観仏日々帖

トピックス~興福寺の四天王像の話 : 南円堂像・仮講堂像が引越し 【2018.3.10】


先月(2018年2月)、興福寺の南円堂、仮講堂安置の四天王像の引越しが行われました、


【南円堂像(運慶作)は新中金堂へ、仮講堂像(康慶作)は南円堂へ引越し】


仮講堂(かつては、中金堂とか仮金堂と呼ばれていました)の四天王像が南円堂に移され、南円堂の四天王像は、今般再興された新中金堂に移されました。

南円堂から新中金堂に移された四天王像~運慶作・北円堂原所在像とみられる
南円堂から新中金堂に移された四天王像~運慶作・北円堂原所在像とみられる
南円堂から新中金堂に移された四天王像~運慶作・北円堂原所在像とみられる


仮金堂から原所在の南円堂に戻された四天王像~康慶作
仮金堂から原所在の南円堂に戻された四天王像~康慶作
仮講堂から原所在の南円堂に戻された四天王像~康慶作

この二組の四天王像の「原所在と制作仏師についての問題」をご存知の皆さんは、

「フーン! そういう風に落ち着けたのか。」

と、感じられたのではないかと思います。

興福寺の伽藍略絵図
興福寺の伽藍略絵図


朝日新聞デジタルは、このニュースを

「興福寺の 四天王像が お引っ越し」

という見出しで、次のように報じました。

「日本の彫刻史上に名高い仏師で鎌倉時代に活躍した運慶作の可能性がある、奈良・興福寺の四天王像(13世紀、国宝)が、これまで安置されていた南円堂から、今秋完成予定の中金堂に移された。
詳しい記録は不明だが、江戸時代の1717年の火災以来約300年ぶりの『お引っ越し』とみられる。
一方、南円堂には運慶の父、康慶の四天王像(1189年、国重要文化財)などが旧金堂(今の仮講堂)から戻った。

興福寺南円堂
興福寺南円堂

興福寺仮講堂(かつては仮金堂・中金堂と呼ばれていた)
興福寺仮講堂(かつては仮金堂・中金堂と呼ばれていた)

15日に東京であった興福寺の文化講座で、多川文彦・境内管理室次長が明らかにした。

昨秋に東京・上野の東京国立博物館であった特別展「運慶」に出展した国宝像と重文像計8体は終了後の返還に合わせ、国宝像を中金堂に、旧金堂にあった重文像を南円堂に、それぞれ移した。

近年の研究で国宝像はもともと、肖像彫刻の最高傑作とされる無著・世親菩薩像(国宝)などとともに、興福寺北円堂にあったと推定されている。
また、重文像については、康慶が南円堂の本尊と同時に制作したことがわかっている。
興福寺は奈良時代の創建以降、火事や戦災に相次いで見舞われ、その度、救出された仏像が当初の安置場所とは異なる仏堂に移されてきた。
最後の大火となった1717年の場合は、南円堂や中金堂が焼失し、その再興の過程で四天王像も入れ替わったらしい。

多川次長によると、北円堂には平安時代の四天王像(国宝)が現存し、躍動感のある南円堂の国宝像が寺の中心となる中金堂にふさわしいことなどから引っ越しが決まった。
また、康慶作の法相六祖像(国宝)も南円堂に安置する。
今秋の一般公開でお披露目される。」
(執筆:編集委員・小滝ちひろ氏 2018.2.16付け朝日新聞デジタル)



【昨秋の「運慶展」でも注目を惹いた、二つの四天王像の原所在】


皆さんご存知の通り、近年の研究成果により、

・仮講堂安置の四天王像は、元々、南円堂に祀られていた像で、康慶作の不空羂索観音像と一具の像。
・現南円堂の四天王像は、元々、北円堂に祀られていた像で、運慶作の弥勒仏像、無着世親像と一具の像。

と、見られています。

興福寺南円堂本尊・不空羂索観音像(康慶作)
興福寺南円堂本尊・不空羂索観音像(康慶作)

仮講堂・広目天像(現在、南円堂安置)仮講堂・多聞天像(現在、南円堂安置)
仮講堂・広目天像(左)、多聞天像(右)~現在、南円堂安置


興福寺北円堂・無著像(運慶作).興福寺北円堂・世親像(運慶作)
興福寺北円堂・無著像(左)、世親像(右)~運慶作

南円堂・持国天像(現在、新中金堂安置)北円堂原所在・運慶作とみられる南円堂・広目天像(現在、新中金堂安置)北円堂原所在・運慶作とみられる
南円堂・持国天像(左)、広目天像(右)
~現在、新中金堂安置)北円堂原所在・運慶作とみられる~


今回の引越しは、再興新中金堂の落慶に際して、新中金堂に安置する四天王像をどうするのかという問題があったのでしょう。
仮講堂像が元々南円堂の四天王であったというのは、現在は、異論無く広く認められているところです。
現南円堂像が元々北円堂像であったという見方のほうは、大変有力になっていますが、まだ、「衆目一致で確定した」ということではないようですし、北円堂には平安前期の四天王像がちゃんと祀られています。

そんなところから、このような形に落ち着いたというところなのではないでしょうか。

「康慶の作」と信じ込まれていた南円堂の四天王像が、そうではなくて他のお堂から移されたもので、「仮講堂の四天王像が、本来の康慶作の南円堂像である」という新たな説が提示されたのは、近年のことで、平成に入ってからのことです。
その後、南円堂の四天王像の原所在については、諸説ありましたが、現在は、「元々北円堂の像で運慶作の四天王像である」という見方が最有力になっています。

このあたりの話については、昨年秋に東博で開催された「運慶展」でも、大きく採り上げられ、南円堂・四天王像は北円堂の無著・世親像とセットで展示されました。
ちょっとマイナーであった「両四天王像の原所在問題」も、世の運慶フィーバーの中で、広く多くの人々の知るところとなり、関心事になったのだと思います。

この四天王像の原所在と、康慶、運慶作問題などの研究、発見のいきさつについては、

神奈川仏教文化研究所HP「運慶仏 発見物語〈その8ー10〉」

に、簡単にまとめてありますので、ここではふれないことにして、そちらをご覧いただければと思います。



【5組が現存する、興福寺の四天王像】


ここでは、「話題、注目の四天王像」以外の興福寺の四天王像にも、ちょっと目を向けてみたいと思います。

最近は、運慶作と言われる南円堂・四天王像ばかりにスポットライトが当たっているように感じますが、興福寺には、そのほかにもいくつかの四天王像の優作が残されています。
なかなか見どころある魅力十分の四天王像たちですが、さほど一般には注目されることはないようです。

現在興福寺に遺されている四天王像は、4組と広目天像一体です。

それぞれの安置場所、制作年代、原所在などを一覧にまとめると、ご覧のようになります。

興福寺に残される四天王像の一覧



【延暦10年(791)作、魅力十分の北円堂・四天王像】


興福寺にある四天王像のうちで、一番古い像は、北円堂の四天王像です。

興福寺・北円堂
興福寺・北円堂


興福寺北円堂・四天王像(延暦10年・791作)
興福寺北円堂・四天王像(延暦10年・791作)
興福寺北円堂・四天王像(延暦10年・791作)

バリバリの平安初期、延暦10年(791)に制作された四天王像です。
奈良時代の伝統を引き継いだ、木心乾漆造りの像です。
平安初期らしいボリューム感のある像ですが、その表情は諧謔的表現というか、怒りを超えてユーモラスなものになっていて、親しみを感じます。
結構、私の好みの四天王像です。

興福寺北円堂・持国天像(延暦10年・791作)興福寺北円堂・多聞天像(延暦10年・791作)
興福寺北円堂・持国天像(左)、多聞天像(右)~延暦10年・791作

増長天像と多聞天像の台座の天板裏面に修理銘が残されていて、

「延暦10年(791)4月に造立された大安寺の四天王像で、破損が著しかったので、弘安8年(1285)、興福寺僧経元により修理された」

旨、記されており、制作年とともに、大安寺から興福寺に移された像であることが判ります。

所謂平安初期彫刻の中で、制作年代を特定することができる、貴重な作例です。

どうして、運慶作の諸仏が祀られている北円堂に、この平安初期の四天王像が安置されるようになったのかは、全く以ってよくわからないようです。
元西金堂にあったとか、興福寺勧学院にあったといった説もあるようですが、はっきりしたことは何ともわからないということのようです。



【平安初期の優作なのに、あまり話題にされない、東金堂・四天王像】


優作なのに、あまり話題にならないのが、東金堂の四天王像です。

興福寺東金堂
興福寺東金堂

興福寺東金堂・四天王像(平安前期)
興福寺東金堂・四天王像(平安前期)

この四天王像も、バリバリの平安初期、8~9世紀の制作です。
重量感あふれた四天王像で、なかなかの優作といってよい像だと思います。
もっともっと知られて、人気があってもよいと思うのですが、何故だか、あまり話題になることがないようです。
「国宝」に指定されている像なのですが・・・・・
国宝館ではなくて、訪れる人が少ない東金堂の方に、ひっそり安置されているので、あまり目を惹かないのでしょうか?

