観仏日々帖

トピックス~「夢石庵とは何者か?」  細見美術館で開催中の「末法展」 【2017.11.13】


一風変わった、謎の展覧会に行ってきました。

京都の細見美術館で、開催されている 
「末法~失われた夢石庵コレクションを求めて~」
と題する展覧会です。

10月17日(火)~12/24(日)の期間で、開催中です。

「末法~失われた夢石庵コレクションを求めて~」展ポスター

どんな展覧会なのだろうと、半信半疑だったのですが、見終わった後は、穏やかな満足感と爽快感のある、大変よい展覧会でした。
このような気分で、展覧会を後にするのは、久しぶりです。

この展覧会、どうしても観てみたいという気はなかったのですが、丁度、京都国立博物館の「国宝展」に泊りがけで出かけたものですから、ほんのついでに寄ってみたのでした。



【知られざるコレクター「夢石庵コレクション」を蒐めた展覧会~夢石庵とは何者か?】


「失われた夢石庵コレクションを求めて」という展覧会名に惹かれた、というのが本音の処です。

展覧会の企画趣旨は、このようなものになっていました。

「釈迦の死後1500年(一説には2000年)を経て始まるといわれる「末法」の世。
平安の貴族たちは、永承7年(1052)に末法の世に入るという予言を信じ、極楽浄土への往生を願って、数々の経典や仏像を伝え残してきました。

本展は、そんな時代精神の中から生み出された美術作品を愛し、蒐集した、知られざるコレクター夢石庵の全貌を初めて紹介します。

「夢石庵」の名はわずかな人の間にしか知られていませんが、彼は抜群の鑑識眼と内外の人脈を通じ、戦後60年代までに驚くほど質の高い美術作品を精力的に蒐集、一大コレクションを築きました。
既に夢石庵はこの世の人ではなく、没後にコレクションは散逸してしまいましたが、戦後70余年を経た今、その関係者や彼に敬意を捧げる有識者が集まり、夢石庵の美意識とその世界観を再現すべく、今回の展覧会を企画しました。

散逸したかつての夢石庵コレクションのなかから、白眉といえる平安時代の仏教美術を中心に、仏像・仏画・書籍・陶磁・染織・近世絵画に至るまで、幅広い作品をご紹介します。」


夢石庵コレクションは、今回初公開だという話です。

「夢石庵??  そんな名前聞いたことないなー」
「誰の号のことなんだろう?」

近現代の仏教美術の有名なコレクターの名前は、一応知っているつもりでしたが、これまで耳にしたこののない名前・号です。
NETで検索してみましたが、そんな人の名は出てきません。
「益々、謎!」という処です。



【末法展の実行委員は、橋本麻里氏、杉本博司氏など~何か「仕掛け」がありそう】


この謎めいた展覧会、企画実行委員は、橋本麻里氏(実行委員長)、伊藤郁太郎氏、杉本博司氏、細見良行氏(細見美術館館長)です。
顔ぶれを見ると、美術界で今が旬とも云える面々です。

どうも、何やら「仕掛け」があるみたいです。

「夢石庵という名のコレクター、いったい何者なのだろうか??」

そんな気持ちで、美術館の会場に入りました。
展示は、こんなテーマとなっていました。

第一章   美の獄につながれて

第二章   過去・現在・未来~集合する末法のビジョン

第三章   金峯山を照らす、五十六億七千万年後の望月


展示作品の詳細は、細見美術館HP出品リストをご覧いただくとして、仏教美術愛好の個人コレクションに似つかわしい作品が並んでいます。

展示作品は、全て「個人蔵」となっています。

仏像,仏画、密教法具、神像、懸け仏、鏡像、装飾経といった仏教美術品の他に、屏風、掛物といった花鳥風景絵画も展示されていました。
等伯、応挙、抱一、江漢といった作品です。

こうして展示作品の名前だけ並べていくと、
きれいごとで言うと「幅広い作品展示」、
率直に云うと、「個人コレクターの愛蔵品を、何もかも、ごった煮で展示」
という展覧会のように思われてしまうかもしれません。

弥勒仏立像(鎌倉)個人蔵
弥勒仏立像(鎌倉)個人蔵

金銀鍍透彫光背(鎌倉)個人蔵
金銀鍍透彫光背(鎌倉)個人蔵

金剛薩埵像(鎌倉)個人蔵
金剛薩埵像(鎌倉)個人蔵

随身坐像(平安)個人蔵
金剛薩埵像(鎌倉)個人蔵

金銅五鈷鈴(平安)個人蔵風鐸付経筒(平安・天治元年)個人蔵
(左)金銅五鈷鈴(平安)個人蔵、(右)風鐸付経筒(平安・天治元年)個人蔵

四季柳図屏風・長谷川等伯(桃山)個人蔵
四季柳図屏風・長谷川等伯(桃山)個人蔵



【一本、筋の通った美意識の、心安らぐコレクションに、満足感】


ところがそんなことは、全くありませんでした。
個人コレクションに似つかわしい作品ばかりなのですが、一本、きっぱりと筋が通ったものになっています。

「末法」という精神、世界観を投影するコレクション展示という意味において・・・・

磨かれた美の感性、審美眼で選ばれた、クオリティの高い蒐集品という意味において・・・・・

華美、絢爛ではなく、また侘びサビでもなく、落ち着いた心安らぐ美の世界という意味において・・・・・・

そんな、モノサシで、筋の通ったコレクション展示という印象を強く持ちました。

国宝や重要文化財に指定されるような、超一流、第一級の大作、優作という世界ではなくて、まさに小品、残欠と呼ばれるような作品が多いのですが、そこには、選ぶものの眼の効いた美の感性、鑑識眼を感じさせる、キラリと光る粒ぞろいといったものが揃っています。

丁度、同時期に開催中の、京博「国宝展」の圧倒的な凄さの展示作品とは、ある意味、対局にあるといえるのですが、こちらの美意識にも、強く惹かれるものを感じます。

「心安らぐ、落ち着いた美」

のなかに、身を置くことが出来、久々に良き展覧会を観たという気持ちになりました。

「こんな作品が部屋にさりげなく置かれ、それを愛でながら生活する世界」

叶わぬ夢ですが、ちょいとあこがれてしまいます。

細見美術館というのは、このような展覧会に相応しいしつらえの、落ち着いた美術館です。
私が行った日も、会場には人がちらほらという程度で、静かに心行くまでゆっくり鑑賞することが出来ました。

細見美術館
細見美術館

「国宝展」の、待ち時間〇時間、押すな押すなの混雑の会場では、この満足感は味わえるものではありません。



【目についた展示仏像を、一二ご紹介】


展示作品の中で、目についた仏像を、一二ご紹介しておきます。


十一面観音立像(平安)個人蔵
十一面観音立像(平安)個人蔵

この十一面観音像は、1メートルちょっと、法隆寺伝来とされていて、洋画家・鳥海青児氏の旧蔵品だそうです。
平安中期頃の一木彫像のようですが、奈良風とか、白鳳の童子形の匂いを漂わせるのは、法隆寺伝来の由縁でしょうか。


天部立像(平安前期)個人蔵 道成寺・毘沙門天像(平安前期)
(左)天部立像(平安前期)個人蔵、(右)道成寺・毘沙門天像(平安前期)

この天部像は、平安前期の佳品で、香川県の道隆寺(多度津町)旧蔵の1体だそうです。
第二次大戦後、アメリカのパワーズコレクションに入って、近年里帰りしたそうです。
小品ながら、道成寺の毘沙門天像をちょっと思い出します。


弥勒菩薩立像(鎌倉)個人蔵
弥勒菩薩立像・光背(鎌倉)個人蔵
弥勒菩薩立像(鎌倉)とその光背~個人蔵

この弥勒菩薩像は、素晴らしい出来の鎌倉時代の優品です。
興福寺の一子院にあったもので、明治末年に寺を出て、その後、明治の大コレクター、井上馨の旧蔵となっていたそうです。
本体もさることながら、宝珠形の銅製円光も、美しく素晴らしいものです。



