観仏日々帖

トピックス~「唐招提寺・仏の手の掌に埋め込まれたもの」仏像の手の話⑧  【2017.7.22】



「仏像の手の掌の中に、何か納入物が埋め込まれている。」

そんな話を、聞かれたことがあるでしょうか?

  
仏像の体内(内刳りの中)に納入物が納められている、いわゆる像内納入品、体内納入物の話については、皆さん、よくご存じのことと思います。

体内に納入物が納められている仏像は、数え切れないほど数多くあります。

そのなかでも、

五臓六腑が納められた、清凉寺・釈迦如来像

極彩色の心月輪・蓮台が納められた、平等院鳳凰堂・阿弥陀如来像

厨子入り檀像、板彫五輪塔、水晶珠・心月輪が納められた、興福寺北円堂・弥勒仏像

などは、超有名処といって良いのではないでしょうか。

986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像清凉寺・釈迦如来像の体内に納入された布製の五臓六腑
986年奝然が宋から請来した清凉寺・釈迦如来像と体内に納入された布製の五臓六腑

定朝作~平等院・弥陀如来像平等院・弥陀如来像の体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台
定朝作~平等院・弥陀如来像と体内に納入された極彩色の心月輪・蓮台

運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像興福寺北円堂・弥勒仏像の体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など
運慶作~興福寺北円堂・弥勒仏像と体内に納入された厨子入り檀像、五輪塔、心月輪など

ところが、体内の内刳りの中ではなくて、体の一部分に、納入物が埋め込まれているという話は、あまり聞いたことがありません。



【唐招提寺には、手の掌に納入物がこめられた仏像が・・・】


これからご紹介するのは、

「唐招提寺には、仏像の手の掌の中に、納入物が納められた像が何躯かがある。」

という話です。

何故だかはわからないのですが、「手の掌に、納入物が納められている仏像」が存在するのは、唐招提寺に残された仏像だけなのです。

「金堂・廬舎那仏坐像の手の掌の中と、瞳の奥に、珠が」

「木心乾漆菩薩像2躯の手の掌の中に、珠が」

「金堂・薬師如来像の手の掌の中に、古銭が」

それぞれ、納められているのです。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像2躯、(左)伝観音像

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

現在、発見されている限りでは、唐招提寺の仏像以外で、手の掌への納入品が確認された例は、全くないのです。

何とも、不思議なことです。



【本尊・廬舎那仏の両手には、埋め込まれた数珠玉が~X線撮影で判明】


廬舎那仏像の手のなかから納入物が発見、確認されたのは、近年のことです。
それまでは、全く知られていませんでした。

発見のいきさつを、ちょっと振り返ってみたいと思います。

平成15年(2003)4月、こんな新聞報道がありました。

「X線撮影で本尊の両手に埋め込まれた数珠玉が判明 奈良・唐招提寺金堂」
(毎日新聞)

「鑑真の遺品? 謎の珠 仏の力増す? <唐招提寺本尊>」
(朝日新聞)

という見出しです。

唐招提寺金堂は、2000年から10年がかりでの解体修理、「平成の大修理」が行われました。
その間、2003年に廬舎那仏像と千手観音像の保存修理が行われました。
本尊・廬舎那仏像のX線撮影を行った処、両手のひらに数珠玉が埋め込まれていることが判明したという報道です。

朝日新聞の記事をご紹介すると、このような内容でした。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「解体修理の前半が終わり、24日、報道関係者に公開された唐招提寺金堂の本尊の盧舎那仏坐像と千手観音立像について、関係者が注目したのは盧舎那仏の両手のひらに数珠の珠(たま)が埋め込まれていたことだった。

『開祖の鑑真和上の遺品の数珠では』といった憶測も出て、謎の数珠への『ロマン』が一気に膨らんだ。
X線撮影で見つかった珠は水晶など鉱物質のもので、中央に貫通した穴があるため、数珠とわかった。

唐招提寺では、金堂の薬師如来立像(国宝)の左の手のひらに銅銭3枚が塗り込められている例と、収蔵庫の木心乾漆菩薩立像(重要文化財)の胸部と手のひらに瑠璃色の珠が込められている例と、類例が2体ある。
だが、他の寺では今のところ確認されていない。
このため、鑑真が中国から伝えた可能性も考えられている。

文化庁美術学芸課の奥健夫・文化財調査官は
『中国では、手のひらという例は見られないが、みけんや胸に珠を収めた例は文献にある。
仏の力を増すという意味があるのではないか』
と話す。

数珠の珠の材質が知りたいところだが、文化庁は保存上の問題はないため、後半の修理でも取り出さない方針という。永遠の謎で終わるかもしれない。」
(2003年4月25日付、朝日新聞・奈良版)

埋め込まれた「珠」が、鑑真和上の遺品かどうかは別としても、大変興味深い「手の掌に珠」発見の話でした。



【瞳の裏にも、珠が埋め込まれていた】


廬舎那仏のX線調査で判明した新事実のポイントは、次のようなものでした。

・両手の掌に、珠が、それぞれ大小2個ずつ埋め込まれている。

・珠の径は、約1.1センチ、0.9センチで、孔が貫通していることから、数珠玉と思われる。

・両眼の瞳には、石か焼き物の硬質材の、黒く塗られた半円板が貼り付けられている。

・その半月板の瞳の裏(あるいは内部)に、0.6センチ程の珠のような物体がこめられている。

X線撮影画像をご覧ください。
ごく小さな球が、手の掌と瞳の裏に込められていることが判ります。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先

唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~右手先とX線撮影写真~
手の掌の真ん中あたりに珠の白い影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先

廬舎那仏左手のX線撮影写真~珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
唐招提寺金堂・廬舎那仏像~左手先とX線撮影写真~
珠2個がこめられているのがはっきりわかる(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)"



廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼~瞳に黒く塗られた硬質半円板が貼り付けられている
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真)
廬舎那仏像の眼のX線撮影写真~瞳の奥に丸い球の影が見える
(唐招提寺金堂三尊修理報告書2000.3刊所載写真




【唐招提寺の菩薩像2躯の手にも、珠の埋めこみが】


このような珠が、仏像にこめられているという例は、他には全くありません。

唯一、同じ唐招提寺の菩薩像2躯に、珠がこめられた仏像が存在するのです。

奈良末平安初期の作とみられる、木心乾漆造りの菩薩立像2躯です。
1躯の菩薩像(伝観音像)の胸に小孔が穿たれ、奥深く瑠璃一粒が納められていることは、前から知られていたのですが、
昭和53年(1978)に、本間紀夫氏によって行われたX線撮影で、2躯の菩薩像の手の掌に珠がこめられていることが判明したのです。
菩薩像(伝観音像)の左手の中と、もう1躯の菩薩像の右手と思われる残欠の中に、珠がこめられていたのでした。

唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)
木心乾漆菩薩像の右手先のX線撮影写真~手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像(伝観音像)と右手先のX線撮影写真
手の掌の真ん中あたりに珠の影が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


唐招提寺・木心乾漆菩薩像
唐招提寺・木心乾漆菩薩像

唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)木心乾漆菩薩像の欠失手のX線撮影写真~手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)
唐招提寺・木心乾漆菩薩像の欠失した手(推定)とX線撮影写真
手の掌の真ん中に珠が見える(本間紀夫著「X線による木心乾漆像の研究」1988刊所載写真)


菩薩立像の手のなかに珠がこめられているのが発見された時は、さほどの話題にならなかったのだと思います。
ところが、本尊・廬舎那仏像の手の掌のなかにも、珠(数珠玉)がこめられていたのが判明し、今度は、新聞記事に採り上げられるような話題になったという訳です。



【廬舎那仏の手と瞳にこめられた珠~その意味は?】


他にこうした例がないだけに、

「どうして、唐招提寺の仏像の手だけに・・・・・?」
「手のなかに珠をこめるのは、どんな意味があるんだろうか?」

と、俄然、注目を浴びるようになったのだと思います。

数珠玉をこめるというのは、なんらかの宗教的な意味があることは、間違いありません。
まだ、これだという解釈の決定打は、はっきりしないようです。

伊東史朗氏は、新聞の取材コメントで、

「貴重なものを埋め込むことで、信仰の深さや、仏像の高貴さを表そうとしたのではないか。」
(毎日新聞記事)

と語っています

発見に関わった文化庁の奥健夫氏は、もう一歩踏み込んで、このような見方を述べています。

唐招提寺金堂・廬舎那仏像
唐招提寺金堂・廬舎那仏像
「それらは(注:唐招提寺の仏像の手の掌に納入物があること)観念の上で、仏がその具体的な力を行使する道具である手の働きを増すことを願っての所為であろうと思われるが、特に廬舎那仏像についてはその造像の所依経典である『梵網経』に、自誓受の前に得るべき『好相』として仏の摩頂(頭を撫でること)を受けることが述べられていることとの関連が注目される。