一木彫像ですが、頭髪や甲冑の一部は乾漆を盛り上げて造られ、奈良時代木心乾漆の技法もとどめています。

ズングリムックリとでもいうのでしょうか、肉太で圧倒的なボリューム感なのですが、迫力というよりも、何故だか滑稽味を感じさせます。

興福寺東金堂・持国天像(平安前期).興福寺東金堂・広目天像(平安前期)
興福寺東金堂・持国天像(左)、広目天像(右)~平安前期

この四天王像も、伝来は、全くの不祥です。
いつのころから東金堂に安置されるようになったのか、元々何処にあった四天王像なのか、手掛かりが見つからないようです。



【1躯だけ興福寺に遺った広目天像~残りの3躯は寺外に】


もう一つは、広目天像です。

興福寺・広目天像(奈良博展示)平安~鎌倉時代
興福寺・広目天像(奈良博展示)平安~鎌倉時代

皆さん、一番馴染みのない像なのではないでしょうか?
この像は、普段は、奈良国立博物館の「なら仏像館」に展示されています。

平安後期~鎌倉初期とみられる、立派な広目天像です。
この像は、元々、4躯一具の四天王像として興福寺に遺されていたのですが、残りの3躯は明治時代に寺外に流出し、広目天像のみが興福寺に遺されました。

寺外に流出した3躯は、現在、増長天、多聞天の2躯が奈良国立博物館の所蔵、持国天像、1躯がミホミュージアムの所蔵となっています。

奈良国立博物館・興福寺旧蔵 増長天像(平安~鎌倉時代)奈良国立博物館・興福寺旧蔵 多聞天像(平安~鎌倉時代)
奈良国立博物館・興福寺旧蔵 増長天像(左)、多聞天像(右)~平安~鎌倉時代

ミホミュージアム・興福寺旧蔵 持国天像(平安~鎌倉時代)
ミホミュージアム・興福寺旧蔵 持国天像(平安~鎌倉時代)

「なら仏像館」へ行くと、興福寺蔵の広目天像と、奈良博蔵の増長天、多聞天像が並んで展示されているのをご覧になった方も多いのではないかと思います。

この四天王像の伝来や安置堂についても、はっきりしたことはわかりません。
明治21年(1888)の近畿地方古社寺宝物調査の時に、東金堂の破損仏を撮影した写真が残されており、そこに写っている首と胴がバラバラになった四天王像が、この四天王像だということです。

明治21年撮影 興福寺古写真~東金堂の破損仏像・バラバラの四天王像が見える
明治21年撮影 興福寺古写真~東金堂の破損仏像・バラバラの四天王像が見える

この四天王像の3躯が、明治時代に寺外に出たいきさつとその後の来歴について、ちょっとふれておきたいと思います。

明治39年(1906)、興福寺はお寺の維持の基本金調達のために、破損仏77体を払い下げました。
2万3千円の寄付金により払い下げを受けたのは、三井の益田鈍翁(孝)でした。
この時払い下げられた破損仏像の中に、3躯の四天王像も含まれていたのでした。
払い下げ時に、興福寺で撮影された古写真が残されており、3躯の四天王像もその中に写っています。

明治39年益田鈍翁への払い下げ仏像の古写真(寺外へ出た3躯の四天王像が写されている)
明治39年益田鈍翁への払い下げ仏像の古写真(寺外へ出た3躯の四天王像が写されている)
なお、左前方の菩薩立像は、現在、ボストン美術館蔵・快慶作弥勒菩薩像


広目天像は、興福寺に残されました。
保存状態が良くて、破損仏の中には入れられなかったということなのかもしれません。

寺外に出た3躯の四天王像は、その後、ご覧のような来歴をたどりました。

興福寺から出た3躯の四天王像の来歴

興福寺を出た時には、随分破損していたようですが、今ではきれいに修理修復され、立派な姿を見ることができます。


今、話題の運慶作・元北円堂四天王像(南円堂⇒新中金堂安置)、康慶作・南円堂四天王像(仮講堂から南円堂へ)という、二つの四天王像に注目の眼が注がれていますが、そのほかの3つの四天王像もなかなかの優作、立派な像で、美術史上も重要な位置を占めるものです。


これらの四天王像も含めて、「興福寺に遺されている5つの四天王像」について、ちょっと振り返ってみました。


この秋の金堂落慶法要の時期には、南円堂、北円堂の開扉もあるのではと思いますので、これら5つの四天王像を、一度に拝するチャンスに恵まれるのではないかと思います。

興福寺の四天王像を一巡りしてみるのも、興味深いかもしれません。

トピックス~「夢石庵とは何者か?」  細見美術館で開催中の「末法展」 【2017.11.13】


一風変わった、謎の展覧会に行ってきました。

京都の細見美術館で、開催されている 
「末法~失われた夢石庵コレクションを求めて~」
と題する展覧会です。

10月17日(火)~12/24(日)の期間で、開催中です。

「末法~失われた夢石庵コレクションを求めて~」展ポスター

どんな展覧会なのだろうと、半信半疑だったのですが、見終わった後は、穏やかな満足感と爽快感のある、大変よい展覧会でした。
このような気分で、展覧会を後にするのは、久しぶりです。

この展覧会、どうしても観てみたいという気はなかったのですが、丁度、京都国立博物館の「国宝展」に泊りがけで出かけたものですから、ほんのついでに寄ってみたのでした。



【知られざるコレクター「夢石庵コレクション」を蒐めた展覧会~夢石庵とは何者か?】


「失われた夢石庵コレクションを求めて」という展覧会名に惹かれた、というのが本音の処です。

展覧会の企画趣旨は、このようなものになっていました。

「釈迦の死後1500年(一説には2000年)を経て始まるといわれる「末法」の世。
平安の貴族たちは、永承7年(1052)に末法の世に入るという予言を信じ、極楽浄土への往生を願って、数々の経典や仏像を伝え残してきました。

本展は、そんな時代精神の中から生み出された美術作品を愛し、蒐集した、知られざるコレクター夢石庵の全貌を初めて紹介します。

「夢石庵」の名はわずかな人の間にしか知られていませんが、彼は抜群の鑑識眼と内外の人脈を通じ、戦後60年代までに驚くほど質の高い美術作品を精力的に蒐集、一大コレクションを築きました。
既に夢石庵はこの世の人ではなく、没後にコレクションは散逸してしまいましたが、戦後70余年を経た今、その関係者や彼に敬意を捧げる有識者が集まり、夢石庵の美意識とその世界観を再現すべく、今回の展覧会を企画しました。

散逸したかつての夢石庵コレクションのなかから、白眉といえる平安時代の仏教美術を中心に、仏像・仏画・書籍・陶磁・染織・近世絵画に至るまで、幅広い作品をご紹介します。」


夢石庵コレクションは、今回初公開だという話です。

「夢石庵??  そんな名前聞いたことないなー」
「誰の号のことなんだろう?」

近現代の仏教美術の有名なコレクターの名前は、一応知っているつもりでしたが、これまで耳にしたこののない名前・号です。
NETで検索してみましたが、そんな人の名は出てきません。
「益々、謎!」という処です。



