観仏日々帖

トピックス~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅱ」仏像の手の話④  【2017.5.20】


前回は「弥勒菩薩の指折り事件」を、振り返ってきました。


【弥勒菩薩の指は、もともと頬に触れていたのか?】


ここからは、広隆寺・弥勒菩薩の指の話の、もう一つのテーマ

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのか?」

という話に入っていきたいと思います。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

今、頬から少し離れている弥勒菩薩像の中指は、制作当初は、実は頬に触れるように造られていたのではないか、という話です。

例えば、中宮寺の弥勒菩薩像の指は、頬にしっかり触れているのです。
広隆寺の像も、指が頬に触れるように、木屎漆(乾漆)のモデリングによる盛上げが、顔の頬の方にも、指先にも、なされていたのではないかという見方があるのです。



【現代人の感性にマッチする、弥勒菩薩の瞑想美、繊細な指先~近代の後補?との見方も】


今、私たちが観る、広隆寺・弥勒菩薩の指は、得も言われぬ美しさを感じるものです。

か細い繊細さが、美しい魅力の弥勒菩薩像の指
「か細い繊細さ」が、美しい魅力の弥勒菩薩像の指

シャープに鼻筋の通った瞑想と微笑みの表情も魅力的ですが、あの、か細く繊細に過ぎるような指先に魅了されたという方も、多いのではないでしょうか?

「微笑みに添えられる、指先の繊細美」

と表現しても良いのかもしれません。
現代人の美の感性にマッチしているのでしょう。

こんな造形感覚は、飛鳥時代には考えられない。
現代人の手になる手指に違いない、弥勒菩薩の右の手指は後補なのではないか?
と、云われたことことがありました。

久野健氏は、木彫家の後藤良氏(昭和32年・1957没)から、このように聞かされたことがあると語っています。

「あの広隆寺の弥勒の右手は、飛鳥時代のものではなく、明治になって作ったものだろう。
あの手は、ブールデルの彫刻の手を知っているものでなければできない。
おそらく明治・大正にかけて仏像修理に活躍した明珍恒男君が、修理の時に新しく作ったものではないか。」
(久野健著「仏像」1961年・学生社刊)



【X線調査で、飛鳥時代当初の指と判明】


この謎は、昭和31年(1956)に行われたX線撮影調査で明らかになりました。
あの、か細く繊細な指は、間違いなく、飛鳥時代、制作当初のものであったのです。

広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

X線撮影をしたのは久野健氏ですが、頬杖をつく右手まで本体と一木から刻み出されていることが明らかになったのでした。
頭部の縦に通った木目が、手や指までも連続して通っていたのです。
ただ、人差し指と小指とは、後世の補作となっていました。

広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


あの細い指先までも、縦目を目切れのままで彫り出しているため、非常に折れ易く、「指折り事件」で、ほんのちょっと触れただけも折れてしまったようです。

それにしても、あの手の指は、ちょっと特異といって良いほどに、か細く、華奢で、

「飛鳥時代の仏師は、本当に、今の姿のように指を彫ったのだろうか?」

と、疑問を残すものでもありました。



【西村公朝氏の問題提起「当初は指先が頬に触れていた?」~飛鳥白鳳の半跏思惟像の、多くの作例と同じ】


この問題に、一つの新たな見方を投げかけたのは、美術院の西村公朝氏でした。

西村氏は、

・弥勒像の指先だけでなく、顔面、上半身にも、制作当初は木屎漆の盛上げ(モデリング)が施されていたに違いない。

・指先も、顔貌も、現在に比べて、もう少しふっくらしたものであった。

・今、頬との間に隙間が空いている中指は、元々は頬に触れるように造られていたと思われる。

と、いうのです。

西村氏は、いろいろな著作の中で、このことに触れていますが、最も詳しく述べているのは、

「広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察」  東京芸術大学紀要第4号1968.3

という論文です。

西村氏は、弥勒像の制作技法や当初の姿の推定などについて言及していますが、その中で、特に注目した一つの事実は、

「広隆寺・弥勒菩薩の指が、頬に触れていない」

ことでした。

飛鳥白鳳時代のかなりの半跏思惟像は、指が頬に触れているのに、広隆寺・宝冠弥勒像は指が離れているのです。
指先と頬との隙間は、約7ミリあるそうです。
中宮寺の弥勒菩薩像は、頬にわずかに窪みが造られ、中指で頬を押しているように造られています。

中宮寺・菩薩半跏像

指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像
指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像


四十八体仏と呼ばれる、法隆寺献納宝物中の丙寅銘半跏思惟像の指も、頬に触れています。

法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている
法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている

そして、広隆寺・宝冠弥勒像と瓜二つと云われる、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の指も頬に触れています。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている

一方で、四十八体仏には、指が頬に触れていない像も、複数みられるのも事実ですので、必ず頬に触れているとはいえるものでもないようです。
なお、広隆寺のもう一つの弥勒像、泣き弥勒と云われる宝髻弥勒像の指は頬から少しだけ離れているのですが、この指先は後補なので、制作例に入れては考えにくいということです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補



【木屎漆で盛上げられていた指先と頬~半木心乾漆像か?】


広隆寺・宝冠弥勒像の指が、ここに挙げた作例と同じように、制作当初は頬に触れていたとすると、当初は乾漆、木屎漆で頬に触れるように盛上げられていたに違いないのです。

西村公朝氏は、弥勒像の各部の造形や彫り口などを検証し、像の顔部、上半身を中心に乾漆、木屎漆の盛り上げがなされていたと推定しています。
半木心乾漆像とでも言ってよい造形だったことになります。
西村氏が推定した、当初の乾漆の盛り上げ状況は、ご覧のようなイメージです。

西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


西村氏は、中指の方に2~3ミリ、頬の方に4~5ミリの乾漆の盛り上げがなされて、現在の約7ミリの隙間を埋めていたと推定しています。



【ちょっとアンバランスに感じる、現在のプロポーション】


たしかに、この弥勒菩薩像の前に立ち、その姿をじっと眺めていると、プロポーションが何処かしらアンバランスなのに気が付きます。

広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

胸の辺りが扁平、細身で華奢、下半身と上半身とがうまく釣り合っていないようにみえます。
細かいところでは、左手の甲がこそげたように窪んでいますし、左指には爪が彫られているが右指には爪が彫られていないのです。

広隆寺・宝冠弥勒像~手の甲がこそげたように窪んでいるか細い指の広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒像~左手の甲がこそげたように窪んでいる、か細い指の右手

このことも、一部に乾漆の盛り上げが行われていたことを裏付けているものと思われます。

実は、この像が造られた時の姿は、顔から胸にかけて、木屎漆で盛上げられて、お顔も身体も、もっとふっくらとして、豊かなボリュームがある仏像であったようです。
そして全身に金箔が置かれ、金色に燦然と輝いてたのでしょう。

現代人を魅惑する、細くて繊細な指も、実は、もう少し太く膨らみがあるように造られていたのでしょう。
そして、

「弥勒菩薩の指は、頬に触れていた」

そのような可能性は、十分に考えられるといって良いのかもしれません。



【もともとの弥勒像の姿を想像させる明治の修理前古写真~ふっくらとした表情】


それでは、広隆寺の弥勒菩薩像、元々は、どのような姿に造られていたのでしょうか?

制作当初を、想像させてくれる、明治時代の貴重な写真が残されています。
この弥勒菩薩像は、明治36年(1903)に、美術院の手で修理、修復されているのですが、その修理前の写真です。

一つは、明治34年頃にとられた、弥勒菩薩像の修理前写真です。

明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


もう一つは、久野健氏が古書店から入手したという、明治修理以前にお寺に祀られていた時の写真です。

久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真
(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)


写真を一見して感じられたと思いますが、現在の姿とずいぶん雰囲気が違います。
現在の姿と較べると、顔の表情が、「おおらかでふっくらした感じ」というか「ぼんやりとしたというか、茫洋とした表情」をしているのです。



【朝鮮仏の表情にそっくりな、明治修理前石膏型のお顔】


明治の修理前に、頭部の石膏型を抜いたものが残されているのですが、その顔を見ると、益々その実感があります。

明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

率直に云って、朝鮮仏の面相の雰囲気に、すごく似ているのです。
瓜二つと云われている、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の顔の表情と見較べてみると、本当に「そっくり」です。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

現在の、広隆寺弥勒像の顔よりも、格段に類似しているのは、間違いありません。

現在の広隆寺・弥勒像の顔貌は、両眉が秀でて鼻筋が通り、両眼もくっきりした形をして、理知的で清楚な気品を漂わせるものを感じます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像


そこに醸される雰囲気は、日本的な造形感覚を思わせるものがあるのです。
ところが、明治の修理前には、如何にも朝鮮風の表情を思わせる造形であったようなのです。

弥勒像の造形は、現代人の感性に通じるものがあるとか、近代彫刻を知るものでないと、あの指を造形するのは無理だといわれたことがあるという話は、先にご紹介しましたが、制作当初の造形感覚とは、ちょっと違っていた可能性があるのです。
明治の修理の結果、弥勒像の見た目の印象が、かなり変わってしまったのかもしれません。



【明治36年に修理されている弥勒像~朝鮮風の風貌に変化があったのだろうか?】


明治36年の修理の時は、虫喰いなどで崩れそうになった木地を押さえるなどの処置をしたそうなのですが、その修理の折に、顔の表情の造形などが、当初のものと変わってしまったのだと指摘する見方もあるのです。

この像の表面は、明治修理の当時は相当に傷みやつれていたようです。
辻本干也氏は、弥勒像の修理にあたった一人の藤村新次郎氏から、その苦労話をこのように聞いたと語っています。

木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
「随分虫食いがひどくて、手で押さえたらポコッとヘッ込んでしまうような状態にあった。
その修理を、私がやったんだ。
いま残っている、だれもが木目だと思っているあのあしゃれた素地も崩れかかっていて、木の虫が食った穴へ木屎漆を丹念に詰め込んで、木目が残っている感じを表したものだから、いま古い木目がように見えてているところは、私が苦労して復元していったものなんだ。」
(辻本干也・青山茂共著「南都の匠~仏像再見」1979年徳間書店刊)


大変な苦労のあった修理修復であったようなのですが、この修理の時に、修理担当者が削り直しなどの思い切った改変をしてしまったので、朝鮮風の表情から、現代風ともいえる今の表情に変わってしまったのだ、ともいわれています。。

多くの専門家が、大なり小なりこのような見方をしているようですが、なかでも、大変手厳しいのは安藤更生氏です。
安藤氏は、広隆寺弥勒像の修理態度について、このような批判を語っています。