菩薩戒を得るために像の前で慨悔する者は、その低く差し出された右手が自らの頭上に及ぶのを思い描きつつ、掌を注視したことであろう。

これらの二つの工作(注:瞳の裏と手の掌に、数珠玉がこめられていること)は、像が拝する者を目でとらえ、これに力を及ぼすことが期待されているとみられる点で、廬舎那仏像の性格を考える上で非常に重要な発見といえる。」
(「金堂の平成大修理で判明した祈りの造形」(奥健夫)週刊朝日百科・国宝の美13号2009.11)

「好相」とは、仏を見る神秘体験で、これによって懺悔が完了したことが証明されるというものだそうです。
瞳裏と手の掌に数珠玉が埋められたというのは、まさに「仏を見るという神秘体験」の中で、拝する者を仏に見つめられ、その手で頭を撫でられるという、宗教的な思いがこめられたということなのでしょうか。

それにしても、「手の掌に珠をこめた」仏像が、唐招提寺だけにしか存在しないというのは、何とも不思議なことです。
新聞記事の「鑑真の遺品の数珠玉か?」という記事ではないですが、ついつい鑑真と何らかの関係があるのではないかとの空想を巡らせてしまいます。



【金堂・薬師如来像の手の掌に埋め込まれていた、3枚の銅銭】


もう一つ、金堂・薬師如来立像の左手の掌に古銭が埋め込まれていた話も、振り返っておきたいと思います。

唐招提寺金堂・薬師如来像
唐招提寺金堂・薬師如来像

こちらの発見は、薬師像の制作年代推定の有力証拠となったため、よく知られている話で、ご存じの方が多いのではないかと思います。

薬師如来像の手の掌に、3枚の銅銭が埋め込まれているのが発見されたのは、昭和47年(1972)2月のことでした。

薬師如来像の表面の漆箔の浮き上がりが目立つため、一応の修理が行われた際、左手の掌の中央部に浮き上がりがみられました。
これを固定するために表層を起こすと、そこに、小さな丸い穴があけられ、3枚の銅銭が重ねて納入されていました。
「和同開珎、隆平永宝、万年通宝」の三枚です。

薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
薬師如来像の左手の掌から銅銭が発見された状況
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」
発見された3枚の銅銭(表裏)~左が「隆平永宝」

発見された時の所見によると、この納入が、造立当初に行われたことは間違いないとみられるものでした。



【銅銭発見により、薬師像制作年は延暦15年以降と判明
~金堂三尊の制作年代研究に大きな進展】


この銅銭の発見は、彫刻史研究上の大発見になりました。
これらの銅銭が鋳造された時期よりも、仏像の制作の方が古いということはあり得ず、制作年の上限を特定できることになるからです。

発見された銅銭のなかで、最も新しく作られたのは「隆平永宝」でした。
「隆平永宝」は、延暦15年(796)11月の詔により鋳造されたもので、薬師像の造立は、この時期を遡り得ないことが明らかになったのです。

唐招提寺金堂の三尊、廬舎那仏像、千手観音像、薬師如来像の制作年代については、この発見まで、同時期の制作か、時代差があるかなどについて、様々な議論がありました。

唐招提寺金堂・千手観音像
唐招提寺金堂・千手観音像

廬舎那仏像は脱活乾漆造り、千手観音・薬師如来像は木心乾漆造りと、技法が違うことから製作年代差があるのではないかとか、
薬師如来像などは、太腿の隆起を強調したY字状の衣文の平安初期的特徴から、奈良時代の制作ではなく平安時代に入ってからのものではないかともいわれるなどの疑問が呈されていました。

「隆平永宝の発見」は、これらの疑問を一気に解決したともいえるもので、薬師像は、奈良時代のものではなく、平安時代に入ってからの制作であることが明確になり、薬師像にみられる平安初期的な特徴が、美術史的に素直にすんなり理解できるものになったのでした。

現在では、廬舎那仏像は奈良時代の制作、その後に千手観音像、最後に薬師如来像という順に制作されたというのが、一般的な見方になっていると思います。



ところで、古銭を納める仏像についてですが、体内に古銭を納入する例はいくつかあり、最も有名なのは、清凉寺・釈迦如来立像でしょう。
背刳りの蓋板の裏にびっしりと銅銭が張り付けられていました。

清凉寺・釈迦如来像の背板があてられた背面釈迦如来像の背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭
清凉寺・釈迦如来像の背面と背板裏面に貼り付けられた多数の銅銭


しかし、手の掌に古銭が埋め込まれているという仏像は、唐招提寺・薬師如来像だけです。

唐招提寺には、廬舎那仏像の造像以来、手の掌に何かを埋め込むことにより、宗教的な力を一層付与するという伝統が息づいていたのでしょうか?



【不思議な謎~どうして唐招提寺の仏像の手だけに・・・・】


今回の「仏像の手の話」は、

「唐招提寺の仏像の手の掌にだけ、何故だか、納入物かこめられている。」

話をご紹介しました。

どうして、唐招提寺に残る仏像にだけなのでしょうか?
この謎が、なかなか解明されるのは難しそうですが、不思議なことで、大変興味深い話です。



「仏像の手の話」を8回にわたって連載させていただきました。
そろそろネタ切れとなってしまいましたので、「今回で、おしまい」とさせていただきたいと思います。


新刊旧刊案内~「小説 日本博物館事始め」 西山ガラシャ著  【2017.7.8】


町田久成について描かれた、こんな本が出ました。


「小説 日本博物館事始め」 西山ガラシャ著 
 
2016年3月 日本経済新聞出版社刊 【256P】 1600円


西山ガラシャ著「日本 博物館事始め」


「町田久成? その人だれ?」

そう思われる方が、多いことと思います。



【東京国立博物館・庭園に建つ、町田久成顕彰碑】


東京国立博物館の本館の裏に、庭園があります。
その庭園の一角に、立派な石碑が立っています。

東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」

東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」~説明板
東京国立博物館庭園に建てられる「町田久成顕彰碑」

「町田石谷君碑」(石谷は久成の号)と題する、町田久成の業績をたたえる顕彰碑です。
碑文が刻されていますが、その一節に

「博物館ハ則チ君ガ提議シテ創設スル所ナリ」

とあります。

「この上野の地に、大博物館の創設を成し遂げた。」

この簡潔な一文に、町田久成、その人の業績が、凝縮されているといっても良いのかもしれません。

上野の博物館が開館したのは、明治15年(1883)のことでした。



【博物館の創設者、近代文化財保護の先駆者~町田久成】


この大博物館の創設にかけた町田久成という人物を描いた本が、ご紹介の「小説 日本博物館事始め」です。

町田久成(明治5年・34歳)
町田久成(明治5年・34歳)

AMAZONの本書内容紹介には、このように書かれています。

「明治15年、現在の東京国立博物館が竣工した。
外交官の道を断たれた男の、もうひとつの夢の実現でもあった。

『御一新とともに、寺や城は壊され、仏像や書画骨董が海外に流出していく。
<日本が生き残る道は西洋の物真似しかない>
と多くの人は信じているが、文明開化の時勢に流されて、日本の美と技をうち捨ててはおけぬ。
自分ひとりでもミュージアムを創る。
留学中に観た大英博物館のようなミュージアムを』

旧物破壊・廃仏毀釈の嵐に抗い、大久保利通、島津久光、岩倉具視など新政府の錚々たる面々が相見え火花を散らす政争に巻き込まれながらも、粘り強く夢を形にした官僚、町田久成。
幕末には薩摩国主の命で英国に留学した経験も持つ男を主人公として、維新の知られざる側面に光を当てたユニークな歴史小説です。」


設計者・コンドル筆の上野の博物館
設計者・コンドル筆の上野の博物館

町田久成という人物、本当に知られていないと思うのですが、明治維新以降の近代文化財保護保存の歴史を語るとき、また国立博物館の歴史を振り返るとき、忘れることは出来ません。


町田の業績として語られる、

・我が国文化財保護法の先駆となる「古器旧物保存方」の布告(明治4年・1871)

・近代初の文化財調査である古社寺宝物調査「壬申検査」の実施(明治5年・1872)

・東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)の上野の地での創設(明治15年・1873)

といった事柄は、まさに「近代文化財保護、保存の先駆者」そのものと言えるものでしょう。

明治期のこうしたテーマというと、必ず、その名が思い出され語られるのは、岡倉天心ですが、町田久成こそ、その先駆けとして、近代日本の文化財保護行政の方向を定めた重要人物なのです。

もっと、もっと広く知られ、語られていてもよい人物だと思っています。


町田久成の業績、人物像については、かつて、神奈川文化研HPに
と題する連載で、ご紹介をしたことがありますので、そちらをご覧いただければと思います。



【人間、町田久成を描き出した歴史小説~「日本博物館事始め」】


この町田久成にスポットライトを当て、博物館創設への生きざまを描いた歴史小説とは、何とも珍しい本が出たものです。
私にとって、「町田久成」について書かれた本となれば、捨てておくわけにはいきません。
早速、購入しました。

