観仏日々帖

古仏探訪~「洛中の三つの平安古仏」京のかくれ仏探訪⑩・・・・・・【双林寺・薬師如来像、西光寺・阿弥陀如来像、六道珍皇寺・薬師如来像】


「京のかくれ仏探訪」も、いよいよ第10回になりました。

ご紹介する、魅力ある「かくれ仏」のネタも、そろそろ尽きてきましたので、この連載も、今回でおしまいということにさせていただきたいと思います。



【最終回は、洛中の三つのお気に入りの如来像をご紹介】


最終回は、洛中にある3つの如来像をご紹介します。

双林寺・薬師如来像、西光寺・阿弥陀如来像、六道珍皇寺・薬師如来像です。

この3躯の如来坐像は、洛中、京都市街にある仏像の中でも、私の大変お気に入りの平安古仏です。
これらの像は、平安中期までの像で、全て重要文化財に指定されていますので、仏像愛好者なら、ご存じなのではないかと思いますが、

「京都市中の、あまり有名ではないけれども、お気に入りの平安古仏」

ということで、三つまとめてご紹介して、最終回としたいと思います。

割合と知られている仏像かと思いますので、ご紹介はごくごく簡単に、ということにさせていただきたいと思います。




1.東山区・双林寺の薬師如来像


まずは、東山区にある双林寺の薬師如来像のご紹介です。
写真をご覧ください。

双林寺・薬師如来像
双林寺・薬師如来像

堂々たる平安前期の薬師坐像です。
像高85.4㎝、カヤ材の一木彫像で、平安前期、9世紀の制作といわれており、重要文化財に指定されています。



【穏やかなのに、神秘的呪力を漂う微笑み】


太造りで首が短く、顔の幅も肩幅も広くて、骨太な量感、安定感を感じます。
本堂で、この薬師像を拝して、一番印象的だったのは、お顔の表情でした。

双林寺・薬師如来像~顔部
双林寺・薬師如来像~顔部

太い鼻梁で、口元にわずかに微笑みをたたえているのですが、その微笑みが、あやしく無気味な感じがするのです。
森厳というのではなく、一見、穏やかそうな表情なのですが、呪術的な霊力が漂っているようで、強く惹きつけられるものがあります。
拝したとき、「穏やかなのに、漂う神秘的呪力」といった雰囲気をに包まれたのを、忘れることが出来ません。


解説書などによりますと、この双林寺・薬師如来像は、いわゆる「天台薬師」と称される仏像の一例とされています。
「天台薬師」とは、延暦寺根本中堂に祀られたという、伝教大師最澄自刻の根本像をはじめとする3躯の薬師像と一組の七仏薬師像の模刻とみられる仏像のことです。
天台薬師像は、造形的特徴と共に、肉身部が金色、衣部が朱色という「朱衣金体」とされていますが、双林寺・薬師像も、朱衣金体に造られています。

本像の、呪術的な無気味さは、初期の天台密教の山岳信仰的な要素を、色濃く伝えているのかもしれません。

浅湫毅氏は、本像の制作時期について、

「量感豊かな体躯の表現や、膝元の荒々しい衣文線など平安前期彫刻の特徴を示し、様式的に近い作例としては、八幡市・神応寺の行教律師坐像(重文)が挙げられよう。
寺伝では最澄自刻像というが、遅くとも9世紀にまでさかのぼるものであることは間違いない。」
(「最澄と天台の国宝展」図録解説2005)

と、述べています。

神応寺・行教律師像.双林寺・薬師如来像~側面
(左)神応寺・行教律師像、(右)双林寺・薬師如来像~側面


【めずらしい、胸の側からの内刳り~霊木像か】


もう一つ、大変珍しいのは、本像は背中側からではなく、胸の側から内刳りがなされていることです。
木彫像の内刳りは、背中側から行うのが普通ですので、稀な例だと思います。

内刳りの後には、20cm強四方の蓋板が矧ぎ付けられています。

双林寺・薬師如来像~胸から内刳りされ蓋板が填められているのがわかる
双林寺・薬師如来像~胸からの内刳に、蓋板が填められている痕跡が見える

きっと胸のあたりに、ウロとか節があったのだろうと思われます。
わざわざそんな材を用いたというのは、霊木から彫られた像だからなのでしょうか?

この双林寺・薬師如来像については、本HPの「貞観の息吹3~双林寺・薬師如来坐像」に、採り上げられていますので、そちらもご覧ください。



【円山公園の南に、ひっそり佇む双林寺】


さて、ご紹介の双林寺は、東山区下河原鷲尾町という処にあります。
円山公園の南側といった方が、よく判ると思います。

双林寺は、西行法師が、

「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」

の歌を、境内の桜の下で詠んだと伝えられ、一般には、薬師如来像よりも、そちらの方で知られているお寺です。

祇園から歩いて数分という場所にあるのですが、観光の人が訪ねるということはほとんどなく、丸山公園の裏手にひっそりと静かに佇んでいます。

円山公園の南にひっそり佇む双林寺
円山公園の南にひっそり佇む双林寺

私は、10年以上前に、二度ほどお訪ねしましたが、石材屋さんの奥の方の目立たないところに隠れるようにお寺があって、捜してやっと行きつきました。

本堂にお祀りされた薬師如来像を、御開扉いただき、眼近にじっくり拝することが出来ました。

双林寺・本堂
双林寺・本堂

小さな像ですが、一目拝しただけで、存在感を発散しているのを感じます。
ちょっと無気味な微笑みの神秘的呪力漂う、心惹かれる仏像でした。

京都祇園のごく近くに、こんな素晴らしい、9世紀に遡るという平安前期の仏像が残されているのに、本当にびっくりしました。

双林寺・薬師如来像
双林寺・薬師如来像

本像は、2005~6年に京博と東博で開催された「最澄と天台の国宝展」に出展されましたので、その時にご覧になった方もいらっしゃることと思います。
私の記憶では、近年は、この時しか寺外に出たことがないと思います。

ここまでご紹介しておいて、はしごを外すようですが、この薬師如来像、現在は、公開されていないようです。
かつては、お願いすれば拝観することが出来たのですが、残念なことです。

忘れがたい心に残る仏像で、また一度、じっくり拝することが出来る機会があればと念じています。




2.右京区・西光寺の阿弥陀如来像


次は、右京区太秦多藪町の、西光寺の阿弥陀如来像をご紹介します。

この西光寺に、平安前中期の見事な阿弥陀如来像があるのは、意外に知られていないのではないでしょうか。

西光寺・阿弥陀如来像
西光寺・阿弥陀如来像

像高95.1㎝、一木造りの漆箔像で、重要文化財に指定されています。



【落ち着いた茅葺き門に、静謐さが漂う西光寺】


私が、西光寺を訪ねたのは、10年ほど前、2007年のことでした。

阿弥陀如来像の写真を本で見て、
「これはなかなかに見事な仏像だ、是非一度拝してみたい。」
そう感じて、出かけたのでした。

西光寺は、有名な広隆寺の近く、広隆寺山門から西へ200メートルほど行ったところにあります。
道を往くと、萱葺きの門が見えてきます。

西光寺の見事な萱葺きの表門
西光寺の見事な萱葺きの表門

そこが西光寺で、町中にある小さなお寺です。
萱葺きの表門は、落ち着いて趣があり、塵一つなくきれいに掃き清められ、静謐な雰囲気が漂います。
門前に立つと、シャキッと背筋が伸びるような気持ちになります。

この西光寺は、法然上人の没後に、山門の徒が専修念仏の興隆をねたみ、大谷廟所を破却したとき(嘉禄3年・1227)、門徒たちが上人の遺骸を、8ヶ月間、移し置いた遺跡の地にあたるそうです。。
めざす阿弥陀如来像も、法然上人の念持仏であったと伝えられています。

西光寺に遺されている、圓光大師・法然上人の石碑
西光寺に遺されている、圓光大師・法然上人の石碑

阿弥陀如来像は、事前にご連絡して拝観のお願いを差し上げると、拝することが出来ます。
御本尊阿弥陀像は、鉄筋コンクリート造りの本堂に祀られており、ご住職のご案内で、眼近に拝することが出来ました。

本堂に祀られる西光寺・阿弥陀如来像
本堂に祀られる西光寺・阿弥陀如来像



【完成度の高さに驚く、まさに秀作像】


期待に違わぬ、見事で素晴らしい仏像です。
1メートル弱の小像ですが、雄大で堂々とした造形感をたたえています。
優れた彫技による、伸びやかな表現力が冴えているという感じでしょうか。

西光寺・阿弥陀如来像

西光寺・阿弥陀如来像
西光寺・阿弥陀如来像

写真で見たときも、大変出来の良い像だと感じたのですが、直に拝してみると、まさに秀作に間違いないと実感しました。
9世紀末から10世紀の制作といわれています。
この時期の像で、これだけ完成度が高い造型の仏像は、なかなかないのではという気がします。



【思い浮かぶのは、清凉寺の阿弥陀如来像】


そして、この阿弥陀像を拝してると、清凉寺の国宝・阿弥陀如来像の姿が、思い浮かんできます。

清凉寺・阿弥陀如来像
清凉寺・阿弥陀如来像

清凉寺の阿弥陀像は、源融の山荘であった寺、棲霞寺阿弥陀堂の本尊であった像で、寛平8年(896)に造立された阿弥陀像です。
この清凉寺阿弥陀像三尊像は、9世紀末では、最高級レベルの出来の秀作仏像だと思っているのですが、西光寺像は、その系譜にあることを感じさせるのです。
清涼寺像よりは、少し穏やかさがみられるようですが、出来の良さでは近いものがあるといえそうな造形です。

伊東史朗氏も、清凉寺阿弥陀像との関連に言及し、このように述べています。

「重量感ある体躯で、眦(まなじり)が長く、唇には独特の抑揚があり、衣文は鎬を残しながら硬い。
・・・・・・・・
全体として、仁和寺阿弥陀如来像(888年頃)や、棲霞寺阿弥陀如来像(896年頃)のもつ、硬化した乾漆的表現に近く、同じ性質のものと見られる。」
(「日本古寺美術全集9巻・神護寺と洛西洛北の古寺」1981年・集英社刊)


清凉寺・阿弥陀如来像~顔部.西光寺・阿弥陀如来像~顔部
(左)清凉寺・阿弥陀如来像、(右)西光寺・阿弥陀如来像~顔部

西光寺の阿弥陀如来像、私は、京都市中の仏像の中でも、なかなかの秀作として指折りの像に入ってもよいのではないだろうかと、秘かに思っています。
私の記憶では、過去、展覧会などに一度も出展されたことがない筈で、それ故、秀作なのに、あまり知られていないのではないでしょうか?

