観仏日々帖

古仏探訪~草津、宝光寺・薬師如来像と橘堂・観音像の秘仏御開帳 [その1] 【2017.9.16】


2.橘堂・三面六臂の観音像の御開帳



宝光寺の秘仏・薬師像と、観音堂・聖観音像に、想定外の大満足の後、近くの橘堂・観音像の御開帳に向かいました。

橘堂の三面六臂観音像は、10~11世紀頃の、お顔の大変美しい観音様です。

橘堂・三面六臂観音像(平安時代・草津市指定文化財)
橘堂・三面六臂観音像(平安時代・草津市指定文化財)

像高:107cm、ヒノキの一木彫・内刳無し、本面・両脇面・頭頂面が十四面で、六臂の観音で、草津市の指定文化財となっています。

この像の呼び方については、三面千手観音像と書かれたり、千手観音と断じるのを避けて、三面六臂観音像、十四面六臂観音像と書かれていたりします。
ここでは、市指定文化財の名称となっている「三面六臂観音像」と呼ばせていただきました。



【宝光寺御開帳に合わせて開帳される、橘堂の観音様】


橘堂は、宝光寺の北西5~600m程の、草津市志那町という処にあります。

この橘堂の観音様の御開帳は、宝光寺の御開帳の時に合わせて、同じ時期の行われることとなっています。
由緒によると、南都僧、定恵が勅願により宝光寺を創建した際に、同時に建立されたものという伝えがあり、御開帳も宝光寺と一体ということになっているようです。

公園の広場のような場所に、ポツリと建てられた小堂があり、そこが橘堂です。

御開帳日の橘堂
御開帳日の橘堂

本日は、御開帳日ということで、お堂の横にテントが張られ、地元の方がご開帳の対応をされていました。

橘堂・観音像御開帳の看板、ご対応の方々のテント
橘堂・観音像御開帳の看板、ご対応の方々のテント



【端正で美しいお顔に、思わず見惚れる三面六臂の観音像】


早速、お堂に入って、観音像のご拝観です。

内部が金色のお厨子に祀られている橘堂・観音像
内部が金色のお厨子に祀られている橘堂・観音像

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

なんといっても「美しく、整ったお顔」が、印象的です。
「端正」という言葉が、そのままあてはまるようなお顔の造形で、見惚れてしまいます。
優美だけれども、キリリとしっかり締まったお顔です?

端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像
端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像
端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像

いわゆる、藤原風の「繊細優美」と云われる雰囲気とは少し違っています。

「しっかりとした彫り口の中に、心鎮まる穏やかさがこめられた、端正な顔貌。」

とでもいうのでしょうか。

本面、脇面の三面のお顔が、厨子の内側の金色に映えて、浮かびあがってくるような幻惑感さえ覚えてしまいます。
この観音像を拝すれば、誰もが、このお顔に魅了されてしまうことと思います。

像全体のプロポーションも、バランスよく整っており、なかなか出来の良い像です。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

肉付けも穏やかながら豊かなものがあり、衣文も大人しく整ったものですが、シャープな刻線で彫られています。

橘堂・三面六臂観音像~脚部
橘堂・三面六臂観音像~脚部

檀像風の素木の像であったのしょうか?
髪際のあたりには、細かいノミ跡が残されています。



【10世紀末頃の出来の良い観音像~めずらしい三面六臂の千手観音】


10世紀末頃の制作とみられているようですが、いわゆる藤原風になっていく直前あたりの、平安中期の穏やかさの造形表現の像ということで、納得です。
そのなかでも、なかなか出来の良い像なのではないでしょうか。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

この像の魅力は、三面六臂の造形バランスの良さにもあるように思います。

これを千手観音と見做すかどうかの議論もあるようですが、三面千手観音像と云うのは、現存している像が少ないそうで、京都・法性寺像(平安・国宝)、福井・妙楽寺像(平安・重文)、京都・正法寺像:元九品寺蔵(鎌倉・重文)が知られているそうです。

京都法性寺・三面千手観音像(平安・国宝)
京都法性寺・三面千手観音像(平安・国宝)

福井妙楽寺・三面千手観音像(平安・重文).京都・正法寺像・三面千手観音像(鎌倉・重文)
(左)福井妙楽寺・三面千手観音像(平安・重文)、(右)京都・正法寺像・三面千手観音像(鎌倉・重文)



【展覧会ポスターとなり、一躍、人々の眼を惹いた「かくれ仏」】


私が、この観音像を初めて観たのは、もう20年近くも前のことです。

1998年秋に、滋賀県立近代美術館で開催された「近江路の観音さま展」に、出展されたのです。
この展覧会は、平安期を中心とした近江の観音像50躯ほどが一堂に会した、大変充実した仏像展でした。
なんと、その展覧会ポスターに、橘堂観音像のお顔のクローズアップ写真が使われ、図録の表紙を飾ったのでした。

「近江路の観音さま展」図録の表紙に使われた橘堂観音像のお顔
「近江路の観音さま展」図録の表紙に使われた橘堂観音像のお顔

多くの人が、
「橘堂の観音像? そんな仏像あったっけ?」
と、と思ったに違いありません。

そんなかくれ仏が、一躍、展覧会のスターの座に大抜擢され、観音像のお顔の、穏やかで心惹き込まれるような美しさに、人々が魅了されたのでした。

図録表紙の橘堂観音像のお顔
図録表紙の橘堂観音像のお顔

以来、私も、お気に入りの仏像の一つなり、今回の御開帳で、この観音像を拝するのも4回目になりました。
いつ拝しても、この観音像の「端正な美しさ」に見惚れてしまいます。



【吉田・白井両家が管理所有する橘堂】


普段は、秘仏として守られているのですが、橘堂の管理所有者である吉田家にお願いすると、ご都合が付けば、拝させていただくことが出来るのです。

実は、この橘堂の観音像は、個人所有になっているそうで、吉田家、白井家の両家で、お堂が建てられ管理されているのだそうです。
お堂のある場所も「吉田」という地名が付けられており、すぐそばの吉田家の元母屋は「吉田家住宅」とっして県指定文化財になっています。

県指定文化財となっている吉田家住宅
県指定文化財となっている吉田家住宅

お堂のある広場には、、琵琶湖養殖真珠の事業化を手掛け「淡水真珠養殖の父」と呼ばれる「吉田虎之助翁銅像」が建てられています。

橘堂のお堂の敷地に建てられている「吉田虎之助翁銅像」
橘堂のお堂の敷地に建てられている「吉田虎之助翁銅像」

ところで、なかなか整って出来の良い、橘堂・観音像なのですが、文化財としては「市指定文化財」になっています。
これだけの出来であれば、重文とまでは云わなくても、せめて県指定文化財ぐらいになってもよいのではないだろうか、と思うのですが・・・・・・

はっきりとしたことはよく判りませんが、この像が「市指定」でとどまっている訳には、観音像の本面が、

「江戸時代の後補のものではないか?」

とみられていることが、影響しているのかもしれません。



【別材で矧ぎ付けられているお顔、本面~江戸時代の後補なのか?】


先程来、「美しく端正で、見惚れる」と綴ってきた、観音像のお顔なのですが、なんと江戸時代の後補であるといわれているようなのです。
本像は、江戸時代、寛文13年(1673)に修理されたという旨の墨書が、台座に残されています。

観音像台座に残された、寛文13年(1673)修理の墨書
観音像台座に残された、寛文13年(1673)修理の墨書

その修理の際に、第一手上膊部等が後補されているのですが、火災で損傷したお顔、本面が造り直されて、矧ぎ付けられたとというのです。

たしかに、お顔、本面の側面の方には、材を矧ぎ付けたとみられる線が入っているのが判ります。
この線の処から、顔面が矧ぎ付けられているということです。

面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔~右目の目尻から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える
面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔
~右目の目尻から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える~


面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔~左耳の付け根から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える
面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔
~左耳の付け根から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える~


そうだとすると、今の美しいお顔は、江戸時代のものということになるのでしょうか?