「目次」は、ご覧のとおりです。

西山ガラシャ著「日本 博物館事始め」~目次

一読してみた感想は、

「上野の博物館の創設を舞台回しに、人間、町田久成の生き様や、時代の空気を描き出した小説」

というものでした。
「小説」と題名の頭に冠している通り、町田久成を取り巻く人間模様など、まさに小説的要素が濃い内容となっています。

著者の西山ガラシャ氏は、1965年名古屋市生まれ。
2015年、『公方様のお通り抜け』で第7回日経小説大賞を受賞しデビューし、この本が、受賞後の第一作となるそうです。
まさに、作家として、「人間、町田久成」を描き出した作品ということなのだと思います。


この本、町田久成の評伝とか、博物館創設の物語を詳しく語った読み物かと思ったのですが、ちょっと違いました。
そうした知的興味、関心で読むと、少し物足りなく感じられるないかもしれません。



【もう一冊の、博物館と町田久成を知る好著~新書「博物館の誕生」】


この「小説 日本博物館事始め」を、本当に愉しく、興味深く読むためには、 もう1冊、次の本を読まれることをお薦めします。


「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」 関秀夫著
岩波新書 2005年刊  【241P】 780円


関秀夫著「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」

関秀夫著「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」~目次
関秀夫著「博物館の誕生」~目次

この本のAMAZONの内容紹介は、次のとおりです。

「東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)は上野の山につくられた日本最初の近代総合博物館である。
国の中央博物館としての創設から皇室の博物館になるまでの激動のドラマを、明治維新の頃、外交官として活躍し、博物館づくりに情熱をそそいだ創設者、町田久成の生涯と重ね合わせて描きだす歴史物語。」

著者の関秀夫氏は、東京国立博物館名誉館員で、日本考古歴史学専攻の文学博士という研究者です。

新書版の本ですが、上野の博物館創設までの経緯と、町田久成の評伝的物語が、しっかりと要点を漏らさず、コンパクトにまとめられた名著ともいうべき本です。
こちらの方は、知的興味、関心を、十二分に満足させてくれる内容です。
読み物としても、面白く、興味深く愉しめる物語となっています。


この「博物館の誕生~町田久成と東京帝室博物館」を先に読んでから、「小説 日本博物館事始め」を読むと、明治維新後の博覧会から博物館創設への夢の実現へのいきさつ、苦難の道がよく理解され、小説の作者が語りたかった人間・町田久成についてもよく理解できて、その面白みが判るのではないでしょうか。

町田久成と博物館について書かれた、一般的な単行本は、この2冊しかないでしょう。
2冊セットで読んでみて、それぞれの本が、より興味深く味わいを以て読むことが出来るように思います。



【町田久成をめぐる ~IF~ 「もしも」の話】


ここからは、ちょっと付けたりですが、

「もし、町田久成が、・・・・・・だったとしたら?」

と、私が感じた話を、二つほどご紹介しておきたいと思います。



【もしも、外務省から左遷されていなかったなら?】


一つ目は、
若き日の町田久成が、外務官僚から左遷された話です。

「もし、この左遷がなかったとしたら?」

町田久成は、近代文化財保護の先駆者、博物館創設者として、現代に名を残すことは無かったのです。

町田家は、薩摩藩主、島津一門に連なる名家で、町田久成は26歳の若さで大目付となり、慶応元年(1865)には、藩のイギリス留学使節の監督として、2年余イギリスに滞在しています。

薩摩藩の留学生達(慶応元年・1865~ロンドンにて)前列中央が町田久成
薩摩藩の留学生達(慶応元年・1865~ロンドンにて)前列中央が町田久成

明治維新後は、新政府の外務省、外務大丞に任ぜられています。
新政府の外務官僚としての、スーパーエリートであったのです。
ところが、明治2年に来日した英国アルフレッド王子の接待役としての来賓饗応が厚遇に過ぎたということで、謹慎処分となり、左遷されてしまうのです。

上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃)
上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃)
この左遷は、薩摩の急激な開花政策に異を唱える尊王攘夷派が、反発を示す動きの一環であったようです。
開花派の大久保利通の権威を笠に着たようにふるまう町田久成を標的にして、追い落としたというのが真相のようです。
町田は、外務省を去り、閑職にも等しい大学(文部省)に移ることになりました。


政局に翻弄され、失意の中にあったであろう町田でしたが、新任務、大学(文部省)において、心機一転、「集古館」(博物館)建設、「古器旧物保存」(文化財保護)を、建議します。

そして、博覧会業務等を担当しながら、国家を挙げての大博物館の創設構想の夢をいだき、ついに上野の地に巨大な博物館創設を実現したのでした。
上野の広大な地に、大博物館の建設を実現するというのは、明治の初年においては、並大抵の腕力で出来得るものではないでしょう。
町田久成の毛並みの良さと実力、その後ろ盾となった大久保利通のパワーがあったからこそのことと思われます。

もし、外務省追放左遷という事件がなかったならば、町田久成は、明治期の外務官僚の大物として知られるようになったのかもしれません。



【岡倉天心にも、同じようなエピソードが】


同じような話で、思い出すのは、岡倉天心の話です。

若き日の岡倉天心(明治20年・24歳)
若き日の岡倉天心(明治20年・24歳)
岡倉天心は、東京大学での専攻は政治学で、卒論に「国家論」を数か月かけて書いた処、若くして結婚した基子夫人と喧嘩になり、夫人は、夫が3ヶ月を費やした労作を燃やしてしまうのです。
切羽詰まった天心は、たった2週間で、慌てて代用品の「美術論」を書きあげ提出。
おかげで、成績は下から2番目とふるいませんでした。

この「美術論」が縁となり、文部省に入省し、美術文化行政に関与することとなったという話です。
岡倉は、少年時から英語が堪能で、東大在学中もフェノロサの通訳をしていたという人材です。

この卒論焼却事件がなかったならば、政府の外務官僚として身を立てていた可能性が高かったのではないかとも思われます。


何やら、この二人、話が妙に符合します。

・明治期、近代文化財保護の大貢献者として名を残す、町田久成と岡倉天心が、共に外務官僚の道を進んでいた筈であった。

・或る事件、出来事をきっかけに、共に、心ならずも初志とは違う文化財、美術行政の道を歩むことになった。

・そして心機一転、博物館の創設、古社寺、文化財保護などに力を尽くし、今も、その名が語られる。

面白い話です。

町田も岡倉も、「もしも」このような事件がなかったならば、明治時代における外務官僚の大物とか、政治家として、名を残す人物になっていたのでしょうか?



【もしも、町田久成なかりせば、今の東博は違ったタイプに?
~歴史美術博物館?自然史博物館?産業科学博物館?】


二つ目の話は、

「もし町田久成がいなかったら、現在の東京国立博物館は違ったタイプの博物館になっていたかもしれない。」

という話です。

実は、  「近代日本の博物館の父」  と呼ばれる人物が、二人いるのです。

一人は、町田久成。もう一人は田中芳男です。

上野博物館開館当時の町田久成(明治15年頃).田中芳男
町田久成(左)、田中芳男(右)

田中芳男は、町田久成と同い年で、共に明治初年から博覧会事業、博物館創設事業などに携わった人物です。

町田久成(前列中央)と田中芳男(右向かってから3人目)~明治5年(1872)湯島聖堂博覧会記念写真
町田久成(前列中央)と田中芳男(右向かってから3人目)~明治5年(1872)湯島聖堂博覧会記念写真


当時、博物館の展示内容の性格付けには、三つの考え方がありました。

一つは、「動植物など天産物の自然史系博物館」という構想です。

自然科学を中心とした博物館構想で、動物園や植物園も備えた自然科学の総合博物館をめざそうとするものです。
もう一人の近代日本博物館の父と呼ばれる田中芳男の理想は、このような自然科学系の総合博物館を創設することでした。


二つ目は、「古器旧物など文化財展示のための歴史美術系博物館」という構想です。

考古遺物、古美術品をはじめとした古文化財美術品を展示する博物館をめざそうとするものです。
町田久成が構想した博物館は、この歴史美術系博物館でした。
町田久成は、明治4年に博物館建設の献言を行っていますが、その時、「博物館」という用語を使わずに「集古館建設の献言」を行っています。
当時、「博物館」という用語が、「博覧会とか物産会といった殖産興業的博物館」をイメージさせてしまう懸念をいだき、敢えて、わざわざ「集古館」という言葉を用いているのです。

現在の東京国立博物館は、この町田の構想通りの博物館として運営されています。


三つ目は、「殖産振興のための産業技術系博物館」というものです。

日本の輸出振興、産業発展をめざして、物産や工作機械などの展示を行う産業技術系博物館という考え方です。
この構想は、当然ですが、政府の産業振興のビジョンに沿ったものでした。


田中芳男の夢は、自然史博物館を創設することでした。
一方、町田久成の夢は、歴史美術博物館を創ることでした。

共に、強力な持論を以て推進しようとしたようで、上野の地に創設する大博物館の性格付けには、二人の間に、相当の確執があったようです。

完成時の上野の博物館
完成当時の上野の博物館

上野の動物園を開園したのは、田中芳男の構想によるものです。
町田久成は、動物園に反対であったようですが、博物館が開設された年の明治15年(1882)に、博物館の付属施設として開園しました。

上野動物園の正門(明治40年・1907頃)
上野動物園の正門(明治40年・1907頃)