【末法展の実行委員は、橋本麻里氏、杉本博司氏など~何か「仕掛け」がありそう】


この謎めいた展覧会、企画実行委員は、橋本麻里氏(実行委員長)、伊藤郁太郎氏、杉本博司氏、細見良行氏(細見美術館館長)です。
顔ぶれを見ると、美術界で今が旬とも云える面々です。

どうも、何やら「仕掛け」があるみたいです。

「夢石庵という名のコレクター、いったい何者なのだろうか??」

そんな気持ちで、美術館の会場に入りました。
展示は、こんなテーマとなっていました。

第一章   美の獄につながれて

第二章   過去・現在・未来~集合する末法のビジョン

第三章   金峯山を照らす、五十六億七千万年後の望月


展示作品の詳細は、細見美術館HP出品リストをご覧いただくとして、仏教美術愛好の個人コレクションに似つかわしい作品が並んでいます。

展示作品は、全て「個人蔵」となっています。

仏像,仏画、密教法具、神像、懸け仏、鏡像、装飾経といった仏教美術品の他に、屏風、掛物といった花鳥風景絵画も展示されていました。
等伯、応挙、抱一、江漢といった作品です。

こうして展示作品の名前だけ並べていくと、
きれいごとで言うと「幅広い作品展示」、
率直に云うと、「個人コレクターの愛蔵品を、何もかも、ごった煮で展示」
という展覧会のように思われてしまうかもしれません。

弥勒仏立像(鎌倉)個人蔵
弥勒仏立像(鎌倉)個人蔵

金銀鍍透彫光背(鎌倉)個人蔵
金銀鍍透彫光背(鎌倉)個人蔵

金剛薩埵像(鎌倉)個人蔵
金剛薩埵像(鎌倉)個人蔵

随身坐像(平安)個人蔵
金剛薩埵像(鎌倉)個人蔵

金銅五鈷鈴(平安)個人蔵風鐸付経筒(平安・天治元年)個人蔵
(左)金銅五鈷鈴(平安)個人蔵、(右)風鐸付経筒(平安・天治元年)個人蔵

四季柳図屏風・長谷川等伯(桃山)個人蔵
四季柳図屏風・長谷川等伯(桃山)個人蔵



【一本、筋の通った美意識の、心安らぐコレクションに、満足感】


ところがそんなことは、全くありませんでした。
個人コレクションに似つかわしい作品ばかりなのですが、一本、きっぱりと筋が通ったものになっています。

「末法」という精神、世界観を投影するコレクション展示という意味において・・・・

磨かれた美の感性、審美眼で選ばれた、クオリティの高い蒐集品という意味において・・・・・

華美、絢爛ではなく、また侘びサビでもなく、落ち着いた心安らぐ美の世界という意味において・・・・・・

そんな、モノサシで、筋の通ったコレクション展示という印象を強く持ちました。

国宝や重要文化財に指定されるような、超一流、第一級の大作、優作という世界ではなくて、まさに小品、残欠と呼ばれるような作品が多いのですが、そこには、選ぶものの眼の効いた美の感性、鑑識眼を感じさせる、キラリと光る粒ぞろいといったものが揃っています。

丁度、同時期に開催中の、京博「国宝展」の圧倒的な凄さの展示作品とは、ある意味、対局にあるといえるのですが、こちらの美意識にも、強く惹かれるものを感じます。

「心安らぐ、落ち着いた美」

のなかに、身を置くことが出来、久々に良き展覧会を観たという気持ちになりました。

「こんな作品が部屋にさりげなく置かれ、それを愛でながら生活する世界」

叶わぬ夢ですが、ちょいとあこがれてしまいます。

細見美術館というのは、このような展覧会に相応しいしつらえの、落ち着いた美術館です。
私が行った日も、会場には人がちらほらという程度で、静かに心行くまでゆっくり鑑賞することが出来ました。

細見美術館
細見美術館

「国宝展」の、待ち時間〇時間、押すな押すなの混雑の会場では、この満足感は味わえるものではありません。



【目についた展示仏像を、一二ご紹介】


展示作品の中で、目についた仏像を、一二ご紹介しておきます。


十一面観音立像(平安)個人蔵
十一面観音立像(平安)個人蔵

この十一面観音像は、1メートルちょっと、法隆寺伝来とされていて、洋画家・鳥海青児氏の旧蔵品だそうです。
平安中期頃の一木彫像のようですが、奈良風とか、白鳳の童子形の匂いを漂わせるのは、法隆寺伝来の由縁でしょうか。


天部立像(平安前期)個人蔵 道成寺・毘沙門天像(平安前期)
(左)天部立像(平安前期)個人蔵、(右)道成寺・毘沙門天像(平安前期)

この天部像は、平安前期の佳品で、香川県の道隆寺(多度津町)旧蔵の1体だそうです。
第二次大戦後、アメリカのパワーズコレクションに入って、近年里帰りしたそうです。
小品ながら、道成寺の毘沙門天像をちょっと思い出します。


弥勒菩薩立像(鎌倉)個人蔵
弥勒菩薩立像・光背(鎌倉)個人蔵
弥勒菩薩立像(鎌倉)とその光背~個人蔵

この弥勒菩薩像は、素晴らしい出来の鎌倉時代の優品です。
興福寺の一子院にあったもので、明治末年に寺を出て、その後、明治の大コレクター、井上馨の旧蔵となっていたそうです。
本体もさることながら、宝珠形の銅製円光も、美しく素晴らしいものです。



【「夢石庵」とは、何者か?~種明かし】


さて、
「夢石庵とは、何者か?」 
ですが、

それは、会場の出口の処に置かれた、「種明かしのパンフレット」をもらって読むと、明らかになります。

「種明かしのパンフレット」
「種明かしのパンフレット」
パンフレットには、

「会期終了まで、皆様の胸の内におさめておいて下さい。」

と書かれていますので、種明かしをしてしまうのは、よろしくないのでしょうが、ほんのさわりだけをご紹介させていただきます。

このような出だしの文章で始まります。

架空のコレクターとしての夢石庵

夢石庵というコレクターをめぐる夢は、ここで醒める。

「末法/Apocal ypse~失われた夢石庵コレクションを求めて~ 」は、

通常の展覧会ではなく、アートプロジェクトとして企画されました。

末法展実行委員の企画による、バーチャルコレクションなのでした。

実行員会による、本展覧会の企画主旨にこめられた想いは、このパンフレットに熱く語られています。
皆さん、展覧会にお出かけになって、じっくりお読みいただければと思います。




【思い出す、大倉集古館で開催の「拈華微笑展」(2000年)~ロンドンギャラリー主宰】


この展覧会の出展作品については、ロンドンギャラリーが尽力、協力されているそうです。
ロンドンギャラリーといえば、ご存じのとおり、超一流の仏教美術を中心とした古美術商です。

ロンドンギャラリーという名を聞くと、思い出されるのが、2000年11月に大倉集古館で開催された 「拈華微笑」 (ねんげみしょう) という展覧会です。

個人蔵の仏像、仏教美術作品を集めた展覧会で、ロンドンギャラリーの主宰により開催されました。
素晴らしく充実した、仏教美術の個人コレクションの展覧会でした。
個人蔵の珠玉の仏像などが、よくぞこれだけ集められ展示されたものだと、今も忘れることが出来ません。

「拈華微笑」展図録(2000年11月・大倉集古館開催)

「拈華微笑」展図録(2000年11月・大倉集古館開催)
「拈華微笑」展図録(2000年11月・大倉集古館開催)

