観仏日々帖

古仏探訪~「右京区嵯峨清滝月ノ輪町・月輪寺の千手観音像ほか諸仏」京のかくれ仏探訪⑥ 【2016.8.19】


京都、嵐山の北方、愛宕山の中腹に在る月輪寺の仏像を、ご紹介したいと思います。

月輪寺には、平安時代の千手観音像、十一面観音像を代表格に、多くの古仏が遺されています。

月輪寺・千手観音立像
月輪寺・千手観音立像

月輪寺・十一面観音立像
月輪寺・十一面観音立像

月輪寺・聖観音立像..月輪寺・伝竜王像
月輪寺・聖観音立像(左)      月輪寺・伝竜王像(右)

月輪寺本尊・阿弥陀如来坐像
月輪寺本尊・阿弥陀如来坐像

≪月輪寺の仏像写真は、図録等掲載写真から借用させていただきました≫



【歩いて山登りするしか、辿り着けない月輪寺】


月輪寺の千手観音像や十一面観音像などは、「京都の仏像の本」に、結構紹介されていますので、ご存じの方も多いのではと思います。
しかし、月輪寺まで山登りをして、直に拝された方は、そう多くはいらっしゃらないのではないでしょうか。

「一度は、拝すべし」

月輪寺の仏像は、間違いなくそう云えるだけの、魅力ある仏像です。
とりわけ、千手観音立像、十一面観音立像は、平安古仏を愛する方には、必見だと思います。

「一度は、拝すべし」というふうに、わざわざ書いたのは、
「もう再び、訪れることは無いのだろう。」
私にとって、これが率直な気持ちであるからなのです。

仏像の素晴らしさを考えれば、何度も訪れたいところですが、愛宕山を登って月輪寺に行きつくまでの、山道の厳しさ、しんどさを思い起こすと、あのつらい思いはもう二度としたくないというのが本音の処です。


月輪寺は、標高924メートルの愛宕山の山中にあります。

京都嵐山・渡月橋から望む愛宕山
京都嵐山・渡月橋から望む愛宕山

山頂には、「愛宕参り」で知られる愛宕神社があるのですが、参詣手段は、自らの脚で歩いて登るしかありません。
車の通れる道は、一切ないのです。
月輪寺に行きつくには、急坂の山登りを、1時間ほど頑張らなければならないのです。

愛宕参りが、大変盛んであった昭和期には、嵐山から清滝までは鉄道があり、そこから愛宕山上までは、ケーブルカーで登ることが出来たそうです。
昭和19年(1938)に、戦時の不要不急路線ということで廃線となり、戦後も復活することはありませんでした。

愛宕山ケーブルカー(昔の観光絵葉書)
往時の愛宕山ケーブルカー(昔の観光絵葉書)

現在では、愛宕山に登って、愛宕神社、月輪寺を巡るコースは、健脚向けのハイキングコースとして、知られているようです。



【厳しい山道に息も絶え絶え、ギブアップ寸前に】


私が、月輪寺を訪れたのは、かれこれ9年も前、2007年の春のことでした。

月輪寺へは、山登りが結構きついのだという話は、聞いていたのですが、
「もう、二度とこりごりだ!」
というほどに、キツイものになろうとまでは、思いもしてませんでした。

清滝口のバス停から清滝川沿いの林道を30分ほど歩くと、月輪寺への登り口につきます。
なるべく楽をしたいということで、我々は、車が通れる登り口の処までは、車を使いました。

登り口には、
「月輪寺のぼりぐちです。月輪寺まであと1時間。」
と、小屋の壁に大きな字で書かれていまます。

月輪寺への登り口に書かれた標識目印
月輪寺への登り口に書かれた標識目印

さあ頑張って、月輪寺の仏像を目指して、山道を登り始めます。
急坂の厳しさは、想定以上のものでした。
登り口まで車を使い、体力温存でスタートしたはずなのですが、並大抵ではなくきついのです。
日頃、歩くことはもちろん何のトレーニングもしていないツケが、たっぷり回ってきました。
20分ほど、急な山道を登っただけで、ハーハー、ゼーゼー、青息吐息状態です。
ほぼ同年齢の同好の方と4人で登り始めたのですが、他の3人は、ヘトヘトのそぶりは無く、しっかりした足取りで登っていきます。
私だけが、如何に怠惰な生活をしているのかということを思い知らされました。

月輪寺への急傾斜の山道月輪寺への急傾斜の山道
月輪寺への、急傾斜の険しい山道

月輪寺まで、半分ちょっと登ったところで、このまま登るのはもう無理と、
「皆さん、どうか先に行ってください。しばらく休んでから考えますから。」
と、ギブアップ気味になってしまいました。

ご一緒の方々が、情けない私に憐れみをかけて、
「もう少しだから、めげずに一緒に頑張ろう。」
と、背中を押していただきました。

完全に息が上がって、やっとのことで、月輪寺へ到着したのです。
美しい景観も全く目に入らず、精も根も尽き果てて、
「もう二度と、こんなにつらい思いはしたくない。」
と、へたりこんだのでした。

このように書くと、どれほど厳しい山登りなのかと思われるでしょうが、ご一緒に登った方々は、
「少々きついが、平気」
という様子でしたので、私のような方以外は、ご心配には及ばないのかもしれません。



【白洲正子も「引き返そうと思った」月輪寺への山道】


こんなにつらいと感じたのは、自分だけなのかと思ったのですが、同じような思いをした著名人の文章を見つけました。

白洲正子は、自著「十一面観音巡礼」に、月輪寺へ登った思い出を、このように綴っています。

白洲正子(於・高山寺)
白洲正子(於・高山寺)
「月輪寺にはほかにも何体か優れた仏像があると聞き、・・・・愛宕山へ向かった。
『空也の滝』の手前を右へ登っていくと、急に道は細く、険しくなる。
愛宕山は砥石が出るところで、それが細かく砕けているので、歩きにくいことおびただしい。
途中で、何回も引き返そうかと思ったが、暗い森を抜けたとたん、美しい展望がひらけ、はるか上の方に、お寺の本堂も見えてきた。
若い人なら三、四十分で行けるところを、私は一時間以上もかかった。」

白洲正子も、私と同じように、
「途中で、何回も引き返そうかと思った」
のだと、仲間を見つけた気分になりました。

あるブログに、こんな話が書いてありました。

「月輪寺の住職さんに聞いた話だと、白洲正子がカメラマンと2人で上った時は、登山道もあまり整備されていないのにヒールがある靴で上り、靴擦れをおこして登山をあきらめようとした。
しかし、一念発起して靴のヒールをつぶして上り、お堂から見た朝焼けに感動のあまり涙したのだそうだ。」(ほっとけハイク見聞録)

白洲が、月輪寺に登ったのは64~5歳の頃のようです。
ただ、私は、それより7~8歳若い頃に登った訳ですから、やはり、余りに情けないということになります。



【十数躯の古仏が遺される、愛宕山中の月輪寺】


息も絶え絶えで、月輪寺に到着しました。
休息所でしばらく休み、息切れも整ってくると、やっと素晴らしい眺望が眼に入ってきました。

愛宕山・月輪寺から望む眺望

愛宕山・月輪寺から望む眺望
愛宕山・月輪寺から望む眺望

この日は、少し霞んでいましたが、ここから見晴らす下界の眺望は、絶品です。
仏像拝観はまだなのですが、この絶景が見えるところまで、自力で登ってきたのかと思うと、途中であきらめずに来た甲斐があったという気持ちになってきます。

落ち着きを取り戻したところで、念願の月輪寺の仏像の拝観です。
仏像の拝観は、事前にお寺にご連絡して、予定を伺いご了解を頂戴しておけば、大丈夫です。
本堂、祖師堂という古いお堂がありますが、重要文化財の仏像は、鉄筋コンクリートの宝物殿・収蔵庫に安置されています。

月輪寺・本堂
月輪寺・本堂

月輪寺・祖師堂
月輪寺・祖師堂


まずは、月輪寺に祀られる鎌倉時代以前の仏像を一覧にしておくと、ご覧のとおりです。

月輪寺安置の諸仏一覧リスト


立派な平安古仏が、ごっそり遺されているのです。
8躯もの仏像が、重要文化財に指定されています。
月輪寺は、明治の神仏分離まで、愛宕神社の別当寺である白雲寺の塔頭の一つ、福寿院の末寺とされていたそうです。
愛宕山に遺されていた古仏が、此処、月輪寺に集められたのかもしれません。