上野動物園明治25~6年の上野動物園~子供が見えず大人が楽しんでいる
上野動物園明治25~6年の上野動物園~子供が見えず大人が楽しんでいる

上野の「博物館」が創設された当時は、町田久成、田中芳男に代表される二つの構想の確執が、決着を見ていない頃でした。

開館したころの博物館の展示品を見ると、古文化財より天産品の方が断然多いという状況であったようです。

開館当時の博物館~1階天産部陳列室(キリンの剥製が展示されている)

開館当時の博物館~~2階絵画陳列室
開館当時の博物館
(上)1階天産部陳列室~キリンの剥製が展示されている、(下)2階絵画陳列室


初代の博物館長には、町田久成が就任しますが、たった7ヶ月で解任となります。
その後、二代目の館長には、田中芳男が就任しますが、これまた、6ヶ月で辞任となりました。
いろいろな曲折があったようなのです。

そして、開館当時、農商務省の所管であった博物館は、その後、明治19年に宮内省の所管に変更され、皇室に相応しい、古文化財、古美術品を展示する「帝室博物館」として発展していくことになります。
町田久成は、博物館の宮内省への所管変更への動きのなかで、解任となった博物館に、別のポストで数年間復帰し、「歴史美術博物館」への方向付けに、尽力しています。

現在の東京国立博物館の有様を見ると、まさに、町田久成が明治初年に描いた「集古館」の構想の実現したものとなりました。

現在の東京国立博物館
現在の東京国立博物館

一方、田中芳男が抱いた「自然史博物館」への夢は、現在の国立科学博物館、上野動物園に実現されているといえるのでしょう。

国立科学博物館(上野公園内)
国立科学博物館(上野公園内)
現在の上野動物園入口
現在の上野動物園入口



【「町田久成の夢」を実現した、東京国立博物館】


上野の博物館の明治創設期をめぐる、こうした確執、経緯を振り返ってみると、現在の東京国立博物館の庭園に、立派な「町田久成顕彰碑」が建てられているのが、本当に納得できます。

町田久成顕彰碑
町田久成顕彰碑

その碑文に、

「博物館ハ則チ君ガ提議シテ創設スル所ナリ」

と刻まれていることへの、はかり知れぬ思いや重さを、感ぜずにはいられません。

もし、町田久成の「歴史美術博物館」創設への夢や執念が無かったならば、今の地に在る東京国立博物館は、もう少し違った性格の博物館となっていたのかもしれません。


私をはじめ、仏像好き、美術好きの皆さんは、明治初年の町田久成の博物館創設への夢に想いを致し、その功績に、大いに感謝しなければならないのかもしれません。

大津・三井寺法明院にある町田久成の墓
大津・三井寺法明院にある町田久成の墓


トピックス~「常念寺(京都精華町)・菩薩像は、薬壺を持っていたのか?」仏像の手の話⑦  【2017.7.1】


【平安前期の優作、一木彫像~常念寺・菩薩像】


京都府相楽郡精華町にある常念寺の菩薩立像を、拝されたことはあるでしょうか?

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像(平安前期・重要文化財)

常念寺は、京都府の南の外れ。
もうすぐ奈良という、「祝園」(ホウソノ)駅の近くの古い集落の一角にあります。

祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺
祝園駅から歩いて7~8分の集落のなかに在る常念寺

平安前期、9世紀の、素晴らしい一木彫像です。
像高170.5㎝、ケヤキ材の等身像で、重要文化財に指定されています。

常念寺・菩薩立像

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像

キリリと引き締まった緊張感あふれる、堂々たる当代一流レベルの優作です。

「凛として、静かなる雄渾さ」

を感じさせる、見事な造形といって良いと思います。
私の大好きな仏像です。



【昭和修理前は、「薬壺を手に持つ姿」をしていた常念寺像】


この平安前期の菩薩立像が、

「左手に、薬壺を持っていたのだろうか?」

というのが、今回のお話です。

「何を、馬鹿なことを云っているのか。」
「菩薩像が、薬壺を持っているなんて、あり得ないでしょう!」
「薬壺を持っているのは、薬師如来だけで、菩薩とは尊格が違うのだから。」

と、一笑に付されてしまいそうな話です。

現在の、常念寺・菩薩像の姿を見ると、右手は垂下し、左手は屈臂して指を捻じています。

常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する
常念寺・菩薩立像~右手を垂下し左手を屈臂する

ところが、かつては、左手に薬壺を持っていたのです。
この菩薩像、昭和25年(1950年)に修理されているのですが、修理前の写真が残されていますので、ご覧ください。

昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている
昭和25年修理以前の常念寺像~左手に薬壺を持っている

ご覧のとおり、この修理以前は、左手に薬壺を持った姿に造られていたのです。

本像は、両手肘から先は、共に後補でしたので、昭和修理の際に、薬壺を持つ後補の手は取り除かれて、現在の、指を捻じる姿に改められたのでした。

昭和修理後の左手
昭和修理後、指を捻じる姿に改められた左手先



【江戸時代には、間違いなく「薬師像」として祀られていた】


後補の薬壺を持つ手は、江戸時代に造られたと思われるものです。
この修理時に取り除かれた、薬壺を持った手は、現在もお寺に残されています。

昭和修理以前についていた薬壺を持つ左手先~江戸時代の後補
昭和修理以前についていた江戸時代の後補の薬壺を持つ左手先
お寺に残されている


また、常念寺のお堂には、この菩薩像と共に祀られていた、江戸時代の十二神将像も伝えられています。

常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)
常念寺・菩薩像と共に祀られる十二神将像(江戸時代の制作)

ご存じのとおり、十二神将は、薬師如来の眷属です。
この菩薩像、江戸時代には、何故だか「薬師像」として祀られ、拝されていたのは間違いありません。

ただ、そうだとしても、

「薬師像として祀られていたというのは、近世になってからの話でしょう。
後世になってから、無理に薬師に改変されたに違いない。
なんらかの事情で、造像時の菩薩という尊格とは関係なく、薬師信仰の仏様に充てられたということじゃないの?」

と考えるのが、常識的ということになるのでしょう。
昭和25年の修理の時も、そのように考えられたから、今の左手の姿に改められたのだと思います。



【平安時代の制作当初から、「薬師像」として造られたとの新たな見方】


ところが、近年、この常念寺の菩薩像は「神仏習合像」で、

・平安前期造立当初から、薬師像として制作されたに違いない
・制作当初から、左手に薬壺を持つ姿に、造られていたのかもしれない

とみる考え方が、有力になってきたのです。

結論から云うと、常念寺の菩薩像は、

・神仏習合の思想に基づく、仏としての神像で、「菩薩の姿をした神様」として造られた。
・古記録に、「薬師菩薩」と称されている造像例と考えられる。

というのです。

「薬師は、如来じゃないの?
薬師が菩薩だなんて、そんな話聞いたことがない!」

と、おっしゃる方も多いのではないかと思います。


ここから、どうして常念寺の菩薩像が、神仏習合の「薬師菩薩」像と考えられるのかという話をみていきたいと思います。



【祝園神社の神仏習合像として造立された、常念寺・菩薩像】


まずは、常念寺・菩薩像の来歴です。

本像は、もともと祝園神社のなかにあった薬師寺の本尊として祀られていました。

祝園神社
祝園神社

明治の神仏分離の運動のなかで、明治11年(1878)に、神社関係者の菩提寺であった常念寺に、客仏として移されたと伝えられています。
先にふれたように、この像が、祝園神社・神宮寺において薬師像として祀られていたのは間違いなく、常念寺でも、境内に薬師堂が建てられて安置されています。

常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」
常念寺・菩薩像が祀られる「薬師堂」"

祝園神社の歴史をたどると、崇神天皇時代の創立と伝える神社ですが、平安時代の初期には、この神社が存在したことが、明らかになっています。
平安時代に書かれた法制書「新抄格勅符抄」に、大同元年(806)、祝園神の封戸を認定する文書が収録されていることから、判るそうです。

常念寺・菩薩像は、この祝園神にかかわる神仏習合像として造立されたものと見られており、
伊東史朗氏は、貞観元年(859)に、祝園神が従五位上に進んだという記録があることから、この頃の制作の像の可能性があるとしています。(「精華町史」1996年刊)

いずれにせよ、常念寺像は、祝園神社、祝園神にかかわる神仏習合像として平安前期に造立され、長らく、「薬師」として祀られてきたというのは間違いないようです。



【「神」の姿は「菩薩」のカタチであらわされた神仏習合思想】


それでは、何故、神社で「菩薩」の姿をした「薬師」が造られたというのでしょうか?

