観仏日々帖

トピックス~「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」 仏像の手の話①  【2017.3.18】


【「仏像の手の話」のテーマを、しばらく採り上げてみます】



「この観仏日々帖に、なにか採り上げるテーマはないだろうか?」

と思いを巡らせているうちに、 「仏像の手の話」 と題するテーマを考え付きました。

思いつくのは、こんな話、

興福寺・阿修羅像の合掌手の話、広隆寺・弥勒菩薩の指の話、広島古保利薬師堂・薬師像の手の話、新薬師寺・薬師像の腕の材の木目の話、失われた新薬師寺香薬師像の右手の話

等々、といった処でしょうか

「仏像の手」にまつわる、ちょっと面白そうで、興味深い話を、連載的にいくつかご紹介が出来そうです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像

スタートのテーマは、

「興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか?」

が良いかな、と考えていた処でした。

「阿修羅像は、制作当初は合掌せず、何かを捧げ持っていたに違いない」
という見方があるという話です。



【「阿修羅の合掌手ずれた?」の、新聞記事にビックリ】


そんな矢先です。

新聞を読んでいると、ビックリの記事が目に入ってきました。
2月22日付の朝日新聞の朝刊に、こんな見出しの記事が載せられていたのです。

「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で CT画像解析」

「阿修羅の合掌ずれた?」朝日新聞記事


この「見出し文」に、鋭く反応された方は、結構、仏像に詳しい方なのではないかと思います。

現在、阿修羅像を拝すると、合掌した姿に造られています。
「阿修羅の合掌ずれた? 明治時代の修理で」
といわれても、

ごく普通には、合掌手がちょっとずれていただけということで、
「わざわざ新聞記事にするほど、大した話ではないのでは?」
と感じられるのではないかと思います。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~よく見ると合掌手が向かって右に少しずれている~

阿修羅像の合掌手の問題をご存じの方は、

「阿修羅像は、実は持物を捧げ持っていたとする説は、間違いで、やはり当初から合掌手であったということなのか!」

と、興味深くこの記事を読まれたのではないでしょうか。



【CTスキャンで、制作当初から合掌していた可能性大と判明~「実は持物を持っていた」説を否定?】


この新聞記事の冒頭にも、このように記されています。

「天平彫刻の傑作、奈良・興福寺の国宝阿修羅像(734年、脱活乾漆造り)について、1300年前の制作当初は両腕を正面で合掌させていた可能性の高いことが、九州国立博物館(福岡県太宰府市)などの研究チームの調査で分かった。

X線CTスキャン画像の解析で、明治時代に再接合された修理の詳細が判明。
本来合掌していなかったとの見方もあったが、内部の芯木の復元実験も行い、合掌の姿勢が妥当と判断された。」

記事は、この後、

阿修羅像の6本の手が、明治年間には、一部損傷欠失していたこと。
明治の修理で、第一手は合掌手に修復されたが、本来は何か持物を持っていたという説があること

について、このようにふれています。

「阿修羅像は奈良時代以来、火災や地震、戦災などをくぐり抜けたが、転倒などで6本ある腕のうち数本が損なわれた。
1902~05(明治35~38)年の修理で、最も正面に近い左右2本の腕のうち、ひじから先がなくなっていた右腕などが補われた。
それ以降、この2本の腕は体の正面より左寄りの位置で合掌する姿になり、本来は合掌と違う姿で、何らかの法具か宝物を手にしていたのではないかとの見方も出ていた。」


新聞記事は、この後

「CT撮影などの調査で、明治の修理前も、自然な合掌手であった可能性が高まった。」

ことについて、解説されています。

この記事を採り上げた記者の方は、阿修羅像は、
「当初、合掌していなかったという見方を否定する調査結果」
が発表されたことを、重要な新事実とみて、この記事を執筆されたのでしょう。



【「興福寺・阿修羅像は、合掌していなかった」という議論を振り返る】


新たな調査事実の話は、ちょっと後回しにして、

「興福寺・阿修羅像は、当初から合掌していたのだろうか?」

そのような議論がされるようになったいきさつを、振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、興福寺の阿修羅像は、興福寺・西金堂に祀られる八部衆像の一つとして制作されたものです。
天平6年(734)に創建された、興福寺西金堂に当初から安置された、天平彫刻を代表する脱活乾漆像の名作です。

興福寺・阿修羅像

興福寺・阿修羅像
愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛される興福寺・阿修羅像

明治時代には、阿修羅像だけが単体で素晴らしい傑作と評価されることは無かったのですが、大正期以降、とりわけ昭和10年代以降、愁いを含んだ少年のような面差しが絶賛されるようになり、いまや人気NO1の仏像といってよい超有名像になりました。



【明治修理以前、手が欠失していた阿修羅像~残されていた修理前写真】


この阿修羅像は、明治35年(1902)9月から38年1月に興福寺の諸仏像が、美術院により修理された際に、修理修復が行われました。
この時に、手の一部が欠損していたものが、修復されました。

この修理以前の、興福寺阿修羅像を撮影した写真が残されているのです。
2種類、残されています。

一つは、明治21年(1888)、政府による近畿地方古社寺調査に同行した写真師、小川一眞が撮影したものです。
東金堂に寄せ集められた諸仏の集合写真の中に、阿修羅像の姿が見えます。
左の第一手、合掌手の手先が欠失しているのが、判ると思います。

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影

興福寺古写真~明治21年小川一眞撮影
興福寺古写真・東金堂に集められた諸仏~明治21年小川一眞撮影
阿修羅像の手が欠損しているのが判る


もう一つは、阿修羅の手が欠損していた状況が、はっきりと判る有名な写真です。
明治41年に刊行された、工藤精華撮影出版の「日本精華・第1輯」に収録されています。
明治27年(1894)に撮られた写真で、美術院修理前の阿修羅像の貴重な写真です。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治27年工藤精華撮影・阿修羅像~日本精華第1輯所載
明治修理前の手の欠失状況がよく判る


ご覧の通り、右手第一手(合掌手)と左手第三手が、欠失しているのがはっきりとわかると思います。



【美術院での修理時、合掌する姿に修復される】


この欠損していた手は、当時の日本美術院、新納忠之介等によって修理され、現在の第一手が合掌している姿に修復されたのでした。

現在の阿修羅像の写真を見ると、右手・第一手の肘から先の処に、手先を継ぎ足した跡がはっきりと残っていて、そこから先が明治に作られた後補の手先であることが、よく判ります。
後補部分の右手先は、木彫で補われています。

興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが見て取れる
興福寺・阿修羅像~左肘部から先が木彫後補であることが、よく見て取れる

新納忠之介は、阿修羅像の第一手は、当然に合掌していたものと考えて、このように復元修理したのに違いありません。

しかし、真正面から、阿修羅像を拝すると、合掌する手のひらの位置が、向かって右側に少々ズレていることにも気が付きます。
パッと見は気になりませんが、じっくり拝していると、合掌手の正中線からの軸ブレは、ちょっと不自然な感じであることは事実です。



【提起された疑問~本当に合掌していたのだろうか?】


近年、専門家の間では、

「実は、阿修羅像は、合掌していなかったのではないか?」
「第一手は、持物を捧げ持つような姿であったのではないか?」

という疑問が、結構持たれていたようです。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~合掌手
興福寺・阿修羅像~合掌手

この疑問は、

・阿修羅像の合掌の手のひらが合わさった位置が、正中線から向かって右に、わずかにズレていること。
・修理前の写真の第一手、左手の掌は、外に向って開いており、合掌していたにしては不自然なこと。
・修理前の手が欠失した写真を見ると、第一手の脇が締り、肘が下がっているのに対して、現状は、肘が外に広がるように張っており、明らかに角度が改変されていると思われること

などから、発した疑問のようです。

興福寺・阿修羅像
興福寺・阿修羅像~工藤精華撮影(明治27年)
現在の阿修羅像(上)と、明治修理前の阿修羅像(明治27年・工藤精華撮影)

このようなことを総合すると、阿修羅像は、当初合掌していたのではなくて、右手に何かを手に捧げ持ち、左手をそれに添えるような姿ではなかったのかという見方も出てきたという訳です。



【当初は、持物(法輪か法螺貝)を、両手で捧げ持っていた?】


「阿修羅像は、合掌していなかった。」

という問題提起を、最初に文章にして発表した方は、山岸公基氏(奈良教育大学教授)だと思います。
これまで、次のような論考を発表されています。

「阿修羅の手」月刊奈良38巻11号・1998年刊)所収
「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号・興福寺(朝日新聞社刊)2007.07所収

山岸氏は、
明治の修理前写真と現状を比較し、第一手の角度が、かなり外に広げられていることを指摘したうえで、

「胸前にささげた腕は肩を支点に現状と比べると肘が内側に回転しており、そのぶん左の手先は現在も左に偏っていると見えるのがいっそう外に開いて、もと合掌していたと見ることは困難になる。

つまり阿修羅は合掌しているものという先人見のもと、明治修理に際して、当初の左手指先が合掌らしく正中に近くなるよう、胸前にささげた腕の肩からの角度が改変されたのではないだろうか。」
(「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号)

と述べています。

我が国の、阿修羅の古像には、法隆寺五重塔の塔本塑像(奈良時代)、三十三間堂の二十八部衆の一躯(鎌倉時代)が知られています。

法隆寺の阿修羅像は、手先が欠損していますが、合掌していたとは考えられません。
三十三間堂像像の方は、胸前で合掌しており、現在の興福寺阿修羅像と同じ手の姿に作られています。

法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像
(右)法隆寺五重塔・塔本塑像~阿修羅像、(左)三十三間堂・二十八部衆~阿修羅像


もし阿修羅像が合掌していなかったとすると、どのような手の姿をしていたのでしょうか?

山岸氏は、阿修羅像の中国の遺例をみると、第一手が合掌している作例の他に、

・法輪を持つ例~四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像(8C前半)
・法螺貝を持つ例~敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画(8C末~9C)

があることを上げて、こうした持物を胸前に執る姿であったのではないかとみられています。

四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ
四川省広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像~法輪を持つ

敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ
敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画~法螺貝を持つ

北進一氏も、自著
「アシュラブック」2012年美術出版社刊
のなかで、「本当に合掌していたのか?」という項立てを設けて、この問題に触れています。
北氏は、山岸氏と同様の観点から、当初は合掌手ではなかったと考え、
第一手は、両手で法螺貝か輪宝を持ち、第二手は左手に弓、右手に弦に矢をつがえる姿、第三手には日輪、月輪を持っていた、
と思われると述べています。

このように、

「興福寺阿修羅像は合掌していたのではなくて、両手で法輪か法螺貝を持っていたのに違いない。」

という考えは、一つの見方として有力であったのではないかと思います。



【合掌手は、意図的に軸ブレして造られたという見方~斜めから拝する視線を計算】


一方で、この問題を、

「阿修羅像が祀られる姿が、拝者の眼にどのように映るのか。」

という視点から、とらえる見方もありました。

阿修羅像の合掌手が、正中線から向かって右に少しズレている理由を、仏像を拝する側の視線、視点から解き明かそうとするものです。
合掌手がずれているのは、おかしなことでもなんでもなくて、斜めから拝する側の視線を考えれば、このようにズレて造るのが、最も適切なのだと考えられるというものです。

阿修羅像は、西金堂の、向かって左側の奥に祀られていました。
京博本・興福寺曼陀羅の西金堂の図を見ると、阿修羅像の祀られていた位置がよく判ります。

京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分

京博本・興福寺曼荼羅図~西金堂・阿修羅像の部分拡大図
京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉時代)~西金堂の部分(上)と、向かって左上の阿修羅像の拡大図(下)

お堂の真ん中に坐して諸仏を拝する時、左奥に祀られる阿修羅像が、斜めから一番良いバランスで、美しく見えるように、意図的に合掌手などが少し軸ブレしたように造られたのだというものです。

こうした拝する人への見え方を計算して造られた仏像は、巨像によくあることはご存じのとおりです。
東大寺南大門の仁王像が、見上げて拝することから、頭部が大きく造られたり、乳首や臍の位置が修正されたりしているのは、代表的な事例ではないかと思います。

東大寺南大門・仁王像~体の中心(真ん中)から撮影した写真.東大寺南大門・仁王像~通常の見上げる位置から撮影した写真
東大寺南大門・仁王像
体の中心(真ん中)から撮影した写真(左)、通常の見上げる位置から撮影した写真(右)



【左斜めに見上げて拝するのが、ベストの「仰角」の阿修羅像】


この阿修羅像を拝する視線の角度について、論じた論文があります。

「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」(水野谷憲郎)淑徳短期大学研究紀要 53号2014.2

