観仏日々帖

古仏探訪~「山科区御陵平林町・安祥寺の十一面観音像」京のかくれ仏探訪⑧   【2016.09.23】


今回は、山科にある安祥寺の本尊、十一面観音立像をご紹介したいと思います。

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)

安祥寺・十一面観音像(大遣唐使展図録掲載)
安祥寺・十一面観音像



【知られざる奈良時代に遡る一木彫像~安祥寺・十一面観音像】


この十一面観音像は、近年、その存在が注目された仏像です。
ご覧のとおり、堂々たる、大変出来の良い一木彫像です。
そして、なんと奈良時代の制作に遡る古像ではないかとみられているのです。

この安祥寺・十一面観音像、2010年春に、奈良国立博物館で開催された「大遣唐使展」に出展されました。

大遣唐使展ポスター

この時が、本像が、一般の人の目に触れた初めての機会であったと思います。

「知られざる、奈良時代の一木彫像の出展」

ということで、愛好者の間では大きな話題となりました。
ご覧の写真は、大遣唐使展の図録に掲載された写真です。

実は、私はこの「大遣唐使展」に出かけることが出来ず、注目の奈良時代の一木彫像を見逃してしまったのでした。
それ以来、何とか一度は拝したいものと、念願していました。

安祥寺は非公開寺院で、お寺の境内にも立ち入ることが出来ません。
そんなことで、十一面観音像の拝観も無理なのであろうと思っていたのですが、今春に拝観することが叶いました。
そこで、この「京のかくれ仏探訪」で、ご紹介させていただきたいと思います。



【安祥寺と云えば、重文・五智如来像~9世紀、入唐僧・恵雲の開山】


ところで、ここで採り上げる「安祥寺」というのは、「平安前期の五智如来像で知られる、あの安祥寺」のことです。
ご紹介の本尊の十一面観音立像については、近年まで、知られていなかったというか、注目されることは無かったのでした。


十一面観音像の話に入る前に、安祥寺とゆかりの仏像について、ちょっと振り返ってみたいと思います。

ご存じのとおり、安祥寺は、嘉祥元(848)年、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(809-871)の発願により、入唐僧・恵運(798-869)が開山した真言系の密教寺院です。
山科の地に建立され、山上伽藍=上寺と山下伽藍=下寺があり、大伽藍の定額寺として、大いに繁栄しました。

都名所図会の安祥寺伽藍
都名所図会(江戸後期)の安祥寺伽藍図

著名な五智如来像は、開山・恵運による造像で、いわゆる承和様式に連なる850年代の制作とされています。
中尊・大日像が像高161㎝という大きな像で、重要文化財に指定されています。
五智如来像は、京都国立博物館に寄託されており、平常陳列に5躯揃って長らく展示されていましたので、皆さん、何度もご覧になっていることと思います。
(現在、平成知新館の平常陳列には、展示されていません。)

安祥寺・五智如来像

安祥寺・五智如来像中尊~大日如来像
安祥寺・五智如来像~(下)中尊・大日如来像

もう一つ、安祥寺ゆかりの仏像といえば、現在、東寺・観智院に祀られる五大虚空蔵菩薩像(重文)です。
この五大虚空蔵像は、入唐していた恵運が、承和14年(847)に帰朝した際に、唐より将来し安祥寺に安置されていました。
後に東寺の観智院に移されたものです。

東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~金剛虚空蔵菩薩像
東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像~(右)金剛虚空蔵菩薩像


平安時代前期には大いに繁栄した安祥寺も、平安末期以降衰退し、上寺は中世には廃絶したようです。
下寺の方は、応仁の乱で焼失したと伝えられ、現在では、江戸時代に復興した堂舎が残されています。



【山科、琵琶湖疎水べりに、ひっそりたたずむ安祥寺】


安祥寺をお訪ねしたのは、今年(2016年)の4月でした。

安祥寺は、山科区御陵平林町、JR山科駅から北へ1キロほどのところにあります。
駅から北に10分ほど歩くと、閑静な住宅の傍を琵琶湖疎水が流れています。

山科付近の琵琶湖疎水
山科付近の琵琶湖疎水風景

明治年間に、琵琶湖から京都市内まで人工的に水をひくという一大プロジェクトによって建設された、あの琵琶湖疎水です。
疎水は、この山科から、皆さんご存知の蹴上インクライン、南禅寺水路橋・水路閣へと続いていくのです。

山科疎水は、遊歩道が整備され、緑あふれ心安らぐ散歩道になっています。
桜は散ってしまいましたが、新緑の木々と疎水の流れを眺めていると、本当に和やかな気持ちになります。

めざす安祥寺は、この山科疎水べりに、ひっそりと在りました。

琵琶湖疎水べりにある安祥寺
山科・琵琶湖疎水べりにある安祥寺

疎水に面したところにある表門は、しっかりと閉じられています。
インターフォンを押すと、ご住職がお見えになり、本堂にご案内いただきました。

安祥寺表門
安祥寺・表門

実は、安祥寺の十一面観音像を是非とも拝させていただきたい旨のお願いの書状を差し上げ、ご連絡した処、非公開にされているそうですが、特別に拝観のご了解を頂戴したのでした。

ご住職に、ご挨拶方々、本日の拝観の御礼を申し上げると、ご住職自身も80歳過ぎのご高齢の故、一般の訪問への対応は大変なので、原則非公開にして拝観も謝絶されているというお話でした。

表門をくぐって参道を北に上がると、森に囲まれた丘陵の裾に、江戸時代に再興されたという本堂、本堂手前東方に地蔵堂、大師堂が並んでいました。
念願の十一面観音像は、本堂に祀られています。

安祥寺・本堂

安祥寺・地蔵堂
安祥寺・本堂(上)、地蔵堂(下)


【伸びやかで均整のとれた腰高プロポーションに、目を奪われる】


本堂内には、須弥壇上に大きく広いお厨子があり、その中に十一面観音像が安置されていました。

本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像
本堂須弥壇上の厨子に祀られる十一面観音像

見上げるほどに長身で、すくっと立つ凛とした姿に、目を奪われます。
像高252㎝、半丈六立像の一木彫です。

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

「天平彫刻を観ているようだ」

一見して、そのように感じました。
それも、キリリと締りがあるプロポーションです。
堂々たる巨像なのですが、腰高で均整がとれたシルエットで、いわゆる八頭身なのが印象的です。

安祥寺・十一面観音像.安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

平安初期像のような肥満したとか、デフォルメしたようなところは、全くみられません。
身体のバランスが見事にとれた造形表現です。
「しなやか、伸びやか、おおらか」
この十一面観音像には、こんなキーワードが、似つかわしいように感じます。

安祥寺・十一面観音像

安祥寺・十一面観音像
安祥寺・十一面観音像

胸の張り、ウエストのくびれ、腰回りのふくらみなどは、天平彫刻の造形感覚を思わせるものを強く感じます。
「奈良時代の制作に遡る一木彫像」
とみられるというのは、全くその通りだなと思いました。
それも、中央作の像といってよいのでしょう。



【黒光りする観音像~当初は、乾漆併用の像だった】


厨子内のライトをつけていただいたせいもあるのでしょうか。
黒く漆で地固めされた像の表面が、照り返すように光って、金銅仏のような硬質感を感じます。
現在は、漆で黒光りしているのですが、もともとはそうではなかったようです。

十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
十一面観音像の足先残欠(乾漆が盛られている)
調査によると、面部や上半身には後世の黒漆塗りの下に、布貼り、木屎漆の層があり、いわゆる乾漆併用像であったということです。
お寺には、観音像の当初の足先部分(現在の両足先は後補)の残欠が残されており、そこには乾漆が全体的に薄く盛上げられていることからも、乾漆併用像であったことがわかるのです。

そうすると制作当時は、今のような硬質な感じではなくて、東寺講堂諸像や、観心寺如意輪観音像、神護寺五大虚空蔵像のような、木屎漆のモデリングによるソフトでふくらみがあるような印象を感じる像であったのでしょう。



【奈良時代に遡る、数少ない一木彫像の例との解説】


この十一面観音像は、一木彫像には珍しい奈良時代の制作に遡るとみられていますが、ちょっと専門家の見方、解説をみてみたいと思います。

安祥寺彫刻調査により、本像に注目、再評価した根立研介氏は、このように述べています。

「改めてこの像を見ると、伸びやかな身體を持ち、肉身の抑揚も自然で、先にも触れたようにその造形には奈良時代の古佛に通じる古様さが認められる。

面貌に関しても、子細に見れば眼嵩縁を半円形に明瞭に表す点は、奈良時代頃の佛像にしばしば認められるもので、さらにV字形の下瞼を持ち目尻が上るところなどは、奈良時代後半期に制作された京都・高山寺伝来(東京藝術大學所蔵)の木心乾漆造月光菩薩像の顔立ちに近いところがある。
また、肩を張り、胴部を絞った腰高の造形は、奈良時代後期の奈良金剛山寺十一面観音立像や法隆寺観音菩薩立像の造形などにも相通じるところがある。

カヤ材を用いた乾漆併用の一木造りという造像技法も併せ考慮すれば、この安祥寺の十一面観音像の制作年代は奈良時代後期に遡る可能性が十分考えられよう。」
(「安祥寺十一面観音立像」根立研介・国華1355号2008.09)

東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)安祥寺・十一面観音像顔部
(左)東京芸大蔵・月光菩薩像(高山寺伝来)、(右)安祥寺・十一面観音像

大遣唐使展図録の解説は、次のとおりです。

「頭部を小さく、腰の位置を高くとった姿は均整がとれ、的確な肉取りによって、のびやかで、かつ、しなやかな姿態表現があらわされている。
このような品格高い彫刻表現を生み出す背景には、遣唐使らがもたらした盛唐前期(8世紀前半)の彫刻様式の影響が考えられる。

つまり本像には、奈良彫刻の正統派の造形感覚が感じられるのである。」
(「大遣唐使展図録」鈴木喜博氏解説2010.4)

金剛山寺・十一面観音像.法隆寺・観音菩薩立像
(左)金剛山寺・十一面観音像、(右)法隆寺・観音菩薩立像

薬師寺・十一面観音像.圓満寺(和歌山)・十一面観音像
(左)薬師寺・十一面観音像、(右)圓満寺(和歌山)・十一面観音像

ついでにもう一つ、本像が2011年に重要文化財に指定された時の解説には、このように記されています。

「その腰高の像容は、奈良・薬師寺十一面観音像(重要文化財)、和歌山・圓満寺十一面観音像(重要文化財)、奈良・金剛山寺十一面観音像(重要文化財)等に通じ、裾背面の左右に縦に並べ刻まれた茶杓形衣文は圓満寺像、金剛山寺像や唐招提寺木彫群のうち、伝衆宝王菩薩像(重要文化財)、奈良・大安寺伝楊柳観音像(重要文化財)等と同様である。
また、胸飾の列弁を二段に重ねる意匠は唐招提寺伝獅子吼菩薩像(重要文化財)の天冠台にみられるものである。
金剛山寺像とは両脚の間の衣文および衣縁の形も類似している。

このように本像の作風には奈良時代風が濃厚に認められ、いわゆる翻波式衣文を表さないことからしても、その末期までには造られていたと思われる。」
(月刊文化財573号「新指定重要文化財の解説」2011.6)

金剛山寺・十一面観音像~背面安祥寺。十一面観音像~背面
(左)金剛山寺・十一面観音像~背面、(右)安祥寺・十一面観音像~背面

唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾
(左)唐招提寺・伝獅子吼菩薩像~列弁天冠台、(右)安祥寺・十一面観音像~列弁胸飾