明治の修理に際しては、

・本来、顔がふっくらしていたのを、相当思い切った削り直しをしている。

・鼻の側面は、鎬が経つほど削り直している。

・眉毛の線も、右眉の傷みを削ったために、傷んでいない左眉も、調子を合わせて削った。

などと指摘したうえで、

「今日とは時代が違うので、当時の工人としては最上と思う方法を施したつもりかもしれないが、なお疑問が僕の心の底に残るのは何とも仕方がない。」
(安藤更生著「南都逍遥」国宝修理譚の章所収~1970年・中央公論美術出版刊)

と、当時の修理に疑問を呈しています。

この他にも、指や顔などに盛り上げられた乾漆(木屎漆)は、いつの時代にか、はがれてしまったのか、あるいは人為的にはがされたのではないか?
人為的にはがしたと考えられるのは、その方が日本人の好みに合うからだという推論まであるそうです。

明治修理の時に、どの程度の修正が加えられたのか、よく判りませんが、広隆寺の弥勒菩薩像が、現在よりもはるかに朝鮮風の雰囲気、風貌した仏像であったというのは、間違いのない事実のようです。



【朝鮮半島での制作と云われている宝冠弥勒像~我が国で用いられないアカマツ材と判明】


広隆寺・宝冠弥勒像は、朝鮮風どころか、実は朝鮮半島で制作されたのではないかという説が有力であることは、皆さんよくご存じのことと思います。
今更ここでご説明することでもないのですが、そのエッセンスだけ触れておこうかと思います。

そもそも、広隆寺宝冠弥勒像は、韓国に類似像があることから、朝鮮半島作の可能性が云われていました、
昭和26年(1951)の小原二郎氏の科学的調査によって、宝冠弥勒像の用材が、「アカマツ」であることが判明しました。
我が国の飛鳥白鳳期の木彫像は、例外なく「クスノキ」で造られています。
朝鮮半島では、クスノキは一般に産しないこと、アカマツは朝鮮では通例用いられる用材であることから、朝鮮半島作に違いないといわれるようになったのでした。

ただこの考えに異論もあります。
弥勒像の腰から下につけられた綬帯・垂飾紐と、背中の内刳りの蓋板の用材に「クスノキ」が使われているのです。
そして、このクスノキの部分は、制作当初の時代のものと見られのです。

広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用
広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用

となると、朝鮮で造られた像が渡来した後に、欠損等となっていた綬帯、蓋板を日本で補ったと考えることもできますし、朝鮮半島から用材だけが日本に運ばれ、我が国で帰化系工人などの手で制作されたので、一部にクスノキが使われているのだという見方もできるわけです。


いずれにせよ、弥勒菩薩像は用材からみても、朝鮮半島の要素が極めて色濃い仏像であることは確実です。

宝冠弥勒像が、
もし飛鳥時代の当初の造形、風貌をもっと色濃くとどめていたならば、
もう少し太い指、ふっくらとした顔貌で、朝鮮風の雰囲気が強い像であったならば、
現代人の心に残る美しい仏像として、多くの共感や支持を得たであろうかと思うと、ちょっと複雑な気持ちになってしまいます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

「弥勒菩薩像の指は、頬に触れていたのか?」

という話なのに、指は後補なのかという話、乾漆盛上げの話、明治の修理のやり方の話、用材がアカマツの話など、随分、様々な話に立ち至ってしまいました。

単なる「指が頬に触れていたのか?」というテーマが、意外にも、いろいろな問題に絡んでいることを、再認識させられることになりました。

「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」という話で、「弥勒菩薩の指折り事件」と「指は、頬に触れていたのか?」というテーマを、長々と綴ってしまいました。

魅惑の広隆寺・弥勒菩薩像にまつわる話の実像、真実に踏み込むといったような話になりましたが、こんな話はさておいて、やはり、広隆寺の弥勒菩薩像は、日本人の心に残る仏像として、我々を魅了し続けてくれることに変わりないことでしょう。




【追 記】


ご紹介した、「弥勒菩薩の指の話」に、ご参考になる本を、1冊だけ、ご紹介しておきます。
広隆寺・宝冠弥勒像を採り上げた本は、沢山あるのですが、今回のテーマにかかわる話が、一番まとまってわかりやすく語られた本だと思います。

「シンポジウム~美の秘密・二つの弥勒菩薩像」 1982年 日本放送出版協会刊 【229P】 3800円

「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊

35年も前に出た古い本ですが、このテーマにご関心のある方には、必読といってもよい、面白く興味深い内容です。

同名のNHKテレビの特殊番組から発展して開催されたシンポジウムの内容等を編集、構成して単行本化したものです。
シンポジウムに参加した、上原和、田村圓澄、小原二郎、西村公朝、山田宗睦の各氏の共著となっています。

二つの弥勒菩薩像とは、広隆寺の宝冠弥勒像と、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像のことです。
宝冠弥勒像の用材、造像技法、修理復元の問題、韓国国立中央博物館像との関連などが詳しく論じられています。
「第1章・二つの弥勒菩薩像」の目次詳細を、ご参考までにご覧ください。

「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次
「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次



ついでに、これ以上にご関心のある方には、西村公朝氏の論文、

広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察(西村公朝)東京芸術大学紀要第4号1968.3

が、お薦めです。
西村公朝氏の名前は、多数の著作で、よくご存じのことと思いますが、国宝、重文級の仏像の修理修復にあたる、美術院国宝修理所の所長を長く務めた仁です。

広隆寺弥勒像の造像技法について調査研究し、本像が準木心乾漆像と云ってもよい仏像と云えること、乾漆の盛り上げにより指と頬が触れていたと考えられること、歪んだアカマツ材からの特異な木取り法などについて、詳細に論じられています。



なお、本文ではふれませんでしたが、同じく仏像修理、技法研究者の山崎隆之氏は、
広隆寺・宝冠弥勒像は、一部に塑土が盛上げられた、部分的な木心塑像であったのではないかという見方を示しています。
上半身はきれいなやすり目で仕上げられるのに対して、下半身を覆う裾の部分は荒いノミ跡を残していることから、この下半身の裾の部分に塑土を盛り上げていたとみられる。
上半身は、木彫のままで完成段階とみるべきである。
と述べています。

山崎氏の見方は、西村公朝氏のいう上半身木屎漆盛り上げ説と全く逆ということになります。
何が当初の真実であったのかは、本当に難しく、判らないものです。

山崎氏の考えは、次の本の中で述べられています。

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著 2010年 学研新書 【275P】933円

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著・学研新書 

「天空から注がれる慈悲のまなざし~広隆寺弥勒菩薩半跏像」の章のなかで述べられています。
この本は新書版ですが、一読に値する、大変興味深いお薦め本です。


トピックス~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅰ」仏像の手の話③  【2017.5.5】


広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

我が国を代表する、飛鳥時代の仏像です。

「好きな仏像は?」
と人に訊ねれば、必ずといって良いほどその名があげられる、心に残る美しき仏像として、知られています。

シャープに鼻筋の通った瞑想の表情と共に、木の素地の肌をそのままにした「飾らぬ美しさ」が、多くの人々の心を魅了してやみません。
現代人の悩みや苦しみを吸い取ってくれるような、哲学的な美しさを感じる人も多いのではないでしょうか?



【弥勒菩薩の指をめぐる二つの話~指折り事件と、指先は頬にふれていた?】


さて、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」といわれれば、どなたもこの事件のことが思い浮かぶのではないでしょうか。

「弥勒菩薩の指折り事件」です。

当時の京大生が、広隆寺弥勒像の指にふれて、薬指を折ってしまったという事件です。
昭和35年(1960)の出来事で、大変な大騒ぎになりました。
もう、60年近くも前の事件なので、ご存じない方も結構いらっしゃるのかもしれません。

「弥勒菩薩の指折り事件」は、新聞ニュースを賑わす大事件として採り上げられました。
世界各国のニュースになったということです。
仏像の指がたった一本折れただけというのに、それほど大騒ぎになったというのは、広隆寺の弥勒菩薩像が、我が国を代表する、美しく、魅力あふれる国宝仏像の傑作として、誰もが認めるところであったからなのだと思います。


「弥勒菩薩の指にかかわる話」として、もう一つ、挙げておきたいのは、

「弥勒菩薩の指先は、もともと頬に触れていたのだろうか?」

という疑問です。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている
広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている

ご覧の通り、広隆寺・弥勒菩薩の細い中指の指先は、頬から少々離れています。
飛鳥白鳳の半跏思惟形の像の多くは、指先が頬にしっかり触れているのです。

広隆寺の弥勒像も、
「制作された当初は、指先は頬に触れるように造られていたのではないか?」
という議論です。

当初は、指と頬に、木屎漆が盛上げられて、ちゃんと接触していたのが、木屎漆が剥げ落ちて、現在のような姿になっているのではないか、という見方があるのです。


今回の、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」は、この「指折り事件」と「指先は頬に触れていたのか?」という話を、採り上げてみたいと思います。



【広隆寺・宝冠弥勒像の魅力を存分に引き出した、小川晴暘の写真】


ちょっと話はそれますが、指が折れただけで大変な大騒ぎになるほど、国民的に超有名な仏像になったのは、飛鳥園・小川晴暘が撮った美しい写真の力によるところが大きいのだそうです。

小川晴暘撮影の写真をご覧ください。

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真.飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真
飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

小川晴暘が、この黒バックの写真を撮ったのは大正末年頃です。
この写真が、宝冠弥勒像の魅力を引き出し、世に名を押し上げたのです。

弥勒像の斜め向き上半身を撮影した写真で、鼻筋が通って、瞑想にふける清楚な気品をたたえた表情、細く繊細でしなやかな指を、見事にとらえたものです。
黒バックのなかから浮き上がる、弥勒像の美しさ、魅力は、流石、小川晴暘ならではの世界です。
今でも、観る者の心が、思わず吸い込まれてしまうかのようです。



【宝冠弥勒像の国民的人気を創り出した立役者は、写真家・小川晴暘】


大正13年(1924)に、飛鳥園発行の古美術研究誌「仏教美術」の」創刊号の巻頭に、この焼き付け写真を載せられました。
これが、世に、広隆寺・弥勒像の魅力が広められ、圧倒的人気を博するようになる、大きなきっかけになったともいわれているそうです。

実は、それまでは、広隆寺の宝冠弥勒像は、さほど有名な仏像ではなく、むしろ、同じ広隆寺の泣き弥勒と呼ばれている宝髻弥勒像(乾漆像)の方が、よほど知られていたようなのです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像

安藤更生氏は、その頃の思い出をこのように語っています。

「太秦の広隆寺には弥勒が二体あるが、宝冠を被っている大きい方の弥勒は、近頃は『国宝第一号』などという寺の宣伝文句で大変な有名な像になっているが、僕があの像を上野の帝室博物館の彫刻室で見たのは、大正4、5年ごろだったから、それ以前から上野に出ていたのだろう。
・・・・・・・・・
その頃はあまり顧みる人もなかったし、当時の図録類にも余程特殊なものにしか出ていなかったから、あの像の美的価値に気づいた人も少なかったことだろう。