というものです。

水野谷憲郎氏は、仏像が置かれる場所によってその形や傾きを変える事実を「迎角」として追究し、いくつも論文を発表しています。
水野氏は、「仰角」の観点から阿修羅像について研究し、阿修羅像は、お堂の正面に向かって左奥に祀られ、拝観者が斜め左側に像を観る位置に祀られて、一番バランスよく見えるように制作されていると論じ、このように述べています。

「何故このような不自然な右側面を作らねばならなかったのか。
ここに明快な意図が見える。

先に述べた通り、阿修羅像を前から見ると向かって右の形の方が主に整えられてた。
言い換えるなら、阿修羅像は向かって左奥に倒れていく形の不自然を作り、その反対方向である向かって右前からの視線に最良の形を見せる変形が行われていることになる。

即ち阿修羅像はやや右側、拝観者からは正面やや左側に置かれるとバランスが良く立って見える造りとなる。」
(「迎角から探る興福寺阿修羅像の立ち位置」)

水野氏は、このような見方によると、阿修羅像の「最良の拝観位置に近い写真」は、ご覧のような斜め角度のものであるとされています。

向かって右斜めの最良の拝観位置から見た写真(水野谷憲郎氏による)
水野谷憲郎氏が最良の拝観位置からとする写真

向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真
向かって右斜めから見た阿修羅像のカラー写真

確かに、この角度から拝すると、阿修羅像の合掌手が正中線から軸ブレしていることが全く気にならないどころか、きちっと正中線上で合掌しているように目に映るのです。

以前に、ある先生からも、

阿修羅像は向かって左斜めから拝されることを意図して造られている。
合掌手の位置だけでなく、顔貌や脇面などの出来映えをみても、そのように感じられる。

という話を耳にしたこともありました。

興福寺・阿修羅像.興福寺・阿修羅像~向かって左斜めからの写真
阿修羅像の左右斜め位置から見た写真



【CTスキャン調査で、「制作当初は、真正面位置で合掌」の可能性大と判明】


「阿修羅像は、本当は合掌していなかったのか?」

「阿修羅像は、斜めから拝すのを計算し、意図的に軸をずらすなどして造られたのか?」

どっちが真実なんだろうか?
そんな疑問が提起されていた処に、新たに科学的な調査事実が判明したというのが、冒頭でご紹介した新聞報道記事なのです。

「阿修羅像は、制作当初、中心軸の真正面で合掌していた可能性が強い。」

という、調査結果が判明したというものです。

新聞記事を、そのままご紹介します。

「CT撮影は、2009年の「国宝 阿修羅展」に合わせて九州国立博物館で行われた。
その後、今津節生・奈良大教授(保存科学)らが解析を続けた。
その結果、正面側の両腕のわきの下に木屎漆(木粉と漆のペースト)が詰められ、それが両ひじを外側へ開き気味に押し上げていたことが判明した。

研究チームによれば、木屎漆を除去し、修理前の姿に戻せば、左の手のひらが現状より約2センチ内側、仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来ることが分かった。
右腕の角度も狭まり、合掌以外のポーズは取りにくい状態とされる。
像内の芯木を原寸大で復元した実験でも同じ結果が得られた。
CTスキャンのデジタルデータで構造を細部まで立体的に把握・再現でき、制作当初の姿に迫ることができたという。

金子啓明・東京国立博物館名誉館員(日本彫刻史)は
『胎内構造の復元実験からも両腕のひじが張っていなかったことを確かめ、阿修羅像が現状よりもっと自然に合掌していた可能性が高まった。
仏像に手を加えない先端科学による重要な発見だ』
と話す。」


新聞記事に掲載されていたCTスキャン画像、修理前想定の画像をご覧ください。

阿修羅像のCTスキャン画像写真
阿修羅像のCTスキャン画像

CT画像によると、明治の美術院の修理で、両腕わきに木屎漆が埋め込まれて、両肘が外側に広げられたことが判るということです。

明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図
明治修理前の阿修羅像の合掌手の位置の推定修正図

明治修理時に埋め込まれた木屎漆を取り除くと、脇がグッと締まるとともに、約2㎝左手のひらが正中線側に動くこととなり、真正面で合掌していたとみられるようになるとのことです。

以上のとおり、CT撮影調査結果、心木の原寸大復元などの研究結果によると、(明治の)修理前の姿は、

・左の手のひらが仏像の中心軸(正中線)上に乗り、胸のほぼ正面に来る。

・阿修羅像は、当初は、現状より自然に真正面で合掌していた可能性が強い。

というものです。

阿修羅像の内部構造推定図~山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」掲載図
阿修羅像の内部構造推定図
山崎隆之著「一度は拝したい奈良の仏像」(2009年学習研究社刊)掲載図


明治35~8年の美術院の修理で、阿修羅像がどのように改変修復されたのかは、これまで、よく判っていませんでした。
美術院の仏像修理記録は、そのほとんどが、具体的修理内容の記録、修理図解、修理前後写真が残されているのですが、明治のごく初期の修理だけは詳しい記述がされていないのです。

残されている修理資料の、興福寺「乾漆八部衆立像 八躯」の処には、
「彩色ノ剥落ヲ防止シ、破損ノ部分ハ堅牢ニ修理ヲ加ヘ、適当ノ古色ヲ附スベシ。
破損シタル半身ノ像ハ箱ヲ造リ、之レニ保存スベシ。
右ニ対スル修繕費金参百六拾八円八拾参銭也。」
という記述と、緊那羅像の内部構造図が残されているだけとなっているのです。
(「日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ」奈良国立文化財研究所1977年刊による)

今回の研究調査で、当時の修理改変の状況が明らかにされ、

「阿修羅の合掌手についての、永年の疑問」

が、解決されたということになりそうです。



【2月開催のシンポジウムで、研究成果発表されるも、参加できず残念!】


実は、この研究成果については、2月25日に東京で開催された、
公開シンポジウム「阿修羅像を未来へ―文化財保護のこれからを考える―」(興福寺、朝日新聞社主催)
において、詳しく発表されました。

「阿修羅像 CTスキャン調査の全容」(奈良大学教授・今津節生、九州国立博物館・展示課長・楠井隆志)
というものです。

私は、この講演会を是非とも聞いてみたかったのですが、残念ながら、参加申し込みの抽選に外れてしまい、行くことが叶いませんでした。
詳しい解説等がどのようなものだったのか興味津々なのですが、いずれ、どこかに研究結果が掲載されるのを待つしかないという処です。
今のところ、私には、新聞記事の情報以上のものがありませんので、これ以上突っ込んだ話をご紹介することが出来ません。

当初から合掌手であったということについては、こんなあたりも、知りたくなるところです。

阿修羅像は、明治の修理以前にも、近世まで何度も修理が行われているのですが、今回のCTスキャン調査で、当初の実像がどのあたりまで解明されたのだろうか?

明治修理前の写真を見ると、たしかに現状より脇が締り、肘が下がっているのですが、その時でも、左の手先、手のひらは外側に開いているようで、合掌していたにしては不自然に見えます。
これは、明治以前に、第一手の角度が、制作当初よりも外開きになってしまっていたたからなのでしょうか?

また、気のせいでしょうか、左の手のひらは正中線より、わずかに(向かって右に)ズレているような気がしないでもありません。

明治27年工藤精華撮影・阿修羅像
明治修理前写真(工藤精華撮影)

大変、興味深い処です。
皆さんは、この阿修羅像の合掌手の問題、どのように感じられ、考えられておられるでしょうか?


今回の研究発表、新聞報道で、

「阿修羅像は、合掌していたのか?」

という問題に、正中線上で合掌していたと、はっきりとした結論が出た、ということなのでしょうか?


それとも、まだまだ、

「阿修羅像は、合掌せずに、持物を持っていたに違いない?」

「阿修羅像の合掌手は、『仰角』(拝する角度)の関係で意図的にズレている?」

という疑問が、解消されたわけではないのでしょうか?



新刊旧刊案内~「国華余芳」多色石版図集(明治15年刊)について 【2017.3.3】


【手に入れた、珍しい明治初期の図集「国華余芳」】



「国華余芳」(こっかよほう)多色石版図集を、手に入れました。

「『国華余芳?』 そんなもの聞いたことは無い!」
「多色石版図集? ますますよく判らない!」

このように思われた方が、沢山いらっしゃるのではないでしょうか?

「国華余芳」多色刷石版図集3冊
「国華余芳」多色刷石版図集3冊

確かに「国華余芳」という図集は、ほとんどといって良いぐらいに、世に知られていないのではないかと思います。
この「国華余芳」は、明治15年(1882)、印刷局の手によって、当時の印刷技術の粋を集めて造られた、カラー刷り石版図集です。

「正倉院御物」「伊勢内外神宝部」「古書之部」の三部構成になっています。



【精巧、美麗な宝物図版に、眼を奪われる「国華余芳」】


まずは、「国華余芳」の写真をご覧ください。

「正倉院御物」の冊です。
長い紙を折りたたんでいる折帖仕立てになっており、25図が収められています。
正倉院に秘された鏡や絵箱の宝物が描かれており、三部のなかで、最も美しい図集です。

「国華余芳・正倉院御物」

「国華余芳・正倉院御物」収録図版1

「国華余芳・正倉院御物」収録図版2

「国華余芳・正倉院御物」収録図版3

「国華余芳・正倉院御物」収録図版4

「国華余芳・正倉院御物」収録図版5

「国華余芳・正倉院御物」収録図版6
「国華余芳・正倉院御物」~多色石版図版


「伊勢内外神宝部」の冊です。
伊勢神宮の社殿や剣などの神宝、19図が収められています。

「国華余芳・伊勢内外神宝部」

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版1

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版2

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3

「国華余芳・伊勢内外神宝部」収録図版3
「国華余芳・伊勢内外神宝部」~多色石版図版


「古書之部」の冊です。
宸翰、高僧などの古筆が、24図収められています。

「国華余芳・古書之部」

「国華余芳・古書之部」収録図版

「国華余芳・古書之部」収録図版2
「国華余芳・古書之部」収録図版


如何でしょうか?
写真ではありますが、国華余芳の原色図譜の精緻な美しさがお判りいただけたのではないかと思います。



【10年前に開催された展覧会、「国華余芳の誕生展」】


今から10年前、平成19年(2007)に、「国華余芳の誕生~明治における古美術調査の旅」という展覧会が開催されました。

国華余芳の誕生展チラシ

国立印刷局が運営する「お札と切手の博物館」で開催された展覧会です。

この展覧会に、「国華余芳」の原本や、国華余芳の誕生に至る関係作品等が展示されたのでした。
私は、明治初期に制作された、この「国華余芳」という出版物に、以前から関心がありましたので、早速、出かけてみました。

お目当ての「国華余芳」の原色石版図の現物は、期待以上の驚くべき美しさで、見惚れてしまいました。

「こんなに精緻で美麗な多色刷り印刷物が、明治の初年にできていたのか!」

と、感嘆の声をあげてしまいました。
とりわけ正倉院宝物の螺鈿鏡や飾箱の図版の、色鮮やかで細密な美麗さには、眼を奪われてしまいます。

「国華余芳の誕生展」国華余芳図版の展示風景
「国華余芳の誕生展」~国華余芳図版の展示風景

「国華余芳」図版の石版原版
「国華余芳の誕生展」~図版の石版原版

展覧会のパンフレットには、

「本展でとりあげた『国華余芳』は、写真帖・多色石版図集ともに、美術的にも歴史的にも非常に価値のあるものですが、残念ながら、一般にはほとんど知られていません。」

と書かれています。
きっと少部数だけ印刷されたに違いなく、なかなか目にすることはない貴重な図集ということです。



【なんとNET「日本の古本屋」に、「国華余芳」が出ているのを発見!】


それから10年が経ちました。

数か月前、ネットの「日本の古本屋」を、なんとなく検索していると、なんと「国華余芳~多色石版図集」が売りに出ているではありませんか!
それも、「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」が3冊セットで出ていたのです。

「あの『国華余芳の誕生展』に展示されていた、『国華余芳』を手元に置くことが出来るのか!」

そう思うと、心高鳴るというのか、ワクワクしてきました。
ちょっと高かったのですが、思わず「購入する」をクリックしてしまいました。

数日後、我が家に「国華余芳」が届きました。
早速、ページをめくると、次々と色鮮やかな正倉院宝物の細密図が、眼前に現われます。
展覧会でガラス越しに観たのとはまた違って、現物を手に取って眼近に観るというのは、格別のものがあります。
こういうのを、「眼福」というのでしょう。