金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文安祥寺・十一面観音像~脚部衣文
(左)金剛山寺・十一面観音像~脚部衣文、(右)安祥寺・十一面観音像~脚部衣文

いずれの解説も、奈良時代にまで遡る像とされています。



【注目される、古典的な奈良風造形感覚一木彫像の世界】


一昔前には、奈良時代は乾漆と塑像の時代で、平安初期に至って一木彫の時代になると、一般に考えられていました。
奈良時代に遡る一木彫像は、唐招提寺の木彫群、大安寺の木彫群、薬師寺十一面観音像ぐらいとされていたのかと思います。
近年は、新薬師寺・薬師如来像をはじめとして、奈良時代に遡るものも、それなりにあるのではないかと云われるようになりました。

また、此処に名前が挙げられている、金剛山寺・十一面観音立像、法隆寺・観音菩薩立像、圓満寺・十一面観音立像なども、昔は、平安時代の制作とみられていたのではないかと思います。
ところが、近年では、これらの像も、奈良時代の制作とみられるようになってきたようです。

いわゆる、平安初期の典型と云われる肥満、デフォルメ、森厳といった造形とは別の系統の、古典的な奈良風の造形感覚を継承した一木彫像のタイプという、新たな視点で考えられるようになってきたようです。

「奈良時代に遡る、奈良風一木彫像の世界」

とでも呼んでみるのでしょうか?
ご紹介した安祥寺の十一面観音像も、金剛山寺像、法隆寺像、圓満像などと同様に、奈良風の造形感覚を継承した一木彫像といってよいのでしょう。
安祥寺像は、それらの中でも、傑出した優作の巨像として、大いに注目される像だと思います。



【大きく湾曲したカヤ材から彫り出された観音像~霊木像か?】


ところで、この十一面観音像の材質や構造はどうでしょうか?

カヤ材の一木彫像で、背面から内刳りがされています。
注目されるのは、円弧状にかなり湾曲した材を使い、材内部にはウロ状の空洞が広がっているとみられることです。

根立研介氏は、このことについて、

頭部がかなり前傾している安祥寺・十一面観音像
頭部がかなり前傾している
安祥寺・十一面観音像
「木心は、地髪部頂き付近と裙裾付近ではほぼ中央に位置しているものの、上背部辺でいったん像から外れ、腰下付近で再び像内に入り込むように後方に大きく弧を描いていることが判明した。
頭部の前傾の角度がかなり大きくなつたのも、こうした木心の性質に影響されたところもあろう。

それにしても、これだけの巨像の用材に、これほど湾曲した木心を持つものが使用されていたことには驚かされる。
・・・・・・・・
この像は木心が大きく湾曲し、さらに一部ウロ状の空洞が広がっているカヤの木を敢えて用材としたと思われ、霊木などといつた特殊な要因に基づいて用材の選択が行われた可能性がある。」
(「安祥寺十一面観音立像」国華1355号2008.09)

と、カヤ材の霊木を以て造像した可能性に言及しています。

この観音像を拝していると、頭部を不自然なほどに大きく前に傾けているようにみえます。
頚から上は付け替えられたのではないだろうか思うほどの傾きで、一見違和感があったのですが、湾曲した霊木を使用した故の前傾と云われると、なるほどと納得しました。



【十一面観音像の当初安置寺院は?~近接の山階寺か】


さて、十一面観音像が奈良時代の制作ということになると、平安時代創建の安祥寺に於いて造像されたということは、あり得ないこととなってしまいます。
冒頭にふれたように、安祥寺は、平安時代、嘉祥元年(848)の発願で、恵運が開山した真言密教寺院なのです。
貞観9年(867)勘録の「安祥寺資財帳」にも、本像に該当する記載はありません。
また、十一面観音像の当初安置寺院について示唆する記録や伝承も、全く残されていないようです。

何処の寺から、安祥寺に移されたのでしょうか?
山階寺址推定地・石碑
山階寺址推定地・石碑

これだけの正統派の優作巨像ですから、それなりの大寺院に祀られていたに違いありません。
根立研介氏は、同じ山科の地にあった「山階寺」に安置されていた可能性に言及しています。

山階寺(やましなでら)というのは、奈良・興福寺の起源とみなされている寺で、現在の安祥寺の寺域を西端に含む安祥寺下寺の近接地にありました。
山階寺の伽藍配置や規模も、明らかにはなっていませんが、

「山階寺は、この像の当初の安置寺院の候補地として、なかなか魅力的に思えてくる。」

と、根立氏は述べています。



【近年の安祥寺総合調査で、発見・再評価された十一面観音像~奈良時代の制作と判明】


話が後先になってしまいましたが、この安祥寺の十一面観音像が、奈良時代に遡る一木彫像として注目されることになったいきさつについて、ふれておきたいと思います。

安祥寺・十一面観音像の調査が行われることになったのは、京都大学の「王権とモニュメント」と題する研究会で、安祥寺の調査研究がテーマとなったことによるものでした。
この研究会では、2002年から数年間にわたり多方面の分野からの総合研究が行われ、その成果として、
「安祥寺の研究Ⅰ・Ⅱ」(2004・2006)
「皇太后の山寺 ~山科安祥寺の創建と古代山林寺院」(上原真人編・柳原出版2007.3刊)
が、出版されました。

仏像については、2005~7年度に、根立研介氏等によって調査が実施されました。
この時調査された仏像は、本堂安置の十一面観音像、四天王像、地蔵堂の地蔵菩薩像などでした。
目視調査に加えて、X線撮影調査、樹種同定調査などが実施された結果、十一面観音像は奈良時代に遡る一木彫像であること、四天王像は平安前期の制作とみられることが明らかになったのでした。

安祥寺にこれらの諸像が存在することについては、以前から知られていたようです。
明治期には臨時宝物取調局が、第二次世界大戦中には京都府社寺課が調査を行うなど、一部の文化財関係者は、その存在を把握していたとのことです。
ただ、保存状態の問題もあってか、その後詳細な調査が実施されることは無く、その価値が見過ごされてきたということでした。

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像

修復修理される前の安祥寺・十一面観音像~顔部
保存修理される前の安祥寺・十一面観音像

そういう意味では、根立氏の調査により、「奈良時代一木彫像の優作の新発見」がなされたといっても良いのかもしれません。
2005年11月には、「安祥寺の十一面観音像が奈良時代の制作と判明」との新聞報道がなされたりしました。
2007年に美術院国宝修理所に於いて、十一面観音像の保存修理が行われた後、2010年には、奈良博での「大遣唐使展」に出展され、世の注目を浴びました。

そして、2011年に、国の重要文化財に新指定となったのでした。



【本堂内に祀られる四天王像も、平安前期の制作】


ついでに、平安前期と云われる四天王像についても、ちょっとだけご紹介しておきたいと思います。
四天王像は、十一面観音像が祀られる厨子の外側に安置されています。

安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像
安祥寺本堂内厨子の両脇に安置される四天王像

これらの像は、2000~3年になされた修理で、全面古色仕上げと、眼、口、髪などに彩色仕上げがされています。
ちょっと厚塗りの仕上げ、彩色なので、鑑賞しにくいのですが、平安前期に遡る像であるとのことです。
像高150~60センチ程度の四天王像で、なかなかユニークな姿態をしています。

安祥寺・四天王像~東2像
安祥寺・四天王像~東2像

安祥寺・四天王像~東1像安祥寺・四天王像~西1像
安祥寺・四天王像~(左)東1像、(右)西1像

1躯(西2像)は、江戸時代に補われた像なのですが、残りの3躯は、平安期の古像で、トチノキとみられる一木彫です。

根立氏は、2躯(西1・東2像)は、怪異な容貌を示しており、
「10世紀第一四半期頃の作とみられる醍醐寺霊宝館五大明王像(中院伝来)の作風にきわめて近く、製作の時期もほぼこの頃かと思われる。」
(「安祥寺所在の彫刻」根立研介・安祥寺の研究Ⅱ所収2006)
と述べています。

醍醐寺中院伝来・不動明王像醍醐寺中院伝来・軍荼利明王像
(左)醍醐寺中院伝来・不動明王像、(右)軍荼利明王像

本堂で拝していると、十一面観音像の堂々たる姿に目を奪われてしまい、ちょっと厚塗りの四天王像の方になかなか目がいかず、あまり印象に残っていないというのが私の率直な感想です。


十一面観音像の見事さに見惚れて、なかなか立ち去り難かったのですが、あまりの長時間はご住職にもご迷惑かと、後ろ髪をひかれつつ、本堂を辞しました。



【多宝塔は明治年間に焼失~京博寄託で難を逃れた五智如来像】


その後、本堂の北東の方に上ったところにある多宝塔の址をご案内いただきました。
今は、基壇、礎石が残されているだけです。

安祥寺・多宝塔址~基壇

安祥寺・多宝塔址~礎石
安祥寺・多宝塔址~(上)基壇、(右)礎石

この多宝塔に、あの五智如来像が祀られていたのです。
ご住職のお話によると、多宝塔は明治39年(1906)に火災にあい焼失してしまったのだそうです。
幸いというのか、五智如来像は火災以前に、当寺の京都帝室博物館に寄託されており、難を逃れたのだということでした。
あの京博の平常展でおなじみだった安祥寺・五智如来像は、明治年間から博物館に預けられていたのでした。



拝観をお許しいただいた上に、ご高齢にもかかわらず丁寧にご案内いただいたご住職に、心より感謝しつつ、山科・安祥寺を後にしました。

まっすぐ駅に向かうのが、何やら名残惜しく、新緑にかこまれた山科疎水べりをブラリとしながら

「天平彫刻のような、一木彫の優作巨像」

を拝した余韻にしばらく浸った、安祥寺・十一面観音像の観仏となりました。


古仏探訪~「南区久世殿城町・福田寺の地蔵菩薩像、釈迦如来像」京のかくれ仏探訪⑦ 【2016.9.2]】


京都の南西の端、南区久世殿城町にある福田寺の地蔵菩薩像、釈迦如来像を、ご紹介したいと思います。
無指定の仏像です。

福田寺・地蔵菩薩立像
福田寺・地蔵菩薩立像

福田寺・釈迦如来立像
福田寺・釈迦如来立像

間違いなく平安古仏だと思うのですが、なんとも不思議な仏像です。
どのような言葉で表現したらよいのでしょうか?
像容のイメージをうまく言い表すことが出来ないのですが、「不思議な存在感」を感じてしまう仏像なのです。



【耳にした話を頼りに、福田寺を訪問~平安前期・一木彫像が祀られるという】


「京都の南、向日町のあたりに、平安前期の一木彫像があるそうだ。」

こんな話を耳にしました。
随分前に聞いたこの話、誰から聞いたのか、もう忘れてしまいました。

この情報?を頼りに、南区久世殿城町にある福田寺を訪ねたのは、もう8年前、2008年の12月のことでした。
福田寺は、JR京都駅から大阪方面へ三つ目の向日町駅から、歩いて10分ほどのところにあります。

住宅と小さな工場が混在したような町のなかに、閑静な佇まいの福田寺の門がありました。

福田寺山門

山門から続く細い路地
福田寺山門と本堂へ続く細い路地

門をくぐると細い路地のようなところを進むのですが、奥に行くと広くて、大きなお寺でした。
拝観のお願いのご連絡を事前に入れておいたのですが、一人での拝観というのに、大変快くご了解をいただきました。