この点について、宇野茂樹氏は、本面は江戸の補修とみて、このように述べています。

「頭上前面の化仏(頭頂仏面は除く)や、両脇・体幹部が手を除いて造像当時のものであるにもかかわらず、もっとも大事な本面が後代に補修されている。
左膝下裳の部分に火を間近に受けた跡が残ることから、おそらく火災の時に本面が損傷受け、寛文13年(1673)の修理のときに補修されたものであろう(台座裏修理銘)。
しかし作風から10世紀末の造像と考えられ、我が国でも作例の少ない三面千手として注目に値する。」
(「平安の美術」宇野茂樹・草津市史1巻1981.07所収)



【本面も、後補ではなく10~11世紀のものと見る、新たな見解も】


以来、ずっと、「本面は、江戸時代の後補矧ぎ付け」とみられていたようなのですが、高梨純次氏が、

「本面も、後補ではなく、10~11世紀のものと見てよいのではないか。」

との、新たな見方を述べています。

橘堂・観音像が図録表紙に使われた「近江路の観音さま展」の図録解説において、このように記されています。

「さらに現状についての解釈にとって大きな問題は、正面の本面が別材製となる点である。
この点については、宇野茂樹氏により、寛文13年に補修きれたものと解釈されている。
・・・・・・・
作風の違う観音像の頂上仏面と本面~本面は古く、頭頂仏面は江戸の補作?
作風の違う観音像の頂上仏面と本面
~本面は古く、頭頂仏面は江戸の補作?
本像の本面は、幹部材の前後の厚みからして、幹部材よりの彫出が可能であり、あえて別材製としているについては、やはり当初のものではないとするのが妥当であろうが、その表現からして果たして17世紀後半の後補とするにはいさきか古様を留めている。
本面は、丸々とした全体感をもち、天冠台の形式や表現も古様であり、眉から鼻にかけてのカーブも明快で、引き締まった唇の表現もバランスが整い、エッジを利かせた明快なものとなっている。
・・・・・・・・・・
この右脇面を参考として本面が後補きれた可能性もあるが、近世に至って補作がなされたとするには破綻が認められず、やはり検討した時期に近い頃の作とするのが妥当であろう。
また、頂上仏面を含めた頭上面の補作を、この寛文13年とみるならば、やはり両者の作風の違いは明らかである。」

「別材製の本面が補作されたものとしても、あまり年代の離れた時点ではなく、比較的に近い時期に行われたものと結論付けられよう。
あるいは、幹部材の木心がほぼ中央に籠められていることを嫌っての所為、または支障が生じてのことかとも推測される。」

以上のような考えを示したうえで、

「本面の制作は、10世紀末から11世紀初頭とするのが妥当であろう。」

との結論に達しています。

いずれの見方が正しいのでしょうか?



【平安時代のお顔と思いたい、端正な美しさ】


難し過ぎる議論で、私などには、どうこう云えるものではないのですが、あの本面がいずれの時代のものであろうと、「端正で美しいお顔」には惹きつけられ惚れ込んでしまいます。
あのお顔が、江戸時代のものと云われると、何とも残念至極というのが、実感です。

高梨氏が想定されているように、
「木心が中央に籠められているのを嫌ったから」
とか、
「一度、彫ってみた顔が満足いくものではなかったので、彫り直して矧ぎ付けた。」
というふうに思いたいというのが、率直な気持ちという処です。

この本面が後補という問題がなかったならば、「県指定とか重文」に指定されていた可能性もあるのでしょうか?



御開帳に訪れた8月8日は、じりじりと真夏の太陽が照り付ける、炎暑でした。
35度越えになったのかもしれません。
酷暑にもかかわらず、訪れる方が絶えることはありませんでした。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像


ジットしていても、うだる暑さでしたが、小ぢんまりした橘堂で、穏やかな観音像の姿を拝していると、厳しい暑さも忘れてしまいそうな、心静かな時間を過ごすことが出来ました。


古仏探訪~草津、宝光寺・薬師如来像 と 橘堂・観音像の秘仏御開帳 [その1] 【2017.9.16】


その1. 宝光寺・薬師如来像の秘仏御開帳



心待ちにしていた「秘仏~宝光寺・薬師如来像の御開帳」が、この8月にありました。

宝光寺は、滋賀県草津市にある天台宗のお寺です。
御本尊の薬師如来立像は、10世紀頃の制作と云われる平安古仏で、厳重な秘仏として守られています。


【一度は拝したいと、気になっていた、宝光寺・秘仏薬師如来像】


この仏像、一度は拝してみたいものと思いながらも、ずっと未見となっていました。

「仏像集成」(学生社刊)には、ご覧のような写真と共に、次のような解説が付されています。

宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)

宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)
宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)


木造 彩色 166.7cm

木造(カヤ材か、一木造)、彩色。
木心は像のほぼ中央に籠められ、内刳りはない。
頭部は体部に比して大きく造られるが、塊量性を減じ、太い襞に鎬立つ衣文を配し、股間に流す形式も彫は浅くなっている。
10世紀後半期の天台宗における立像薬師の一例と考えられる。
両手先・両足先・持物・台座・光背の一部は後補。

秘仏。  〈重要文化財〉 」


掲載写真を見ると、なかなか興味深い平安古仏です。
以前から、気になっていた仏像なのです。

近江湖南の平安古仏は、随分巡ったのですが、宝光寺・薬師像は33年に一度の厳重秘仏で、これまで拝することが叶わなかったのです。



【このチャンス、逃すまじ!~33年に一度の御開帳に、いざ草津へ】


その宝光寺・薬師如来像が、今年(2017年)8月9日~13日の5日間に限り、御開帳されることになったのです。
今年が、33年に一度の御開帳の年にあたります。
平成13年(2001)に中開帳があったそうなので、16年ぶりの本尊御開帳ということです。

「このチャンス、逃してはならじ!」

と、草津まで出かけることにしました。

宝光寺は、JR草津駅から北東に5キロほど、草津市北大萱町という処にあります。

草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日

草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日
草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日の様子

御開帳初日の8/9、午前11時過ぎに到着したのですが、丁度、御開帳式、法要が行われている最中でした。
それほど大きなお寺ではありませんでしたが、33年に一度の御開帳ということだけあって、北大萱町の集落挙げての盛大なご開帳行事という様子です。
大勢の地元の人々が集まられている中で、読経、ご挨拶が続きます。

御開帳式が執り行われている宝光寺・本堂

御開帳式風景~ご法要が終わった処
御開帳式・法要が執り行われている宝光寺・本堂

御開帳式次第が終わると、いよいよ、ご拝観です。
めざす薬師如来像は、本堂の大きな厨子の中に祀られています。
厳重な秘仏の御本尊ですので、少し離れたところからご拝観になるのかなと思ったら、厨子の前まで近づいて拝してよいということです。

お厨子に祀られた秘仏御本尊の御開帳風景
御開帳された秘仏御本尊を、ご拝観する人々

有難いことに写真もOKいただきました。
薬師像のすぐそばで、眼近にじっくり拝することが出来ました。



【眼近にご拝観~想定外の「威圧感、存在感」に、大きな驚き】


目に映った第一印象は、予想外、想定外のものでした。

宝光寺・薬師如来像
厨子内に祀られる宝光寺・薬師如来像

写真で見た。穏やかなイメージと違います。

「ちょっと無気味とも言ってよいような凄み」
を感じます。
「なんとも言い難い、威圧感、霊感を漂わせている。」
という印象です。

宝光寺・薬師如来像

宝光寺・薬師如来像
不思議な凄み、存在感を感じさせる宝光寺・薬師如来像

写真を見た感じでは、もっと「穏やかで、優しく大人しい」感じの仏像のイメージだったのです。
いわゆる「平安中期の穏やかさ」が、前面に出たような像と予想していたのです。

ところが、何とも言えない凄み、威圧感といった雰囲気を漂わせているのです。
平安前期特有の、厳しく鋭く、塊量感あふれるというのではなく、もう少し大人しくマイルドな表現になっているのですが、独特の存在感を感じさせるものがあります。

頭部、顔貌は、随分大振りに造られていて、それだけで圧力感があります。

宝光寺・薬師如来像

宝光寺・薬師如来像~顔部
眼力、圧力感を感じさせる顔貌

お顔を見ると、まずもって「眼力」を感じます。
目尻の方まで、大きな目の見開きがしっかり続いているのが、「眼力」の根源かも知れません。

唇を分厚く突き出して、下顎のくくりをクッキリ彫り出しています。
唇、顎の感じは、神護寺の薬師如来像のタイプにちょっと似ています。

宝光寺・薬師如来像~顔部神護寺・薬師如来像~顔部
宝光寺・薬師如来像(左)と神護寺・薬師如来像(右)の顔部~唇と顎の造形のタイプが似ている

こうした顔貌の雰囲気が、独特の凄み、存在感を漂わせる表現になっているようです。

そして、肩から胸にかけての上半身は、ボリューム感があって、ダイナミックな抑揚を感じさせます。。

宝光寺・薬師如来像~体部

宝光寺・薬師如来像~体部
ダイナミックな抑揚、ボリューム感がある宝光寺・薬師如来像~体部


【下半身の穏やかであっさりした表現に、少し拍子抜け
~上半身の迫力とは、ミスマッチ】


このように書き綴ると、平安前期の仏像そのもののような文章表現になってしまうのですが、下半身に目を移すと、造形感覚が随分違うのに気付きます。

腰から下、足下までの下半身の造形は、衣文も浅く、抑揚も少なくて、拍子抜けしたように、大人しくあっさりしたものになっています。
上半身の調子とはかなり違って、下半身だけ見ると、穏やかな藤原風の雰囲気といってもおかしくありません。