【「夢石庵」とは、何者か?~種明かし】


さて、
「夢石庵とは、何者か?」 
ですが、

それは、会場の出口の処に置かれた、「種明かしのパンフレット」をもらって読むと、明らかになります。

「種明かしのパンフレット」
「種明かしのパンフレット」
パンフレットには、

「会期終了まで、皆様の胸の内におさめておいて下さい。」

と書かれていますので、種明かしをしてしまうのは、よろしくないのでしょうが、ほんのさわりだけをご紹介させていただきます。

このような出だしの文章で始まります。

架空のコレクターとしての夢石庵

夢石庵というコレクターをめぐる夢は、ここで醒める。

「末法/Apocal ypse~失われた夢石庵コレクションを求めて~ 」は、

通常の展覧会ではなく、アートプロジェクトとして企画されました。

末法展実行委員の企画による、バーチャルコレクションなのでした。

実行員会による、本展覧会の企画主旨にこめられた想いは、このパンフレットに熱く語られています。
皆さん、展覧会にお出かけになって、じっくりお読みいただければと思います。




【思い出す、大倉集古館で開催の「拈華微笑展」(2000年)~ロンドンギャラリー主宰】


この展覧会の出展作品については、ロンドンギャラリーが尽力、協力されているそうです。
ロンドンギャラリーといえば、ご存じのとおり、超一流の仏教美術を中心とした古美術商です。

ロンドンギャラリーという名を聞くと、思い出されるのが、2000年11月に大倉集古館で開催された 「拈華微笑」 (ねんげみしょう) という展覧会です。

個人蔵の仏像、仏教美術作品を集めた展覧会で、ロンドンギャラリーの主宰により開催されました。
素晴らしく充実した、仏教美術の個人コレクションの展覧会でした。
個人蔵の珠玉の仏像などが、よくぞこれだけ集められ展示されたものだと、今も忘れることが出来ません。

「拈華微笑」展図録(2000年11月・大倉集古館開催)

「拈華微笑」展図録(2000年11月・大倉集古館開催)
「拈華微笑」展図録(2000年11月・大倉集古館開催)

当時の展覧会図録のページを繰ってみると、今回の「末法展」に出展されている作品が、いくつかあり、「拈華微笑」展のことも、懐かしく思い出させてくれました。



ちょっとついでに出かけた末法展、思いもかけず静かに心満たされた、良き仏教美術の展覧会を観ることが出来ました。

皆さんにも、是非、細見美術館「末法~失われた夢石庵コレクションを求めて~」をご覧いただきたいと思い、紹介させていただきました。

12月24日(日)まで、やっています。




【余談の、付けたり~個人蔵の興福寺十大弟子の復元修復像の話】


全くの付けたりの、余談ですが、

大倉集古館の「拈華微笑」展には、興福寺の国宝・乾漆十大弟子像のうち、民間に流出した一体が展示されていました。

復元修復された興福寺・十大弟子像の1躯(個人蔵)
復元修復された興福寺・十大弟子像の1躯(個人蔵)

ご存じのとおり、興福寺十大弟子像は、現在、6体が興福寺にあり、残りの4体は破損残欠や心木だけなのですが、明治年間に売却されるなど流出しています。

「拈華微笑」展に出展された像は、破損し断片となっているものを、美術院の菅原大三郎氏が、大正11年(1922)に復元修復したもので、個人蔵になっています。

この像が、数年前に、クリスティーズのオークションに出されて、アメリカのコレクターの手に渡ったということです。
落札額は、6000万円程度であったという話です。


末法展には何の関係もないのですが、一寸つながり話として、ご紹介しました。


新刊旧刊案内~嬉しい、一目瞭然の「図版吹出し解説」 芸術新潮・運慶特集(2017/10月号)  【2017.11.5】


この秋、
「どこもかしこも、運慶で持ち切り!」
といった有様です。

東博・運慶展の盛況ぶりはもとより、テレビも運慶番組を連発、本や雑誌も「運慶の・・・」という特集本が数え切れないほどです。
ここまでヒートアップするのかと、あきれてしまいますが、今更ながらに「運慶の威力」を思い知らされたような気がします。

書店の新刊棚には、「運慶本」と「運慶特集雑誌」が、これでもかという程に沢山並んでいて、どれもこれも大同小異という感じです。



【こんなスタイルの仏像解説本を待っていた~芸術新潮・運慶特集】


その運慶本のなかで、

「オーッ! こんな仏像解説を、待っていたのだ!」
「こんなスタイルの仏像解説本があると、嬉しいのだけれど!」

そう、前から思っていた本を見つけたのでした。

それは、
 「芸術新潮 2017年10月号 ~特集・オールアバウト運慶~」
です。

芸術新潮・オールアバウト運慶~2017年10月号


私が、「こんなのを待っていた、これは嬉しい」と思ったのは、ここで論ぜられている運慶についての解説の内容云々ではなくて、
「仏像解説のレイアウト」
なのです。

掲載された仏像写真のそれぞれのパーツに、線引きで吹き出しがあり、コンパクト解説が付されているのです。
円成寺・大日如来像の写真&解説を、ご覧になってみてください。

芸術新潮・掲載の円成寺・大日如来像の「図版吹き出し解説」
芸術新潮・掲載の円成寺・大日如来像の 「図版吹き出し解説」


【特徴、着目ポイントが一目瞭然の「図版吹き出し解説」】


如何でしょうか?

新スタイルです。

これまでの仏像の解説本は、仏像写真と解説文が、「写真は写真」「解説文は解説文」と、それぞれ別々に掲載されていたと思います。
この芸術新潮・特集では、仏像写真そのものの各部や衣文などの注目パーツに、直接線引きを施して、吹き出し的にポイント解説が書かれているのです。
「運慶作品カルテ」と題されており、監修:瀬谷貴之氏、文:高山れおな氏(新潮社)ということです。

私は、 「画像吹き出し解説スタイル」  と名付けてみました。

このスタイルの仏像解説本は、ご紹介の「芸術新潮・運慶特集」が本当に初めてなのかどうか、判りません。
私は、これまで見たことがある本・雑誌では、出会ったことがありませんでした。

美しい仏像写真を鑑賞するという意味では、吹き出し線が各所にあると、目障りになるのかと思います。
しかし、その仏像の特色、着目ポイントを、一目瞭然で即座に理解するには、これほどに判りやすいスタイルは無いと思うのです。


それでは、芸術新潮の円成寺・大日如来像写真には、どのような「画像吹き出し解説」が付されているのでしょうか。
その解説文を、一通りご紹介します。


【頭頂部】
冠から上端がとびだす程の高々とした髻は平安初期の作例に倣うものだが、正面を花形に束ねるのは僧の仏画の影響か。

【天冠台部】
冠は後補だが天冠台(てんかんだい)は当初のもの。
通常は木から彫り出すが、金属製としたのは新機軸。

【眼部】
玉眼は目に水晶をはめることで現実感を出す技法で、鎌倉時代に一般化する。
この像は玉眼を使用したもっとも早い例の一つ。

【条帛部】
上半身をタスキ状にめぐる条帛(じょうはく)は、本体と別材で作って貼り付けている。
こんな面倒な方法をとった理由については28~29頁のコラム参照。

【腕部】
胸の前で左手をこぶしに握り人差し指をたて、それを右手で握るのが智拳印(ちけんいん)
金剛界大日のしるしである。
胎蔵界大日はお腹の前で掌をかさねる定印(じょういん)を結ぶ。

【膝前部】
下半身をおおう裳(も)と腰布に刻まれた衣文は、当時の主流だった定朝様の非常に浅く、様式化した衣文にくらべ、より自然な印象。
ただ、後の願成就院や浄楽寺の像にくらべれば、まだおとなしめ。

【台座部】
台座のうちいちばん上の蓮華部(れんげぶ)は当初のもの。
大正10年(1921)の修理に際し、その天板の裏から墨書銘が発見された。
これが近代的な運慶研究の出発点になった。