ちょいと嬉しくなり、仏像の話ではないのですが、この観仏日々帖で、ご紹介させていただきたくなったのでした。



【古美術調査の旅と、「国華余芳」が誕生するまで】


ここで、「国華余芳」というのはどのようなものなのか、「国華余芳」が制作されるに至るいきさつについて、簡単にふれてみたいと思います。

「国華余芳」は、ご紹介した多色石版図集3冊に加えて、写真帖5冊とで構成される出版物です。

明治12年(1879)、政府の印刷局は、大々的な古美術調査旅行を実施します。
一行12名、約5か月間をかけて各地を巡るという古美術調査でした。
この古美術調査旅行の成果物として、当時の技術の粋を集めて、調査宝物の石版図集と、寺社などの古建築や景観の写真帖を制作したのです。

それが「国華余芳」なのです。

この印刷局による古美術調査旅行は、明治維新以来の政府の大々的古美術調査としては、第2回目となるものでした。



【近代最初の政府、古美術調査は「壬申検査」(明治5年)】


最初の古美術調査は、よく知られていると思いますが、明治5年(1872)に実施された「壬申検査」と呼ばれるものです。

政府は、古美術品の散逸、破壊を憂慮し、明治4年「古器旧物保存方」を布告して、府県に管内社寺等の文化財の目録を提出させました。
それを元に、明治5年に、現物確認の宝物調査を行つたのが「壬申検査」です。
壬申検査は、政府による最初の文化財調査となるもので、調査は文部省の町田久成、蜷川式胤によって行われました。

町田久成.蜷川式胤
町田久成(左)、蜷川式胤(右)

我が国近代における文化財保護の嚆矢となるものと云われています。

この時の調査記録としては、同行の写真師・横山松三郎が撮影したステレオ写真と、「壬申検査宝物図集81冊」(重要文化財)が制作され、現存しています。

「壬申検査宝物図集」

「壬申検査宝物図集」収録図

「壬申検査宝物図集」収録拓本
「壬申検査宝物図集」収録図と拓本

この「壬申検査宝物図集」は、拓本と手描きの詳細複写によってなるもので、印刷物ではありませんでした。



【印刷局長・得能良介が企画した、明治12年の古美術調査】


「壬申検査」の7年後、今度は、政府の印刷局において、大々的な古美術調査旅行が実施されることになったのでした。

印刷局というのは、当時、主にお札と切手の印刷を行っていた処です。

明治草創期の印刷局では、当初外国に委託していた紙幣の国産化に向けて、お雇い外国人を招聘し、様々な新技術を学んで偽造防止、品質向上に努めていました。
有名な版画家、画家のキヨッソーネも、印刷局に招聘されたお雇い外国人でした。

当時の印刷局長であった得能良介は、キヨッソーネから、
「西欧諸国で日本美術を愛好する風潮が高まり、日本の古美術品が安価に外国へ販売され、大量に流失している」
という現状を聞かされたといいます。

キヨッソーネ.得能良介
キヨッソーネ(左)、得能良介(右)

そこで、印刷局長、得能良介は、各地の古美術調査旅行を行うことを企画発案します。

得能良介は、

・日本の貴重な古社寺等の宝物、文化財を調査し、これを記録して後世に残すこと

・調査を通して、図柄の題材を求め、紙幣のデザインに反映させるなど、印刷局の技術向上を図ること

を、企図したのでした。
印刷局では、お札や切手の図案や模様などの意匠を創案する必要があり、また偽造、模造を許すことがない最高レベルの印刷技術を保持する必要があったのです。

得能良介は、この古美術調査旅行の記録日記「巡回日記」を著しています。

得能良介記「巡回日記」.得能良介記「巡回日記」の復刊出版本(1996年刊私家出版)
得能良介記「巡回日記」(左)と、199年に私家本で解説等を附して出版された復刊本(左)

得能は、その中で、キヨッソーネをこの旅行に同行した理由を語って、このように記しています。

「山川ヲ跋渉シ、我ガ国ノ神社、仏閣、官民秘蔵ノ古器、古画ヲ見、人情、風俗如何ヲ審ラカニセバ、他日、筆ヲ執ルニ當ツテ、必ズ大イニ覚悟スル所ノモノアラン」

即ち、

ものを描くためにはその対象が造られた背景や風俗を理解することが必要であり、ただ姿形をなぞるのでは、本当にそのものを描いたことにならない。
そのため今回の旅で、古器古画を見、各地の風俗・人情を知って業務の参考としてもらうためにキヨッソーネを同行させたのだ。

と語っているのです。

得能良介(左)キヨッソーネ(右)
得能良介(左)キヨッソーネ(右)

「壬申検査」は、文化財保護、保存を主目的とした古美術調査でしたが、
印刷局の「古美術調査旅行」は、日本のデザイン、印刷レベルの向上、練磨の目的を併せ持つ古美術調査と云えるものであったといえるのでしょう。



【総勢12名、142日間で各地を巡った、古美術調査旅行】


印刷局の古美術調査旅行は、どのようなものであったのでしょうか?

明治12年(1879)年5月1日に旅立った古美術調査旅行は、なんと142日間の長きにわたり各地を巡ります。

印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート
印刷局・古美術調査の旅~巡回ルート

伊勢神宮や東大寺・正倉院、日光東照宮を訪ねるなど、ご覧のとおりのルートを巡り、この年の9月19日に東京へ帰着したのでした。
調査旅行のメンバーは、局長の得能良介、お雇い外国人キヨッソーネをはじめ、写真技師、古器物鑑定担当など、総勢12名でした。

記録によると、調査した器物総数は、2426点、撮影した写真は510枚、模写図は200枚に及びました。

古美術調査の旅~日程参加者等の概要
古美術調査の旅~日程参加者等の概要



【古美術調査の成果を、印刷物に実現した「国華余芳」】


142日間にわたる古美術調査旅行から帰京したのち、印刷局調査団が旅で鑑賞した古器物、景勝を多色石版図集や写真帖として発行したのが、『国華余芳』です。

「国華余芳」多色石版図集
「国華余芳」多色石版図集

『国華余芳』の題字は、「受け継がれるべき国のすぐれた宝」という意味に取ることができます。

局長・得能良介は、国華余芳の巻頭言において、

「国華余芳ト題シ 之ヲ工場製品ノ儀範トナシ 以テ世ニ廣メ 愛国ノ志操ヲ培養スルノ具ト為ント欲ス」

と綴っています。

「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言「国華余芳」の得能良介執筆巻頭言
「国華余芳」の得能良介執筆・巻頭言、(右)文末引用部分

『巡回日記』においても、この『国華余芳』を、工場の模範とするほか、世間に日本の風景や芸術を広く伝えようとする製作趣旨を語っています。
まさに我が国の「国華余芳」を、印刷局の技術で世に示し伝えんとする、得能良介の思い入れ、気概が伺えるようです。



【写真帖と多色石版図集を制作刊行】


そして、当時の我が国の最高峰のレベルの技術を以て、「国華余芳・写真帖、石版図集」の制作にあたったのでした。

「国華余芳・写真帖」は、古美術調査旅行で撮影した文化財や景勝の写真を選りすぐって発行したものです。

「国華余芳・写真帖」

「国華余芳・写真帖」収録写真1

「国華余芳・写真帖」収録写真2

「国華余芳・写真帖」収録写真3
「国華余芳・写真帖」収録写真

撮影した写真技術師は、三枝守富です。
写真帖は5分冊で、一冊につき概ね25枚、主に神社や仏閣などの建造物や、山川などの景勝を被写体とした写真が納められています。
この写真帖は、明治13年(1880)に完成しました。


「国華余芳・多色石版図集」は、精密な原色版図集です。

カラー写真が存在しなかった当時、多色石版印刷は写実的で細密な原色再現の、最高レベルの印刷技術でした。
「正倉院御物之部」「伊勢内外神宝部」「古書之部」に分かれ、それぞれ25枚、19枚、24枚の図を収めた、折本式の冊子となっています。
国華余芳に収められた石版画は、明治期を代表する石版技師・石井重賢(鼎湖)の指揮のもとに制作されたものです。
宝物の再現にあたっては、工芸官の本多忠保、斎藤知三による入念な現物調査、考証を経て、極めて写実的にすぐれたものになっています。

国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版
国華余芳「正倉院蔵・平螺鈿背円鏡」の精巧美麗な図版

正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」
正倉院蔵「平螺鈿背円鏡」のカラー写真

多色石版図集は、明治14年から15年にかけて発行されました。


印刷局において、画期的な古美術調査の旅を実現し、「国華余芳」の制作させた、得能良介は、職務中に倒れ、58歳でその生涯を閉じました。
国華余芳が完成した翌年の、明治16年(1883)12月のことでした。

得能良介
得能良介



【明治に入ってから、新たに伝わった石版印刷技術】


ところで多色石版印刷というのは、どのような印刷技術を云うのでしょうか?

当時の、図案画像など印刷技法としては、

凸版としての木版印刷
凹版としての銅版印刷
平板としての石版印刷

とが存在しました。

木版印刷は、江戸時代の浮世絵に代表される、我が国伝統の印刷技術です。
明治時代に入ってからも、美術書の原色版印刷に用いられ、例えば「国華」や「真美大観」のカラー図版は多色刷り木版印刷が使われています。

「国華」創刊号
「国華」収録の多色木版刷り図版
「国華」創刊号と収録の多色木版刷り図版


「真美大観」「真美大観」収録の多色木版刷り図版
「真美大観」と収録の多色木版刷り図版


銅版印刷は、エッチングと云われる技術で、江戸後期、司馬江漢以来の伝統でによるものです。
緻密な描線が描けることから、紙幣の印刷はこの技法を使って行われています

明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣
明治期の印刷局製造紙幣


そして、石版印刷は、リトグラフと呼ばれるもので、1798年ドイツのセネフェルダーによって発明されました。
印刷原版に石版を用い,脂肪と水が反発し合うことを利用して、平面の上に油性インクで文字、画像を描くだけで印刷を可能とする技術です。
日本には、明治初年にその石版技術が導入されました。

石版と印刷のありさま
石版と紙に印刷している様子

明治期のカラー刷りの多色石版印刷は、三原色を組み合わせて色を表現するのではなくて、熟練した職人が勘を頼りに色分けを行い、その色の数だけ石版面を用意しなければなりませんでした。
印刷する際には、十数個ある版を順番に刷っていくのですが、頼りは石と紙に付けられた見当(目印)のみで、ズレが内容に刷り重ねるのは、大変な手間と技術を要する作業であったといいます。



【最高峰の多色石版印刷技術で制作された「国華余芳」~印刷局の偽造防止研究の一環~】


「国華余芳・多色石版図集」も、当時の最高峰の多色石版印刷技術を以て作成されたのでした。

印刷局で、多色石版の制作にあたったのは、石井鼎湖でした。
石井鼎湖が印刷局石版科長の任にあった間に、当時の民間では出来得可くもない精巧な複製的多色石版の出版物が、いくつか制作されました。
「国華余芳」はその代表作品ですが、その他には、明治10年(1877)制作の「玉堂富貴」、明治16年制作の「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」「なみまの錦」「卓上静物」などの作品が残されています。

「玉堂富貴」(明治10年)
「玉堂富貴」(明治10年)

「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)
「朝陽閣鑑賞・錦繍の部」(明治16年)

「なみまの錦」(明治16年)
「なみまの錦」(明治16年)

「卓上静物」(明治16年)
「卓上静物」(明治16年)


これほどの高度な印刷技術を以て「国華余芳」などを制作したのは、紙幣や切手の偽造防止、模造防止対策の一環としての印刷技術研究の為でもあったそうです。
一方、防贋技術開発という側面があったために、一人一業で、その技術を秘守して決して漏らさないということとなり、印刷局の優れた多色石版の技術は、後の世に広く伝えられなかった、ということなのだそうです。

「なるほど!」
と、技術が秘された訳は理解できるのですが、大変残念なことです。

こうした石版印刷の技術は、大変手間がかかるために、その後、写真製版技術の発達、印刷技術の発達によって、写真や図版そのものを機械的に忠実かつ大量に再現できるようになっていくと、一部の美術作品を除いて、用いられなくなってしまいました。

そして「国華余芳」という美麗石版印刷の極致のような存在も、忘れられていったのでしょう。



【民間でもつくられた、美しい石版印刷図譜「観古図説」】


最後に、ついでの話です。

明治初期、ご紹介したように印刷局では、多色石版印刷のカラー図集が制作されていましたが、民間でも石版印刷による美しい図譜が制作されていました。
その代表的なものとして、蜷川式胤によって刊行された「観古図説・陶器之部」があげられるのではないかと思います。
「観古図説・陶器之部」は、蜷川式胤が収集した陶磁器などを、石版印刷図譜として刊行したものです。