宝光寺・薬師如来像~脚部
穏やかであっさりした調子の宝光寺・薬師如来像~脚部



【制作年代は、10世紀初頭、10世紀末?~別れる専門家の解説】


このあたりの薬師像の造形を、専門家はどのように解説しているでしょうか。
厳重な秘仏とされているからか、解説されている本が少なかったのですが、このように述べられています。


「草津市史」の宇野茂樹氏の解説です。

宝光寺・薬師如来像
宝光寺・薬師如来像
「この像は秘仏で33年に一度の秘仏となっている。
像高166センチメートル、一木彫成の立像薬師である。
顔の表情は深厳さを漂わせ、両肩を大衣でおおう通肩の柄衣(僧衣)の衣摺には、翻波がみられる。
造像期はおよそ9世紀最末期から10世紀初頭ごろと考えられる。
・・・・・・・・
最澄の造立した比叡山の根本薬師堂の薬師如来が立像であったことから、天台宗寺院には立像薬師が多くみられる。
この宝光寺の薬師如来が立像であることは、この薬師如来が造像されたときは、すでに宝光寺は天台宗の勢力下におかれていたと考えることも無理ではない。」
(「草津市史・第1巻~平安の美術」執筆・宇野茂樹、1981刊)


井上一稔氏の解説です。

「宝光寺は奈良時代に建立されたと伝えられ、境内付近からはこの時代の軒丸瓦を出土している。
本像は縁起によると、最初の堂が火災にあった後、最澄が造立した像であると伝えられる。
もちろんこの縁起を信ずるわけにはいかないが、最澄に関連した天台系の薬師であることは、その容姿から伺うことが出来る。
それは、本像が天台系の薬師である蓮台寺像や、善水寺像と似る像であるからである。

ヒノキの一材から彫成し内刳りを施さず、両手両足先を矧ぐのみで、古様なつくりをしている。
しかし、衣文線などに省略と形式化がみられるところから、10世紀後半の作と考えられる。
体部には当初の彩色を残し、光背の身光及び光脚部は当初と考えられることも貴重である。」
(「滋賀の美 佛 湖南・湖西」京都新聞社1987刊)


蓮台寺・薬師如来像善水寺・薬師如来像
(左)蓮台寺・薬師如来像、(右)善水寺・薬師如来像

制作年代については、
平安前期の森厳さ、威圧感の雰囲気を残す造形をみて、10世紀初頭の制作とする見方、
塊量性が減じて、衣文の形式化、省略化がみられる点をとらえて10世紀後半の制作という見方、
とがあるようです。

難しいことは判りませんが、たしかに、下半身の浅く抑揚のない衣文、あっさりした造形をみると、10世紀後半というのは、判るような気がします。



【駆けつけた甲斐があった、宝光寺・薬師御開帳
~惹き込まれる存在感の平安古仏に大満足】


ただ、薬師像の独特で不思議な存在感を漂わせた雰囲気は、大変魅力的で惹きこむものがあります。

天台薬師の系譜にある像であるからでしょうか?
なるほどと思わせる、凄みある霊威感を発散しているようです。
今は、古色になっていますが、もともとは朱衣金体であったのでしょうか?

宝光寺・薬師如来像
宝光寺・薬師如来像

わざわざ、ご開帳に駆けつけた甲斐がありました。
想定外に、迫力と存在感のある仏像に出会うことが出来ました。
そして、心にしっかり残る仏像となりました。


【ノーマークの観音堂・聖観音像に遭遇、その素晴らしさに、ビックリ!】


満足感に浸って、宝光寺を後にしようかと思った処、本堂の隣の観音堂にも古い仏像が祀られているという話を、お参りに来られた方から教えていただきました。

宝光寺・観音堂
本堂の隣になる宝光寺・観音堂

それこそ、期待もせずに、折角だから一応観て帰ろうかと、寄ってみました。

観音堂には、等身より少し大きい目の聖観音像が祀られていました。

宝光寺観音堂・聖観音像
観音堂に祀られる聖観音像

その姿を観て、ビックリしました。
堂々たる平安一木彫の観音像なのです。

宝光寺観音堂・聖観音像

宝光寺観音堂・聖観音像
宝光寺観音堂・聖観音像

平安前~中期の雰囲気をたたえた、それもなかなか出来の良い、一流といってもよい仏像です。
バランスのとれた確かな造形力、力強さがこめられた、正統的作品という感がします。
すっかり気に入ってしまいました。

「伸びやかさを感じさせる雄大な造形で、どこか大陸風のエキゾチズムを感じさせる。」

そんな印象を受けました。

宝光寺観音堂・聖観音像~顔部
宝光寺観音堂・聖観音像~顔部
宝光寺観音堂・聖観音像~顔部

レベルの高い仏像ぞろいの近江、湖南でも、一目置いてもよい平安古仏の一つと云ってもよいのでは、という気持ちになってしまいます。

古様なところもありますが、造形の穏やかさが顔を見せ、衣文の抑揚、躍動感が弱くなってきているようで、10世紀も半ばごろの制作なのかなという気がしました。



【何故だか、文化財・無指定~これだけの平安一木彫像がどうして?】


驚くことに、この観音像、全くの無指定です。
市や県の文化財指定も受けていません。

「これだけの、立派で出来の良い平安古仏が、どうして無指定のままなのだろうか?」

素直な疑問です。

眼近に拝すると、鼻の部分、両腕から先は後補のようですが、当初の像容を損じるほどのものではないように思えます。

宝光寺観音堂・聖観音像~顔部宝光寺観音堂・聖観音像
後補のように見える鼻部と両腕部


「それでも、市も県も無指定というのは、無いでしょう!」

というのが率直な感想です。

これほどの平安古仏が、世に知られることなく、文化財指定もされずに、お堂に祀られているのです。

「近江の地の仏像というのは、本当に奥深い」

つくづく、そのように思い知らされました。



「想定以上に、存在感、凄みのある薬師如来像の御開帳」

「全く予期しない、出来の良い堂々たる一木彫観音像との出会い」

 
となりました。

思いもかけぬ、満足感一杯の、草津・宝光寺への古仏探訪となりました。


【その2】では、宝光寺と同じ日に御開帳となる、橘堂・三面千手観音像のご拝観について、ご紹介したいと思います。


こぼれ話~奈良の仏像写真家、「鹿鳴荘」永野太造氏のこと  【その2】  【2017.8.26】


ここからは、永野太造氏が、戦後「鹿鳴荘」店主となり、仏像写真家としての知られるようになっていく軌跡を振り返ってみたいと思います。


【戦後、三代目「鹿鳴荘店主」となった永野太造氏~仏像写真はズブの素人で独学】


永野太造氏が、鹿鳴荘の店主となったのは、戦後のことです。

永野氏は、大正11年(1922)8月16日大阪市生まれ。
戦前は、大阪市内の料亭鶴屋で板場修行をしていたということです。
戦後、軍隊から復員後、父方の伯父が営んだ永野鹿鳴荘を継ぐことになりました。
永野太造氏、20歳代のことかと思われます。

永野氏は、写真についてはズブの素人だったのですが、長谷川伝次郎「大和仏像写真展」に刺激を受けて写真撮影を始めたということです。

写真家・長谷川傳二郎氏長谷川傳二郎撮影仏像写真~法隆寺・夢違観音像
写真家・長谷川傳二郎氏と、同氏撮影~法隆寺・夢違観音像

まさに、独学、独力で写真撮影技術を習得していったのでした。

永野氏自身は、写真を始めたころについて、昭和57年の日本経済新聞・文化欄の記事で、このように語っています。

永野太造撮影薬師寺東院堂・聖観音像
永野太造撮影~薬師寺東院堂・聖観音像
「復員して店を継いだ私は、大阪の大丸百貨店で長谷川伝次郎さんが撮影した『大和仏像写真展』を見た。
その写真に刺激を受けて、独学で写真を撮り出した。

まず許可のいらない石仏や仁王さんなどを写して修行していたら、薬師寺の橋本凝胤長老が、『しっかりやれ』と応援して下さった。

最初にとった仏像は、薬師寺の東院堂にある『聖観音』である。
その後は橋本長老に紹介して頂き、いろんな寺を写して回った。」
(「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」1982.9.18付日本経済新聞朝刊)

この日経新聞掲載「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」は、永野太造氏自ら執筆したもので、浄瑠璃寺・吉祥天像の厨子の修復運動からスタートし、仏像鑑賞見学会に発展した「吉祥会」の活動などを、世話役の永野氏が紹介するというものです。