あの像が有名になったのは、震災後(注:関東大震災・1923年)に寺に戻され、小川晴暘君が美しい写真を撮ってからのことである。」
(安藤更生著「南都逍遥」1970年中央公論美術出版刊所収)


ドイツの哲学者、カール・ヤスパース(1883~1969)が、広隆寺の弥勒像を評して、

「此の廣隆寺の佛像には、本當に完成され切った人間『實存』の最高の理念が、あますところなく表現され盡している。」

と、絶賛したというのは有名な話です。
この弥勒像の名を、大いに世に高らしめることになったのですが、ヤスパースは、弥勒像の実物を見たのではなくて、この小川晴暘の写真を見て語った話なのだそうです。


晴暘の子息、小川光三氏も、この弥勒菩薩の上半身の写真について、

「古美術写真専門の『飛鳥園』で販売している各種の仏像写真のなかでも、この写真の依頼が最も多く、春や秋の観光シーズンになると、その注文に追われて、何百枚もの焼付を作る日が続いたものです。
その数は、大きな引き伸ばしから小型のキャビネ写真まで、今までに焼き付けた数を総合すると、おそらく百万に近い枚数に達しているに違いありません。
・・・・・・
このような超ロングセラーの写真は、例がないのではないでしょうか。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)

と、その人気の高さの思い出を語っています。

小川晴暘こそ、広隆寺の弥勒菩薩を広く世に出し、この仏様に魅了される数多くのファンを創り出した立役者と云えるのかもしれません。



【広隆寺・弥勒菩薩の、指折り事件を振り返る】


ちょっと横道にそれましたが、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」の第一のテーマである、「弥勒菩薩の指折り事件」とは、どんな事件だったのかを、振り返ってみたいと思います。

事件が起きたのは、昭和35年(1960)8月18日のことでした。

弥勒像は、今祀られているのと同じ霊宝館に安置されていましたが、午後1時頃、弥勒菩薩の薬指が折れてなくなっているのに、案内人が気が付いたのでした。
きっと、大騒ぎになったのだと思います。

その日の夕刻、京都大学3回生の学生が、自分が指を折ったと警察に自首しました。
監視人がいなかったのを幸いに、勝手に台に上がって弥勒菩薩にさわり、指に触れて折ってしまったということでした。
折れた指は、三つに欠けてしまっていまっていました。



【大きく事件を報道した、新聞各紙】


この「指折り事件」、先程来ふれてきたように、あまりに有名で美しい国宝・弥勒菩薩像の指が折られたという事件でしたので、新聞各紙も、大きく報道しました。

朝日、読売、毎日の三大紙の報道記事をご紹介すると、ご覧のとおりです。


新聞記事の文章の一部をご紹介します。

一番詳しいのが朝日新聞です。

広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊

「国宝『弥勒菩薩』の右手の指を折る 京都広隆寺 学生いたずら」

京都右京区太秦、広隆寺霊宝殿にある国宝、木造弥勒菩薩像の右手クスリ指が第一関節あたりから折られ、三つの破片になって落ちているのを十八日午後一時ごろ案内人が見つけ、びっくりした清滝英弘貫首から京都府教委文化財保護課と太秦署に届けた。

指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
同課からの連絡で文部省文化財保護委員会の西川新次技官、奈良美術院国宝修理事務所の辻本干副所長が十九日、京都府教委文化財保護課の中根金作技師らと調査し、ほぼ元どおりに修理できることが分かったが、太秦署の調べで拝観の学生のいたずらが原因とわかり、国宝の維持管理に大きな警告を与えている。

事故をみつけた日の夕京大法学部学生A(20)が、川端署に自首し、太秦署で身柄不拘束のまま文化財保護法違反の疑いで調べたところ、十八日午後一時ごろ友人と二人で弥勒菩薩を見にきて、監視人がいなかったのでイタズラ心を起こし、台に上がったとき、左ほおが像の指にあたり、ポトリと落ちた。
驚いて三つに折れた指を霊宝殿から外に持ち出して捨てようとしたが、思いかえして像の足もとにおいて逃げ帰った。
「有名な弥勒さんにホオずりしたことを友だちに自慢するつもりだった」
といっている。
・・・・・・・・・・・・・
弥勒菩薩の指をこわした京大生は下宿先で次のように話した。
弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
金パクがはってあると聞いていたが、木目も出ており、ホコリもたまっていた。
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。


毎日新聞の記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊

「折れた弥勒菩薩の右手指 京大生、持帰る」

・・・・・
同署では捜査中十八日夕方、・・・京大法学部三年生・・・が、私が弥勒菩薩の指を持ちかえった”と届出た。
・・・・・・
調べによると十八日午後一時ごろ友だちと二人で同菩薩を見物に行った時、あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ左ほおが指に触れ折損してしまったのでポケットに入れて持ち帰ったといっている。
なお折られた指は、・・・君が十八日川端署へ提出したので太秦署で保管しており、近く京都府教委文化財保護課が修理する。


読売新聞記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊
広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊

「国宝弥勒菩薩の指を折る 京大生が自首」

・・・・・・・・・
同署で捜査中、午後四時三十分ごろ川端署へ左京区吉田下大路町京大法学部三回生A君(20)が折れた指さきの破片二個を持って自首した。
A君は
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際、ホオが像の右手に触れ折った。破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾った」
と自供。
同署では帷子ノ辻付近で残りの破片を全部見つけた。


以上が、「弥勒菩薩指折り事件」の新聞報道のエッセンスです。



【弥勒菩薩の指にふれた動機の真実は~美しさに心酔した故ではなかったのか?】


この記事を読んで、「アレッ?」と思いました。
京大生が、弥勒菩薩の指に触れた動機が、3紙ともそれぞれ違うのです。

私は、
「弥勒菩薩の美しさに心酔し、頬に触れキスしようとして、指を折った。」
と、思い込んでいたのです。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

大学生の青年が、この像の美に魅惑され、思いが募ったあまりの行為だったと思われている皆さんがほとんどではないでしょうか。
いろいろな本などにも皆、そのように書かれていたような気がします。

例えば、西川杏太郎氏も、このように記しています。

「この像を拝観したひとりの大学生がその美しさに見とれ、思わず壇の上にかけ上がってキスしようとし、この像の大切な薬指を折ってしまったという事件がおこり、その頃の新聞をにぎわしたことがありますが、むかしレオナルド・ダ・ビンチの名画『モナリザ』の謎の美に魅惑され、恋をした青年がいたという話を想い出させるような事件です。
この大学生も、そんな謎の美しさをこの弥勒像に見出したのかもしれません。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)



【新聞各紙で何故か違う、指にふれた訳、動機】


ところが、事件発生当時、
「あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ」
と報道しているのは、読売新聞だけで、

毎日新聞は、
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際」
としています。

朝日新聞は一番詳しく、直接取材により、本人が語った話として、

「弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
・・・・・・
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。」

と報道しています。

本人に直接取材したという朝日新聞記事が、信頼性がありそうな気がしますが、この「指折り事件」が発生したときの、弥勒菩薩像に触れた心の動機の真実は、いかがなものだったのでしょうか?
弥勒像が期待外れでイタズラ心が起こったのか、美しさに心酔したからなのか、よく判りません。

「弥勒像のあまりの美しさに魅せられて・・・・」

青年の思いが募って起こした事件という話のほうが、なんといってもロマンティックです。
そんな動機だったといわれるようになったことが、弥勒菩薩の美しさを、ますます神話化していったようにも思えます。



【折れた指が戻されたいきさつも、各紙報道はまちまち】


記事を読んで、もう一つ疑問に思ったのは、
「折れた指は、どのようにして回収されたのか?」
という話です。

どうでもよい、些細なことですが、ちょっと興味がわいてきました。

ご紹介の新聞3紙は、それぞれ全部違っています。

朝日新聞は、「三つの破片になって、(仏像の傍に)落ちているのを案内人が見つけた」

毎日新聞は、「ポケットに入れて持ち帰り、自首した際に警察に提出した」

読売新聞は、「破片2個を持って自首した。本人は、破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾ったと自供、警察が帷子ノ辻付近で、残りの破片を全部見つけた。」

このように、全部まちまちです。


実は、加えて、もっと違う話もあるのです。
この弥勒像の折れた指を元通りに修復した、西村公朝氏が語っている思い出話です。

「(本人は)指先をポケットに入れて外に出た。
外に出たが落ち着かない、
それで近くのバスの駐車場に捨てた。
この時3センチくらいの指先が三つに割れて飛び散ったのである。
下宿に帰ったがなお落ち着かない。
友人や先生に相談の結果、寺に謝りに来た。
たちまち大騒ぎになって、この断片を拾い集めるのに半日もかかった。」
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号1975年)


実際に指の修理にあたった美術院の西村公朝氏の話が、一番詳細で具体的なのですが、真実の処は、よく判りません。
むしろ、ほぼ同時に報道しているのに、一つの事実が、よくこれだけ違っているものだと、そちらの方に、感心してしまいました。
新聞報道されている記事というのは、間違いない事実と思い込んでしまいそうですが、意外にそうでもないようです。

本当に、些末なことで、どうであろうと何の影響もないのですが、資料を調べていて、ちょっと面白かったので、ご紹介してみました。



【美術院の手で見事に修復された、三つに折れた指】


三つに折れた弥勒菩薩の薬指は、早速、美術院国宝修理所の手で修理されることになりました。

美術院所長の西村公朝氏、辻本干也氏等3人によって、修理に着手され、約一か月後の9月12日に修復が完了しました。
折れた指の接着には麦漆を使い、付けた部分に古色付けが施されました。

三つに折れた弥勒像の薬指
三つに折れた弥勒像の薬指

修理前写真~薬指が折れた写真.修理完了後写真~三つに折れた薬指が修復された
(左)薬指が折れた修理前写真、(右)薬指が修復された修理完了後写真
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号所載)


広隆寺・弥勒菩薩の指
広隆寺・弥勒菩薩の指

西村公朝氏は、修理の思い出を、このように語っています。

「かけつけた私達三人の修理者は、必死になってこの作業にあたった。
折られた傷口を、絶対わからないように接合せねばならない。
そして、少々のショックにもたえられるよう強固にしておかねばならない。
多くの仏像を修理してきた私達できえ、これほど小さな部分で、全神経を使った作業はなかった。
一週間闘にやっと直ったときには、実にうれしかった。
しかも良くできたからである。」
(一本の指~広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像・仏像修理の想いで5)日本美術工芸436号1975年)


当時、この弥勒菩薩の指の修復は、相当の世の関心事であったようで、

「弥勒菩薩の修理始まる」
「弥勒菩薩の修復なる」

といった、新聞記事が掲載されたりしています。

広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)
広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)

弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)
弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)