是非一度、西光寺を訪ねられて、この阿弥陀像の素晴らしさを味わってみられることを、お薦めします。




3.東山区・六道珍皇寺の薬師如来像


最後のご紹介は、六道珍皇寺の薬師如来像です。

六道珍皇寺・薬師如来像

六道珍皇寺・薬師如来像
六道珍皇寺・薬師如来像



【凛とした「ますらおぶり」のお顔が魅力の薬師像】


ご覧のとおり、誠に、端正で凛としたお顔の仏像です。
「ますらおぶり」という言葉があたっているのかよく判りませんが、私には、そのような男らしい感覚のする仏様です。
「カッコよくて、鼻筋の通ったいい男」
という感じがするのです。
結構、私のお気に入りの仏像になっています。

像高125.3㎝、平安前期に遡る制作とされ、重要文化財に指定されています。



【盂蘭盆前の「六道まいり」でお馴染みの六道珍皇寺】


この薬師像のある、六道珍皇寺は、「六道さん」の名で、京都人には大変お馴染のお寺さんです。
東山区の東大路松原通を入った、六波羅蜜寺の近くにあります。

六道珍皇寺
六道珍皇寺

京都では、8月の盂蘭盆の前の8月7日から10日に、先祖の御霊をお迎えするために、珍皇寺へ「六道まいり」に参詣する風習があります。
この珍皇寺の辺りは、平安時代には、京の東の墓所であった鳥辺山の麓でした。
俗に六道の辻と呼ばれた葬送の地であったことから、お盆には、冥土から帰ってくる精霊たちは、必ずここを通るものと信じられた事に由来しているそうです。

今でも、六道まいりの日の夜には、参詣の人々で、大変な賑わいとなります。

「六道まいり」の夜の六道珍皇寺
「六道まいり」の夜の六道珍皇寺

「六道まいり」参詣の人々でにぎわう六道珍皇寺境内
「六道まいり」参詣の人々でにぎわう六道珍皇寺境内

お出かけになったことのある皆さんも、いらっしゃるのではないでしょうか。
ご紹介の薬師如来像は、普段は秘仏として公開されておらず、この「六道まいり」の期間に限ってご開帳され、拝観することが出来ます。
近年では、六道まいりの日以外にも、京都非公開文化財特別公開などで、スポット的に公開されることがあるようです。



【思わず惚れ込む、鼻筋の通った端正な目鼻立ち】


私は、六道参りの日に、2度ほど、この薬師如来像を拝することが出来ました。
薬師像は、本堂への参道の右側にある薬師堂(収蔵庫)に祀られています。

薬師如来像が祀られる六道珍皇寺・薬師堂

六道珍皇寺・薬師如来像
薬師如来像が祀られる六道珍皇寺・薬師堂と、薬師如来像

一度は、夜に拝しましたが、堂内の明かりの中に浮かび上がる、薬師如来像の美しいお顔を拝すると、結構惚れ込んでしまいました。

鼻梁が高く鼻筋が通って、奥行きのあるお顔です。

端正な面貌の六道珍皇寺・薬師如来像端正な面貌の六道珍皇寺・薬師如来像
端正な面貌の六道珍皇寺・薬師如来像

頬がちょっとふくよかで、スッキリと清々しい目が、美しさを際立たせています。
「こんな端正な目鼻立ちの男性がいたら、女性にすごくもてるのだろうな!」
こんな、不謹慎な気持ちになってしまいます。

「良いお顔をされている。」
というのは、こんなお顔立ちのことを云うのでしょう。
本当に、出来の良い面貌の像です。

少し穏やかさが匂う面立ちは、平安前期といっても、ちょっと下がる頃の制作かなと、想像させますが、大変出来の良い面貌の像です。



【ちょっと残念~体部は後世の出来の良い補作】


よく見ると、お顔には漆箔のひび割れが結構入っていますが、体部は、光沢のある材で滑らかに仕上げられ、衣文の彫も浅くなっています。

お顔と体部で調子が違う六道珍皇寺・薬師如来像
お顔と体部で、調子が違う六道珍皇寺・薬師如来像

頭部と体部で、ちょっと時代が違うようです。

「仏像集成・第3巻」の解説には、

「本像は本堂の本尊であったが、近年薬師堂の建立に伴い、そちらに移された。
左掌上に薬壺を載せて坐す通形の薬師如来坐像であるが、頭部の平安前期に遡る古様さと、体部の造型感覚は一致せず、中古に体部を補したものと考えられる。」
(吉原忠雄氏解説・1986刊)

と述べられています。

たしかに体部は、後世の補作なのでしょうが、いつ頃、補われたものなのでしょうか?
補作とはいうものの、なかなか上手く造形されているように思えます。
質感は随分違いますが、造形的違和感は、さほどに大きく感じません。
ただ、当初は、もう少しダイナミックな体部、衣文となっていたのかも知れません。


六道珍皇寺の薬師如来像、お顔だけが平安古仏とはいうものの、その端正な面立ちは、十二分にご紹介の値打ちのある平安古仏だと思います。
拝していると、静かで穏やかな気持ちになる、お気に入り仏像です。


「京のかくれ仏探訪」の最終回は、洛中のお気に入りの平安古仏の如来像、三躯を、紹介させていただきました。


全10回、ダラダラと綴ってきましたが、これでおしまいにさせていただきます。
知られざるマイナーな古仏のご紹介でしたが、お付き合いいただき、有難うございました。

それぞれ、京都を訪れたついでに、ふらりと観仏という訳にはいかず、拝観予約等のお願いをしてから訪ねていかねばならない仏像ばかりのご紹介でしたが、それぞれに、個性的で惹き付けられるものを感じる古仏ばかりではないかと思います。

ご関心、ご興味を感じられましたら、一度、訪ねてみられては、如何でしょうか?


新刊案内~「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」 貴田正子著  【2016.10.29】


まさか、まさか! 

こんな本が出版されるとは、思いもしていませんでした。


新薬師寺・香薬師像は、白鳳時代の名品として人々の心を魅了してきました。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~飛鳥園・小川晴暘撮影写真

昭和18年に盗難に遭い、今も、行方知れずとなっています。
まさに、「伝説の白鳳美仏」と云える仏像なのです。

香薬師像の右手先部分は、当時、盗難を免れたものの、その後行方不明となっていました。
その右手先が、70年余を経て行方が判明し、新薬師寺に返還奉納されたというのです。

今般、出版された「香薬師像の右手」という本は、香薬師像の盗難事件の発生から、その後の顛末、今般の右手先の所在の発見までを克明にたどったノンフィクション・ドキュメントなのです。


「香薬師像の右手~~失われたみほとけの行方」  貴田正子著
2016年10月 講談社刊 【243P】 1600円


新刊・香薬師像の右手



【「香薬師像の右手発見」の新聞記事に、ビックリ!】


10月12日、読売新聞の朝刊に、こんなビックリの記事が掲載されました。

「盗難の重文仏像の右手か   新薬師寺に返還  専門家、本物と判断」

という大きな見出しです。

香薬師像右手発見を報ずる新聞記事
香薬師像右手発見を報ずる読売新聞2016.10.12朝刊

新聞記事本文の一部を、ご紹介しましょう。

「奈良市の新薬師寺から1943年に盗まれて行方不明になっている白鳳時代(7世紀半ば~8世紀初め)の仏像の傑作、重要文化財・銅造薬師如来立像(通称・香薬師(こうやくし)像)の右手部分が盗難を免れていたことが分かった。

発見された香薬師像の右手
発見された香薬師像の右手

行方を調査したノンフィクション作家の貴田正子さん(47)が、それに当たるとする右手を確認し、昨年10月に同寺で返還の法要が行われた。
文化庁は科学調査を実施し、本体が未発見のため断定はできないものの、『白鳳時代のものとみて矛盾はない』としている。

新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
新薬師寺・香薬師像~小川晴暘撮影写真
香薬師像は高さ約75センチの金銅製。奈良・法隆寺の観音菩薩立像(通称・夢違観音)や東京・深大寺の釈迦如来倚像と並び、白鳳仏の代表とされる。
明治時代に2度盗難に遭って寺に戻ったが、43年に三たび盗難に遭い、行方不明となった。
右手部分は、最初に盗まれてから寺に戻る間に切断され、発見後に本体とつなぐ補修が行われた。
このため、43年の盗難で本体とともに盗まれたと考えられていた。