【台座下部】
台座の敷茄子(しきなす)から下框(したがまち)にかけては、美術院による補作。

【光背部】
光背の周辺部は失われたが、円盤状の頭光(ずこう)と身光(しんこう)は当初のもの。



このような感じです。
写真の当該部分に、このようなワンポイント解説が吹き出していますので、本当に、「一目瞭然」、判りやすいのです。
文章の説明を読んで、その当該部分の写真をみつけて確認しなくても、一目で頭にスーッと入ってくるのです。



仏像の姿や形、構造などを、文字、文章で、きっちり表現、説明するというのは、なかなか厄介なことのように思えます。

その例を、いくつか見てみたいと思います。


【資料的、学術的に完璧な記述の「日本彫刻史基礎資料集成」~無味乾燥で、難しい】


一番、資料的、学術的な説明文というと、なんといっても 「日本彫刻史基礎資料集成」(中央公論美術出版社刊) ということになるでしょう。

この本では、このような項目立てで、順に表記されています。


【銘 記】

【形 状】

【法 量】

【品質構造】

【伝来】

【保存状態】


「日本彫刻史基礎資料集成・第4巻」の円成寺・大日如来像の解説
「日本彫刻史基礎資料集成・第4巻」の円成寺・大日如来像の解説

まさに、基礎資料ですから、事実が淡々と記されているだけです。

これ以上の精密な表記はないのでしょうが、読む側にとっては無味乾燥そのものと云えるものです。
相当に、表現に慣れないと、どのような形状や構造を説明しているのか、皆目判らないというのが本音の処です。



【つい面倒で読み飛ばしてしまう、論文の造形・構造の記述~文字だけの記述は、判りにくい】


論文などの、仏像の姿かたち、造形や構造について述べた文章も、なかなか判りにくいのではないでしょうか。
私などは、そこの処は、とっつきにくくて、ついつい読み飛ばしてしまいます。

例えば、円成寺大日如来について、山本勉氏が書かれた論文、

「円成寺大日如来像の再検討」 (山本勉 )国華1130号 1990.1

では、このあたりの処が、どのように記述されているでしょうか?

形状については、

本像は像高98.2㎝、髪際高76.8㎝の等身大で、智拳印を結び、右脚を外にして結跏趺坐する金剛界大日如来像である。
いわゆる高髻を結び、頭髪はすべて毛筋彫りとする。
鬢髪一條が耳をわたる。
もと各耳後ろをとおって肩上にいたる垂髪をあらわしていた(今右肩部分のみ残る)
白毫相をあらわす(水晶嵌入、大正修理時の新補)
天冠台を付け、その上に宝冠を戴く(いずれも銅版製鍍金、宝冠は近世の新補)
條帛をかけ、折返しつきの裙をつけ、腰布を腹前で結ぶ。
銅版製鍍金の胸飾り・臂釧・腕釧をつける(胸飾りから瓔珞を垂らす)
光背は、頭光、身光、光脚からなる二重円光で、いま周縁部を失っている。
台座は六重の蓮華座であるが、敷茄子以下の部分は大正修理時の新補である


構造については、

本像はヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌入する。
頭・体の根幹部は正中線で左右二材(幅左方22.2㎝、右方23.6㎝、奥各26.5㎝)を矧ぎ寄せて彫成する。
左右二材とも内刳りをほどこしたうえで、三道のやや下方で割首する。
両脚部は横木一材製(奥24.0㎝)で内刳りし、両腰脇部に各一材(内刳り)、裳先を矧ぐ(亡先)
両腕は肩・上膊半ば(臂釧の取り付け位置)、臂、手首で矧ぐ。
髷は別材製で丸枘(大正修理時の新補)を雇枘として挿しこむ(大正修理時の図解によると頭頂のそれを受ける部位に薄板一枚をはさむようである)
後頭部下方に矧ぎ目をはさんで左右各一の矧ぎ木(大正修理時の新補)がある。
像表面は、頭髪部をのぞいて布貼り錆漆下地をほどこしたうえ漆箔しあげとする。
頭髪部は木地に群青彩とし、元結い紐は朱彩とする。
・・・・・・・・・・

このように記述されています。

ウーンと唸ってしまいます。

確かに、凝縮して精密に記述すれば、このようになるのだと思います。
論文の記述としては、絶対に必要なことなのでしょう。

ところが、恥ずかしながら私には、この記述の文章をすらすらと読んで、仏像の姿かたちやその構造、後補部などが、手に取るように浮かんでこないのです。

研究者の人は、このような記述が、苦も無くすらすら出来て、読んだだけで写真映像のように、仏像の姿かたちが、頭に浮かんでくるのかもしれません。

しかし、私などには、チンプンカンプンとまではいいませんが、慣れていないせいか難解表現で、写真を横に置いて一つ一つチェックしてみて、やっとこさ記述内容が、何とか判るという処です。
そんなわけで、仏像の姿かたち、構造の詳細記述の部分は、とっつきにくくて、面倒臭くて、ろくすっぽ読みもせずに、読み飛ばすのが常というふうになってしまっています。



【啓蒙書でも、造形・構造のコンパクトで平易な記述は、なかなか大変】


これは、研究論文の話でしたが、一般向けの啓蒙本でも、仏像の姿かたちや構造などを、誰にもわかりやすく平易に記述するのは、なかなか骨のようです。

昔、平成の最初の頃、ベストセラーになったこの本、

「魅惑の仏像」全28巻 毎日新聞社刊

の、円成寺・大日如来像の巻(第28巻・1996刊)の記述を見てみたいと思います。

「魅惑の仏像・第28巻~大日如来」毎日新聞社1996年刊

西川杏太郎氏の解説記述です。

「しかし円成寺の大日如来像は(注:藤原風の仏像とは)だいぶ違います。
頭髪は毛筋を細かく刻み出し、頭上の髻も膨らみを持たせて高く豊かに結い上げていますし、肉厚く引きしまった体の肉付けにも、またゆったりと組んだ両膝に自然に流れるように刻む衣のひだにも、大変個性があります。
・・・・・・・
上体は両肩や背中に肉を厚くつけ、腰できりりと引きしめ、智拳印を結ぶ両腕のかまえ方も、空間をゆったりと抱きかかえるようにまとめ、全体として安定感のある力強さが示されています。」


「この大日如来像は檜の寄木造で、眼には玉眼(レンズ状にみがいた水晶の眼を内側から嵌め、これに瞳を描いてあらわす技法)をはめています。

「魅惑の仏像」円成寺・大日如来像の解説掲載の構造図
「魅惑の仏像」円成寺・大日如来像の解説掲載の構造図

図に示したように鼻筋を通る正中線を境にして、頭部から胴までを左右二つ各材(A・B)を矧ぎ合わせ、両膝には横一材(C)を寄せるという寄木造の技法で造られています。
そして頭頂の髻(D)、両腕(肩、上腕、ひじ、手首で接合)、それに両腰脇(E・F)などに別材を寄せる典型的なものです。
像の内部は、きれいにくりぬいて空洞にし、また制作の途中で頸筋にノミを入れて頭と胴を割り離し、像の細かい部分の彫刻を済ませてから再び頭と胴を接合する「割り首」(S)の技術も用いています。
・・・・・・・・・
台座は、蓮肉と蓮弁は古いのですが、これ以外の部分はすべて大正時代の修理の時に奈良美術院(美術院国宝修理所)によって後補され、六重蓮華座に仕立てられているのです。
光背は二つの円相をつないだ二重円光で、これは像と同時の制作です。
いまその外周につけられた周像はすべて失われています。」

読んで見られて如何でしょうか?