「弥勒菩薩の指折り事件」を振り返る話は、この辺にしておきたいと思います。


次のテーマ、

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのだろうか?」

という話については、「その2」で、ふれていきたいと思います。


トピックス~想定外の興味深い仏像に沢山出会った「京博の仏像展示」  【2017.4.27】


【「海北友松展」を目指して、京博へ】


4月の中旬、京都国立博物館に「海北友松展」を観に行ってきました。

海北友松展ポスター

特別展主催者の意気込みの凄さが、直に伝わってくるような、充実した展覧会でした。

私は絵画の世界は何もわからなくて、
海北友松と云えば、「桃山時代画壇の巨匠?」ということ以上のことは全く知らなかったのですが、
その作品を眼前にして、「海北友松」という人の絵の素晴らしさを実感し、じっくり堪能してきました。

展示作品は、描かれた「線の強さ、厳しさ」に凄みを感じましたし、圧倒的な気迫や静かな緊張感を感じさせるもので、強く惹かれるものがあります。
当時では老境の60歳を過ぎてから、狩野派から独立し、初めて「海北友松」の名前が世に出るようになったいうことも知りませんでした。
よくぞこの高齢で、これだけの気迫と強さがこもった絵を描くことが出来たものだと、驚きと感動が込み上げてきた次第です。

満足、納得の素晴らしい「海北友松展」でした。



【想定外の沢山の興味深い仏像に出会い、ビックリ!】


今回の「海北友松展」は、普段平常陳列にあてられている平成知新館が会場となっていましたので、仏像の展示も無しということなのかと思っていましたら、仏像だけが1Fに展示されていました。

海北友松展の会場となった京博・平成知新館
海北友松展の会場の京博・平成知新館
通常、平常陳列の会場となっています


「海北友松展」を目当てに出かけたので、仏像については全く頭になかったのですが、特別展の隅で、小さくなっている「平常陳列の仏像」をのぞいてみると、

「これまた、ビックリ!」
でした。
私にとっては、興味深い仏像が、想定外に沢山並んでいたのでした。

ちょっと、ご紹介しておきたいと思います。

展示仏像のなかで、私の眼を惹いたのは、ご覧のような仏像です。

京博仏像展示のなかで、私の眼を惹いた仏像



【十数年ぶりの出会いとなった、二つの木心乾漆像~高山寺、神護寺の薬師坐像】


何といっても、一番の注目仏像だったのは、二つの木心乾漆像でした。
高山寺と神護寺の薬師如来坐像です。

本当に、久しぶりに見ることが出来ました。
この前に観たのは、いつ頃のことだったでしょうか?
少なくとも、ここ十数年はご無沙汰で、もっと間が空いているような気もします。

2躯共、京博に寄託されており、たまには展示されてるはずなのですが、
私には永らくのご無沙汰で、
「オー!出ているじゃないか!」
嬉しくなってしまいました。

共に天平末~平安初の木心乾漆像なのですが、意外に広くは、知られていないのではないかと思います。



【亀岡・金輪寺伝来の高山寺薬師坐像~脇侍は東博と東京藝大に】


高山寺の薬師坐像は、もともと丹波国神尾山金輪寺(現亀岡市)の本尊であったものが、故あって高山寺に移されたものと伝えられています。
そして、本像の両脇侍も現存しており、日光菩薩は東京国立博物館、破損している月光菩薩は東京芸術大学の所蔵となっています。

高山寺・薬師如来坐像
高山寺・薬師如来坐像(木心乾漆・天平末)

東京藝大美術館蔵・月光菩薩像~高山寺旧蔵東京国立博物館蔵・日光菩薩像~高山寺旧蔵
(左)東京藝大美術館蔵・月光菩薩像、(右)東京国立博物館蔵・日光菩薩像~共に高山寺旧蔵


両脇侍が、寺外に出たいきさつは、詳しく調べたことがないのでよく判りませんが、明治期のことであったのでしょう。

半月ほど前に、東京国立博物館に寄った時に、丁度、この日光菩薩像が展示されており、観てきたところでした。
天平末期の乾漆像にしては、キリリと引き締まった覇気のようなものを感じさせるところがある、立派な像です。

一度、三尊揃って、展示されるのを見てみたいものです。



【乾漆なのに、アクの強さに惹きつけられる神護寺薬師如来坐像】


もう一つの木心乾漆像は、神護寺の薬師如来坐像です。

神護寺・薬師如来坐像
神護寺・薬師如来坐像(木心乾漆・天平末~平安初期)


神護寺・薬師如来と云えば、ほとんどの人が、あの厳しい表情の一木彫立像のことだと思ってしまうのですが、実は乾漆の坐像もあり、京博に寄託されているのです。
この坐像の方の薬師如来像も、なかなか見どころのある魅力的な像なのです。

一見して、アクの強い個性的な表現の像です。
アンバランスなほどに大きく見開いた眼、大きな耳は、異貌というムードを醸し出しています。

神護寺・薬師如来坐像
神護寺・薬師如来坐像~顔部

抑揚豊かな衣文の表現も、粘りが強く、ちょっとくどいともいえるような感じがします。
何やら、呪術的な精神性が、籠められているようです。
木心乾漆像でありながら、このクセの強さ、洗練されていない迫力が、この像の魅力なのだと思います。

この異貌の顔の表現、見かけたことのない風貌です。
よく考えてみると、どこかで似たような雰囲気の像を見たことがあるなという気がしてきました。
去年見た、香雪美術館蔵の薬師如来像のことを思い出しました。

香雪美術館・薬師如来像
香雪美術館・薬師如来像~顔部

この像もアクが強くクセのある像です。
香雪美術館像の方は、随分田舎風で、出来の良さのレベルも随分と違いますので、較べてみるのも如何かと思うのですが、

「大きく見開いた眼、異様に大きく湾曲した耳、異国的風貌」

など、どこか似たような空気感というか、雰囲気を感じてしまいました。



【現在の、個性的な姿のなかに、埋め込まれていた天平風の乾漆像】


神護寺の薬師像は、実は、制作プロセスが、特異な像でもあるのです。
X線で透視撮影してみた処、この像の内部に、穏やかな天平風の木心乾漆像が埋め込まれていることが判明しました。

内に籠められた当初像は、体部の厚みも薄く、顔面シルエットからは、高山寺・薬師像、聖林寺・十一面観音像などと共通する造形感覚が想起されるものでした。
現在の像からは、一回り二回り小さな華奢な造形となっていました。

現存像は、その上から、ものすごく分厚く木屎漆を盛り付けて、古い乾漆像を芯にして、全く新しい乾漆像を盛り上げ成形したものとなっていたのです。
この際に、現在の、平安初期的要素の強い、アクとボリューム感のある表現に変えられたのでした。
この像を調査した本間紀夫氏は、当初像と表面像の間にさほどの年代差はなく、延暦期の近辺20~30年の範囲ではないかと述べています。

何故に、このように造り替えられたのかは、よく判りません。
神護寺の前身、高雄山寺ゆかりの像かもしれないとの見方もあるようです。

いずれにせよ、この神護寺・薬師坐像は、大変興味深い像です。
また、強烈な個性に、私は惹かれるものを感じています。
この像に偶々出会えて、想定外の歓びでした。



【「観仏日々帖」ご紹介の、魅力ある像にも出会う~阿弥陀寺・薬師像、般若寺・十一面観音像】


この他にも、いくつか、私の注目仏像が、展示されていました。

城陽市枇杷庄にある阿弥陀寺の薬師如来像が、出陳されていました。

阿弥陀寺・薬師如来像
阿弥陀寺・薬師如来像

1メートル弱の檀像風素木一木彫像ですが、その迫力は満点です。

「怖い顔、鋭い彫り口、発散する気、威圧する霊気」

こんなキーワードはあてはまる、平安初期彫像です。

阿弥陀寺・薬師如来像
威圧するように怖い顔貌の阿弥陀寺・薬師如来像

「木塊が、霊威を以て迫りくる」
こんな感じが受けるのです。

私が、強く惹かれるものを感じる一木彫像の一つです。
この観仏日々帖「京都府城陽市・阿弥陀寺の薬師如来立像」で、ご紹介したことがありますので、ご覧いただければと思います。


同じく、観仏日々帖「右京区嵯峨樒原高見町・般若寺の十一面観音像」京のかくれ仏探訪② で、ご紹介した仏像も出陳されていました。

般若寺・十一面観音像
般若寺・十一面観音像

この像も、たまに京博に出陳されるようなのですが、ちょうど運良く、出会うことが出来ました。

愛宕山の向こうの村落、右京区嵯峨樒原高見町という処にある平安古仏です。
愛宕山中の、凄い九十九折の怖くなるほどの山道を車で走って、やっと般若寺にたどり着いて、この像を拝したことを懐かしく思い出してしまいました。



【初めて知った、妙傳寺・十一面観音像(重文・平安中期)~古代朝鮮金銅仏発見でニュースになったお寺】


はじめて見たというか、その存在さえ知らなかったのが、左京区八瀬近衛町にある妙傳寺の十一面観音像です。

北区八瀬近衛町にある妙傳寺
北区八瀬近衛町にある妙傳寺

等身ぐらいの平安中期の木彫像です。
重要文化財に指定されているのですが、全く知りませんでした。
解説キャプションには、平安中期の代表的作例である遍照寺・十一面観音像に通じるものがある作風と書いてありました。
後世の手が入っているところもありそうですが、たしかに穏やかな平安中期風の木彫像です。

手元の資料を見てみたのですが、写真さえ見つけ出すことが出来ませんでした。
昭和年代の重要文化財リストには上がっていないようですので、平成になってから重文指定を受けた像なのでしょうか?