この中で、自身が、仏像写真家となったいきさつ、足跡などに少しだけ触れられています。
この新聞記事が、永野氏が写真家人生を回顧して語った唯一の文章ではないかと思われます。、



【小林剛氏との出会い~仏像写真家として大きな飛躍のキッカケに~
~奈文研・草創期を支えた写真家として活躍】

小林剛氏
小林剛氏
そのような永野太造氏が、仏像写真の専門家として、大きく飛躍したのは、小林剛氏との出会いでした。

ご存じのとおり、小林剛氏は奈良国立文化財研究所所長をつとめた仏教彫刻史研究の大御所ともいえる著名な研究者です。
ちょっと年配で仏教美術にご関心ある方なら、その名を知らない方はおられないでしょう。

小林剛氏は、昭和27年4月、新たに設立された奈良文化財研究所の美術工芸研究室長として着任します。
設立当初の奈良文化財研究所は奈良博の近く、現在の仏教美術資料研究センターの建物に置かれました。

開設当初、奈良国立文化財研究所が置かれた、現仏教美術資料研究センター
開設当初、奈良国立文化財研究所が置かれた、現仏教美術資料研究センター

いきさつは判りませんが、小林剛氏は、鹿鳴荘・永野太造氏に、仏像をはじめとする文化財写真の撮影を依頼します。
以降、小林剛氏と共に、長きにわたり、各地をめぐり膨大な写真撮影に携わることになります。

永野氏は、このように回顧談を語っています。

「昭和27年、奈良国立文化財研究所が設立、小林剛先生が彫刻室長になって来られた。
幸いなことに小林先生から調査のための写真の応援を依頼され、以後、一緒に15年間、仏像、経巻、工芸品、絵画、建築など無数の文化財を撮って回った。
東は岩手、西は大分まで足を延ばし、一年の内10か月は家に帰らなかったこともある。
ネガは、2万点ほどになったろう。」
(「後光さす仏像保存運動~浄瑠璃寺・吉祥天像を会長に浄財募る」1982.9.18付日本経済新聞朝刊)

この小林剛氏とのコンビによる写真撮影の実績によって、仏像写真の専門家としての地位を名実ともに築くことが出来たのだろうと思います。



【小林剛氏著書の掲載写真の多くは、永野太造撮影写真】


小林剛氏は、昭和44年(1969)に急逝するまで、自身の仏教美術の著作で、永野太造氏の撮影写真を用いるようになっていったようです。

永野大造氏の写真を掲載したことが明記されている著作をピックアップしてみると、以下のものがありました。

永野太造氏撮影写真掲載が明記された、小林剛氏著作


「日本彫刻美術」小林剛・松本楢重著、永野太造写真(鹿鳴荘1953年刊).「浄瑠璃寺」小林剛・森蘊著、永野太造写真(鹿鳴荘1957年刊)

「奈良の美術」小林剛著・永野太造写真(創元社1958年刊).「肖像彫刻」小林剛著(吉川弘文館1969年刊)



【古くから、古美術関係書を出版していた「鹿鳴荘」】


小林剛氏の著作の中に、出版社が「鹿鳴荘刊」となっているものがあるのに、お気づきになったと思います。

鹿鳴荘は、永野太造氏の先代の頃から、茶店写真販売などの他に、古美術関係書の出版も手掛けていました。
私が調べてみた限りでは、次のような出版物が鹿鳴荘の手で刊行されていました。

鹿鳴荘によって刊行された出版物の一覧


鹿鳴荘刊「仏像通解」..鹿鳴荘刊「奈良県下国建見学提要」

鹿鳴荘刊「仏像彫刻案内」鹿鳴荘刊「仏像彫刻~知識と鑑賞」


永野太造氏が発行人になっている3冊には、もちろん永野太造撮影写真が使われています。



【美術書に、ポスターに、~広く知られるようになった「永野太造の仏像写真」】


小林剛氏とコンビで写真撮影を担った永野氏は、まさに昭和27年(1952)に創立された奈文研の専属写真家のような仕事ぶりであったと思われ、「奈良文化財研究所の草創期を支えた写真家」ともいえる存在でした。

昭和31年には、近畿日本鉄道制作「奈良大和路」ポスターが、国際観光ポスター展グランプリを受賞します。

国際観光ポスター展グランプリを獲得したポスター~永野太造氏撮影、東大寺法華堂・月光菩薩像~
国際観光ポスター展グランプリを獲得したポスター~永野太造氏撮影、東大寺法華堂・月光菩薩像~

このポスターの東大寺法華堂・月光菩薩像の写真を撮ったのが、永野太造氏でした。
こうしたなかで、仏像写真家としての名声、地位も、着々と確立していったと思われます。

永野氏の仏像写真は、ポスターやカレンダーなどにも、多く使われるようになりました。
また、六大寺大観などの掲載写真も、そのいくつかを永野氏が撮影しています。

冒頭にもご紹介したように、

奈良六大寺大観・第14巻「西大寺」(岩波書店・1973年刊)

大和古寺大観・第5巻のうちの「不退寺」(岩波書店1978年刊)

大和古寺大観・第7巻のうちの「浄瑠璃寺」(岩波書店1978年刊)

古寺巡礼シリーズ (淡交社・1979年刊)

の掲載写真は、永野太造氏の撮影によるものです。

奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(四仏像)
奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(四仏像)

奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(愛染明王像)
奈良六大寺大観「西大寺」掲載の永野太造撮影写真(愛染明王像)

大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(九体阿弥陀像)
大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(九体阿弥陀像)

大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(吉祥天像)
大和古寺大観「浄瑠璃寺」掲載の永野太造撮影写真(吉祥天像)



【唯一の個人写真集となった本~「奈良の仏像 七十」】


仏像写真家として著名であった永野太造氏ですが、個人の仏像写真集を出版するということはありませんでした。

唯一の仏像写真集と云える本は、奈良の美術印刷の老舗、岡村印刷工業の創業70周年を記念して出版された、

「奈良の仏像七十」  写真:永野太造 解説:青山茂 1990年4月刊 非売品

という、大型豪華本です。

永野太造唯一の個人写真集ともいえる、「奈良の仏像七十」(岡村印刷工業1990年刊)

この写真集は、岡村印刷工業が毎年制作してきた「古彫塑カレンダー」の中から、70点の仏像写真を選んで、創業70周年記念の贈呈配布用に作った本です。
この「古彫塑カレンダー」シリーズの仏像写真を、昭和30年(1955)の第1集以来、直近第36集まで、撮影していたのが永野太造氏でした。

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(東大寺戒壇堂・増長天像)
「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(東大寺戒壇堂・増長天像)

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(聖林寺・十一面観音像)
(聖林寺・十一面観音像)

「奈良の仏像七十」掲載の永野太造撮影写真(法華寺・十一面観音像)
(法華寺・十一面観音像)


永野太造氏は、平成2年(1990)に、68歳の若さで逝去しました。
その1年ほど前に転んで頸椎を損傷したことが原因で、急逝されたということです。

奇しくも、亡くなった年に出版された「奈良の仏像七十」が、永野氏唯一の個人写真集、遺著となりました。


【永野の遺品、膨大なガラス乾板資料が、帝塚山大学に寄贈へ
~貴重な仏像写真資料の永続保存実現】

鹿鳴荘では、永野太造氏が亡くなられてから、しばらくの間は、仏像写真や美術図書の販売など続けられていましたか、太造氏の御長男が急逝されたこともあってか、いつの頃からか、茶店土産物販売に専念されるようになり、現在の姿での営業となっているようです。

仏像写真を継ぐ人がいなくなってしまったなかで、太造氏が残した仏像写真や関係資料が、散逸したり、失われてしまうこともあるのではないかとの心配もあった訳ですが、冒頭でご紹介したように、平成27年(2015)、膨大な「ガラス乾板資料」等が、帝塚山大学に寄贈されることになったのでした。



【寄贈実現へのいきさつ~永野氏写真パネル「展示実習」企画展がきっかけ】


寄贈が実現した経緯は、次のようなものであったようです。

帝塚山大学と鹿鳴荘・永野太造氏との縁のはじまりは、青山茂氏であったようです。
青山茂氏は、『斑鳩の匠 宮大工三代』など、いわゆる「奈良学」に関する多数の著作で知られた仁ですが、長らく帝塚山短期大学教授の職にありました。
永野太造氏との交流もあり、永野氏の写真集「奈良の仏像七十」の解説執筆も青山氏によるものです。
また、青山氏は、永野氏撮影の仏像写真パネル100枚以上を、大学で購入していました。

「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻~永野鹿鳴荘の写真作品から」ポスター
平成26年(2014)1月、大学博物館に保管された、この写真の確認と、写真パネル展示実習の目的で、博物館実習生による「写真で巡る大和・山城の社寺彫刻~永野鹿鳴荘の写真作品から」という企画展示が行われました。
この企画展示の準備作業で、鹿鳴荘の永野太造氏の子息、息女に協力を仰ぐことになり、これがきっかけとなり、将来的な一括保存の希望を受けて、写真資料の寄贈の実現へと至ったということです。