お訪ねすると、ご住職がお迎えいただきました。
ご拝観の前に、応接間に案内いただき、いろいろとお話を伺いました。

福田寺は、養老年間に行基菩薩が建立したと伝えられているそうです。
「福田寺縁起書」によると、養老2年(718)、行基菩薩が夢のお告げにより此の地で「釈迦如来、地蔵菩薩」の二尊を刻み,精舎を建立し「迎錫山福田寺」を号したといいます。
創建当時は、八町四方に七堂伽藍を有していたと伝えられているとのことでした。


そんなお話をお聞きしながら、お部屋を見回すと、巨大なスピーカーがドーン2本並んでいるのが眼に入りました。
ターンテーブルのあるレコードプレーヤー、管球式のプリメインアンプも置かれています。
私はこの方面のことはよく判りませんが、これは相当のプロっぽいマニアでないと使わないオーディオ機器で、並み大抵のものでないのは違いありません。
お聞きすると、ジャズがご趣味で、この機器でレコードをかけ、ジャズ音楽の世界に浸っておられるそうです。
なかなかモダンなご住職に、ちょっとびっくりです。



【並んで厨子内に祀られる、等身近い一木彫像~地蔵、釈迦像】


御本尊は、本堂に安置されています。

福田寺・本堂
福田寺・本堂

堂内の立派なお厨子に、釈迦、地蔵二体並んで祀られていました。

本堂厨子内に祀られる、地蔵・釈迦像
本堂厨子内に祀られる、地蔵・釈迦像

早速、ご拝観です。

まさに、初対面です。
この福田寺の2躯の仏像、平安前期像という話は聞いていましたが、仏像の写真がどこにも見当たらず、どのような姿の仏像なのか、全く分からなかったのです。
2躯共に、立像の一木彫像で、人の身の丈よりも少し低いかなという像高です。
(地蔵菩薩像:133.2㎝、釈迦如来像:132.5㎝)

並んで安置される福田寺・地蔵菩薩像(左)、釈迦如来像(右)
並んで安置される福田寺・地蔵菩薩像(左)、釈迦如来像(右)

一見した処、衣文の形式などは古様で、平安古仏であることは、間違いなさそうです。



【「不思議な存在感」としか、うまく形容できない、平安古仏】


しかしながら、率直に云うと「ウーン」と唸ってしまいました。

出来の良いとか、造形的に優れているとは、ちょっと云いにくい仏像です。
地蔵像の方はそうでもありませんが、釈迦像の方は、表現が粗略というのか、硬いというのか、そのような感じがするのです。
後世の彫り直しの手もだいぶ入っているようで、釈迦像の方が手の入り方が顕著なようです。
このように話してしまうと、この仏像へのご関心がなくなってしまうかもしれませんが、決してあっさり一瞥で通り過ぎてしまうような仏像ではありません。

「不思議な存在感」とでもいうのでしょうか?

いわゆる一流の仏像と較べると、彫技は劣るのですが、お厨子にドーンと直立しているだけで、存在感を感じるのです。
どのような存在感なのか表現しろといわれると、うまく説明できないのですが、とにかく「不思議な存在感」なのです。
ダイナミックとか堂々たる迫力というのとは、ちょっと違います。
霊威感といったようなオーラともまた違います。

粗略で、ちょっと不器用だけれども、そこに立っているだけで存在感を感じるとしか、言いようがありません。



【平安前中期の造形をしのばせる、古様な地蔵菩薩像】


地蔵菩薩像を拝しました。

福田寺・地蔵菩薩立像
福田寺・地蔵菩薩立像

一見すると、こちらの方が、釈迦像よりも古様に見えます。
世に云う、腰からのY字状衣文で、両股を隆起させたスタイルです。
しっかりとした肉付で、ボリューム感も充分です。

Y字状の衣文の福田寺・地蔵菩薩像の脚部
Y字状の衣文の福田寺・地蔵菩薩像の脚部

一方で、肉身表現の躍動感が乏しく、衣文の表現が少し形式化した感じもします。
お顔は、相当に後世の手が入っているようで、当初の造形がよく判らないのが惜しまれます。
足下をみると、蓮肉まで一木から彫り出されているようです。

蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・地蔵菩薩像
蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・地蔵菩薩像

足先の彫りも粗略なのですが、構造面では大変に古様なスタイルで造られているのは、間違いありません。
後世の手が残念なのですが、間違いなく、平安中期までの造形感覚を持った、古様な地蔵菩薩像であると感じました。

福田寺・地蔵菩薩立像.福田寺・地蔵菩薩立像

福田寺・地蔵菩薩立像
福田寺・地蔵菩薩立像~調査時の写真
モノクロ写真は、このほかも福田寺さんで拝見した調査時の写真です




【これこそ「不思議な存在感」?~「ウーン」と唸ってしまう釈迦如来像】


その次に、釈迦如来像の方を拝しました。

福田寺・釈迦如来立像

福田寺・釈迦如来立像~顔部
福田寺・釈迦如来立像

不可思議さでいうと、この釈迦如来像の方が、特段に「ウーン」と唸ってしまう不可思議さを備えた仏像です。
写真をご覧になっても、みなさん
「なんという造形なのだろうか!」
と、ため息をつかれたかもしれません。

「古いのか、新しいのか?」
「当初の造形が残されているのか、全部彫り直しなのか?」
「手を抜いたのか、意図的にこのように表現したのか?」

私も、ちょっと訳が分からなくなってしまいそうでした。

アクの強いお顔です。
頭部を前に突き出しているのが、アンバランスな違和感を醸し出しています。

アクの強い顔、切りつけたような衣文線の福田寺・釈迦如来像
アクの強い顔、切りつけたような衣文線の福田寺・釈迦如来像

衣文の襞は、衣文を彫り出すというのではなくて、ぶつけるように切り付けたような線が刻まれています。
全体の造形をみると、ちょっと窮屈で硬直して、抑揚感がみられません。
直方体の用材のかたちが、そのまま残されているようにみえます。
仏像の姿を用材から彫り出したというよりは、四角い用材を仏像の形に整えたという感じさえするのです。

福田寺・釈迦如来立像.福田寺・釈迦如来立像
福田寺・釈迦如来立像

「アクが強くて、ちょっとぎこちない。」

ちょっと仏様には失礼なのですが、どうしてもこんな印象に写ってしまいます。



【注目は、袖に刻まれた渦文~平安前期、霊威仏像の系譜か?】


足下をみると、この像も、蓮肉まで一木で彫り出されているようです。
古様を伝えています。

蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・釈迦如来像
蓮肉まで一木で彫り出された福田寺・釈迦如来像

もう一つ、眼を惹くのは、右の袖の処に刻まれた、二つの渦紋です。
よく見ると、左の肩口に2個、左足下に1個の渦文が刻まれています。

福田寺・釈迦如来像の脚部の衣文~左袖に二つの渦文

福田寺・釈迦如来像~右袖に2つの渦文.福田寺・釈迦如来像~左肩に渦文
福田寺・釈迦如来像に刻まれた渦文
右袖と左肩、左足下に渦文が見える


この渦文、どこかでよく似たものをみた記憶があります。
京都、北区西賀茂神光院町にある神光院の薬師如来立像と、北区大森東町にある安楽寺の如来立像です。

北区神光院・薬師如来立像.北区安楽寺・如来立像
神光院・薬師如来立像(左)、安楽寺・如来立像(右)
沢山の渦文が衣に刻まれている


ともに、この観仏日々帖でご紹介したことがありますので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
福田寺の釈迦像の渦文は、この二つの像ほどに、はっきりはしていませんし、数も少ないのですが、同じ系譜に在ることを想像させます。
衣の着け方のスタイルもまた、二つの像によく似たものがあります。
蓮肉まで一木で彫り出しているところも同じです。

この三つの如来像、系譜が同じとか、いずれかの像を手本に造ったということがあるのでしょうか?

福田寺の釈迦像は、神光院像、安楽寺像に較べて、はるかに彫技が劣って粗略な造形です。
また、これらの像の発する霊威感、オーラというものは、あまり感じさせません。

時代が、それなりに下ってから、このタイプの像の姿を真似て、造られたものということなのでしょうか?
ただ、神光院像、安楽寺像も、美しく出来の良い仏像を造ろうという意図ではなくて、何やら、強い宗教的な精神性を背景に造られたのだろうと思われます。
福田寺の釈迦像にも、そうした宗教的背景があるのかもしれません。

この釈迦像、本当に平安時代の仏像なのかという疑問もわかないわけではありません。

ただ、時代がいつ頃なのかはさておいて、
「アクの強さ、ぎこちなさ、硬直した姿が、不思議な感覚を醸し出す。」
私の眼には、そのような印象が焼き付けられました。
表現不能な存在感のある仏像なのです。

思わぬ、平安古仏に出会うことが出来ました。
とりわけ、釈迦如来像は、記憶の中にしっかりと刻み付けられる仏像に遭遇したというのが実感です。



【昨年、やっと見つけた、地蔵、釈迦像の解説文】


この地蔵、釈迦像について、解説した資料は無いのかなと当たってみましたが、残念ながら、見つけることが出来ませんでした。
無指定の像ですから、仕方ないことなのかもしれません。

そうしていたら、昨年の「近畿文化」に解説が掲載されました。
近畿文化会で「洛西の仏像」という臨地講座が開催され、探訪寺院の一つに福田寺が採り上げられていたのです。
機関誌「近畿文化」784号(2015.3)に、探訪仏像の解説という形で採り上げられたのです。

奈良大学教授の関根俊一氏の解説です。
ご紹介したいと思います。

地蔵菩薩像については、

「大きめの頭部、大きく刻まれた目鼻立ち、量感に富んだ体躯には深く衣文線が刻まれるが、特に腰からY字状に下がり、大腿部で衣文を彫出せずに肉身を強調するところは古様であり、造像は10世紀に遡るであろう。
檜の一木造で、体部のみ背面から内刳を施し、背板を嵌める。」

釈迦像については、

「地蔵菩薩と異なり複雑な衣文線を刻み、要所に渦巻き文を表現するなど個性的な作例である。
やはり-ー木造で、材の制約のためか両手が体躯に接近し、やや窮屈な印象を受ける。
両手先等別材を矧いだ箇所は後補が多いが、平安時代半ば頃の作風が看取される。」

このように解説されていました。
なるほどと、納得の解説です。

しかし、先程来ご紹介してきましたように、この解説文を読むだけでは、この仏像の不思議な存在感の印象を感じ取ることは、如何せん、難しいだろうな思います。

是非、一度、直に拝していただき、どのような印象を感じられるか、訪ねていただきたいと思います。



【迫力ある造形の、平安前中期の龍神像を拝観】


もう一つ、福田寺に祀られる龍神像をご紹介しておきたいと思います。

実は、福田寺さんでは、この「龍神像」の方が、圧倒的に有名なのです。
境内の龍神堂に祀られている、像高60㎝の跪座像です。

福田寺・龍神像(夜叉形跪坐像)
福田寺・龍神像(夜叉形跪坐像)

古くから雨乞を祈る龍神像として尊崇をあつめており、、境内の「坂井の井戸」より水を汲み、像にかけながら雨乞の祈祷が修せされてきたと伝えられます。

平安前期まで遡る可能性があるといわれる一木彫像で、京都市指定文化財に指定されています。
京都市指定文化財のHPには、このように解説されています。

「臂釧や褌以外は何も身につけない像高60cm程度の裸形像で、口を閉じ、腕を胸前で屈臂し、二本の足指や獣耳をもつことから、本像は本来は兜跋毘沙門天像の左右に配される毘藍婆あるいは尼藍婆像であった可能性が高い。
平安時代前期にまで遡り得る夜叉形の古例として貴重な作例といえる。」