妙傳寺と云えば、今年の1月、

「朝鮮渡来、小金銅仏の発見~従来模古作とされていた半跏思惟像」

ということで、NHKニュースや新聞で大きく採り上げられた、あの妙傳寺です。

ニュースで話題になった妙傳寺・半跏思惟金銅仏像
ニュースで話題になった妙傳寺・半跏思惟金銅仏像

観仏日々帖でも「模古作とされていた京都妙傳寺の小金銅仏、実は古代朝鮮仏と判明?」で、紹介させていただきました。

「あの妙傳寺に、こんな重文指定の立派な平安中期仏像があったのだ。」

と、妙なところで感心してしまいました。



【妙傳寺・十一面観音像についての、追加の挿入です~2017.05.13】



この「観仏日々帖」にコメントをお寄せいただき、この平安中期の仏像のことが、はっきりしました。
この像は、従来「八瀬文化財保存会の十一面観音像」と云われていたものだとのご指摘、ご教示をいただきました。

「そうだったのか!」

と、膝を打つというよりは、

「この像が、八瀬文化財保存会・十一面観音像であることが、どうしてわからなかったんだろう?」

と、なんとも情けないというか、恥ずかしいというのが、偽らざるところです。

ご覧のとおりの仏像です。

妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像

妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像
妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像

この「八瀬文化財保存会・十一面観音像」なら、これまで、この京博の仏像陳列に展示されているのを、何度も、観たことがあるのです。

掛けて加えて、この前の回の観仏日々帖「三重県津市・光善寺の薬師三尊像の御開帳」で、この像の写真まで掲載して、

「六波羅蜜寺・十一面観音(951)⇒⇒⇒遍照寺(989)、八瀬文化財保存会・十一面観音という和様化流れの中にある像と位置づける、ということか・・・・」

と、書いたばかりなのでした。
遍照寺十一面観音像と並んで、平安中期観音像の典型例の一つとして知られている仏像なのです。


展示されていた「妙傳寺」十一面観音というのは、「八瀬文化財保存会」十一面観音のことだったのでした。
近年、所蔵者が「妙傳寺」に変わったということなのでしょうか?
以前は、「八瀬文化財保存会」として、展示されていたように思うのですが・・・・・・・
「妙傳寺所蔵」ということになったのだとしたら、その事情などについては、よく判りません。

それにしても、
「所蔵者名のキャプションが変わっただけで、展示されている仏像そのものが、何度も観た仏像なのかどうか、判らなくなってしまった。」
という訳です。

「自分の仏像を見る眼は、何だったのだろうか?」

と、つくづく情けなくなってしまいました。


ついでという訳ではないのですが、
この妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像のことについて、ちょっとだけ、ふれておきます。

この像は、昭和55~58年に行われた、京都市内の文化財集中地区総合調査の際、昭和56年(1981)に、その存在が確認されたものです。
長らく、八瀬の念仏堂と呼ばれる小堂に安置されていた像だそうです。
調査により、10世紀後半、平安中期の貴重な作例であることが判り、昭和59年(1984)、重要文化財に指定されました。

以来、京都国立博物館に寄託され、平常陳列に折々出展されている像という訳です。

そんな、何度も観た仏像を眼の前にして、所蔵者名が違っただけで、
「写真すら見つからなかった」
などと、思い込んでしまった次第です。


何卒、ご容赦ください。




【ほかにも興味深い仏像が、いろいろ出展】


これ以上、一つひとつご紹介するのは、長く、くどくなるのでもうやめておきます。


最近、京博にいつも展示されていますが、今年、新国宝に指定された、金剛寺の巨大な大日如来像、不動明王像。

新国宝になった金剛寺・大日如来像
新国宝になった金剛寺・大日如来像~金剛寺草創期1180前後の作

新国宝になった金剛寺・不動明王像
新国宝になった金剛寺・不動明王像~天福2年(1234)行快作


かつて北区・常楽院の所蔵で、新聞ダネになったような事件を経て、平成22年(2010)に文化庁が買い上げた、清凉寺式釈迦像。

文化庁・清凉寺式釈迦如来像~常楽院旧蔵
文化庁・清凉寺式釈迦如来像~常楽院旧蔵


普段なかなかお目にかからない、大原草生町保存会の藤原風の薬師如来坐像。

大原草生町保存会・薬師如来像
大原草生町保存会・薬師如来像


いつみても、鎌倉時代の檀像風彫刻の精緻さが美しい勝龍寺の十一面観音像。

勝龍寺・十一面観音像
勝龍寺・十一面観音像


こんなところが、眼を惹いた仏像でした。



「海北友松展」目当てで出かけた京博で、頭に全くなかった興味深い仏像に沢山出会えることとなりました。

いつも頻度多く、京博の仏像展示をご覧になっている方には、さほどに新顔仏像の登場という感はなく、また折々の顔見世という感じではなかったかと思うのですが、
私にとっては、本当に久方ぶりの、高山寺、神護寺の薬師坐像との再会とか、観仏日々帖で採り上げたいくつかの「見どころあるあるかくれ仏」の展示など、想定外に、嬉しく収穫のある「仏像展示」でした。


これらの仏像に、ご興味を感じられた方は、是非、海北友松展とともにご覧になってみることを、お薦めします。


「海北友松展」も、ご紹介の「仏像展示」も、5月21日までです。


トピックス~続・「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」仏像の手の話② 【2017.3.28】


【「興福寺阿修羅像1300年の新事実」という、興味深いTV番組が】



NHKテレビで「興福寺阿修羅像1300年の新事実」という番組が放送されました。

NHKテレビ「興福寺阿修羅像1300年の新事実」


ご覧になられた方が多いのではないかと思います。

観仏日々帖「仏像の手の話①」で、
「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」
というテーマを採りあげて間もないところで、タイムリーにも、この「興福寺阿修羅像1300年の新事実」というNHK番組の放送です。
見逃すわけにはいきません。

古舘伊知郎・井浦新・松下奈緒さんが、阿修羅像の新発見事実などの謎に迫っていくという、ドキュメンタリータッチの番組でした。
3/23のPM10:00から、75分間という長い時間の放送でしたが、私にとっては、なかなか興味深いいくつかの新事実を知ることが出来て、大変面白く愉しめました。

4/2のAM0:05から再放送があるようです、お見逃しの方は是非ご覧になってください。



【番組で、阿修羅像の合掌手問題の謎もテーマに】


番組の中では、
「阿修羅像は、合掌していたのか?」
という問題について、CTスキャン撮影調査研究の結果の話や、像内の心木の復元実験による検証がされていましたので、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報として、採り上げされていただくこととしました。

前話では、この問題について、朝日新聞が「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で CT画像解析」と題する記事を2/22に掲載し、
「合掌手とみるのが妥当、という研究結果が明らかになった。」
との報道があったことをご紹介しました。

朝日新聞記事「阿修羅の合掌ずれた?」
2017.2.22付、朝日新聞記事

短い新聞記事の内容だけでは、その判断根拠がよく判らなかったのですが、今回放送のNHK番組を見て、どうしてそのように判断されたのかよく判り、

「当初から合掌していたに違いない。」

という見方に、私なりに納得した次第です。



【「阿修羅像は合掌していたのか?」を検証する放送内容をご紹介】


そこで、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報として、NHK番組の放送内容を、ご紹介しておきたいと思います。

阿修羅像の謎解明の科学的データとなった、仏像のCTスキャン撮影は、7年前、2009年に東京国立博物館と九州国立博物館で開催された「阿修羅展」に際して、実施されたものだそうです。

阿修羅像のCTスキャン撮影の状況
阿修羅像のCTスキャン撮影の状況

研究チームは、0.2ミリ間隔で撮影した15万枚という膨大な量の画像をあつめて、8年にわたって解析してきたということです。

CTスキャン撮影による阿修羅像画像(頭から下を見る)
CTスキャン撮影による阿修羅像画像(頭から下を見る)

研究の結果、CTスキャンによる3次元画像から、いくつかの新たな事実が浮かび上がってきたのでした。

そのの一つとして、
「阿修羅像の第一手は、当初から合掌していたのか、持物を持っていたのか?」
という問題に、決着をつける諸事実が明らかになったというものです。

結論から云うと、先の新聞報道のとおり、
「阿修羅像は、合掌していたと考えて間違いはない。」
という検証成果を得たという内容でした。


【明治修理以前から、外開きになり正中線からズレていた、左手合掌手】


先の新聞報道を読んだ限りでの、私の疑問は、

・明治修理前の手先の折れた写真では、合掌手の左手の手のひらは、わずかに外開きになっているように伺え、このままの姿での合掌は難しそうに見える。

・現在の阿修羅像の合掌の手のひらが正中線からずれているのは明らかですが、明治の修理前写真でも、やはり正中線から少しずれているように見える。

という点でした。

明治修理以前の阿修羅像の写真(明治27年・工藤精華撮影)
明治修理以前の阿修羅像の写真(明治27年・工藤精華撮影)

この疑問にたいして、どのような研究、検証で、当初は合掌手に違いないという結論が導かれたのだろうかというのが一番の関心事でした。

TV番組を見て、私のこの疑問に対して、
「なるほど、そういうことなのですね!」
と納得する回答、説明をしてくれたように思えました。


放送内容をたどって、合掌手で間違いないと判断るに至った経緯と、根拠のポイントをご紹介したいと思います。

まず、明治修理以前の姿を古写真で検証すると、たしかに修理前の時点においても、左手のひらがやや開いて上向きとなり合掌していないように見えるとともに、修理前も正中線から左に寄っていることが判るという説明がありました。

ごらんの写真のとおりです。

明治修理以前の左手の手のひら~正中線からズレている状況

現在の阿修羅像の左手のCT映像~手のひらが左へ約2㎝ズレている
阿修羅像の合掌手が正中線からズレている状況
(上)明治修理以前の写真~左手のひらが少し上向きに開く
(下)現在の阿修羅像のCT画像~合掌手が約2㎝左へズレている




【左腕心木を留める釘が抜けて、脱臼状態になっていたのが、ズレの原因】


その事由について、研究チームの今津節生氏(奈良大学教授)は

「(左腕と肩の心木を留める) 釘が抜けた分だけ肩がずれ落ちてしまっている。
つまり肩が脱臼してしまっているような感じですね。」

と話しています。

阿修羅像の肩・腕の心木の映像~両肩を支える板に右腕は釘で留められているが、左腕は釘が無くなっている

左腕は釘止めが無くなり、脱臼したようになって固定されている
阿修羅像の肩・腕の心木の映像
~両肩を支える板に右腕は釘で留められているが、左腕は釘が無くなっている~


CTスキャン画像を見ると、両肩を支える板に腕の心木を釘で打ち付けて留めているのですがが、左肩の釘は、かつて抜けて無くなってしまっていたのでした。
ズレ落ちて左側に寄っている腕をそのまま固定したので、中心線からからズレてしまっているとともに、手のひらが開き気味になってしまったということです。



【CTスキャンデータによる心木骨組み再現で、合掌手の姿を検証】


そこで、制作当初の状態を再現するために、CTスキャンのデータに基づき骨組み(心木)を正確に再現して、本来の両手の姿をさぐることとなりました。
再現には、仏師で研究家の矢野健一郎氏があたりました。

再現に際して着目された、最も重要なポイントは、第一手の両肘の角度でした。
両肘部分は、制作当初からそのまま残っているものです。
計測した両肘の角度は、左右、全く同じ角度となっていました。

この前提のもとに再現した両腕の心木の先に、手の模型をつけて組み立て、当初の姿を検証してみたのです。
もし、合掌していなかったとすると、その可能性は、

両手のひらを開いて持物を捧げ持つようにしていたか、
右の手のひらに何かを載せて、左手は合掌手のような姿をしていたか

ということになります。



【制作当初の両肘は角度が左右同一、合掌以外のポーズは不可能】


検証結果は、次のようなものとなりました。

まず、左手です。
釘が抜け落ちていた左肩に、当初の釘痕どおりに脱臼したように外れていた腕を打ち付けると、手のひらの位置は中心に移動し、開き気味だった手のひらは、合掌に相応しく垂直となりました。