当時の展覧会図録のページを繰ってみると、今回の「末法展」に出展されている作品が、いくつかあり、「拈華微笑」展のことも、懐かしく思い出させてくれました。



ちょっとついでに出かけた末法展、思いもかけず静かに心満たされた、良き仏教美術の展覧会を観ることが出来ました。

皆さんにも、是非、細見美術館「末法~失われた夢石庵コレクションを求めて~」をご覧いただきたいと思い、紹介させていただきました。

12月24日(日)まで、やっています。




【余談の、付けたり~個人蔵の興福寺十大弟子の復元修復像の話】


全くの付けたりの、余談ですが、

大倉集古館の「拈華微笑」展には、興福寺の国宝・乾漆十大弟子像のうち、民間に流出した一体が展示されていました。

復元修復された興福寺・十大弟子像の1躯(個人蔵)
復元修復された興福寺・十大弟子像の1躯(個人蔵)

ご存じのとおり、興福寺十大弟子像は、現在、6体が興福寺にあり、残りの4体は破損残欠や心木だけなのですが、明治年間に売却されるなど流出しています。

「拈華微笑」展に出展された像は、破損し断片となっているものを、美術院の菅原大三郎氏が、大正11年(1922)に復元修復したもので、個人蔵になっています。

この像が、数年前に、クリスティーズのオークションに出されて、アメリカのコレクターの手に渡ったということです。
落札額は、6000万円程度であったという話です。


末法展には何の関係もないのですが、一寸つながり話として、ご紹介しました。


トピックスに京都・新町地蔵保存会の地蔵像、3Dプリンタ・レプリカをお堂にお祀り 【2017.06.24】


「信仰の対象として地元の人々に守られる仏像」と「仏教美術・文化財としての仏像」との折り合いをつけることの悩ましさ、難しさについて、ちょっと考えさせられてしまうニュースがありました。


9世紀の一木彫像で、重要文化財に指定され、京都国立博物館に預託されている、「新町地蔵保存会の地蔵菩薩坐像」が、この度、3Dプリンターで精巧なレプリカが制作され、レプリカの方をお堂にお祀りすることになったという話です。



【18年前の調査で発見され、3年前、重文指定となった新町地蔵保存会・地蔵像】


この地蔵菩薩像、皆さんも、京都国立博物館の仏像陳列に、展示されているのをご覧になった方も、多くいらっしゃるのではないかと思います。
9世紀後半の制作とみられ、地蔵菩薩の坐像としては広隆寺講堂・地蔵菩薩像に次ぐ古例で、なかなかの迫力ある優作です。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)~像高47.1㎝

実は、この地蔵像、京都下鴨(左京区下鴨松ノ木町)の、4~5坪ほどの小さな地蔵堂に祀られ、永年、地元の人々によって大切に守られ、信仰されてきた地蔵さまだったのでした。

1999年頃の文化財調査で、平安前期の制作の一木彫像であることが発見され、2002年に市指定文化財、2014年に重要文化財指定となりました。
2002年の文化財指定以来、京都国立博物館で保管、展示されています。



【貴重な文化財として博物館預託となり、やむを得ずレプリカをお祀りすることに】


永年この像をお守りしてきた地元の人々にとっては、文化財指定となったおかげで、お堂から肝心の仏さまが、いなくなってしまうことになってしまいました。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
(京都市左京区下鴨松ノ木町)


貴重な文化財の火災、盗難リスク対応として、博物館で保管管理されることになったのでした。
年に一度の「地蔵盆の日の里帰り」も、重要文化財指定以降は難しくなり、苦肉の策として、3Dプリンターによる模像をお祀りして、代替することになったという話です。



【NHK NEWS WEBで、地蔵様の「レプリカお祀り」のいきさつを報道】


このニュース、6/20付けの「NHK NEWS WEB~News up」に「地蔵菩薩を3Dプリンターで」という標題で、レプリカの里帰りのいきさつが掲載されていました。

記事の内容の一部をご紹介すると、次のようなものです。

「京都の世界遺産、下鴨神社にほど近い閑静な住宅街にある地蔵菩薩のお堂で、毎月、地域の人たちが集まって祈りを捧げてきました。
しかし、長年まつられていたお堂には、いま肝心の菩薩像がありません。
台座の上に置かれているのは、大きな写真パネルだけです。

地蔵像が博物館へ預託された後、厨子の前には写真が祀られている
地蔵像が博物館へ預託された後、祀られていた厨子には写真が置かれている

なぜ、写真だけになったのか、そのきっかけは京都市の調査です。
調査の結果、1000年以上も前の平安時代に作られた貴重なものだとわかったのです。
座っている地蔵菩薩像としては、国内で2番目に古い像だとされています。
そこで、京都市は平成14年、地蔵菩薩像を市の有形文化財に指定。
火災や盗難から守るため、菩薩像は国宝や重要文化財を数多く収蔵する京都国立博物館に移されました。

このためお堂には、地蔵の代わりに写真パネルが鎮座することになったのです。
それでも、毎年8月に行われる京都の伝統行事「地蔵盆」の時だけは元のお堂に戻されていましたが、2年前に国の重要文化財に指定されると、年に1回の里帰りもかなわなくなってしまいました。
長年親しんできた菩薩像が、写真だけではどうにも寂しい。
そこで、地域の人たちの思いに応える形で、本物そっくりのレプリカ作りが去年始まりました。
京都国立博物館がもっている3Dプリンターを活用して作成したのです。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)

・・・・・・・・・・・・・・   (3Dプリンターでの仏像レプリカ制作の難しさや、苦労話などの話の記事が続きます)

そして6月初旬、地域の人たちが初めて作業現場を訪れ、レプリカと対面しました。
本物そっくりの姿に、歓喜の声があがりました。
衣のひだにうっすらと積もったほこりも再現され、細部に施された工夫に、じっくりと見入っていました。
そして、およそ1年の作業を経て完成したレプリカは6月13日から、京都国立博物館で、実物と並べてお披露目されています。

レプリカは、8月の地蔵盆に合わせて、地域の人たちが待つお堂に運ばれます。
そして、これからずっと、実物の代わりに安置されることになっています。
保存会の会長を務める矢島隆さんは、
「地域の宝として、これから大切にしていきたいです。関係者の皆さんに本当にお礼が言いたいです」と話していました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1000年の時を超えて、地域で親しまれ、残されてきた地蔵菩薩像。
3Dプリンターの技術や、慎重な色づけ作業のおかげで本物そっくりに仕上がったレプリカは、貴重な文化財を、どうやって後世に引き継いでいくのか、1つのヒントを示してくれているように感じました。」


お祀りされる主がいなくなってしまったお堂に、レプリカとはいうものの、地蔵菩薩が戻ってくることになった訳です。



【「信仰の対象としての仏様」と「貴重な文化財としての仏像」との折り合いの悩ましさ】


観光客、参拝客が多く訪れる有名寺院の場合は、こうした問題は起こらないのですが、地元の地区の人々に守られているお堂に祀られた仏像や、無住のお寺、住職はいらっしゃっても檀家や訪れる人も少ないお寺の仏像が、仏教美術として貴重な文化財であった場合、どのようにしてしっかり管理していくのかというのは、本当に難しく、悩ましい問題だと思います。

重要文化財に指定されている仏像の場合、お寺やお堂でお祀り管理していこうとすると、防災対策がされた収蔵庫が、原則必要ということになりますし、収蔵庫建設費用の地元やお寺の負担金も相当に必要ということになってしまいます。
また、収蔵庫が出来たとしても、防犯対応等の維持管理の手間も、なかなか大変です。

一方、仏さまは、その地の人々に永年守られ、厚い信仰のおかげで、現在在る訳で、
「貴重な文化財なので、博物館に移して管理します。」
と云われても、何とも割り切れない気持ちになってしまうことだろうと思います。


私も、地方のお寺や、地区の管理となっている仏像を拝しに、訪れることがよくありますが、

「大事にお祀り、お守りしているのですが、仏像もお堂の修理も、なかなかお金がかかってままならないのですよ。」
「貴重な文化財と云われても、管理していくのもなかなか大変で・・・・・」

といったお話を伺うことがよくあります。

ニュースになった新町地蔵保存会の地蔵さまも、博物館から戻そうとすると、お金をかけて収蔵庫を造らなくてはならないでしょうし、
コンクリートの収蔵庫ではなくて、今の小さなお堂にお祀りしてこそ、地元の人々にとって、お守りして拝する意味もあるということなのかと思います。