先の研究論文の記述に較べると、格段に平易で判りやすく、私にでもイメージがわいてくる感じはします。
ただ姿、形の各部分を、わかりやすく記述するというのは、なかなか難しそうです。
きちっと書くと、文章が長くなってしまうからか、かなり省略というか簡単に記されています。

構造の方も、文章でこれを平易に説明するというのは、なかなか骨が折れることが伺えます。
構造略図が掲載されているので、これを横目に見ながら読むと、なるほどと、よく判ります。


ご紹介したような、これまでに書かれた論文や書籍の、
「仏像の姿かたちの記述、構造、後補部分の記述、造形の特徴の記述」
などを、読んでいると、

気を入れて読んでやろうと思う時は、写真図版といちいち照らし合わせながら、ちゃんと理解するように頑張ってみるのですが、普段は、ついつい適当に読み飛ばしてしまいがちになっています。



【仏像写真図版に吹き出し解説を入れると、一目瞭然?~かねがね、思っていたこと】


「仏像写真図版の当該部分に、直接、解説記述を吹き出しのように入れてくれると、素人には本当に判りやすいんだがなー・・・・・」
「図版吹き出し解説スタイルの本があれば、一目瞭然で、本当嬉しいな!」
「図版吹き出し解説をいったん見てから、その後でしっかりした文章解説を読めれば、最高なんだけれども・・・」

そんなことを、かねがね、心の中で考えていたのです。

そんなことは、
「ちょっとマニアックな愛好者の我儘なのか?」
と思っていた処、

新刊の「芸術新潮・運慶特集」で、そのようなスタイルが一部採用されているのを見つけたというわけです。

「これは嬉しい、一目瞭然 !!」
「我が意を得たり !!」

と喜んでしまいました。

「芸術新潮・運慶特集」では、ご紹介の、円成寺・大日如来像だけではなくて、主なる運慶作品について、このスタイルの「図版吹き出し解説」が掲載されています。

一二、ご紹介すると、ご覧のような感じです。

芸術新潮・掲載の願成就院・阿弥陀如来像の「図版吹き出し解説」
芸術新潮・掲載の願成就院・阿弥陀如来像の「図版吹き出し解説」

芸術新潮・掲載の光得寺・大日如来像の「図版吹き出し解説」
芸術新潮・掲載の光得寺・大日如来像の「図版吹き出し解説」

このような「図版吹き出し解説」スタイルの本が、もっともっと増えていってくれると、嬉しいなと思います。

芸術新潮の「図版吹き出し解説」は、ちょっと簡単すぎて物足りない感もあります。
「吹き出し解説」をもっと詳しくするとか、側面、背面写真も入れて「図版吹き出し解説」を付けるとかいう本が出現すれば、仏像の姿かたち、造形の特徴、構造、後補部分などが、より詳細に一目瞭然でになって、嬉しいなと思う処です。


ずっと前から、こんなスタイルの仏像解説があったら良いなと思っていた「図版吹出し解説」スタイル本を発見して、ちょっと嬉しくなって、紹介させていただきました。



【ついでにご紹介~とても便利な、仏像持物などのイラスト吹き出し解説本】


ついでにご紹介ですが、

「仏像図解新書」 石井亜矢子著・岩崎隼画 小学館新書 2010年刊

という本も、なかなか役立つ本です。

「仏像図解新書」 小学館新書 2010年刊

仏像の諸尊格、即ち、如来・菩薩・明王・天部の、それぞれの尊像別に、持物や着衣、飾り物、印相などなどの名称と一言解説を、 「イラスト図吹き出し解説」 したものです。

釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音・・・・・・
といった尊像別に、いわゆる「儀軌」に定められた、印相や持物、着衣等の名称が「イラスト図吹き出し」で記されています。

80余の尊像について、イラストが載せられていますが、そのうちのいくつかをご覧ください。

「仏像図解新書」掲載の十一面観音のイラスト吹き出し解説
「仏像図解新書」掲載の十一面観音のイラスト吹き出し解説

「仏像図解新書」掲載の如意輪観音のイラスト吹き出し解説
如意輪観音のイラスト吹き出し解説

「仏像図解新書」掲載の降三世明王のイラスト吹き出し解説
降三世明王のイラスト吹き出し解説

「仏像図解新書」掲載の梵天のイラスト吹き出し解説
梵天のイラスト吹き出し解説


それぞれの尊像の「印相や持物の名称」がまさに一目瞭然で、大変便利です。

先程来ふれてきた、論文などに記述された、仏像の姿かたちの表現を理解するためのアンチョコに格好な新書で、お薦めです。


こぼれ話~興福寺仏頭 発見の日はいつか?  〈興福寺仏頭発見物語~付けたり〉 【2017.10.21】


「興福寺仏頭発見の日はいつか?」

こんな表題が、ふと目にとまりました。

「論文検索サイトCiNii」で、他のテーマを検索していたら、偶然に、見つけたのです。
こんな論考があったとは、全く知りもしませんでした。

「どのような話が書かれているのでしょうか?」
「興福寺仏頭が発見されたいきさつは、はっきりしているはずなのに、何をいまさら・・・・」

と、一瞬思いましたが、読まないわけにはいきません。

興福寺仏頭(山田寺旧仏)
興福寺仏頭(山田寺旧仏)

このような論考です。

「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」吉崎瑞光執筆  
奈良美術研究第15号 2014年3月刊所載

早速図書館へ出かけて、読んでみました。

吉崎瑞光執筆「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」
吉崎瑞光氏執筆「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」



【仏頭の本当の発見日は一日違うのか ~10/29か? 10/30か?】


論考の中身は、興福寺仏頭の「本当の発見の日」については、

・新出の興福寺「寺務所日誌」には「昭和12年10月29日」と記載されている。

・従来は、「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」(黒田曻義氏執筆)記載の「昭和12年10月30日発見、31日取出し」とされてきた。

「いずれの日が正しいのか、信憑性があるのかを、検討、検証する」というものでした。

「一日違うかどうかなんて、どうでもいいじゃないか!」
「一日違ったところで、興福寺仏頭発見の意義だとか、美術史上の位置づけが、変わったりするのか?」

このようにおっしゃる皆さんも、沢山いらっしゃるのではないかと思います。

そのとおりなのですが、現在、神奈川仏教文化研究所HPに「仏像発見物語」を連載中で、今年7月に「【第6話】興福寺・仏頭(山田寺旧仏) 発見物語」を掲載させていただいたばかりなので、放っておける問題ではありません。

実は、私もHP掲載時に、新出の「寺務所日誌」の日付と、黒田曻義氏執筆「発見記」の日付が相違することに気づいたのですが、そう気に留めはしませんでした。



【新たに明らかになった「興福寺寺務所日誌」の仏頭発見の記載日~10/29】


新出の「寺務所日誌の記録」というのは、2013年9~11月に東京藝大美術館で開催された「国宝興福寺展」に合わせて、興福寺が行った調査によって、初めて明らかになったものだということです。

この「寺務所日誌」の仏頭発見の記録の日付が、「昭和12年10月29日」と記されていたのです。

展覧会開催時の仏頭展公式ホームページ(現在、このHPは抹消され見ることは出来ません)には、この新出の事務所日誌の当該日付部分の画像が掲出され、このような説明が付されていました。

新たに確認された興福寺寺務所日誌の「仏頭発見」の記載(10/29之条)
新たに確認された興福寺寺務所日誌の「仏頭発見」の記載(10/29之条)
2013年開催・仏頭展公式ホームページに掲載


「昭和12年に仏頭が発見された当初は、史実の確認などのため報道は直ちにされず、数日後に報じられた新聞や研究論文などでは、発見された日を10月30日や31日とするものが散見されましたが、本展開催に合わせて興福寺が行った事前調査で、寺の公式記録である寺務所日誌に仏頭が10月29日に発見されたとする記載が残されていることが確認されました。」


吉崎氏は、論考「興福寺仏頭発見の日はいつか」の中で、

「興福寺では、10月29日を『仏頭発見の日』と決められたようである」

と述べ、「本当に10月29日で良いのか」という問題意識で、この論考を執筆されたようです。



【「仏頭発見日」について、語られた資料を振り返る】


「仏頭発見日」に関わる資料の内容についてみながら、吉崎氏の論考のポイントの要約を、ご紹介したいと思います。


仏頭の発見日が、昭和12年(1937)10月30日の夕刻で、翌31日に台座内から取り出したというのは、これまで、疑いのない事実とされていました。



【発見者自ら執筆の「発見記」によると、10/30夕刻に発見】


これは、東寺興福寺東金堂の解体修理を担当し、発見の現場にいた黒田曻義氏が自ら執筆した「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」に、はっきりと書かれているからです。

黒田曻義氏執筆「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」
黒田曻義氏執筆「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」