肩の釘痕の処に腕の心木を留めると、正中線で合掌の姿となった
左腕の心木を肩の釘痕の位置に止めた様子

左腕を肩の釘痕の処に腕の心木を留めると、合掌手はピッタリ正中線の処に来る明治修理前の阿修羅像も合掌手が左にズレ、手のひらが上向きに開いている
(左)左腕を肩の心木を留めると、合掌手はピッタリ正中線の処に来る
(右)修理前の合掌手は、左にズレ、手のひらが上向きに開いている


右手の方も、同じ肘の角度にぴったり合うように手首から先の手を付け、肩に打ち付けると、左手と同じように合掌手にしか成り得ないこととなりました。
今の肘の角度で、両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、両腕の幅は異常に狭まってしまい、不自然に過ぎてしまうし、肩と腕の心木の接合状況から、考えられないということなのだと思います。

両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、両腕の幅は不自然に狭まってしまう
両手のひらを開いて持物を持たせようとすると、腕の幅は不自然に狭まってしまう

左手は合掌手の形で、右手にものを載せるように、手のひらを開いたものに作ろうとすると、肘の造形を左の肘と角度が違うように造らざるを得なくなるということです。

手のひらを開いたものに作ろうとすると、左右の肘の角度を変えざるを得ない
右手のひらに持物を載せると、左右の肘の角度を変えざるを得ない

即ち、左手は、手のひらが開いて、何かを持つことだ出来るような状態で手が付いていないし、右手にものを載せようとすると左右の肘の角度が変わってしまうということです。

腕と肩の心木の当初の接合状況、両肘の角度を検証すると、合掌手以外の手の姿は、考えられないのであろうとの結論になるとのことでした。

当初の心木の接合状況を再現、復元すると、合掌手以外の姿は不可能
当初の心木の接合状況を再現、復元すると、合掌手以外の姿は不可能

番組では、この問題について、

「つまり1300年前、阿修羅像は体の正面で合掌していたのです」

という語りで、締めくくっていました。

合掌する阿修羅像
合掌する阿修羅像

「観仏日々帖」前話では
「阿修羅像は、合掌していたのかという疑問は、解消されたわけではないのでしょうか?」
とというフレーズで終えたのですが、
このTV番組を見て、私個人としては、当初から合掌していたということで間違いないのだろうと、納得した次第です。



【西金堂の阿修羅は、何故、合掌した姿なのか?】


ところで、そもそも激しい戦闘神、闘争神であるはずの阿修羅が、興福寺西金堂像では、

「何故、合掌の姿をしているのでしょうか?」

TV番組でも、このテーマを採り上げていました。

合掌する阿修羅像
合掌する阿修羅像

番組に登場した、万葉集研究の上野誠氏(奈良大学教授)は、このようなコメントを語っていました。

「阿修羅というのは極悪非道、戦争、つまり強いものの代表者なんですよね
その強いものの代表者が、ここにその合掌する。
・・・・・
それは、ある意味で感謝ですよね。
とか、尊いものに接したときの感動を表す一つの形ですよね

(ナレーション:飢饉や外国の脅威と直面した厳しい時代)

苦しい時代を生きていく人たちを励ます最大の祈りの形、造形物になっていくのかなというふうに。
見る人にとっては、そんな強い人だから合掌してくれたらと嬉しいよね。」


私には、阿修羅像の合掌の意味といった宗教的な問題は、全くの苦手分野で、何もわかりません。



【「金光明最勝王経の夢見金鼓懺悔品の情景」をジオラマ展開した、西金堂・釈迦集会像
~懺悔の心を表し、合掌する阿修羅像~】


研究者の方によると、阿修羅像が、本来の激しい怒りや闘いの姿に作られているのではなく、静かで敬虔な精神表現の姿に作られている事由について、次のように説明されているのではないかと思います。

興福寺西金堂の仏像群は、「釈迦集会像」として造られました。

西金堂・釈迦集会群像の情景~京博本興福寺曼陀羅(鎌倉時代)の西金堂部分
西金堂・釈迦集会群像の情景~京博本興福寺曼陀羅(鎌倉時代)の西金堂部分
阿修羅像は向かって左の一番奥


この釈迦集会群像は、「金光明最勝王経」のなかの、「夢見金鼓懺悔品」(むけんこんくさんげぼん)にある情景を形にしたものと云われています。
それは、

「妙幢菩薩が、夢の中で大金鼓を撥で叩いて大きな響きを出した。
その大金鼓の音が響いている中で、美しい讃美歌がうたわれ、懺悔の方法が述べられた。・・・・・」

という情景を、ジオラマのように西金堂内部に展開したものです。
そうした情景のなかで釈迦の下に集会した、十大弟子、八部衆像の表現であるということなのです。

例えば東野治之氏は、こうした造像主旨を踏まえ、阿修羅像の表現について、このように述べています。

「阿修羅像をはじめ八部衆像、十大弟子像は、釈迦集会の像であることを前提としてみなければならない。
・・・・・・
阿修羅像の眉をひそめた表情は、金鼓が響いて讃美歌が歌われ、懺悔の方法が述べられたという話を集まって聞いている表情なのであろうと考えられる。
・・・・・・・
こうして見てくると、あの阿修羅像の魅力ある表情は、懺悔の心を表している可能性が高い。」
(東野治之「阿修羅像と天平文化」阿修羅を究める・興福寺監修2001年小学館刊所収)

静かな姿の阿修羅像をはじめとする八部衆の表現について、同じ趣旨を述べている研究者が多いのではないかと思います。

静かに合掌する阿修羅像
静かに懺悔、合掌する阿修羅像


釈迦の前に集い、心中深く懺悔の心を起こした阿修羅の姿を思い浮かべると、

「阿修羅は、静かに合掌していた」

というのが、おのずと自然な姿のように思えてくるのです。


以上が、前話「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」の続報です。



ついでに、TV番組「興福寺阿修羅像1300年の新事実」のなかで、大変興味深く感じた話を、ちょこっとだけご紹介しておきたいと思います。



【塑像原型と全く違った表情の阿修羅像~怖い顔から優し気な顔に変化】


それは、阿修羅像の塑像原型を、再現した処、その顔の表情とは全く違ったものであったという話です。

ご存じのとおり、脱活乾漆像は土で作った塑像の原型に、麻布を漆で貼り重ね、木屎漆でモデリングして細かい姿を表現していきます。
阿修羅像も、5枚程度の麻布が漆で貼り重ねられています。

今回撮影したCTスキャンの画像から、乾漆層の内側に、塑像原型の痕跡を見つけ出すことが出来たことから、塑像原型の再現を試みた処、なんと、今の阿修羅像とは全く違う表情が浮かび上がってきたということです。

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型
CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型

原型は、眉も目も吊り上がった厳しい顔、恐ろし気な表情をしていたのです。
眉は、左右が連なったインド風の連眉で表現されており、現在の眉根を寄せた愁いを含む表現と全く違います。
制作当初は、古代インドの荒ぶる神を想起させる、猛々しい表情を想定していたことになります。
CT画像から塑像原型を復元した画像をご覧いただくと、よく判ると思います。

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情

CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情
CTスキャンの画像から再現した阿修羅像の塑像原型~厳しく恐ろしげな表情

その塑像原型段階の厳しく怖い表情が、木屎漆のモデリングの最終段階で、清らかで愁いを含んだ少年を思わせる、今の阿修羅像の優し気な表情に、大きく変更されたのだということです。

優しく愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像の表情
優しく愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像の表情



【脱活乾漆像の木屎漆モデリングの実際を実感】


この新事実は、私には、大きな驚きでした。

脱活乾漆像を制作するときは、
「塑像原型で大まかな形を造っておいて、最終的には木屎漆のモデリングで造形の細かい処を整え表現していく。」
という話は、本で読んで知っていました。

しかし、当初の顔の表情プランを、木屎漆のモデリング段階で100%変えてしまうほどまでに、造り変えることだ出来るのだというのを、初めて知りました。

再現した阿修羅像の塑像原型塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様

塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様
塑像原型に麻布を貼り、木屎漆のモデリングを行う有様


実は、2012年に唐招提寺の鑑真和上像のお身代わり像が、美術院で制作された時、この像は木屎漆の層が大変薄いことが明らかになり、奈良時代脱活乾漆像のなかで、常識的手法でない異例なものであると発表されました。

模造制作にあたった、美術院国宝修理所の木下成通氏は、
「木屎層が薄くても彫刻表現が完成されていることから、塑土原型の段階ですでに細かい箇所まで作り込まれていたことがわかる。」
(「唐招提寺・国宝鑑真和上坐像・模造制作について」木下成通・美術院紀要8号2016年刊所収)
と指摘して、鑑真像が、奈良の仏像専門の工人ではなく、弟子たちの手による制作である可能性を示唆しています。

唐招提寺・脱活乾漆鑑真和上像
唐招提寺・脱活乾漆鑑真和上像

今回、脱活乾漆による、木屎漆による面貌、表情のモデリングのやり方を、画像で目の当たりにして、脱活乾漆技法や、鑑真和上像の制作技法の特異性とはこういうのは、こういう話なのだと、腑に落ちた次第です。



【阿修羅像が、優しい少年の顔に切り替えられた訳は~光明皇后の基王への追慕の投影か?~】


話は戻って、

「阿修羅像の、元の怖い表情が、何故作り替えられたのか?
どうして、愁いを含んだ少年を思わせる、優し気な表情になったのか?」

という謎についての問題です。

愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像
愁いを含んだ少年を思わせる阿修羅像

番組で解説に登場した、興福寺国宝館館長の金子啓明氏は、その訳について、興福寺西金堂建立の願主である光明皇后の想いに心を馳せて、このように語っていました。

八部衆像には、子供の姿に造られた像がある。
幼い順にみていくと、まずは沙羯羅像で5~6歳、次は五部浄、乾闥婆像で10代初めの少年、そして阿修羅像は10代半ばごろの姿に造られている。
これは、我が子、基王(もといおう)を1歳にならないうちに亡くしてしまった、光明皇后の基王への追慕の想いが託されたものだと思われる。

西金堂諸像は、亡くなってから6年後、これらの像が造られるが、光明皇后は、その子供の面影を追う想いを仏像に託しながら、少しずつ成長していくような姿をイメージとして子供とだぶらせていたということが考えられる。
年齢を順に追っているところに、光明皇后の、子供を想う親としての思いが託されていたとみることが出来る。

興福寺・八部衆のうちの沙羯羅像~童子の表情
沙羯羅像~童子の表情
興福寺・八部衆のうちの五部浄像~10代初めの表情興福寺・八部衆のうちの乾闥婆像~10代初めの表情
(左)五部浄像、(右)乾闥婆像~10代初めの表情

金子啓明氏は、これまでも、この考えを示していて、自著、「仏像のかたちと心~白鳳から天平へ」においても、このように述べています。

「光明皇后が実母である故橘美千代の一周忌供養のために建立した興福寺西金堂に、嬰児の羅睺羅像を安置したのは、母の菩提供養と合わせて、夭折したわが子基王の供養も果たそうとしたからではないだろうか。
釈迦の生まれてまもない実子・羅睺羅に皇太子・基王の姿をイメージするのは、亡き嬰児を想う母親としては、自然な考え方である。
興福寺西金堂の羅睺羅像は残念ながら現存しない。
しかし、今も残る八部衆8体のうちの半数の4体までが少年像であることは、光明皇后の亡き皇太子に対する思いを考える上で注目される。
先にも述べた、阿修羅、沙羯羅、五部浄、乾闥婆の4体である。」
(金子啓明著「仏像のかたちと心~白鳳から天平へ」2012年岩波書店刊)

京博本興福寺曼陀羅図にみえる西金堂・羅睺羅像
京博本興福寺曼陀羅図に見える西金堂・羅睺羅像

この光明皇后の、亡き子、基王への思慕、追慕の想いが、西金堂諸像に投影され、阿修羅をはじめ少年相の諸像が造られたという見方は、大変ロマンチックで説得力もあるようには感じるのです。

ただ、阿修羅像の少年相の訳は、このストーリーで決まりという風に、決定打的に考えても良いのかな?という気も、少しばかりしてきますが・・・・・・

皆さんは、いかがでしょうか?