貴田さんが調べたところ、43年の盗難時に右手は本体と別に保管されていて盗まれず、一時は警察署が保管していたのを、写真家の小川晴暘が目撃し、随筆に書き残していたことが判明。
その後経緯は不明ながら作家の佐々木茂索(1894~1966)が所持し、後に遺族が神奈川県鎌倉市内の寺に寄贈したという。

12日刊行の貴田さんの著書「香薬師像の右手」(講談社)に書かれている。
・・・・・・・・・・(以下略)」


「そうか、あの香薬師の右手先が見つかって、新薬師寺に戻されたのだ!」

と、ビックリしました。

新聞の見出しが「香薬師像」ではなくて、「盗難の重文仏像」と書かれているのを見て、

「『白鳳の名品・香薬師』といわれても、今や、ピンと来る人があまりいないのか、古い話になってしまったのだ。」

と、妙なところで感心した次第です。

記事には、「香薬師像の右手」という新刊本が出る、と書かれているではないですか。
即座に、書店に駆けつけて購入しました。



【神奈川文化研HPでも採り上げたことのある、香薬師像盗難物語】


実は、私も、新薬師寺・香薬師像の盗難のいきさつなどについて、神奈川仏教文化研究所HPの「奈良の仏像盗難ものがたり~新薬師寺・香薬師如来像の盗難」という連載で、採り上げたことがあるのです。

・失われた香薬師像を偲んで(埃まみれの書棚から・第182回)
・香薬師像盗難事件を振り返る(埃まみれの書棚から・第183回)
・その後の香薬師像あれこれ(埃まみれの書棚から・第184回)

この連載では、
香薬師像が3度の盗難に遭ったことと、盗難事件のいきさつ、
かつての盗難事件の際切断された右手先が盗難の免れたこと、
その後、3体の模造が、盗難前に型抜きされた石膏型から複製制作されたこと
などの話について、綴っています。

ご覧いただけると、盗難事件とその後の顛末の概略が、お判りになると思います。

そんなわけで、私にとっては、「香薬師像盗難事件」について書かれた本となると、興味津々、何をおいても必読という処です。



【香薬師盗難から右手発見までの、真迫のドキュメント新刊本】
~著者20年にわたる執念の追跡の軌跡~

本を手にして、一気呵成に読破しました。
私も、香薬師盗難事件について、結構調べてみたつもりなのですが、全く及びもつかない深く詳しいレベルで、徹底調査、徹底取材された、凄い内容です。
「よくぞ、此処まで調べ上げられたものだ!」
敬服としか、言いようがありません。
ただただ驚嘆、讃嘆の一語に尽きます。
この本を読んで、これまでモヤッと疑問に思っていたことのほとんどが、霧が晴れるようにスッキリわかりました。

著者の貴田正子氏は、ノンフィクションライター。
1993年に、産経新聞社に入社。
新人の地方支局時代に香薬師如来像の石膏複製の取材をしたのをきっかけに、香薬師像の独自取材をはじめ、20年以上にわたり香薬師像の行方を追う取材活動を続けてきたそうです。

そして、取材の果てに、昨年の夏、ついに香薬師の右手を発見。
その執念の取材過程をまとめて上梓したのが、本書「香薬師像の右手」という訳です。

AMAZONには、このように本書の内容紹介がされています。

「奈良・新薬師寺の香薬師立像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作と言われていた美仏。
あまりの美しさから『金無垢でできている』という噂がたち、明治時代に2度盗まれたが、手足を切られ、純金製でないことが分かると2度とも道端に捨てられているのが発見され、寺に戻った。

そして昭和18年、3回目の盗難に遭う。
『国宝香薬師盗難事件』は、戦時中の新聞にも報じられ、仏像ファンたちに大きな衝撃を与えた。
2度盗まれて戻ってきた像だったが、今回ばかりは発見されず、未だ行方が分からない。

この行方不明の香薬師を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。
新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査では、まるでミステリー小説を地で行くような展開に。
その結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、『本物の右手』の存在をつかむ……。

美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、衝撃のノンフィクション」

まさにこの内容紹介通りの中身の本で、盗難事件にいきさつや、右手先の追跡発見について、息もつかせずテンポよく読ませます。
流石に、新聞記者出身のノンフィクションライター、惹き込むように読ませる文章で、ミステリー、ドキュメンタリーの世界に浸る気分です。
また、取材したことをライターとして書かれたものではなく、筆者、貴田氏が自らのライフワークとして、執念を以て調査追跡した物語であるだけに、その迫力に胸撃たれるものを感じます。



【香薬師盗難とそれにまつわる話が、見事に網羅された、愛好者必読の書】


本書の目次は、ご覧のとおりです。

香薬師像の右手~目次


この一冊を読めば、香薬師像の盗難事件と、それにまつわるあらゆる話を詳細に知ることが出来ます。
物語の詳しい内容は、是非本書をお読みになってみていただきたいのです。

その中で、私が、とりわけ興味深かった話、新たに知った話のポイントだけを、ここで、ご紹介しておきたいと思います。

香薬師像盗難事件の顛末などについて、ある程度ご存じであることを前提にして、本書を読んで、私が新たに知った話、疑問が晴れた話だけを採り上げてみたいと思いますので、少々マニアックで隘路に入った話になりますが、ご容赦ください。



【発見された右手は、明治33年、1回目の盗難時に切断されたものだった】


第2章の「香薬師盗難事件」についてです。

香薬師像は、明治33年(1900)、明治44年(1911)、昭和18年(1943)の3回、盗難に遭いました。
本書では、この3回の盗難についての顛末が、大変詳しく語られています。
当時の、香薬師の写真、新聞記事、当局に提出された盗難・発見届などが詳細に紹介されており、誠に興味津々です。

3回目の盗難後、現在まで行方不明となっているのですが、その時
「香薬師仏の本体は盗まれたが、右手首と両足は厨子に残されていた。」
と、小川晴暘氏は記しています。
両足は木製の後補ですが、右手先は白鳳当初の本物なのでした。


私がこの盗難事件のいきさつを調べてみたとき、この両足と右手の切断がいつなされたのか、書かれたもので違いがあって、はっきりしませんでした。

もう一つ、不思議に思ったのは、
「どうして右手首と両足は厨子に残されたのだろうか?」
ということでした。
盗賊が香薬師像を乱暴に扱ったので、接合部分が外れてしまったのだろうと思っていました。

本書では、盗難事件の経緯の徹底的な調査によって、この疑問を、見事に解決してくれていました。

右手、両足が切断された時期と状況について、詳しく記されていました。

1回目の明治33年(1900)の盗難時に右手先が、2回目の明治44年(1911)の盗難時に両足先が切断されたというのが、事実だそうです。
2回目の盗難で、右手先が再度切断された後は、右手先と腕は銅板で接合されたということです。

そして、一番ビックリしたのは、昭和17年(1942)に香薬師像の石膏型をとった時、新たに銅で右手、両足、台座を制作し、新造の右手、両足を溶接して香薬師像に接いだのだという、驚きの事実でした。
香薬師像の石膏型をとった話は、この後、ふれさせていただきますが、この話が事実なら、本物の右手は、昭和17年以降、香薬師像とは別に保管されていたのだということになります。

昭和18年に入った盗賊は、新造の右手、両足が接がれた香薬師像を持ち去ったのだということらしいのです。

本書で解明されたこの新事実には、本当にビックリしました。
そして、従来よく判らなかった、ちょっとした疑問がスッキリ解消しました。


3枚の古い写真をご覧ください。

・明治33年の一度目盗難の前にとられたもの(明治21年・1888~小川一眞撮影)
・その後、明治44年の二度目の盗難前にとられたもの(明治41年・1908刊「日本精華第1輯」所載、工藤精華撮影)
・昭和18年の三度目の盗難前にとられたもの(小川晴暘撮影)

この写真をご覧になると、撮影された時期によって、右手の様子、接合の状況が違うのが、お判りいただけるかと思います。


一回目の盗難前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影.明治21年小川一眞撮影写真の右手
1回目の盗難(明治33年)前の香薬師像写真~明治21年・小川一眞撮影
右手に切断痕は見られないが、もともと右手首あたりに傷みはあった様子



明治~大正期の香薬師像写真~工藤精華撮影.工藤精華撮影写真の右手
2回目の盗難(明治44年)前の香薬師写像真~明治41年刊「日本精華第1輯」所載・工藤精華撮影
切断された右手が腕に接合されている痕が判る



昭和~3回目盗難前の香薬師像写真~小川晴暘撮影.小川晴暘撮影写真の右手
3回目の盗難(昭和18年)前の香薬師写像真~小川晴暘撮影写真
再度切断された右手と腕が、銅板で接合されているのが判る



この3枚目の小川晴暘撮影の写真は、石膏型がとられる昭和17年(1942)以前に撮影されたものということになります。

その後に、新造の右手、両足先に取り替えられ、右手はお厨子の中かそのほかの処に別に保管されていたということであったのでしょう。

第2回目盗難後発見時の右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
第2回目盗難後、発見時に撮影された右手が折れた香薬師写真~明治44年撮影
昨年、新薬師寺に保管されていたのが発見された(「香薬師像の右手」所載写真より転載)





【香薬師像の模造・石膏型は、2種類、型抜きされていた~盗難1年前、昭和17年に~】


第4章の「香薬師の複製制作」についてです。

香薬師像は、3体の鋳造模造が残されているのが知られています。
本物と見紛うほどの、素晴らしい出来の鋳造模造です。

香薬師像が3回目の盗難に遭う1年前、昭和17年(1942)に、本物の香薬師から石膏型が型取りされました。
この石膏型から、香取秀真氏により鋳造されたものです。
それぞれ新薬師寺、奈良国立博物館、鎌倉・東慶寺に所蔵されています。