このように語られています。

黒田曻義氏
黒田曻義氏
「10月30日のそれもタ冷えのする秋の暮色がひそひそと堂内に漂ひ初めた頃であった。
そしてその来迎壁の撤去によって、はしなくも本尊重座内部に、木箱とその上に正面に對って奉安せられた鋳銅の仏頭とを発見したのである。
・・・・・・・・・
翌31日は日曜日であったが、技師も早朝から出て来られ、寺にも通告して総務板橋良玄師、事務長樋口定俊師、信徒総代中村雅眞氏等の立曾いを得て、先づ仏頭を取出した。」

この文章は、昭和12年12月発行の「東洋美術」25号に、「昭和12年11月23日稿」として掲載されたものです。

興福寺仏頭が東金堂薬師像台座下から発見された時の状況
興福寺仏頭が東金堂薬師像台座下から発見された時の状況

自ら発見調査した黒田氏が、その驚きも冷めやらぬ、発見からひと月もたたぬ頃に書かれたものですから、発見日を間違うなどということは、考えられないことだと思われます。



【新たに公開された「興福寺寺務所日誌」には、10/29之条に発見記録が】


ところが、今般、発見日が「昭和12年10月29日」という、興福寺寺務所日誌の記述が発見されたというのです。
仏頭展公式ホームページに掲載された寺務所日誌の画像を見ると、このように記されています。

興福寺寺務所日誌「10/29之条・仏頭発見の記載」
興福寺寺務所日誌「10/29之条・仏頭発見の記載」

「十月二十九日  雨天
目下修繕工事足場取付中ノ東金堂本尊蓋座下ヨリ
旧本尊ノ御首并ニ御首ノ台中唐櫃ノ中ヨリ一尺五寸
位ノ銀ノ御手ヲ発見ス
御首ハ何時代ノ鋳造ナリヤ不明ナレトモ文献ヲ綜合スルニ
治承四年災焼ノ折東金堂衆ニ依テ山田寺ヨリ持
チ来リシモノナラン東金堂本尊ハ山田寺ノモノナリトハ諸
処ニ散見スル所ナリ山田寺最初ノ本尊トスレハ天武天皇
ノ御願ニ依リ石川麿追福ノ為ニ鋳造セラレシモノ也
・・・・・・・・・・」

寺務日誌の「10月29日之条」に記されているのですから、こちらを信用すれば、10月30日ではなくて、一日前の10月29日ということになります。



【発見の後日に書かれたとみられる、寺務所日誌の発見記録~日付相違か?】


仏頭展公式ホームページのコメント作者は、

「発見当初から数日間の鑑定結果を踏まえた形で、後日まとめて詳細に記したと見られ、淡々とした文章ながら、寺内を揺るがす今世紀の発見。であったことが読み取れます」

と、後日、「10月29日付けの記述」がなされたのであろうと推定しています。



【「10/30、仏頭発見の事実は動かず」~吉崎氏の検証の結論】


吉崎氏は、論考において、寺務日誌の記述内容の検討検証を行ったうえで、

「『十月二十九日  雨天』の筆跡と本文の筆跡が、私のような素人でも明らかに異なることがわかるので、29日の記述は、仏頭が旧山田寺本尊であるとの見解が一致したのちに書かれたのであろう」

「恐らく、30日の条に記入すべきものが、29日の条に紛れたものと思わざるを得ない。」

と述べています。

そして、
寺務日誌の日付から、「仏頭発見日を10月29日」とすることは疑問といわざるを得ず、「10月30日発見、翌31日取り出し」とする、当時の修理工事関係者の記録を否定することは不可能だと思われる
と、結論付けています。


また、吉崎氏は、

「10月29日付けの寺務所日誌がいつ頃記入されたと考えられるか?」

という点については、このように述べてています。

「先に紹介した仏頭発見前の足立康の2編の論文や、発見時の関係者の見解が事前に内容を興福寺に開示しているとすれば、11月上旬頃までには、10月29日のような記事ができていたと言うことはなかろうか。」

ここにふれられた、「足立康の2編の論文」というのは、仏頭発見以前に書かれた「興福寺東金堂再建年代考」(「史蹟名勝天然記念物第7集9号・1932.09)と「石川麻呂追福の仏像」(史学雑誌46巻2号・1935)という論文です。
足立康氏は論文で、興福寺東金堂衆が山田寺から薬師三尊像を奪取し東金堂本尊としたことや、その像が蘇我倉山田石川麻呂追福の像であることに言及しています。

吉崎氏は、寺務所日誌の記録者が、この足立説があることを、発見日当日までに既に知っていて、そのように記すことが出来たとは到底思えないと述べ、発見時の関係者の見解が興福寺に示されて以降に、この寺務日誌が書かれたと推定しています。


以上が、「仏頭発見日」に関わる、二つの資料「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」「興福寺寺務所日誌」の内容についてと、吉崎瑞光氏の論考「興福寺仏頭発見の日はいつか」の要約ポイントのご紹介です。



【仏頭発見新聞記事に報じられた発見日は?~発見2日後に10/30と報道】


最後に、私が、当時の新聞記事に書かれたことから、確認できたことについて、付け加えさせていただきたいと思います。

まず、仏頭発見日についてです。

「興福寺仏頭の発見」について、初めて新聞報道されたのは、11月2日の夕刊・大阪毎日新聞等々でした。

大阪毎日新聞11月2日夕刊の発見報道記事
大阪毎日新聞11月2日夕刊の発見報道記事

この大阪毎日新聞の記事には、

「去る10月31日その内陣を解体工事中、本尊薬師如来台座の内部に二重の木箱を発見・・・・・」

と書かれています。

また、11月3日付け大阪朝日新聞記事には、

「去月(注:10月)30日内陣の一部を取り除き、本尊薬師如来後方の十二神将の厨子のはめ板を取外したところ本尊台座の中の箱の上に・・・・・・
古びた仏頭一つが載せてあり、翌31日興福寺、社寺課関係者立会裡に箱を開くと・・・・・・・」

と書かれています。

11月3日付け大阪朝日新聞の発見報道記事
11月3日付け大阪朝日新聞の発見報道記事

これは、発見後2日目の新聞記事であり、黒田氏が、後に発見記に記した「30日発見、翌31日取出しというのが記憶相違」ということはあり得ないでしょう。

万が一にもの可能性としては、興福寺サイドが、なんらかの特別の事情で
「29日の発見を、一日遅れの30日として発表するよう要請した。」
ということもありましょうが、これも考えられないことでしょう。



【仏頭の由来も発見記事と同時に報道~「山田寺旧仏、石川麻呂追福の像」~】


もう一つ、興福寺の寺務所日誌の記録者が、発見された仏頭が「山田寺旧仏、蘇我倉山田石川麻呂追福の像」である可能性を、すぐに認識していたのかどうかということです。

大阪朝日新聞11月3日(11/2夕刊?)の発見報道記事
大阪朝日新聞11月3日
(11/2夕刊?)の発見報道記事
11月3日付(11/2夕刊記事か?)の大阪朝日新聞記事には、

「岸古社寺技師、足立康博士らが調査した結果、文治3年に東金堂衆が大挙して山田寺に押し寄せ、講堂から奪取した丈六の薬師如来像の仏頭ではないかと見られるに至った。

この山田寺の薬師堂は、天武天皇が創立者の石川麿御追福のために御寄進あらせられたもので、東金堂に移されその本尊として安置され後に罹災したものである。・・・・・」

と、早くもその伝来について、はっきり記されています。

寺務所日誌の記録者は、発見後すぐ調査関係者からの報告により、「山田寺旧仏、蘇我倉山田石川麻呂追福の像」である可能性を知ることとなったでしょうし、もしかしたら、仏頭発見以前から、この伝来についての話も知っていたかもしれません。



このような新聞報道の記事を振り返ってみても、仏頭の「30日発見、翌31日取出し」の事実は、動くことがないようです。

また、「10月29日付けの寺務所日誌」の事後記入のタイミングについても、発見から数日後もたたぬうちということも、十分考えられるのではないでしょうか。



いずれにしても、冒頭にふれさせていただきましたように、仏頭発見の日が、たった一日違ったところで、何の影響もないと云って差し支えないでしょう。

余りに些細なことにこだわった話でしたが、HP連載「興福寺仏頭発見物語」に関連するテーマとして、紹介させていただきました。


今後、興福寺において、10月29日を「仏頭発見の日」とするようになるとすれば、これから多くの年月を重ねていくうちに「10月29日発見」が、定説、事実として語られていく時が来るのかもしれません。