「観古図説」
「観古図説」

美しい手彩色石版印刷の「観古図説」の図譜写真をご覧ください。

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)

「観古図説」収録図版(昭和48年歴史図書社復刻図版)
「観古図説」収録図譜(昭和48年歴史図書社復刻図版)

写真は、昭和48年に歴史図書社から、原本そのままに精密復刻された復刻版によるものですが、陶磁器の微妙な質感が再現され、品格ある美麗な彩色が見事な図譜であることが実感されると思います。


この図譜は、多色印刷ではなく、モノクロームの石版印刷の上から手彩色により色付けを施したものです。
第1冊が明治9年(1876)に刊行され、明治13年(1880)まで、全7冊が刊行されました。
亀井至一の描いた挿図をふんだんに用い、民間で石版印刷を進めた玄々堂の刊行となっています。
「国華余芳」が作成される数年前の出版です。
「国華余芳」の多色石版印刷の最高峰レベルの図版と較べると、「観古図説」の図版はやはり見劣りしてしまうのですが、上品な石版手彩色の美しさには、惹きこまれるものがあります。

「観古図説」を刊行した蜷川式胤は、先にふれたように、近代初の古美術文化財調査と云われる「壬申検査」に町田久成とともに赴いた人物で、「壬申検査宝物図集」の制作にもかかわっています。

蜷川式胤
蜷川式胤

文化官僚でありましたが、明治初期の好古家、古美術研究家としても知られ、エドワード・S・モース(大森貝塚の発見者)の陶磁器蒐集の師であったことは有名な話です。

この「観古図説・陶器之部」の図譜も入手して手元に置きたいところなのですが、余りにも稀少かつ高価で、全く手が出るものではありません。
私は、何とか、昭和48年(1973)に歴史図書社により、蜷川家伝存本から精巧複製された復刻版を手に入れました。
復刻版と云えども、明治の刊行当時を十二分にしのばせる美麗な図譜で、時々、書架から取り出して目を愉しませています。

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)

観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)
観古図説復刻版(昭和48年・歴史図書社刊)



今回は、仏像関係の話ではなくて、申し訳ありませんでしたが、
明治初期の美麗な多色石版図集「国華余芳」を手に入れることが出来、嬉しくて、このご紹介記事を綴らせていただきました。


この話で、明治初期の古美術調査と図譜の世界に、ちょっとご関心を待たれることになれば、嬉しき限りです。


新刊旧刊案内~「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」 と 研究史本いろいろ 【2017.2.4】


「美術史研究のあゆみ」シリーズの最新刊が出版されました。


「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、片岡直樹編著 
2016年12月 里文出版刊 【303P】 2500円


唐招提寺~美術史研究のあゆみ


そろそろ、このシリーズの新刊が出るのではないかと期待していましたので、早速、購入しました。

この本は、唐招提寺についての美術史研究上のテーマについての、研究史をまとめた本です。

本の帯には

「鑑真大和上像ほか唐招提寺美術の最新の研究成果をまとめた一冊!
鑑真の御寺奈良・唐招提寺には天平以来の数多くの仏教美術品が伝えられている。
その研究史をたどる一歩進んだ美術書。」

と記されています。

本の題名でご想像がつく通り、テーマ別の研究史について、これまでの諸説から最新の研究成果までが、コンパクトにまとめられた本です。

「唐招提寺の創立」「金堂創建と金堂三尊」「鑑真和上像」「新宝蔵・旧講堂の木彫群」

等々が、テーマとして採り上げられています。

目次をご覧ください。

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次2唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次1

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次4唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次3

唐招提寺~美術史研究のあゆみ・目次5

テーマ別に、研究史についての概説が、20~30ページにコンパクトにまとめられ、過去の研究、論争、最新の研究成果、課題などが、大変わかりやすく、読みやすく述べられています。
一般の解説書から、一歩踏み込んだ研究史の概説、解説書と云えるものだと思います。



【一般解説書で飽き足らない方の、知的興味をくすぐる研究史本】


こうした研究史をたどった本は、仏教美術を愛好する者にとっては、大変有難く、また便利な本です。

奈良や京都の古社寺や仏像を巡り、だんだんと仏教美術に興味がわいてくると、一般的な、仏像のガイドブックや解説本で飽き足らなってくるのではないでしょうか?

私も、仏教美術に少し興味がわいてきた昔を振り返ってみると、古社寺、仏像巡りをしているうちに、いくつかの美術史の大きな論争、議論があるということがおぼろげながら知るようになりました。

「法隆寺再建非再建論争」「薬師寺金堂三尊、移坐非移坐論争」「平安初期木彫誕生の謎」

といった話です。

「面白そう、興味深い話だな」
「もう少し、深く知りたいな」

と思ったのですが、どんな本を読んだら、こうした論争や議論の全体感が判るのかというのが、よく判りませんでした。
ちょっと突っ込んで知りたいと思っても、なかなか手ごろでコンパクトにまとめた研究史の解説書というのは、全くありませんでした。

知ろうとすると、ものすごく難解で高価な研究書とか、美術研究誌に掲載されている研究論文にチャレンジするしかなかったのではないかと思います。
ただの、愛好、趣味の者にとっては、ちょっと読んでみても、難し過ぎてギブアップという世界でした。

こんな知的興味をくすぐるような、論争史や研究史をまとめた本があったら、本当に嬉しいなというのが、若き頃の願望であったように思います。



【早稲田大学、大橋一章氏を中心に、長らく刊行されている「美術史研究のあゆみ」シリーズ】


この「美術史研究のあゆみ」シリーズの本は、こうしたニーズにぴったりという本なのではないかと思います。

30年ほど前から、刊行が始まりました。
いずれも「コンパクトにまとめられた研究史解説書」となっています。

一般の解説書では、ちょっと飽き足らなくなってきた
仏教美術史の議論あるテーマについて、一歩深く知りたい
興味関心はあるが、専門書、研究書を読もうとまでは思わない

といった方には、大変面白く、興味深い本なのではないかと思います。

このシリーズ、早稲田大学の大橋一章氏を中心に、刊行が続けられているものです。
これまでに全部で、8冊刊行されています。
この機会に、どんな本が出ているのかだけを、ご紹介しておきたいと思います。
個別の内容に立ち入ると、大変ですので、本の名前と書影の羅列になってしまいますが、ご参考になればと思います。

出版年順にご紹介します。



【最初の2冊は、主要な論争テーマを取り上げた研究史本】



「寧楽美術の争点」大橋一章編著 1984年10月 グラフ社刊 【317P】 1800円

寧楽美術の争点

もうずいぶん前の話になりますが、この新刊本を、本屋で見つけた時、
「こんな本が出るのを、待っていたのだ!」
思わず、そう叫びそうになりました。

採り上げられたテーマの目次は、このようなものでした。

寧楽美術の争点・目次

面白そうで、興味をそそるテーマばかりです。
早速買って、読み耽った思い出があります。

法隆寺論争についての本を除いては、仏教美術の論争史、研究史だけをまとめた本は、それまで全くなかったのです。

町田甲一氏は、本書の裏表紙の推薦文にこのように書いています。

「法隆寺論争がなかったら、若草寺塔心礎の寺への返還はなかったろうし、伽藍址の発掘も行われたとしても可成りおくれたことだろうが、それにもまして思うべきことは、その後の『法隆寺学』、さらに上代美術史の今日のような成果は始と期待できなかったであろう。

また薬帥寺論争によって、飛烏より白鳳・天平にいたる上代彫刻の「様式」の内容がようやく正しく埋稗されるようになった。

論争は、それが真面目に行われるとき、必ず新しい成果を生むものであり、新知見を齎し、学問の進化を促すものである。
そしてそのような論争の経緯を手際よく鳥瞰できることは、それらの問題に関心をよせる人たちに適切な指針を提供するはかりでなく、その道に進もうとする新しい研究者には、諸問題についての現時点における歴史的全貌を要約して数えてくれる極めて効率の高い入門書となりスタート台ともなるものである。

そのような古美術に興味をもつ人、新しい若い研究者にこのすぐれた『寧楽美術の争点』を、おすすめしたい。」


この本が出版されてから、10年後、ずいぶん経ってから、「寧楽美術の争点」の続編のような本が出ました。

「論争・奈良美術」大橋一章編著 1994年4月 平凡社刊 【284P】 2860円


論争奈良美術

目次をご覧ください。

論争奈良美術・目次

このようなテーマが採り上げられています。



【その後は、奈良六大寺の研究史本を、着々と刊行中】


以上の2冊は、これまで論争、議論があった主要テーマをまとめたものでしたが、
この後からは、奈良の主要大寺ごとに、研究史をまとめた本が出版されるようになりました。
4~5年おきに、出版されているようです。

ご覧ください。


「法隆寺美術・論争の視点」大橋一章編著 
1998年8月 グラフ社刊 【381P】 2800円


法隆寺美術論争の視点



「薬師寺・1300年の精華~美術史研究のあゆみ」大橋一章、松原智美編著
2000年12月 里文出版刊 【309P】 2500円


薬師寺~美術史研究のあゆみ

薬師寺~美術史研究のあゆみ・目次



「東大寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、斎藤理恵子編著
2003年9月 里文出版刊 【369P】 2500円


東大寺~美術史研究のあゆみ

東大寺~美術史研究のあゆみ・目次



「法隆寺、薬師寺、東大寺、論争のあゆみ」大橋一章著
2006年4月 グラフ社刊 【218P】 1600円


法隆寺・薬師寺・東大寺、論争のあゆみ



「興福寺~美術史研究のあゆみ」大橋一章、片岡直樹編著
2011年11月 里文出版刊 【381P】 2500円


興福寺~美術史研究のあゆみ

興福寺~美術史研究のあゆみ・目次


以上のとおりです。

今般出版された新刊「唐招提寺~美術史研究のあゆみ」を含めると、奈良六大寺のうち5寺の研究史本が発刊されたことになります。

数年後には、「西大寺」の研究史本が計画されているという話で、それが出版されると、奈良六大寺の研究史本が完結することになるそうです。

一般の解説書から、一歩踏み込んだ仏教美術史にご関心のある方には、お薦めのシリーズだと思います。



【ついでに、昔懐かしい、法隆寺論争の研究史本をご紹介】


「美術史研究のあゆみ」シリーズを採り上げたついでに、もっともっと昔の研究史本を、ちょっとだけご紹介しておきます。

法隆寺の再建非再建論争を中心とした、「研究史本」です。

早稲田の大橋一章氏を中心とした仏教美術史研究史本が出版されるまでは、研究史だけを採り上げた本というのは全く無くて、唯一、「法隆寺論争の研究史本」が存在するだけでした。

今更言うまでもありませんが、法隆寺の再建非再建論争は、明治から昭和を通じて展開された建築史、美術史上の大論争でした。
この世を挙げてといってよいほどの大論争があったからこそ、日本の近代建築私学、美術史学の、これほどの発展はなかっただろうともいわれています。

こんな法隆寺の研究史本が、その昔出ているのです。


「法隆寺再建非再建論争史」足立康編 1941年10月 龍吟社刊 【368P】 3.8円

法隆寺再建非再建論争史


戦前に出版された、法隆寺再建非再建論争をまとめた本です。
法隆寺非再建論の雄であった、足立康氏の編集による本です。
明治時代以来の法隆寺再建非再建論争について、足立康氏が歴史を追って解説、自説を展開しつつ、論者の代表的論考が集成されています。
非再建論者で著名な、平子鐸嶺、関野貞、足立康といった各氏の論考が中心です。

ただ、再建論の代表的大物であった喜田貞吉氏の論考が採録されていません。
前年に、喜田貞吉氏が自説の論考をまとめた本「法隆寺論攷」が出版され、喜田氏の論文が転載不可になったという事情によるものです。

「法隆寺論攷」喜田貞吉編著 1940年9月 地人書院刊 【494P】 5.5円

法隆寺論攷


この喜田貞吉氏の本とセットで読むと、昭和、戦前の法隆寺再建非再建論争の研究史をしのぶことが出来ます。


戦後すぐには、こんな本が出版されました。

「法隆寺の研究史」村田治郎著 194910月 毎日新聞社刊 【332P】 330円

法隆寺の研究史


村田治郎氏は、東洋建築史、中国建築史研究の第一人者で、法隆寺の研究でも知られ、法隆寺に関する数多くの論文を発表している人です。

著者は,序文で、

「この本は法隆寺、とくに金堂、塔婆、中門を中心とする諸問題についての、諸学者の研究の経過と現在到達している点を明らかにして、多くの人々の理解に役立たしめ、且つ新たに研究を始めようとする人達の手引きになることを、目標としている。
私がこんな本の編纂を思い立ったのは、敗戦によって今までの日本は週末を継げたのだから、それを機会に過去のあらゆる学問は総決算して、今後の出発に備える必要があると考えられたからである。」