今般の、国立博物館の3Dプリンターによりレプリカを制作し、そのレプリカをお堂の方にお祀りするという話は、

「信仰の対象として祀られる仏様」と「仏教美術の貴重な文化財としての仏像」

という問題に、何とか折り合いをつける方法として、編み出されたものなのでしょう。

きっと、これがベストという訳ではないのでしょうが、大きなコストをかけずに、上手に対応していく一つのやり方として、これからも増えていくのかもしれません。



【京博で、本物とレプリカをセットで展示中】


この3D プリンターを用いたレプリカは、本物の重要文化財の地蔵像と二つ並んで、京都国立博物館に展示されているそうです。

京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ
京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ

レプリカの方は、8月17日に地元のお堂に戻って、19日の地蔵盆で開眼法要が営まれるということです。

どの程度精巧で、見紛うようなレプリカなのでしょうか?
機会があるようでしたら、京博に寄ってみられては如何でしょうか。



【近年の仏像模造、あれこれ】


近年、仏像の模造制作、いわゆるレプリカの精度は、本当に本物に限りなく近づいているようです。

ご存じのように、美術院国宝修理所では、制作当時の仏像の製作技術を研究するとともに、技術レベルの向上のためもあって、仏像の模造制作が行われています。
近年(2013年)では、唐招提寺・鑑真和上像の脱活乾漆技法による模造制作が行われました。

唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付けをする前唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付け後
唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)
~(左)古色付けをする前、(右)古色付け後~



また、東京藝術大学を中心とした「クローン文化財」と称する、文化財の模造制作も、マスコミを賑わして話題となっています。
仏像では、今年(2017年)「法隆寺・釈迦三尊像」の模造が、東京藝大と富山高岡市との連携で制作されました。
3Dデータ計測、および3Dプリント出力による原型づくりを行い、高岡の鋳造技術により金銅仏の模造を「クローン文化財」として制作したものです。
いわゆるレプリカ(複製)とは異なり、オリジナルを超越するという位置付けだそうです。

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~鋳造すぐの姿

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)
法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~(上)鋳造すぐの姿

この「クローン文化財」の法隆寺釈迦三尊像は、2017年7月2日まで、東京藝術大学の「Study of BABEL」展で、展示されています。
私も観てきましたが、なかなかの精巧なレベルで真迫性もあり、ビックリしました。



NHKニュースで採り上げられた、新町地蔵保存会のレプリカ制作と里帰りの話題、
近年の3D技術の精巧さに、今更ながら驚かされるとともに、
「信仰される仏様」と「文化財保護保存」という悩ましき問題の折り合いについて、考えさせられる話でした。

トピックス~想定外の興味深い仏像に沢山出会った「京博の仏像展示」  【2017.4.27】


【「海北友松展」を目指して、京博へ】


4月の中旬、京都国立博物館に「海北友松展」を観に行ってきました。

海北友松展ポスター

特別展主催者の意気込みの凄さが、直に伝わってくるような、充実した展覧会でした。

私は絵画の世界は何もわからなくて、
海北友松と云えば、「桃山時代画壇の巨匠?」ということ以上のことは全く知らなかったのですが、
その作品を眼前にして、「海北友松」という人の絵の素晴らしさを実感し、じっくり堪能してきました。

展示作品は、描かれた「線の強さ、厳しさ」に凄みを感じましたし、圧倒的な気迫や静かな緊張感を感じさせるもので、強く惹かれるものがあります。
当時では老境の60歳を過ぎてから、狩野派から独立し、初めて「海北友松」の名前が世に出るようになったいうことも知りませんでした。
よくぞこの高齢で、これだけの気迫と強さがこもった絵を描くことが出来たものだと、驚きと感動が込み上げてきた次第です。

満足、納得の素晴らしい「海北友松展」でした。



【想定外の沢山の興味深い仏像に出会い、ビックリ!】


今回の「海北友松展」は、普段平常陳列にあてられている平成知新館が会場となっていましたので、仏像の展示も無しということなのかと思っていましたら、仏像だけが1Fに展示されていました。

海北友松展の会場となった京博・平成知新館
海北友松展の会場の京博・平成知新館
通常、平常陳列の会場となっています


「海北友松展」を目当てに出かけたので、仏像については全く頭になかったのですが、特別展の隅で、小さくなっている「平常陳列の仏像」をのぞいてみると、

「これまた、ビックリ!」
でした。
私にとっては、興味深い仏像が、想定外に沢山並んでいたのでした。

ちょっと、ご紹介しておきたいと思います。

展示仏像のなかで、私の眼を惹いたのは、ご覧のような仏像です。

京博仏像展示のなかで、私の眼を惹いた仏像



【十数年ぶりの出会いとなった、二つの木心乾漆像~高山寺、神護寺の薬師坐像】


何といっても、一番の注目仏像だったのは、二つの木心乾漆像でした。
高山寺と神護寺の薬師如来坐像です。

本当に、久しぶりに見ることが出来ました。
この前に観たのは、いつ頃のことだったでしょうか?
少なくとも、ここ十数年はご無沙汰で、もっと間が空いているような気もします。

2躯共、京博に寄託されており、たまには展示されてるはずなのですが、
私には永らくのご無沙汰で、
「オー!出ているじゃないか!」
嬉しくなってしまいました。

共に天平末~平安初の木心乾漆像なのですが、意外に広くは、知られていないのではないかと思います。



【亀岡・金輪寺伝来の高山寺薬師坐像~脇侍は東博と東京藝大に】


高山寺の薬師坐像は、もともと丹波国神尾山金輪寺(現亀岡市)の本尊であったものが、故あって高山寺に移されたものと伝えられています。
そして、本像の両脇侍も現存しており、日光菩薩は東京国立博物館、破損している月光菩薩は東京芸術大学の所蔵となっています。

高山寺・薬師如来坐像
高山寺・薬師如来坐像(木心乾漆・天平末)

東京藝大美術館蔵・月光菩薩像~高山寺旧蔵東京国立博物館蔵・日光菩薩像~高山寺旧蔵
(左)東京藝大美術館蔵・月光菩薩像、(右)東京国立博物館蔵・日光菩薩像~共に高山寺旧蔵


両脇侍が、寺外に出たいきさつは、詳しく調べたことがないのでよく判りませんが、明治期のことであったのでしょう。

半月ほど前に、東京国立博物館に寄った時に、丁度、この日光菩薩像が展示されており、観てきたところでした。
天平末期の乾漆像にしては、キリリと引き締まった覇気のようなものを感じさせるところがある、立派な像です。

一度、三尊揃って、展示されるのを見てみたいものです。



【乾漆なのに、アクの強さに惹きつけられる神護寺薬師如来坐像】


もう一つの木心乾漆像は、神護寺の薬師如来坐像です。

神護寺・薬師如来坐像
神護寺・薬師如来坐像(木心乾漆・天平末~平安初期)


神護寺・薬師如来と云えば、ほとんどの人が、あの厳しい表情の一木彫立像のことだと思ってしまうのですが、実は乾漆の坐像もあり、京博に寄託されているのです。
この坐像の方の薬師如来像も、なかなか見どころのある魅力的な像なのです。

一見して、アクの強い個性的な表現の像です。
アンバランスなほどに大きく見開いた眼、大きな耳は、異貌というムードを醸し出しています。

神護寺・薬師如来坐像
神護寺・薬師如来坐像~顔部

抑揚豊かな衣文の表現も、粘りが強く、ちょっとくどいともいえるような感じがします。
何やら、呪術的な精神性が、籠められているようです。
木心乾漆像でありながら、このクセの強さ、洗練されていない迫力が、この像の魅力なのだと思います。

この異貌の顔の表現、見かけたことのない風貌です。
よく考えてみると、どこかで似たような雰囲気の像を見たことがあるなという気がしてきました。
去年見た、香雪美術館蔵の薬師如来像のことを思い出しました。