新薬師寺では、境内の香薬師堂に秘仏として祀られています。
東慶寺では、年に一回、期間を限って宝物館に展示されます。
奈良博所蔵像は、2015年開催の「白鳳展」に展示されました。

東慶寺蔵~香薬師像・鋳造模造奈良国立博物館蔵~香薬師像・鋳造模造
香薬師像鋳造模造~(左)東慶寺所蔵像、(右)奈良国立博物館所蔵像

3体の香薬師の模造の存在については、仏像愛好者には、それなりに知られている話だと思います。

佐々木茂索
佐々木茂索氏
この香薬師の模造は、盗難行方不明となった7年後、昭和25年(1950)に、文藝春秋社の社長、佐々木茂索氏が費用全額を負担し、模造鋳造したものです。
佐々木氏が、亡き妻の供養にと、香薬師の模造鋳造を引き受けたのだそうです。
1体は新薬師寺に寄贈され、1体は佐々木茂索氏の所蔵となりました。
本書では、新薬師寺所蔵以外の2体が、現在、奈良博と東慶寺の所蔵となっている経緯についても詳しく語られていました。

それよりも、新たに知ってビックリしたのは、石膏型をとったのは一人ではなく、昭和17年、2人の手によって型取りされていたということが、書かれていたことです。

石膏型をとったのは、竹林薫風氏と水島弘一氏です。
先にご紹介した3体の鋳造模造は、水島弘一氏の手で取られた石膏型によるものだそうです。
竹林薫風氏の石膏型による鋳造模造も存在するそうで、筆者の貴田氏は、竹林型、斎藤明氏鋳造の香薬師模造を、平成25年(2013)に入手されたということです。

筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
筆者貴田氏が入手した香薬師像・鋳造模造~竹林型からの人間国宝・斎藤明氏鋳造
「香薬師像の右手」所載写真より転載


また、鋳造ではなく、石膏像の模造もあるようです。
全く知らなかった、新事実でした。

実は、この石膏型を誰がとったのかという話について、作家の島村利正氏(1912~81)が、自著で、小川晴暘氏がこのように語っていたと記しています。
島村氏は、小川晴暘氏が経営した飛鳥園で働いていたことがある人です。

「香薬師は、わたし(小川晴暘のこと)が箔抜きしてありますから、複製で原型を偲ぶことが出来るかもしれません。・・・・・・」
(「宝冠」・単行本「霧の中の声」所収、1982.3新潮社刊)

貴田氏は、本書で、
「飛鳥園にも、小川晴暘所蔵の香薬師石膏像があった。
水島型から抜いたものかもしれない。」
と述べられていますが、そのことをさすのかもしれません。

私は、てっきり小川晴暘の語った箔抜きというのが、3体の模造鋳造の元型だったのだと思い込んでいたのですが、そうではなかったようです。



【香薬師・右手は東慶寺にあった~新薬師寺から佐々木氏の手に、遺族が東慶寺に奉納】


第6章の「香薬師像の右手」についてです。

いよいよ、香薬師像の右手発見の物語です。
結論からお話しすると、「香薬師像の右手」は、鎌倉の東慶寺に所蔵されていたのでした。

貴田氏が、右手を発見するまでの顛末を簡単にまとめると、次のとおりです。

「香薬師像の右手」は、新薬師寺でも、盗難後、右手が残されていたことを知る人もいないほどに、忘れ去られていました。

近年、新薬師寺の現住職、中田定観氏が、東京芸大名誉教授の水野敬三郎氏から、
「昔、香薬師の右手を見たことがある」
という話を耳にします。

貴田氏は、この話を受けて水野氏を訪問、
「昭和37年頃、水野氏は、久野健氏と共に、佐々木茂索氏宅で香薬師の右手を実見し、写真も撮影した。」
という事実を知ります。
早速、佐々木家を訪ねますが、香薬師に右手は、佐々木家には残されていませんでした。

貴田氏は、この情報をベースに右手の行方を追跡、ついに、現在、東慶寺に所蔵されていることを突き止めたのです。
佐々木茂索氏が所蔵していた香薬師像の模造が、佐々木氏没後、平成4年(1992)に東慶寺に寄贈されていることから、佐々木氏旧蔵の「香薬師の右手」もまた、東慶寺に奉納されているのではないかと推測したのでした。

貴田氏と新薬師寺が、東慶寺に丁重にお尋ねした処、果たして、「香薬師の右手」は、東慶寺で預かられていました。
香薬師模造の東慶寺への寄贈の8年後、平成12年に佐々木家から奉納されていたのでした。
香薬師右手が納められた箱蓋には、、
「新薬師寺香薬師御手也 故有テ昭和廿五年首夏此箱ヲ造リ奉安ス」
と箱書きがされていました。

香薬師像の切断された右手に間違いないとみられるものでした。


桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手

佐々木氏による由緒書が記された箱の蓋
桐箱に納められ、東慶寺に保管されていた、香薬師像右手~箱の蓋に佐々木氏による由緒書が記される
「香薬師像の右手」所載写真より転載



「香薬師像の右手」は、その後のやり取りを経て、東慶寺、佐々木家から新薬師寺に戻されることの快諾がえられ、65年ぶりに、元の新薬師寺に帰還することになったのでした。

昨年(2015)10月、新薬師寺に於いて、香薬師像の右手の返還を報告する法要が厳粛に執り行われたということです。

誠に数奇な運命の物語といってよいものでしょう。

「香薬師の右手」は、どうして佐々木茂索氏のもとに所蔵されていたのでしょうか?
きっと香薬師像の模造鋳造が行われ、新薬師寺にその1体が寄贈された時に、新薬師寺から謝意の意味もあって佐々木氏に贈られたのではないでしょうか?

東慶寺のHPに、香薬師如来像・模造についての解説ページがありますが、そこには模造制作のいきさつが、このように記されています

「(香薬師像が盗難行方不明となり・・・・)
時の住持の悲嘆を見かねて、東大寺の上司海雲師が文芸春秋・社長佐佐木茂索氏に話し、
氏もこれに同情し、幸いに寺にこの立像の石膏模型のあるのを利用し、昭和25年に3体の模造を鋳造、
一体を新薬師寺に寄贈し一体を国立博物館に、もう一体を佐佐木家に所蔵したが、
佐佐木茂索27回忌に東慶寺に寄贈された。」

この時の模造鋳造費用は、全額佐々木氏が負担していますので、新薬師寺からお礼の意味も込めて、香薬師の右手が佐々木氏に贈られたとしても、不思議なことは無いように思えます。

この解説は、久野健氏によって書かれたものです。
水野敬三郎氏と共に、佐々木氏宅で「香薬師像の右手」を見たという、久野氏です。


余談ですが、「香薬師像の右手」が、佐々木茂索氏のもとにあることは、仏教美術関係者の間では、「知る人ぞ知る」といった話なのではなかったかと思われます。

実は、この神奈川仏教文化研究所HPの、「盗難文化財の歴史」のページに、新薬師寺・香薬師像盗難の話が短く載せられています。

そこには、
「右手首は、新薬師寺から譲られた某氏が所蔵している。」
と記されています。

この文章を書いたのは、HPの前管理人(故人)です。
久野健氏とも親交のあった人でしたので、香薬師の右手を佐々木茂索氏が所蔵しているのを、久野氏から聞いて知っていたのではないでしょうか?


ちょっと、長々と、マニアックな細かいことを書き連ねてしまいました。
私の大変興味深い分野の話でしたので、話がついつい、隘路に入ってしまいました。

こんな細かい話はさて於いて、本書

「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方」貴田正子著

は、誠に興味深い本です。
是非、ご一読をお薦めします。

香薬師像を巡る数奇な物語に、みるみる惹きこまれてしまうのは、間違いありません。
若き日の出来事から「香薬師像の虜」になった貴田氏の、香薬師像への思慕と、右手の行方追跡への深き思いが伝わってくるノンフィクションです。


いつの日にか、香薬師像そのものが発見される日が来ることを、願うばかりです。


古仏探訪~「上京区西陣・雨宝院の千手観音像」京のかくれ仏探訪⑨  【2016.10.15】


6月からご紹介してきた「京のかくれ仏探訪」ですが、そろそろネタも尽きてしまいました。

今回ご紹介するのは、「かくれ仏」などと呼べるものではなくて、それなりに知られた仏像ですので、今更、ご紹介するほどでもないのですが、
「京都市中の、私のお気に入り平安古仏を、ちょこっとご紹介」
ということで、お付き合いいただければと思います。



上京区にある、雨宝院の千手観音像です。

拝された方も、多くいらっしゃるのではないかと思います。

雨宝院・千手観音像

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像


この千手観音像、私の結構なお気に入りで、京都へ出かけて時間の余裕があると、ついつい拝しに寄ってしまいます。
かれこれ、もう10回近く、この千手観音を拝しに、雨宝院を訪れたのではないでしょうか?