元々は、龍神像ではなくて、鬼神、夜叉像であったようです。
指定文化財名称も「木造夜叉形跪坐像」となっています。

龍神像は、堂内の龍神堂に祀られています。

福田寺・龍神堂
福田寺・龍神像(夜叉形跪坐像)

お厨子を御開扉いただき、拝させていただきました。

福田寺・龍神像が祀られる厨子
福田寺・龍神像が祀られる厨子

なかなかの迫力ある造形に圧倒されました。
かなり朽ちて摩耗はしていますが、筋骨隆々としてボリューム感のある肉付けは、見事なものです。
とりわけ、太ももの張りのある造形は、ダイナミックで見惚れるものがありました。
これは、平安前中期の作としても、相当ハイレベルの像であったに違いありません。

これだけの造形の鬼神像の主尊であった兜跋毘沙門天像は、どのような像であっただろうか?
想像すると、それは見事なものであったのでしょう。
さぞや、雄渾でダイナミックで圧倒的な迫力の傑作であったのだろうと、思いを巡らせました。

この福田寺・龍神像については、神奈川仏教文化研究所HP「貞観の息吹」のコーナーでも、かつて紹介されています。


大変ご丁寧に案内いただいたご住職への、感謝の思いをいだきつつ、「不思議な存在感」の仏像との出会いに心動かされながら、福田寺を後にしました。


古仏探訪~「右京区嵯峨清滝月ノ輪町・月輪寺の千手観音像ほか諸仏」京のかくれ仏探訪⑥ 【2016.8.19】


京都、嵐山の北方、愛宕山の中腹に在る月輪寺の仏像を、ご紹介したいと思います。

月輪寺には、平安時代の千手観音像、十一面観音像を代表格に、多くの古仏が遺されています。

月輪寺・千手観音立像
月輪寺・千手観音立像

月輪寺・十一面観音立像
月輪寺・十一面観音立像

月輪寺・聖観音立像..月輪寺・伝竜王像
月輪寺・聖観音立像(左)      月輪寺・伝竜王像(右)

月輪寺本尊・阿弥陀如来坐像
月輪寺本尊・阿弥陀如来坐像

≪月輪寺の仏像写真は、図録等掲載写真から借用させていただきました≫



【歩いて山登りするしか、辿り着けない月輪寺】


月輪寺の千手観音像や十一面観音像などは、「京都の仏像の本」に、結構紹介されていますので、ご存じの方も多いのではと思います。
しかし、月輪寺まで山登りをして、直に拝された方は、そう多くはいらっしゃらないのではないでしょうか。

「一度は、拝すべし」

月輪寺の仏像は、間違いなくそう云えるだけの、魅力ある仏像です。
とりわけ、千手観音立像、十一面観音立像は、平安古仏を愛する方には、必見だと思います。

「一度は、拝すべし」というふうに、わざわざ書いたのは、
「もう再び、訪れることは無いのだろう。」
私にとって、これが率直な気持ちであるからなのです。

仏像の素晴らしさを考えれば、何度も訪れたいところですが、愛宕山を登って月輪寺に行きつくまでの、山道の厳しさ、しんどさを思い起こすと、あのつらい思いはもう二度としたくないというのが本音の処です。


月輪寺は、標高924メートルの愛宕山の山中にあります。

京都嵐山・渡月橋から望む愛宕山
京都嵐山・渡月橋から望む愛宕山

山頂には、「愛宕参り」で知られる愛宕神社があるのですが、参詣手段は、自らの脚で歩いて登るしかありません。
車の通れる道は、一切ないのです。
月輪寺に行きつくには、急坂の山登りを、1時間ほど頑張らなければならないのです。

愛宕参りが、大変盛んであった昭和期には、嵐山から清滝までは鉄道があり、そこから愛宕山上までは、ケーブルカーで登ることが出来たそうです。
昭和19年(1938)に、戦時の不要不急路線ということで廃線となり、戦後も復活することはありませんでした。

愛宕山ケーブルカー(昔の観光絵葉書)
往時の愛宕山ケーブルカー(昔の観光絵葉書)

現在では、愛宕山に登って、愛宕神社、月輪寺を巡るコースは、健脚向けのハイキングコースとして、知られているようです。



【厳しい山道に息も絶え絶え、ギブアップ寸前に】


私が、月輪寺を訪れたのは、かれこれ9年も前、2007年の春のことでした。

月輪寺へは、山登りが結構きついのだという話は、聞いていたのですが、
「もう、二度とこりごりだ!」
というほどに、キツイものになろうとまでは、思いもしてませんでした。

清滝口のバス停から清滝川沿いの林道を30分ほど歩くと、月輪寺への登り口につきます。
なるべく楽をしたいということで、我々は、車が通れる登り口の処までは、車を使いました。

登り口には、
「月輪寺のぼりぐちです。月輪寺まであと1時間。」
と、小屋の壁に大きな字で書かれていまます。

月輪寺への登り口に書かれた標識目印
月輪寺への登り口に書かれた標識目印

さあ頑張って、月輪寺の仏像を目指して、山道を登り始めます。
急坂の厳しさは、想定以上のものでした。
登り口まで車を使い、体力温存でスタートしたはずなのですが、並大抵ではなくきついのです。
日頃、歩くことはもちろん何のトレーニングもしていないツケが、たっぷり回ってきました。
20分ほど、急な山道を登っただけで、ハーハー、ゼーゼー、青息吐息状態です。
ほぼ同年齢の同好の方と4人で登り始めたのですが、他の3人は、ヘトヘトのそぶりは無く、しっかりした足取りで登っていきます。
私だけが、如何に怠惰な生活をしているのかということを思い知らされました。

月輪寺への急傾斜の山道月輪寺への急傾斜の山道
月輪寺への、急傾斜の険しい山道

月輪寺まで、半分ちょっと登ったところで、このまま登るのはもう無理と、
「皆さん、どうか先に行ってください。しばらく休んでから考えますから。」
と、ギブアップ気味になってしまいました。

ご一緒の方々が、情けない私に憐れみをかけて、
「もう少しだから、めげずに一緒に頑張ろう。」
と、背中を押していただきました。

完全に息が上がって、やっとのことで、月輪寺へ到着したのです。
美しい景観も全く目に入らず、精も根も尽き果てて、
「もう二度と、こんなにつらい思いはしたくない。」
と、へたりこんだのでした。

このように書くと、どれほど厳しい山登りなのかと思われるでしょうが、ご一緒に登った方々は、
「少々きついが、平気」
という様子でしたので、私のような方以外は、ご心配には及ばないのかもしれません。



【白洲正子も「引き返そうと思った」月輪寺への山道】


こんなにつらいと感じたのは、自分だけなのかと思ったのですが、同じような思いをした著名人の文章を見つけました。

白洲正子は、自著「十一面観音巡礼」に、月輪寺へ登った思い出を、このように綴っています。

白洲正子(於・高山寺)
白洲正子(於・高山寺)
「月輪寺にはほかにも何体か優れた仏像があると聞き、・・・・愛宕山へ向かった。
『空也の滝』の手前を右へ登っていくと、急に道は細く、険しくなる。
愛宕山は砥石が出るところで、それが細かく砕けているので、歩きにくいことおびただしい。
途中で、何回も引き返そうかと思ったが、暗い森を抜けたとたん、美しい展望がひらけ、はるか上の方に、お寺の本堂も見えてきた。
若い人なら三、四十分で行けるところを、私は一時間以上もかかった。」

白洲正子も、私と同じように、
「途中で、何回も引き返そうかと思った」
のだと、仲間を見つけた気分になりました。

あるブログに、こんな話が書いてありました。

「月輪寺の住職さんに聞いた話だと、白洲正子がカメラマンと2人で上った時は、登山道もあまり整備されていないのにヒールがある靴で上り、靴擦れをおこして登山をあきらめようとした。
しかし、一念発起して靴のヒールをつぶして上り、お堂から見た朝焼けに感動のあまり涙したのだそうだ。」(ほっとけハイク見聞録)

白洲が、月輪寺に登ったのは64~5歳の頃のようです。
ただ、私は、それより7~8歳若い頃に登った訳ですから、やはり、余りに情けないということになります。



【十数躯の古仏が遺される、愛宕山中の月輪寺】


息も絶え絶えで、月輪寺に到着しました。
休息所でしばらく休み、息切れも整ってくると、やっと素晴らしい眺望が眼に入ってきました。

愛宕山・月輪寺から望む眺望

愛宕山・月輪寺から望む眺望
愛宕山・月輪寺から望む眺望

この日は、少し霞んでいましたが、ここから見晴らす下界の眺望は、絶品です。
仏像拝観はまだなのですが、この絶景が見えるところまで、自力で登ってきたのかと思うと、途中であきらめずに来た甲斐があったという気持ちになってきます。

落ち着きを取り戻したところで、念願の月輪寺の仏像の拝観です。
仏像の拝観は、事前にお寺にご連絡して、予定を伺いご了解を頂戴しておけば、大丈夫です。
本堂、祖師堂という古いお堂がありますが、重要文化財の仏像は、鉄筋コンクリートの宝物殿・収蔵庫に安置されています。

月輪寺・本堂
月輪寺・本堂

月輪寺・祖師堂
月輪寺・祖師堂


まずは、月輪寺に祀られる鎌倉時代以前の仏像を一覧にしておくと、ご覧のとおりです。

月輪寺安置の諸仏一覧リスト


立派な平安古仏が、ごっそり遺されているのです。
8躯もの仏像が、重要文化財に指定されています。
月輪寺は、明治の神仏分離まで、愛宕神社の別当寺である白雲寺の塔頭の一つ、福寿院の末寺とされていたそうです。
愛宕山に遺されていた古仏が、此処、月輪寺に集められたのかもしれません。



【ひときわ眼を惹く、千手観音像と十一面観音像】


収蔵庫の扉を開いていただき、いよいよご拝観です。

月輪寺・宝物殿収蔵庫
月輪寺・宝物殿収蔵庫

収蔵庫には、8躯もの仏像が立ち並んで安置されています。
明るい収蔵庫で、諸仏をはっきりと拝することが出来ます。
諸仏の中で、私の眼を惹いたのは、やはり、2躯の観音像、千手観音像と十一面観音像です。



【「呪術的な妖しさ」に、惹き込まれてしまう千手観音像のお顔】


なかでも、千手観音立像は、強く印象に残る仏像です。

月輪寺・千手観音立像

月輪寺・千手観音立像
月輪寺・宝物殿収蔵庫

一見しただけで、平安前期の一木彫像であることが判ります。
そして、ぐっと惹きつけるものを、感じます。

凄みのある迫力とか、塊量感といった、いわゆる平安前期ならではの特徴を備えた像ではありません。
むしろ、
「スリムでがっしり、凛とした緊張感がある」
といった形容の方が相応しいのでしょう。
ボリューム感はさほどなのですが、肩を怒らせがっしりした体躯で、くびれのある引き締まった造形をしています。

それよりも、何よりも、私を惹き付けたのは、千手観音像のお顔です。

呪術的な妖しさを感じる、千手観音像のお顔

呪術的な妖しさを感じる、千手観音像のお顔
呪術的な妖しさを感じる、千手観音像のお顔

「呪術的な妖しさ」「神秘的な呪力」
とでも、表現するのでしょうか?