寄贈された「ガラス乾板資料」の総数は、6934枚という膨大なものです。
昭和27年(1953)から46年(1965)の間に、撮影されたもので、永野氏はこの20年間、ガラス乾板を使用して撮影していたと思われます。

「ガラス乾板」というのは、今ではなじみがありませんが、感光する写真乳剤を塗ったガラス板のことで、この乾板をもとに写真を焼き付けるものです。
フィルム写真が普及レベルアップする前の、明治から昭和40年代にかけて、学術、美術写真などで使用されていたものです。

永野太造氏撮影のガラス乾板
永野太造氏撮影のガラス乾板

鹿鳴荘・永野氏宅に残された膨大なガラス乾板の保管の様子
鹿鳴荘・永野氏宅に残された膨大なガラス乾板の保管の様子

近代奈良の仏像写真史を語るうえでの、大変貴重な写真資料が、帝塚山大学博物館で永続的に保存されることになった訳で、本当に喜ばしいことだと思います。



【近代奈良の文化史を語るうえで、忘れてはならない永野氏の功績】



最後に、永野太造氏がのこした、特筆すべき功績を二つご紹介しておきたいと思います。

自身の写真撮影そのものとは、ちょっと違うのですが、忘れてはならない話だと思うのです。



【奈良古美術写真の草分け、「工藤精華」写真資料の、奈良市への寄贈保存に尽力】


第一は、奈良の古美術写真の草分け、工藤精華の遺した写真資料の散逸を防ぎ、奈良市への寄贈に尽力し、その実現を果たしたのが永野太造氏であるということです。

ご存じのとおり、工藤精華(利三郎)は、奈良の地で仏像写真の専門家として、はじめて古美術写真を撮影し、営業した人物です。
明治26年(1893)、奈良市へ移り住み、猿沢池東畔の菩提町に写真館「工藤精華堂」を開業しました。
そして豪華写真集「日本精華」全11輯を、明治41年(1908)から大正15年(1926)まで、18年間にわたり個人出版により刊行しました。

工藤精華刊「日本精華」「日本精華・第一輯」1908年刊
工藤精華が個人出版で刊行した「日本精華」

「日本精華」に収録されている、奈良の古仏像の写真は、当時のありのままの姿を伝える誠に貴重な写真資料となっています。

「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、興福寺・阿修羅像写真~明治修理の前の手が損傷した写真~
「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、興福寺・阿修羅像写真
~明治修理の前の手が損傷した写真~


「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、三月堂・月光菩薩像写真~明治修理で手先が修復される前の写真~
「日本精華」に掲載された工藤精華撮影、三月堂・月光菩薩像写真
~明治修理で手先が修復される前の写真~


工藤精華の遺した写真資料は、永野太造氏の尽力などにより、昭和42年(1967)に奈良市に寄贈され、現在は、入江泰吉記念奈良市写真美術館に所蔵されています。
2008年には、ガラス乾板1025点が、貴重な近代文化史料として、国登録有形文化財に登録されるに至りました。

工藤精華の写真資料が所蔵されている入江泰吉記念奈良市写真美術館
工藤精華の写真資料が所蔵されている入江泰吉記念奈良市写真美術館

工藤精華の生涯などについては、以前、神奈川仏教文化研究所HPの「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」「精華苑 工藤利三郎」として採り上げていますので、ご覧ください。



【散逸寸前だった、工藤精華ガラス乾板等資料の保存を提唱、市寄贈に向け奔走】


奈良市への寄贈に至るいきさつを、振り返ってみたいと思います。

工藤精華は、昭和4年、81歳で逝去します。
工藤の撮影した写真とガラス乾板は、養女であるコトノさん(お琴さん)のもとに残されていました。
お琴さんは、戦後、何度か、この写真資料の売却処分を考えたようですが、当時は、なかなか、買い手、引き取り手が見つからなかったとの話です。

そのお琴さんも、昭和39年、80歳で逝去します。
遺品となった、工藤精華の写真資料の保存を提唱し、工藤精華の名を残すべく、市への寄託を実現したのが、永野太造氏だったのです。

「奈良いまは昔」(北村信昭著)という本には、そのいきさつについて、このように語られています。

「昭和39年(1964)2月2日、お琴さん(故・工藤精華の養女)は今小路の桜井病院で80歳の生涯を閉じられた。
鹿鳴荘主・永野太造ら近隣役員10名程が世話、特に同月5日、山の寺での告別式は永野さんが力になられたと仄聞している。

尚、すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた膨大な量のコロタイプ写真を保存し、写真原版と共に市に寄託、工藤利三郎の名を残すことを主張し、その実現を見たのも鹿鳴荘主の提唱によるものであった。

近年、工藤精華堂が俄かにクローズアップされ、新聞記事にもなり、NHKのテレビでも紹介されたが、それまでのプロセスには以上のような裏話があったわけである。」
(「奈良いまは昔」北村信昭著・奈良新聞出版センター1978年刊)

今では、工藤精華の仏像写真は、奈良市写真美術館のHPに、主要収蔵品として紹介掲載されるなど、貴重な明治大正期の古美術写真と広く知られるようになっていますが、
永野氏が奈良市への寄贈を実現した昭和42年頃は、それほどに世の認知を受けていなかったのだと思います。

「すんでの処で屑屋さんに売られようとしていた」

というエピソードも、決して誇張した話ではなかったのでしょう。

忘れ去られようとしていた工藤精華の写真資料。
その貴重性を認識し、後世に残そうという永野太造氏の提唱が無かったならば、
また、その実現に奔走した無償の尽力が無かったならば、
これらの資料は、散逸し失われてしまった可能性は、大いにあったのではないでしょうか。

今では「国登録有形文化財」にも登録されている、工藤精華のガラス乾板資料の保存を実現した、鹿鳴荘・永野太造氏の功績は、忘れてはならないものだと思います。



【浄瑠璃寺・吉祥天像「厨子の復元実現」めざす「吉祥会」
~発起人一員として永野氏が一手に世話役を】

もう一つの永野太造氏の功績は、長年にわたる「吉祥会」の主催運営ではないでしょうか。

「吉祥会」というのは、浄瑠璃寺・吉祥天像の保護と、厨子扉絵の復元修理の実現を目指して、多くの人々から浄財を集める会として、昭和32年(1957)に発足したものです。

浄瑠璃寺・吉祥天像
浄瑠璃寺・吉祥天像

浄瑠璃寺の吉祥天像は、戦前は博物館に寄託されていましたが、昭和27年(1952)にお寺に戻ってきました。
吉祥天像は帰ってきたのですが、お祀りする厨子の方は、その三面の扉と後壁羽目板が、寺外に流出してしまっていたのでした。
扉は、弁財天、梵天帝釈天、四天王像が描かれた鎌倉時代のものですが、明治時代に寺外に流出し、現在は、東京藝術大学の所蔵となっているのです。

明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~弁財天像

明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~梵天像..明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)~帝釈天像
明治期に流出した吉祥天厨子の後壁・扉絵(東京芸術大学所蔵)
上段:弁財天像、下段(左):梵天像、(右)帝釈天像



この扉絵を模写復元し、厨子の修復を実現しようというのが「吉祥会」で、その会長は浄瑠璃寺の吉祥天様という会です。
当時の浄瑠璃寺住職・佐伯快龍師、奈良国立文化財研究所・小林剛氏が中心となり、永野太造氏も発起人の一人として、会の運営推進の世話役を一手に引き受けたのでした。
おそらく、小林剛氏と永野太造氏とのコンビ関係が、「吉祥会」発足の大きな力になったのではないでしょうか。
会発足の昭和32年(1957)には、小林剛、永野太造両氏の合作共著ともいえる力のこもった一冊「浄瑠璃寺」(鹿鳴荘刊)が、出版されています。

「吉祥会」の尽力の甲斐あって、会の発足から19年を経ましたが、昭和51年(1976)、厨子の復元は見事に実現しました。

扉板と背面板は美術院で製作し、描かれた絵の模写は、原画の所蔵先である東京芸大美術学部保存技術研究室によって行われました。

復元修復なった厨子に安置された浄瑠璃寺・吉祥天像
復元修復なった厨子に安置された浄瑠璃寺・吉祥天像



【厨子復元実現後も、息長く続いた「吉祥会」~平成18年には開催500回迎える】


吉祥会500回記念誌「吉祥 第7号」
吉祥会500回記念誌「吉祥 第7号」
厨子修復の目的は実現した「吉祥会」ですが、併せて開かれていた古社寺・古美術見学会の方はその後も継続し、専門家の講師を迎えて、毎月開催されました。