【ひときわ眼を惹く、千手観音像と十一面観音像】


収蔵庫の扉を開いていただき、いよいよご拝観です。

月輪寺・宝物殿収蔵庫
月輪寺・宝物殿収蔵庫

収蔵庫には、8躯もの仏像が立ち並んで安置されています。
明るい収蔵庫で、諸仏をはっきりと拝することが出来ます。
諸仏の中で、私の眼を惹いたのは、やはり、2躯の観音像、千手観音像と十一面観音像です。



【「呪術的な妖しさ」に、惹き込まれてしまう千手観音像のお顔】


なかでも、千手観音立像は、強く印象に残る仏像です。

月輪寺・千手観音立像

月輪寺・千手観音立像
月輪寺・宝物殿収蔵庫

一見しただけで、平安前期の一木彫像であることが判ります。
そして、ぐっと惹きつけるものを、感じます。

凄みのある迫力とか、塊量感といった、いわゆる平安前期ならではの特徴を備えた像ではありません。
むしろ、
「スリムでがっしり、凛とした緊張感がある」
といった形容の方が相応しいのでしょう。
ボリューム感はさほどなのですが、肩を怒らせがっしりした体躯で、くびれのある引き締まった造形をしています。

それよりも、何よりも、私を惹き付けたのは、千手観音像のお顔です。

呪術的な妖しさを感じる、千手観音像のお顔

呪術的な妖しさを感じる、千手観音像のお顔
呪術的な妖しさを感じる、千手観音像のお顔

「呪術的な妖しさ」「神秘的な呪力」
とでも、表現するのでしょうか?

くっきりと切れ長で、目尻がちょっと上がった細くて鋭い眼。
シャープで、キリリとした目鼻立ち。
わずかに微笑みをたたえた口元。
その表情は、エキゾチックな妖しさをたたえ、凛とした緊張感を漂わせています。

「拝する者を、不思議な力で、妖しく、強く、惹き込んでいく。」

こんな魅力を感じるのです。

こんな表情の仏像、他にどこかで拝したことがあるようで、無いようで、なかなか思い出しません。
類例の少ない雰囲気のお顔のような気もします。

この千手観音像は、針葉樹の一木彫像で、内刳りは全く無く、合掌手、宝鉢手の前膞部も含めて、一木から彫り出されているそうです。
材は、カヤとするものと、ヤナギ?とするものがありました。
いずれにせよ、その構造をみても、平安前期の制作を思わせます。



【愛宕山、古密教が求めた呪力表現~千手観音像】


千手観音像を拝していると、いかにも愛宕山の山岳信仰、古密教の神秘的な呪力というものを想起させるものがあります。
まさに山岳密教の呪術的な妖しさ、鋭さをたたえた観音像といえるのではないでしょうか?

この「呪術的な妖しさ」は、専門家にも注目されているようで、解説書などをみると、愛宕山の山岳信仰と関連付けて、このように述べられています。

月輪寺・千手観音立像
月輪寺・千手観音立像
「この寺(月輪寺)は、古くにはこの千手観音像が本尊であったと思われる。
・・・・・
雑密経典はすでに奈良時代に大量伝えられ、雑密像は山寺の仏像として造られる場合が多かった。
その信仰は、呪術的傾向が強く、・・・・・・人跡まれな山林の清浄所で苦行をかさねたものには、神秘的な呪力がさずけられていると信じられていたからである。
この千手観音像のするどい目を見ると、山林における千手観音の信仰がどのようなものであったか想像できそうである。」
(「京都の仏像」中野玄三氏執筆、1968年淡交社刊)


「これらの表現と合わせて、天衣やインド的な情感を帯びた表情は、なんらかの山岳密教図像に基づいて造形された可能性が考えられる。
愛宕山の古い信仰では、このような一種の呪力を感じさせる像が本尊として求められたのであろう。」
(「月輪寺の仏たち」近藤謙氏執筆、佛教大学アジア宗教文化研究所資料集1、2007年刊)



【千手観音像は、9世紀初頭に以前まで遡る古像?】


製作年代は、どのように考えられているでしょうか?
平安前期とか前中期とかといった幅を持たせた解説が多いのですが、

井上正氏は、
月輪寺・千手観音立像
月輪寺・千手観音立像


「造立年代は8・9世紀の間にある。
宝亀元年から9年(770~778)までの間に愛宕山を中興した慶俊僧都との関係は可能性の範囲を出ないが、今は、本像の様風が随所に奈良風をとどめたものであることを銘記しておきたい。」
(「古仏~彫像のイコノロジー」井上正著、1986年法蔵館刊)

と、氏の持論の範疇に含め、奈良時代の古密教彫像であるとしています。


田中恵氏は、このように述べ、造形表現に一木彫発生期的なものをみて、8~9世紀の制作とみています。

「このようなバランスを欠いた表現(すらりとした印象と、天衣や裳裾の衣褶のにぎやかさなど)は、不慣れな発生期または論理性に欠ける衰退期に起こるものだが、大腿を塊量的表現だけで表している様子などに、発生期的な部分を読み取ることが出来る。
平安中期にはほとんど見ることのできない明るい顔つきと併せて、8世紀末頃から9世紀初頭の制作と考えてもいと思われる。」
(「隠れた仏たち~山の仏」藤森武写真・田中恵執筆、1998年東京美術刊)


さらには、近藤謙氏は、このように述べています。

「現在月輪寺に伝えられている彫刻作例の中で最も古いと考えられる作品である。
9世紀の造立と考えられる。」
「まぶたの盛り上がり、顎先のくびれには強い弾力が感じられ、9世紀の檀像彫刻作例に共通するエキゾチックな印象が顕著である。」
(「月輪寺の仏たち」近藤謙氏執筆、佛教大学アジア宗教文化研究所資料集1、2007年刊)

以上のように、8世紀まで遡るとか、平安時代も最初期の9世紀初の像だ、という見方も、結構あるようです。


同じ京都の地での多臂観音像の古例では、太秦・広隆寺に、8世紀末ともいわれる不空羂索観音像、9世紀半ば頃かとみられる千手観音像があります。

広隆寺・千手観音立像

広隆寺・千手観音立像
広隆寺・千手観音立像

広隆寺・千手観音像の厳しく、鋭い顔貌、体躯の造形などをみると、月輪寺像が、それよりも制作年代が、遡るといわれると、
「そこまで、古い像なのかな?」
というような気もしてしまいます。
ただ、平安前期の空気感をはっきりと持った古仏であることは、間違いないことだと思います。

いずれにせよ、「呪術的な妖しさ」のお顔に、惹き込まれてしまいそうな魅力あふれる仏像です。
拝していると、愛宕山の山岳信仰の神秘的呪術力のようなものに想いを致さずにはいられませんでした。



【土俗的な空気感が漂う、十一面観音像】


千手観音像の次に、眼を惹くのは、十一面観音像です。

月輪寺・十一面観音立像
月輪寺・十一面観音立像

こちらの観音像は、千手観音像のようなシャープさや、妖しい顔貌は伺えないのですが、なかなかの魅力を感じる像です。
重量感というか、どっしり感のある造形です。

言葉はよくないのですが、
「ずんぐりとした、鈍さ」
に、心惹かれるものを感じます。
塊量性はありますが、一方で、穏やかさもでてきて、渦文などの衣文表現もやや平板になってきているようです。

月輪寺・十一面観音立像
月輪寺・十一面観音立像

一番の魅力は、そのお顔です。

土俗的な空気感の漂う十一面観音像のお顔
土俗的な空気感の漂う十一面観音像のお顔

土俗的な野趣を感じます。
太い鼻梁、分厚くめくれたような唇、下膨れの処などが、土着的、土俗的な空気感を醸し出しているようです。
これもまた、インド的エキゾチズムの表現の名残ということなのでしょうか?