香雪美術館・薬師如来像
香雪美術館・薬師如来像~顔部

この像もアクが強くクセのある像です。
香雪美術館像の方は、随分田舎風で、出来の良さのレベルも随分と違いますので、較べてみるのも如何かと思うのですが、

「大きく見開いた眼、異様に大きく湾曲した耳、異国的風貌」

など、どこか似たような空気感というか、雰囲気を感じてしまいました。



【現在の、個性的な姿のなかに、埋め込まれていた天平風の乾漆像】


神護寺の薬師像は、実は、制作プロセスが、特異な像でもあるのです。
X線で透視撮影してみた処、この像の内部に、穏やかな天平風の木心乾漆像が埋め込まれていることが判明しました。

内に籠められた当初像は、体部の厚みも薄く、顔面シルエットからは、高山寺・薬師像、聖林寺・十一面観音像などと共通する造形感覚が想起されるものでした。
現在の像からは、一回り二回り小さな華奢な造形となっていました。

現存像は、その上から、ものすごく分厚く木屎漆を盛り付けて、古い乾漆像を芯にして、全く新しい乾漆像を盛り上げ成形したものとなっていたのです。
この際に、現在の、平安初期的要素の強い、アクとボリューム感のある表現に変えられたのでした。
この像を調査した本間紀夫氏は、当初像と表面像の間にさほどの年代差はなく、延暦期の近辺20~30年の範囲ではないかと述べています。

何故に、このように造り替えられたのかは、よく判りません。
神護寺の前身、高雄山寺ゆかりの像かもしれないとの見方もあるようです。

いずれにせよ、この神護寺・薬師坐像は、大変興味深い像です。
また、強烈な個性に、私は惹かれるものを感じています。
この像に偶々出会えて、想定外の歓びでした。



【「観仏日々帖」ご紹介の、魅力ある像にも出会う~阿弥陀寺・薬師像、般若寺・十一面観音像】


この他にも、いくつか、私の注目仏像が、展示されていました。

城陽市枇杷庄にある阿弥陀寺の薬師如来像が、出陳されていました。

阿弥陀寺・薬師如来像
阿弥陀寺・薬師如来像

1メートル弱の檀像風素木一木彫像ですが、その迫力は満点です。

「怖い顔、鋭い彫り口、発散する気、威圧する霊気」

こんなキーワードはあてはまる、平安初期彫像です。

阿弥陀寺・薬師如来像
威圧するように怖い顔貌の阿弥陀寺・薬師如来像

「木塊が、霊威を以て迫りくる」
こんな感じが受けるのです。

私が、強く惹かれるものを感じる一木彫像の一つです。
この観仏日々帖「京都府城陽市・阿弥陀寺の薬師如来立像」で、ご紹介したことがありますので、ご覧いただければと思います。


同じく、観仏日々帖「右京区嵯峨樒原高見町・般若寺の十一面観音像」京のかくれ仏探訪② で、ご紹介した仏像も出陳されていました。

般若寺・十一面観音像
般若寺・十一面観音像

この像も、たまに京博に出陳されるようなのですが、ちょうど運良く、出会うことが出来ました。

愛宕山の向こうの村落、右京区嵯峨樒原高見町という処にある平安古仏です。
愛宕山中の、凄い九十九折の怖くなるほどの山道を車で走って、やっと般若寺にたどり着いて、この像を拝したことを懐かしく思い出してしまいました。



【初めて知った、妙傳寺・十一面観音像(重文・平安中期)~古代朝鮮金銅仏発見でニュースになったお寺】


はじめて見たというか、その存在さえ知らなかったのが、左京区八瀬近衛町にある妙傳寺の十一面観音像です。

北区八瀬近衛町にある妙傳寺
北区八瀬近衛町にある妙傳寺

等身ぐらいの平安中期の木彫像です。
重要文化財に指定されているのですが、全く知りませんでした。
解説キャプションには、平安中期の代表的作例である遍照寺・十一面観音像に通じるものがある作風と書いてありました。
後世の手が入っているところもありそうですが、たしかに穏やかな平安中期風の木彫像です。

手元の資料を見てみたのですが、写真さえ見つけ出すことが出来ませんでした。
昭和年代の重要文化財リストには上がっていないようですので、平成になってから重文指定を受けた像なのでしょうか?

妙傳寺と云えば、今年の1月、

「朝鮮渡来、小金銅仏の発見~従来模古作とされていた半跏思惟像」

ということで、NHKニュースや新聞で大きく採り上げられた、あの妙傳寺です。

ニュースで話題になった妙傳寺・半跏思惟金銅仏像
ニュースで話題になった妙傳寺・半跏思惟金銅仏像

観仏日々帖でも「模古作とされていた京都妙傳寺の小金銅仏、実は古代朝鮮仏と判明?」で、紹介させていただきました。

「あの妙傳寺に、こんな重文指定の立派な平安中期仏像があったのだ。」

と、妙なところで感心してしまいました。



【妙傳寺・十一面観音像についての、追加の挿入です~2017.05.13】



この「観仏日々帖」にコメントをお寄せいただき、この平安中期の仏像のことが、はっきりしました。
この像は、従来「八瀬文化財保存会の十一面観音像」と云われていたものだとのご指摘、ご教示をいただきました。

「そうだったのか!」

と、膝を打つというよりは、

「この像が、八瀬文化財保存会・十一面観音像であることが、どうしてわからなかったんだろう?」

と、なんとも情けないというか、恥ずかしいというのが、偽らざるところです。

ご覧のとおりの仏像です。

妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像

妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像
妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像

この「八瀬文化財保存会・十一面観音像」なら、これまで、この京博の仏像陳列に展示されているのを、何度も、観たことがあるのです。

掛けて加えて、この前の回の観仏日々帖「三重県津市・光善寺の薬師三尊像の御開帳」で、この像の写真まで掲載して、

「六波羅蜜寺・十一面観音(951)⇒⇒⇒遍照寺(989)、八瀬文化財保存会・十一面観音という和様化流れの中にある像と位置づける、ということか・・・・」

と、書いたばかりなのでした。
遍照寺十一面観音像と並んで、平安中期観音像の典型例の一つとして知られている仏像なのです。


展示されていた「妙傳寺」十一面観音というのは、「八瀬文化財保存会」十一面観音のことだったのでした。
近年、所蔵者が「妙傳寺」に変わったということなのでしょうか?
以前は、「八瀬文化財保存会」として、展示されていたように思うのですが・・・・・・・
「妙傳寺所蔵」ということになったのだとしたら、その事情などについては、よく判りません。

それにしても、
「所蔵者名のキャプションが変わっただけで、展示されている仏像そのものが、何度も観た仏像なのかどうか、判らなくなってしまった。」
という訳です。

「自分の仏像を見る眼は、何だったのだろうか?」

と、つくづく情けなくなってしまいました。


ついでという訳ではないのですが、
この妙傳寺(八瀬文化財保存会)・十一面観音像のことについて、ちょっとだけ、ふれておきます。

この像は、昭和55~58年に行われた、京都市内の文化財集中地区総合調査の際、昭和56年(1981)に、その存在が確認されたものです。
長らく、八瀬の念仏堂と呼ばれる小堂に安置されていた像だそうです。
調査により、10世紀後半、平安中期の貴重な作例であることが判り、昭和59年(1984)、重要文化財に指定されました。