くっきりと切れ長で、目尻がちょっと上がった細くて鋭い眼。
シャープで、キリリとした目鼻立ち。
わずかに微笑みをたたえた口元。
その表情は、エキゾチックな妖しさをたたえ、凛とした緊張感を漂わせています。

「拝する者を、不思議な力で、妖しく、強く、惹き込んでいく。」

こんな魅力を感じるのです。

こんな表情の仏像、他にどこかで拝したことがあるようで、無いようで、なかなか思い出しません。
類例の少ない雰囲気のお顔のような気もします。

この千手観音像は、針葉樹の一木彫像で、内刳りは全く無く、合掌手、宝鉢手の前膞部も含めて、一木から彫り出されているそうです。
材は、カヤとするものと、ヤナギ?とするものがありました。
いずれにせよ、その構造をみても、平安前期の制作を思わせます。



【愛宕山、古密教が求めた呪力表現~千手観音像】


千手観音像を拝していると、いかにも愛宕山の山岳信仰、古密教の神秘的な呪力というものを想起させるものがあります。
まさに山岳密教の呪術的な妖しさ、鋭さをたたえた観音像といえるのではないでしょうか?

この「呪術的な妖しさ」は、専門家にも注目されているようで、解説書などをみると、愛宕山の山岳信仰と関連付けて、このように述べられています。

月輪寺・千手観音立像
月輪寺・千手観音立像
「この寺(月輪寺)は、古くにはこの千手観音像が本尊であったと思われる。
・・・・・
雑密経典はすでに奈良時代に大量伝えられ、雑密像は山寺の仏像として造られる場合が多かった。
その信仰は、呪術的傾向が強く、・・・・・・人跡まれな山林の清浄所で苦行をかさねたものには、神秘的な呪力がさずけられていると信じられていたからである。
この千手観音像のするどい目を見ると、山林における千手観音の信仰がどのようなものであったか想像できそうである。」
(「京都の仏像」中野玄三氏執筆、1968年淡交社刊)


「これらの表現と合わせて、天衣やインド的な情感を帯びた表情は、なんらかの山岳密教図像に基づいて造形された可能性が考えられる。
愛宕山の古い信仰では、このような一種の呪力を感じさせる像が本尊として求められたのであろう。」
(「月輪寺の仏たち」近藤謙氏執筆、佛教大学アジア宗教文化研究所資料集1、2007年刊)



【千手観音像は、9世紀初頭に以前まで遡る古像?】


製作年代は、どのように考えられているでしょうか?
平安前期とか前中期とかといった幅を持たせた解説が多いのですが、

井上正氏は、
月輪寺・千手観音立像
月輪寺・千手観音立像


「造立年代は8・9世紀の間にある。
宝亀元年から9年(770~778)までの間に愛宕山を中興した慶俊僧都との関係は可能性の範囲を出ないが、今は、本像の様風が随所に奈良風をとどめたものであることを銘記しておきたい。」
(「古仏~彫像のイコノロジー」井上正著、1986年法蔵館刊)

と、氏の持論の範疇に含め、奈良時代の古密教彫像であるとしています。


田中恵氏は、このように述べ、造形表現に一木彫発生期的なものをみて、8~9世紀の制作とみています。

「このようなバランスを欠いた表現(すらりとした印象と、天衣や裳裾の衣褶のにぎやかさなど)は、不慣れな発生期または論理性に欠ける衰退期に起こるものだが、大腿を塊量的表現だけで表している様子などに、発生期的な部分を読み取ることが出来る。
平安中期にはほとんど見ることのできない明るい顔つきと併せて、8世紀末頃から9世紀初頭の制作と考えてもいと思われる。」
(「隠れた仏たち~山の仏」藤森武写真・田中恵執筆、1998年東京美術刊)


さらには、近藤謙氏は、このように述べています。

「現在月輪寺に伝えられている彫刻作例の中で最も古いと考えられる作品である。
9世紀の造立と考えられる。」
「まぶたの盛り上がり、顎先のくびれには強い弾力が感じられ、9世紀の檀像彫刻作例に共通するエキゾチックな印象が顕著である。」
(「月輪寺の仏たち」近藤謙氏執筆、佛教大学アジア宗教文化研究所資料集1、2007年刊)

以上のように、8世紀まで遡るとか、平安時代も最初期の9世紀初の像だ、という見方も、結構あるようです。


同じ京都の地での多臂観音像の古例では、太秦・広隆寺に、8世紀末ともいわれる不空羂索観音像、9世紀半ば頃かとみられる千手観音像があります。

広隆寺・千手観音立像

広隆寺・千手観音立像
広隆寺・千手観音立像

広隆寺・千手観音像の厳しく、鋭い顔貌、体躯の造形などをみると、月輪寺像が、それよりも制作年代が、遡るといわれると、
「そこまで、古い像なのかな?」
というような気もしてしまいます。
ただ、平安前期の空気感をはっきりと持った古仏であることは、間違いないことだと思います。

いずれにせよ、「呪術的な妖しさ」のお顔に、惹き込まれてしまいそうな魅力あふれる仏像です。
拝していると、愛宕山の山岳信仰の神秘的呪術力のようなものに想いを致さずにはいられませんでした。



【土俗的な空気感が漂う、十一面観音像】


千手観音像の次に、眼を惹くのは、十一面観音像です。

月輪寺・十一面観音立像
月輪寺・十一面観音立像

こちらの観音像は、千手観音像のようなシャープさや、妖しい顔貌は伺えないのですが、なかなかの魅力を感じる像です。
重量感というか、どっしり感のある造形です。

言葉はよくないのですが、
「ずんぐりとした、鈍さ」
に、心惹かれるものを感じます。
塊量性はありますが、一方で、穏やかさもでてきて、渦文などの衣文表現もやや平板になってきているようです。

月輪寺・十一面観音立像
月輪寺・十一面観音立像

一番の魅力は、そのお顔です。

土俗的な空気感の漂う十一面観音像のお顔
土俗的な空気感の漂う十一面観音像のお顔

土俗的な野趣を感じます。
太い鼻梁、分厚くめくれたような唇、下膨れの処などが、土着的、土俗的な空気感を醸し出しているようです。
これもまた、インド的エキゾチズムの表現の名残ということなのでしょうか?

千手観音像が「呪術的妖しさの魅力」とすれば、
十一面観音像は「土俗的オーラ、霊威感の魅力」とたとえられる像でしょう。
やはり、この十一面観音像も、愛宕山の山岳信仰のなかで造立された像のように思えてきました。

この十一面観音像は、ヒノキ材の一木彫ですが、背面に大きく背刳りを入れて、上下に2枚の背板を当てる構造になっているとのことです。
千手観音像より下って、10世紀頃の制作とみられています。


このほかにも、沢山の像が収蔵庫内に祀られているのですが、仏像のご紹介の方は、このぐらいにしておきたいと思います。

仏像と並んで、九条兼実像と伝える僧形坐像(平安後期・重文)、六波羅蜜寺の空也上人像の姿に似た空也上人像(鎌倉時代・重文)が、祀られています。
月輪寺には、空也上人(903~972)が参篭し、毎月15日の念仏を始めたという記録や、関白・九条兼実(1149~1207)が、出家して円証と称し、月輪寺に山荘を営んで折々に閑居を楽しんだという伝えが残されています。
こうした伝えの、ゆかりの像として祀られてる古像なのです。

月輪寺・九条兼実像月輪寺・空也像
月輪寺・九条兼実像(左)        空也像(右)

月輪寺の、千手観音像や十一面観音像をはじめとした、魅力ある平安古仏を拝すると、

「ここまで、苦労して、山登りをしてきた甲斐があった。」
「本当にしんどかったけれども、来てみて良かった。」

つくづくと、そのような気持ちに浸ってしまいました。



【その昔は、京博に預けられていた月輪寺の諸仏】


実は、この月輪寺の諸仏、昔は、京都国立博物館に預けられていたそうです。

重文指定の8躯が、京博に寄託されていました。
昭和48年(1973)に、現在の宝物殿・収蔵庫が建立され、博物館に預けられていた諸仏像が、この地に戻ってきたのでした。
この話、私は全く知りませんでした。
昭和48年以前に、京博を訪れていたら、山登りの苦労をせずに、これらの諸仏を博物館で観ることが出来たのかもしれません。
白洲正子の「十一面観音巡礼」には、
「京都の博物館で、月輪寺の十一面観音をみた。」
と綴られています。
ひょとしたら、私も、学生の頃、京博で観ているのかもしれませんが、全く記憶にありません。

しかし、月輪寺の古仏は、博物館に展示されているのを観ると、きっと、これほどの惹かれるものを感じないのだろうと思います。
霊気漂うような愛宕山山中に、必死で登り来て、その姿を拝してこそ、本当の魅力を感じることが出来るのは、間違いありません。
愛宕山の山岳信仰を象徴するような、呪術的仏像との出会いに感動した、月輪寺参詣となりました。



【私には、つらすぎる月輪寺再訪】


仏像を拝し終えて、お堂のあたりをぶらぶらしていると、大きな狸の置物のそばに建てられた、こんな記念碑が眼に入りました。

「月輪寺参拝 愛宕山登山 3000回達成」

と刻まれているではありませんか。

月輪寺境内に建てられた、3000回参詣記念碑
月輪寺境内に建てられた、3000回参詣記念碑

週に1回登山なら50年以上かかります。
二日に1回でも16年以上かかる計算になります。
こんな息も絶え絶えの山登りを3000回とは、信じられません。

「拝したいけれども、このしんどさを考えると、もう一度登ってくることは無いだろう。」

と云うのが私の実感なのですが、世の中には凄い人がいるものです。
唯々、讃嘆というしかありません。


月輪寺再訪はもう無いかと思うと、ゆっくり、じっくり諸仏を拝したいところであるのですが、ご住職お一人しかおられず、愛宕山ハイキングの途中で訪れる方々もいらっしゃるなか、そう我儘も云えず、後ろ髪をひかれつつ、月輪寺を後にしました。

帰りは、急な下り坂。
転ばぬよう、膝に来ぬよう、気を付けながらの下山ではありましたが、登りの時の地獄状態に較べると、天国のようなもの。
あっという間に、登り口まで行きつきました。

後ろを振り返って、急傾斜の山道を見上げると、やはり、もう一度これを登るのはこりごりだと、心の中でつぶやきました。




【追記~資料ご紹介】


月輪寺の仏像については、京都の仏像の解説書等々に、簡単な解説が書かれていますが、次の刊行物が、最も詳しい調査研究資料だと思います。

「月輪寺の仏たち~愛宕山中の名宝」佛教大学アジア宗教文化研究所資料集1
2007年3月 佛教大学アジア宗教文化研究所刊 75P

「月輪寺の仏たち~愛宕山中の名宝」

この資料集は、佛教大学アジア宗教文化研究所が2005~7年に実施した、天台宗愛宕山月輪寺未指定彫刻調査の成果を中心に、重要文化財指定の仏像も含めて、その概要を報告するために刊行されたものです。

月輪寺のすべての仏像の写真図版、個別解説、論考が収録されており、月輪寺の仏像についての最も詳しい資料集だと思います。

残念ながら、非売品で販売されてはいないのですが、月輪寺諸像に関心のある方に、ご参考までにご紹介させていただきます。



古仏探訪~「左京区岩倉幡枝町・愛染院の十一面観音立像」京のかくれ仏探訪⑤ 【2016.7.30】


左京区、宝が池の近くにある愛染院の十一面観音立像をご紹介します。
堂々たる平安前期の一木彫像です。

愛染院・十一面観音立像

愛染院・十一面観音立像
愛染院・十一面観音立像

像高は、ほぼ等身の167.5cm。
大正9年(1920)に、旧国宝に指定されており、現在は、重要文化財となっています。



【或る「仏像巡りの本」で目にとまった、京の街中の平安前期仏像】


この仏像を一度拝してみたいものと思ったのは、「仏像巡りの旅」という6巻本に、この愛染院の十一面観音像が採り上げられている文章を読んだからでした。

「仏像巡りの旅」  全6冊   毎日新聞社編著 1993年刊 各冊1300円
~鎌倉1冊、京都2冊、奈良2冊、信越・北陸1冊~

「仏像巡りの旅」京都 洛中・東山編

この本は、一見ハンディな観光向けガイドブックのような感じがする本なのですが、仏像好きには、なかなか渋い処の見どころある仏像が、結構採り上げられているのです。

刊行主旨に
「仏像巡りを目的とする方からの・・・・・一般的な観光ガイドブックではなく、しかも専門的な学術書ではないものを、との要望に応えることとした。」
と記されています。