千手観音像が「呪術的妖しさの魅力」とすれば、
十一面観音像は「土俗的オーラ、霊威感の魅力」とたとえられる像でしょう。
やはり、この十一面観音像も、愛宕山の山岳信仰のなかで造立された像のように思えてきました。

この十一面観音像は、ヒノキ材の一木彫ですが、背面に大きく背刳りを入れて、上下に2枚の背板を当てる構造になっているとのことです。
千手観音像より下って、10世紀頃の制作とみられています。


このほかにも、沢山の像が収蔵庫内に祀られているのですが、仏像のご紹介の方は、このぐらいにしておきたいと思います。

仏像と並んで、九条兼実像と伝える僧形坐像(平安後期・重文)、六波羅蜜寺の空也上人像の姿に似た空也上人像(鎌倉時代・重文)が、祀られています。
月輪寺には、空也上人(903~972)が参篭し、毎月15日の念仏を始めたという記録や、関白・九条兼実(1149~1207)が、出家して円証と称し、月輪寺に山荘を営んで折々に閑居を楽しんだという伝えが残されています。
こうした伝えの、ゆかりの像として祀られてる古像なのです。

月輪寺・九条兼実像月輪寺・空也像
月輪寺・九条兼実像(左)        空也像(右)

月輪寺の、千手観音像や十一面観音像をはじめとした、魅力ある平安古仏を拝すると、

「ここまで、苦労して、山登りをしてきた甲斐があった。」
「本当にしんどかったけれども、来てみて良かった。」

つくづくと、そのような気持ちに浸ってしまいました。



【その昔は、京博に預けられていた月輪寺の諸仏】


実は、この月輪寺の諸仏、昔は、京都国立博物館に預けられていたそうです。

重文指定の8躯が、京博に寄託されていました。
昭和48年(1973)に、現在の宝物殿・収蔵庫が建立され、博物館に預けられていた諸仏像が、この地に戻ってきたのでした。
この話、私は全く知りませんでした。
昭和48年以前に、京博を訪れていたら、山登りの苦労をせずに、これらの諸仏を博物館で観ることが出来たのかもしれません。
白洲正子の「十一面観音巡礼」には、
「京都の博物館で、月輪寺の十一面観音をみた。」
と綴られています。
ひょとしたら、私も、学生の頃、京博で観ているのかもしれませんが、全く記憶にありません。

しかし、月輪寺の古仏は、博物館に展示されているのを観ると、きっと、これほどの惹かれるものを感じないのだろうと思います。
霊気漂うような愛宕山山中に、必死で登り来て、その姿を拝してこそ、本当の魅力を感じることが出来るのは、間違いありません。
愛宕山の山岳信仰を象徴するような、呪術的仏像との出会いに感動した、月輪寺参詣となりました。



【私には、つらすぎる月輪寺再訪】


仏像を拝し終えて、お堂のあたりをぶらぶらしていると、大きな狸の置物のそばに建てられた、こんな記念碑が眼に入りました。

「月輪寺参拝 愛宕山登山 3000回達成」

と刻まれているではありませんか。

月輪寺境内に建てられた、3000回参詣記念碑
月輪寺境内に建てられた、3000回参詣記念碑

週に1回登山なら50年以上かかります。
二日に1回でも16年以上かかる計算になります。
こんな息も絶え絶えの山登りを3000回とは、信じられません。

「拝したいけれども、このしんどさを考えると、もう一度登ってくることは無いだろう。」

と云うのが私の実感なのですが、世の中には凄い人がいるものです。
唯々、讃嘆というしかありません。


月輪寺再訪はもう無いかと思うと、ゆっくり、じっくり諸仏を拝したいところであるのですが、ご住職お一人しかおられず、愛宕山ハイキングの途中で訪れる方々もいらっしゃるなか、そう我儘も云えず、後ろ髪をひかれつつ、月輪寺を後にしました。

帰りは、急な下り坂。
転ばぬよう、膝に来ぬよう、気を付けながらの下山ではありましたが、登りの時の地獄状態に較べると、天国のようなもの。
あっという間に、登り口まで行きつきました。

後ろを振り返って、急傾斜の山道を見上げると、やはり、もう一度これを登るのはこりごりだと、心の中でつぶやきました。




【追記~資料ご紹介】


月輪寺の仏像については、京都の仏像の解説書等々に、簡単な解説が書かれていますが、次の刊行物が、最も詳しい調査研究資料だと思います。

「月輪寺の仏たち~愛宕山中の名宝」佛教大学アジア宗教文化研究所資料集1
2007年3月 佛教大学アジア宗教文化研究所刊 75P

「月輪寺の仏たち~愛宕山中の名宝」

この資料集は、佛教大学アジア宗教文化研究所が2005~7年に実施した、天台宗愛宕山月輪寺未指定彫刻調査の成果を中心に、重要文化財指定の仏像も含めて、その概要を報告するために刊行されたものです。

月輪寺のすべての仏像の写真図版、個別解説、論考が収録されており、月輪寺の仏像についての最も詳しい資料集だと思います。

残念ながら、非売品で販売されてはいないのですが、月輪寺諸像に関心のある方に、ご参考までにご紹介させていただきます。



古仏探訪~「左京区岩倉幡枝町・愛染院の十一面観音立像」京のかくれ仏探訪⑤ 【2016.7.30】


左京区、宝が池の近くにある愛染院の十一面観音立像をご紹介します。
堂々たる平安前期の一木彫像です。

愛染院・十一面観音立像

愛染院・十一面観音立像
愛染院・十一面観音立像

像高は、ほぼ等身の167.5cm。
大正9年(1920)に、旧国宝に指定されており、現在は、重要文化財となっています。



【或る「仏像巡りの本」で目にとまった、京の街中の平安前期仏像】


この仏像を一度拝してみたいものと思ったのは、「仏像巡りの旅」という6巻本に、この愛染院の十一面観音像が採り上げられている文章を読んだからでした。

「仏像巡りの旅」  全6冊   毎日新聞社編著 1993年刊 各冊1300円
~鎌倉1冊、京都2冊、奈良2冊、信越・北陸1冊~

「仏像巡りの旅」京都 洛中・東山編

この本は、一見ハンディな観光向けガイドブックのような感じがする本なのですが、仏像好きには、なかなか渋い処の見どころある仏像が、結構採り上げられているのです。

刊行主旨に
「仏像巡りを目的とする方からの・・・・・一般的な観光ガイドブックではなく、しかも専門的な学術書ではないものを、との要望に応えることとした。」
と記されています。

この本を古本屋で見つけて、面白そうだと買ってみたのは、出版されてからもう10年以上たってからのことだったと思います。
愛染院は、第4冊「京都 洛中・東山編」に載っていました。

この巻には、
六道珍皇寺・薬師像、双林寺・薬師像、南禅寺・聖観音像、西方寺・阿弥陀像、
壬生寺・地蔵像、金戒光明寺・千手観音像等々
がラインアップされており、「気楽なガイドブックなのですが、それなりの仏像愛好者向き」という面白い内容です。



【「大地の香りの十一面観音像」という説明文に、興味津々】


愛染院のページを開くと、
「ビルの谷間のお堂に、大地の香りの十一面観音像」
という、見出し・リード文が、目にとまりました。

「仏像巡りの旅」愛染院紹介ページ
「仏像巡りの旅」~愛染院の紹介ページ

掲載されている観音像の写真を見ると、なかなかの迫力で見どころ充分、平安前期の匂いがプンプンします。
本文には、このように語られています。

「ビルに吸い込まれるように延びる参道の奥に散歩を壁面に囲まれ、埋もれたようにお堂が二つ。
・・・・・・・・・・
ずんぐりした重量感のある仏様である。
大地の香り、原始エネルギー、肝っ玉かあさん、などといった形容がふさわしい、素朴な力強さが感じられる。」

「こんな文を読むと、放ってはおけません。是非とも一度は拝したいものだ。」
「京都のど真ん中に、こんな平安前期の仏像があるのは、よく知らなかったな。」

そう思って、「仏像集成」(学生社刊)を調べてみたら、半ページだけですが、しっかり掲載されていました。



【京の街中から、緑豊かな岩倉に移転していた、愛染院】


これらの本によると、愛染院は、「京都市中京区六角通東洞院西入ル」に所在することになっています。
京都市街の、ど真ん中です。
ところが、愛染院は、その地にはありませんでした。
調べてみると、左京区岩倉幡枝町に移転していたのでした。
四条烏丸に近い中心地から、宝ヶ池の近くの岩倉の地へ移っていたのです。

岩倉幡枝町にある愛染院さんにご連絡をして、十一面観音像のご拝観をお願いしました処、ご住職から、快くご了解をいただきました。

初めて、愛染院に、観音様を拝しに伺ったのは、10年ほど前のことであったかと思います。
以来、この十一面観音像の姿が、強く心に残る仏さまとなり、2~3年の間に、3度も拝しに伺ってしまいました。

愛染院のある左京区岩倉幡枝町は、地下鉄烏丸線の北往きの終点「国際会館駅」から西へ1キロ弱、宝ヶ池の西北にあります。
門跡寺院で有名な岩倉実相院は、愛染院の北方2キロほどの処です。
この辺りは、京都のど真ん中の賑やかさとは打って変わって、落ち着いた処で、北の叡山を借景に緑豊かな景色が続きます。
結構、住宅が並んではいますが、ぶらりと散策するのにうってつけ、のどかな気分になってきます。