興福寺・阿修羅像
興福寺阿修羅像



NHKテレビ「興福寺阿修羅像1300年の新事実」の番組から、興味深かった話を紹介させていただきました。


テレビ番組としては、なかなか突っ込んだ、中身の濃い内容でした。
光明皇后をちょっと美化しすぎのような感もありましたが、興味深く、面白く見ることが出来ました。


(掲載写真の多くは、TV番組「興福寺阿修羅像1300年の新事実」の映像から転載させていただきました)


トピックス~「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」 仏像の手の話①  【2017.3.18】


【「仏像の手の話」のテーマを、しばらく採り上げてみます】



「この観仏日々帖に、なにか採り上げるテーマはないだろうか?」

と思いを巡らせているうちに、 「仏像の手の話」 と題するテーマを考え付きました。

思いつくのは、こんな話、

興福寺・阿修羅像の合掌手の話、広隆寺・弥勒菩薩の指の話、広島古保利薬師堂・薬師像の手の話、新薬師寺・薬師像の腕の材の木目の話、失われた新薬師寺香薬師像の右手の話

等々、といった処でしょうか

「仏像の手」にまつわる、ちょっと面白そうで、興味深い話を、連載的にいくつかご紹介が出来そうです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像

スタートのテーマは、

「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」

が良いかな、と考えていた処でした。

「阿修羅像は、制作当初は合掌せず、何かを捧げ持っていたに違いない」
という見方があるという話です。



【「阿修羅の合掌手ずれた?」の、新聞記事にビックリ】


そんな矢先です。

新聞を読んでいると、ビックリの記事が目に入ってきました。
2月22日付の朝日新聞の朝刊に、こんな見出しの記事が載せられていたのです。

「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で CT画像解析」

「阿修羅の合掌ずれた?」朝日新聞記事


この「見出し文」に、鋭く反応された方は、結構、仏像に詳しい方なのではないかと思います。

現在、阿修羅像を拝すると、合掌した姿に造られています。
「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で」
といわれても、

ごく普通には、合掌手がちょっとずれていただけということで、
「わざわざ新聞記事にするほど、大した話ではないのでは?」
と感じられるのではないかと思います。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~よく見ると合掌手が向かって右に少しずれている~

阿修羅像の合掌手の問題をご存じの方は、

「阿修羅像は、実は持物を捧げ持っていたとする説は、間違いで、やはり当初から合掌手であったということなのか!」

と、興味深くこの記事を読まれたのではないでしょうか。



【CTスキャンで、制作当初から合掌していた可能性大と判明~「実は持物を持っていた」説を否定?】


この新聞記事の冒頭にも、このように記されています。

「天平彫刻の傑作、奈良・興福寺の国宝阿修羅像(734年、脱活乾漆造り)について、1300年前の制作当初は両腕を正面で合掌させていた可能性の高いことが、九州国立博物館(福岡県太宰府市)などの研究チームの調査で分かった。

X線CTスキャン画像の解析で、明治時代に再接合された修理の詳細が判明。
本来合掌していなかったとの見方もあったが、内部の芯木の復元実験も行い、合掌の姿勢が妥当と判断された。」

記事は、この後、

阿修羅像の6本の手が、明治年間には、一部損傷欠失していたこと。
明治の修理で、第一手は合掌手に修復されたが、本来は何か持物を持っていたという説があること

について、このようにふれています。

「阿修羅像は奈良時代以来、火災や地震、戦災などをくぐり抜けたが、転倒などで6本ある腕のうち数本が損なわれた。
1902~05(明治35~38)年の修理で、最も正面に近い左右2本の腕のうち、ひじから先がなくなっていた右腕などが補われた。
それ以降、この2本の腕は体の正面より左寄りの位置で合掌する姿になり、本来は合掌と違う姿で、何らかの法具か宝物を手にしていたのではないかとの見方も出ていた。」


新聞記事は、この後

「CT撮影などの調査で、明治の修理前も、自然な合掌手であった可能性が高まった。」

ことについて、解説されています。

この記事を採り上げた記者の方は、阿修羅像は、
「当初、合掌していなかったという見方を否定する調査結果」
が発表されたことを、重要な新事実とみて、この記事を執筆されたのでしょう。



【「興福寺・阿修羅像は、合掌していなかった」という議論を振り返る】


新たな調査事実の話は、ちょっと後回しにして、

「興福寺・阿修羅像は、当初から合掌していたのだろうか?」

そのような議論がされるようになったいきさつを、振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、興福寺の阿修羅像は、興福寺・西金堂に祀られる八部衆像の一つとして制作されたものです。
天平6年(734)に創建された、興福寺西金堂に当初から安置された、天平彫刻を代表する脱活乾漆像の名作です。

興福寺・阿修羅像

興福寺・阿修羅像
愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛される興福寺・阿修羅像

明治時代には、阿修羅像だけが単体で素晴らしい傑作と評価されることは無かったのですが、大正期以降、とりわけ昭和10年代以降、愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛されるようになり、いまや人気NO1の仏像といってよい超有名像になりました。



【明治修理以前、手が欠失していた阿修羅像~残されていた修理前写真】


この阿修羅像は、明治35年(1902)9月から38年1月に興福寺の諸仏像が、美術院により修理された際に、修理修復が行われました。
この時に、手の一部が欠損していたものが、修復されました。

この修理以前の、興福寺阿修羅像を撮影した写真が残されているのです。
2種類、残されています。

一つは、明治21年(1888)、政府による近畿地方古社寺調査に同行した写真師、小川一眞が撮影したものです。
東金堂に寄せ集められた諸仏の集合写真の中に、阿修羅像の姿が見えます。
左の第一手、合掌手の手先が欠失しているのが、判ると思います。

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影
興福寺古写真・東金堂に集められた諸仏~明治21年小川一眞撮影
阿修羅像の手が欠損しているのが判る


もう一つは、阿修羅の手が欠損していた状況が、はっきりと判る有名な写真です。
明治41年に刊行された、工藤精華撮影出版の「日本精華・第1輯」に収録されています。
明治27年(1894)に撮られた写真で、美術院修理前の阿修羅像の貴重な写真です。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治修理前の手の欠失状況がよく判る


ご覧の通り、右手第一手(合掌手)と左手第三手が、欠失しているのがはっきりとわかると思います。



【美術院での修理時、合掌する姿に修復される】


この欠損していた手は、当時の日本美術院、新納忠之介等によって修理され、現在の第一手が合掌している姿に修復されたのでした。

現在の阿修羅像の写真を見ると、右手・第一手の肘から先の処に、手先を継ぎ足した跡がはっきりと残っていて、そこから先が明治に作られた後補の手先であることが、よく判ります。
後補部分の右手先は、木彫で補われています。

興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが見て取れる
興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが、よく見て取れる

新納忠之介は、阿修羅像の第一手は、当然に合掌していたものと考えて、このように復元修理したのに違いありません。

しかし、真正面から、阿修羅像を拝すると、合掌する手のひらの位置が、向かって右側に少々ズレていることにも気が付きます。
パッと見は気になりませんが、じっくり拝していると、合掌手の正中線からの軸ブレは、ちょっと不自然な感じであることは事実です。



【提起された疑問~本当に合掌していたのだろうか?】


近年、専門家の間では、

「実は、阿修羅像は、合掌していなかったのではないか?」
「第一手は、持物を捧げ持つような姿であったのではないか?」

という疑問が、結構持たれていたようです。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~合掌手
興福寺・阿修羅像~合掌手

この疑問は、

・阿修羅像の合掌の手のひらが合わさった位置が、正中線から向かって右に、わずかにズレていること。
・修理前の写真の第一手、左手の掌は、外に向って開いており、合掌していたにしては不自然なこと。
・修理前の手が欠失した写真を見ると、第一手の脇が締り、肘が下がっているのに対して、現状は、肘が外に広がるように張っており、明らかに角度が改変されていると思われること

などから、発した疑問のようです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~工藤精華撮影(明治27年)
現在の阿修羅像(上)と、明治修理前の阿修羅像(明治27年・工藤精華撮影)

このようなことを総合すると、阿修羅像は、当初合掌していたのではなくて、右手に何かを手に捧げ持ち、左手をそれに添えるような姿ではなかったのかという見方も出てきたという訳です。



【当初は、持物(法輪か法螺貝)を、両手で捧げ持っていた?】


「阿修羅像は、合掌していなかった。」

という問題提起を、最初に文章にして発表した方は、山岸公基氏(奈良教育大学教授)だと思います。
これまで、次のような論考を発表されています。

「阿修羅の手」月刊奈良38巻11号・1998年刊)所収
「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号・興福寺(朝日新聞社刊)2007.07所収

山岸氏は、
明治の修理前写真と現状を比較し、第一手の角度が、かなり外に広げられていることを指摘したうえで、

「胸前にささげた腕は肩を支点に現状と比べると肘が内側に回転しており、そのぶん左の手先は現在も左に偏っていると見えるのがいっそう外に開いて、もと合掌していたと見ることは困難になる。

つまり阿修羅は合掌しているものという先人見のもと、明治修理に際して、当初の左手指先が合掌らしく正中に近くなるよう、胸前にささげた腕の肩からの角度が改変されたのではないだろうか。」
(「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号)

と述べています。

我が国の、阿修羅の古像には、法隆寺五重塔の塔本塑像(奈良時代)、三十三間堂の二十八部衆の一躯(鎌倉時代)が知られています。

法隆寺の阿修羅像は、手先が欠損していますが、合掌していたとは考えられません。
三十三間堂像像の方は、胸前で合掌しており、現在の興福寺阿修羅像と同じ手の姿に作られています。

法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像
(右)法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像、(左)三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像


もし阿修羅像が合掌していなかったとすると、どのような手の姿をしていたのでしょうか?