古仏探訪~草津、宝光寺・薬師如来像と橘堂・観音像の秘仏御開帳 [その2] 【2017.9.16】


2.橘堂・三面六臂の観音像の御開帳



宝光寺の秘仏・薬師像と、観音堂・聖観音像に、想定外の大満足の後、近くの橘堂・観音像の御開帳に向かいました。

橘堂の三面六臂観音像は、10~11世紀頃の、お顔の大変美しい観音様です。

橘堂・三面六臂観音像(平安時代・草津市指定文化財)
橘堂・三面六臂観音像(平安時代・草津市指定文化財)

像高:107cm、ヒノキの一木彫・内刳無し、本面・両脇面・頭頂面が十四面で、六臂の観音で、草津市の指定文化財となっています。

この像の呼び方については、三面千手観音像と書かれたり、千手観音と断じるのを避けて、三面六臂観音像、十四面六臂観音像と書かれていたりします。
ここでは、市指定文化財の名称となっている「三面六臂観音像」と呼ばせていただきました。



【宝光寺御開帳に合わせて開帳される、橘堂の観音様】


橘堂は、宝光寺の北西5~600m程の、草津市志那町という処にあります。

この橘堂の観音様の御開帳は、宝光寺の御開帳の時に合わせて、同じ時期の行われることとなっています。
由緒によると、南都僧、定恵が勅願により宝光寺を創建した際に、同時に建立されたものという伝えがあり、御開帳も宝光寺と一体ということになっているようです。

公園の広場のような場所に、ポツリと建てられた小堂があり、そこが橘堂です。

御開帳日の橘堂
御開帳日の橘堂

本日は、御開帳日ということで、お堂の横にテントが張られ、地元の方がご開帳の対応をされていました。

橘堂・観音像御開帳の看板、ご対応の方々のテント
橘堂・観音像御開帳の看板、ご対応の方々のテント



【端正で美しいお顔に、思わず見惚れる三面六臂の観音像】


早速、お堂に入って、観音像のご拝観です。

内部が金色のお厨子に祀られている橘堂・観音像
内部が金色のお厨子に祀られている橘堂・観音像

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

なんといっても「美しく、整ったお顔」が、印象的です。
「端正」という言葉が、そのままあてはまるようなお顔の造形で、見惚れてしまいます。
優美だけれども、キリリとしっかり締まったお顔です?

端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像
端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像
端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像

いわゆる、藤原風の「繊細優美」と云われる雰囲気とは少し違っています。

「しっかりとした彫り口の中に、心鎮まる穏やかさがこめられた、端正な顔貌。」

とでもいうのでしょうか。

本面、脇面の三面のお顔が、厨子の内側の金色に映えて、浮かびあがってくるような幻惑感さえ覚えてしまいます。
この観音像を拝すれば、誰もが、このお顔に魅了されてしまうことと思います。

像全体のプロポーションも、バランスよく整っており、なかなか出来の良い像です。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

肉付けも穏やかながら豊かなものがあり、衣文も大人しく整ったものですが、シャープな刻線で彫られています。

橘堂・三面六臂観音像~脚部
橘堂・三面六臂観音像~脚部

檀像風の素木の像であったのしょうか?
髪際のあたりには、細かいノミ跡が残されています。



【10世紀末頃の出来の良い観音像~めずらしい三面六臂の千手観音】


10世紀末頃の制作とみられているようですが、いわゆる藤原風になっていく直前あたりの、平安中期の穏やかさの造形表現の像ということで、納得です。
そのなかでも、なかなか出来の良い像なのではないでしょうか。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

この像の魅力は、三面六臂の造形バランスの良さにもあるように思います。

これを千手観音と見做すかどうかの議論もあるようですが、三面千手観音像と云うのは、現存している像が少ないそうで、京都・法性寺像(平安・国宝)、福井・妙楽寺像(平安・重文)、京都・正法寺像:元九品寺蔵(鎌倉・重文)が知られているそうです。

京都法性寺・三面千手観音像(平安・国宝)
京都法性寺・三面千手観音像(平安・国宝)

福井妙楽寺・三面千手観音像(平安・重文).京都・正法寺像・三面千手観音像(鎌倉・重文)
(左)福井妙楽寺・三面千手観音像(平安・重文)、(右)京都・正法寺像・三面千手観音像(鎌倉・重文)



【展覧会ポスターとなり、一躍、人々の眼を惹いた「かくれ仏」】


私が、この観音像を初めて観たのは、もう20年近くも前のことです。

1998年秋に、滋賀県立近代美術館で開催された「近江路の観音さま展」に、出展されたのです。
この展覧会は、平安期を中心とした近江の観音像50躯ほどが一堂に会した、大変充実した仏像展でした。
なんと、その展覧会ポスターに、橘堂観音像のお顔のクローズアップ写真が使われ、図録の表紙を飾ったのでした。

「近江路の観音さま展」図録の表紙に使われた橘堂観音像のお顔
「近江路の観音さま展」図録の表紙に使われた橘堂観音像のお顔

多くの人が、
「橘堂の観音像? そんな仏像あったっけ?」
と、と思ったに違いありません。

そんなかくれ仏が、一躍、展覧会のスターの座に大抜擢され、観音像のお顔の、穏やかで心惹き込まれるような美しさに、人々が魅了されたのでした。

図録表紙の橘堂観音像のお顔
図録表紙の橘堂観音像のお顔

以来、私も、お気に入りの仏像の一つなり、今回の御開帳で、この観音像を拝するのも4回目になりました。
いつ拝しても、この観音像の「端正な美しさ」に見惚れてしまいます。



【吉田・白井両家が管理所有する橘堂】


普段は、秘仏として守られているのですが、橘堂の管理所有者である吉田家にお願いすると、ご都合が付けば、拝させていただくことが出来るのです。

実は、この橘堂の観音像は、個人所有になっているそうで、吉田家、白井家の両家で、お堂が建てられ管理されているのだそうです。
お堂のある場所も「吉田」という地名が付けられており、すぐそばの吉田家の元母屋は「吉田家住宅」とっして県指定文化財になっています。

県指定文化財となっている吉田家住宅
県指定文化財となっている吉田家住宅

お堂のある広場には、、琵琶湖養殖真珠の事業化を手掛け「淡水真珠養殖の父」と呼ばれる「吉田虎之助翁銅像」が建てられています。

橘堂のお堂の敷地に建てられている「吉田虎之助翁銅像」
橘堂のお堂の敷地に建てられている「吉田虎之助翁銅像」

ところで、なかなか整って出来の良い、橘堂・観音像なのですが、文化財としては「市指定文化財」になっています。
これだけの出来であれば、重文とまでは云わなくても、せめて県指定文化財ぐらいになってもよいのではないだろうか、と思うのですが・・・・・・

はっきりとしたことはよく判りませんが、この像が「市指定」でとどまっている訳には、観音像の本面が、

「江戸時代の後補のものではないか?」

とみられていることが、影響しているのかもしれません。



【別材で矧ぎ付けられているお顔、本面~江戸時代の後補なのか?】


先程来、「美しく端正で、見惚れる」と綴ってきた、観音像のお顔なのですが、なんと江戸時代の後補であるといわれているようなのです。
本像は、江戸時代、寛文13年(1673)に修理されたという旨の墨書が、台座に残されています。

観音像台座に残された、寛文13年(1673)修理の墨書
観音像台座に残された、寛文13年(1673)修理の墨書

その修理の際に、第一手上膊部等が後補されているのですが、火災で損傷したお顔、本面が造り直されて、矧ぎ付けられたとというのです。

たしかに、お顔、本面の側面の方には、材を矧ぎ付けたとみられる線が入っているのが判ります。
この線の処から、顔面が矧ぎ付けられているということです。

面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔~右目の目尻から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える
面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔
~右目の目尻から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える~


面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔~左耳の付け根から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える
面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔
~左耳の付け根から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える~


そうだとすると、今の美しいお顔は、江戸時代のものということになるのでしょうか?

