっきり見えません。
やがて、目が慣れてくるにしたがって、2メートルを超える怪異な大像が、眼前に迫ってきます。

昭和48年に撮影した観菩提寺・十一面観音像の写真

昭和48年に撮影した観菩提寺・十一面観音像の写真

昭和48年に撮影した観菩提寺・十一面観音像の写真
昭和48年に撮影した観菩提寺・十一面観音像の写真

なんと表現したらよいのでしょうか?
得も言われぬ「物凄い“気”」を発して、迫ってくるのです。
発散する“気”のパワーに圧倒されて、思わず後ずさりしてしまうような、インパクトです。

頭がバカにでかくて幅広で、上半身が異様に大きく、下半身は不釣り合いに長くて細身です。
プロポーションとしては、アンバランスそのものです。
バランスの取れた優れた造形とかという世界とは、全く縁遠い、「歪み、デフォルメ、いびつ」といった造形です。
「アクが強い、クセが強い」という言葉が、似つかわしそうです。

お顔を見ると、分厚い唇、小鼻の膨らんだごつい鼻は、強烈な迫力です。
細く切れ長の目は、異様に厳しく、鋭い眼光を発しています。
射すくめられてしまって、動けなくなってしまいそうな、恐ろしい目です。

厳しく鋭い眼光の観菩提寺・十一面観音像 顔貌
厳しく鋭い眼光の観菩提寺・十一面観音像 顔貌

内から発するオーラというか、霊気というか、ものすごいものがあるのです。
こんなに、激しく、強烈なインパクトのある仏像に出会ったのは、初めてのことのように感じました。



【「呪術的信仰」、「不思議な力の宿り、凄い力」と、専門家もコメント】


ポケットの「日本古寺巡礼」の本には、

「その面相は、怪奇とでも表現するよりほかないようなものである。
頭や胴がばかに大きく、それに較べて腰から下がいかにも細身である点も変わっており、いわばこの像は正統な彫刻の技法になるものでなく、地方的な要素が強く、あえていうなら山間遊行の行者たちの呪術的な信仰にささえられた像の系統をひいているように思えてならないのである。」
(「日本古寺巡礼・上」社会思想社教養文庫 1965.7刊)

このように書かれていました。

後に出版された、井上正氏著の「古仏」という本には、

「美術のもつ力とは異なる、不思議な力の宿りを本像に感じた。
9世紀彫刻の凄い奥行きを、土着の相の中に垣間見たように思った。」
「一見して、凄い力を蔵する像である。
十一面六臂の異常な形相に加えて、精神の強い表現は、拝者を圧倒する。」
(井上正著「古仏~彫像のイコノロジー」法蔵館1986.10刊)

と述べられていました。



【異様な呪術的霊気に魅入られた、若き日最後の観菩提寺・観音像探訪】


その通りというか、それ以上のデモーニッシュなエネルギーを強烈に感じました。
いわゆる「平安初期一木彫の、森厳さとか鋭い迫力」というものとは、ちょっと違った、「土着的、呪術的霊気」のようなものを発散しています。

ほの暗いお堂の中で、ぼんやり浮かび上がるような中で、拝したからでしょうか。
その姿を拝し、あの鋭い眼に射すくめられると、何やら、闇の中の暗黒の世界に惹き込まれて行ってしまうような、「もの凄い“気”」を、強烈に感じたのでした。

観菩提寺・十一面観音像
観菩提寺・十一面観音像

観れば観るほどに、異様な霊気や、凄みのあるエネルギーに、魅入られてしまいました。
頭をガツーンと殴られて、そのまま痺れてしまったような気分になってしまいました。。

「写真も撮ってよい」とのお赦しもいただき、ご住職のご配意に感謝しつつ、いずれの時にかの再訪を誓って、観菩提寺正月堂を辞しました。

昭和48年に撮影した観菩提寺・十一面観音像の写真
昭和48年に撮影した観菩提寺・十一面観音像の写真

駅までの道程を歩く間も、この異形の十一面観音像の発するオーラから受けた「火照り」のようなものが、なかなか消えることがありませんでした。
今でも、その時の興奮のようなものが、鮮明に蘇ってきます。


そして、この観菩提寺の十一面観音像に拝したのが、「若き日の最後の地方仏探訪」となりました。
まさに、「忘れがたき観菩提寺」となったのでした。



【それから30年、50歳過ぎまで地方仏探訪とは無縁の生活に】


それからは、仕事々々の会社人間への変身を余儀なくされてしまい、地方仏探訪などには全く出かけることがなくなってしまいました。
「ゴルフに出かける暇はあっても、仏像を観に行く暇はない」
という生活が長く続きました。

ずっと東京勤務になりましたので、京都、奈良へ仏像を観に行くということも、ほとんどなくなって、
「仏像とは縁遠い、仕事の日々」
を過ごすことになりました。

結局、最後に観菩提寺を訪ねてから、50歳を過ぎるまで、30年間ほど地方仏探訪に出かけることはありませんでした。

その間は、隠れ仏像愛好家とでもいうのでしょうか。
暇を見つけて、神田神保町あたりに出かけて、仏像の本を購い蒐めるのが、「仏像探訪に代わる、密かな愉しみ」になったのでした。



【37年ぶりの観菩提寺再訪~やはり、「物凄い“気”」を発散していた観音像】


50歳代半ばごろからでしょうか。
徐々に、地方仏探訪を再開し、同好の方と出かけるようになるのですが、平成22年(2010)の秋、観菩提寺を再訪することができました。
実に、37年ぶりに訪ねたのです。
縁あって、秘仏の十一面観音像を拝することが叶いました。

秘仏本尊が祀られる観菩提寺・正月堂の堂内
秘仏本尊が祀られる観菩提寺・正月堂の堂内

開かれた厨子から姿を現した観音像は、やはり、「物凄い“気”」を発散していました。
ほの暗い堂内の釣灯籠の明かりに、妖しく浮かび上がるような姿は、

「私の古い記憶に刻印された、鮮烈な衝撃」

そのままのオーラを、変わらずに発散していたのでした。
若き日、この像に出会った衝撃は、その時限りの一過性の感動ではなかったようです。

「やはり、この観音像の“気”は、ただものではない、尋常のものではない!」

との実感を、心新たにしたのでした。



【博物館へ出展された、秘仏・十一面観音像~どこかへ消えてしまったような、あの霊気】


そして、三度目に、この観音像に出会ったのは、翌年の2011年の春のことでした。
なんと、世田谷美術館で開催された「白洲正子~神と仏、自然への祈り~展」に、観菩提寺の十一面観音像が出展されたのです。
まさか、この厳重秘仏が、展覧会に出展されるとは、驚きでした。
白洲正子の著作「十一面観音巡礼」に、この観音像の拝観の話が語られていることから、出展の運びとなったようです。

「あの、もの凄い“気”を発する、観菩提寺の観音像にまた出会えるのだ!」
「博物館で観ると、どんなにすごいだろう。」

と、勢い込んで出かけました。

ところが、博物館に展示された観菩提寺・十一面観音像の前に立った時の印象は、全く違ったものでした。

「白洲正子展」で世田谷美術館に展示された、観菩提寺・十一面観音像
「白洲正子展」で世田谷美術館に展示された、観菩提寺・十一面観音像

率直に言えば、

「異常にアンバランスな造形の、出来が今一歩の、ゴツイ感じの一木彫像」

が、展示されていると感じたのが、本音のところです。

「あのデモーニッシュな霊気は、どこへ消えてしまったのだろうか?」

と思うほどに、さほどに、発散するオーラを感じなかったのです。
ちょっと拍子抜けという処です。
展覧会場でも、この観音像の前で足を止めて見入る人、惹き付けられる人も、多くはいなかった様子でした。

厨子から出た明るいところで撮影された写真を見ると、そこからは、観音像の発散する“気”やオーラを感じ取ることは、難しいように感じます。

「三重県史別編・美術工芸」2014刊に掲載の観菩提寺・十一面観音像写真.「三重県史別編・美術工芸」2014刊に掲載の観菩提寺・十一面観音像写真
「三重県史別編・美術工芸」2014刊に掲載の観菩提寺・十一面観音像写真