と述べています。

序文のとおり、法隆寺の論争史、研究史について、いずれの論に偏することなく、大変丁寧にしっかりとまとめられた高品質の本となっています。
当時、法隆寺の研究史を学ぶ、「底本」ともいうべき本になっていたのではないかと思います。

この本、何部刊行されたのかわかりませんが、昭和40~50年代には、なかなかの貴重書でした。
神田神保町の古書店では、2万円程度の値札が付けられて書棚に並んでいました。
到底買えそうにはなく、恨めしそうな目でこの本を眺めていたのを覚えています。
今、NETで検索したら、2000円ぐらいで購入できるようです。
時代が変わったんだなという気が、しみじみとしてきます。


同じ村田治郎氏による「法隆寺の研究史」の本を、もう1冊、ご紹介します。

「法隆寺の研究史」村田治郎著作集第2巻 1987年7月 中央公論美術出版刊 【431P】 9800円

法隆寺の研究史・中公美術出版版

村田氏が1985年に没後、全三巻の著作集が刊行されましたが、その第2巻となっているものです。

昭和24年に刊行された「法隆寺の研究史」と同じ題名になっていますが、大幅に増訂、改訂され、ハイレベルの内容になっています。
村田氏没後に、蔵書、原稿類を整理した処、この新たな増訂原稿が見つかったということです。
この新版の「法隆寺の研究史」は、この新稿によるものであり、旧著とは面目を一新した研究史の論文集となっています。

村田氏は、新稿の序に、旧著について
「初歩の学生諸君に、法隆寺学を容易に理解して頂く内容にしようと思って書いた」
としています。
新版の方は、学問的レベルの法隆寺研究史の論考の集大成といったものになっていると思います。



私の知っている限りでの、仏教美術史の「研究史本」を、ざっとご紹介してみました。
研究史本の世界というのも、知的興味をくすぐって、なかなか面白いものです。

ご関心のある方の、ご参考になれば、有難き限りです。


トピックス~模古作とされていた京都妙傳寺の小金銅仏、実は古代朝鮮仏と判明? 【2017.1.21】


【夜7時NHKニュースで、「古代朝鮮仏発見?」の報道にビックリ!】


正月気分もまだ明けない1月7日、夜7時のNHKテレビのニュースで、こんなニュースが報道されました。

ニュースの見出しは、

「小さな寺の仏像 実は朝鮮半島伝来の貴重な仏像か」

というテロップです。

妙傳寺・半跏思惟像
妙傳寺・半跏思惟像


【TVニュースでの報道内容は?】


アナウンサーの方は、このように語っていました。

京都市の小さな寺にある、江戸時代のものと思われていた仏像が、実は、仏教が日本に伝来して間もない頃に朝鮮半島で作られた極めて貴重な仏像の可能性が高いことが、大阪大学などによる最新の調査でわかりました。
専門家は
「こうした貴重な文化財は、ほかにも埋もれている可能性がある」
と指摘しています。

京都市左京区八瀬近衛町にある「妙傳寺」では、「半跏思惟像」という高さおよそ50センチの青銅製の仏像が本尊として安置されていて、これまでは、寺が建てられたのと同じ江戸時代のものと思われていました。

京都八瀬の妙傳寺
京都市左京区八瀬の妙傳寺

この仏像について、大阪大学や東京国立博物館の研究者が改めて鑑定したところ、額に刻まれた模様や装飾品の龍のデザインなどが6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致していました。
さらに、仏像にX線を当てて金属の成分を詳しく調べた結果、銅がおよそ90%、スズがおよそ10%で鉛はほとんど含まれていませんでした。
こうした割合は日本や中国の仏像にはなく、7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像である可能性が極めて高いことがわかったということです。

この時代は、日本に仏教が伝わってまもない時期に当たりますが、この仏像がどういう経緯でこの寺に伝わったかはわかっていません。

調査に当たった大阪大学の藤岡穣教授は、
「韓国では国宝級となる最高レベルの仏像で、こうした仏像が見つかったことは大きな意味がある。
ほかにも、埋もれている貴重な文化財がまだまだ見つかる可能性があり、価値に気付かれないまま盗難などの被害に遭う前に、調査が進んでほしい」
と話しています。


その後の話を要約すると

古代朝鮮仏と判断される決め手となったのは、非破壊・非接触の「蛍光X線分析」による、金属組成分析の積み重ねの成果であったこと。
仏像は、盗難の恐れがあるため、3Dスキャナーによって模造を制作しこれをお寺に安置、実物は博物館で保管されることになった。

との説明がされていました。


なんと、ゴールデンタイム、NHKの7時のニュースに、5分近くの長い時間を割いて、この仏像の発見ニュースが流されたのです。
ご覧になった方も、たくさんいらっしゃるのではないかと思います。

妙傳寺・半跏思惟像
妙傳寺・半跏思惟像

私は、大阪大学の藤岡穰氏が、1年ほど前に、論文やシンポジウムで、

「この仏像は、模古作といわれていたが、科学的分析等によると古代朝鮮仏であるとみられる。」

という考えを発表されていたことを、たまたま知っていましたので、

「あの話が、TVニュースで、こんなに大きく採り上げられたのか!」

と思いましたが、採り上げ方の大きさにビックリしてしまいました。



【新聞各紙も、X線分析で「7世紀の渡来仏発見か?」と、大きく報道】


このNHKニュースから1週間ほど後、今度は、新聞各紙が、記事に大きく採り上げて、一斉に報道されました。

このような見出しでした。

「7世紀に朝鮮半島で制作か 京都・妙伝寺の仏像、X線で成分分析」 (産経新聞)

「本尊は国宝級渡来仏…7世紀に朝鮮半島で製作か」 (毎日新聞)

「『江戸期』実は7世紀の渡来仏? 京都の半跏思惟像X線分析」 (朝日新聞)


朝日新聞の記事をご紹介すると、次のようなものです。

妙傳寺・半跏思惟像の発見を伝える朝日新聞記事
妙傳寺・半跏像の発見を伝える朝日新聞記事
京都市左京区八瀬近衛町の妙伝寺の本尊で、江戸時代の制作とされてきた「半跏思惟像」(高さ約50センチ)が、仏教伝来から間もない7世紀ごろに朝鮮半島で作られた金銅仏である可能性が高いと13日、調査した大阪大の藤岡穣教授(54)=東洋美術史=が発表した。

この時代の渡来仏は全国的にも数が少ないといい、
「装飾も精巧で、朝鮮半島から伝来したものだろう。貴重な仏像だ」
と話している。

藤岡教授の鑑定によると、仏像の額に水平に刻まれた毛筋や装飾品の竜のデザインなどが、6~7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像の特徴とよく似ていたという。
また、仏像にX線を当てて金属の成分を調べる「蛍光X線分析」では、銅が約86%、錫が約10%だった。日本や中国の仏像に比べて錫が多い組成から、7世紀ごろ朝鮮半島で制作された可能性が高いとみている。

蛍光X線分析には従来、大型機器が必要だったが、藤岡教授らはヘアドライヤーほどの大きさまで小型化。
これまでに日本国内や中国、韓国などの古い仏像約400体を調査した。

妙伝寺は寺伝によれば、江戸初期の1616年創建。
そのため、この仏像もこの頃の制作と考えられていた。

今回の調査結果を受け、3Dプリンターで仏像のレプリカを制作。
実物は博物館に寄託し、レプリカを寺に安置するという。
寺は天皇の大礼や大喪の時などに輿を担いだ八瀬童子の菩提寺として知られる。
(朝日新聞、1月14日付け朝刊)


妙傳寺・半跏思惟像~頭部
妙伝寺本尊の半跏思惟像
髪を中央で二つに分け、額にそわせているのは、
6~7世紀の朝鮮で作られた仏像の特徴に共通しているという


妙傳寺・半跏思惟像~顔部
耳たぶの先端に切れ込みが入っているのは
5世紀ごろのインドの仏像などに類例があるという


妙傳寺・半跏思惟像~脚部模様
脚部中央のとぐろを巻く竜文飾りは、
6~7世紀の朝鮮の作例に共通した特徴だという


新聞各紙にこれほど大きな記事で報道されて、またまたビックリです。
仏像愛好の方々の間では、しばらく、この話題で盛り上がるのかなという感じです。

金銅仏は、博物館に預けられるという話ですが、大津市歴史博物館で保管されるようで、10月7日~11月19日に、同博物館で展示されるということです。

皆さん、この金銅仏の写真をご覧になって、どのように感じられたでしょうか?

「江戸時代の模古作? 7世紀の古代朝鮮仏?」

如何でしょうか?



【一昨年、展示会に出展され、シンポジウムで研究成果が発表されていた、妙傳寺・半跏思惟像】


実は、この妙傳寺の金銅仏は、一昨年、2015年10~12月に、大阪大学総合学術博物館で開催された
企画展「金銅仏きらきらし―いにしえの技にせまる―」
に展示されました。

金銅仏きらきらし展ポスター
「金銅仏きらきらし展」ポスター

また、同時に開催された
「国際シンポジウム~金銅仏の制作技法の謎にせまる」
における、藤岡穣氏の講演「東アジア金銅仏の蛍光X線分析からわかること」で採り上げられ、

「7世紀の古代朝鮮金銅仏であると考えられる」

という説明が、なされていました。

その研究成果が、今般、大々的にマスコミ発表されたということなのだと思います。


私は、この展覧会とシンポジウムに興味がありましたので、丁度関西へ行くタイミングを合わせて、出かけてみました。
その時に、この金銅仏の実物を、眼近に観たのですが、素人には、

「模古作、古代朝鮮仏?何とも、よくわからない! どちらと云われても、そうなのかな?」

というのが、正直な実感でした。



【近年、金銅仏の金属組成調査に目覚ましい成果を生んでいる、蛍光X線分析】


藤岡穰氏
藤岡穰氏
新聞報道にもあるように、藤岡穣氏は、近年、蛍光X線分析により、金銅仏の金属組成の調査研究に取り組まれています。
これまでに日本国内や中国、韓国など仏像、約400体を調査したそうです。

蛍光X線分析というのは、非破壊、非接触で、対象物の素材の元素組成を測定分析する方法です。
対象物にX線を照射、そこから発生する蛍光X線を測定し、対象物がどの元素で構成されているかを分析するもので、近年、測定機器装置が格段に進歩し、金銅仏調査などにめざましい成果を生んでいるものです。

藤岡氏は、金銅仏の時代様式、形式からの研究に加えて、金属組成分析結果のアプローチからの研究を、併せて行うことによって、新たな視点で制作年代の判定などを論じられています。

私には、科学的分析云々などということは、難し過ぎて、全くわからないのですが、藤岡氏等により、従来、模古作と考えられていた金銅仏が、古い時代に遡るものと考えられるなどの研究成果が、いくつか発表されていますので、シンポジウムでの講演内容なども含めて、ちょっとだけご紹介しておきたいと思います。

金銅仏の金属組成ですが、銅の他には、主として錫、鉛が含まれるそうです。
他にも、鉄、亜鉛、ヒ素も含まれる場合があるそうです。
シンポジウムでの講演では、時代別また日本、韓国、中国では、ご覧のような特徴があるとのことでした。

金銅仏の金属組成の特徴表



【妙傳寺像が朝鮮古代金銅仏と判断されたポイント】


マスコミで報道された、妙傳寺の半跏像は、銅が約90%、錫が約10%の組成となっています。
藤岡氏は、妙傳寺の如意輪観音半跏像について、このように述べています。

妙傳寺・半跏思惟像~側面
妙傳寺・半跏思惟像~側面
「さまざまな金銅仏について蛍光X線分析を実施したところ、日本の飛鳥時代の作例の場合は原則的に錫の合有率が低く、また、奈良時代以降は次第に鉛の含有率が増加する傾向があることがわかつてきた。

そうした原則ないし傾向に照らすならば、本像の青銅には1割程度の錫が含まれることから飛鳥時代のものとは考えられず、また鉛をほとんど含まないとから平安後期以降の制作になる蓋然性も低いと思われる。