この点について、宇野茂樹氏は、本面は江戸の補修とみて、このように述べています。

「頭上前面の化仏(頭頂仏面は除く)や、両脇・体幹部が手を除いて造像当時のものであるにもかかわらず、もっとも大事な本面が後代に補修されている。
左膝下裳の部分に火を間近に受けた跡が残ることから、おそらく火災の時に本面が損傷受け、寛文13年(1673)の修理のときに補修されたものであろう(台座裏修理銘)。
しかし作風から10世紀末の造像と考えられ、我が国でも作例の少ない三面千手として注目に値する。」
(「平安の美術」宇野茂樹・草津市史1巻1981.07所収)



【本面も、後補ではなく10~11世紀のものと見る、新たな見解も】


以来、ずっと、「本面は、江戸時代の後補矧ぎ付け」とみられていたようなのですが、高梨純次氏が、

「本面も、後補ではなく、10~11世紀のものと見てよいのではないか。」

との、新たな見方を述べています。

橘堂・観音像が図録表紙に使われた「近江路の観音さま展」の図録解説において、このように記されています。

「さらに現状についての解釈にとって大きな問題は、正面の本面が別材製となる点である。
この点については、宇野茂樹氏により、寛文13年に補修きれたものと解釈されている。
・・・・・・・
作風の違う観音像の頂上仏面と本面~本面は古く、頭頂仏面は江戸の補作?
作風の違う観音像の頂上仏面と本面
~本面は古く、頭頂仏面は江戸の補作?
本像の本面は、幹部材の前後の厚みからして、幹部材よりの彫出が可能であり、あえて別材製としているについては、やはり当初のものではないとするのが妥当であろうが、その表現からして果たして17世紀後半の後補とするにはいさきか古様を留めている。
本面は、丸々とした全体感をもち、天冠台の形式や表現も古様であり、眉から鼻にかけてのカーブも明快で、引き締まった唇の表現もバランスが整い、エッジを利かせた明快なものとなっている。
・・・・・・・・・・
この右脇面を参考として本面が後補きれた可能性もあるが、近世に至って補作がなされたとするには破綻が認められず、やはり検討した時期に近い頃の作とするのが妥当であろう。
また、頂上仏面を含めた頭上面の補作を、この寛文13年とみるならば、やはり両者の作風の違いは明らかである。」

「別材製の本面が補作されたものとしても、あまり年代の離れた時点ではなく、比較的に近い時期に行われたものと結論付けられよう。
あるいは、幹部材の木心がほぼ中央に籠められていることを嫌っての所為、または支障が生じてのことかとも推測される。」

以上のような考えを示したうえで、

「本面の制作は、10世紀末から11世紀初頭とするのが妥当であろう。」

との結論に達しています。

いずれの見方が正しいのでしょうか?



【平安時代のお顔と思いたい、端正な美しさ】


難し過ぎる議論で、私などには、どうこう云えるものではないのですが、あの本面がいずれの時代のものであろうと、「端正で美しいお顔」には惹きつけられ惚れ込んでしまいます。
あのお顔が、江戸時代のものと云われると、何とも残念至極というのが、実感です。

高梨氏が想定されているように、
「木心が中央に籠められているのを嫌ったから」
とか、
「一度、彫ってみた顔が満足いくものではなかったので、彫り直して矧ぎ付けた。」
というふうに思いたいというのが、率直な気持ちという処です。

この本面が後補という問題がなかったならば、「県指定とか重文」に指定されていた可能性もあるのでしょうか?



御開帳に訪れた8月8日は、じりじりと真夏の太陽が照り付ける、炎暑でした。
35度越えになったのかもしれません。
酷暑にもかかわらず、訪れる方が絶えることはありませんでした。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像


ジットしていても、うだる暑さでしたが、小ぢんまりした橘堂で、穏やかな観音像の姿を拝していると、厳しい暑さも忘れてしまいそうな、心静かな時間を過ごすことが出来ました。


古仏探訪~草津、宝光寺・薬師如来像 と 橘堂・観音像の秘仏御開帳 [その1] 【2017.9.16】


その1. 宝光寺・薬師如来像の秘仏御開帳



心待ちにしていた「秘仏~宝光寺・薬師如来像の御開帳」が、この8月にありました。

宝光寺は、滋賀県草津市にある天台宗のお寺です。
御本尊の薬師如来立像は、10世紀頃の制作と云われる平安古仏で、厳重な秘仏として守られています。


【一度は拝したいと、気になっていた、宝光寺・秘仏薬師如来像】


この仏像、一度は拝してみたいものと思いながらも、ずっと未見となっていました。

「仏像集成」(学生社刊)には、ご覧のような写真と共に、次のような解説が付されています。

宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)

宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)
宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)


木造 彩色 166.7cm

木造(カヤ材か、一木造)、彩色。
木心は像のほぼ中央に籠められ、内刳りはない。
頭部は体部に比して大きく造られるが、塊量性を減じ、太い襞に鎬立つ衣文を配し、股間に流す形式も彫は浅くなっている。
10世紀後半期の天台宗における立像薬師の一例と考えられる。
両手先・両足先・持物・台座・光背の一部は後補。

秘仏。  〈重要文化財〉 」


掲載写真を見ると、なかなか興味深い平安古仏です。
以前から、気になっていた仏像なのです。

近江湖南の平安古仏は、随分巡ったのですが、宝光寺・薬師像は33年に一度の厳重秘仏で、これまで拝することが叶わなかったのです。



【このチャンス、逃すまじ!~33年に一度の御開帳に、いざ草津へ】


その宝光寺・薬師如来像が、今年(2017年)8月9日~13日の5日間に限り、御開帳されることになったのです。
今年が、33年に一度の御開帳の年にあたります。
平成13年(2001)に中開帳があったそうなので、16年ぶりの本尊御開帳ということです。

「このチャンス、逃してはならじ!」

と、草津まで出かけることにしました。

宝光寺は、JR草津駅から北東に5キロほど、草津市北大萱町という処にあります。

草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日

草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日
草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日の様子

御開帳初日の8/9、午前11時過ぎに到着したのですが、丁度、御開帳式、法要が行われている最中でした。
それほど大きなお寺ではありませんでしたが、33年に一度の御開帳ということだけあって、北大萱町の集落挙げての盛大なご開帳行事という様子です。
大勢の地元の人々が集まられている中で、読経、ご挨拶が続きます。

御開帳式が執り行われている宝光寺・本堂

御開帳式風景~ご法要が終わった処
御開帳式・法要が執り行われている宝光寺・本堂

御開帳式次第が終わると、いよいよ、ご拝観です。
めざす薬師如来像は、本堂の大きな厨子の中に祀られています。
厳重な秘仏の御本尊ですので、少し離れたところからご拝観になるのかなと思ったら、厨子の前まで近づいて拝してよいということです。

お厨子に祀られた秘仏御本尊の御開帳風景
御開帳された秘仏御本尊を、ご拝観する人々

有難いことに写真もOKいただきました。
薬師像のすぐそばで、眼近にじっくり拝することが出来ました。



【眼近にご拝観~想定外の「威圧感、存在感」に、大きな驚き】


目に映った第一印象は、予想外、想定外のものでした。

宝光寺・薬師如来像
厨子内に祀られる宝光寺・薬師如来像

写真で見た。穏やかなイメージと違います。

「ちょっと無気味とも言ってよいような凄み」
を感じます。
「なんとも言い難い、威圧感、霊感を漂わせている。」
という印象です。

宝光寺・薬師如来像

宝光寺・薬師如来像
不思議な凄み、存在感を感じさせる宝光寺・薬師如来像

写真を見た感じでは、もっと「穏やかで、優しく大人しい」感じの仏像のイメージだったのです。
いわゆる「平安中期の穏やかさ」が、前面に出たような像と予想していたのです。