【京都・西陣の町のど真ん中、ひっそりたたずむ雨宝院】


雨宝院は、「上京区智恵光院通上立売上ル聖天町」という長々しい町名の処にあります。
「西陣」のど真ん中といった方が、判りやすいのではないかと思います。

西陣織の帯の老舗で知られる「渡文(わたぶん)」の店を活用した、西陣織紹介の「織成館(おりなすかん)」は、雨宝院のごく近くです。
余談ですが、この「織成館」は、西陣織の世界を体感できる、一押し、お薦めの織屋建築ミュージアムです。

西陣「織成館」

西陣「織成館」
西陣「織成館」

雨宝院は、ちょっとわかりにくい路地を入った処にひっそりと在る、小さなお寺です。
表門に「西陣聖天、大聖歓喜天」と書かれた、真っ赤な提灯がかかっているのが目印です。

雨宝院・表門
雨宝院・表門

この雨宝院は、地元では
「西陣の聖天さん、花の寺」
として知られ、親しまれています。
桜の季節には、京の隠れた桜の名所として、賑わうそうです。

本尊・歓喜天が祀られる雨宝院・本堂
本尊・歓喜天が祀られる雨宝院・本堂

満開の雨宝院境内の桜
満開の雨宝院境内の桜

御本尊は歓喜天で、ご紹介の千手観音像の方は、一般には、あまり知られていないと思います。千手観音像は、境内の観音堂に祀られています。

雨宝院・観音堂
雨宝院・観音堂

像高211.5㎝という堂々たる一木彫像で、平安時代の制作、重要文化財に指定されています。
頭体の根幹部をー木から彫出し、背中と腰から裾にかけて二か所から内割りを行い、背板があてられています。
漆箔像ですが、薄く木屎漆のモデリング(乾漆)がされている可能性があるようです。

雨宝院の歴史や、千手観音像の概要などについては、本HPの
「貞観の息吹4~雨宝院・千手観音像」
に高見徹氏が紹介、解説されています。
ここでは、これ以上ふれないでおきますので、是非、そちらをご覧いただきたいと思います。



【昭和初期「京都市中から、忽然として発見された霊像」】


この千手観音像を、最初に拝したのは、14~5年前のことであったと思います。
薄暗いお堂になかで、この像を拝したとき、西陣の町中の小さなお寺に、こんな量感豊かな堂々たる観音像が遺されていたのだと、ビックリしました。

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像
ただ、この観音像の、伝来などについては、全く不明なのだそうです。

「昭和10年代に、京都の市中から、忽然として発見された霊像である。」

日本古寺美術全集(第25巻)には、このように紹介されています。

実際には、

「昨年(昭和17年・1942)来行われていた、京都府の寺宝調査に際し、赤松俊秀氏が境内の観音堂から稀に看る優秀な千手観音を発見せられ、学会の斉しく注視するところとなった。」
(「別尊京都仏像図説」美術史学会著、1943年一條書房刊)

ということで、世に知られるようになったのでした。

この雨宝院の千手観音像は、長らく厳重な秘仏として祀られていたのでした。

昭和17年(1942)の調査で発見されるまでは、全くその存在を知られていなかった仏像であったのでした。
発見後も、引き続き、一般の拝観は、難しかったようです。
ご住職に伺ったお話では、先代のご住職は、厳格な方で、この千手観音像を厳重な秘仏として、大切に守られて来たそうです。
先代に時代には、拝観は全く叶わなかったということでした。
現在のご住職になられてからは、事前に連絡をしてもらえれば、拝観してもらえるようにされているとのことでした。

このように長く秘されてきた観音像で、現在でも大切に祀られていますので、これまで一度も博物館等に出展されたことがありません。
それゆえに、これだけの優作が、意外に知られてこなかったのだと思います。



【第一印象では、さほどに強く惹き付けられなかった千手観音像】


14~5年前、この雨宝院の千手観音像を、はじめて拝したときの第一印象は、
「なかなか立派な平安古仏、造形表現が興味深い。」
といった、割合に淡々としたものであったように思います。

立派な仏像だなと思いましたが、強く惹きつけられる魅力は、さほどは感じなかったというのが、正直な処でした。

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像~上半身

体躯のボリューム感は十二分で平安前期風なのですが、ややずんぐりというか鈍重な感じがします。
ボリュームはあるのですが、強い迫力で訴えかけてくるというのではなくて、肥満という方に近いようにも思えました。
一方で、お顔の表現が「温和、穏やか」で、平安も中頃のような雰囲気です。
面貌と体躯がミスマッチという違和感の印象があったのも事実でした。

先ほどご紹介した、高見徹氏の文章でも、
「本像に見られる、正面観、特に面相の柔らかさと 重厚な側面観の違和感は、あるいは後世の彫り直しによるものかもしれないが、工房組織の発達と無関係ではないと思われる。」
と、ミスマッチ感が指摘されています。



【拝するたびに惚れ込んで、大のお気に入りとなった千手観音像】


雨宝院・千手観音像とのはじめての出会いの印象は、このようなものであったのですが、一方で、なかなか興味深い平安古仏として、心に残る仏像でありました。
そして、京都を訪れ時間の余裕があると、ついつい気になって、雨宝院に足を向けるようになりました。

何度か拝しているうちに、この千手観音像が、だんだん好きになってきました。
訪れるたびに、観れば観るほどに、心惹かれる魅力を感じるようになってきました。
この独特の存在感は、ただものではありません。
拝すれば、拝するほどに、惚れ込んでしまうようになりました。

雨宝院・千手観音像
雨宝院・千手観音像

ちょっと一般受けしない仏像なのかなと思うのですが、堂々たる優作といって間違いない像だと思います。
今では、すっかり、私のお気に入りの仏像になってしまったという訳です。



【三つの時代の造形の特徴が、混在同居する優作仏像】


この観音像、じっくり拝していると、いろいろな時代の要素が、混在同居していることに気が付きます。
造形表現の特徴を、一言にまとめると、こんなところでしょうか?

・奈良時代の乾漆像にみられる、まろやかな造形表現
・平安前期風の、極端ともいえるボリューム感ある肥満した肉体表現
・平安中期頃から見られる、穏やか、温和な表情の面貌表現

これら、三つの時代の特徴が、何故か同居しているように思えるのです。

全体の表現は、乾漆像を思わせます。
とりわけ腰から下の衣文の表現は奈良時代の乾漆像そのものといった感じで、東大寺三月堂・不空羂索観音像や、聖林寺・十一面観音像のそれにつながるものです。

雨宝院・千手観音像脚部の奈良風の衣文
雨宝院・千手観音像脚部の奈良風の衣文

聖林寺・十一面観音像の脚部の衣文.聖林寺・十一面観音像の脚部の衣文
(左)東大寺三月堂・不空羂索観音像・(右)聖林寺・十一面観音像の脚部の衣文

奈良風の継承仏像かなと思うと、そうでもなくて、平安前期像特有の、肥満とも云えるような豊かなボリューム表現に驚かせられます。
何もかもが、太っといのです。

太くてボリューム感ゆたかな腕の雨宝院・千手観音像
太くてボリューム感ゆたかな腕の雨宝院・千手観音像

腕っぷしの太さも相当なものですが、側面から見た腰回りの分厚さは、並大抵のものではありません。
ここまでの度過ぎたような腰の太さの像は、平安前期像でもそう見たことはありません。
なかなか魅力的な腰回りです。

ところが、お顔に目を向けると、奈良時代風でもなく、平安前期の森厳さや妖艶さも感じません。

「温和、柔和、穏やか」

こんなキーワードが似つかわしいお顔をしています。

雨宝院・千手観音像顔部~平安中期の温和さを示す平安中期を思わせる温和さを示す顔貌の雨宝院・千手観音像
平安中期を思わせる温和さを示す顔貌の雨宝院・千手観音像

このお顔は、どう見ても、平安の中期頃を思わせる表情です。
早くて9世紀の終わり、一般には10世紀に入ってからの顔貌表現だと思いうのです。

はじめて拝した第一印象のミスマッチな違和感は、こんなところからくるものだと思います。



【興味深い専門家の解説~奈良様伝統を、和様の展開に繋げる注目の仏像】


専門家の解説も、こうした点に注目したものになっています。

「雨宝院千手観音像に就いて」という論文を執筆している大宮康男氏は、このように述べています。

「その様式上の位置づけとしては、まず豊満な肉身表現は、基本的には平安前期、9世紀前半の乾漆系の系譜を受け継ぎながら、下半身の裳の衣文に、8世紀の奈良代の乾漆像にみられる丸い波形の柔らかい衣文表現の造形感覚を取り入れることによって、仁和寺阿弥陀三尊像や棲霞寺阿弥陀三尊像でなし得なかった、重厚でありながら、なおかつ華麗な様式の創出を可能にしたといえよう。」

仁和寺・阿弥陀如来像棲霞寺・阿弥陀如来像
(左)仁和寺・阿弥陀如来像~(右)棲霞寺・阿弥陀如来像

そして、雨宝院像のような、10世紀以降の奈良彫刻への復古、影響を物語る造像例として、六波羅蜜寺・十一面観音像、禅定寺・十一面観音像をあげたうえで、

六波羅蜜寺・十一面観音像.禅定寺・十一面観音像
(左)六波羅蜜寺・十一面観音像~(右)禅定寺・十一面観音像

雨宝院像の彫刻史上の意義と制作年代について、

「10世紀末以降の和様彫刻の成立にとって、8世紀の乾漆系の奈良彫刻は種々の点で、大きな意味をになっていたことがわかる。
その意味で、雨宝院千手観音像は9世紀末から10世紀初頭にあって、奈良彫刻の特色を10世紀以降の日本彫刻史の本筋に取り入れ、和様彫刻の流れを形成するきっかけを提供した作品という意義を認めることが出来ると思う。」
(「雨宝院千手観音立像に就いて」美學 40-2、1989.9)