この本を古本屋で見つけて、面白そうだと買ってみたのは、出版されてからもう10年以上たってからのことだったと思います。
愛染院は、第4冊「京都 洛中・東山編」に載っていました。

この巻には、
六道珍皇寺・薬師像、双林寺・薬師像、南禅寺・聖観音像、西方寺・阿弥陀像、
壬生寺・地蔵像、金戒光明寺・千手観音像等々
がラインアップされており、「気楽なガイドブックなのですが、それなりの仏像愛好者向き」という面白い内容です。



【「大地の香りの十一面観音像」という説明文に、興味津々】


愛染院のページを開くと、
「ビルの谷間のお堂に、大地の香りの十一面観音像」
という、見出し・リード文が、目にとまりました。

「仏像巡りの旅」愛染院紹介ページ
「仏像巡りの旅」~愛染院の紹介ページ

掲載されている観音像の写真を見ると、なかなかの迫力で見どころ充分、平安前期の匂いがプンプンします。
本文には、このように語られています。

「ビルに吸い込まれるように延びる参道の奥に散歩を壁面に囲まれ、埋もれたようにお堂が二つ。
・・・・・・・・・・
ずんぐりした重量感のある仏様である。
大地の香り、原始エネルギー、肝っ玉かあさん、などといった形容がふさわしい、素朴な力強さが感じられる。」

「こんな文を読むと、放ってはおけません。是非とも一度は拝したいものだ。」
「京都のど真ん中に、こんな平安前期の仏像があるのは、よく知らなかったな。」

そう思って、「仏像集成」(学生社刊)を調べてみたら、半ページだけですが、しっかり掲載されていました。



【京の街中から、緑豊かな岩倉に移転していた、愛染院】


これらの本によると、愛染院は、「京都市中京区六角通東洞院西入ル」に所在することになっています。
京都市街の、ど真ん中です。
ところが、愛染院は、その地にはありませんでした。
調べてみると、左京区岩倉幡枝町に移転していたのでした。
四条烏丸に近い中心地から、宝ヶ池の近くの岩倉の地へ移っていたのです。

岩倉幡枝町にある愛染院さんにご連絡をして、十一面観音像のご拝観をお願いしました処、ご住職から、快くご了解をいただきました。

初めて、愛染院に、観音様を拝しに伺ったのは、10年ほど前のことであったかと思います。
以来、この十一面観音像の姿が、強く心に残る仏さまとなり、2~3年の間に、3度も拝しに伺ってしまいました。

愛染院のある左京区岩倉幡枝町は、地下鉄烏丸線の北往きの終点「国際会館駅」から西へ1キロ弱、宝ヶ池の西北にあります。
門跡寺院で有名な岩倉実相院は、愛染院の北方2キロほどの処です。
この辺りは、京都のど真ん中の賑やかさとは打って変わって、落ち着いた処で、北の叡山を借景に緑豊かな景色が続きます。
結構、住宅が並んではいますが、ぶらりと散策するのにうってつけ、のどかな気分になってきます。

「大楽山」と記した立派な山門が目に入ると、そこが愛染院でした。

岩倉、愛染院・山門
岩倉幡枝町に在る、愛染院の山門

境内正面には、愛染院のご本尊・愛染明王像が祀られる本堂があります。

愛染院・本堂
愛染院・本堂

ご住職に、拝観のご案内をいただきました。
随分、ご高齢そうなご住職でしたが、拝観お願いの都度々々、大変ご親切にしていただき、ゆっくりじっくりと十一面観音像の拝観をさせていただくことが出来ました。

十一面観音像は、聖天堂と名付けられている収蔵庫に安置されています。

愛染院・聖天堂~収蔵庫
十一面観音像が祀られる収蔵庫~聖天堂

聖天・歓喜天像がお祀りされているため、聖天堂とされているとのことです。
聖天堂の前には「大聖歓喜天」の額が掲げられた鳥居が建てられています。
神仏習合の名残ということなのでしょうか?
そういえば、聖天信仰で有名な、生駒の聖天さん、宝山寺の入り口にも大きな鳥居がありました。



【堂々たるお姿、土俗的な妖しい凄みに魅せられた、十一面観音像】


ご住職に聖天堂・収蔵庫の扉をお開きいただき、早速、十一面観音像を拝しました。

愛染院・十一面観音立像

愛染院・十一面観音立像

愛染院・十一面観音立像
愛染院・十一面観音立像

お姿を拝して、ビックリしました。
立派な、一木彫像です。
そして、思いのほかの凄い迫力なのです。

「仏像巡りの旅」の本に、

「大地の香り、原始エネルギー、肝っ玉かあさん、素朴な力強さ」

といったキーワードが並べられていたのですが、「肝っ玉母さん、素朴」といった表現よりも、もっと迫力あるものを感じるように思えます。。

「堂々たる重厚感、野太い凄み、妖し気なパワー」

こんな表現が似つかわしいように感じます。

170㎝近い大きな像なのですが、頭部が随分大きくて首が短い、短躯、童形のような身体バランスに造られています。
ちょっと寸詰まりといってもよいかもしれません。
いわゆる檀像をお手本にして、等身像に引き伸ばすようにして、造形されたのに違いありまん。
足下をみると、蓮肉まで一木で彫られていて、今は切り詰められて新たな台座にはめ込まれていますが、大変古様な造形技法です。

愛染院・十一面観音像~蓮肉まで一木彫成
蓮肉まで一木彫成されている愛染院・十一面観音像

肉身のボリューム感もたっぷりして、堂々たる重厚感を発散しています。
檀像風であっても、檀像特有の技巧的な彫技や、繊細感は全く感じません。
むしろ、ドーンとした野太い感じ、ずんぐりどっしりといった感覚の方が勝っているようにも思えます。
お手本は小檀像でも、空気感には、土臭さや野性味の匂いがちょっとします。

そして、なんといっても「凄み」のようなものを、強く感じるのが、そのお顔です。

「土俗的な、妖しさ」さえ感じる顔貌

「土俗的な、妖しさ」さえ感じる顔貌
土俗的凄み、妖しささえ感じる顔貌

大きなお顔に大きな目鼻立ち、そして分厚くめくれ返ったような唇が、極めて印象的です。
「土俗的な、妖しさ」
といったものを感じないわけではありません。
微笑んでいるようで厳しさがあり、ちょっと不気味な妖気を漂わせているという風情でしょうか?
魅力たっぷり、惹き込まれてしまいます。

衣文の彫口や像の表面などを観ると、それほどに、鋭い彫り口や鎬立ったようなところはありません。
むしろ、彫りが浅めで凹凸が少ないようにみえます。

愛染院・十一面観音像~摩耗したような衣文の彫口
摩耗したような浅めの衣文の彫口の愛染院・観音像

しかし、しっかりよく見ると、衣文の彫りや表面の造形は、材が摩耗、損耗して、そのようになってしまったようにも見受けられます。
全体にすり減って、衣文線の彫りの鋭さなどが鈍くなってしまった、浅くなってしまったのではないかという風にも思えるのです。
現在、全体が薄く灰色に塗られているように思えますが、これも昔に損耗していたのを、全体的に擦るように仕上げなおして、コーティングのように塗り上げたのではないでしょうか。
ひょっとしたら、当初は、もっと鋭い彫り口で、鎬立った彫技の造形だったのかもしれません。

いずれにせよ、このような都風とは言えない「土俗的な、妖しい凄み」の観音像が、京の市中の、ど真ん中に遺され伝えられてきたというのは、ちょっと驚きです。

はじめてこの観音像を拝したときから、想定外の惹き付けられる魅力を強く感じて、心に残る仏像になりました。
そして、3回も、観音像を拝しに訪れてしまったのでした。



【数少ない、愛染院・十一面観音像の解説〈9~10世紀の制作〉】


この観音像について、採り上げた本や、解説などはあるのでしょうか?
ちょっと探してみましたが、あまり見当たりませんでした。

古い本では、「京都美術大観~彫刻・上」(1933年東方書院刊)と「別尊京都仏像図説」(1943年一條書房刊)に、米山徳馬氏が、同文の解説を掲載しています。

「瓔珞・環釧等凡て一木から彫り出されてゐる。
旧台座も本体と同木で刻まれてゐたらしい。
矮躯肥大で重厚な時代精神をよく表はしてゐる。
腰衣の処理に一脈の清新味をたゞよはせてゐる。
脛部の衣紋の線に明かな翻波線の手法が看取出来る。」

米山氏は、このように述べて、弘仁時代末期の制作としています。
9世紀末頃の制作とみたということでしょうか。

愛染院・十一面観音像「京都美術大観」掲載写真愛染院・十一面観音像「京都美術大観」掲載写真
愛染院・十一面観音像~「京都美術大観」掲載写真

近年の本では、「仏像集成~京都」(1986年・学生社刊)には、このように解説されています。

「桧材で頭体部から台座の蓮肉までを含め一木造りの古式の作である。
但し背面は、肩下から内刳りを施し、背板を当てている外、両手首先などは後補である。
笑みを含んだ顔、寸詰まりの体勢など檀像を意識したものであろう。
9世紀を降らない作と思われる。」(田中善隆氏解説)

また、「仏像を旅する~京都」(1991年・至文堂刊)では、次のとおりです。

「一木造りの堂々たる像で、両脚を覆う裳には大小の波を繰り返す翻波式衣文が刻まれている。
製作年代は、平安時代も10世紀の頃のものであろうか。」(根立研介氏解説)

いずれにせよ、あまり突っ込んだ詳しい解説というわけではありません。
9世紀、10世紀、両方の見方があるようですが、9世紀の終わりから10世紀の早めの頃という見方なのだと思います。

実は、この仏像は、昭和49年(1974年)に、美術院の手で修理が行われました。
その際に、背面の内刳りの中から、後世に納入された、多数の納入品が発見されました。
納入されていたのは、銅製の小さな聖天像288個、丁子袋1袋、削り香1包みでした。
修理完成時に、塗りの箱を新調し、その中に納めて、再度像内に納入されたということです。
愛染院の十一面観音像が、聖天の変り身のようにして、聖天堂と名付けられたお堂に祀られているのも、このような由縁なのからなのでしょう。



【元々六角堂の塔頭だった愛染院~平成9年に、窮屈なビルの谷間から当地へ移転】


愛染院が岩倉の地に移転したことについて、ご住職にお話を伺いました。

愛染院は、華道・池坊、発祥の地として知られる六角堂のすぐそばにありました。
六角堂頂法寺は、西国三十三所十八番札所として、今も大変賑わっています。

六角堂頂法寺
六角堂頂法寺

愛染院は、六角堂頂法寺の塔頭として、天台宗に属していましたが、明治維新の際に分離し、真言宗智山派の寺院となりました。
そして平成9年(1997)に、「中京区六角通東洞院」から、現在の「左京区岩倉幡枝町」へ移転し、寺観、諸堂も一新されたということです。

六角堂のそばにあった時の有様は、「仏像巡りの旅~京都洛中・東山編」に、このように語られています。

「六角堂の東隣、ビルとビルの間に唐破風の屋根をもつ門がある。
門の正面奥にも高いビル。
ビルに吸い込まれるように延びる参道の奥に、三方を壁面に囲まれ、埋もれたようにお堂が二つ。(本堂と聖天堂)」

本当に狭苦しく、窮屈なところに、お堂があったようです。
NET上で、当時の愛染院の光景写真を見つけましたので、ご覧ください。

六角堂傍にあった時の愛染院

六角堂傍にあった時の愛染院
六角堂傍にあった当時の愛染院

私も、以前に、六角堂は何度か訪ねたことがあったのですが、そばにあった愛染院の存在に気が付くことはありませんでした。

当地に移転し、ビルの谷間の窮屈な世界から解放され、広々とゆったりした寺観に落ち着くことが出来たということです。

きっと、十一面観音像も、広い聖天堂収蔵庫に移されて祀られるようになり、その堂々とした見事な立ち姿を、じっくり拝することが出来るようになったのではないでしょうか?