以来、京都国立博物館に寄託され、平常陳列に折々出展されている像という訳です。

そんな、何度も観た仏像を眼の前にして、所蔵者名が違っただけで、
「写真すら見つからなかった」
などと、思い込んでしまった次第です。


何卒、ご容赦ください。




【ほかにも興味深い仏像が、いろいろ出展】


これ以上、一つひとつご紹介するのは、長く、くどくなるのでもうやめておきます。


最近、京博にいつも展示されていますが、今年、新国宝に指定された、金剛寺の巨大な大日如来像、不動明王像。

新国宝になった金剛寺・大日如来像
新国宝になった金剛寺・大日如来像~金剛寺草創期1180前後の作

新国宝になった金剛寺・不動明王像
新国宝になった金剛寺・不動明王像~天福2年(1234)行快作


かつて北区・常楽院の所蔵で、新聞ダネになったような事件を経て、平成22年(2010)に文化庁が買い上げた、清凉寺式釈迦像。

文化庁・清凉寺式釈迦如来像~常楽院旧蔵
文化庁・清凉寺式釈迦如来像~常楽院旧蔵


普段なかなかお目にかからない、大原草生町保存会の藤原風の薬師如来坐像。

大原草生町保存会・薬師如来像
大原草生町保存会・薬師如来像


いつみても、鎌倉時代の檀像風彫刻の精緻さが美しい勝龍寺の十一面観音像。

勝龍寺・十一面観音像
勝龍寺・十一面観音像


こんなところが、眼を惹いた仏像でした。



「海北友松展」目当てで出かけた京博で、頭に全くなかった興味深い仏像に沢山出会えることとなりました。

いつも頻度多く、京博の仏像展示をご覧になっている方には、さほどに新顔仏像の登場という感はなく、また折々の顔見世という感じではなかったかと思うのですが、
私にとっては、本当に久方ぶりの、高山寺、神護寺の薬師坐像との再会とか、観仏日々帖で採り上げたいくつかの「見どころあるあるかくれ仏」の展示など、想定外に、嬉しく収穫のある「仏像展示」でした。


これらの仏像に、ご興味を感じられた方は、是非、海北友松展とともにご覧になってみることを、お薦めします。


「海北友松展」も、ご紹介の「仏像展示」も、5月21日までです。


トピックス~模古作とされていた京都妙傳寺の小金銅仏、実は古代朝鮮仏と判明? 【2017.1.21】


【夜7時NHKニュースで、「古代朝鮮仏発見?」の報道にビックリ!】


正月気分もまだ明けない1月7日、夜7時のNHKテレビのニュースで、こんなニュースが報道されました。

ニュースの見出しは、

「小さな寺の仏像 実は朝鮮半島伝来の貴重な仏像か」

というテロップです。

妙傳寺・半跏思惟像
妙傳寺・半跏思惟像


【TVニュースでの報道内容は?】


アナウンサーの方は、このように語っていました。

京都市の小さな寺にある、江戸時代のものと思われていた仏像が、実は、仏教が日本に伝来して間もない頃に朝鮮半島で作られた極めて貴重な仏像の可能性が高いことが、大阪大学などによる最新の調査でわかりました。
専門家は
「こうした貴重な文化財は、ほかにも埋もれている可能性がある」
と指摘しています。

京都市左京区八瀬近衛町にある「妙傳寺」では、「半跏思惟像」という高さおよそ50センチの青銅製の仏像が本尊として安置されていて、これまでは、寺が建てられたのと同じ江戸時代のものと思われていました。

京都八瀬の妙傳寺
京都市左京区八瀬の妙傳寺

この仏像について、大阪大学や東京国立博物館の研究者が改めて鑑定したところ、額に刻まれた模様や装飾品の龍のデザインなどが6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致していました。
さらに、仏像にX線を当てて金属の成分を詳しく調べた結果、銅がおよそ90%、スズがおよそ10%で鉛はほとんど含まれていませんでした。
こうした割合は日本や中国の仏像にはなく、7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像である可能性が極めて高いことがわかったということです。

この時代は、日本に仏教が伝わってまもない時期に当たりますが、この仏像がどういう経緯でこの寺に伝わったかはわかっていません。

調査に当たった大阪大学の藤岡穣教授は、
「韓国では国宝級となる最高レベルの仏像で、こうした仏像が見つかったことは大きな意味がある。
ほかにも、埋もれている貴重な文化財がまだまだ見つかる可能性があり、価値に気付かれないまま盗難などの被害に遭う前に、調査が進んでほしい」
と話しています。


その後の話を要約すると

古代朝鮮仏と判断される決め手となったのは、非破壊・非接触の「蛍光X線分析」による、金属組成分析の積み重ねの成果であったこと。
仏像は、盗難の恐れがあるため、3Dスキャナーによって模造を制作しこれをお寺に安置、実物は博物館で保管されることになった。

との説明がされていました。


なんと、ゴールデンタイム、NHKの7時のニュースに、5分近くの長い時間を割いて、この仏像の発見ニュースが流されたのです。
ご覧になった方も、たくさんいらっしゃるのではないかと思います。

妙傳寺・半跏思惟像
妙傳寺・半跏思惟像

私は、大阪大学の藤岡穰氏が、1年ほど前に、論文やシンポジウムで、

「この仏像は、模古作といわれていたが、科学的分析等によると古代朝鮮仏であるとみられる。」

という考えを発表されていたことを、たまたま知っていましたので、

「あの話が、TVニュースで、こんなに大きく採り上げられたのか!」

と思いましたが、採り上げ方の大きさにビックリしてしまいました。



【新聞各紙も、X線分析で「7世紀の渡来仏発見か?」と、大きく報道】


このNHKニュースから1週間ほど後、今度は、新聞各紙が、記事に大きく採り上げて、一斉に報道されました。

このような見出しでした。

「7世紀に朝鮮半島で制作か 京都・妙伝寺の仏像、X線で成分分析」 (産経新聞)

「本尊は国宝級渡来仏…7世紀に朝鮮半島で製作か」 (毎日新聞)

「『江戸期』実は7世紀の渡来仏? 京都の半跏思惟像X線分析」 (朝日新聞)


朝日新聞の記事をご紹介すると、次のようなものです。

妙傳寺・半跏思惟像の発見を伝える朝日新聞記事
妙傳寺・半跏像の発見を伝える朝日新聞記事
京都市左京区八瀬近衛町の妙伝寺の本尊で、江戸時代の制作とされてきた「半跏思惟像」(高さ約50センチ)が、仏教伝来から間もない7世紀ごろに朝鮮半島で作られた金銅仏である可能性が高いと13日、調査した大阪大の藤岡穣教授(54)=東洋美術史=が発表した。

この時代の渡来仏は全国的にも数が少ないといい、
「装飾も精巧で、朝鮮半島から伝来したものだろう。貴重な仏像だ」
と話している。

藤岡教授の鑑定によると、仏像の額に水平に刻まれた毛筋や装飾品の竜のデザインなどが、6~7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像の特徴とよく似ていたという。
また、仏像にX線を当てて金属の成分を調べる「蛍光X線分析」では、銅が約86%、錫が約10%だった。日本や中国の仏像に比べて錫が多い組成から、7世紀ごろ朝鮮半島で制作された可能性が高いとみている。

蛍光X線分析には従来、大型機器が必要だったが、藤岡教授らはヘアドライヤーほどの大きさまで小型化。
これまでに日本国内や中国、韓国などの古い仏像約400体を調査した。

妙伝寺は寺伝によれば、江戸初期の1616年創建。
そのため、この仏像もこの頃の制作と考えられていた。

今回の調査結果を受け、3Dプリンターで仏像のレプリカを制作。
実物は博物館に寄託し、レプリカを寺に安置するという。
寺は天皇の大礼や大喪の時などに輿を担いだ八瀬童子の菩提寺として知られる。
(朝日新聞、1月14日付け朝刊)


妙傳寺・半跏思惟像~頭部
妙伝寺本尊の半跏思惟像
髪を中央で二つに分け、額にそわせているのは、
6~7世紀の朝鮮で作られた仏像の特徴に共通しているという


妙傳寺・半跏思惟像~顔部
耳たぶの先端に切れ込みが入っているのは
5世紀ごろのインドの仏像などに類例があるという


妙傳寺・半跏思惟像~脚部模様
脚部中央のとぐろを巻く竜文飾りは、
6~7世紀の朝鮮の作例に共通した特徴だという


新聞各紙にこれほど大きな記事で報道されて、またまたビックリです。
仏像愛好の方々の間では、しばらく、この話題で盛り上がるのかなという感じです。

金銅仏は、博物館に預けられるという話ですが、大津市歴史博物館で保管されるようで、10月7日~11月19日に、同博物館で展示されるということです。

皆さん、この金銅仏の写真をご覧になって、どのように感じられたでしょうか?

「江戸時代の模古作? 7世紀の古代朝鮮仏?」

如何でしょうか?