平成18年(2006)には、なんと吉祥会は開催500回を迎え、記念誌「吉祥 第7号」も発刊されています。

永野氏は、厨子の修復にも尽力されましたが、定例の「吉祥会」の見学会の方も、見学寺院との折衝、会員への案内連絡など一手に引き受け、会の運営を担っていたということです。



【おわりに~記憶にとどめておきたい「鹿鳴荘・永野太造」の足跡】


鹿鳴荘と永野太造氏の話が、少々長くなってしまいました。

奈良博前の茶店、「鹿鳴荘店主・永野太造氏」が、ただただ茶店の店主として終わることなく、

奈文研を支えた写真家として、近代奈良の仏像写真家の一人として、大いなる業績を残した人物であること、

工藤精華写真資料の保存、浄瑠璃寺吉祥天厨子復元実現などに無償の尽力、奔走を行った、近代奈良文化史を語るに、忘れられない人物であること、

など、その軌跡を振り返ることが出来ました。

かつて、HP「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」の中で、「鹿鳴荘・永野太造」についてふれた時には、仏像写真家としての足跡などがほとんどわからなかったのです。

その後、ガラス乾板の帝塚山大学への寄贈を機に、論考も発表され、また、永野氏に関するいくつかの資料を見つけることが出来て、永野太造氏の仏像写真家としての軌跡、その他の功績について、いろいろ知ることが出来ました。



一度、永野氏の足跡を、記憶にとどめ振り返っておきたいと思って、判る範囲ではありますが、「奈良の仏像写真家、『鹿鳴荘』永野太造氏のこと」を、掲載させていただきました。


こぼれ話~奈良の仏像写真家、「鹿鳴荘」永野太造氏のこと [その1]  【2017.8.20】


仏像写真家、永野太造氏と「鹿鳴荘」のことを、振り返ってみたいと思います。

永野太造(ながのたぞう)氏は、戦後活躍した、奈良の仏像写真家です。
飛鳥園の小川晴暘、光三氏や、入江泰吉氏ほど著名ではありませんが、奈良在住の仏像写真家としてはよく知られた存在でした。

鹿鳴荘店主・永野太造氏
仏像写真家・鹿鳴荘店主~永野太造氏

奈良六大寺大観「西大寺」、大和古寺大観「不退寺」「浄瑠璃寺」の仏像写真や、淡交社刊行の「古寺巡礼シリーズ」(昭和54年・1979)の掲載写真などは、永野太造氏の撮影によるものです。
永野氏撮影者写真を、いくつかご覧ください。

西大寺・四仏坐像(宝生如来像)~奈良六大寺大観第14巻「西大寺」掲載写真
西大寺・四仏坐像(宝生如来像)~奈良六大寺大観第14巻掲載写真

西大寺・四天王像(増長天邪鬼)~奈良六大寺大観第14巻「西大寺」掲載写真
西大寺・四天王像(増長天邪鬼)~奈良六大寺大観第14巻掲載写真

浄瑠璃寺・九体阿弥陀仏像(中尊)~大和古寺大観第7巻掲載写真
浄瑠璃寺・九体阿弥陀仏像(中尊)~大和古寺大観第7巻掲載写真

浄瑠璃寺・吉祥天像~大和古寺大観第7巻掲載写真
浄瑠璃寺・吉祥天像~大和古寺大観第7巻掲載写真

ちょっと年配の方には、「奈良博前の鹿鳴荘店主・永野太造」といった方が、馴染みがあるのかもしれません。



【仏像写真と茶店で親しまれた、奈良博前「鹿鳴荘」】


奈良国立博物館「なら仏像館」の東玄関を出たところの傍に、「鹿鳴荘」という茶店があります。

奈良国立博物館・なら仏像館~向かって正面右傍に「鹿鳴荘」がある
奈良国立博物館・なら仏像館~向かって正面右傍に「鹿鳴荘」がある

現在の「鹿鳴荘」~飲み物・土産物を求める観光客で賑わう
現在の「鹿鳴荘」~飲み物・土産物を求める観光客で賑っている

今は、ソフトクリームとか飲み物を売るスタンドのようなお店となっていて、店の前はいつも修学旅行の学生たちで大賑わいです。
この店の屋号が「鹿鳴荘」というのだ、というのを知っている人は、段々少なくなっているのではないでしょうか。

この「鹿鳴荘」、その昔は、仏像写真を販売する店で、茶店も兼ねていました。
永野太造氏は、「鹿鳴荘」の店主で、自身が撮影した仏像写真を販売していたのでした。

2006年当時の鹿鳴荘の外観
2006年当時の鹿鳴荘の外観~仏像写真を販売していた頃が偲ばれる

掲げられていた「鹿鳴荘」の扁額
掲げられていた「鹿鳴荘」の扁額

当時、奈良国立博物館に行った帰りに、「鹿鳴荘」に寄ってみたことを、懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。

私の若い頃には、壁には、額に入れた立派な仏像写真パネルが沢山飾られており、手前の台には、木枠の格子の中の一つひとつに、手札型くらいの仏像写真が、ぎっしりと並べられていました。

鹿鳴荘の中の壁面に掲げられた仏像写真パネル
鹿鳴荘の中の壁面に掲げられた仏像写真パネル

私も、何度か、そのなかから仏像写真を購った思い出があります。
永野太造氏、ご本人が、応対に出られていたこともありました。

私が鹿鳴荘でかつて購入した仏像写真
私が鹿鳴荘でかつて購入した仏像写真

仏像写真の販売は、永野太造氏が平成2年(1990)に没した後、しばらくは続けられていましたが、その後、閉じられてしまい、「鹿鳴荘」は現在のような姿になっています。



【今では、無くなってしまった仏像写真専門の販売店】


近代奈良で、「仏像写真家が経営する写真販売店」で知られた店と云えば、

・明治大正年間では、工藤精華(利三郎)の「工藤精華苑」

・大正末年開業の、小川晴暘の「飛鳥園」

・明治年間開業で、戦後、永野太造が店主となった「鹿鳴荘」

の三つの名が、挙げられるのではないでしょうか。

残念ながら、現在も仏像写真販売の店として営業している処はありません。

「飛鳥園」の「仏像写真ギャラリー」という立派な写真販売ショップは、最近まで営業していたのですが、一昨年、2015年11月に、とうとう閉店となってしまいました。

閉店となった「飛鳥園仏像写真ギャラリー」
閉店となった「飛鳥園仏像写真ギャラリー」

仏像写真の「飛鳥園」の事業は、現在も変わりなく営業されているのですが、写真販売のショップギャラリーは閉じられたということです。
NETの画像などが簡単に検索出来てしまう現代では、「仏像写真の販売」という商売は、なかなか需要が無くなってしまっているのでしょう。



【採り上げた本が見つからなかった、鹿鳴荘・永野太造氏の話】


工藤精華、小川晴暘、入江泰吉をはじめとする「奈良の仏像写真家」の話は、以前に、神奈川仏教文化研究所HPの「埃まみれの書棚から~奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」という連載で採り上げ、紹介させていただいたことがあります。

その中で、「鹿鳴荘・永野太造氏の話」も採り上げたのですが、その時は、残念ながら詳しくご紹介することが出来ませんでした。
永野氏の足跡や、その人についてふれた文章、資料などが、見当たらなかったのです。
少し調べてみたのですが、見つけることが出来ませんでした。。

何とか永野氏のことについて知りたいと、6~7年前に、「鹿鳴荘」を訪ねて、

「永野太造氏のことを知りたいのですが、教えていただけませんでしょうか?」

とお願いをしてみましたら、太造氏の次男の方から、鹿鳴荘の歴史と永野太造氏が仏像写真家となったいきさつや、父君の思い出話を聞かせていただくことが出来ました。

その時にお聞きした話は、HP「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者~(6)鹿鳴荘 永野太造」の項で、紹介させていただいた通りです。

その折にも、ご子息から
「父君は、平成2年(1990)、68歳で亡くなったが、太造氏について書かれたものは、何も残されていない。
残された写真をせめてデジタル映像化して残しておきたいと思っているが、手が付けられていない。」
と、お聞きしました。

この話をお聞きしたとき、
「残念なことながら、時代はどんどん変わり、移ろい行くものだなあ・・・・
『仏像写真家・永野太造』のことも、『仏像写真の鹿鳴荘』のことも、だんだん忘れ去られていくのだろうか?」
と、寂しい気持ちになった記憶があります。