やはり、

「この観音像の霊気やデモーニッシュなエネルギーは、博物館のような場では、体感することは出来ないのだ。」

「あのほの暗い正月堂の厨子の中に秘められるという、宗教空間の場においてでないと、観音像の“気”は、決して発散することはないのだ」

と、つくづく実感しました。



今回は、若き日最後の地方仏探訪で、「霊気発散する観菩提寺・十一面観音像」に出会い、忘れ得ぬ衝撃を受けた話の回想でした。


古仏探訪~回想の地方仏探訪⑤ 「広島 古保利薬師堂」  【2018.5.26】


今回は、古保利薬師堂の諸仏を拝した思い出を、綴ってみたと思います。

古保利薬師堂・薬師如来像
広島 古保利薬師堂・薬師如来像

古保利薬師堂・千手観音像
広島 古保利薬師堂・千手観音像

古保利薬師堂・吉祥天像
広島 古保利薬師堂・吉祥天像

古保利薬師堂・四天王像~増長天像
広島 古保利薬師堂・四天王像~増長天像


【西日本各地の探訪で、最も心惹かれた地方仏~古保利薬師堂の諸仏】


これまで、東北みちのくの地方仏探訪旅行、東博「平安彫刻展」の思い出をご紹介しました。
その後は、「地方仏探訪行脚の魅力」にハマってしまったというか、各地の地方仏探訪に出かけました。

卒業までの1年半ぐらいの間に、
「山陰路、鳥取島根方面」 「四国路、徳島香川方面」 「山陽路、岡山広島方面」 「九州路、大分臼杵方面」
などに、せっせと出かけたのでした。

魅力あふれる地方仏、惹き付けられる地方仏に、たくさん出会いました。
50年近く経った今でも、訪ねたいくつもの地方仏のことが、心に蘇ってきます。

ここで、その一つ一つをご紹介していると、キリがありませんので、これらの地方仏探訪旅行の中で、

「最も印象深く、心惹かれた地方仏」

を、一つだけご紹介しておきたいと思います。

一つだけに絞ってということとなると、
なんといっても、古保利薬師堂の諸仏ということになろうかと思います。



【山陽路随一の平安前期一木彫の優作が、数多く遺される古保利薬師堂】


古保利薬師堂というのは、地方仏にちょっとご関心がある方なら、よくご存じなのではないでしょうか。

素晴らしい平安古仏群が残されていることで、山陽方面の地方仏行脚では、必見度ナンバーワンといってもよいところかと思います。

古保利薬師堂は、広島県山県郡北広島町という処にあります。

古保利薬師堂の現在の風景
古保利薬師堂の現在の風景

堂内には、数多くの古仏が残されており、そのうちの12体は、重要文化財に指定されています。
重文指定の薬師如来像、千手観音像をはじめとした諸像は、9~10世紀制作の一木彫像です。
山陽路の地方仏の中では、ひときわ観る者を惹き付ける魅力あふれる像として、また、瀬戸内、山陽路の豊かで明るい風土を象徴するような像として、知られています。



【広島北部の片田舎にある古保利薬師堂~広島駅からバスで2時間】


初めて古保利薬師堂を訪れたのは、昭和47年(1972)の夏のことでした。

同好会のメンバーと山陽路、岡山広島方面の地方仏探訪旅行に出かけた時のことです。
岡山の余慶寺、広島世羅町の龍華寺、文裁寺、尾道の摩訶衍寺などを巡った後に訪ねました。

古保利薬師堂は、広島市内から40キロほど北に行ったところにあります。
当時は千代田町と呼ばれていた処で、かなり辺鄙な片田舎、広島県も北部の山間の盆地です。
50年ほど前の当時、千代田町に行くには、広島駅から島根県の浜田に通っているバスに乗っていくしかありません。
2時間余りもガタゴトの田舎のバスに揺られて、やっとこさで到着です。
「八重」という名前のバス停で降りたように覚えています。



【無住のお堂の収蔵庫に、平安古仏が林立~ネズミが飛び出てビックリ】


バスを降りて、10分ほど歩いた小高い森の中に、古保利薬師堂はありました。

参道の石段を上って粗末な仁王門をくぐると、お堂が見えてきます。
役場の教育委員会の方が、お待ちいただいていました。
古保利薬師堂は、無住のお寺で、地域の方と役場で管理されているのです。

昭和30年代の古保利薬師堂・仁王門の写真

昭和30年代の古保利薬師堂・本堂の写真
昭和30年代の古保利薬師堂・仁王門、本堂
私が訪れた昭和47年も、写真のような感じでした


お堂は、こぢんまりとしていて、古ぼけた感じです。
木造の畳敷きの外陣・礼堂の後ろ側に、諸仏を安置する収蔵庫が接続するような形となっていました。
普段は訪れる人もないのでしょうか、堂内は、ほこりだらけです。
収蔵庫が開かれて、中へ入ったとたんに、ネズミが2~3匹、眼の前を横切って走って逃げました。
女性のメンバーは、「キャー!」と声をあげ、拝観の前に、ビックリのひと騒動です。

気を取り直して、収蔵庫を見渡すと、堂内には、所狭しと沢山の古仏が、林立するように立ち並んでいました。
まさに、壮観です。
本尊の薬師如来像は、内陣中央の、お厨子の中に祀られています。
左右の壇上には、日光月光菩薩像、千手観音像、吉祥天像、四天王像などが並んでいます。

古保利薬師堂・薬師如来像~昭和47年(1972)撮影写真
古保利薬師堂・薬師如来像~昭和47年(1972)に撮影した写真

古保利薬師堂 旧収蔵庫内の安置仏像~昭和47年(1972)撮影写真

古保利薬師堂 旧収蔵庫内の安置仏像~昭和47年(1972)撮影写真
古保利薬師堂 旧収蔵庫内の安置仏像~昭和47年(1972)撮影写真


「これは、すごい!」

そのまま立ち尽くすほどに、圧倒されてしまいました。
正真正銘の、平安前期の一木彫像です。
一つ一つの仏像に眼を移すと、それぞれに個性を主張した造形表現で、魅力十分。
惹き込まれて、しばらく、見入ってしまいました。



【「明るくのびやか」心豊かな気持ちになる諸仏の雰囲気~平安前期の厳しい表現イメージと大違い】


とりわけ印象的だったのは、これらの諸仏がかもし出す雰囲気です。

「明るい、のびやか、おおらか」

こんなキーワードがぴったりする古仏たちです。

平安前期の一木彫像というと、
「厳しい、緊張感、鋭い、迫力」
こんなキーワードで語られるようなイメージを持ってしまいます。
気迫あふれる森厳さ、緊張感ある鋭い彫り口、重厚感などが、大きな魅力となっているように思います。

ところが、古保利薬師堂の仏像たちの前に立つと、そんな緊張感ある平安前期仏に気合を入れて対するという感じが全くしません。
平安前期の一木彫らしく、ボリューム感にあふれた造形なのですが、おおらかで伸びやかに表現された造形なのです。
何しろ、明るいのです。

「眺めていると、温かく心豊かな気持ちになってくる。」

率直に、そう感じました。

ひときわ目を惹くのは、薬師如来像、千手観音像、四天王像です。



【ボリューム満点、包み込むような逞しさの薬師像~魅力は「貞観の手、指」】


薬師如来像は、ものすごいボリューム感です。
丸々とはち切れんばかりの顔、厚みのある肩、胸、腹、高い膝などは、「豊かな量感」そのものです。

古保利薬師堂・薬師如来像古保利薬師堂・薬師如来像
豊かな量感が頼もしい 古保利薬師堂・薬師如来像

平安前期の魁量感そのものの一木彫像なのですが、「厳しさとか迫力」というのではなくて、「包み込まれるような、頼もしさ」を感じ、自然と心豊かな気持ちになってきます。

そして、なんといっても惹き込まれるのは、グッと突き出した太い腕、分厚い手のひら、太い指です。

古保利薬師堂・薬師像の魅力あふれる手~昭和47年(1972)撮影写真古保利薬師堂・薬師像の魅力あふれる手~昭和47年(1972)撮影写真
古保利薬師堂・薬師像の魅力あふれる手~昭和47年(1972)探訪時に撮影