また、朝鮮三国の金銅仏にも本像のように薄手で像内がやや荒れた作例が見出されることは前述のとおりである。

そして、そうであるならば、特徴的な細部形式にいずれも中国や朝鮮半島の作例との類似が認められ、逆にそれがほとんど日本の作例にはみられないことを顧慮すれば、日本の中近世における模像、復古像となるよりも、やはり素直に渡来仏とみるべきであろう。」


この文章は、

「京都某寺と兵庫・慶雲寺の半枷思惟像」(藤岡穰) 美術フォーラム21第32号2015.11.30

という論文で、述べられているものです。

京都某寺というのは、妙傳寺のことです。
論文と展示会では、盗難リスクへの配慮からか「某寺」と表示されていました。
今般、「妙傳寺」であることが、明らかになったものです。

本論文では、単に、金属組成分析の観点だけではなく、詳細な様式、形式の検討の上、

「百済以来の伝統を色濃く伝えた新羅造像である蓋然性が高い」

と述べられています。



【続々と、新たな研究成果が発表されている、金銅仏の蛍光X線分析】


また、この論文では、鎌倉以降の擬古作とか、真贋についての議論もあった、兵庫・慶雲寺の半跏思惟像も、その金属組成、様式等から、朝鮮三国時代、7世紀以降の制作の可能性について論ぜられています。

兵庫慶雲寺・半跏思惟像
兵庫慶雲寺・半跏思惟像


この他にも、近年の、藤岡氏による金銅仏の蛍光X線分析による、新たな研究の見方を、いくつかご紹介すると、次のようなものがあります。

これまで平安~鎌倉時代以降の模古作とみられていた、安養寺の金銅仏・如来立像については、
その組成が純銅に近いことなどから、

「大阪大学の藤岡穣教授が蛍光X線分析を行ったところ、素材については、白鳳時代から天平時代に制作されたと考えて矛盾が無い。」
(「カミとほとけの姿展・図録解説」岡山県立博物館2016.10)

との見方がなされています。

岡山安養寺・如来立像.岡山安養寺・如来立像
岡山安養寺・如来立像


近代の擬古作の疑いがあるという疑問が出された、野中寺の弥勒菩薩半跏像については、
その金属組成(銅:90%、錫3%、鉛をほとんど含まない)からも、日本の古代金銅仏として許容範囲にある(「野中寺弥勒像について~蛍光X線分析調査を踏まえて」ミューゼアム649号2014.4)と述べられています。

野中寺・半跏弥勒像
野中寺・半跏弥勒像


殆どが鎌倉時代以降の補作で、当初部分がごくわずかしか残されていないとされている飛鳥大仏についても、
顔面部分のほとんどは7世紀造立当初のものと見られるとの調査結果を発表し、新聞記事に大きく採り上げられたりしました。

飛鳥寺・飛鳥大仏(釈迦如来像)
飛鳥寺・飛鳥大仏(釈迦如来像)

飛鳥大仏の顔部造立時のものを伝える読売新聞記事

飛鳥大仏の顔部造立時のものを伝える読売新聞記事
「飛鳥大仏の顔部造立時のもの」との研究成果を報ずる読売新聞記事(2016.11.11付)


このように、蛍光X線分析による、金銅仏の金属組成の科学的分析の研究は、金銅仏の制作年代判定に、従来の見方を大きく覆す、新たな視点を提供しているようです。


科学的分析結果を横に置いておいて、これらの仏像の姿を観た感じの私の印象についていえば、妙傳寺の半跏思惟像、慶雲寺の半跏思惟像、安養寺の如来立像などのフィーリングは、平安鎌倉以降の模古的、擬古的な像と云われると、正直な処そのように感じるというのも本音です。

「7世紀前後の制作」といわれると、うまく説明はできないのですが、微妙にしっくりこない感じもしないわけではありません。

なんとなく、既成概念にとらわれた見方になってしまっているということなのでしょうか?


科学的分析の研究が一層進展すれば、従来の常識が、大きく覆されるようなビックリの研究成果が、これからいろいろ判明していくのかもしれません。


マスコミに大きく採り上げられた「妙傳寺の半跏思惟像は、古代朝鮮仏」という話を、ご紹介しつつ、最近の蛍光X線分析による科学的調査研究などについてふれてみようと思って書き始めたのですが、
何ともとりとめのない支離滅裂な話になってしまいました。


自分でも、何を書いているのか、訳が分からなくなってしまったというのが実感ですが、「新発見の古代朝鮮仏の紹介記事」ということで、お赦しいただければと思います。


古仏探訪~2016年・今年の観仏を振り返って〈その4〉10~12月 【2017.1.7】


明けましておめでとうございます。
「観仏日々帖」、今年もよろしくお願いいたします。


年越しになってしまった、去年からの「今年の観仏を振り返って」は、〈その4〉、10~12月の観仏のご紹介です。


[10月]

広島、尾道方面の観仏に、同好の方々と、1泊2日で出かけました。

尾道浄土寺の秘仏本尊・十一面観音像の御開帳と、同じく尾道向島の西堤寺の2躯の聖観音像の御開帳の日に照準を合わせて、いくつかの仏像を訪ねる観仏旅行です。



【岡山県博「カミとほとけの姿展」へ
~際立つ魅力の明王寺・観音菩薩像と、ユーモラスな巨像、勇山寺・不動三尊像】


尾道へ到着の前に、まず、岡山で途中下車。
岡山県立博物館で開催された「カミとほとけの姿~岡山の信仰文化とその背景~展」を、観に行きました。

岡山県博「カミとほとけの姿」ポスター

この展覧会は、岡山に伝わる神像と仏像などにより信仰文化を紹介するという、展覧会です。
展覧会には、64件・147点(うち重要文化財6件)が出展されていました。

県指定文化財以上の出展仏像と、私の注目仏像は、ご覧のとおりです。

観仏先リスト01「岡山県博・カミとほとけ展」

この展覧会の、目玉で注目像は、なんといっても明王寺の観音菩薩像でした。

明王寺・十一面観音像
明王寺・十一面観音像

10世紀前半は下らないといわれる平安前期の優作です。
カヤ材の一木彫で、蓮肉まで一木で彫り出されています。
明王寺を訪れ拝したことがありますが、なかなかの魅力的な像で、しっかりと記憶に残っています。
今回の、展覧会出展仏像のなかでも、その出来の良さは際立って、眼を惹くものでした。
お顔と上半身は比較的穏やかさがあるのですが、下半身の衣の表現は、ダイナミックで躍動感あふれるものがあり、平安前期彫刻の魅力を発散させていました。

明王寺・観音菩薩像については、神奈川仏教文化研究所HP「貞観の息吹~明王寺・聖観音像」でも、ご紹介させていただいています。


一度は拝したいと思っていながらも、未見だったのは、勇山寺・不動明王二童子像でした。
像高183㎝という、巨像の不動明王坐像です。

勇山寺・不動明王三尊像
勇山寺・不動明王三尊像

中国山地の真ん中、美作・真庭にあるのですが、なかなか不便なところで訪ねる機会がなかったのです。
デカくて、量感たっぷりなのですが、田舎風で何ともユーモラスな不動明王です。
10世紀の制作だそうです。

勇山寺・不動明王像顔部
勇山寺・不動明王像顔部

類例のないような、諧謔、怪異な容貌は、なかなか面白いものでした。


最後に、気になったのが、安養寺の小金銅仏、如来立像です。
安養寺・如来立像
安養寺・如来立像

解説には、
この金銅仏は、これまで、平安~鎌倉時代に古仏をまねて作った「模古作」という説が有力だったそうなのですが、
「大阪大学の藤岡穣教授が蛍光X線分析を行ったところ、素材については、白鳳時代から天平時代に制作されたと考えて矛盾が無いと報告された。」
ということで、
「白鳳~天平時代(7~8世紀)の制作」と、記されていました。

その気になってじっくり見てみました。
私には、難しいことはよく判りませんが、形式や全体の雰囲気は「平安期以降の模古作」という方が、シックリくるような気がしました。
これからの、調査研究の進展がたのしみです。



午前中に、岡山県博を後にして、三原駅へ。
午後からは、次の諸仏の観仏探訪に巡りました。

観仏先リスト02「善根寺・文裁寺・田辺寺」


【壮観の平安古仏群、善根寺~地元保存会の人々の手で守られる】


まずは、三原市街から西へ6キロぐらいの処、小坂町にある善根寺を訪ねました。

善根寺・収蔵庫
善根寺・収蔵庫

善根寺収蔵庫には、主として平安時代の古仏が、28躯も残され、うち22躯が文化財指定を受け入ています。
朽損している破損仏的なものもありますが、これだけの平安古仏群が、一堂に林立しているありさまは壮観です。

善根寺・収蔵庫内の古仏群
善根寺・収蔵庫内の古仏群

善根寺近傍の古仏が、ここに集められたのかもしれません。
善根寺は無住ですが、地元の善根寺保存会の方々によって、大切に守られてきています。

善根寺で、一番、知られている仏像は、日光、月光菩薩立像で、県指定文化財に指定されています。

善根寺・日光菩薩像善根寺・月光菩薩像
善根寺・日光月光菩薩像

2015年刊の「三原の仏像展」図録では、9~10世紀の制作とされています。
「そこまで古いのかな?」
という感じもしますが、これら古仏群の中では、一番出来の良い平安古仏です。


私の眼を惹き付けたのは、ご覧の天部形像(市指定文化財)です。

善根寺・天部像
善根寺・天部像

相当朽ちてはいるのですが、なかなかパワフルな造形です。
蓮肉まで共木という古様な構造で、堂内の像の中では、一番、気というかオーラを発しているように感じました。
こちらも9~10世紀の制作とされていますが、日光月光像よりも、古様で迫力があるようです。

いずれにせよ、よくこれだけの古仏群が、現在まで、守られてきたものです。
私は、3度目の善根寺訪問となりますが、いつ訪ねても、これらの古仏を大切にお守りしてきた土地の人々の信仰に、想いを致さずにはいられません。

善根寺古仏群については、神奈川仏教文化研究所HP
神奈川仏教文化研究所HP「辺境の仏たち~広島・善根寺の平安仏」でも、紹介させていただいています。



【重厚感ある力強さ、迫力に惹きつけられる、文裁寺・十一面観音像】


世羅郡甲山町の文裁寺、3年前、2013年にも訪ねたのですが、また、来てしまいました。
こちらの十一面観音像の素晴らしさには、何度拝しても、魅せられてしまいます。

文裁寺・十一面観音像文裁寺・十一面観音像
文裁寺・十一面観音像

これぞ貞観仏という、重厚感あふれる力強い造形です。

「上唇と突き出した厳つい顔貌、太い首、いかり肩、ずんぐりとした体つき、鋭利な衣文」

そのどれもが、強烈なインパクトで、拝する者の心を惹き付けます。
平安前期、バリバリの9世紀の一木彫そのものといってよいでしょう。
これだけの存在感のある像が、中国山地のど真ん中、世羅郡の地に遺されていることに、驚きを禁じ得ません。
今回も、また惚れ込んでしまいました。
是非機会を見つけて、また拝しに訪れたいものです。

文裁寺・十一面観音像については、神奈川仏教文化研究所HP「貞観の息吹~文栽寺・十一面観音立像」でも、紹介させていただいています。



【尾道の夜は、新鮮美味な瀬戸内の魚と、美味しいお酒】


夜は、尾道で、瀬戸内の新鮮な海の幸と、美味い酒。
ご一緒の尾道出身の方のご案内で、商店街の居酒屋「玉扇」へ。

尾道・居酒屋「玉扇」
尾道・居酒屋「玉扇」

「安くて美味い!」というのは、このことを云うのでしょう。
魚は採れ々々の新鮮そのもの、何を食べても活きが良くて申し分なし。
飾らぬ料理で、これこそ、地元に愛される居酒屋です。
お酒も、勢いづいてオーバーランということになってしまいました。



翌日は、ご覧の寺々の観仏に訪れました。

観仏先リスト03「青目寺・浄土寺他」



【奈良様乾漆像の系譜を受け継ぐ、整った姿の日光月光菩薩像~府中山中の青目寺】


青目寺は、尾道から北へ車で40~50分往った、府中市の山の中の辺鄙なところにあります。
普段は無住で、少し離れたところにある西龍寺のご住職が兼任されており、わざわざ収蔵庫を開きにお見えいただきました。