【一昨年、展示会に出展され、シンポジウムで研究成果が発表されていた、妙傳寺・半跏思惟像】


実は、この妙傳寺の金銅仏は、一昨年、2015年10~12月に、大阪大学総合学術博物館で開催された
企画展「金銅仏きらきらし―いにしえの技にせまる―」
に展示されました。

金銅仏きらきらし展ポスター
「金銅仏きらきらし展」ポスター

また、同時に開催された
「国際シンポジウム~金銅仏の制作技法の謎にせまる」
における、藤岡穣氏の講演「東アジア金銅仏の蛍光X線分析からわかること」で採り上げられ、

「7世紀の古代朝鮮金銅仏であると考えられる」

という説明が、なされていました。

その研究成果が、今般、大々的にマスコミ発表されたということなのだと思います。


私は、この展覧会とシンポジウムに興味がありましたので、丁度関西へ行くタイミングを合わせて、出かけてみました。
その時に、この金銅仏の実物を、眼近に観たのですが、素人には、

「模古作、古代朝鮮仏?何とも、よくわからない! どちらと云われても、そうなのかな?」

というのが、正直な実感でした。



【近年、金銅仏の金属組成調査に目覚ましい成果を生んでいる、蛍光X線分析】


藤岡穰氏
藤岡穰氏
新聞報道にもあるように、藤岡穣氏は、近年、蛍光X線分析により、金銅仏の金属組成の調査研究に取り組まれています。
これまでに日本国内や中国、韓国など仏像、約400体を調査したそうです。

蛍光X線分析というのは、非破壊、非接触で、対象物の素材の元素組成を測定分析する方法です。
対象物にX線を照射、そこから発生する蛍光X線を測定し、対象物がどの元素で構成されているかを分析するもので、近年、測定機器装置が格段に進歩し、金銅仏調査などにめざましい成果を生んでいるものです。

藤岡氏は、金銅仏の時代様式、形式からの研究に加えて、金属組成分析結果のアプローチからの研究を、併せて行うことによって、新たな視点で制作年代の判定などを論じられています。

私には、科学的分析云々などということは、難し過ぎて、全くわからないのですが、藤岡氏等により、従来、模古作と考えられていた金銅仏が、古い時代に遡るものと考えられるなどの研究成果が、いくつか発表されていますので、シンポジウムでの講演内容なども含めて、ちょっとだけご紹介しておきたいと思います。

金銅仏の金属組成ですが、銅の他には、主として錫、鉛が含まれるそうです。
他にも、鉄、亜鉛、ヒ素も含まれる場合があるそうです。
シンポジウムでの講演では、時代別また日本、韓国、中国では、ご覧のような特徴があるとのことでした。

金銅仏の金属組成の特徴表



【妙傳寺像が朝鮮古代金銅仏と判断されたポイント】


マスコミで報道された、妙傳寺の半跏像は、銅が約90%、錫が約10%の組成となっています。
藤岡氏は、妙傳寺の如意輪観音半跏像について、このように述べています。

妙傳寺・半跏思惟像~側面
妙傳寺・半跏思惟像~側面
「さまざまな金銅仏について蛍光X線分析を実施したところ、日本の飛鳥時代の作例の場合は原則的に錫の合有率が低く、また、奈良時代以降は次第に鉛の含有率が増加する傾向があることがわかつてきた。

そうした原則ないし傾向に照らすならば、本像の青銅には1割程度の錫が含まれることから飛鳥時代のものとは考えられず、また鉛をほとんど含まないとから平安後期以降の制作になる蓋然性も低いと思われる。

また、朝鮮三国の金銅仏にも本像のように薄手で像内がやや荒れた作例が見出されることは前述のとおりである。

そして、そうであるならば、特徴的な細部形式にいずれも中国や朝鮮半島の作例との類似が認められ、逆にそれがほとんど日本の作例にはみられないことを顧慮すれば、日本の中近世における模像、復古像となるよりも、やはり素直に渡来仏とみるべきであろう。」


この文章は、

「京都某寺と兵庫・慶雲寺の半枷思惟像」(藤岡穰) 美術フォーラム21第32号2015.11.30

という論文で、述べられているものです。

京都某寺というのは、妙傳寺のことです。
論文と展示会では、盗難リスクへの配慮からか「某寺」と表示されていました。
今般、「妙傳寺」であることが、明らかになったものです。

本論文では、単に、金属組成分析の観点だけではなく、詳細な様式、形式の検討の上、

「百済以来の伝統を色濃く伝えた新羅造像である蓋然性が高い」

と述べられています。



【続々と、新たな研究成果が発表されている、金銅仏の蛍光X線分析】


また、この論文では、鎌倉以降の擬古作とか、真贋についての議論もあった、兵庫・慶雲寺の半跏思惟像も、その金属組成、様式等から、朝鮮三国時代、7世紀以降の制作の可能性について論ぜられています。

兵庫慶雲寺・半跏思惟像
兵庫慶雲寺・半跏思惟像


この他にも、近年の、藤岡氏による金銅仏の蛍光X線分析による、新たな研究の見方を、いくつかご紹介すると、次のようなものがあります。

これまで平安~鎌倉時代以降の模古作とみられていた、安養寺の金銅仏・如来立像については、
その組成が純銅に近いことなどから、

「大阪大学の藤岡穣教授が蛍光X線分析を行ったところ、素材については、白鳳時代から天平時代に制作されたと考えて矛盾が無い。」
(「カミとほとけの姿展・図録解説」岡山県立博物館2016.10)

との見方がなされています。

岡山安養寺・如来立像.岡山安養寺・如来立像
岡山安養寺・如来立像


近代の擬古作の疑いがあるという疑問が出された、野中寺の弥勒菩薩半跏像については、
その金属組成(銅:90%、錫3%、鉛をほとんど含まない)からも、日本の古代金銅仏として許容範囲にある(「野中寺弥勒像について~蛍光X線分析調査を踏まえて」ミューゼアム649号2014.4)と述べられています。

野中寺・半跏弥勒像
野中寺・半跏弥勒像


殆どが鎌倉時代以降の補作で、当初部分がごくわずかしか残されていないとされている飛鳥大仏についても、
顔面部分のほとんどは7世紀造立当初のものと見られるとの調査結果を発表し、新聞記事に大きく採り上げられたりしました。

飛鳥寺・飛鳥大仏(釈迦如来像)
飛鳥寺・飛鳥大仏(釈迦如来像)

飛鳥大仏の顔部造立時のものを伝える読売新聞記事

飛鳥大仏の顔部造立時のものを伝える読売新聞記事
「飛鳥大仏の顔部造立時のもの」との研究成果を報ずる読売新聞記事(2016.11.11付)


このように、蛍光X線分析による、金銅仏の金属組成の科学的分析の研究は、金銅仏の制作年代判定に、従来の見方を大きく覆す、新たな視点を提供しているようです。


科学的分析結果を横に置いておいて、これらの仏像の姿を観た感じの私の印象についていえば、妙傳寺の半跏思惟像、慶雲寺の半跏思惟像、安養寺の如来立像などのフィーリングは、平安鎌倉以降の模古的、擬古的な像と云われると、正直な処そのように感じるというのも本音です。

「7世紀前後の制作」といわれると、うまく説明はできないのですが、微妙にしっくりこない感じもしないわけではありません。

なんとなく、既成概念にとらわれた見方になってしまっているということなのでしょうか?


科学的分析の研究が一層進展すれば、従来の常識が、大きく覆されるようなビックリの研究成果が、これからいろいろ判明していくのかもしれません。


マスコミに大きく採り上げられた「妙傳寺の半跏思惟像は、古代朝鮮仏」という話を、ご紹介しつつ、最近の蛍光X線分析による科学的調査研究などについてふれてみようと思って書き始めたのですが、
何ともとりとめのない支離滅裂な話になってしまいました。


自分でも、何を書いているのか、訳が分からなくなってしまったというのが実感ですが、「新発見の古代朝鮮仏の紹介記事」ということで、お赦しいただければと思います。


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