この話は「神仏習合思想史」とか「神像の成立」といったことに、関わってくるわけですが、思い切って端折って云うと、こんな話になろうかと思います。

奈良時代、神仏習合の思想によって神宮寺などが造られ、「神」は神身を離れて仏道に帰依し、「菩薩」と称されるようになります。
よく知られる話ですが、

「天平宝字7年(763)に、多度神が仏道に帰依したいと満願禅師告げ、満願は小堂と神像を造立し、多度大菩薩と号した。」
(多度神宮寺伽藍縁起資材帳)

とされています。

多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
多度神宮寺伽藍縁起并資材帳~冒頭部(平安時代・延暦7年)多度神社蔵
7~10行目に「仏道に帰依し・・・・神像を造立し、多度大菩薩と号した」との記述がある


また、八幡神のことを「八幡大菩薩」と称するのは、ご存じのとおりです。

「神」は、「如来」ではなくて「菩薩」のかたちで、その姿を現したという訳です。



【「文徳実録」にある、「神の姿をあらわす薬師菩薩」の作例か?】


そして、平安前期には、「薬師菩薩」という神の概念が生まれてきたようです。
六国史の第五「文徳実録」の天安元年(857)年の条に、

「常陸国に在る大洗磯前、酒列磯前両神、薬師菩薩名神と号す」

と、記されているのです。
この二つの「神」が「薬師菩薩」と称され、「薬師菩薩名神像」が造られ祀られていたとみられるのです。

大洗磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)

酒列磯前神社(薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる)
大洗磯前神社(上)と酒列磯前神社(下)~薬師菩薩名神が祀られたと伝えられる~"

この「薬師菩薩」の造像遺例が、常念寺・菩薩像と考えられるという訳です。
神仏習合の「薬師菩薩像」として造立された像なのであれば、

「制作当初から、左手に薬壺を持った姿に、造られていたかもしれない?」

という想定は、それなりに真実味を帯びてくるということになってくるのです。

常念寺像が、神の姿を現す薬師菩薩像だといわれると、その厳しく凛々しい「静かなる雄渾さ」を感じさせる表情や造形が、まさに、神像としての神威を顕しているような気持ちになってきます。

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)

厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)
厳しい神威感を感じさせる常念寺・菩薩像(薬師菩薩像)


「本当に、薬師菩薩像だったのでしょうか?」
「薬壺を持っていたのでしょうか?」

誠に、興味深い話です。

一方で、
「きっと、神仏習合の薬師菩薩像に違いない。」
とされる菩薩形の像は、常念寺像の他に、具体例を聞いたことがありません。
当時、「薬師菩薩」という神仏習合像が、それなりに造られていたのであれば、同様の作例が、もっと遺っていそうに思うのですが・・・・・

「神仏習合の薬師菩薩」という像が、まだまだ存在するのでしょうか?



【天部形なのに薬壺を手に持つ、もう一つの平安古仏~広隆寺・勅封薬師像】


実は、如来形ではないのに薬壺を手に持つ像が、もう一つ存在します。

「天部形なのに、左手に薬壺を持っている。」

のです。

ご想像がつく方が多いのではないかと思うのですが、京都太秦・広隆寺にある「勅封・薬師如来」と呼ばれている像が、それです。

この薬師像は、明治維新までは勅封の秘仏とされ、現在は、広隆寺の霊宝館の閉じられた厨子のなかに祀られています。
毎年、11月22日の一日に限ってご開帳されます。

この像は、「薬師如来」とされているのですが、その姿はちょっと変わっています。

広隆寺・勅封薬師如来像

広隆寺・勅封薬師如来像
広隆寺・勅封薬師如来像

ご覧のとおりです。

一見して天部形の姿をしていますが、左手に薬壺を持っているのです。
両手先は後補なので、造立当初から、薬壺を持っていたのかどうかはわかりませんが、古来、「薬師像」として祀られてきた像であることは間違いありません。

この像の制作年代は、平安前期のものと考えられており、重要文化財に指定されています。
像高97.6㎝、両手首先以外はすべて針葉樹の一材から彫り出され、内刳りはありません。



【天部形と菩薩形とが同居する薬師像?】


それにしても、不思議な姿をしています。

どう見ても、吉祥天とか梵天・帝釈天といった天部の衣をつけているのですが、よく見ると、天冠台を被り条帛を着けています。
天冠台、条帛は、天部の像には見られるものではなく、「菩薩」が身に着けるものです。
そして、薬壺を持っているのです。
天部と、菩薩と、(薬師)如来のスタイルが、同居しているのです。

どうして、このようなお姿に造られたのでしょうか?



【神仏習合像として神社で祀られていた、広隆寺・勅封薬師像】


この像の由来については、諸説あるのですが、もともと神社にあったもので、神を仏の姿にあらました像と云われています。

岡直巳氏は、

「広隆寺来由記」の檀仏薬師の項に、向日明神が神木に仏の形であらあれ、神が自らの姿にたいして「南無薬師仏」と唱えて拝んだことが説話的に述べられており、この像が天部形薬師像にあたる。(「薬師菩薩神社の神体考」神像彫刻の研究所収1966年刊)

としています。

伊東史郎氏は、

山城の乙訓社から、延暦13年に大原寺へ移された神験ある「仏像」が、平安後期に広隆寺に移されたという古記録があり、この像が現存像にあたる。(「広隆寺本尊薬師像考」学叢18号1996.3)

としています。

いずれにせよ、広隆寺の勅封・薬師像は、神社において神仏習合の像として造られた像なのです。
神の姿を、天部と菩薩の姿をミックスした形に表現した、薬師菩薩像として造られたということなのでしょうか?
やはり、当初から、薬壺を持つ姿に造られたのかもしれません。


菩薩形の薬師菩薩像の例は、ご紹介した常念寺・菩薩像の他には、明らかに該当するといわれるものがないのですが、
天部形の薬師像、神像とみられている像は、他にもいくつか存在しています。

同じ広隆寺の薬師堂安置の天部形薬師像、京八幡市・薬薗寺の吉祥薬師像、箕面市・勝尾寺の天部形像などです。

広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像.薬薗寺・吉祥薬師像
(左)広隆寺・薬師堂(祖師堂)天部形薬師像、(右)薬薗寺・吉祥薬師像

勝尾寺・天部形神像
勝尾寺・天部形神像


薬薗寺の吉祥薬師像は、もともと石清水八幡にあったと伝えられており、現在も、日光・月光菩薩像(室町時代)が脇侍で、薬師像として祀られています。
勝尾寺像は、両手を拱手し、笏を執っており、明らかに神像として造られたものと見られます。



【奥深く興味深い、神像と神仏習合の世界~神像なのか、僧形像なのか、仏像なのか?】


「神像」というと、一般的には、薬師寺の三神像や熊野速玉神社の女神、男神像のような姿の像を想像してしまいます。

薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像
薬師寺(休ヶ岡八幡宮)・三神像

熊野速玉神社・速玉大神像熊野速玉神社・熊野夫須美大神像
熊野速玉神社~速玉大神像(左)、熊野夫須美大神像(右)

僧形の八幡神坐像を別にすれば、みな高貴な人の服装というか、貴人の姿のように現されています。
昔は、神像といえば、当然に、このスタイルの像のことであったのだと思います。

ところが、近年は、いわゆる一般的な神像の姿をした像が造られる前に、そうではないスタイルの神像が造られていたのではないか、と云われるようになってきました。
神仏習合のなかで、神の姿は、僧の形や仏の姿で造り始められ、こうした像が、いわゆる一般に神像と呼ばれる像とは別に、結構存在するのではないかというのです。

何を以て「神像」という言葉を定義するかというのは、なかなか難しい問題だと思うのですが、

先にご紹介した薬師菩薩、吉祥薬師と呼ばれるような像も、神仏習合における神の姿を現す像、即ち神像として造られたのではないか?
また現在、僧形像とか地蔵菩薩像と呼ばれている像も、神の姿を僧のかたちであらわした神像として造られたものもあるのではないか?

とみられるようになってきたようです。

もともと姿などなかった神を、神像として「カタチ」にあらわすようになったのは、奈良時代の後期ぐらいからかと思うのですが、その最初期は僧形神像の姿で造られ、その後、菩薩形、天部形の神像が制作されるようになった。
こうしたなかで、一方では、貴人の姿の、いわゆる一般的な神像も作られるようになったというのが、最近の考え方になってきているようです。

かつては、こうした僧形や菩薩・天部形に造られた像は、僧形像や仏像と考えられ、神像とはみられていなかったのですが、実は神像として造られたのだという訳です。


平安前期までの制作の像で、近年、神像ではないかとみられるようになった像と、一般的な神像の代表的例を挙げると、ご覧のようなものになります。

平安前期までの、神像(神仏習合像)との見方がある像の代表例


箱根神社・万巻上人像神応寺・行教律師像
箱根神社・万巻上人像(左)、神応寺・行教律師像(右)

橘寺・日羅像.弘仁寺・明星菩薩像
橘寺・日羅像(左)、弘仁寺・明星菩薩像(右)

融年寺・地蔵菩薩像.法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)
融年寺・地蔵菩薩像(左)、法隆寺・地蔵菩薩像~大御輪寺伝来(右)

こうした見方は、まだまだ一般的な見方として、定着したとはいえないようですが、神仏習合と神像の始まり、初期神像の有様を考えていくうえで、大変興味津々のテーマです。


「仏像の手の話」ということで、
「如来の姿ではないのに、薬壺を手に持っている」
不思議な像の話から、
神の姿を仏の姿で現した仏像?神像?という神仏習合の世界について、少しばかり垣間見てみることになりました。


常念寺の菩薩像は、本当に薬壺を持っていたのでしょうか?