「逞しく、頼もしく、力強く」

こんな修飾語がぴたりとあてはまるようです。

「凄い、貞観の手だ、貞観の指だ!」

と、すっかりその手の魅力の虜になってしまいました。


ちょっと付けたりの話ですが、「その魅力の虜になった手」は、実は、昭和の後補で新造あったことを、20年程後に知りました。
研究者や評論家も、この手の魅力を語っていましたので、本当にビックリです。

後補新造のいきさつなどについては、以前に、
でご紹介したことがありますので、そちらをご覧ください。

ただ、古保利の薬師像の新造の手は、後補であっても素晴らしいもので、この仏像の魅力を、減衰させるどころか、魅力を一層引き出し、惹きつけるものとなっているのは、間違いありません。



【翼を広げ、大空にはばたくような千手観音像】


千手観音像は、破損した千手の腕と手の造形が魅力的です。

古保利薬師堂・千手観音像
古保利薬師堂・千手観音像

なんと脇手まで体躯と共木で一材から彫り出されているのです。
腕と体躯を共木で刻みだした千手観音像というのは、ほかには見当たらないそうです。

眺めていると、

「のびやかに、翼を広げて大空にはばたいている。」

ように見えてきました。

古保利薬師堂・千手観音像
翼を広げはばたくような 古保利薬師堂・千手観音像



【明るく開放的、ユーモラスな忿怒の四天王像】


四天王像は、その表情に惹き付けられます。

古保利薬師堂・四天王像~増長天像.古保利薬師堂・四天王像~多門天像

古保利薬師堂・四天王像~増長天像 顔部
明るく開放的な 古保利薬師堂・四天王像
上段~増長天像(左)・多聞天像(右) 下段~増長天像 顔部


個性的で、怒りをむき出しにした面相なのですが、どこかユーモラスなのです。
それも、厳しさとか、暗さとかが全くありません。
あくまでも明るく、開放的でおおらかな表情に造られています。

古保利薬師堂・四天王像~広目天像~昭和47年(1972)撮影写真古保利薬師堂・四天王像~持国天像~昭和47年(1972)撮影写真
古保利薬師堂・四天王像~(左)広目天像・(右)持国天像~昭和47年(1972)撮影写真



【瀬戸内の風土と共にある、明るい仏像たち~「仏像彫刻風土論」】


こんな、古保利薬師堂の諸仏を眼前にしていると、

「これが、明るくのびやかな瀬戸内の風土とともに生きる仏像なのか。」

そんな思いに、強く駆られました。

地方仏探訪の時には必ずカバンに入れている本、「生きている仏像たち」と「日本古寺巡礼」には、こんなふうに書かれていました。

「山陽から四国にかけての木彫群を見て歩いたときに、東北の渋い仏像ばかり見慣れてきた眼には、この木彫たちが、いかにも瀬戸内的な明るさをもっているように映じて、驚いた。
それはヨーロッパの、いわゆる地中海的な明るさとでもいえるような明るい造形に、ぼくには思えたのだ。

会津 勝常寺・薬師如来像(9C・国宝)
会津 勝常寺・薬師如来像(9C・国宝)
広島からかなり山側に入った古保利薬師堂の、薬師如来、吉祥天、千手観音などのすぐれた木彫像を見たときの感動は、いまでも忘れられないが、この木彫たちが、あのマイヨールの豊潤な彫刻を、ふと頭に描かせたのだから不思議である。」
(丸山尚一著「生きている仏像たち」読売新聞社・1970刊)


「山陽と山陰を結ぶ交通路に置かれたこの薬師堂は、北陸と東北をつなぐ会津盆地の勝常寺と地理的にもよく似ている。
だがその仏像の表情に大きな違いのあることも見のがせない。
勝常寺像のいかにも暗く沈んだ表情に対して、この薬師像はどこまでも明快である。
こんなところににも東北と山陽という風土の影響がまざまざと知られるのである。」
(「日本古寺巡礼・下」社会思想社教養文庫・1965刊)


この文章を読んで、
「本当に、その通りだ!」
と、思いました。

東北の地方仏探訪から始まって、各地の地方仏を巡ってきました。
そして、古保利薬師堂の仏像を目の前にして、

「仏像の造形表現は、その土地の気候風土や、人々の心を、ものの見事に映しとったものになっているんだ。」

と、つくづくと実感したのでした。



【いくつも思い浮かぶ、風土と共にある地方仏~造形への風土の影響を実感】


「土地の風土と共にある仏像」

ということに思いを巡らせると、こんな地方仏のことが頭に浮かんできました。


東北岩手、黒石寺の薬師如来像や四天王像は、厳しく魁偉な異貌の仏像ですが、いかにも

「みちのくの、雪深く厳しい気候風土や、蝦夷と立ち向かう辺境の厳しさ」

を、そのまま形に表現したような強烈なインパクトのある仏像です。

岩手 黒石寺・薬師如来像(9C・重文)岩手 黒石寺・薬師如来像(9C・重文)
岩手 黒石寺・薬師如来像(9C・重文)


佐渡国分寺の薬師如来像は、ドッシリとかズングリという言葉が似合う、鈍重といってもよいような、分厚い造り仏像です。
佐渡や越後の、素朴で粘り強く辛抱強いといった気風や、日本海の鉛色で荒れた海といった気候をそのまま顕しているようです。

佐渡 国分寺・薬師如来像(9C・重文)
佐渡 国分寺・薬師如来像(9C・重文)


山陰島根の仏谷寺や万福寺の諸仏を見ても、古保利薬師堂の諸仏を山陽、瀬戸内の「陽の仏像」だとすれば、やはり地味さや重さを感じる「陰の仏像」というように思えます。

島根 仏谷寺・薬師如来像(9~10C・重文)島根 萬福寺・四天王像(9~10C・重文)
(左)島根 仏谷寺・薬師如来像・(右)島根 萬福寺・四天王像(共に9~10C・重文)


古保利薬師堂の諸仏と似た
「明るさ、おおらかさ、のびやかさ」
を感じたのは、伊豆の河津にある南禅寺の諸仏です。
薬師如来像は、豊かな塊量感・どっしりした重量感を持つ平安前期の一木彫像ですが、ほのぼのとした温かみある微笑みをたたえたのびやかな仏像です。

伊豆河津 南禅寺・薬師如来像(9~10C・県指定)
伊豆河津 南禅寺・薬師如来像(9~10C・県指定)

二天像の憤怒の表情は、古保利の四天王像のユーモラスで開放的な造形と通じるものがあります。
南禅寺の仏像も、黒潮洗う伊豆半島という、明るく温暖な風土の中で生まれてきた仏像だなという感じがするのです。

伊豆河津 南禅寺・天部形像(9~10C・県指定)
伊豆河津 南禅寺・天部形像(9~10C・県指定)


そして、古保利薬師堂の仏像は、山陽、瀬戸内の風土を象徴するような、

「明るくのびやかな魅力、豊かで頼もしい魅力、人々の豊穣の喜びの息吹がそのまま吹き込まれたような魅力」

を発散しているようです。



【「仏像彫刻風土論」に強い共感を覚えた、古保利薬師堂諸仏との出会い】


こんなことを思い浮かべていると、

「仏像の造形表現とその土地の風土というのは大変密接な関係にあるのだ。」
「それが、地方仏の魅力なのだ。」

と、今更ながらに納得したのでした。

古保利薬師堂の仏像との出会いは、そんな「仏像彫刻風土論」について、思いを強く馳せる出会いとなったのでした。
「生きている仏像」「風土と共に生きる仏像」といった言葉が、心の中を駆け巡ったのでした。



【古保利薬師堂再訪~境内は見違えるよう、諸仏は変わらぬ魅力を発散】


そんな感動の出会いから40年近くが経ちました。
平成21年(2009)に、古保利薬師堂を再訪しました。

車で出かけましたが、今では、中国縦貫道ができて、千代田インターから5~6分で到着です。
昔、2時間もバスに乗って、やっと到着したのがウソのようです。
便利になったものです。