「大楽山」と記した立派な山門が目に入ると、そこが愛染院でした。

岩倉、愛染院・山門
岩倉幡枝町に在る、愛染院の山門

境内正面には、愛染院のご本尊・愛染明王像が祀られる本堂があります。

愛染院・本堂
愛染院・本堂

ご住職に、拝観のご案内をいただきました。
随分、ご高齢そうなご住職でしたが、拝観お願いの都度々々、大変ご親切にしていただき、ゆっくりじっくりと十一面観音像の拝観をさせていただくことが出来ました。

十一面観音像は、聖天堂と名付けられている収蔵庫に安置されています。

愛染院・聖天堂~収蔵庫
十一面観音像が祀られる収蔵庫~聖天堂

聖天・歓喜天像がお祀りされているため、聖天堂とされているとのことです。
聖天堂の前には「大聖歓喜天」の額が掲げられた鳥居が建てられています。
神仏習合の名残ということなのでしょうか?
そういえば、聖天信仰で有名な、生駒の聖天さん、宝山寺の入り口にも大きな鳥居がありました。



【堂々たるお姿、土俗的な妖しい凄みに魅せられた、十一面観音像】


ご住職に聖天堂・収蔵庫の扉をお開きいただき、早速、十一面観音像を拝しました。

愛染院・十一面観音立像

愛染院・十一面観音立像

愛染院・十一面観音立像
愛染院・十一面観音立像

お姿を拝して、ビックリしました。
立派な、一木彫像です。
そして、思いのほかの凄い迫力なのです。

「仏像巡りの旅」の本に、

「大地の香り、原始エネルギー、肝っ玉かあさん、素朴な力強さ」

といったキーワードが並べられていたのですが、「肝っ玉母さん、素朴」といった表現よりも、もっと迫力あるものを感じるように思えます。。

「堂々たる重厚感、野太い凄み、妖し気なパワー」

こんな表現が似つかわしいように感じます。

170㎝近い大きな像なのですが、頭部が随分大きくて首が短い、短躯、童形のような身体バランスに造られています。
ちょっと寸詰まりといってもよいかもしれません。
いわゆる檀像をお手本にして、等身像に引き伸ばすようにして、造形されたのに違いありまん。
足下をみると、蓮肉まで一木で彫られていて、今は切り詰められて新たな台座にはめ込まれていますが、大変古様な造形技法です。

愛染院・十一面観音像~蓮肉まで一木彫成
蓮肉まで一木彫成されている愛染院・十一面観音像

肉身のボリューム感もたっぷりして、堂々たる重厚感を発散しています。
檀像風であっても、檀像特有の技巧的な彫技や、繊細感は全く感じません。
むしろ、ドーンとした野太い感じ、ずんぐりどっしりといった感覚の方が勝っているようにも思えます。
お手本は小檀像でも、空気感には、土臭さや野性味の匂いがちょっとします。

そして、なんといっても「凄み」のようなものを、強く感じるのが、そのお顔です。

「土俗的な、妖しさ」さえ感じる顔貌

「土俗的な、妖しさ」さえ感じる顔貌
土俗的凄み、妖しささえ感じる顔貌

大きなお顔に大きな目鼻立ち、そして分厚くめくれ返ったような唇が、極めて印象的です。
「土俗的な、妖しさ」
といったものを感じないわけではありません。
微笑んでいるようで厳しさがあり、ちょっと不気味な妖気を漂わせているという風情でしょうか?
魅力たっぷり、惹き込まれてしまいます。

衣文の彫口や像の表面などを観ると、それほどに、鋭い彫り口や鎬立ったようなところはありません。
むしろ、彫りが浅めで凹凸が少ないようにみえます。

愛染院・十一面観音像~摩耗したような衣文の彫口
摩耗したような浅めの衣文の彫口の愛染院・観音像

しかし、しっかりよく見ると、衣文の彫りや表面の造形は、材が摩耗、損耗して、そのようになってしまったようにも見受けられます。
全体にすり減って、衣文線の彫りの鋭さなどが鈍くなってしまった、浅くなってしまったのではないかという風にも思えるのです。
現在、全体が薄く灰色に塗られているように思えますが、これも昔に損耗していたのを、全体的に擦るように仕上げなおして、コーティングのように塗り上げたのではないでしょうか。
ひょっとしたら、当初は、もっと鋭い彫り口で、鎬立った彫技の造形だったのかもしれません。

いずれにせよ、このような都風とは言えない「土俗的な、妖しい凄み」の観音像が、京の市中の、ど真ん中に遺され伝えられてきたというのは、ちょっと驚きです。

はじめてこの観音像を拝したときから、想定外の惹き付けられる魅力を強く感じて、心に残る仏像になりました。
そして、3回も、観音像を拝しに訪れてしまったのでした。



【数少ない、愛染院・十一面観音像の解説〈9~10世紀の制作〉】


この観音像について、採り上げた本や、解説などはあるのでしょうか?
ちょっと探してみましたが、あまり見当たりませんでした。

古い本では、「京都美術大観~彫刻・上」(1933年東方書院刊)と「別尊京都仏像図説」(1943年一條書房刊)に、米山徳馬氏が、同文の解説を掲載しています。

「瓔珞・環釧等凡て一木から彫り出されてゐる。
旧台座も本体と同木で刻まれてゐたらしい。
矮躯肥大で重厚な時代精神をよく表はしてゐる。
腰衣の処理に一脈の清新味をたゞよはせてゐる。
脛部の衣紋の線に明かな翻波線の手法が看取出来る。」

米山氏は、このように述べて、弘仁時代末期の制作としています。
9世紀末頃の制作とみたということでしょうか。

愛染院・十一面観音像「京都美術大観」掲載写真愛染院・十一面観音像「京都美術大観」掲載写真
愛染院・十一面観音像~「京都美術大観」掲載写真

近年の本では、「仏像集成~京都」(1986年・学生社刊)には、このように解説されています。

「桧材で頭体部から台座の蓮肉までを含め一木造りの古式の作である。
但し背面は、肩下から内刳りを施し、背板を当てている外、両手首先などは後補である。
笑みを含んだ顔、寸詰まりの体勢など檀像を意識したものであろう。
9世紀を降らない作と思われる。」(田中善隆氏解説)

また、「仏像を旅する~京都」(1991年・至文堂刊)では、次のとおりです。

「一木造りの堂々たる像で、両脚を覆う裳には大小の波を繰り返す翻波式衣文が刻まれている。
製作年代は、平安時代も10世紀の頃のものであろうか。」(根立研介氏解説)

いずれにせよ、あまり突っ込んだ詳しい解説というわけではありません。
9世紀、10世紀、両方の見方があるようですが、9世紀の終わりから10世紀の早めの頃という見方なのだと思います。

実は、この仏像は、昭和49年(1974年)に、美術院の手で修理が行われました。
その際に、背面の内刳りの中から、後世に納入された、多数の納入品が発見されました。
納入されていたのは、銅製の小さな聖天像288個、丁子袋1袋、削り香1包みでした。
修理完成時に、塗りの箱を新調し、その中に納めて、再度像内に納入されたということです。
愛染院の十一面観音像が、聖天の変り身のようにして、聖天堂と名付けられたお堂に祀られているのも、このような由縁なのからなのでしょう。



【元々六角堂の塔頭だった愛染院~平成9年に、窮屈なビルの谷間から当地へ移転】


愛染院が岩倉の地に移転したことについて、ご住職にお話を伺いました。

愛染院は、華道・池坊、発祥の地として知られる六角堂のすぐそばにありました。
六角堂頂法寺は、西国三十三所十八番札所として、今も大変賑わっています。

六角堂頂法寺
六角堂頂法寺

愛染院は、六角堂頂法寺の塔頭として、天台宗に属していましたが、明治維新の際に分離し、真言宗智山派の寺院となりました。
そして平成9年(1997)に、「中京区六角通東洞院」から、現在の「左京区岩倉幡枝町」へ移転し、寺観、諸堂も一新されたということです。

六角堂のそばにあった時の有様は、「仏像巡りの旅~京都洛中・東山編」に、このように語られています。

「六角堂の東隣、ビルとビルの間に唐破風の屋根をもつ門がある。
門の正面奥にも高いビル。
ビルに吸い込まれるように延びる参道の奥に、三方を壁面に囲まれ、埋もれたようにお堂が二つ。(本堂と聖天堂)」

本当に狭苦しく、窮屈なところに、お堂があったようです。
NET上で、当時の愛染院の光景写真を見つけましたので、ご覧ください。

六角堂傍にあった時の愛染院

六角堂傍にあった時の愛染院
六角堂傍にあった当時の愛染院

私も、以前に、六角堂は何度か訪ねたことがあったのですが、そばにあった愛染院の存在に気が付くことはありませんでした。

当地に移転し、ビルの谷間の窮屈な世界から解放され、広々とゆったりした寺観に落ち着くことが出来たということです。

きっと、十一面観音像も、広い聖天堂収蔵庫に移されて祀られるようになり、その堂々とした見事な立ち姿を、じっくり拝することが出来るようになったのではないでしょうか?