神の姿を現したという「薬師菩薩」であったのでしょうか?



常念寺の菩薩像と初期神像の話は、以前、観仏日々帖に「古仏探訪~京都府精華町・常念寺の菩薩立像 【その2】」に、採り上げたことがあります。
そちらもご覧いただければと思います。


トピックスに京都・新町地蔵保存会の地蔵像、3Dプリンタ・レプリカをお堂にお祀り 【2017.06.24】


「信仰の対象として地元の人々に守られる仏像」と「仏教美術・文化財としての仏像」との折り合いをつけることの悩ましさ、難しさについて、ちょっと考えさせられてしまうニュースがありました。


9世紀の一木彫像で、重要文化財に指定され、京都国立博物館に預託されている、「新町地蔵保存会の地蔵菩薩坐像」が、この度、3Dプリンターで精巧なレプリカが制作され、レプリカの方をお堂にお祀りすることになったという話です。



【18年前の調査で発見され、3年前、重文指定となった新町地蔵保存会・地蔵像】


この地蔵菩薩像、皆さんも、京都国立博物館の仏像陳列に、展示されているのをご覧になった方も、多くいらっしゃるのではないかと思います。
9世紀後半の制作とみられ、地蔵菩薩の坐像としては広隆寺講堂・地蔵菩薩像に次ぐ古例で、なかなかの迫力ある優作です。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)~像高47.1㎝

実は、この地蔵像、京都下鴨(左京区下鴨松ノ木町)の、4~5坪ほどの小さな地蔵堂に祀られ、永年、地元の人々によって大切に守られ、信仰されてきた地蔵さまだったのでした。

1999年頃の文化財調査で、平安前期の制作の一木彫像であることが発見され、2002年に市指定文化財、2014年に重要文化財指定となりました。
2002年の文化財指定以来、京都国立博物館で保管、展示されています。



【貴重な文化財として博物館預託となり、やむを得ずレプリカをお祀りすることに】


永年この像をお守りしてきた地元の人々にとっては、文化財指定となったおかげで、お堂から肝心の仏さまが、いなくなってしまうことになってしまいました。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
(京都市左京区下鴨松ノ木町)


貴重な文化財の火災、盗難リスク対応として、博物館で保管管理されることになったのでした。
年に一度の「地蔵盆の日の里帰り」も、重要文化財指定以降は難しくなり、苦肉の策として、3Dプリンターによる模像をお祀りして、代替することになったという話です。



【NHK NEWS WEBで、地蔵様の「レプリカお祀り」のいきさつを報道】


このニュース、6/20付けの「NHK NEWS WEB~News up」に「地蔵菩薩を3Dプリンターで」という標題で、レプリカの里帰りのいきさつが掲載されていました。

記事の内容の一部をご紹介すると、次のようなものです。

「京都の世界遺産、下鴨神社にほど近い閑静な住宅街にある地蔵菩薩のお堂で、毎月、地域の人たちが集まって祈りを捧げてきました。
しかし、長年まつられていたお堂には、いま肝心の菩薩像がありません。
台座の上に置かれているのは、大きな写真パネルだけです。

地蔵像が博物館へ預託された後、厨子の前には写真が祀られている
地蔵像が博物館へ預託された後、祀られていた厨子には写真が置かれている

なぜ、写真だけになったのか、そのきっかけは京都市の調査です。
調査の結果、1000年以上も前の平安時代に作られた貴重なものだとわかったのです。
座っている地蔵菩薩像としては、国内で2番目に古い像だとされています。
そこで、京都市は平成14年、地蔵菩薩像を市の有形文化財に指定。
火災や盗難から守るため、菩薩像は国宝や重要文化財を数多く収蔵する京都国立博物館に移されました。

このためお堂には、地蔵の代わりに写真パネルが鎮座することになったのです。
それでも、毎年8月に行われる京都の伝統行事「地蔵盆」の時だけは元のお堂に戻されていましたが、2年前に国の重要文化財に指定されると、年に1回の里帰りもかなわなくなってしまいました。
長年親しんできた菩薩像が、写真だけではどうにも寂しい。
そこで、地域の人たちの思いに応える形で、本物そっくりのレプリカ作りが去年始まりました。
京都国立博物館がもっている3Dプリンターを活用して作成したのです。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)

・・・・・・・・・・・・・・   (3Dプリンターでの仏像レプリカ制作の難しさや、苦労話などの話の記事が続きます)

そして6月初旬、地域の人たちが初めて作業現場を訪れ、レプリカと対面しました。
本物そっくりの姿に、歓喜の声があがりました。
衣のひだにうっすらと積もったほこりも再現され、細部に施された工夫に、じっくりと見入っていました。
そして、およそ1年の作業を経て完成したレプリカは6月13日から、京都国立博物館で、実物と並べてお披露目されています。

レプリカは、8月の地蔵盆に合わせて、地域の人たちが待つお堂に運ばれます。
そして、これからずっと、実物の代わりに安置されることになっています。
保存会の会長を務める矢島隆さんは、
「地域の宝として、これから大切にしていきたいです。関係者の皆さんに本当にお礼が言いたいです」と話していました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1000年の時を超えて、地域で親しまれ、残されてきた地蔵菩薩像。
3Dプリンターの技術や、慎重な色づけ作業のおかげで本物そっくりに仕上がったレプリカは、貴重な文化財を、どうやって後世に引き継いでいくのか、1つのヒントを示してくれているように感じました。」


お祀りされる主がいなくなってしまったお堂に、レプリカとはいうものの、地蔵菩薩が戻ってくることになった訳です。



【「信仰の対象としての仏様」と「貴重な文化財としての仏像」との折り合いの悩ましさ】


観光客、参拝客が多く訪れる有名寺院の場合は、こうした問題は起こらないのですが、地元の地区の人々に守られているお堂に祀られた仏像や、無住のお寺、住職はいらっしゃっても檀家や訪れる人も少ないお寺の仏像が、仏教美術として貴重な文化財であった場合、どのようにしてしっかり管理していくのかというのは、本当に難しく、悩ましい問題だと思います。

重要文化財に指定されている仏像の場合、お寺やお堂でお祀り管理していこうとすると、防災対策がされた収蔵庫が、原則必要ということになりますし、収蔵庫建設費用の地元やお寺の負担金も相当に必要ということになってしまいます。
また、収蔵庫が出来たとしても、防犯対応等の維持管理の手間も、なかなか大変です。

一方、仏さまは、その地の人々に永年守られ、厚い信仰のおかげで、現在在る訳で、
「貴重な文化財なので、博物館に移して管理します。」
と云われても、何とも割り切れない気持ちになってしまうことだろうと思います。


私も、地方のお寺や、地区の管理となっている仏像を拝しに、訪れることがよくありますが、

「大事にお祀り、お守りしているのですが、仏像もお堂の修理も、なかなかお金がかかってままならないのですよ。」
「貴重な文化財と云われても、管理していくのもなかなか大変で・・・・・」

といったお話を伺うことがよくあります。

ニュースになった新町地蔵保存会の地蔵さまも、博物館から戻そうとすると、お金をかけて収蔵庫を造らなくてはならないでしょうし、
コンクリートの収蔵庫ではなくて、今の小さなお堂にお祀りしてこそ、地元の人々にとって、お守りして拝する意味もあるということなのかと思います。

今般の、国立博物館の3Dプリンターによりレプリカを制作し、そのレプリカをお堂の方にお祀りするという話は、

「信仰の対象として祀られる仏様」と「仏教美術の貴重な文化財としての仏像」

という問題に、何とか折り合いをつける方法として、編み出されたものなのでしょう。

きっと、これがベストという訳ではないのでしょうが、大きなコストをかけずに、上手に対応していく一つのやり方として、これからも増えていくのかもしれません。



【京博で、本物とレプリカをセットで展示中】


この3D プリンターを用いたレプリカは、本物の重要文化財の地蔵像と二つ並んで、京都国立博物館に展示されているそうです。

京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ
京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ

レプリカの方は、8月17日に地元のお堂に戻って、19日の地蔵盆で開眼法要が営まれるということです。

どの程度精巧で、見紛うようなレプリカなのでしょうか?
機会があるようでしたら、京博に寄ってみられては如何でしょうか。



【近年の仏像模造、あれこれ】


近年、仏像の模造制作、いわゆるレプリカの精度は、本当に本物に限りなく近づいているようです。

ご存じのように、美術院国宝修理所では、制作当時の仏像の製作技術を研究するとともに、技術レベルの向上のためもあって、仏像の模造制作が行われています。
近年(2013年)では、唐招提寺・鑑真和上像の脱活乾漆技法による模造制作が行われました。

唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付けをする前唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付け後
唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)
~(左)古色付けをする前、(右)古色付け後~



また、東京藝術大学を中心とした「クローン文化財」と称する、文化財の模造制作も、マスコミを賑わして話題となっています。
仏像では、今年(2017年)「法隆寺・釈迦三尊像」の模造が、東京藝大と富山高岡市との連携で制作されました。
3Dデータ計測、および3Dプリント出力による原型づくりを行い、高岡の鋳造技術により金銅仏の模造を「クローン文化財」として制作したものです。
いわゆるレプリカ(複製)とは異なり、オリジナルを超越するという位置付けだそうです。