ところが、何とも言えない凄み、威圧感といった雰囲気を漂わせているのです。
平安前期特有の、厳しく鋭く、塊量感あふれるというのではなく、もう少し大人しくマイルドな表現になっているのですが、独特の存在感を感じさせるものがあります。

頭部、顔貌は、随分大振りに造られていて、それだけで圧力感があります。

宝光寺・薬師如来像

宝光寺・薬師如来像~顔部
眼力、圧力感を感じさせる顔貌

お顔を見ると、まずもって「眼力」を感じます。
目尻の方まで、大きな目の見開きがしっかり続いているのが、「眼力」の根源かも知れません。

唇を分厚く突き出して、下顎のくくりをクッキリ彫り出しています。
唇、顎の感じは、神護寺の薬師如来像のタイプにちょっと似ています。

宝光寺・薬師如来像~顔部神護寺・薬師如来像~顔部
宝光寺・薬師如来像(左)と神護寺・薬師如来像(右)の顔部~唇と顎の造形のタイプが似ている

こうした顔貌の雰囲気が、独特の凄み、存在感を漂わせる表現になっているようです。

そして、肩から胸にかけての上半身は、ボリューム感があって、ダイナミックな抑揚を感じさせます。。

宝光寺・薬師如来像~体部

宝光寺・薬師如来像~体部
ダイナミックな抑揚、ボリューム感がある宝光寺・薬師如来像~体部


【下半身の穏やかであっさりした表現に、少し拍子抜け
~上半身の迫力とは、ミスマッチ】


このように書き綴ると、平安前期の仏像そのもののような文章表現になってしまうのですが、下半身に目を移すと、造形感覚が随分違うのに気付きます。

腰から下、足下までの下半身の造形は、衣文も浅く、抑揚も少なくて、拍子抜けしたように、大人しくあっさりしたものになっています。
上半身の調子とはかなり違って、下半身だけ見ると、穏やかな藤原風の雰囲気といってもおかしくありません。

宝光寺・薬師如来像~脚部
穏やかであっさりした調子の宝光寺・薬師如来像~脚部



【制作年代は、10世紀初頭、10世紀末?~別れる専門家の解説】


このあたりの薬師像の造形を、専門家はどのように解説しているでしょうか。
厳重な秘仏とされているからか、解説されている本が少なかったのですが、このように述べられています。


「草津市史」の宇野茂樹氏の解説です。

宝光寺・薬師如来像
宝光寺・薬師如来像
「この像は秘仏で33年に一度の秘仏となっている。
像高166センチメートル、一木彫成の立像薬師である。
顔の表情は深厳さを漂わせ、両肩を大衣でおおう通肩の柄衣(僧衣)の衣摺には、翻波がみられる。
造像期はおよそ9世紀最末期から10世紀初頭ごろと考えられる。
・・・・・・・・
最澄の造立した比叡山の根本薬師堂の薬師如来が立像であったことから、天台宗寺院には立像薬師が多くみられる。
この宝光寺の薬師如来が立像であることは、この薬師如来が造像されたときは、すでに宝光寺は天台宗の勢力下におかれていたと考えることも無理ではない。」
(「草津市史・第1巻~平安の美術」執筆・宇野茂樹、1981刊)


井上一稔氏の解説です。

「宝光寺は奈良時代に建立されたと伝えられ、境内付近からはこの時代の軒丸瓦を出土している。
本像は縁起によると、最初の堂が火災にあった後、最澄が造立した像であると伝えられる。
もちろんこの縁起を信ずるわけにはいかないが、最澄に関連した天台系の薬師であることは、その容姿から伺うことが出来る。
それは、本像が天台系の薬師である蓮台寺像や、善水寺像と似る像であるからである。

ヒノキの一材から彫成し内刳りを施さず、両手両足先を矧ぐのみで、古様なつくりをしている。
しかし、衣文線などに省略と形式化がみられるところから、10世紀後半の作と考えられる。
体部には当初の彩色を残し、光背の身光及び光脚部は当初と考えられることも貴重である。」
(「滋賀の美 佛 湖南・湖西」京都新聞社1987刊)


蓮台寺・薬師如来像善水寺・薬師如来像
(左)蓮台寺・薬師如来像、(右)善水寺・薬師如来像

制作年代については、
平安前期の森厳さ、威圧感の雰囲気を残す造形をみて、10世紀初頭の制作とする見方、
塊量性が減じて、衣文の形式化、省略化がみられる点をとらえて10世紀後半の制作という見方、
とがあるようです。

難しいことは判りませんが、たしかに、下半身の浅く抑揚のない衣文、あっさりした造形をみると、10世紀後半というのは、判るような気がします。



【駆けつけた甲斐があった、宝光寺・薬師御開帳
~惹き込まれる存在感の平安古仏に大満足】


ただ、薬師像の独特で不思議な存在感を漂わせた雰囲気は、大変魅力的で惹きこむものがあります。

天台薬師の系譜にある像であるからでしょうか?
なるほどと思わせる、凄みある霊威感を発散しているようです。
今は、古色になっていますが、もともとは朱衣金体であったのでしょうか?

宝光寺・薬師如来像
宝光寺・薬師如来像

わざわざ、ご開帳に駆けつけた甲斐がありました。
想定外に、迫力と存在感のある仏像に出会うことが出来ました。
そして、心にしっかり残る仏像となりました。


【ノーマークの観音堂・聖観音像に遭遇、その素晴らしさに、ビックリ!】


満足感に浸って、宝光寺を後にしようかと思った処、本堂の隣の観音堂にも古い仏像が祀られているという話を、お参りに来られた方から教えていただきました。

宝光寺・観音堂
本堂の隣になる宝光寺・観音堂

それこそ、期待もせずに、折角だから一応観て帰ろうかと、寄ってみました。

観音堂には、等身より少し大きい目の聖観音像が祀られていました。

宝光寺観音堂・聖観音像
観音堂に祀られる聖観音像

その姿を観て、ビックリしました。
堂々たる平安一木彫の観音像なのです。

宝光寺観音堂・聖観音像

宝光寺観音堂・聖観音像
宝光寺観音堂・聖観音像

平安前~中期の雰囲気をたたえた、それもなかなか出来の良い、一流といってもよい仏像です。
バランスのとれた確かな造形力、力強さがこめられた、正統的作品という感がします。
すっかり気に入ってしまいました。

「伸びやかさを感じさせる雄大な造形で、どこか大陸風のエキゾチズムを感じさせる。」

そんな印象を受けました。

宝光寺観音堂・聖観音像~顔部
宝光寺観音堂・聖観音像~顔部
宝光寺観音堂・聖観音像~顔部

レベルの高い仏像ぞろいの近江、湖南でも、一目置いてもよい平安古仏の一つと云ってもよいのでは、という気持ちになってしまいます。

古様なところもありますが、造形の穏やかさが顔を見せ、衣文の抑揚、躍動感が弱くなってきているようで、10世紀も半ばごろの制作なのかなという気がしました。



【何故だか、文化財・無指定~これだけの平安一木彫像がどうして?】


驚くことに、この観音像、全くの無指定です。
市や県の文化財指定も受けていません。

「これだけの、立派で出来の良い平安古仏が、どうして無指定のままなのだろうか?」

素直な疑問です。

眼近に拝すると、鼻の部分、両腕から先は後補のようですが、当初の像容を損じるほどのものではないように思えます。

宝光寺観音堂・聖観音像~顔部宝光寺観音堂・聖観音像
後補のように見える鼻部と両腕部


「それでも、市も県も無指定というのは、無いでしょう!」

というのが率直な感想です。

これほどの平安古仏が、世に知られることなく、文化財指定もされずに、お堂に祀られているのです。

「近江の地の仏像というのは、本当に奥深い」

つくづく、そのように思い知らされました。



「想定以上に、存在感、凄みのある薬師如来像の御開帳」

「全く予期しない、出来の良い堂々たる一木彫観音像との出会い」

 
となりました。

思いもかけぬ、満足感一杯の、草津・宝光寺への古仏探訪となりました。


【その2】では、宝光寺と同じ日に御開帳となる、橘堂・三面千手観音像のご拝観について、ご紹介したいと思います。


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