お寺の境内も、すっかり整備され、見違えるようになっていました。
仁王門も新しく建て替えられ、昔、古ぼけた薬師堂があったところに、新しい立派なコンクリート造りの収蔵庫が建てられていました。

現在の古保利薬師堂・仁王門

現在の古保利薬師堂・収蔵庫
現在の古保利薬師堂・仁王門と収蔵庫

明るくきれいな収蔵庫の中には、諸仏が整然と祀られています。
昔、古く薄暗い収蔵庫で、ネズミが出てビックリだったなんて、嘘のようです。

古保利薬師堂・収蔵庫の諸仏安置状況

古保利薬師堂・収蔵庫に安置される諸仏
現在の古保利薬師堂・収蔵庫に安置される諸仏

全てが様変わりになっていましたが、仏像たちは、初めて出会ったときの感動と変わることのない魅力を発散していました。
やはり、山陽路随一の優作です。
本当に久しぶりの出会いとなりましたが、明るくのびやかで豊かな造形の魅力に、惹き込まれてしまいました。

薬師如来像の「逞しく分厚い手」も、今度は、後補新造とわかったうえで観ましたが、

「やっぱり、この薬師像の魅力は、この手のすばらしさに尽きる。」

と、思ったのでした。



【今では、「ちょっと無理かな?」と思うようになった「仏像風土論」~懐かしき思い出】


そして、学生時代に古保利薬師堂の仏像を観たとき、すっかり「仏像彫刻風土論」にハマってしまったことが、懐かしく思い出されました。

それから、随分な数の地方仏を観てきました。
この齢になった今では、あの頃とは違って、

「仏像の造形表現とその土地の気候風土とを結びつけようという仏像風土論には、ちょっと無理があるかな。」

そんなふうに、考えるようになりました。

それはそれとして、若き日、仏像風土論に思いを巡らせた古保利薬師探訪は、忘れがたく懐かしき思い出です。


古仏探訪~回想の地方仏探訪④ 「東博 平安彫刻展」  【2018.5.12】


昭和46年(1971)秋、東京国立博物館で特別展「平安時代の彫刻」が開催されました。


昭和46年秋に開催された「平安彫刻展」図録昭和46年秋に開催された「平安彫刻展」図録
昭和46年秋に開催された「平安彫刻展」図録


【今でも、圧巻の仏像展として語り草に~「平安彫刻展」】


この「平安彫刻展」も、地方仏の魅力に惹き付けらることになった、忘れ得ぬ展覧会でした。
また、平安前期の一木彫像の圧倒的な迫力にふれ、ますます「平安前期好き」になってしまいました。

この特別展を若い頃に観たという方は、そう多くはいらっしゃらないのではないでしょうか?

50年近く前に開催された、昔の展覧会ですが、今でも、

「あの平安彫刻展は、すごい展覧会だった!」

と、語り草になっているのではないかと思います。

平安時代の仏像、それも平安前期の一木彫像を中心とした平安彫刻、なんと約100点もが一堂に展示されたのです。
仏像彫刻だけを、これだけの規模で集めて展示される特別展というのは、国立博物館でも初めてのことではなかったかと思います。

神護寺・薬師如来像、新薬師寺・薬師如来像などといった一木彫像が、「平安初期彫刻」とか「貞観彫刻」とか呼称され、その魅力が熱く語られるようになるのは、戦後になってからのことだと思います。

この特別展、通称「平安彫刻展」に立ち並んだ仏像を観て、多くの人が、
「平安前期の一木彫像の、圧倒的なパワーとか迫力」
に惹き付けられたのではないでしょうか。
平安前期一木彫像の魅力を、世に広く知らしめた展覧会として、「平安彫刻展」は、仏像ファンの記憶に刻まれています。



【思い切って、関西から泊りがけで「平安彫刻展」へ ~選りすぐりの地方仏も勢ぞろい】


この「平安彫刻展」のもう一つの大注目は、「地方仏」の出展でした。
日本各地の、魅力ある平安前期一木彫が、数多く出展されたのです。
選りすぐりの「平安古仏の地方仏」の勢ぞろいです。

この年の夏、東北みちのくの地方仏探訪旅行で、「地方仏の魅力」に感動、感激したばかりの頃です。
その興奮が、まだ冷めやらぬ時に、東博で「平安彫刻展」が開催されたのでした。

「この展覧会には、なんとしてでも出かけねばなるまい!!」

そう、勢い込んだのでした。

関西から、同好会のメンバ6~7人で、泊りがけで「平安彫刻展」に出かけることになりました。
当時は、関西から東博へ展覧会を観るために、わざわざ出かけるというのは、
「相当、思い切って出かける!」
という気分です。
貧乏旅行でしたから、たしか深夜バスで東京まで出かけたように思います。



【第一番目に展示の、香川 正花寺・菩薩像の魅力に、釘付けに】


朝早く、東京国立博物館の開館と同時に入場しました。

「平安彫刻展」が開催された東京国立博物館・本館
「平安彫刻展」が開催された東京国立博物館・本館

当時は、当然「平成館」はありませんから、特別展は「本館」での開催です。
本館1階の全フロアーを使って「平安彫刻展」は、開催されていました。
正面玄関を入って、右側の展示室が入口、第1室でした。
現在、「仏像彫刻」が平常陳列されている部屋です。

入口を入ると、いの一番の展示仏像は、香川県、正花寺の菩薩立像でした。

香川 正花寺・菩薩像(9C)~平安彫刻展図録掲載写真
香川 正花寺・菩薩像(9C)~平安彫刻展図録掲載写真

前に立った途端に、「眼が釘付け」になってしまいました。

唐招提寺・講堂木彫群の一つの伝衆宝王菩薩像にそっくりの仏像です。
「こんなに見事で出来の良い一木彫像が、香川の片田舎に残されているのか。」
と、ビックリです。

香川 正花寺・菩薩像.唐招提寺・衆宝王菩薩像(8C)
(左)香川 正花寺・菩薩像     (右)唐招提寺・衆宝王菩薩像(8C)

ふっくらと頬を張った顔立ち、口元をキリリと結んだ締りのある表情は、何ともたまらなく惹かれてしまいます。

香川 正花寺・菩薩像香川 正花寺・菩薩像
香川 正花寺・菩薩像

「顔面も膨らんだ胸のあたりも、木目が見事なまでにシンメトリーで、美しい弧線を描いている。」
このことが、たいへんに印象的でした。
木心を、ピタリとど真ん中に持ってきた、真っ直ぐの良材を使っているのだと思います。

仲間たちと、図録と首っ引きで、
「あーだ、こーだ」
と、夢中に話をしている間に、1時間ぐらいがあっという間に立ってしまったように思います。



【第一室展示の仏像だけでも目を奪われるラインアップ
~平安前期の地方仏優品、中央作名品が、目白押し】


正花寺・菩薩像の隣には、愛媛県北条市、庄部落の菩薩像が置かれていました。

愛媛 庄部落・菩薩像(9C)~平安彫刻展図録掲載写真
愛媛 庄部落・菩薩像(9C)~平安彫刻展図録掲載写真

愛媛 庄部落・菩薩像愛媛 庄部落・菩薩像
愛媛 庄部落・菩薩像

粗野ながらも、骨太で筋肉質、2メートルを超える偉丈夫の像です。
夏に探訪した東北の地方仏の雰囲気とは全く違う空気を感じます。
大陸風というか異国風というか、のびやかで雄大なインパクトで迫ってきます。


振り返ると、部屋の斜め後方、反対側には、福島会津、勝常寺の薬師三尊像、三重、慈恩寺の阿弥陀如来立像、新潟佐渡、佐渡国分寺の薬師如来坐像が並んでいました。

夏の東北地方仏探訪で、緊張感でコチコチになって、本堂で正座したまま、ろくすっぽ観ることなく終わってしまった、勝常寺の薬師如来像が出展されているのです。

会津 勝常寺・薬師如来像~「平安彫刻展」図録掲載写真会津 勝常寺・薬師如来像
会津 勝常寺・薬師如来像~(左)「平安彫刻展」図録掲載写真

今度は、ノビノビとした気分で、前から、横から、斜めから、これでもかというぐらいじっくりと薬師像を眺めまわしました。
今更ながらに、「みちのく随一の傑作仏像」を堪能することができました。