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~鋳造すぐの姿

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)
法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~(上)鋳造すぐの姿

この「クローン文化財」の法隆寺釈迦三尊像は、2017年7月2日まで、東京藝術大学の「Study of BABEL」展で、展示されています。
私も観てきましたが、なかなかの精巧なレベルで真迫性もあり、ビックリしました。



NHKニュースで採り上げられた、新町地蔵保存会のレプリカ制作と里帰りの話題、
近年の3D技術の精巧さに、今更ながら驚かされるとともに、
「信仰される仏様」と「文化財保護保存」という悩ましき問題の折り合いについて、考えさせられる話でした。

トピックス~「広島・古保利薬師堂、薬師坐像の手」仏像の手の話⑥  【2017.6.18】


【忘れ得ぬ「貞観の手、貞観の指」との出会い】


この手を初めて見た時、思わず、その魅力に惹き込まれてしまいました。

広島県の山中にある古保利薬師堂の薬師如来像の手です。

古保利薬師堂・薬師像の右手(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影)

古保利薬師堂・薬師像の左手(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影)
古保利薬師堂・薬師像の手~右手(上)、左手(下)
(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影写真)


ご覧の「手の写真」は、初めてこの薬師像に出会ったときに、撮った写真です。

薬師像を拝すると、まず、グッと突き出した大きな手のひらが、目に飛び込んできます。
その手から発散するエネルギッシュなパワーに、まずもって圧倒されてしまいました。

グッと突き出した大きな右手に圧倒される古保利薬師堂・薬師像
拝すると、グッと突き出した大きな右手に圧倒される古保利薬師堂・薬師像

なんとも分厚い手のひら、太い指です。

「逞しく、頼もしく、力強く」

こんな修飾語がぴたりとあてはまるようです。

「凄い、貞観の手だ、貞観の指だ!」

と、すっかりその手の魅力の虜になってしまいました。

そんな興奮を覚えたのは、もう45年も前のことです。
昭和46年(1971)の夏、二十歳過ぎの学生時代に、はじめて古保利薬師堂を訪ねた時のことでした。



【苦労して訪ねた、広島の山間にある古保利薬師堂】


「古保利薬師堂? 聞いたことのないお寺だな。」

という方も、いらっしゃるのではないかと思います。

地方仏探訪をされたことがある方は、よくご存じなのではないでしょうか。
魅力あふれる平安古仏群が残されていることで、山陽方面の地方仏行脚では、必見度ナンバーワンといってもよいところかと思います。

古保利薬師堂は、広島県山県郡北広島町という処にあります。

広島市から北の方の山間部にあって、もうすぐ島根県との県境という鄙の地です。
私が学生時代、同行のメンバー数人でここへやってきたときは、広島駅からバスに乗って2時間もかかりました。
「八重」という名のバス停で降りて、お堂のある小高い森までトボトボ歩いて、やっとこさで行きついた覚えがあります。

今では「中国縦貫道の千代田インターから5分で到着」しますので、あの頃、苦労して訪ねたことが夢のようです。



【「豊かで、おおらか」地方仏の魅力満点の薬師像~平安前期の優作】


古保利薬師堂は、村の人々で管理されている無住のお堂でした。

昭和30年代の古保利薬師堂参道

昭和30年代の古保利薬師堂本堂
昭和30年代の古保利薬師堂参道と本堂

案内いただいた方によって、薬師如来像が祀られるお厨子が開かれた時、真っ先に目に飛び込んできたのが「この手」という訳です。

厨子が開かれると、真っ先に目に飛び込んでくる、逞しき右手((昭和46年夏、撮影)border=
お厨子が開かれると、真っ先に目に飛び込んでくる、逞しき右手
((昭和46年夏、撮影写真)


「逞しき手」に、釘付けになってしまったのでした。

薬師如来像の姿は、ご覧のとおりです。

古保利薬師堂・薬師如来坐像
古保利薬師堂・薬師如来坐像

一言で云えば、

「なんといっても、豊かなボリューム感が魅力!」

という表現に尽きるように思います。

「丸々と太った顔、大きな眼、彫りの深い衣文、はち切れるような量感」

で、観るものを惹き付けます。

古保利薬師堂・薬師如来坐像~丸々と太った顔、大きな眼が印象的
古保利薬師堂・薬師如来坐像~丸々と太った顔、大きな眼が印象的

平安前期の堂々たる優作と云って、間違いありません。
平安前期の像と云うと、

「緊張感ある迫力、強烈な個性や森厳さ、霊威的なオーラ」

このような言葉で形容されるイメージがあるのですが、この古保利薬師堂の薬師像は、そうした気合を入れた緊張感といったものを感じさせません。

「明るくおおらかで伸びやか、豊かで頼もしい」

そんな言葉が似つかわしいのです。

古保利薬師堂・薬師如来坐像~おおらかで伸びやか、豊かな造形
古保利薬師堂・薬師如来坐像~おおらかで伸びやか、豊かな造形

山陽地方の穏やかな気候に相応しく、土地の人々の豊穣の喜びがそのまま吹き込まれたような息吹を感じてしまうのです。

「これぞ、地方仏の魅力そのもの!」

といって良いのではないでしょうか。

そんな魅力の極め付けが、「肉付きの良い、頼もしい手」という訳です。



【専門家、評論家も「薬師の手」を絶賛】


古保利薬師堂を訪れた専門家や評論家の方々も、この「薬師如来の手」に、強く惹きつけられるものを感じられたようです。

その著作の中で、「手の魅力」を語っている文章を、ご紹介したいと思います。

地方仏の紹介者として知られる丸山尚一氏は、このように語っています。

「本尊の薬師如来像は坐高124㎝、仏像としてそれほど大きな方ではないが、その豊かな量感が坐高以上の大きさを感じさせる。
・・・・・・・・・
こんな大きな眼の仏像が、他にあるだろうか。
ぼくは見たことがない。
また、その大きな右手を見たまえ。
仏の手というより、仏を作る職人の力強い手だ。」
(「生きている仏像たち~日本彫刻風土論」1970年読売新聞社刊)

観る人を魅了し、惹きつけてやまない古保利薬師像の右手
観る人を魅了し、惹きつけてやまない古保利薬師像の右手


日本彫刻史研究の大御所、久野健氏の解説です。

「顔も、体躯も丸々と肥満しているところは、天平時代でも古い頃の様式が残っており、さらに唇に古式の微笑をたたえているところなど、まことに古様である。
肉付きの良い頼もしい両手は、新薬師寺薬師如来像の手に近いが、さらに古い要素を持っている。」
(「続・日本の彫刻~東北―九州」1965年美術出版社刊)

側面から見た古保利薬師像~右手指の大きさ太さが際立つ
側面から見た古保利薬師像~右手指の大きさ太さが際立つ
新薬師寺・薬師坐像の腕・手を思わせる



岡山の美術評論家、柳生尚志氏が綴った文章です。

「何よりも広げた掌の大きさに感動する。
指の一本一本が太く、厚く、仏の手というよりも土着の働く農民の手である。
これほどまでに健康で明るく、あけっぴろげな仏は珍しいと思う。」
(「西の国の仏たち」1996年山陽新聞社刊)

古保利薬師像の右手
分厚く太い指の、古保利薬師像の右手

それぞれに、表現は違いますが、「薬師像の手の造形」に目を瞠り、その魅力に賛辞を送っているのが、お判りいただけると思います。
それほどに、惹きつけるものを感じさせるのだと思います。


私も、古保利薬師との初めての出会いで、薬師如来の手に感動して以来、この手は、ずっと「平安前期の当初の制作」そのものだと信じ込んでいました。



【現代の新造だった「薬師の手」~知らなかった驚きの事実】


ところが、何と、そうではなかったのです!