愛染院の十一面観音立像。

愛染院・十一面観音像
愛染院・十一面観音像

京都にある平安前期の見事な仏像なのに、訪ねる人も少なく、あまり知られていないのではないかと思います。
京都の仏像を紹介する一般書にも、採り上げられることは、まず無いのではないでしょうか。
一度、眼のあたりに拝すると、その

「重厚感ある堂々たる姿、迫力、ちょっと土俗的な、妖しい凄み」

に、惹きつけられ、きっと心に残る仏像となることと思います。

いずれの日にか、また観音様を拝しに、伺ってみたいものです。


古仏探訪~「北区大森東町・安楽寺の薬師如来像ほか諸像」京のかくれ仏探訪④  【2016.7.16】


京北の地、北山杉の山里に在る、安楽寺に遺された古仏を、ご紹介したいと思います。

とにかく、安楽寺の古仏の写真をご覧になってください。
薬師如来坐像、如来立像、僧形像、天部像の4躯の古仏が遺されています。

安楽寺に祀られる諸像
安楽寺に祀られる諸像

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像

安楽寺・如来立像
安楽寺・如来立像

安楽寺・僧形像
安楽寺・僧形坐像

安楽寺・天部形像
安楽寺・天部形立像



【出来の良し悪しを超越した、不可思議な存在感と迫力】


何と表現したらよいのでしょうか?
お世辞にも、「出来の良い仏像」「美しい仏像」という言葉とは、縁遠い存在です。

「田舎の、不出来な仏像」
「造形が、アンバランス」
「アクが強すぎる、どぎつい表現」

こんな類のフレーズが、機関銃のように飛び出してきそうな、特異、異貌の古仏です。
そういってしまうと、「わざわざ取り立てて云々するほどの仏像ではない」、というように聞こえます。

かといって、皆さん、この仏像を観て
「単に、出来の良くない地方作、田舎の仏像の一作例」
こんな通り一遍の感想だけで済ませて、そっけなく通り過ぎてしまうのでしょうか?

どのような修飾語が、あたっているのかよく判りません。
しかし、尋常ではないのです。

「なんだか凄い」
「ドーンと腹に応える」
「得も言われぬパワーを発散している」
「出来が悪いのに、不可思議な迫力がある」

こんな“感覚”が頭の中をよぎりました。

出来の良し悪しを超越した、不可思議な「存在感」「迫力」「凄み」のようなものを、強く感じてしまうのです。

この安楽寺を初めて訪れたのは、2007年の5月、今から9年前のことでした。

上手く表現できないのですが、一発、ガツンとやられたような衝撃を感じたのです。
以来、私の頭の中の印画紙に、しっかりと焼き付いたまま、忘れられない仏像となってしまいました。

いつの日か再訪したいものと、思っていました。
昨年(2015年)8月、その思いがやっと叶い、同好の方と、再び安楽寺を訪ねることとなりました。



【北山杉の山里、惟高親王ゆかりと伝える安楽寺】


安楽寺は、北区大森東町という処にあります。
神護寺で知られる高雄から、周山街道を北へ15キロ、30分ほど車で走り、街道を東へ入ってしばらく行った京北の山里の地です。
車を走らせると、左右には、北山杉の美しい森が続きます。

美しい北山杉の並木
美しい北山杉の森

枝が払われた北山杉の木立が、天に向かって真っ直ぐに伸びた有様は、美しき日本を象徴するような風景です。
川端康成の名作「古都」に登場する双子の主人公、苗子の住んだ北山杉の村も、このあたりだったのだろうかと思いを巡らせながら、山里の路を走らせているうちに、大森東町に到着しました。

安楽寺から眺めた北山杉の山並み
安楽寺から眺めた北山杉の山並み

道路から5~60m入った広場のようなところに、ポツリと建てられたお堂があります。
そこが、安楽寺です。

安楽寺のお堂
安楽寺のお堂

お堂の前には、「文徳天皇第一皇子 惟高親王遺跡」と刻された石碑が立っています。

安楽寺堂前に立てられた、惟喬親王ゆかりの石碑
安楽寺のお堂

この碑の隣には、
「忘れては 夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて 君をみむとは」
の、歌碑もありました。

この歌は、「伊勢物語八十二段・小野の雪」に、馬の頭が、雪積る小野の地に隠棲した惟高親王を訪ねて、詠んだとして出てくる歌です。
古今集には、在原業平の詠んだ歌として収められています。

「京のかくれ仏①」でご紹介した浄楽寺のある大原上野町も、惟高親王ゆかりの地でした。
そして、この安楽寺のある大森東町もまた、惟高親王ゆかりの地なのでした。

惟喬親王(844~897年)は、文徳天皇の第一皇子でありながら、生母が紀氏であることや、藤原氏の娘である皇后・明子に惟仁親王(清和天皇)が生まれたことから、出家を余儀なくされ、小野郷の地に隠棲し没した、悲運の皇子として知られています

京北には、惟喬親王ゆかりの地とか、隠棲した小野郷の地と伝えられる地が、いくつかあるのですが、この大森の地も、小野郷の名で呼ばれています。
在地の研究家・沢田臼太郎氏は、著作の中で、親王は次のような足跡を辿ったと述べています。

惟喬親王は、貞観元年(859)に江州小椋村へ移り、貞観4年に大原へ、その後、雲ケ畑を経て、当地大森に移り、元慶3年(879)、この大森の地で没した。

その惟喬親王が、当地に建てたのが安楽寺であるというのです。
安楽寺のお堂は、大森東町北東の山中にあったのが、暦応年中(1338~41)、今の地に移されたものと伝えられています。

安楽寺の堂内には、「惟喬の社・御霊神社」と称する、惟喬親王を祭神とする神祠が据えられています。

安楽寺堂内の惟喬親王を祭神とする神祠
安楽寺のお堂

この大森の地では、惟喬親王への尊崇の念が、長らく受け継がれてきているのです。

惟喬親王の話はこれぐらいにして、堂内の仏像を拝した話に移りたいと思います。



【安楽寺に祀られる、不思議な4躯の古仏】


安楽寺は、無住のお堂です。
地域で管理されており、この日も、地区の方がわざわざお見えいただき、お堂を開いていただきました。

安楽寺諸像が祀られる厨子
安楽寺諸像が祀られる厨子

堂内の厨子には、4躯の古仏が祀られています。
薬師如来坐像、如来立像、僧形像、天部像の4躯です。

厨子内に祀られる諸像の姿
厨子内に祀られる諸像

先に、像高、品質構造などをご紹介すると、次のとおりです。

薬師如来坐像
像高:114.7㎝、ヒノキ材、膝前まで一木、背面・浅い内刳り、前面・頭頂から腹部別一材を矧付け
如来形立像
像高:161.2㎝、ヒノキ材一木彫、背面・頭頂から蓮肉までの背面材を矧付け
僧形坐像
像高:59.3㎝、ヒノキ材一木彫、膝前別材
天部形立像
像高:102.2㎝、ヒノキ材一木彫

4躯共に、昭和59年(1984)に、京都市指定文化財に指定されており、制作年代は平安前期とされています。


厨子の真ん中に薬師如来坐像が祀られ、その脇に他の3躯と破損仏の断片などが、ちょっとゴチャゴチャと置かれているような感じです。
如来立像と天部立像は、足下が破損して自立することが出来ず、立てかけられています。



【たじろぐような凄みが、腹にこたえる薬師坐像】


まずは、薬師如来坐像です。

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像

拝したとたん、ギョロリと巨大な眼、大きな鼻のインパクトに度肝を抜かれます。
明らかにアンバランスです。

安楽寺・薬師如来坐像~顔部
安楽寺・薬師如来坐像~顔部
ギョロリとした眼、大きな鼻に度肝を抜かれる安楽寺・薬師坐像

次に、ズングリというのか、ゴッツイというのか、肉身の異様なボリューム感に驚かされます。

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像~腹・脚部
木塊のようなボリューム感の安楽寺・薬師坐像

所謂、「出来の良さ」とは、縁遠いのですが、全体から、「得も言われぬパワー」を発しているのです。

「凄みのある、量感あふれる『木の塊』が、こちらに向かって迫って来る」

そんな表現が相応しいような、強烈な存在感を、ビンビンと感じるのです。
「思わず、たじろぐような凄み」
と云ってもよいのかもしれません。

この迫力は、「霊威感とか、森厳な精神性」などと表現される世界とは、またちょっと違った感覚です。
「土の匂いのするような、ドーンと腹に応えるような、凄み」
とでも表現するのでしょうか?