愛染院の十一面観音立像。

愛染院・十一面観音像
愛染院・十一面観音像

京都にある平安前期の見事な仏像なのに、訪ねる人も少なく、あまり知られていないのではないかと思います。
京都の仏像を紹介する一般書にも、採り上げられることは、まず無いのではないでしょうか。
一度、眼のあたりに拝すると、その

「重厚感ある堂々たる姿、迫力、ちょっと土俗的な、妖しい凄み」

に、惹きつけられ、きっと心に残る仏像となることと思います。

いずれの日にか、また観音様を拝しに、伺ってみたいものです。


古仏探訪~「北区大森東町・安楽寺の薬師如来像ほか諸像」京のかくれ仏探訪④  【2016.7.16】


京北の地、北山杉の山里に在る、安楽寺に遺された古仏を、ご紹介したいと思います。

とにかく、安楽寺の古仏の写真をご覧になってください。
薬師如来坐像、如来立像、僧形像、天部像の4躯の古仏が遺されています。

安楽寺に祀られる諸像
安楽寺に祀られる諸像

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像

安楽寺・如来立像
安楽寺・如来立像

安楽寺・僧形像
安楽寺・僧形坐像

安楽寺・天部形像
安楽寺・天部形立像



【出来の良し悪しを超越した、不可思議な存在感と迫力】


何と表現したらよいのでしょうか?
お世辞にも、「出来の良い仏像」「美しい仏像」という言葉とは、縁遠い存在です。

「田舎の、不出来な仏像」
「造形が、アンバランス」
「アクが強すぎる、どぎつい表現」

こんな類のフレーズが、機関銃のように飛び出してきそうな、特異、異貌の古仏です。
そういってしまうと、「わざわざ取り立てて云々するほどの仏像ではない」、というように聞こえます。

かといって、皆さん、この仏像を観て
「単に、出来の良くない地方作、田舎の仏像の一作例」
こんな通り一遍の感想だけで済ませて、そっけなく通り過ぎてしまうのでしょうか?

どのような修飾語が、あたっているのかよく判りません。
しかし、尋常ではないのです。

「なんだか凄い」
「ドーンと腹に応える」
「得も言われぬパワーを発散している」
「出来が悪いのに、不可思議な迫力がある」

こんな“感覚”が頭の中をよぎりました。

出来の良し悪しを超越した、不可思議な「存在感」「迫力」「凄み」のようなものを、強く感じてしまうのです。

この安楽寺を初めて訪れたのは、2007年の5月、今から9年前のことでした。

上手く表現できないのですが、一発、ガツンとやられたような衝撃を感じたのです。
以来、私の頭の中の印画紙に、しっかりと焼き付いたまま、忘れられない仏像となってしまいました。

いつの日か再訪したいものと、思っていました。
昨年(2015年)8月、その思いがやっと叶い、同好の方と、再び安楽寺を訪ねることとなりました。



【北山杉の山里、惟高親王ゆかりと伝える安楽寺】


安楽寺は、北区大森東町という処にあります。
神護寺で知られる高雄から、周山街道を北へ15キロ、30分ほど車で走り、街道を東へ入ってしばらく行った京北の山里の地です。
車を走らせると、左右には、北山杉の美しい森が続きます。

美しい北山杉の並木
美しい北山杉の森

枝が払われた北山杉の木立が、天に向かって真っ直ぐに伸びた有様は、美しき日本を象徴するような風景です。
川端康成の名作「古都」に登場する双子の主人公、苗子の住んだ北山杉の村も、このあたりだったのだろうかと思いを巡らせながら、山里の路を走らせているうちに、大森東町に到着しました。

安楽寺から眺めた北山杉の山並み
安楽寺から眺めた北山杉の山並み

道路から5~60m入った広場のようなところに、ポツリと建てられたお堂があります。
そこが、安楽寺です。

安楽寺のお堂
安楽寺のお堂

お堂の前には、「文徳天皇第一皇子 惟高親王遺跡」と刻された石碑が立っています。

安楽寺堂前に立てられた、惟喬親王ゆかりの石碑
安楽寺のお堂

この碑の隣には、
「忘れては 夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて 君をみむとは」
の、歌碑もありました。

この歌は、「伊勢物語八十二段・小野の雪」に、馬の頭が、雪積る小野の地に隠棲した惟高親王を訪ねて、詠んだとして出てくる歌です。
古今集には、在原業平の詠んだ歌として収められています。

「京のかくれ仏①」でご紹介した浄楽寺のある大原上野町も、惟高親王ゆかりの地でした。
そして、この安楽寺のある大森東町もまた、惟高親王ゆかりの地なのでした。

惟喬親王(844~897年)は、文徳天皇の第一皇子でありながら、生母が紀氏であることや、藤原氏の娘である皇后・明子に惟仁親王(清和天皇)が生まれたことから、出家を余儀なくされ、小野郷の地に隠棲し没した、悲運の皇子として知られています

京北には、惟喬親王ゆかりの地とか、隠棲した小野郷の地と伝えられる地が、いくつかあるのですが、この大森の地も、小野郷の名で呼ばれています。
在地の研究家・沢田臼太郎氏は、著作の中で、親王は次のような足跡を辿ったと述べています。

惟喬親王は、貞観元年(859)に江州小椋村へ移り、貞観4年に大原へ、その後、雲ケ畑を経て、当地大森に移り、元慶3年(879)、この大森の地で没した。

その惟喬親王が、当地に建てたのが安楽寺であるというのです。
安楽寺のお堂は、大森東町北東の山中にあったのが、暦応年中(1338~41)、今の地に移されたものと伝えられています。

安楽寺の堂内には、「惟喬の社・御霊神社」と称する、惟喬親王を祭神とする神祠が据えられています。

安楽寺堂内の惟喬親王を祭神とする神祠
安楽寺のお堂

この大森の地では、惟喬親王への尊崇の念が、長らく受け継がれてきているのです。

惟喬親王の話はこれぐらいにして、堂内の仏像を拝した話に移りたいと思います。



【安楽寺に祀られる、不思議な4躯の古仏】


安楽寺は、無住のお堂です。
地域で管理されており、この日も、地区の方がわざわざお見えいただき、お堂を開いていただきました。

安楽寺諸像が祀られる厨子
安楽寺諸像が祀られる厨子

堂内の厨子には、4躯の古仏が祀られています。
薬師如来坐像、如来立像、僧形像、天部像の4躯です。

厨子内に祀られる諸像の姿
厨子内に祀られる諸像

先に、像高、品質構造などをご紹介すると、次のとおりです。

薬師如来坐像
像高:114.7㎝、ヒノキ材、膝前まで一木、背面・浅い内刳り、前面・頭頂から腹部別一材を矧付け
如来形立像
像高:161.2㎝、ヒノキ材一木彫、背面・頭頂から蓮肉までの背面材を矧付け
僧形坐像
像高:59.3㎝、ヒノキ材一木彫、膝前別材
天部形立像
像高:102.2㎝、ヒノキ材一木彫

4躯共に、昭和59年(1984)に、京都市指定文化財に指定されており、制作年代は平安前期とされています。


厨子の真ん中に薬師如来坐像が祀られ、その脇に他の3躯と破損仏の断片などが、ちょっとゴチャゴチャと置かれているような感じです。
如来立像と天部立像は、足下が破損して自立することが出来ず、立てかけられています。



【たじろぐような凄みが、腹にこたえる薬師坐像】


まずは、薬師如来坐像です。

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像

拝したとたん、ギョロリと巨大な眼、大きな鼻のインパクトに度肝を抜かれます。
明らかにアンバランスです。

安楽寺・薬師如来坐像~顔部
安楽寺・薬師如来坐像~顔部
ギョロリとした眼、大きな鼻に度肝を抜かれる安楽寺・薬師坐像

次に、ズングリというのか、ゴッツイというのか、肉身の異様なボリューム感に驚かされます。

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像~腹・脚部
木塊のようなボリューム感の安楽寺・薬師坐像

所謂、「出来の良さ」とは、縁遠いのですが、全体から、「得も言われぬパワー」を発しているのです。

「凄みのある、量感あふれる『木の塊』が、こちらに向かって迫って来る」

そんな表現が相応しいような、強烈な存在感を、ビンビンと感じるのです。
「思わず、たじろぐような凄み」
と云ってもよいのかもしれません。

この迫力は、「霊威感とか、森厳な精神性」などと表現される世界とは、またちょっと違った感覚です。
「土の匂いのするような、ドーンと腹に応えるような、凄み」
とでも表現するのでしょうか?


NET上の京都市指定文化財解説(京都市情報館HP)をみると、

「大森東町の安楽寺の本尊である本像は,坐像としては珍しく,ほぼ全体をヒノキの巨材一材から彫り出す。
肉身部は漆箔,衣は彩色,眼は彫眼で仕上げられている。
全体に寸のつまった塊量性の豊かな造形で,粗々しく豪快な作風から平安時代前期の制作と考えられる。」

このように記されています。

そのとおりだとは思うのですが、こうした解説文では決して表現しきれない「何ものか」を持っている像なのです。
皆さんも、実際にこの薬師像を眼のあたりに拝すると、「得も言われぬ凄みのパワー」を発散しているのを、実感するに違いありません。
私同様、忘れられない仏像になることと思います。

この安楽寺・薬師像について言及した、井上正氏は、このように述べています。

「この像を拝していると、凄いという言葉が思わず洩れてしまう。
この実体感、このアンバランス、そしてこの粗さ、都のどこにこのような像が求められるであろうか。
ここにしか有り得ないだろうという、根が生えたような存在感が相乗して、言葉に表わし得ない異常な追力となって私を打つ。
通常の解説のなかではこの第一印象にあった凄味が多くの場合流れて消えてしまう。
量感、アンバランス、地方作といった評語の組み合わせだけが空しく残り、尋常でない精神性が消えて低いところに価値づけられてしまうのだ。」
(「古佛~彫像のイコノロジー」井上正著・1986年法蔵館刊)

仏教美術史研究者としては、かなり情緒的な表現なのですが、この薬師像から受ける率直な実感をよく言い表した文章だと思います。

もう一つ、構造面で、この像のめずらしいは、頭体部、膝前まで一木の巨材で木取りしながら、頭頂から腹部に至る前面部分を、別材で矧ぎ付けていることです。
また、背面からは、しっかり内刳りを施しています。
材の中心に木心を込めた心持ち材から彫り出したため、そのようにしたのではないかと思われますが、前面部から別材をあてがうというのは、面白いやり方です。