そのことを知ったのは、古保利薬師を訪れてから四半世紀も経った頃ではなかったかと思います。
ある時、こんな珍しい古書を手に入れたのです。

「回想の古保利薬師」 三宅昭典編著 1985年刊  124P

回想の古保利薬師(私家版・1985年刊)

私家版の本で、少部数発行された本だと思います。

編著者の三宅昭典氏(歯学博士)は、長らく古保利薬師堂の護持、保存に努められてきた、地元の歯科医師、三宅蔶氏の長男にあたる方だそうです。

この私家版の本に、こんな記述があるのを見つけました。

「薬師如来像の手は、戦後、昭和の新造の手である。」

と、書かれていたのです。

「エ、エッ!! あの手は現代の手なの!」

超ビックリ、驚きの新事実です。

このように書かれていました。

古保利薬師堂・薬師如来像~右手
古保利薬師堂・薬師如来像~右手
「最後に手であるが、仏像に関心のある者が、仏体の造形上の性格によくあった貞観期の仏手として称賛されている。
しかし実情を紹介すると、これは仏師白石氏の制作にかかるものである。
それ以前は、元禄6年に立川氏を願主としての修理の際の作品で、実に粗末な見るに耐えないしろ物であった。
白石氏は、平安初期の代表的薬師如来である奈良の新薬師寺の仏手をイメージしながら新造したといわれた。」
(岡徹夫氏執筆「古保利薬師堂」の一節~「回想の古保利薬師」所収)


私が、薬師像にはじめてであった時、

「凄い、貞観の手だ、貞観の指だ!」

と、感動した手と指は、なんと現代の手、新造された手だったのでした。



【昭和24年の修理の時、白石仏師の手で新造されていた】



薬師如来像は、昭和24年(1949)の2月から5月の三か月をかけて、白石義男氏の手により修理されていました。
その時に、江戸の後補の手の部分を除去して、新造の手を制作したものであったのでした。
(松本眞著「古保利の仏像」広島修道大学学術選書・2004年刊所載の年表による)

修理にあたった白石義男氏は奈良在住の仏師で、仏像修理の「美術院」に長らく籍を置いた方だそうです。

「回想の古保利薬師」の本や、松本眞著「古保利の仏像」には、古保利薬師堂仏像修理をする白石氏の写真や、修理前の薬師像の姿、江戸の後補の手の写真などが、掲載されていました。

白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)
白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)

古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)

古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)
古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)


修理前の薬師像の姿は、今の魅力あふれる姿とは、似ても似つかない様な姿で、拙劣な上塗りで大きく像容を損じています。
江戸の後補の、取り除かれた手は、何とも拙劣、不細工と云えるものです。

昭和24年の修理前の古保利薬師像(松本眞著「古保利の仏像」所載)

昭和24年の修理前の古保利薬師像の江戸時代後補右手(松本眞著「古保利の仏像」所載)
昭和24年の修理前の古保利薬師像の姿と、取り除かれた江戸の拙劣な後補の右手
(松本眞著「古保利の仏像」所載)"


こんな見映えのしない像が、白石仏師の手で、貞観彫刻の魅力を取り戻すことが出来たのです。
そして、「新造された手」は、多くの専門家の方の眼にも、「制作当初からの魅惑の手」に映ったという訳です。

それほどに「見事な造形の新造の手」であるということなのだと思います。
白石仏師の巧みで素晴らしき腕に、感嘆、讃嘆するばかりです。



【新薬師寺・薬師像の手をイメージして造られた、古保利薬師の手】


久野健氏は、
「肉付きの良い頼もしい両手は、新薬師寺薬師如来像の手に近い。」
と綴っていますが、

白石仏師自身も、
「奈良の新薬師寺の仏手をイメージしながら新造した」
と語っています。

新薬師寺・薬師如来像古保利薬師堂・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像と古保利薬師堂・薬師堂

たしかに、新薬師寺・薬師像の逞しい手の指と見較べてみると、そっくりです。
古保利薬師像の手の方が、少々野太く、ゴツイ感じがしますが、よく似ています。

側面から見た新薬師寺・薬師如来像の右手

側面から見た古保利薬師堂・薬師如来像の右手
側面から見た新薬師寺・薬師如来像(上)と、古保利薬師堂・薬師像(下)の右手

新薬師寺・薬師如来像の右手指古保利薬師堂・薬師如来像の右手指
新薬師寺・薬師如来像(左)と古保利薬師堂・薬師像(左)の右手指


この驚きの新事実を知って、私は、
「なーんだ、昭和の新造か! カッカリだなー!」
と思ったというのではなく、
「昭和の仏手でも、観る者を、これだけ感動させる魅力あるカタチを造ることが出来るのだ!」
と、むしろ讃嘆の声を上げたい気持ちになりました。

まさに、モノの見事に、平安初期の迫力ある造形精神を注入した仏手の表現を、成し遂げたといえるのではないでしょうか。



【古保利・薬師像の魅力を存分に引き出した、現代の手】


田中恵氏も、その著作の中で、

「この手が後補新造だといえども、いささかもその魅力を減じるものではない」

という思いを、このように語っています。

「薬師像の右手の豊かさは、・・・・・強さと自信に満ちた意志の力を感じる造形である。
だが、右手の指は後補らしいと最近聞いた。
・・・・・・・
戦前の古保利の薬師の手はついているが現在のようなものではない。
従って常識的には、戦後の後補である。
しかし何とぴったりの手だろうか。
もしすべて後補としても、その存在感は後補の作者が全体の造形を鋭く観察していた結果であろう。
今でも、この手が後補ということは考えたくないほどである。」
(「隠れた仏たち・里の仏」1997年・東京美術刊所収)
~なお、古保利薬師の手は、両手先とも新造の後補です~


全くの同感です。

私達は、古仏の腕や手、顔などが後補だとわかると、

「なーんだ! 後補の模造か!」

と、ちょっと馬鹿にしたり、軽んじたりすることが、間々あるように思います。

たしかに、いかにも出来が悪かったり、わざとらしかったりするものも多いのですが、一方で、制作当初の造形精神を見事に体現している、素晴らしい新造の後補のものにも出会うことがあります。
古保利の薬師像の新造の手は、この仏像の魅力を、減衰させるどころか、むしろ、魅力を一層引き出し、惹きつける役割を果たしているといえるのでしょう。

この手がなければ、古保利の薬師像は、これほどに傑出した地方仏として、その魅力を語られることは無かったのに違いありません。

仏手の新造にあたった白石仏師に、大いに感謝しなければならないのかもしれません。



【奈良の有名国宝仏にも、間々ある、新造後補の手】


ちょっと余談ですが、日頃見慣れている名作仏像のなかにも、手が新造後補という仏像は、結構あるものです。

天平彫刻の傑作、興福寺・阿修羅像の右手合掌手や、東大寺戒壇院の四天王像の腕と手、三月堂の日光菩薩の指先なども、明治年間に、新納忠之介をはじめとする美術院によって、新造後補されたものです。
修理前の古写真と、現在の写真を見較べていただけると、一目瞭然で、よく判ると思います。

明治修理以前の腕の折れた興福寺・阿修羅像(明治27年・工藤利三郎撮影)
明治修理以前の腕の折れた興福寺・阿修羅像(明治27年・工藤利三郎撮影)

興福寺・阿修羅像(明治35~38年の修理で折れた手が修理修復された)
興福寺・阿修羅像(明治35~38年の修理で折れた手が修理修復された)


明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている
明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている

東大寺戒壇堂・四天王像(増長天像)東大寺戒壇堂・四天王像(広目天像)
現在の東大寺戒壇堂・四天王像~(左)増長天像、(右)広目天像


東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)
東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)

これらも、新造後補とはいうものの、当初の造形表現に見事にマッチし、それぞれの仏像のもつ魅力を一段と高めているようです。

制作当初の造形精神、造形表現の体現を追求し、仏像修理修復にあたってきた仏師の方々の、労苦、研鑽に思いを致すのも、また大切なことと改めて感じました。


今回は、若き日にその魅力の虜になった、広島の山奥にある「古保利薬師堂・薬師像の手」にまつわる物語をご紹介させていただきました。



【魅力あふれる平安古仏群がどっさりの古保利薬師堂】


なお、この古保利薬師堂には、薬師如来像の他にも、数多くの平安前中期の魅力あふれる一木彫像群が残されています。
全部で12体が、収蔵庫に安置されており、全て重要文化財に指定されています。

現在の古保利薬師堂・収蔵庫の諸仏安置状況
現在の古保利薬師堂・収蔵庫の諸仏安置状況

なかでも、千手観音像、四天王像は、ひときわ惹きつけるものを感じる像です。

千手観音像は、千手の腕まですべて本体と共木で刻み出した像で、こうした造りの像は、本像の他には見られないのではないかと云われています。
前話の新薬師寺・薬師像の話ではないですが、「徹底した一木へのこだわり、執着」を感じさせる像です。

古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている

古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている
古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている

四天王像は、大きな動きで怒りをむき出しにした強烈な個性のある姿ですが、何処かしら愛着を感じる表情が魅力の古様な像です。

古保利薬師堂・四天王像~持国天像古保利薬師堂・四天王像~多聞天像
古保利薬師堂・四天王像~(左)持国天像、(右)多聞天像

古保利薬師堂・四天王像~増長天像
古保利薬師堂・四天王像~増長天像


まだ古保利薬師堂を訪ねられたことのない方は、是非一度、薬師像をはじめとした諸仏を拝されることをお薦めします。

私が、2009年に再訪したときには、寺観が整備されていて、40年前とはすっかり様変わりで、隣に歴史民俗資料館まで建てられていました。
仏像は、昭和56年(1981)に新造された収蔵庫に安置され、大変明るい照明のなかで拝することが出来ました。

古保利薬師堂・仁王門~昭和59年・1984新築
古保利薬師堂・仁王門~昭和59年・1984新築

古保利薬師堂・収蔵庫~昭和56年・1981新築
古保利薬師堂・収蔵庫~昭和56年・1981新築


広島県の山間というちょっと不便なところにありますが、中国縦貫道・千代田インターから5分の近さです。
わざわざ行ってみる値打ちのある、素晴らしい魅力の平安古仏群に出会えることと思います。


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