佐渡国分寺の薬師如来像は、豊かな量感で堂々たる像なのですが、やや鈍いような重みというか、ドッシリとかズングリという言葉が似合う像です。

佐渡国分寺・薬師如来像~「平安彫刻展」図録掲載写真佐渡国分寺・薬師如来像
佐渡国分寺・薬師如来像~(左)「平安彫刻展」図録掲載写真

平安前期の迫力・量感というより、北陸の素朴で粘り強く辛抱強いといった気風を、そのまま顕しているようで、
「佐渡や越後の気候風土を、象徴しているような仏像だなあ。」
との印象を強くしました。

まさに、平安前期の地方仏の代表選手ともいえる優品デレゲーションに、唯々、目を奪われ、心惹き付けられたのでした。

三重 慈恩寺・阿弥陀如来像
第1室に展示されていた三重 慈恩寺・阿弥陀如来像

第1室には、ご紹介した地方仏の優品だけではなく、中央の平安初期名作像もいくつも展示されていました、

元興寺・薬師如来像、橘寺・日羅像、興福寺東金堂・広目天像、観心寺・聖観音像、
室生寺弥勒堂・釈迦如来像、秋篠寺・十一面観音像、東寺講堂・梵天像

といった処です。

今振り返ってみても、スタートの第1室の展示から、ものすごいラインアップだったなあと思います。
朝一番に入館したのに、あっという間に時間が経ってしまい、「第1室」を観ただけで、とっくにお昼を過ぎてしまいました。
展示は、なんとまだまだ「第9室」まで、あるのです。



【丸々2日間、居続け、見続けた「平安彫刻展」~今では考えられない情熱、気力】


一泊二日、マル2日間、東京国立博物館「平安彫刻展」にべったりと居続けました。
昼飯もそこそこに、唯々、立ち並ぶ仏像に見入ったのでした。

あんなに一生懸命に展覧会を観たのは、後にも先にも、この「平安彫刻展」の時しかなかったと思います。

「学生時代で若かった、同好の6~7人で出かけた、どれもこれも魅力あふれる仏像で感動の連続であった。」

ということもあろうかと思うのですが、よくあんなに長時間、展覧会を見続けられる気力や、情熱があったものだと思います。

齢を取った今では、展覧会を見るのは、1時間ちょっとがいいところ、どんなに長くても腰が痛くて2時間が限界という処です。
しんどくて、気力が続きません。

平安彫刻展に出品された、そのほかの地方仏の主だったものだけをご紹介しておきますと、次のようなものでした。

大阪勝尾寺・薬師三尊像、山梨大善寺・薬師三尊像、兵庫普門寺・千手観音像、
静岡箱根神社・万巻上人像、三重普賢寺・普賢菩薩像、福井長慶院・観音菩薩像、
福岡浮嶽神社・如来像、岩手黒石寺・伝慈覚大師像、神奈川日向薬師宝城坊・鉈彫り薬師三尊像、
神奈川弘明寺・鉈彫り十一面観音像、滋賀善勝寺・千手観音像、福岡観世音寺・トバツ毘沙門天像・馬頭観音像


兵庫 普門寺・千手観音像三重 普賢寺・普賢菩薩像
(左)兵庫 普門寺・千手観音像 (右)三重 普賢寺・普賢菩薩像

神奈川 宝城坊日向薬師・薬師如来像....神奈川 弘明寺・十一面観音像
(左)神奈川 宝城坊日向薬師・薬師如来像 (右)神奈川 弘明寺・十一面観音像
~共に「平安彫刻展」図録掲載写真~


ご覧いただいただけでも、なかなかすごいライアップであったことがお分かりいただけることと思います。



【ますます地方仏の魅力にハマって、地方仏行脚へ】


この夏の、東北みちのく地方仏探訪旅行に続いて、平安彫刻展で平安前期一木彫と地方仏の持つ魅力、引力をたっぷりと見せつけられました。
ますます、地方仏に魅入られ、ハマっていくという感じがしました。

「もっと、もっと、魅力ある地方仏を観てみたい。」
「地方仏が祀られている、現地まで訪ねて行ってみたい。」
「仏像が生きてきた、その地方、土地の風土を、直に感じてみたい。」

そんな思いが、強くこみ上げてきました。
それから一年半ぐらいの間に、全国各地の地方仏探訪行脚にせっせと出かけることになったのでした。



【「平安彫刻展」企画の倉田文作氏が、展覧会場に】


「平安彫刻展」では、こんなこともありました。

展覧会場で、倉田文作氏に出会ったのです。

倉田文作氏
倉田文作氏
倉田文作氏の名前は、ご存知の方も多いことと思います。
長らく文部省で文化財調査、保護に努めた日本彫刻史の専門家で、奈良国立博物館の館長もされた方です。
「仏像のみかた~技法と表現」(第一法規刊)や、至文堂刊の日本の美術「貞観彫刻」をはじめ、多くの著作でもよく知られています。

当時は、東京国立博物館の学芸部長で、この「平安彫刻展」の企画、推進に自ら当たっていた方です。

私たちは、別に、倉田文作氏と面識などあるわけではありません。
著作の本の掲載写真で、顔を知っているというだけでした。

展覧会場に、倉田文作氏らしき人がいるのを、誰かが見つけたのです。

「あそこにいるのは、倉田文作じゃないか?」
「うーん、確かにそうだ。」

と、仲間内でヒソヒソ話をしていました。

倉田氏は、この展覧会の思い入れが強く、しょっちゅう会場に顔を出されていたようなのです。
こんなエピソードが、後年「倉田氏の逝去を偲ぶ回顧文」に残されています。

「文化庁から東京国立博物館の学芸部長に迎えられたとき「平安彫刻展」が行われた。
これこそは自分の専門と倉田さんは大いに張り切った。
自ら作品を選び、仏像を抱きかかえ、陳列台を動かし、照明を調整し、と文字通り陣頭指揮である。
開会してみるとこの展覧会はまた大入りである。
倉田さんは部長室ではなく、会場受付に毎日出勤した。
土曜の午後も日曜もである。
求められれば会場内での解説も喜んでする。
その心はすべて『平安彫刻展』に奪われていたのである。」
(「倉田文作館長を偲んで」西川杏太郎著・文化財五十年を歩む~竹林社刊所収)

まさに、この回想文のような感じで、倉田文作氏は、展覧会場にいたのでした。



【ちょっとミーハー気分で、倉田氏からもらった “サイン”】


その時、小脇には、「平安彫刻展の図録」と、倉田氏著の「貞観彫刻」(日本の美術・至文堂刊)を抱えていました。
思い切って、声を掛けました。

「倉田先生でしょうか? アノー、この本に、サインをいただけるでしょうか?」

と、二冊の本を差し出したのでした。
倉田氏は、一瞬、面食らったような顏をされました。
タレントやスポーツ選手でもないのに、いきなりサインが欲しいといわれたのですから。
それでも、一生懸命そうな学生からお願いということで、すぐににこやかな表情になって、

「ハイハイ、いいですよ。サインですね。」

と、たいへん気持ちよく、2冊の本にサインをしていただきました。
関西からわざわざやってきた学生達ということで、好感をお持ちいただいたような気もします。

これが、その時に、倉田文作氏から頂いたサインです。

「平安彫刻展」図録

「平安彫刻展」図録にいただいた倉田文作氏のサイン
「平安彫刻展」図録 と いただいた倉田文作氏のサイン

倉田文作著「日本の美術~貞観彫刻」至文堂刊「貞観彫刻」にいただいた倉田文作氏のサイン
倉田文作著「日本の美術~貞観彫刻」 と いただいたサイン

今から振り返れば、ミーハーそのもので、本当に気恥ずかしくなってしまうのですが、その時は、
「あの倉田文作からサインをしてもらった!!」
と、有名タレントのサインをもらったような気分で、嬉しくなったのを覚えています。