NET上の京都市指定文化財解説(京都市情報館HP)をみると、

「大森東町の安楽寺の本尊である本像は,坐像としては珍しく,ほぼ全体をヒノキの巨材一材から彫り出す。
肉身部は漆箔,衣は彩色,眼は彫眼で仕上げられている。
全体に寸のつまった塊量性の豊かな造形で,粗々しく豪快な作風から平安時代前期の制作と考えられる。」

このように記されています。

そのとおりだとは思うのですが、こうした解説文では決して表現しきれない「何ものか」を持っている像なのです。
皆さんも、実際にこの薬師像を眼のあたりに拝すると、「得も言われぬ凄みのパワー」を発散しているのを、実感するに違いありません。
私同様、忘れられない仏像になることと思います。

この安楽寺・薬師像について言及した、井上正氏は、このように述べています。

「この像を拝していると、凄いという言葉が思わず洩れてしまう。
この実体感、このアンバランス、そしてこの粗さ、都のどこにこのような像が求められるであろうか。
ここにしか有り得ないだろうという、根が生えたような存在感が相乗して、言葉に表わし得ない異常な追力となって私を打つ。
通常の解説のなかではこの第一印象にあった凄味が多くの場合流れて消えてしまう。
量感、アンバランス、地方作といった評語の組み合わせだけが空しく残り、尋常でない精神性が消えて低いところに価値づけられてしまうのだ。」
(「古佛~彫像のイコノロジー」井上正著・1986年法蔵館刊)

仏教美術史研究者としては、かなり情緒的な表現なのですが、この薬師像から受ける率直な実感をよく言い表した文章だと思います。

もう一つ、構造面で、この像のめずらしいは、頭体部、膝前まで一木の巨材で木取りしながら、頭頂から腹部に至る前面部分を、別材で矧ぎ付けていることです。
また、背面からは、しっかり内刳りを施しています。
材の中心に木心を込めた心持ち材から彫り出したため、そのようにしたのではないかと思われますが、前面部から別材をあてがうというのは、面白いやり方です。

安楽寺・薬師如来坐像~背面・内刳り安楽寺・薬師如来坐像~側面
安楽寺・薬師坐像の背面・内刳りと側面


【しつこく繰り返される旋転文に、霊威発散を感じる如来立像】


次は、如来立像です。

安楽寺・如来立像安楽寺・如来立像
安楽寺・如来立像

この像は、朽損していますが、なかなかの迫力を発散している古像です。
所謂、平安初期彫刻がお好きな方々は、薬師如来坐像よりも、この如来立像の方を注目されるのかもしれません。
足下が痛んで、自立することが出来ず、壁によりかかった痛ましい姿なのですが、平安前期の匂いがプンプンとする一木彫像です。
出来の方は、必ずしも良くなく地方作的な雰囲気なのですが、大変古様であることも間違いありません。
奈良様にみられる、頭の小さい造形表現も特徴です。

平安前期特有のボリューム感、塊量感はそれほどでもなく、躍動感もあまり感じません。
硬直して、ズドンと直立しているといったような造形です。
蓮肉まで一木という古様な造形なのですが、奥行きが足りなかったためか、後頭部と背面に、それぞれ一材が矧ぎ付けられています。
その背面材が、蓮肉後方まで一体となっています。

安楽寺・如来立像~正面.安楽寺・如来立像~側面.安楽寺・如来立像~背面
安楽寺・如来立像

そんなところを見ると、時代が下がる模古的な作かなという気もするのですが、結構な「オーラ」を感じるのです。
惹き付けられるものがあります。

こちらの如来立像の発するオーラは、「霊威表現とか、気の表現」という方があたっているのではないかと思います。
薬師坐像の迫力が、
「土の匂いがする木塊的凄み」
というならば、
如来立像の方は
「強い精神性の霊威表現」
の迫力という風な気がします。

この霊威発散の一番の源となっているのは、異常なほどに繰り返されている「旋転文・渦文」ではないでしょうか?

安楽寺・如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」
安楽寺・如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」
安楽寺・如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」

これでもかというほどに、衣文に17個の旋転文が配されています。
向かって、左側に二列10個、右側に5個、両側面下方に2個です。
いかにも、この像の持つ強い精神性、霊威性を、くどいほどの旋転文の繰り返しに、込めているような気がします。



〈思い浮かぶのは、上賀茂・神光院の薬師如来立像〉


こんな旋転文の繰り返し表現は、他にあったでしょうか。
すぐに思い浮かんだのは、近年紹介された、京都市北区上賀茂にある神光院の薬師如来立像です。

神光院・薬師如来立像神光院・薬師如来立像
神光院・薬師如来立像

この像は、上賀茂神社における神仏習合思想を背景に制作された、9世紀前半制作の古像とみられています。
この神光院・薬師像の衣文にも、くどいほどの旋転文の繰り返しがみられるのです。
神光院像を、世に紹介した皿井舞氏は、安楽寺・如来立像との共通点に着目し、このように述べています。

神光院・薬師如来立像の、繰り返される「旋転文・渦文」
神光院・薬師如来立像の、
繰り返される「旋転文・渦文」
「本像と似た旋転文のかたちと配置とをもつ像に、京都北区大森町の安楽寺如来形立像がある。
・・・・・・
このような構造(後頭部・背面に別材を矧ぎ付ける構造)からみれば、安楽寺像は神光院像より制作年代が下ると考えられるものである。

ただし、胸を大きくあけ、なだらかな円弧を二つ連ねた胸部の線と曲率の大きい腹部の線をあらわす点、覆肩衣を大衣にたくしこまず右肘内側の腹部上に舌状のたるみをあらわす点、左右の肘より下の袖口と大衣正面の左端に旋転文を連ねる点などは互いに非常によく似ており、何か共通する手本があったのではないかと想像される。」
(京都神光院蔵・木造薬師如来立像・皿井舞・美術研究404号~2011.8)

たしかに両像は、旋転文の繰り返しだけでなく、全体の空気感にも似ているものがあります。
皿井氏は、神光院像について、

「『仏力をもって神威を増す』という、神仏習合思想を背景に造立された、霊威表現の像」

とみられていますが、安楽寺の如来立像が発散するオーラ感も、そうしたものに関連するものなのでしょうか?

神光院・薬師如来像については、観仏日々帖「古仏探訪~京都・神光院  薬師如来立像」で、ご紹介していますので、ご覧ください。



【極めつけの異形、奇相の僧形・天部形像】


最後に、僧形像と天部像なのですが、これ以上くどくどと、両像の印象、感想を綴っていると、話が長くなりすぎるので、やめておきます。

一言でいうと、両像こそ、極めつけの異形、奇相の古像です。
あまりの大胆、奇抜な形相は、私の理解を超えてしまっているようにも感じます。

安楽寺・僧形坐像安楽寺・僧形坐像
安楽寺・僧形坐像

安楽寺・天部形立像安楽寺・天部形立像
安楽寺・天部形立像

もし、この2躯だけを拝したとしたら、平安前期に遡る可能性のある古像だと思うでしょうか?
私には、ちょっと自信がありません。
もっと時代がぐっと下る、地方作の奇相像と感じるような気がします。



【何故だか採り上げられることのない、安楽寺の諸像】


これだけの奇抜、異形とも云える安楽寺の4躯の古像ですが、これまで専門家の間で、採り上げられたり、議論されたことがあるのでしょうか?