【帝塚山大学に寄贈された「永野太造写真資料」~記念展覧会もいくつか開催】


一昨年の暮れ、2015年12月のことです。
「仏像写真家・永野太造展」ポスター~2015.12開催
「仏像写真家・永野太造展」ポスター~2015.12開催

こんな展覧会ニュースが目にとまりました。
「仏像写真家・永野太造展」
が、奈良県文化会館で2日間(12/12~13)だけ開催されるというのです。

「どうしてこんな展覧会が?」

とビックリしたのですが、

なんと、
「帝塚山大学に、永野太造氏撮影の写真ガラス乾板、約7000枚が寄贈されることになった」
ということです。

これを記念して、写真作品とガラス乾板を展示する展覧会の開催となったのでした。

「これで、永野太造氏の写真原版が、散逸したり失われたりせずに、長らく守られることになった。」

と、ホッとしたというか、嬉しい気持ちになりました。

奈良県文化会館での「仏像写真家・永野太造展」開催風景
奈良県文化会館での「仏像写真家・永野太造展」開催風景


このガラス乾板の寄贈、記念展覧会の開催を契機に、「奈良の仏像写真家、永野太造」を回顧する展示会などが、立て続けに開催されています。

「永野太造展―永野鹿鳴荘ガラス乾板資料を中心に―」  2016年12月(帝塚山大学付属博物館)

「永野太造作品展―草創期の奈文研を支えた写真家―」  2017年5月(平城宮跡資料館)

「永野太造展―永野鹿鳴荘ガラス乾板資料を中心に―」ポスター~2016.12開催「永野太造作品展―草創期の奈文研を支えた写真家―」ポスター~2017.5開催


また、帝塚山大学の服部敦子氏による、永野太造氏の業績や軌跡をたどる講演会の開催、論文発表なども行われました。

講演会「写真家・永野太造氏の軌跡」  永野太造展記念講演会2015.12.12

論文「永野太造氏撮影ガラス乾板資料の寄贈経緯とその資料性について」(服部敦子)  帝塚山大学付属博物館報11号2016.3


これまで、業績などについて振り返られた資料がなく、

「このまま忘れ去られてしまうのだろうか?」

と思っていた、永野太造氏でしたが、これらのイベントなどを契機に、思わぬスポットライトがあてられることになりました。
「写真家としての軌跡」について随分明らかになり、知ることが出来ました。

そこで、現在判る範囲で「鹿鳴荘のこと」「永野太造氏のこと」について、振り返っておきたいと思った次第です。
HP連載「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者」の「永野太造氏についての追加編」としてご覧いただければ有難い処です。



【明治30年、奈良帝国博物館前の茶店として開業した「鹿鳴荘」】


まずは、「鹿鳴荘」の歴史を振り返ってみたいと思います。

「鹿鳴荘」は、明治30年(1897)に、現在の地に開業したようです。
奈良帝国博物館が開館したのは明治28年(1895)のことですから、その2年後、博物館の指定によって博物館公園内に茶店として建てられたということです。

明治28年開設時の奈良帝国博物館
明治28年開館当時の奈良帝国博物館

永野太造氏は、「鹿鳴荘」の三代目主人です。
初代、二代目は写真家ではありませんでしたが、茶店と併せて、仏像写真の販売や古美術関係の本の出版なども手掛けていたようです。



【大正末年の「鹿鳴荘の有様」を偲ぶ、古い小冊子~「目録」】


最近、たまたま、こんな珍しい冊子を、古書店で手に入れました。
大正年間の「鹿鳴荘」の取り扱い販売目録で、42ページの冊子となっています。

「目録 古美術写真及図書類 第1回 奈良博物館苑内  鹿鳴荘」

という標題で、大正14年(1924)年に発刊されています。

永野太造氏が店主となる前、二代目の頃のものです。
冊子の表紙、写真目録の一部などをご覧ください。

大正14年頃発刊の鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録
大正14年頃発刊の鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録

鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録の目次
鹿鳴荘・古美術写真及図書類目録の目次

古美術写真(仏像の焼付写真)の目録ページ(497種類掲載)
古美術写真(仏像の焼付写真)の目録ページ(497種類掲載)

奈良帝室博物館発行コロタイプ写真の目録ページ(種類掲載)
奈良帝室博物館発行コロタイプ写真の目録ページ(125種類掲載)

鹿鳴荘の宣伝、来店促進するページ
鹿鳴荘の宣伝、来店促進するページ

古美術写真(仏像の焼付写真)は、497種類
奈良帝室博物館発行コロタイプ写真は、125種類
目録掲載されています。
他には、仏教美術関係の図書の販売取扱も行っていたようです。
販売していた仏像焼付写真については、当時は店主が写真家ではなかったはずなので、どなたかの撮影のものを販売していたのでしょう。

いずれにせよ、大正年間の終わりには、「茶店兼古美術写真販売」という営業スタイルが確立されていたようです。



【その2】では、永野太造氏が鹿鳴荘店主となり、仏像写真家としての地歩を築いていく足跡を辿っていきたいと思います。


トピックス~「唐招提寺・仏の手の掌に埋め込まれたもの」仏像の手の話⑧  【2017.7.22】



「仏像の手の掌の中に、何か納入物が埋め込まれている。」

そんな話を、聞かれたことがあるでしょうか?

  
仏像の体内(内刳りの中)に納入物が納められている、いわゆる像内納入品、体内納入物の話については、皆さん、よくご存じのことと思います。

体内に納入物が納められている仏像は、数え切れないほど数多くあります。

そのなかでも、

五臓六腑が納められた、清凉寺・釈迦如来像

極彩色の心月輪・蓮台が納められた、平等院鳳凰堂・阿弥陀如来像

厨子入り檀像、板彫五輪塔、水晶珠・心月輪が納められた、興福寺北円堂・弥勒仏像

などは、超有名処といって良いのではないでしょうか。

986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像清凉寺・釈迦如来像の体内に納入された布製の五臓六腑
986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像と体内に納入された布製の五臓六腑

定朝作~平等院・弥陀如来像平等院・弥陀如来像の体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台
定朝作~平等院・弥陀如来像と体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台

運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像興福寺北円堂・弥勒仏像の体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など
運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像と体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など

ところが、体内の内刳りの中ではなくて、体の一部分に、納入物が埋め込まれているという話は、あまり聞いたことがありません。



【唐招提寺には、手の掌に納入物がこめられた仏像が・・・】


これからご紹介するのは、

「唐招提寺には、仏像の手の掌の中に、納入物が納められた像が何躯かがある。」

という話です。

何故だかはわからないのですが、「手の掌に、納入物が納められている仏像」が存在するのは、唐招提寺に残された仏像だけなのです。

「金堂・廬舎那仏坐像の手の掌の中と、瞳の奥に、珠が」

「木心乾漆菩薩像2躯の手の掌の中に、珠が」

「金堂・薬師如来像の手の掌の中に、古銭が」

それぞれ、納められているのです。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像2躯、(左)伝観音像

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

現在、発見されている限りでは、唐招提寺の仏像以外で、手の掌への納入品が確認された例は、全くないのです。

何とも、不思議なことです。



【本尊・廬舎那仏の両手には、埋め込まれた数珠玉が~X線撮影で判明】


廬舎那仏像の手のなかから納入物が発見、確認されたのは、近年のことです。
それまでは、全く知られていませんでした。

発見のいきさつを、ちょっと振り返ってみたいと思います。

平成15年(2003)4月、こんな新聞報道がありました。

「X線撮影で本尊の両手に埋め込まれた数珠玉が判明 奈良・唐招提寺金堂」
(毎日新聞)

「鑑真の遺品? 謎の珠 仏の力増す? <唐招提寺本尊>」
(朝日新聞)

という見出しです。

唐招提寺金堂は、2000年から10年がかりでの解体修理、「平成の大修理」が行われました。
その間、2003年に廬舎那仏像と千手観音像の保存修理が行われました。
本尊・廬舎那仏像のX線撮影を行った処、両手のひらに数珠玉が埋め込まれていることが判明したという報道です。

朝日新聞の記事をご紹介すると、このような内容でした。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「解体修理の前半が終わり、24日、報道関係者に公開された唐招提寺金堂の本尊の盧舎那仏坐像と千手観音立像について、関係者が注目したのは盧舎那仏の両手のひらに数珠の珠(たま)が埋め込まれていたことだった。

『開祖の鑑真和上の遺品の数珠では』といった憶測も出て、謎の数珠への『ロマン』が一気に膨らんだ。
X線撮影で見つかった珠は水晶など鉱物質のもので、中央に貫通した穴があるため、数珠とわかった。

唐招提寺では、金堂の薬師如来立像(国宝)の左の手のひらに銅銭3枚が塗り込められている例と、収蔵庫の木心乾漆菩薩立像(重要文化財)の胸部と手のひらに瑠璃色の珠が込められている例と、類例が2体ある。
だが、他の寺では今のところ確認されていない。
このため、鑑真が中国から伝えた可能性も考えられている。