それから、50年近くが経ち、もう半世紀も前の昔話になってしまいました。
今でも、懐かしく思い出されます。



「平安彫刻展」は、その後数限りなく訪れた仏像の展覧会のどれよりも、

「心に深く刻まれた、忘れ得ぬ展覧会」

となっています。

また、

「平安前期一木彫像の魅力に惹き込まれ、地方仏探訪への情熱をかきたてた展覧会」

になりました。


古仏探訪~回想の地方仏探訪③  「岩手 水沢・黒石寺」  【2018.4.28】


黒石寺の薬師如来像。

50年近く前、その魁偉な異貌を、眼の前に拝した、強烈なインパクトと感動は、今もこの眼に焼きつき忘れられません。

はじめての地方仏探訪旅行で、

「黒石寺の薬師像と出会ったこと。」

これが、私を地方仏巡りの世界に誘い込んだ、そして、その魅力にハマってしまった、記念碑的な出会いであったと思います。

黒石寺・薬師如来像(貞観4年~862年銘・重要文化財)

黒石寺・薬師如来像(貞観4年~862年銘・重要文化財)
黒石寺・薬師如来像(貞観4年~862年銘・重要文化財)



【みちのく地方仏の代表格、貞観4年銘のある黒石寺・薬師像】


ご存知の通り、黒石寺の薬師如来像は、貞観4年(862)の墨書銘が残されています。

我国9世紀平安初期彫刻の中で、唯一の年紀の記された在銘像です。
何故だか、東北みちのくの辺境の地に遺されているのです。

それよりも何よりも、注目されたのは、都の仏像とは全く違う、威嚇的で恐ろし気な特異な容貌をしていることでした。
まさに「みちのくの地方仏」の代表格として語られる平安古仏です。



【お寺を管理する渡辺さん宅に泊めていただいた、黒石寺探訪】


黒石寺を訪ねたのは、昭和46年(1971)の8月のことです。

当時は、黒石寺はご住職がいない無住のお寺で、お寺のそばにお住いの渡辺熊治さんが管理をされているとのことでした。
教育委員会から、そのように教えてもらいました。

渡辺さんのお宅にご連絡をして、拝観のお願いをしました。

「前日、水澤駅あたりの宿に泊まって、10人ほどで、朝一番でそちらへ伺いたいと思っているのですが・・・・」

「へえー、学生さんたちで、関西からわざわざやってくるの?
ここまでのバスも一日何本もないから、そういうことなら、皆で我が家に泊まったらどうですか。
是非、そうすれば良いよ。」

「本当に泊めていただいてよろしいのですか。
それでは、お言葉に甘えて・・・・・・」

こんな具合で、厚かましくも、渡辺さんのお宅に泊めていただくことになったのでした。

黒石寺は、岩手県奥州市水沢区黒石町という処にあります。
水沢の駅から、一日2~3本しかないバスに乗って黒石寺に向かいました。
バスに30分ほど乗って、黒石寺に到着したのは、もう夕暮れ時だったように思います。

渡辺熊治さんのお宅は、黒石寺のすぐそばにありました。
大きなお宅でした。
10人ほどの大勢で押し掛けたにも関わらず、ご家族の方には、本当に心づくしのお世話になってしまいました。
夕飯まで用意いただいて、都会から来た学生だということで、ハムエッグやカツなどをわざわざ作っていただいたように覚えています。

お世話になった渡辺熊治老
お世話になった 渡辺熊治 老
お寺を管理されている熊治さんは、「みちのくの古老」といった感じで、7~80歳ぐらいのおじいさんに見えました。
地元では、「熊んつぁん」と呼ばれているようです。
「熊んつぁん」から、いろいろと話しかけられるのですが、生粋の東北なまりで、何を言っているのかほとんどわからないのには往生しました。

黒石寺の昔話などを、いろいろ聞いたように思います。
そのうちに「熊んつぁん」が、大きな声で
「〇×△~~ 〇×△~~」
と何度も話すのですが、何を言われているのかサッパリわかりません。
どうしたらいいのかドギマギしていると、お嫁さんがやってきて、
「お爺さんが、お風呂に入れ、と言ってるんですよ」
と教えてくれました。

見ず知らずの学生たちに、心温まる歓待をいただきました。
大変な面倒をおかけしてしまったのですが、只々、渡辺家の皆さんに甘えるだけで、何のお礼もせずに、タダ乗りしてしまったように思います。
学生とはいえ、あまりに常識のないことで、振り返ると恥ずかしきばかりです。



【朝陽降り注ぐなか、魁偉・異貌の薬師像と対面~発散するオーラに衝撃的インパクト】


翌朝、「熊んつぁん」に伴われて、黒石寺に向かいました。

真夏でも、早朝は、ひんやり清々しさが漂っています。
朝陽が降り注ぐ中、朝露に濡れた夏草をかき分け踏みしめて、階段を上ります。
薬師堂の隣に、コンクリート造りの収蔵庫があり、薬師如来像はそこに祀られていました。

黒石寺・薬師堂
黒石寺・薬師堂

薬師如来像が安置される、黒石寺収蔵庫
薬師如来像が安置される、黒石寺収蔵庫

「熊んつぁん」が、錠前に鍵を入れてガチャリと開け、鉄の扉がギーッと開かれました。
黒ずんだ姿で、堂々たる体躯の薬師如来像が眼に入ってきました。

黒石寺・薬師如来像
堂々たる体躯の黒石寺・薬師如来像

強烈なインパクトです。
なんといっても目を見張るのは、特異な顔貌です。

「荒々しく大粒の螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、尖るように突き出した唇。」

尋常ではない、怖い顔です。

黒石寺・薬師如来像
威嚇的で魁偉な顔貌の黒石寺・薬師如来像

人を威嚇するような恐ろしげな顔で、周囲を畏怖するのに充分な面貌です。
こんな顔で睨まれると、本当に、足がすくんでしまいそうです。
呪術的というのでしょうか?魔力的というのでしょうか?
異様なオーラとしか言いようがありません。

この薬師如来像が「魁偉な異貌」であることは、写真を見て、一応は判っていた筈だったのです。
でも、本物を直に眼前に拝した驚きは、そんなものではありませんでした。
その姿は、イメージをはるかに超えた、衝撃的なものでした。
発散する迫力がビンビンと伝わってきて、その場に立ち尽くしてしまいました。

昭和46年訪問時に撮影した黒石寺・薬師像の写真

昭和46年訪問時に撮影した黒石寺・薬師像の写真

昭和46年訪問時に撮影した黒石寺・薬師像の写真
昭和46年訪問時に撮影した黒石寺・薬師像の写真
この迫力に感激しました



【「蝦夷を威嚇する守り神として造られた薬師像」という話に、心より共感】


こんな、都にはみられない威嚇的な顔貌の仏像が、みちのくの地で造られた訳は、このように考えられているということです。

「当時、東北の開拓にあたり、蝦夷と厳しく対峙した人たちが、その前進基地において、その脅威に立ち向かい、蝦夷を威嚇する頼りになる仏像を、守り神として造ったに違いない。
黒石寺のある地は、陸奥の国府よりまだ北辺、前進基地の胆沢城のすぐ近くに位置する。
それ故に、誰もが畏怖するような、恐ろし気な容貌の仏像を造ったのだ。」

この薬師像のお顔を観ていると、この話が、本当に真に迫ってきます。
この地の開拓にあたった人々が、いかに蝦夷を恐れ、ひたすら神仏の加護に頼り、戦々恐々とした毎日を送っていたかが判るような気がしてきました。

厳しいみちのくの地の切羽詰まった限界状況の中で、この黒石寺の
「蝦夷に対する恐怖を振り払い、威嚇する仏像」
にひたすら安寧を祈った人々の姿が、思い浮かぶようです。

このような造像背景というのが、真実なのかどうかは判りません。
しかし、この魁偉で威嚇的な薬師像の前に立ち、みちのくの辺北の地に、何故、特異で魁偉な顔貌の薬師像がつくられたのかに思いを致すとき、
私たちは
「なるほど!そうに違いない!」
と、心よりの共感、深い感動を覚えたのでした。