この像について、まともに採り上げ論じたのは、井上正氏を除いてないように思います。
京都の仏像の解説書などにも、全く登場しません。

私の知る限りでは、以下の3冊の本に、採り上げられているだけです。

「古佛~彫像のイコノロジー」  井上正著・1986年 法蔵館刊
「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」  京都市文化財ブックス第3集
「京都市の文化財~京都市指定・登録文化財集(美術工芸品)」  1992年刊

この3冊は皆、井上正氏の著作と、井上氏がその編集等にかかわっている本ですの。
大胆に云うと、これまで研究者の中で、
「安楽寺諸像に注目、採り上げたのは井上正氏だけ」
と云えるのかもしれません。

それでは、この安楽寺諸像、近年まで知られていなかった、新発見の仏像なのかというと、そういうわけではないようです。
大正4年(1915)に発刊された、「京都府史蹟調査会報告・第一冊」で紹介されているのです。

「京都府史蹟調査会報告・第一冊」

安楽寺の項の中には、

「堂内正面ニ安置スルモノハ薬師佛座像木彫高三尺八寸ナリ。
傅フル所慈覚寛大師ノ作ナリト云フ。
猶側ニ佛像数體ヲ置ケリ。
ソノ内薬師立像ハ木彫高六尺三寸アリ、両手等破損セル個所アリト雖モ弘仁期ノ彫刻ト認ムべキモノ、毘沙門像ハ四肢ノ破損甚ダシケレドモ同ジク弘仁期ノ作ナルベシ。」

と、記されているのです。

薬師如来坐像の制作年代には言及されていませんが、如来立像と天部立像は、弘仁期(平安前期)の制作とされているのです。

「京都府史蹟調査会報告・第一冊」掲載の安楽寺諸像写真
「京都府史蹟調査会報告・第一冊」掲載の安楽寺諸像写真

平安前期の制作かと思われる古仏像の存在が、大正年間から知られていたにもかかわらず、採り上げられたり、論じられたりしてこなかったのは、これら安楽寺の諸像が、
「採り上げるに足らぬ地方作の不出来な像」
「あまりの違和感に、扱いにくい像」
とみられてきたということなのでしょうか?



【安楽寺諸像に注目、惹きつけられた「井上正氏の眼」】


この不出来な地方作のようにみられた安楽寺諸像ですが、
「内なるところから発散する強烈なパワー、オーラのようなもの」
が、井上正氏のハートを大きくとらえたようなのです。

井上氏は、自著「古仏」で、安楽寺の諸像に大きなスペースを割き、3回・15ページにもわたって論じているのです。
古密教彫像について論じる井上氏にとって、安楽寺の諸像は、それほどにも強烈なインパクトのある仏像であったのではないかと思います。

安楽寺・薬師如来坐像
安楽寺・薬師如来坐像
井上氏は、自著「古佛~彫像のイコノロジー」(1986年 法蔵館刊)の中で、このように語っています。

「この像(薬師如来坐像)の作風は、“都ぶり”“洗練”といったものとは程遠く、どこを探しても整美な様相は求められない。
量感のある点だけがとりえで、すべては『地方作』という言葉のなかに取り込まれてしまう。
しかしこのような平板な見方では、この像の真の価値は浮かびあがってこない・・・少なくとも私にはそう思えるのである。」

そして、これら諸像(薬師如来坐像、如来立像、僧形像、天部像の4躯)の制作年代については、霊威表現と塑像写しの特色を備えた古密教像とみて、奈良時代の制作に遡る可能性という見方を示しています。

「全体に共通していえることは、まず霊威表現という言葉がぴったりあてはまるような精神内容をそなえていること、第二には塑造写しの木彫の特色を示していること、の二つである。

安楽寺・僧形坐像
安楽寺・薬師如来坐像

すでに何度か述べたように、霊威性の表現は、古密教尊像の基本的な性格であるとはいえ、凄味のある迫力を帯びるようになったのは8世紀以後のことと察せられる。
そして、古式な一木彫成像のなかで、塑像的な感触をもち、明らかに塑造表現を、そのまま木彫に写したとみられるものは、塑造全盛時代またはそれに続くころの作例と考えた方がよい。

こうした考え方に立っと、安楽寺に伝わる四躯の像は、奈良時代に、この山中の集落に根づいた古密教のありようを示す遺品であり、・・・・・・・・」


本のエッセンスだけのつまみ食いの紹介ですので、ご関心のある方は、是非「古佛~彫像のイコノロジー」の本をお読みになっていただきたいと思います。
大変面白く、興味深い文章です。



【発散する「凄み」に、あてられてしまった、安楽寺諸像】


この像の制作年代、皆さんはどのように感じられるでしょうか?

奈良時代の古密教彫像?
平安前期の一木彫像?
時代の下った地方作像、形式古様の像?

私にとっては、安楽寺の仏像に限って云えば、
「制作年代などは、どうでもいい。
いずれの年代であろうと、それは主たる関心事ではない!」
眼のあたりに拝して、そんな気持ちを強く感じました。

これらの諸像が、
「内なるところから発散する、強烈なオーラというか、凄みにあてられてしまった!!」
というのが、素直な実感です。

実の処、年代は少し下がるのかもしれません。
ただ、制作年代がいずれであろうとも、「発する気の、凄さ」は、変わるものはありません。


国宝級の第一級の見事な仏像を観て、心から感動するというのは勿論のことなのですが、
この一見、不出来で粗野で田舎臭い仏像に、思いのほかに、これほどの衝撃や感動を覚えることがあるのかというのが、正直なところです。

安楽寺の諸像は、日本彫刻史・美術史的には位置づけにくい像でしょう。
率直に言って、人それぞれによって「好き嫌い」が激しい仏像なのではないかと思います。
「こんな仏像、わざわざ観にいく気など、全く起こらない」
そのように感じられる方も、結構いらっしゃるのではないかと思います。

私にとっては、再訪してみて、その不可思議な得も言われぬ凄みに、ますます惹き付けられ、心に刻みつけられた、安楽寺の仏像となりました。


きっと、何年かたったら、また出かけてしまうのではないかと思います。



4回連続して、図録冊子「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に収録されている仏像のなかから、私が、「とっておきの京のかくれ仏」と感じた古仏を、ご紹介してきました。

次回からは、新たな「京のかくれ仏」を、いくつかご紹介していきたいと思います。



古仏探訪~「右京区梅ケ畑檜社町・慰称寺の地蔵菩薩像」京のかくれ仏探訪③  【2016.7.2】


「京のかくれ仏探訪」、今回は高尾・神護寺に程近い、慰称寺の地蔵菩薩像をご紹介します。

慰称寺・地蔵菩薩立像
慰称寺・地蔵菩薩立像

写真をご覧になって、如何でしょう。
素晴らしく出来の良い地蔵像ではないでしょうか?



【聞いたこともなかった、仏像~慰称寺・地蔵菩薩像】


この、慰称寺・地蔵菩薩像を訪ねたのは、昨年(2015年)の夏のことでした。

関西の同好の方から、
「地蔵盆の日に、高雄の慰称寺という処の、地蔵菩薩が開帳されるので、行ってみませんか?
平安前期の仏像らしいですよ。」
と、お誘いを受けました。

「慰称寺?? 地蔵菩薩像?? そんな仏像、聞いたことありませんねえ!」

私の第一声は、こんなふうでした。

とはいっても、私の大好きな平安前期の仏像らしいと云われると、捨て置くわけにはいきません。
折角の機会と、出かけることにしたのでした。



【ビックリ!実は重要文化財指定の仏像~制作年代は平安前期か?鎌倉か?】


「慰称寺・地蔵菩薩像」

これまで聞いたこともない、全く知らない仏像です。
「多分、無指定か市指定ぐらいの仏像なんだろう。」
そう思いました。

どんな仏像なんだろうと、資料を探してみました。
ところが、なんとビックリ!!
「重要文化財」に指定されている仏像でした。

毎日新聞社刊「重要文化財 彫刻Ⅲ」(1973年刊)に、このように記されています。

地蔵菩薩像 1躯 京都 慰称寺
木造 彩色 切金文様 像高 91.3㎝ 平安時代

毎日新聞社「重要文化財」掲載の慰称寺・地蔵像の解説・写真
毎日新聞社刊「重要文化財」掲載の慰称寺・地蔵像の解説・写真

「本当に、平安前期の仏像なのだろうか?解説が書かれたものはないのだろうか?」

と、手元の資料をあたってみましたが、なかなか見つかりません。

1冊、「もっと知りたい京都の仏像」村田靖子著 2007年里文出版刊に、慰称寺・地蔵像について、ふれてありましたが、

「ここには平安時代の木造・彩色・切金文様による逞しい地蔵菩薩立像(91.3㎝・重文)がある。」

と、一言、記されているだけでした。


そして、もう1冊、見つけたのが、前回にもご紹介した図録冊子「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」です。
ところがです。
そこには、「鎌倉時代の模刻像」と書かれているではありませんか。

「広隆寺埋木地蔵の霊験譚が広まった鎌倉時代以降に、同像を忠実に模刻したものと考えられる。
像身と共木彫出の蓮肉底面にみえる「正元二年(1260)正月」の年紀は、その模刻の時期をあらわしているのかもしれない。」

と、書かれています。

広隆寺・地蔵菩薩立像~埋木地蔵
広隆寺・地蔵菩薩立像~埋木地蔵


「平安時代? 鎌倉時代?」

どちらが正解なのでしょうか?