と記しています。


伊東史郎氏も、同様の観点から、このように述べています。

「こうしたまるみのある量感と襞の表現は、8世紀後半の乾漆像、たとえば聖林寺十一面観音像、京都観音寺十一面観音像などの表現につながるものがあるようである。

聖林寺・十一面観音像.観音寺・十一面観音像
(左)聖林寺・十一面観音像~(右)観音寺・十一面観音像

京都の造仏では、雨宝院像のほか、9世紀前半の広隆寺阿弥陀像や宇治田原禅定寺十一面観音像にも同様の特色が指摘できよう。

広隆寺・阿弥陀如来像
広隆寺・阿弥陀如来像

平安前期から後期に至る彫刻史の流れの中に、神護寺薬師像や元興寺薬師像によって代表される・・・・・・一木彫成像の一群と共に、これら8世紀乾漆像の特色を濃厚に残す彫刻の流れが並行していたことは注目に値する。
この流れが、11世紀以降にはじまる和様の成立にどのような役割を果たしたかという問題については、今後の課題であろう。
制作年代は、彫りの浅い相好の造作や温和な表情から推して、10世紀前半とみるのが妥当ではあるまいか。」
(日本古寺美術全集・第25巻、1981年講談社刊~解説)

何れも、奈良様の流れの伝統を受け継ぐ、10世紀初頭ぐらいの仏像とみられているようです。
また、京都における、いわゆる平安中期といわれる仏像の様式展開を考える上では、大変重要な位置づけにある作例といえるようです。

10世紀、京都の地で、古い伝統的奈良風を継承しつつ、いろいろな時代要素を取り入れた優作が造られたのでした。
これだけの雨宝院像ですから、当代一流の仏師の手になるのは間違いないことでしょう。
その当代一流仏師が、三つの時代の要素を取り込み同居させ、見事な仏像を造りあげたということに、まことに興味深いものを感じてしまいます。

来歴が不明なのですが、もともと、どのような寺院に、祀られたのでしょうか?
いずれにせよ、10世紀前半の仏像としては、相当の傑作、優作であることは、間違いありません。



【最近、よく知られるようになってきた、雨宝院と千手観音像】


14~5年前に、初めて雨宝院へお伺いしたころは、拝観に訪れる人もめったにないという感じでした。
ご住職は、結構お若い方で、気さくで優しく丁寧に、拝観のご案内を頂戴しました。

観音堂に招じていただきましたが、板壁には隙間が開いていて、雨風が吹き込むような有様でした。

重要文化財の観音様が、大丈夫かと心配になりましたが、
「お堂を修理するのも費用のかかりも大きくて、なかなか叶わないのですよ。」
とおっしゃっていたのを、よく覚えています。

お話を伺うと、ご住職は横浜市の弘明寺の近辺のご出身だそうで、僧職の修行を終えて後に雨宝院に入られ、その後先代の後を受け継いで、ご住職をつとめられているそうです。

ご住職のご尽力で、境内の整備も随分進み、大変きれいになりました。
観音堂の傷みも、きれいに修理されています。

ご住職の寺観整備へのご努力、観音像拝観へのお考えと丁寧なご対応もあって、最近は、雨宝院のことがよく知られるようになり、拝観に訪れる人も随分多くなったようです。
昔は、お寺の案内パンフさえありませんでした。
今ではパンフレットだけではなく、観音像の写真が欲しいという拝観者の要望に応えて、観音様の写真絵葉書も作られたとのお話でした。
掲載させていただいた千手観音像の写真は、絵葉書を転載させていただいたものです。

現在の雨宝院案内パンフレット
現在の雨宝院案内パンフレット
現在の雨宝院案内パンフレット


最近は、京都巡りや仏像愛好のブログなどにも、折々、雨宝院拝観記が掲載されるようになってきました。
嬉しいことなのですが、お気に入りの観音様ですので、あまり有名になって欲しくはないというのが、私の本音でもあります。


今回は、私のお気に入りの、雨宝院・千手面観音像をご紹介しました。


もしも、まだ拝されていない方は、是非一度、この立派な千手観音像を拝しに、雨宝院を訪ねて見られることをお薦めします。


あれこれ~新連載 「近代『仏像発見物語』をたどって」 が、スタートします  【2019.9.30】


明治以降に新発見された、主な国宝重文級の仏像の、発見当時のいきさつなどをたどる物語を「近代『仏像発見物語』をたどって」と題して、スタートさせていただくことにしました。



神奈川仏教文化研究所HP「古仏愛好」ページの連載読み物として、掲載いたします。

仏像発見物語表紙

「近代『仏像発見物語』をたどって」    【目次】    【はじめに】



以前、HPに、近代の「仏像盗難物語」を連載させていただいたことがありました。

【埃まみれの書棚から~第29話「奈良の仏像盗難ものがたり」


盗難物語でも、発見物語でも、そうなのですが、当時のいきさつをたどった話は、仏像愛好者にとっては、結構、知的興味をくすぐるものです。
ただの蘊蓄話と云ってしまえば、それまでなのですが、ノンフィクション・ドキュメントを読んでいるようで、理屈抜きに面白いものです。

そんな面白さもあって、これまで「観仏日々帖」に、私の関心のある「仏像発見物語」を、ご紹介してきました。

最初に掲載したのは、
「興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる」(2013.11)
という、興福寺・仏頭の発見物語でしたが、
書き連ねていると、随分な数になるもので、数えてみると10篇余にもなりました。

そこで、【神奈川仏教文化研究所HP】に掲載する、連載記事ネタも無いので、「観仏日々帖」に掲載した発見物語をまとめて、
「近代『仏像発見物語』をたどって」
と題して、HPの連載ネタに転用してやろうと思いつきました。

再掲にはなるのですが、一括してまとめると、ご覧いただいている皆さんにも、仏像発見物語を一覧でみることが出来て、お役にも立つのではないかとも考えたのです。


再掲にあたって、これまで採り上げた「仏像発見物語」を振り返ってみると、最も重要な発見物語が二つ漏れていることに気が付きました。

一つは、法隆寺夢殿の救世観音像の発見物語です。

もう一つは、運慶作品の発見物語です。

この二つの発見物語が入っていないと、「近代『仏像発見物語』をたどって」という題名の連載は、看板倒れでお恥ずかしいということになってしまいます。


そこで、連載開始のスタートテーマは、新稿の「運慶仏発見物語」とすることに決めました。

書き始めてはみたものの、明治以降の「運慶仏発見物語」をたどるというのは、正直な処、思いのほかに骨の折れる道程でした。
私は、もともと鎌倉彫刻は、興味関心度が低いというか、苦手分野でしたので、運慶作品の発見史という世界も、詳しいことは何も知りませんでした。
一から運慶の本を読んでみたりして、エッチラオッチラおぼつかない勉強をしながら、発見物語を調べてみたという処です。
いろいろな資料を漁って、初めて知った話をやっとのことでつなぎ合わせて、近代運慶仏発見物語の体裁を整えたというのが実情です。
結構長い連載物になってしまいましたが、中身は消化不良ということでお赦し下さい。


近代運慶仏発見物語をたどっていくと、
「それぞれの運慶仏の発見が、それまでの運慶の作風の考え方や展開論に、新たな問題を提起したり、定説を覆したりすることの連続」
で、大変興味深く、深く考えさせられるものがありました。

ご存じのことも多いかと思いますが、お愉しみいただければ有難き限りです。


もう一つの、法隆寺夢殿・救世観音像の発見物語は、超有名な話で、諸書に丁寧に紹介されているので、今更ご紹介しても目新しくも何でもないのですが、外すわけにはいかないので、これから書き足してみようかなと思っています。


新稿の「運慶仏発見物語」から、旧稿再掲の10余編の「仏像発見物語」を全部併せれば、明治から現代までの主要な仏像発見物語を、ほぼ一通りご紹介できるのではないかと思います。
(快慶仏発見物語が抜けているのですが、これは私には歯が立ちそうにありませんので、ご容赦ください)


仏像発見物語というのは、単なる蘊蓄話とは違って、新たな発見が、従来の仏教美術史の考え方や様式展開論の定説を覆したり、新たな問題提起となることも多々あり、大変興味深いものがあります。

お愉しみいただき、お役に立てば何よりです。



古仏探訪~「山科区御陵平林町・安祥寺の十一面観音像」京のかくれ仏探訪⑧   【2016.09.23】


今回は、山科にある安祥寺の本尊、十一面観音立像をご紹介したいと思います。

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)
安祥寺・十一面観音像



【知られざる奈良時代に遡る一木彫像~安祥寺・十一面観音像】


この十一面観音像は、近年、その存在が注目された仏像です。
ご覧のとおり、堂々たる、大変出来の良い一木彫像です。
そして、なんと奈良時代の制作に遡る古像ではないかとみられているのです。

この安祥寺・十一面観音像、2010年春に、奈良国立博物館で開催された「大遣唐使展」に出展されました。

大遣唐使展ポスター

この時が、本像が、一般の人の目に触れた初めての機会であったと思います。

「知られざる、奈良時代の一木彫像の出展」

ということで、愛好者の間では大きな話題となりました。
ご覧の写真は、大遣唐使展の図録に掲載された写真です。

実は、私はこの「大遣唐使展」に出かけることが出来ず、注目の奈良時代の一木彫像を見逃してしまったのでした。
それ以来、何とか一度は拝したいものと、念願していました。

安祥寺は非公開寺院で、お寺の境内にも立ち入ることが出来ません。
そんなことで、十一面観音像の拝観も無理なのであろうと思っていたのですが、今春に拝観することが叶いました。
そこで、この「京のかくれ仏探訪」で、ご紹介させていただきたいと思います。



【安祥寺と云えば、重文・五智如来像~9世紀、入唐僧・恵雲の開山】


ところで、ここで採り上げる「安祥寺」というのは、「平安前期の五智如来像で知られる、あの安祥寺」のことです。
ご紹介の本尊の十一面観音立像については、近年まで、知られていなかったというか、注目されることは無かったのでした。