【忘れ得ぬ感動と感激~地方仏の魅力に引き込まれる】


奈良、京都の見事な造形の美しい仏像しか観たことがなかった私には、衝撃的な出会いでした。
粗野というのか、決して上手い出来の仏像という訳はありません。
そんなこととは関係なく、発散するオーラはものすごくて、強烈なインパクトに圧倒されてしまいました。

感動しました。感激しました。

東北、みちのくの地まで訪ねて来て、「熊んつぁん」のお宅に泊めていただいて、早朝、朝陽降り注ぐ中で薬師像を拝したというシチュエーションも、黒石寺・薬師像との出会いの感動を、大きく増幅したのかもしれません。

このみちのくの辺北の鄙の地に、この仏像があったからこそ、その凄さに惹き込まれてしまったのでしょう。

もし、この仏像に、奈良と京都で出会っていたら、
「造形バランスが崩れ気味の、出来の悪い、気味悪い顔の仏像」
としか、感じなかったのかもしれません。

これこそが、「地方仏の魅力」と云って良いものなのでしょう。



【地方仏巡りにハマる、「記念碑的出会い」となった黒石寺・薬師像】


黒石寺の薬師像と出会って、「生きている仏像」「風土と共に生きる仏像」といった言葉が、心の中を駆け巡りました。
この感動の出会いが、地方仏の魅力にハマってしまう「心の原点」になっているように思います。
その後、私たちは、全国各地の地方仏探訪旅行に、せっせと出かけることになるのですが、私にとって、
そのエネルギーの原点は、
「『熊んつぁん』宅に泊まって、朝陽降り注ぐ中、黒石寺・薬師像に出会ったこと。」
であったように思います。

まさに、「記念碑的出会い」となったのでした。


薬師如来像のほかには、同じ収蔵庫に祀られる永承2年(1047)の墨書銘がある伝慈覚大師像や、薬師堂の古様でアクの強い四天王像などを拝しました。
四天王像も、これまた惹き付けるオーラのようなものを、強く発散していました。

黒石寺・四天王像(昭和46年探訪時に撮影)

黒石寺・四天王像(昭和46年探訪時に撮影)
薬師堂に祀られる黒石寺・四天王像(重文)~昭和46年探訪時に撮影
本尊薬師像と同時期の制作ともみられている


朝早くからの拝観でしたが、アッという間に数時間が経ってしまいました。
まもなく、乗り逃がせないバスが来てしまいます。
お世話になった、渡辺熊治老とお家の方々に、心よりの感謝をしつつ、後ろ髪を引かれる様な気持ちで、黒石寺を後にしたのでした。



【見違えるようにきれいで立派になった黒石寺~30余年後の再訪】


黒石寺を再訪したのは、それから30余年後のことです。
その後は、何度か、この薬師像に出会いに、この地を訪ねました。

黒石寺に到着して、目に入る風景が、様変わりになっているのには、ビックリしました。
はじめて訪れた時、草がぼうぼうと生い茂り、ちょっと荒れたお寺のようになっていたのがウソのようです。

立派な寺観に整備された黒石寺
立派な寺観に整備された黒石寺

大型バスが何台も止ることができる大きな駐車場が整備されており、門前には、立派な茶店が建てられて、土産物なども並べられています。

黒石寺の門前にある茶店・土産物店
黒石寺の門前にある茶店・土産物店

お堂に向かう石段や、境内も、見違えるように整備されていました。
黒石寺の蘇民祭も随分有名になりましたし、みちのく古寺巡りの観光スポットになっている様子です。

私たちが初めて訪れた頃、昭和40年代の黒石寺の風景の写真を見つけました。
「写真でたどる奈良国立博物館のあゆみ」(2015年・奈良国立博物館刊)に、たまたま昭和40年代の黒石寺の写真が掲載されていたのです。

昭和40年代の黒石寺の様子~「写真でたどる奈良国立博物館のあゆみ」(2015年・奈良国立博物館刊)掲載
昭和40年代、我々が訪れた頃の黒石寺の様子の写真
茫々の草叢で、少し荒れた様子が伺える
「写真でたどる奈良国立博物館のあゆみ」(2015年・奈良国立博物館刊)掲載写真


現在の黒石寺の景観~昭和40年代写真と同じ場所を撮影

現在の黒石寺の景観~昭和40年代写真と同じ場所を撮影
現在の黒石寺の景観~昭和40年代写真と同じ場所を撮影
昔とは見違えるよう


ご覧いただくと、あまりの様子の違いに、驚かれるのではないかと思います。

今は、女性のご住職がいらっしゃって、拝観の案内、ご説明をいただきました。
大変、気さくで、歯切れのよい方で、いろいろお話を伺いました。
当地のご出身で、東京の大学を卒業し、昭和50年代からご住職をつとめられてということです。
「熊んつぁん」のことも、よく覚えていらっしゃいました。

薬師如来像も、ゆっくりと拝観させていただきました。


魁偉な顔貌の薬師如来像の前に座って、その姿を拝していると、

「若き日の、記念碑的出会い」

の感動が、なつかしく思い出深く、蘇ってきました。


古仏探訪~回想の地方仏探訪② 「福島 会津・勝常寺」  【2018.4.14】


【はじめての地方仏探訪旅行~東北、みちのくへ】


「生きている仏像たち」の本に触発されて、地方仏探訪に初めて出かけたのは、東北、みちのくの地方仏巡りでした。

そして、最初に訪れたお寺、皮切りのお寺が、会津の勝常寺でした。
昭和46年(1971)の夏、今から50年近くも前のことです。
古寺探訪の同好会のメンバー10人ほどで、出かけたのでした。

この、いの一番に訪れた勝常寺での薬師如来像のご拝観は、私にとっては、本当に、

「忘れがたき地方仏拝観体験」

となりました。

会津 勝常寺・本堂
会津 勝常寺・本堂

勝常寺・薬師如来坐像(平安前期・国宝)
勝常寺・薬師如来坐像(平安前期・国宝)


その思い出話を、ご紹介します。

東北、みちのくの仏像探訪旅行では、次のような古寺古仏を訪ねました。

・福島県では、会津・勝常寺、宇内薬師、
・山形県では、山形市・吉祥院、
・宮城県では、栗原市築館・双林寺、
・岩手県では、平泉・中尊寺、毛越寺、水沢・黒石寺、江刺・藤里毘沙門堂、北上・立花毘沙門堂、花巻東和町・成島毘沙門堂、二戸・天台寺

といった処です。
今では、東北の仏像探訪の定番となっているような処ばかりです。


何しろ、学生の貧乏旅行ですから、汽車と路線バスを乗り継いで、あとはテクテク徒歩という旅行です。
一日に2ヶ寺ぐらいを訪ねるのが精一杯、これらの古寺を、一週間以上かけて巡りました。

当時は、これらの仏像の観に訪ねてくる人など、めったになかったころの話です。

どこのお寺を訪ねても、

「こんなところまで仏像を観に来るなんて、物好きな人もいるものだ。」
「関西の遠方から、よくぞ、こんな東北の辺鄙な田舎までやってきたねえ。」
「ゆっくり、好きなだけ仏像を観て、済んだら教えてもらえれば。」

といった、歓迎ムードで、ノビノビ自由に拝観させていただきました。



【夜行列車で福島・会津へ~第一番目に訪ねたのが勝常寺】


ところが、会津の勝常寺の場合は、そうではなかったのです。
初めての地方仏探訪で、第一番目に目指したお寺でした。

関西から東京までは新幹線で行ったのか在来線で行ったのかもう覚えていませんが、上野からは夜行列車に乗って、福島会津に向かいました。
夜行の急行は、座席も硬くて、誰もがほとんど一睡もできずに朝を迎えました。

会津若松の駅で降りて、バスに乗り、最寄りのバス停から20分ほど歩いて、勝常寺に到着したような記憶があります。

勝常寺は、「福島県河沼郡湯川村勝常」という処にあります。
会津若松駅の北東10キロぐらいのところです。

ご存知の通り、勝常寺には、本尊の薬師三尊像をはじめ、10躯以上の平安前期の見事な古仏像が遺されています。

勝常寺・薬師如来像

勝常寺・薬師如来像~脇侍勝常寺・薬師如来像~脇侍
勝常寺・薬師三尊像(平安前期・国宝)