青目寺
青目寺

眼を惹くのは、日光月光菩薩像です。
日光月光の二菩薩像は、薄く木屎漆のモデリングがなされており、一部、乾漆技法が使われているようです。

青目寺・日光月光菩薩像青目寺・日光月光菩薩像
青目寺・日光月光菩薩像

造形表現も、いわゆる奈良様の系譜を受け継ぐようで、温和で落ち着きがあり、なかなか整った像です。
こんな地方の山中にも、平安前期の奈良様を受け継ぐ仏像が残されているというのも、興味深いものがありました。
中尊が残っていないのが、誠に残念で、きっと立派な薬師像であったに違いないと思いました。

もう1躯、聖観音像も祀られてます。

青目寺・聖観音像
青目寺・聖観音像

こちらの方は、お顔にちょっと土臭さを感じるのですが、全体に穏やかで安定感のある造形の像でした。
平安前期の制作ということですが、もう少し下がる時期の像かもしれないような気もしました。



【厳重秘仏、ご開帳の尾道・浄土寺へ~スッキリ端正な藤原風の十一面観音像】


尾道市内まで戻って、浄土寺・十一面観音像の秘仏本尊のご拝観に向かいました。
浄土寺本尊・十一面観音像は、33年に一度の開扉の厳重秘仏です。

今回は、浄土寺・平成の大修理の完了落慶、並びに開創1400年を記念して、特別に、春秋2期間、ご開帳されることになったものです。
開帳期間が比較的長かったこともあるのでしょう、それほどの混雑なしに、近くでゆっくり拝することが出来ました。

浄土寺・十一面観音像浄土寺・十一面観音像
浄土寺・十一面観音像

本像は、多くの解説書が藤原和様のおだやかさと示すとして平安後期の制作としているのですが、広島県教育委員会HP解説では、
「面相は豊満で,体躯は肥大充実し,刀法も鋭く,全身を金色の寂光に包まれた端厳な尊容の像である。
平安時代も初期に近い頃(9世紀)のすぐれた作である。」
と、されています。

実際に拝すると、どんなもんだろうかと、興味深く拝しました。
実見してみて、やはり、「典型的な平安後期の観音菩薩像」という風に納得しました。
お顔が豊満で、姿がスッキリ端正という印象でした。

秘仏本尊のご拝観が目的だったのですが、私には、浄土寺といえば、小津映画の「東京物語のロケ地になったお寺」という方が、心に残っており、懐かしく境内を歩きました。

浄土寺・境内
浄土寺・境内

東京物語は、何度も観たことがあるのですが、原節子と笠智衆が、浄土寺境内で語り合うシーンが印象的でした。



【堂々たる量感と穏やかさをミックスした秀作、西堤寺・観音菩薩像
~年に一日のご開帳に来てみた甲斐あり、大満足】

浄土寺の後は、尾道、向島の西堤寺です。
西堤寺の、観音菩薩像は、なかなか魅力的な平安古仏で、是非とも一度拝したいものと念願していたのですが、年に一度、10月10日のみしか開帳されないので、拝するチャンスがなかったのです。
今回の観仏旅行は、この10月10日に照準を合わせて、尾道にやってきたのでした。

向島は、尾道中心地の向かいにある島なのですが、今は、橋が架かって、車ですぐに行くことが出来ます。
西堤寺は、立派なご本堂があり、その隣の収蔵庫に、2躯の菩薩像が安置されていました。

西堤寺・本堂と収蔵庫
西堤寺・本堂と収蔵庫

大勢という程ではないのですが、拝観の方が何人も見えられていて、我々同様、この日を目指してこられた方がそれなりにいらっしゃるようでした。

この2躯の観音菩薩像は、昭和50年代前後に、新発見された仏像です。

西堤寺・観音菩薩像(10世紀頃)西堤寺・観音菩薩像(11世紀前半)
西堤寺・観音菩薩像~(左)10C頃制作、(右)11C前半制作

それまであった旧本堂を建てかえるために解体したところ、壁の中に隠し部屋があってその中に、2躯の観音像が安置されていたのが発見されたという話です。
発見から程無く、一足飛びに、昭和52年(1977)、国の重要文化財に指定されました。(1躯は付けたり指定)

流石に、発見即重文指定にスピード出世しただけのことがある、見事な仏像です。
カヤ材の一木彫漆箔像です。
堂々たる量感で太造り、一方で穏やかさ柔らかさもみられて、力強さと端麗さの両面を感じる、大変魅力あふれる造形でした。

「わざわざ来てみて、やっぱり良かった。」

という、満足感で一杯になりました。

この像の制作年については、「芸藩通志」に、

「天暦5年(951)作の西堤寺本尊が盗難に遭ったため、治安2年(1022)に仏師定願が一像を造り代わりに安置したが、その後、元の本尊が還った。」

旨の記載があり、両像の作風と、この通史記載の制作年が似つかわしいものであることから、その頃の制作ではないか、とみられているそうです。

西堤寺・観音像については、神奈川仏教文化研究所HP「貞観の息吹~西提寺・聖観音立像」でも、ご紹介させていただいています。

今回の広島方面旅行は、最後の観仏が、大満足の西堤寺・観音像となり、充実気分で帰路につきました。



【秘仏、瑞巌寺五大堂・五大明王像が出展された、「松島瑞巌寺と伊達政宗展」へ】


三井記念美術館で開催された「松島瑞巌寺と伊達政宗展」に行きました。

「松島瑞巌寺と伊達政宗展」ポスター

めざすは、特別出展された、瑞巌寺・五大堂の秘仏「五大明王像」です。

観仏先リスト04「瑞巌寺」

五大堂の「五大明王像」は、厳重な秘仏として守られており、33年に一度の御開帳とされており、次回御開帳は2039年になるのです。
平成6年(1996)に、文化庁によって、発見調査されて、重要文化財指定がされました。
最近、一部の像が宝物館展示されることも、たまにありますが、はじめて、本展覧会に5躯そろって特別出展されることになりました。
これは、何としても、観なければと、出かけたのです。

瑞巌寺五大堂・不動明王像
瑞巌寺五大堂・不動明王像

ケヤキの一木彫、内刳り無し、素朴で粗さのある地方色といったものを感じますが、なかなかの古様で、出来もよく、迫力のある像です。
写真で見ていた時は、さほどのパワーを感じないような印象でしたのですが、予想外の注目像でした。



[11月]


【白鳳観音像の平安模古作、宝塔寺・聖観音像の特別公開情報に五反田へ】


品川区五反田にある宝塔寺・聖観音像を拝しに行きました。

観仏先リスト05「宝塔寺」

11/3~5に品川区指定文化財の一般公開という企画があり、その中に宝塔寺・聖観音像の特別公開という情報があったのです。
区指定の仏像ということで、普通ならこの種のものには出かけないのですが、NET情報によると、「白鳳時代の観音像の、平安後期の模古作」ということです。
ちょっと興味深げなので、宝塔寺まで行ってきました。
宝塔寺は、五反田駅から歩いて5~6分の処にありました。

観音像は、360度ビューで眼前に拝せるようになっていました。

宝塔寺・聖観音像

宝塔寺・聖観音像
宝塔寺・聖観音像

確かに、法隆寺の六観音像を思わせるような、白鳳仏を模した仏像に間違いありません。
山本勉氏による解説資料があり、それによると、ヒノキの寄木造の古色仕上げで、平安後期の白鳳仏模古作として貴重な像である旨、解説されていました。
この像は、近世には大阪にあり、宝塔寺には、二代前のご住職の時に、民間の所有からお寺に入ったものだそうです。

ちょっと、面白い模古作像でした。



【知られざる平安古仏が、想定外にどっさり!~初めての越前観仏旅行へ】


越前地方の観仏旅行に、同好の方々と、2泊3日で出かけました。

福井市立郷土歴史博物館で開催された「福井の仏像展」と併せて、越前方面の観仏に出かけたのです。
福井県の仏像と云えば、小浜方面の若狭の仏像が広く知られているのですが、越前方面の仏像は、あまり知られていないのではと思います。

今回開催された「福井の仏像展~白山を仰ぐ人々と仏たち~」は、越前に遺る見処ある平安古仏のほとんどが出展され、一堂に会するという、大注目の展覧会です。
越前の古仏の全貌を、一気に知ることが出来る、めったにないチャンスです。
見逃すわけにはいきません。



【越前の見処ある平安古仏が勢ぞろい~圧巻の「福井の仏像展」】


初日は、「福井の仏像展」に直行です。

「福井の仏像展」開催中の福井市立郷土歴史博物館
「福井の仏像展」開催中の福井市立郷土歴史博物館

展覧会には、34躯の仏像が出展されていました。
これだけの越前の古仏を一堂に集めるのは、大変ことであったのだろうと思います。
展示仏像の中で、県指定以上の文化財指定仏像は、ご覧のとおりです。

観仏先リスト06「福井の仏像展」

私の注目仏像を、2~3件、一言ご紹介だけしておきます。

展示室正面に大きな五像がドーンと並べられた滝波五智如来堂・五智如来像は、平安後期のいかにも地方作という像でしたが、なかなか眼を惹くものがありました。

滝波五智如来堂・五智如来像
滝波五智如来堂・五智如来像

江戸時代の悪彩色の紙貼りで覆われていたものを、3年がかりで修理修復され、面目を一新したばかりだそうです。



【際立つ存在感、霊的オーラを発する大滝神宮堂・虚空蔵菩薩坐像】


展覧会で、最も注目したのは。大滝神宮堂・虚空蔵菩薩坐像です。

大滝神宮堂・虚空蔵菩薩坐像

大滝神宮堂・虚空蔵菩薩坐像
大滝神宮堂・虚空蔵菩薩坐像

眼光鋭く、厳しく引き締まった表情、胸をグッと張り出し、胴がキュッと引き締められています。
迫力十分で、霊的オーラを発しています。
必見、刮目の平安古仏でした。
この像は、大瀧神社の神宮堂に祀られ、神仏分離以前の大滝寺(現在の大瀧神社)のゆかりの像であったそうです。
展覧会、随一、際立った存在感を感じました。


その他、加多志波神社・聖観音像、八坂神社・十一面女神像なども、神社に祀られる興味深い古像でしたが、キリがなくなるのでこの辺でやめておきます。

加多志波神社・聖観音像八坂神社・十一面女神像
(左)加多志波神社・聖観音像、(右)八坂神社・十一面女神像

越前の平安古仏を、たっぷりと鑑賞することが出来ました。
わざわざ出かけてきた値打ち十分の「福井の仏像展」でした。



【越前の新鮮美味に舌鼓~高価な越前ガニに、腰が引ける】


この日の夜は、福井市内で美味な割烹といわれる「旬味 泰平」へ。

「旬味 泰平」
「旬味 泰平」

流石に、評判の良いだけあって、新鮮、美味な魚介の料理には、十分納得です。
美味かった。
越前ガニ漁が解禁になって数日の処で、とれたての越前ガニもお目当てだったのですが、値段を聞いて、ヒックリ。
メスの小さなセイコ蟹が、一杯5千円です。
オスの越前ガニの値段は、恐ろしくて、聞けませんでした。
折角来たのだからと、セイコ蟹一杯を二人で半分ずつという情けない注文で、ちょっぴり味わいました。
これまた美味かった。


翌日、翌々日は、「福井の仏像展」出展されていない、越前の古仏探訪です。
越前の古仏は、お寺ではなくて、神社に祀られ、地区の管理になっているものが圧倒的に多く、拝観のお願いに、博物館や教育委員会にお世話になるなど、結構苦労しました。
その分、よく知られておらず、奥深いものがあります。

観仏探訪先は、ご覧のとおりです。

観仏先リスト07「福通寺・大谷寺他」



【どうして、越前に純宋風の秀麗像が?~見事な福通寺・正観音像】


朝日観音・福通寺を訪ねました。

朝日観音・福通寺
朝日観音・福通寺

実は、福通寺のご住職は、福井市立郷土歴史博物館の学芸員で、「福井の仏像展」の開催企画、運営を進められている方なのです。
今回の越前の古社寺観仏探訪にあたっては、拝観の御依頼先、ご連絡先等をご教示いただくなど、大変お世話になりました。
福通寺諸仏ご拝観にあたっては、自らご案内、御開扉いただき、またまたお世話になってしまいました。

一番の注目は、正観音像でした。
2メートル近い大きな像で、通常は、秘仏とされています。

福通寺・正観音像福通寺・正観音像
福通寺・正観音像

宋風の匂いがプンプンする造形です。
ご説明によると、
「越前にこんな宋様式を濃厚に表した像は、本像の他にはない。」
そうです。

金沢文庫称名寺の弥勒菩薩像の雰囲気を思い起こさせますし、在地の制作の風ではなく、中央風の造形のように思われます。
どうしてこのような純宋風の像が、越前に残されたのかという造像背景は、よく判らないそうです。
なかなか見事な出来の像で、県指定文化財ではもったいないのかな、という気になりました。