安楽寺・薬師如来坐像~背面・内刳り安楽寺・薬師如来坐像~側面
安楽寺・薬師坐像の背面・内刳りと側面


【しつこく繰り返される旋転文に、霊威発散を感じる如来立像】


次は、如来立像です。

安楽寺・如来立像安楽寺・如来立像
安楽寺・如来立像

この像は、朽損していますが、なかなかの迫力を発散している古像です。
所謂、平安初期彫刻がお好きな方々は、薬師如来坐像よりも、この如来立像の方を注目されるのかもしれません。
足下が痛んで、自立することが出来ず、壁によりかかった痛ましい姿なのですが、平安前期の匂いがプンプンとする一木彫像です。
出来の方は、必ずしも良くなく地方作的な雰囲気なのですが、大変古様であることも間違いありません。
奈良様にみられる、頭の小さい造形表現も特徴です。

平安前期特有のボリューム感、塊量感はそれほどでもなく、躍動感もあまり感じません。
硬直して、ズドンと直立しているといったような造形です。
蓮肉まで一木という古様な造形なのですが、奥行きが足りなかったためか、後頭部と背面に、それぞれ一材が矧ぎ付けられています。
その背面材が、蓮肉後方まで一体となっています。

安楽寺・如来立像~正面.安楽寺・如来立像~側面.安楽寺・如来立像~背面
安楽寺・如来立像

そんなところを見ると、時代が下がる模古的な作かなという気もするのですが、結構な「オーラ」を感じるのです。
惹き付けられるものがあります。

こちらの如来立像の発するオーラは、「霊威表現とか、気の表現」という方があたっているのではないかと思います。
薬師坐像の迫力が、
「土の匂いがする木塊的凄み」
というならば、
如来立像の方は
「強い精神性の霊威表現」
の迫力という風な気がします。

この霊威発散の一番の源となっているのは、異常なほどに繰り返されている「旋転文・渦文」ではないでしょうか?

安楽寺・如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」
安楽寺・如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」
安楽寺・如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」

これでもかというほどに、衣文に17個の旋転文が配されています。
向かって、左側に二列10個、右側に5個、両側面下方に2個です。
いかにも、この像の持つ強い精神性、霊威性を、くどいほどの旋転文の繰り返しに、込めているような気がします。



〈思い浮かぶのは、上賀茂・神光院の薬師如来立像〉


こんな旋転文の繰り返し表現は、他にあったでしょうか。
すぐに思い浮かんだのは、近年紹介された、京都市北区上賀茂にある神光院の薬師如来立像です。

神光院・薬師如来立像神光院・薬師如来立像
神光院・薬師如来立像

この像は、上賀茂神社における神仏習合思想を背景に制作された、9世紀前半制作の古像とみられています。
この神光院・薬師像の衣文にも、くどいほどの旋転文の繰り返しがみられるのです。
神光院像を、世に紹介した皿井舞氏は、安楽寺・如来立像との共通点に着目し、このように述べています。

神光院・薬師如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」
神光院・薬師如来立像の、
繰り返される「旋転文・渦文」
「本像と似た旋転文のかたちと配置とをもつ像に、京都北区大森町の安楽寺如来形立像がある。
・・・・・・
このような構造(後頭部・背面に別材を矧ぎ付ける構造)からみれば、安楽寺像は神光院像より制作年代が下ると考えられるものである。

ただし、胸を大きくあけ、なだらかな円弧を二つ連ねた胸部の線と曲率の大きい腹部の線をあらわす点、覆肩衣を大衣にたくしこまず右肘内側の腹部上に舌状のたるみをあらわす点、左右の肘より下の袖口と大衣正面の左端に旋転文を連ねる点などは互いに非常によく似ており、何か共通する手本があったのではないかと想像される。」
(京都神光院蔵・木造薬師如来立像・皿井舞・美術研究404号~2011.8)

たしかに両像は、旋転文の繰り返しだけでなく、全体の空気感にも似ているものがあります。
皿井氏は、神光院像について、

「『仏力をもって神威を増す』という、神仏習合思想を背景に造立された、霊威表現の像」

とみられていますが、安楽寺の如来立像が発散するオーラ感も、そうしたものに関連するものなのでしょうか?

神光院・薬師如来像については、観仏日々帖「古仏探訪~京都・神光院  薬師如来立像」で、ご紹介していますので、ご覧ください。



【極めつけの異形、奇相の僧形・天部形像】


最後に、僧形像と天部像なのですが、これ以上くどくどと、両像の印象、感想を綴っていると、話が長くなりすぎるので、やめておきます。

一言でいうと、両像こそ、極めつけの異形、奇相の古像です。
あまりの大胆、奇抜な形相は、私の理解を超えてしまっているようにも感じます。

安楽寺・僧形坐像安楽寺・僧形坐像
安楽寺・僧形坐像

安楽寺・天部形立像安楽寺・天部形立像
安楽寺・天部形立像

もし、この2躯だけを拝したとしたら、平安前期に遡る可能性のある古像だと思うでしょうか?
私には、ちょっと自信がありません。
もっと時代がぐっと下る、地方作の奇相像と感じるような気がします。



【何故だか採り上げられることのない、安楽寺の諸像】


これだけの奇抜、異形とも云える安楽寺の4躯の古像ですが、これまで専門家の間で、採り上げられたり、議論されたことがあるのでしょうか?

この像について、まともに採り上げ論じたのは、井上正氏を除いてないように思います。
京都の仏像の解説書などにも、全く登場しません。

私の知る限りでは、以下の3冊の本に、採り上げられているだけです。

「古佛~彫像のイコノロジー」  井上正著・1986年 法蔵館刊
「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」  京都市文化財ブックス第3集
「京都市の文化財~京都市指定・登録文化財集(美術工芸品)」  1992年刊

この3冊は皆、井上正氏の著作と、井上氏がその編集等にかかわっている本ですの。
大胆に云うと、これまで研究者の中で、
「安楽寺諸像に注目、採り上げたのは井上正氏だけ」
と云えるのかもしれません。

それでは、この安楽寺諸像、近年まで知られていなかった、新発見の仏像なのかというと、そういうわけではないようです。
大正4年(1915)に発刊された、「京都府史蹟調査会報告・第一冊」で紹介されているのです。

「京都府史蹟調査会報告・第一冊」

安楽寺の項の中には、

「堂内正面ニ安置スルモノハ薬師佛座像木彫高三尺八寸ナリ。
傅フル所慈覚寛大師ノ作ナリト云フ。
猶側ニ佛像数體ヲ置ケリ。
ソノ内薬師立像ハ木彫高六尺三寸アリ、両手等破損セル個所アリト雖モ弘仁期ノ彫刻ト認ムべキモノ、毘沙門像ハ四肢ノ破損甚ダシケレドモ同ジク弘仁期ノ作ナルベシ。」

と、記されているのです。

薬師如来坐像の制作年代には言及されていませんが、如来立像と天部立像は、弘仁期(平安前期)の制作とされているのです。

「京都府史蹟調査会報告・第一冊」掲載の安楽寺諸像写真
「京都府史蹟調査会報告・第一冊」掲載の安楽寺諸像写真

平安前期の制作かと思われる古仏像の存在が、大正年間から知られていたにもかかわらず、採り上げられたり、論じられたりしてこなかったのは、これら安楽寺の諸像が、
「採り上げるに足らぬ地方作の不出来な像」
「あまりの違和感に、扱いにくい像」
とみられてきたということなのでしょうか?



【安楽寺諸像に注目、惹きつけられた「井上正氏の眼」】


この不出来な地方作のようにみられた安楽寺諸像ですが、
「内なるところから発散する強烈なパワー、オーラのようなもの」
が、井上正氏のハートを大きくとらえたようなのです。

井上氏は、自著「古仏」で、安楽寺の諸像に大きなスペースを割き、3回・15ページにもわたって論じているのです。
古密教彫像について論じる井上氏にとって、安楽寺の諸像は、それほどにも強烈なインパクトのある仏像であったのではないかと思います。

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像
井上氏は、自著「古佛~彫像のイコノロジー」(1986年 法蔵館刊)の中で、このように語っています。

「この像(薬師如来坐像)の作風は、“都ぶり”“洗練”といったものとは程遠く、どこを探しても整美な様相は求められない。
量感のある点だけがとりえで、すべては『地方作』という言葉のなかに取り込まれてしまう。
しかしこのような平板な見方では、この像の真の価値は浮かびあがってこない・・・少なくとも私にはそう思えるのである。」

そして、これら諸像(薬師如来坐像、如来立像、僧形像、天部像の4躯)の制作年代については、霊威表現と塑像写しの特色を備えた古密教像とみて、奈良時代の制作に遡る可能性という見方を示しています。

「全体に共通していえることは、まず霊威表現という言葉がぴったりあてはまるような精神内容をそなえていること、第二には塑造写しの木彫の特色を示していること、の二つである。

安楽寺・僧形坐像
安楽寺・薬師如来坐像

すでに何度か述べたように、霊威性の表現は、古密教尊像の基本的な性格であるとはいえ、凄味のある迫力を帯びるようになったのは8世紀以後のことと察せられる。
そして、古式な一木彫成像のなかで、塑像的な感触をもち、明らかに塑造表現を、そのまま木彫に写したとみられるものは、塑造全盛時代またはそれに続くころの作例と考えた方がよい。

こうした考え方に立っと、安楽寺に伝わる四躯の像は、奈良時代に、この山中の集落に根づいた古密教のありようを示す遺品であり、・・・・・・・・」


本のエッセンスだけのつまみ食いの紹介ですので、ご関心のある方は、是非「古佛~彫像のイコノロジー」の本をお読みになっていただきたいと思います。
大変面白く、興味深い文章です。



【発散する「凄み」に、あてられてしまった、安楽寺諸像】


この像の制作年代、皆さんはどのように感じられるでしょうか?

奈良時代の古密教彫像?
平安前期の一木彫像?
時代の下った地方作像、形式古様の像?

私にとっては、安楽寺の仏像に限って云えば、
「制作年代などは、どうでもいい。
いずれの年代であろうと、それは主たる関心事ではない!」
眼のあたりに拝して、そんな気持ちを強く感じました。

これらの諸像が、
「内なるところから発散する、強烈なオーラというか、凄みにあてられてしまった!!」
というのが、素直な実感です。

実の処、年代は少し下がるのかもしれません。
ただ、制作年代がいずれであろうとも、「発する気の、凄さ」は、変わるものはありません。


国宝級の第一級の見事な仏像を観て、心から感動するというのは勿論のことなのですが、
この一見、不出来で粗野で田舎臭い仏像に、思いのほかに、これほどの衝撃や感動を覚えることがあるのかというのが、正直なところです。

安楽寺の諸像は、日本彫刻史・美術史的には位置づけにくい像でしょう。
率直に言って、人それぞれによって「好き嫌い」が激しい仏像なのではないかと思います。
「こんな仏像、わざわざ観にいく気など、全く起こらない」
そのように感じられる方も、結構いらっしゃるのではないかと思います。

私にとっては、再訪してみて、その不可思議な得も言われぬ凄みに、ますます惹き付けられ、心に刻みつけられた、安楽寺の仏像となりました。


きっと、何年かたったら、また出かけてしまうのではないかと思います。



4回連続して、図録冊子「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に収録されている仏像のなかから、私が、「とっておきの京のかくれ仏」と感じた古仏を、ご紹介してきました。

次回からは、新たな「京のかくれ仏」を、いくつかご紹介していきたいと思います。



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