勝常寺・四天王像~増長天像(平安前期・重文)
勝常寺・四天王像~増長天像(平安前期・重文)

勝常寺・十一面観音像(平安前期・重文)
勝常寺・十一面観音像(平安前期・重文)

薬師如来像は、奈良風の名残を残しながら、堂々たるボリューム感と迫力で、まさしく平安初期の魅力を存分に発散させている名像です。
大同2年(807)に、会津に恵日寺を建立した南都仏教の名僧、徳一ゆかりの仏像ではないかともいわれ、地方仏というのには相応しくないような、素晴らしい傑作です。
平成8年(1996年)、東北地方の仏像では初めて国宝に指定されました。

その
「東北随一の傑作仏像、勝常寺の薬師如来像を観ることができる。」
と、
期待に胸を膨らませて、早朝の勝常寺までの道を歩んだのでした。

一面田んぼが広がる田園風景の中の、集落の杉木立の中に勝常寺のお堂はありました。

勝常寺のある会津盆地の田園風景
勝常寺のある会津盆地の田園風景

お住いの方の玄関の前に立つと、丁度、NHKの連続テレビドラマのテーマソングが流れるのが聞こえてきました。
朝早く8時ごろに伺ったのだと思います。

昭和46年に訪れた時の勝常寺・本堂
昭和46年に訪れた時の勝常寺・本堂



【想定外の緊張感でコチコチに固まった、ご本尊薬師像の拝観】


少しばかり寝ぼけ眼で、ご拝観お願いの声をかけて、お待ちしていました。

しばらくして現れた年配のご住職は、
「若造たちが、何をしに来たのか。」
という感じの、厳しい表情です。
ちょっと怖い感じなのです。

事前に手紙で、拝観のご了解を得てはいたのですが、
「何か気に障ることでもしたのだろうか?」
とドギマギしてしまいました。

想定外の緊張感が走り、一瞬にして目が覚めました。
そして、私たちは、コチンコチンに固まってしまいました。

なんとなく、お気楽ムードで、Tシャツジーンズのラフスタイルの我々を見て、ご住職の眼には、チャラチャラした若者達が、遊び半分のディスカバージャパン気分でやって来たように、映ったのかもしれません。

なんといっても、全く経験のない、初めての、地方の古寺の仏像拝観です。
これまでは、決められた拝観料を払えば自由に拝観できる、奈良京都のお寺しか訪ねたことがなかったものですから、突然カウンターパンチを食らったようなものでした。

とにもかくにも、薬師如来像が祀られる、本堂にあげていただきました。

一同正座してドギマギしていると、ご住職からの第一声は、
「あなた達は、ここへ来るのに、どんな本を読んできたのかね。」
でした。
検事に、取り調べの詰問をされているような気分です。

もうひたすら恐れ入って、
「あのう・・・東北地方の仏像についてかかれた本とか・・・・
ええーと、あのその、久野健とか、佐藤昭夫という人が書かれた論文などを、読んできましたが・・・・・・」
と、蚊の鳴くような声で、答えました。

「なるほど・・・・オーソドックスですね。」

と、厳しき表情が緩んで、その場の雰囲気が、かなり和みました。
やっとのことで、チャラチャラと物見遊山でやってきたのではないということだけは、わかっていただいたようです。

それから読経が始まり、お厨子の扉が開かれ、几帳が上げられて、薬師如来像を拝観させていただくことができました。
しかし、なんとなく、立ち上がって仏像を観たり、動き回ったりするのが、許される雰囲気ではなく、その場に正座したまま、拝観しました。

恐る恐る
「写真を撮らせて頂いてよろしいでしょうか?」
と訊ねると

「早く撮りなさい」

と、叱られているように言われ、
写真担当のM君は、三脚を立てるのも緊張でおぼつかなく、震える手でシャッターを切ったのでした。

昭和46年に訪れた時撮影した、勝常寺・薬師如来像の写真

昭和46年に訪れた時に撮影した、勝常寺・薬師如来像の写真

昭和46年に訪れた時に撮影した、勝常寺・薬師如来像の写真
昭和46年に訪れた時撮影した、勝常寺・薬師如来像の写真
緊張の中で撮影したせいか、ちょっとピンボケの写真になっています


それでも、眼前の薬師如来は、キリリと締まった顔で、どっしりとした威圧感と迫力を、厨子の中から伝えて来ました。
引き締まった小作りの口元と、大粒の螺髪が印象的で、頼り甲斐ある秘めたる力を感じさせます。
なんといっても「みちのく第一の傑作」といわれるほどの優作仏像であるというのは、私たちにも感じることができました。

本尊の薬師如来像を拝した後は、隣のコンクリート造りの収蔵庫に祀られた仏像を拝させていただきました。
本尊の両脇侍の日光月光菩薩像をはじめ、四天王像、聖観音像、十一面観音像、地蔵菩薩像など十数躯の平安前期の古仏が安置されています。

勝常寺の収蔵庫内の日光月光菩薩像~昭和46年撮影

勝常寺・十一面観音像~昭和46年撮影
昭和46年撮影の勝常寺収蔵庫内の写真
(上)日光月光菩薩像、(下)十一面観音像


こちらの収蔵庫の拝観の方は、空気もだいぶ和んできて、ご本尊よりはゆっくり観ることができました。



【決して忘れ得ぬ地方仏初体験となった、勝常寺のご拝観】


そんなピリッとした空気感の中で、とにもかくにも、勝常寺の拝観を終えたのでした。

ご住職とお別れした後は、緊張の糸がほどけて、ホーッとして、ちょっと大げさに言うとヘナヘナとよろけそうな気分になったのでした。
あとから振り返ると、ご住職は、きっちりとした対応をされただけで、特別に厳しくということでもなかったのでしょうが、ちょっとお気楽気分であった我々の方が、面食らってしまったということなのかもしれません。

「地方の古佛を拝観するというのは、こんなにもシンドイ、緊張する事なのだろうか?
こんな調子が続くのだったら、参ってしまって、これから持たないかも?」

「あの時、何の本も読まずに、フラッと来ましたって答えたら、開帳してもらえなかったかも?」

私たちは、こんな言葉を交わしながら、ため息交じりに、帰りのバスが来るのを待っていたのでした。

「地方の古寺を訪ねて、仏像を拝観するというのは、こんなに気疲れするものなのだろうか?
これから先が思いやられる。」

という気分の、初体験の地方仏探訪のスタートになったのでした。



【三十余年後の勝常寺再訪~今度はゆったり、じっくり、ご拝観】


それから、三十余年経ち、平成14年(2002)に、勝常寺を再訪しました。

平成14年、再訪したときの勝常寺本堂
平成14年、再訪したときの勝常寺本堂

中年の奥様に、拝観のご案内をいただきました。
大変気さくな方で、話も弾みました。

「30年以上前の昔、学生の時にお伺いしたときは、ご年配のご住職で、結構怖かったのですよ。
読んできた本を聞かれたりして、随分緊張して拝観させていただきました。」

と思い出話をすると、

「私は、こちらに嫁いできたのですが、その時、会われた住職は義父ですね。
きっと、そうだったのでしょうねえ、なかなか、厳しい方でしたから。
想像がつくような気がしますよ。
いまは、バスで団体さんが見えますし、ふらりと来られた方にも、ご本尊の拝観は頂いてるんですよ。」

と、おっしゃっていました。

そして、今回は、ゆったりとした和やかな気分で、じっくりといろんな角度から薬師如来像を拝観することができ、その素晴らしさを、今更ながらに実感することができたのでした。


50年近く前の、初めての地方仏探訪で、第一番目に訪れた「勝常寺」。

今でも、地方仏探訪の話になると、この時の緊張感あふれた観仏のことが回想されます。

「地方探訪初体験、懐かしく忘れ得ぬ、会津勝常寺の思い出」

でした。


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