山岸氏は、阿修羅像の中国の遺例をみると、第一手が合掌している作例の他に、

・法輪を持つ例~四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像(8C前半)
・法螺貝を持つ例~敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画(8C末~9C)

があることを上げて、こうした持物を胸前に執る姿であったのではないかとみられています。

四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ
四川省広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ

敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ
敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ

北進一氏も、自著
「アシュラブック」2012年美術出版社刊
のなかで、「本当に合掌していたのか?」という項立てを設けて、この問題に触れています。
北氏は、山岸氏と同様の観点から、当初は合掌手ではなかったと考え、
第一手は、両手で法螺貝か輪宝を持ち、第二手は左手に弓、右手に弦に矢をつがえる姿、第三手には日輪、月輪を持っていた、
と思われると述べています。

このように、

「興福寺阿修羅像は合掌していたのではなくて、両手で法輪か法螺貝を持っていたのに違いない。」

という考えは、一つの見方として有力であったのではないかと思います。



【合掌手は、意図的に軸ブレして造られたという見方~斜めから拝する視線を計算】


一方で、この問題を、

「阿修羅像が祀られる姿が、拝者の眼にどのように映るのか。」

という視点から、とらえる見方もありました。

阿修羅像の合掌手が、正中線から向かって右に少しズレている理由を、仏像を拝する側の視線、視点から解き明かそうとするものです。
合掌手がずれているのは、おかしなことでもなんでもなくて、斜めから拝する側の視線を考えれば、このようにズレて造るのが、最も適切なのだと考えられるというものです。

阿修羅像は、西金堂の、向かって左側の奥に祀られていました。
京博本・興福寺曼陀羅の西金堂の図を見ると、阿修羅像の祀られていた位置がよく判ります。

京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分

京博本・興福寺曼荼羅図~西金堂・阿修羅像の部分拡大図
京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分(上)と、向かって左上の阿修羅像の拡大図(下)

お堂の真ん中に坐して諸仏を拝する時、左奥に祀られる阿修羅像が、斜めから一番良いバランスで、美しく見えるように、意図的に合掌手などが少し軸ブレしたように造られたのだというものです。

こうした拝する人への見え方を計算して造られた仏像は、巨像によくあることはご存じのとおりです。
東大寺南大門の仁王像が、見上げて拝することから、頭部が大きく造られたり、乳首や臍の位置が修正されたりしているのは、代表的な事例ではないかと思います。

東大寺南大門・仁王像~体の中心(真ん中)から撮影した写真.東大寺南大門・仁王像~通常の見上げる位置から撮影した写真
東大寺南大門・仁王像
体の中心(真ん中)から撮影した写真(左)、通常の見上げる位置から撮影した写真(右)



【左斜めに見上げて拝するのが、ベストの「仰角」の阿修羅像】


この阿修羅像を拝する視線の角度について、論じた論文があります。

「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」(水野谷憲郎)淑徳短期大学研究紀要 53号2014.2

というものです。

水野谷憲郎氏は、仏像が置かれる場所によってその形や傾きを変える事実を「迎角」として追究し、いくつも論文を発表しています。
水野氏は、「仰角」の観点から阿修羅像について研究し、阿修羅像は、お堂の正面に向かって左奥に祀られ、拝観者が斜め左側に像を観る位置に祀られて、一番バランスよく見えるように制作されていると論じ、このように述べています。

「何故このような不自然な右側面を作らねばならなかったのか。
ここに明快な意図が見える。

先に述べた通り、阿修羅像を前から見ると向かって右の形の方が主に整えられてた。
言い換えるなら、阿修羅像は向かって左奥に倒れていく形の不自然を作り、その反対方向である向かって右前からの視線に最良の形を見せる変形が行われていることになる。

即ち阿修羅像はやや右側、拝観者からは正面やや左側に置かれるとバランスが良く立って見える造りとなる。」
(「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」)

水野氏は、このような見方によると、阿修羅像の「最良の拝観位置に近い写真」は、ご覧のような斜め角度のものであるとされています。

向かって右斜めの最良の拝観位置から見た写真(水野谷憲郎氏による)
水野谷憲郎氏が最良の拝観位置からとする写真

向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真
向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真

確かに、この角度から拝すると、阿修羅像の合掌手が正中線から軸ブレしていることが全く気にならないどころか、きちっと正中線上で合掌しているように目に映るのです。

以前に、ある先生からも、

阿修羅像は向かって左斜めから拝されることを意図して造られている。
合掌手の位置だけでなく、顔貌や脇面などの出来映えをみても、そのように感じられる。

という話を耳にしたこともありました。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~向かって左斜めからの写真
阿修羅像の左右斜め位置から見た写真



【CTスキャン調査で、「制作当初は、真正面位置で合掌」の可能性大と判明】


「阿修羅像は、本当は合掌していなかったのか?」

「阿修羅像は、斜めから拝すのを計算し、意図的に軸をずらすなどして造られたのか?」

どっちが真実なんだろうか?
そんな疑問が提起されていた処に、新たに科学的な調査事実が判明したというのが、冒頭でご紹介した新聞報道記事なのです。

「阿修羅像は、制作当初、中心軸の真正面で合掌していた可能性が強い。」

という、調査結果が判明したというものです。

新聞記事を、そのままご紹介します。

「CT撮影は、2009年の「国宝 阿修羅展」に合わせて九州国立博物館で行われた。
その後、今津節生・奈良大教授(保存科学)らが解析を続けた。
その結果、正面側の両腕のわきの下に木屎漆(木粉と漆のペースト)が詰められ、それが両ひじを外側へ開き気味に押し上げていたことが判明した。

研究チームによれば、木屎漆を除去し、修理前の姿に戻せば、左の手のひらが現状より約2センチ内側、仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来ることが分かった。
右腕の角度も狭まり、合掌以外のポーズは取りにくい状態とされる。
像内の芯木を原寸大で復元した実験でも同じ結果が得られた。
CTスキャンのデジタルデータで構造を細部まで立体的に把握・再現でき、制作当初の姿に迫ることができたという。

金子啓明・東京国立博物館名誉館員(日本彫刻史)は
『胎内構造の復元実験からも両腕のひじが張っていなかったことを確かめ、阿修羅像が現状よりもっと自然に合掌していた可能性が高まった。
仏像に手を加えない先端科学による重要な発見だ』
と話す。」


新聞記事に掲載されていたCTスキャン画像、修理前想定の画像をご覧ください。

阿修羅像のCTスキャン画像写真
阿修羅像のCTスキャン画像

CT画像によると、明治の美術院の修理で、両腕わきに木屎漆が埋め込まれて、両肘が外側に広げられたことが判るということです。

明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図
明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図

明治修理時に埋め込まれた木屎漆を取り除くと、脇がグッと締まるとともに、約2㎝左手のひらが正中線側に動くこととなり、真正面で合掌していたとみられるようになるとのことです。

以上のとおり、CT撮影調査結果、心木の原寸大復元などの研究結果によると、(明治の)修理前の姿は、

・左の手のひらが仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来る。

・阿修羅像は、当初は、現状より自然に真正面で合掌していた可能性が強い。

というものです。

阿修羅像の内部構造推定図~山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」掲載図
阿修羅像の内部構造推定図
山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」(2009年学習研究社刊)掲載図


明治35~8年の美術院の修理で、阿修羅像がどのように改変修復されたのかは、これまで、よく判っていませんでした。
美術院の仏像修理記録は、そのほとんどが、具体的修理内容の記録、修理図解、修理前後写真が残されているのですが、明治のごく初期の修理だけは詳しい記述がされていないのです。

残されている修理資料の、興福寺「乾漆八部衆立像 八躯」の処には、
「彩色ノ剥落ヲ防止シ、破損ノ部分ハ堅牢ニ修理ヲ加ヘ、適当ノ古色ヲ附スベシ。
破損シタル半身ノ像ハ箱ヲ造リ、之レニ保存スベシ。
右ニ対スル修繕費金参百六拾八円八拾参銭也。」
という記述と、緊那羅像の内部構造図が残されているだけとなっているのです。
(「日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ」奈良国立文化財研究所1977年刊による)

今回の研究調査で、当時の修理改変の状況が明らかにされ、

「阿修羅の合掌手についての、永年の疑問」

が、解決されたということになりそうです。



【2月開催のシンポジウムで、研究成果発表されるも、参加できず残念!】


実は、この研究成果については、2月25日に東京で開催された、
公開シンポジウム「阿修羅像を未来へ―文化財保護のこれからを考える―」(興福寺、朝日新聞社主催)
において、詳しく発表されました。

「阿修羅像 CTスキャン調査の全容」(奈良大学教授・今津節生、九州国立博物館・展示課長・楠井隆志)
というものです。

私は、この講演会を是非とも聞いてみたかったのですが、残念ながら、参加申し込みの抽選に外れてしまい、行くことが叶いませんでした。
詳しい解説等がどのようなものだったのか興味津々なのですが、いずれ、どこかに研究結果が掲載されるのを待つしかないという処です。
今のところ、私には、新聞記事の情報以上のものがありませんので、これ以上突っ込んだ話をご紹介することが出来ません。

当初から合掌手であったということについては、こんなあたりも、知りたくなるところです。

阿修羅像は、明治の修理以前にも、近世まで何度も修理が行われているのですが、今回のCTスキャン調査で、当初の実像がどのあたりまで解明されたのだろうか?

明治修理前の写真を見ると、たしかに現状より脇が締り、肘が下がっているのですが、その時でも、左の手先、手のひらは外側に開いているようで、合掌していたにしては不自然に見えます。
これは、明治以前に、第一手の角度が、制作当初よりも外開きになってしまっていたたからなのでしょうか?

また、気のせいでしょうか、左の手のひらは正中線より、わずかに(向かって右に)ズレているような気がしないでもありません。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像
明治修理前写真(工藤精華撮影)

大変、興味深い処です。
皆さんは、この阿修羅像の合掌手の問題、どのように感じられ、考えられておられるでしょうか?


今回の研究発表、新聞報道で、

「阿修羅像は、合掌していたのか?」

という問題に、正中線上で合掌していたと、はっきりとした結論が出た、ということなのでしょうか?


それとも、まだまだ、

「阿修羅像は、合掌せずに、持物を持っていたに違いない?」

「阿修羅像の合掌手は、『仰角』(拝する角度)の関係で意図的にズレている?」

という疑問が、解消されたわけではないのでしょうか?



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