千手堂の千手観音像も、平安前期風の名残を少し残した像ですが、平安末~鎌倉の制作とされているようです。

福通寺・千手観音像(平安末鎌倉)
福通寺・千手観音像(平安末鎌倉)



【不思議な伝統行事~33年に一度、福通寺へ移動する、日吉神社の古仏像】


次に訪ねたのは、日吉神社で、福通寺から1キロぐらいのところにあります。

日吉神社
日吉神社

この日吉神社には、平安時代後期の大日如来像他の諸仏が祀られています。

日吉神社に祀られる大日如来像他諸仏
日吉神社に祀られる大日如来像他諸仏

福通寺とは場所も離れていて、一見無関係のようにみえるのですが、この二つの寺社では、興味深い伝統行事が伝えられています。
33年に一度の、朝日観音・福通寺の秘仏本尊御開帳の時に、日吉神社仏像群が輿や担架に乗せられ、内郡集落の人々によって観音堂まで運ばれ、ゆかりの諸仏が一堂に会するというのです。

33年に一度、福通寺に運ばれる日吉神社の諸像
33年に一度、福通寺に運ばれる日吉神社の諸像

そのような行事が伝えられる事由は、明確ではないようですが、福通寺が日吉神社の神宮寺で、大日如来像は福通寺の旧本尊であったのではないか、とも考えられるかもしれないそうです。


何しろ、越前の古仏は、他の地域と較べて、神社に祀られているものが大変多いのです。
明治の神仏分離の際、
神仏習合の仏像が、破却されず、寺に移されたりせずに、神社に残された。
観音堂・薬師堂のような村堂が、明治時代に神社に衣替えした、または合併した。
等の事由によるようですが、
越前では、後者のケースが多いのだということだそうです。



【現存最古の三所権現・本地仏を、特別拝観~白山信仰へ想いを致した大谷寺】


大谷寺は、泰澄大師の開創と伝えられる、白山信仰、修験の霊場であった古刹です。
大谷寺は、「おおたんじ」と読みます。

大谷寺
大谷寺

大谷寺といえば、神仏習合の本地仏、三所権現像です。
大谷寺・三所権現像は、十一面観音・阿弥陀如来・聖観音の各坐像の一具像です。
白山信仰上の三尊一具の本地仏としては、最古の遺例の古仏で、平安後期の制作です。
この三所権現像は、秘仏として、収蔵庫内に祀られているのですが、お訪ねした処、ご住職の特別のご配意により、拝観することが叶いました。

収蔵庫に並んで祀られる三所権現像は、流石の像でした。
平安後期らしい造形ですが、入念に造られた像であることが伺え、なかなか見事な像です。

収蔵庫に祀られる大谷寺・三所権現像
収蔵庫に祀られる大谷寺・三所権現像

大谷寺三所権現・十一面観音像
大谷寺三所権現・十一面観音像

収蔵庫内には、三所権現像のほかにも、多くの仏像が安置されており、それぞれに興味深い古仏でしたが、此処でふれるのはやめておきます。



【神社に祀られる平安古仏像を巡る~越前に数多い、お社で守られる古仏像】


その他、杉杜神社、十二社、樺八幡神社に祀られる平安古仏を拝しました。
それぞれに、見どころある平安古仏でした。

杉杜神社、十二社は、地区管理の小さなお社で、村人に大切に守られてきた古仏です。
集落と共に在り、土地の人々を守る古仏であることを、実感しました。

十五社
十五社

十五社・大日如来像
十五社・大日如来像

十五社・阿弥陀如来像
十五社・阿弥陀如来像


樺八幡神社は、杉林の中の境内にいつくかの社殿が建ち、静寂荘重な空気感あふれる処でした。

樺八幡神社境内
樺八幡神社境内

樺八幡神社本殿に祀られる、阿弥陀如来像他諸仏
樺八幡神社本殿に祀られる、阿弥陀如来像他諸仏

ご高齢の御宮司さんが、丁寧にお迎えいただき、往時をしのぶ立派な平安古仏を拝することが出来ました。
社殿等には、傷みも目立つようで、これだけの社殿、神域を維持管理するのは、文化財保護予算がままならぬ中で、並大抵のことではないのだろうと察せられました。



【巨大な宗教都市、白山信仰の往時を偲ぶ、平泉寺白山神社へ】


越前観仏旅行のフィナーレは、白山信仰の象徴ともいえる平泉寺白山神社です。

平泉寺は、霊峰白山の越前側の登拝口に位置した山岳寺院で、養老元年(717)に泰澄大師によって開かれたとされます。
古代から中世後期にかけては、白山信仰を背景に強大な宗教勢力を誇りました。

白山連峰を望む
白山連峰を望む

現在では、わずかに往時を偲ぶほどの境内域になっていますが、かつての境内全域は「白山平泉寺旧境内」として国の史跡に指定され、発掘作業などが進められています。



【穏やかな気品漂う、平泉寺観音堂・聖観音像】


平泉寺白山神社を訪ねる前に、近くの観音堂に祀られる、平安後期の聖観音像を拝しました。
平泉寺からちょっと離れた集落の中の小さな観音堂に、ひっそりと祀られていました。

平泉寺・観音堂

平泉寺観音堂・聖観音像
平泉寺観音堂と聖観音像

もともと平泉寺に祀られていた観音像であったとのことで、比叡山横川中堂の聖観音像を思わせる、穏やかで気品漂う、見事な仏像でした。



【幽玄、森厳な霊域、平泉寺白山神社~越前観仏のフィナーレに相応しい、心洗われる空間】


平泉寺白山神社は、まさに、幽玄、森厳な雰囲気、空気感に包まれた場所でした。

平泉寺白山神社

平泉寺白山神社
平泉寺白山神社

鬱蒼と茂る杉林の木立、緑の絨毯が敷かれたような苔むす境内、白山信仰の歴史を感じる石畳の参道、そのなかに佇む社殿、いずれもが、霊域である「静寂」の世界を醸し出しているようでした。
鳥居をくぐったとたんに 霊峰白山を拝する異空間に踏み入ったような気分になってしまいます。
心洗われるものがありました。
一度は訪ねてみたい、また訪ねる値打ちのある、平泉寺白山神社でした。

大満足で充実の越前観仏探訪旅行となりました。
2泊3日で出かけた値打ち十分です。
越前地方の仏像は、さほど知られていませんが、奥深いものがあり、まだまだ未発掘の古仏もあるようです。

ただ一つ残念だったことは、越前を代表するといわれる平安前期の古仏、二上観音堂・十一面観音像を、拝せなかったことです。
厳重な秘仏のため、拝することが叶いません。(展覧会でも、写真展示でした)

二上観音堂・十一面観音像
二上観音堂・十一面観音像

何年先になるのかわかりませんが、御開帳の時には、もう一度、越前観仏に訪ねてきたいものです。



【九品仏浄真寺で開催された、講演会「仏像修理物語」へ】


世田谷の九品仏浄真寺で、「仏像修理物語~九品仏阿弥陀如来坐像修理の実際~」と題する講演会が、11/26に開催されましたので、行ってきました。

観仏先リスト08「浄真寺九品仏」

世田谷区主催の文化講演会で、講師は、現在、九品仏の修理修復にあたっている、美術院西洞院工房長の八坂寿史氏です。
約1時間にわたって、八坂氏から、九品仏の修理修復にあたっての修理技法に関する話、新たに発見されたこと、ご苦労話などなど、熱のこもったお話を、興味深く聴くことが出来ました。

講演会の後、修理のなった中品中生像、修理前の諸像を拝しましたが、こうした貴重な話を聞いた後に拝すると、いつもとは違う、新たなる眼で、奥深く拝することが出来ました。

修理修復成った、浄真寺九品仏・中品中生像
修理修復成った、浄真寺九品仏・中品中生像

浄真寺・九品仏像
浄真寺・九品仏像


[12月]

いよいよ、今年も終わりの師走です。


【ゆっくり、のんびり、京都東山で忘年観仏】


同好の方々と、一年の納めの忘年観仏ということで、京都まで出かけました。

観仏先リスト(同聚院他)

東山方面の古仏などなどを、ゆったりとめぐりました。

同聚院・不動明王像、即成院・二十五菩薩像など、今更、ご紹介するまでもない、大変有名な仏像ばかりです。
私も、何度訪ねたのか、数え切れません。
どちらのお寺も、京都にしては、訪れる人も少なく、ゆっくりと心静かに古仏を拝することが出来、お気に入りの場所です。

同聚院・不動明王像は、藤原道長造営の法性寺の五大堂に安置された像とみられ、仏師・定朝の父か師の康尚の制作であろうといわれています。

同聚院

同聚院・不動明王像
同聚院と不動明王像

像高、2m半余りの丈六坐像で、見上げるばかりの大きさに圧倒されてしまいます。
不動明王像としては、11世紀冒頭の制作らしい、穏やかで落ち着いた造形なのですが、その存在感をひしひしと感じます。
いつ拝しても、なかなか優れた像だという気持ちになります。


夜の忘年会は、京都駅のちょっと南、東寺道のイタリアン「テラス」で。

東寺道・イタリアン「テラス」
東寺道・イタリアン「テラス」

こじんまりした、ちょっとお洒落でカジュアルな、お手軽イタリアンです。
賑やかに、美味しく食べて、ワインも飲み過ぎてしまいました。



【横浜市文化財に新指定という話にビックリ!~松陰寺の小金銅仏、阿弥陀如来像】


師走も半ば、今年の観仏ももうおしまいと思っていたら、横浜市都筑区の横浜市立歴史博物館に、松陰寺の小金銅仏、阿弥陀如来坐像が展示されているという情報を、NETで知りました。

観仏先リスト10「松陰寺」

「平成28年度横浜市指定・登録文化財展」に、新たな市指定文化財として出展されているというのです。

横浜市歴博・新指定文化財展
横浜市歴博・新指定文化財展

松陰寺の古代小金銅仏・阿弥陀像は、それなりに世に知られた像ですので、「横浜市・新指定文化財展」への出展というのは、ちょっとビックリしてしまいました。
昔から重要文化財に指定されていると思い込んでいたのですが、なんと、これまで全くの無指定の小金銅仏像だったのです。

早速、横浜市歴博へ出かけて、じっくり観てきました。

松陰寺・阿弥陀如来像
松陰寺・阿弥陀如来像

戦後すぐ、昭和22年(1947)以来、東博に寄託されています。
これまでの解説では、「奈良時代末期~平安初期の、白鳳小金銅仏の模古的な像」といわれていたのですが、展示解説では、「飛鳥時代後期、8世紀初め頃に作られたと推測される。」とされていました。

私の素人目には、全体の造形感覚、ねっとりとややクセのある衣文などから、奈良時代の中期を遡ることは無いのではなかろうかと、感じました。
松陰寺・阿弥陀如来像、これから指定ランクがどんどんアップしていくのではないかと思います。



【観仏、年納めは東博で~平常展示の、平安前期、東博蔵・天王像に注目】


2016年の観仏納めは、東京国立博物館になりました。
「臨時全国宝物取調局の活動~明治中期の文化財調査」という特集展示が開催されています。
私の、関心興味の大変強いテーマの企画展です。
12/20に、「明治20年代の文化財調査」と題するギャラリートークがありましたので、聴きに出かけました。

ついでに、 特別展「平安の秘仏~滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」も、2度目になりますが、じっくり鑑賞してきました。

いつものことで、1F11室の彫刻の平常陳列にも寄ってみました。
日頃見ない、ちょっと面白い平安古仏が展示されていました。

観仏先リスト11「東博蔵・天王像」

東京国立博物館蔵・天王像

東京国立博物館蔵・天王像
東京国立博物館蔵・天王像

キャプションをみると「天王立像・9~10世紀」と記されていました。
東博所蔵像のようです。
あまり類例の無いような、体躯の造形、面貌の像です。
なかなか、ダイナミックで迫力ある、興味深い一木彫像でした。



ようやく、2016年の観仏、総まくりのご紹介を終えることが出来ました。
なんのかんのといいながら、随分、数多くの観仏に出かけてしまいました。
「飽きもせず!」とは、よく言ったものです。

ダラダラ長々、一年の観仏探訪記録を自己満足的に綴らせていただきました。
辛抱してご覧いただき、ありがとうございました。


今年も、HP「神奈川仏教文化研究所」、ブログ「観仏日々帖」に、気ままな仏像記事を連ねていきたいと思っております。
よろしくお付き合いいただけますよう、お願いいたします。


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