文化庁美術学芸課の奥健夫・文化財調査官は
『中国では、手のひらという例は見られないが、みけんや胸に珠を収めた例は文献にある。
仏の力を増すという意味があるのではないか』
と話す。

数珠の珠の材質が知りたいところだが、文化庁は保存上の問題はないため、後半の修理でも取り出さない方針という。永遠の謎で終わるかもしれない。」
(2003年4月25日付、朝日新聞・奈良版)

埋め込まれた「珠」が、鑑真和上の遺品かどうかは別としても、大変興味深い「手の掌に珠」発見の話でした。



【瞳の裏にも、珠が埋め込まれていた】


廬舎那仏のX線調査で判明した新事実のポイントは、次のようなものでした。

・両手の掌に、珠が、それぞれ大小2個ずつ埋め込まれている。

・珠の径は、約1.1センチ、0.9センチで、孔が貫通していることから、数珠玉と思われる。

・両眼の瞳には、石か焼き物の硬質材の、黒く塗られた半円板が貼り付けられている。

・その半月板の瞳の裏(あるいは内部)に、0.6センチ程の珠のような物体がこめられている。

X線撮影画像をご覧ください。
ごく小さな球が、手の掌と瞳の裏に込められていることが判ります。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先とX線撮影写真~
手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先

廬舎那仏左手のX線撮影写真~珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先とX線撮影写真~
珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える
(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真




【唐招提寺の菩薩像2躯の手にも、珠の埋めこみが】


このような珠が、仏像にこめられているという例は、他には全くありません。

唯一、同じ唐招提寺の菩薩像2躯に、珠がこめられた仏像が存在するのです。

奈良末平安初期の作とみられる、木心乾漆造りの菩薩立像2躯です。
1躯の菩薩像(伝観音像)の胸に小孔が穿たれ、奥深く瑠璃一粒が納められていることは、前から知られていたのですが、
昭和53年(1978)に、本間紀夫氏によって行われたX線撮影で、2躯の菩薩像の手の掌に珠がこめられていることが判明したのです。
菩薩像(伝観音像)の左手の中と、もう1躯の菩薩像の右手と思われる残欠の中に、珠がこめられていたのでした。

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)
木心乾漆菩薩像の右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)と右手先のX線撮影写真
手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)木心乾漆菩薩像の欠失手のX線撮影写真~手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)とX線撮影写真
手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


菩薩立像の手のなかに珠がこめられているのが発見された時は、さほどの話題にならなかったのだと思います。
ところが、本尊・廬舎那仏像の手の掌のなかにも、珠(数珠玉)がこめられていたのが判明し、今度は、新聞記事に採り上げられるような話題になったという訳です。



【廬舎那仏の手と瞳にこめられた珠~その意味は?】


他にこうした例がないだけに、

「どうして、唐招提寺の仏像の手だけに・・・・・?」
「手のなかに珠をこめるのは、どんな意味があるんだろうか?」

と、俄然、注目を浴びるようになったのだと思います。

数珠玉をこめるというのは、なんらかの宗教的な意味があることは、間違いありません。
まだ、これだという解釈の決定打は、はっきりしないようです。

伊東史朗氏は、新聞の取材コメントで、

「貴重なものを埋め込むことで、信仰の深さや、仏像の高貴さを表そうとしたのではないか。」
(毎日新聞記事)

と語っています

発見に関わった文化庁の奥健夫氏は、もう一歩踏み込んで、このような見方を述べています。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「それらは(注:唐招提寺の仏像の手の掌に納入物があること)観念の上で、仏がその具体的な力を行使する道具である手の働きを増すことを願っての所為であろうと思われるが、特に廬舎那仏像についてはその造像の所依経典である『梵網経』に、自誓受の前に得るべき『好相』として仏の摩頂(頭を撫でること)を受けることが述べられていることとの関連が注目される。

菩薩戒を得るために像の前で慨悔する者は、その低く差し出された右手が自らの頭上に及ぶのを思い描きつつ、掌を注視したことであろう。

これらの二つの工作(注:瞳の裏と手の掌に、数珠玉がこめられていること)は、像が拝する者を目でとらえ、これに力を及ぼすことが期待されているとみられる点で、廬舎那仏像の性格を考える上で非常に重要な発見といえる。」
(「金堂の平成大修理で判明した祈りの造形」(奥健夫)週刊朝日百科・国宝の美13号2009.11)

「好相」とは、仏を見る神秘体験で、これによって懺悔が完了したことが証明されるというものだそうです。
瞳裏と手の掌に数珠玉が埋められたというのは、まさに「仏を見るという神秘体験」の中で、拝する者を仏に見つめられ、その手で頭を撫でられるという、宗教的な思いがこめられたということなのでしょうか。

それにしても、「手の掌に珠をこめた」仏像が、唐招提寺だけにしか存在しないというのは、何とも不思議なことです。
新聞記事の「鑑真の遺品の数珠玉か?」という記事ではないですが、ついつい鑑真と何らかの関係があるのではないかとの空想を巡らせてしまいます。



【金堂・薬師如来像の手の掌に埋め込まれていた、3枚の銅銭】


もう一つ、金堂・薬師如来立像の左手の掌に古銭が埋め込まれていた話も、振り返っておきたいと思います。

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

こちらの発見は、薬師像の制作年代推定の有力証拠となったため、よく知られている話で、ご存じの方が多いのではないかと思います。

薬師如来像の手の掌に、3枚の銅銭が埋め込まれているのが発見されたのは、昭和47年(1972)2月のことでした。

薬師如来像の表面の漆箔の浮き上がりが目立つため、一応の修理が行われた際、左手の掌の中央部に浮き上がりがみられました。
これを固定するために表層を起こすと、そこに、小さな丸い穴があけられ、3枚の銅銭が重ねて納入されていました。
「和同開珎、隆平永宝、万年通宝」の三枚です。

薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」

発見された時の所見によると、この納入が、造立当初に行われたことは間違いないとみられるものでした。



【銅銭発見により、薬師像制作年は延暦15年以降と判明
~金堂三尊の制作年代研究に大きな進展】


この銅銭の発見は、彫刻史研究上の大発見になりました。
これらの銅銭が鋳造された時期よりも、仏像の制作の方が古いということはあり得ず、制作年の上限を特定できることになるからです。

発見された銅銭のなかで、最も新しく作られたのは「隆平永宝」でした。
「隆平永宝」は、延暦15年(796)11月の詔により鋳造されたもので、薬師像の造立は、この時期を遡り得ないことが明らかになったのです。

唐招提寺金堂の三尊、廬舎那仏像、千手観音像、薬師如来像の制作年代については、この発見まで、同時期の制作か、時代差があるかなどについて、様々な議論がありました。

唐招提寺金堂・千手観音像
唐招提寺金堂・千手観音像

廬舎那仏像は脱活乾漆造り、千手観音・薬師如来像は木心乾漆造りと、技法が違うことから製作年代差があるのではないかとか、
薬師如来像などは、太腿の隆起を強調したY字状の衣文の平安初期的特徴から、奈良時代の制作ではなく平安時代に入ってからのものではないかともいわれるなどの疑問が呈されていました。

「隆平永宝の発見」は、これらの疑問を一気に解決したともいえるもので、薬師像は、奈良時代のものではなく、平安時代に入ってからの制作であることが明確になり、薬師像にみられる平安初期的な特徴が、美術史的に素直にすんなり理解できるものになったのでした。

現在では、廬舎那仏像は奈良時代の制作、その後に千手観音像、最後に薬師如来像という順に制作されたというのが、一般的な見方になっていると思います。



ところで、古銭を納める仏像についてですが、体内に古銭を納入する例はいくつかあり、最も有名なのは、清凉寺・釈迦如来立像でしょう。
背刳りの蓋板の裏にびっしりと銅銭が張り付けられていました。

清凉寺・釈迦如来像の背板があてられた背面釈迦如来像の背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭
清凉寺・釈迦如来像の背面と背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭


しかし、手の掌に古銭が埋め込まれているという仏像は、唐招提寺・薬師如来像だけです。

唐招提寺には、廬舎那仏像の造像以来、手の掌に何かを埋め込むことにより、宗教的な力を一層付与するという伝統が息づいていたのでしょうか?



【不思議な謎~どうして唐招提寺の仏像の手だけに・・・・】


今回の「仏像の手の話」は、

「唐招提寺の仏像の手の掌にだけ、何故だか、納入物かこめられている。」

話をご紹介しました。

どうして、唐招提寺に残る仏像にだけなのでしょうか?
この謎が、なかなか解明されるのは難しそうですが、不思議なことで、大変興味深い話です。



「仏像の手の話」を8回にわたって連載させていただきました。
そろそろネタ切れとなってしまいましたので、「今回で、おしまい」とさせていただきたいと思います。


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