十一面観音像の話に入る前に、安祥寺とゆかりの仏像について、ちょっと振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、安祥寺は、嘉祥元(848)年、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(809-871)の発願により、入唐僧・恵運(798-869)が開山した真言系の密教寺院です。
山科の地に建立され、山上伽藍=上寺と山下伽藍=下寺があり、大伽藍の定額寺として、大いに繁栄しました。

都名所図会の安祥寺伽藍
都名所図会(江戸後期)の安祥寺伽藍図

著名な五智如来像は、開山・恵運による造像で、いわゆる承和様式に連なる850年代の制作とされています。
中尊・大日像が像高161㎝という大きな像で、重要文化財に指定されています。
五智如来像は、京都国立博物館に寄託されており、平常陳列に5躯揃って長らく展示されていましたので、皆さん、何度もご覧になっていることと思います。
(現在、平成知新館の平常陳列には、展示されていません。)

安祥寺・五智如来像

安祥寺・五智如来像中尊~大日如来像
安祥寺・五智如来像~(下)中尊・大日如来像

もう一つ、安祥寺ゆかりの仏像といえば、現在、東寺・観智院に祀られる五大虚空蔵菩薩像(重文)です。
この五大虚空蔵像は、入唐していた恵運が、承和14年(847)に帰朝した際に、唐より将来し安祥寺に安置されていました。
後に東寺の観智院に移されたものです。

東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~金剛虚空蔵菩薩像
東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~(右)金剛虚空蔵菩薩像


平安時代前期には大いに繁栄した安祥寺も、平安末期以降衰退し、上寺は中世には廃絶したようです。
下寺の方は、応仁の乱で焼失したと伝えられ、現在では、江戸時代に復興した堂舎が残されています。



【山科、琵琶湖疎水べりに、ひっそりたたずむ安祥寺】


安祥寺をお訪ねしたのは、今年(2016年)の4月でした。

安祥寺は、山科区御陵平林町、JR山科駅から北へ1キロほどのところにあります。
駅から北に10分ほど歩くと、閑静な住宅の傍を琵琶湖疎水が流れています。

山科付近の琵琶湖疎水
山科付近の琵琶湖疎水風景

明治年間に、琵琶湖から京都市内まで人工的に水をひくという一大プロジェクトによって建設された、あの琵琶湖疎水です。
疎水は、この山科から、皆さんご存知の蹴上インクライン、南禅寺水路橋・水路閣へと続いていくのです。

山科疎水は、遊歩道が整備され、緑あふれ心安らぐ散歩道になっています。
桜は散ってしまいましたが、新緑の木々と疎水の流れを眺めていると、本当に和やかな気持ちになります。

めざす安祥寺は、この山科疎水べりに、ひっそりと在りました。

琵琶湖疎水べりにある安祥寺
山科・琵琶湖疎水べりにある安祥寺

疎水に面したところにある表門は、しっかりと閉じられています。
インターフォンを押すと、ご住職がお見えになり、本堂にご案内いただきました。

安祥寺表門
安祥寺・表門

実は、安祥寺の十一面観音像を是非とも拝させていただきたい旨のお願いの書状を差し上げ、ご連絡した処、非公開にされているそうですが、特別に拝観のご了解を頂戴したのでした。

ご住職に、ご挨拶方々、本日の拝観の御礼を申し上げると、ご住職自身も80歳過ぎのご高齢の故、一般の訪問への対応は大変なので、原則非公開にして拝観も謝絶されているというお話でした。

表門をくぐって参道を北に上がると、森に囲まれた丘陵の裾に、江戸時代に再興されたという本堂、本堂手前東方に地蔵堂、大師堂が並んでいました。
念願の十一面観音像は、本堂に祀られています。

安祥寺・本堂

安祥寺・地蔵堂
安祥寺・本堂(上)、地蔵堂(下)


【伸びやかで均整のとれた腰高プロポーションに、目を奪われる】


本堂内には、須弥壇上に大きく広いお厨子があり、その中に十一面観音像が安置されていました。

本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像
本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像

見上げるほどに長身で、すくっと立つ凛とした姿に、目を奪われます。
像高252㎝、半丈六立像の一木彫です。

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

「天平彫刻を観ているようだ」

一見して、そのように感じました。
それも、キリリと締りがあるプロポーションです。
堂々たる巨像なのですが、腰高で均整がとれたシルエットで、いわゆる八頭身なのが印象的です。

安祥寺・十一面観音像.安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

平安初期像のような肥満したとか、デフォルメしたようなところは、全くみられません。
身体のバランスが見事にとれた造形表現です。
「しなやか、伸びやか、おおらか」
この十一面観音像には、こんなキーワードが、似つかわしいように感じます。

安祥寺・十一面観音像

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

胸の張り、ウエストのくびれ、腰回りのふくらみなどは、天平彫刻の造形感覚を思わせるものを強く感じます。
「奈良時代の制作に遡る一木彫像」
とみられるというのは、全くその通りだなと思いました。
それも、中央作の像といってよいのでしょう。



【黒光りする観音像~当初は、乾漆併用の像だった】


厨子内のライトをつけていただいたせいもあるのでしょうか。
黒く漆で地固めされた像の表面が、照り返すように光って、金銅仏のような硬質感を感じます。
現在は、漆で黒光りしているのですが、もともとはそうではなかったようです。

十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
調査によると、面部や上半身には後世の黒漆塗りの下に、布貼り、木屎漆の層があり、いわゆる乾漆併用像であったということです。
お寺には、観音像の当初の足先部分(現在の両足先は後補)の残欠が残されており、そこには乾漆が全体的に薄く盛上げられていることからも、乾漆併用像であったことがわかるのです。

そうすると制作当時は、今のような硬質な感じではなくて、東寺講堂諸像や、観心寺如意輪観音像、神護寺五大虚空蔵像のような、木屎漆のモデリングによるソフトでふくらみがあるような印象を感じる像であったのでしょう。



【奈良時代に遡る、数少ない一木彫像の例との解説】


この十一面観音像は、一木彫像には珍しい奈良時代の制作に遡るとみられていますが、ちょっと専門家の見方、解説をみてみたいと思います。

安祥寺彫刻調査により、本像に注目、再評価した根立研介氏は、このように述べています。

「改めてこの像を見ると、伸びやかな身體を持ち、肉身の抑揚も自然で、先にも触れたようにその造形には奈良時代の古佛に通じる古様さが認められる。

面貌に関しても、子細に見れば眼嵩縁を半円形に明瞭に表す点は、奈良時代頃の佛像にしばしば認められるもので、さらにV字形の下瞼を持ち目尻が上るところなどは、奈良時代後半期に制作された京都・高山寺伝来(東京藝術大學所蔵)の木心乾漆造月光菩薩像の顔立ちに近いところがある。
また、肩を張り、胴部を絞った腰高の造形は、奈良時代後期の奈良金剛山寺十一面観音立像や法隆寺観音菩薩立像の造形などにも相通じるところがある。

カヤ材を用いた乾漆併用の一木造りという造像技法も併せ考慮すれば、この安祥寺の十一面観音像の制作年代は奈良時代後期に遡る可能性が十分考えられよう。」
(「安祥寺十一面観音立像」根立研介・国華1355号2008.09)

東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)安祥寺・十一面観音像顔部
(左)東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)、(右)安祥寺・十一面観音像

大遣唐使展図録の解説は、次のとおりです。

「頭部を小さく、腰の位置を高くとった姿は均整がとれ、的確な肉取りによって、のびやかで、かつ、しなやかな姿態表現があらわされている。
このような品格高い彫刻表現を生み出す背景には、遣唐使らがもたらした盛唐前期(8世紀前半)の彫刻様式の影響が考えられる。

つまり本像には、奈良彫刻の正統派の造形感覚が感じられるのである。」
(「大遣唐使展図録」鈴木喜博氏解説2010.4)

金剛山寺・十一面観音像.法隆寺・観音菩薩立像
(左)金剛山寺・十一面観音像、(右)法隆寺・観音菩薩立像

薬師寺・十一面観音像.圓満寺(和歌山)・十一面観音像
(左)薬師寺・十一面観音像、(右)圓満寺(和歌山)・十一面観音像

ついでにもう一つ、本像が2011年に重要文化財に指定された時の解説には、このように記されています。

「その腰高の像容は、奈良・薬師寺十一面観音像(重要文化財)、和歌山・圓満寺十一面観音像(重要文化財)、奈良・金剛山寺十一面観音像(重要文化財)等に通じ、裾背面の左右に縦に並べ刻まれた茶杓形衣文は圓満寺像、金剛山寺像や唐招提寺木彫群のうち、伝衆宝王菩薩像(重要文化財)、奈良・大安寺伝楊柳観音像(重要文化財)等と同様である。
また、胸飾の列弁を二段に重ねる意匠は唐招提寺伝獅子吼菩薩像(重要文化財)の天冠台にみられるものである。
金剛山寺像とは両脚の間の衣文および衣縁の形も類似している。

このように本像の作風には奈良時代風が濃厚に認められ、いわゆる翻波式衣文を表さないことからしても、その末期までには造られていたと思われる。」
(月刊文化財573号「新指定重要文化財の解説」2011.6)

金剛山寺・十一面観音像~背面安祥寺。十一面観音像~背面
(左)金剛山寺・十一面観音像~背面、(右)安祥寺・十一面観音像~背面

唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾
(左)唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台、(右)安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾

金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文安祥寺・十一面観音像~脚部衣文
(左)金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文、(右)安祥寺・十一面観音像~脚部衣文

いずれの解説も、奈良時代にまで遡る像とされています。



【注目される、古典的な奈良風造形感覚一木彫像の世界】


一昔前には、奈良時代は乾漆と塑像の時代で、平安初期に至って一木彫の時代になると、一般に考えられていました。
奈良時代に遡る一木彫像は、唐招提寺の木彫群、大安寺の木彫群、薬師寺十一面観音像ぐらいとされていたのかと思います。
近年は、新薬師寺・薬師如来像をはじめとして、奈良時代に遡るものも、それなりにあるのではないかと云われるようになりました。

また、此処に名前が挙げられている、金剛山寺・十一面観音立像、法隆寺・観音菩薩立像、圓満寺・十一面観音立像なども、昔は、平安時代の制作とみられていたのではないかと思います。
ところが、近年では、これらの像も、奈良時代の制作とみられるようになってきたようです。

いわゆる、平安初期の典型と云われる肥満、デフォルメ、森厳といった造形とは別の系統の、古典的な奈良風の造形感覚を継承した一木彫像のタイプという、新たな視点で考えられるようになってきたようです。

「奈良時代に遡る、奈良風一木彫像の世界」

とでも呼んでみるのでしょうか?
ご紹介した安祥寺の十一面観音像も、金剛山寺像、法隆寺像、圓満像などと同様に、奈良風の造形感覚を継承した一木彫像といってよいのでしょう。
安祥寺像は、それらの中でも、傑出した優作の巨像として、大いに注目される像だと思います。



【大きく湾曲したカヤ材から彫り出された観音像~霊木像か?】


ところで、この十一面観音像の材質や構造はどうでしょうか?

カヤ材の一木彫像で、背面から内刳りがされています。
注目されるのは、円弧状にかなり湾曲した材を使い、材内部にはウロ状の空洞が広がっているとみられることです。

根立研介氏は、このことについて、

頭部がかなり前傾している安祥寺・十一面観音像
頭部がかなり前傾している
安祥寺・十一面観音像
「木心は、地髪部頂き付近と裙裾付近ではほぼ中央に位置しているものの、上背部辺でいったん像から外れ、腰下付近で再び像内に入り込むように後方に大きく弧を描いていることが判明した。
頭部の前傾の角度がかなり大きくなつたのも、こうした木心の性質に影響されたところもあろう。

それにしても、これだけの巨像の用材に、これほど湾曲した木心を持つものが使用されていたことには驚かされる。
・・・・・・・・
この像は木心が大きく湾曲し、さらに一部ウロ状の空洞が広がっているカヤの木を敢えて用材としたと思われ、霊木などといつた特殊な要因に基づいて用材の選択が行われた可能性がある。」
(「安祥寺十一面観音立像」国華1355号2008.09)

と、カヤ材の霊木を以て造像した可能性に言及しています。

この観音像を拝していると、頭部を不自然なほどに大きく前に傾けているようにみえます。
頚から上は付け替えられたのではないだろうか思うほどの傾きで、一見違和感があったのですが、湾曲した霊木を使用した故の前傾と云われると、なるほどと納得しました。



【十一面観音像の当初安置寺院は?~近接の山階寺か】


さて、十一面観音像が奈良時代の制作ということになると、平安時代創建の安祥寺に於いて造像されたということは、あり得ないこととなってしまいます。
冒頭にふれたように、安祥寺は、平安時代、嘉祥元年(848)の発願で、恵運が開山した真言密教寺院なのです。
貞観9年(867)勘録の「安祥寺資財帳」にも、本像に該当する記載はありません。
また、十一面観音像の当初安置寺院について示唆する記録や伝承も、全く残されていないようです。

何処の寺から、安祥寺に移されたのでしょうか?
山階寺址推定地・石碑
山階寺址推定地・石碑

これだけの正統派の優作巨像ですから、それなりの大寺院に祀られていたに違いありません。
根立研介氏は、同じ山科の地にあった「山階寺」に安置されていた可能性に言及しています。

山階寺(やましなでら)というのは、奈良・興福寺の起源とみなされている寺で、現在の安祥寺の寺域を西端に含む安祥寺下寺の近接地にありました。
山階寺の伽藍配置や規模も、明らかにはなっていませんが、

「山階寺は、この像の当初の安置寺院の候補地として、なかなか魅力的に思えてくる。」

と、根立氏は述べています。



【近年の安祥寺総合調査で、発見・再評価された十一面観音像~奈良時代の制作と判明】


話が後先になってしまいましたが、この安祥寺の十一面観音像が、奈良時代に遡る一木彫像として注目されることになったいきさつについて、ふれておきたいと思います。

安祥寺・十一面観音像の調査が行われることになったのは、京都大学の「王権とモニュメント」と題する研究会で、安祥寺の調査研究がテーマとなったことによるものでした。
この研究会では、2002年から数年間にわたり多方面の分野からの総合研究が行われ、その成果として、
「安祥寺の研究Ⅰ・Ⅱ」(2004・2006)
「皇太后の山寺 ~山科安祥寺の創建と古代山林寺院」(上原真人編・柳原出版2007.3刊)
が、出版されました。

仏像については、2005~7年度に、根立研介氏等によって調査が実施されました。
この時調査された仏像は、本堂安置の十一面観音像、四天王像、地蔵堂の地蔵菩薩像などでした。
目視調査に加えて、X線撮影調査、樹種同定調査などが実施された結果、十一面観音像は奈良時代に遡る一木彫像であること、四天王像は平安前期の制作とみられることが明らかになったのでした。

安祥寺にこれらの諸像が存在することについては、以前から知られていたようです。
明治期には臨時宝物取調局が、第二次世界大戦中には京都府社寺課が調査を行うなど、一部の文化財関係者は、その存在を把握していたとのことです。
ただ、保存状態の問題もあってか、その後詳細な調査が実施されることは無く、その価値が見過ごされてきたということでした。

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像~顔部
保存修理される前の安祥寺・十一面観音像

そういう意味では、根立氏の調査により、「奈良時代一木彫像の優作の新発見」がなされたといっても良いのかもしれません。
2005年11月には、「安祥寺の十一面観音像が奈良時代の制作と判明」との新聞報道がなされたりしました。
2007年に美術院国宝修理所に於いて、十一面観音像の保存修理が行われた後、2010年には、奈良博での「大遣唐使展」に出展され、世の注目を浴びました。

そして、2011年に、国の重要文化財に新指定となったのでした。



【本堂内に祀られる四天王像も、平安前期の制作】


ついでに、平安前期と云われる四天王像についても、ちょっとだけご紹介しておきたいと思います。
四天王像は、十一面観音像が祀られる厨子の外側に安置されています。

安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像
安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像

これらの像は、2000~3年になされた修理で、全面古色仕上げと、眼、口、髪などに彩色仕上げがされています。
ちょっと厚塗りの仕上げ、彩色なので、鑑賞しにくいのですが、平安前期に遡る像であるとのことです。
像高150~60センチ程度の四天王像で、なかなかユニークな姿態をしています。

安祥寺・四天王像~東2像
安祥寺・四天王像~東2像

安祥寺・四天王像~東1像安祥寺・四天王像~西1像
安祥寺・四天王像~(左)東1像、(右)西1像

1躯(西2像)は、江戸時代に補われた像なのですが、残りの3躯は、平安期の古像で、トチノキとみられる一木彫です。

根立氏は、2躯(西1・東2像)は、怪異な容貌を示しており、
「10世紀第一四半期頃の作とみられる醍醐寺霊宝館五大明王像(中院伝来)の作風にきわめて近く、製作の時期もほぼこの頃かと思われる。」
(「安祥寺所在の彫刻」根立研介・安祥寺の研究Ⅱ所収2006)
と述べています。

醍醐寺中院伝来・不動明王像醍醐寺中院伝来・軍荼利明王像
(左)醍醐寺中院伝来・不動明王像、(右)軍荼利明王像

本堂で拝していると、十一面観音像の堂々たる姿に目を奪われてしまい、ちょっと厚塗りの四天王像の方になかなか目がいかず、あまり印象に残っていないというのが私の率直な感想です。


十一面観音像の見事さに見惚れて、なかなか立ち去り難かったのですが、あまりの長時間はご住職にもご迷惑かと、後ろ髪をひかれつつ、本堂を辞しました。



【多宝塔は明治年間に焼失~京博寄託で難を逃れた五智如来像】


その後、本堂の北東の方に上ったところにある多宝塔の址をご案内いただきました。
今は、基壇、礎石が残されているだけです。

安祥寺・多宝塔址~基壇

安祥寺・多宝塔址~礎石
安祥寺・多宝塔址~(上)基壇、(右)礎石

この多宝塔に、あの五智如来像が祀られていたのです。
ご住職のお話によると、多宝塔は明治39年(1906)に火災にあい焼失してしまったのだそうです。
幸いというのか、五智如来像は火災以前に、当寺の京都帝室博物館に寄託されており、難を逃れたのだということでした。
あの京博の平常展でおなじみだった安祥寺・五智如来像は、明治年間から博物館に預けられていたのでした。



拝観をお許しいただいた上に、ご高齢にもかかわらず丁寧にご案内いただいたご住職に、心より感謝しつつ、山科・安祥寺を後にしました。

まっすぐ駅に向かうのが、何やら名残惜しく、新緑にかこまれた山科疎水べりをブラリとしながら

「天平彫刻のような、一木彫の優作巨像」

を拝した余韻にしばらく浸った、安祥寺・十一面観音像の観仏となりました。


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