「重要文化財には、平安時代として指定されているのだから、平安で間違いないのでは・・・・・」

と思いつつ、

「写真を見ると、平安前期風だけれども、云われると鎌倉の匂いがしないわけではないけれど、・・・・・・・
実物を見てみないと」

「それにしても、広隆寺の平安前期(9C)作の地蔵立像、通称『埋木地蔵』(うもれきじぞう)に、そっくり瓜二つだ!
制作年代は別にしても、『埋木地蔵』どおりの像として造られているのは、きっと間違いない。」

と、唸ってしまいました。



【地蔵盆の和やかな寄合風景に、気持ちもホッコリ】


聞いたこともなかった慰称寺・地蔵菩薩像でしたが、俄然、興味津々となり、なんとしても拝せねばと、意欲満々で京都に出かけたのでした。

8月23日、残暑の厳しい陽射しがまぶしいなか、高雄を目指しました。

慰称寺は、右京区梅ケ畑桧社町という処にあります。
高雄神護寺に往く周山街道沿いにあり、「高雄」バス停の一つ手前、「御所ノ口」停留所西側の小道を、ちょっと上がっていった処です。

慰称寺のある梅ケ畑桧社町付近
慰称寺のある梅ケ畑桧社町付近

「国寳 子安延命地蔵尊」と刻された石標を見ながら坂を上ると、「光堂」の扁額上がった小堂がありました。

「国寳 子安延命地蔵尊」と刻された石標
「国寳 子安延命地蔵尊」と刻された石標

地蔵盆で地元の人が寄り合う慰称寺・光堂
地蔵盆で地元の人が寄り合う慰称寺・光堂

この慰称寺・光堂は無住で、地蔵様は、地元の人々の手で大切に守られています。
地蔵盆の日ということで、地元の方々が数多く寄り合って、賑やかに歓談されています。
古い昭和の昔の、地域の寄合の光景にタイムスリップしたような、懐かしくほっと気が休まる風景です。

お目当ての地蔵菩薩像は、光堂の後ろの収蔵庫兼お堂に、祀られています。

地蔵菩薩像が祀られる収蔵庫

収蔵庫内~地蔵菩薩像安置の様子
地蔵菩薩像が祀られる収蔵庫と、安置の様子

地蔵盆の8月23日、年に一度だけのご開帳です。
地元の方以外に拝観の人はほとんどなく、ゆっくりじっくりと眼近で拝することが出来ました。



【見惚れてしまう見事な彫技~秀作の地蔵像】


素晴らしく、出来の良い像です。
見事な彫技といって、過言ではありません。
「知られざるかくれ仏」といってもよい地蔵像ですが、きわめてハイレベルな技の造形に、本当にびっくり、息をのんでしまいました。

1メートル弱の像ですが、造形バランス良さといい、肉付けの巧みさといい、彫技の冴えといい、どれをとっても一流です.

慰称寺・地蔵菩薩像

慰称寺・地蔵菩薩立像

慰称寺・地蔵菩薩像

慰称寺・地蔵菩薩立像
慰称寺・地蔵菩薩立像

衣文の彫り口、むっちりとした肉付け、仕上げの丁寧さ、いずれをとっても見惚れてしまいます。
これだけの秀作を造れる腕のある仏師は、並みの仏師ではないだろうと思わせます。

私のお気に入り仏像ランキング、一気に上位に入ってきました。
これほどの京の仏が、重文なのに、どうして知られていないのか、不可思議です。

蓮肉まで共木の檀像風の一木彫で、平安前期特有の技法で造られています。
漆下地の痕跡はないようで、素木に上に黒灰色に塗りあげられているように見受けられます。

慰称寺・地蔵菩薩像蓮肉まで一木で彫られた慰称寺・地蔵菩薩立像
慰称寺・地蔵菩薩像側面と、蓮肉まで一木で彫られた足部

毎日新聞社「重要文化財」には、「彩色 切金文様」とありましたが、現在みる限りでは、切金文様があったような痕跡は、全く見当たりませんでした。



【平安前期か?鎌倉か?~やはり鎌倉の模刻像だろうと納得】


さて、興味津々の、制作年代です。
平安時代なのでしょうか? 鎌倉時代なのでしょうか?
パッと見ると、平安前期の造形表現のように感じますが、眼近にじっくり観ていくと、鎌倉時代の空気感が漂っています。

「これは、鎌倉時代でしょう!!」

私も、同好の方も、同じ意見となりました。

全体の造形、シルエットも、蓮肉までの共木という技法も、一見は「平安前期」そのものです。

しかし、その造形表現から発散する感覚は、平安前期のものではありません。
平安前期特有の、パワフルな重厚感、厳しく鋭い表現を感じないのです。
むしろ、きわめて腕の良い彫技で、端正できれいに整った造形表現で仕上げた像という風に見受けます。
やはり、平安前期の広隆寺・埋木地蔵像の、鎌倉時代の超精密模刻とみた方が、納得できると思いました。

慰称寺・地蔵菩薩像の衣文の造形慰称寺・地蔵菩薩像
慰称寺・地蔵菩薩像の衣文の造形

埋木地蔵像を忠実に模刻されていますが、衣文の彫り口、仕上げの表現は、整い過ぎのように思えます。
埋木地蔵にみられるような、衣文表現の彫り口の鋭さ、ダイナミックな力強さは影を潜めているようです。
顔貌の表現も、埋木地蔵像の、重々しく厳しい表情と較べると、目鼻の線が繊細でちょっと弱さを感じます。
端正でキリリとした表情に感じるのも、鎌倉彫刻の雰囲気といってもよさそうです。

慰称寺・地蔵菩薩像~顔部慰称寺・地蔵菩薩像~顔部
慰称寺・地蔵菩薩像~顔部

広隆寺・埋木地蔵像~顔部
広隆寺・埋木地蔵像~顔部

やっぱり、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に書かれていた、

「広隆寺埋木地蔵の霊験譚が広まった鎌倉時代以降に、同像を忠実に模刻したものと考えられる。」

というのが、正解みたいですねと、皆で納得しました。

一方で、鎌倉時代の一流仏師は、平安前期の仏像表現を、これだけ見事な技で写し採ることが出来る技量を備えていたのだということを、再認識させられました。
鎌倉時代の仏像と云われると、ちょっと興味関心が薄れてしまう私ですが、この慰称寺・地蔵菩薩像の見事な彫技に、感嘆の声をあげざるを得ませんでした。

思い出深い、慰称寺・地蔵菩薩像探訪となりました。



【興味津々の、広隆寺・埋木地蔵像と慰称寺・地蔵像との関係】


この探訪をきっかけに、広隆寺・埋木地蔵と慰称寺・地蔵菩薩像との関係や、模刻問題に大変興味がわいてきました。

いろいろ資料を確認してみて判った面白い話を、ご紹介したいと思います。



【広隆寺・埋木地蔵像の霊験譚と、その造形~9世紀の彫像】


まず、広隆寺・地蔵菩薩立像、通称「埋木地蔵」についてです。

この像は、現在、広隆寺の宝物館に安置されていますが、古来、霊験あらたかな「埋木地蔵」(うもれきじぞう)と呼ばれ、信仰されていました。

広隆寺・地蔵菩薩立像~埋木地蔵
広隆寺・地蔵菩薩立像~埋木地蔵
表面が、黒光りする色であることから、埋木(亜炭)で彫られたと伝えられていますが、この黒色は檀像風素木の木肌が、長年の問に薫染して黒光りの様相となったものとみられています。

この像の来歴などについては、寛喜2年(1230)撰述という「埋木地蔵菩薩記」というものがあり、それによると、

「大堰の樵夫が瑞相を現した菩提樹の中から伐り出し、広隆寺裏の十輪院に祀った処、久安6年(1150)の大火の時と、承久3年(1221)に二度の盗難にあったが、奇端を現して難を避け、無事であった云々」

と伝えられ、霊験殊勝の像として厚い崇敬をあつめてきました。

制作年代については、いかにも平安前期の檀像風一木彫像で、9世紀の制作と考えられています。

「菩薩の身体から蓮肉に至るまで一木をもって作り出されており、やゝ短躯で豊満な肉体を現わし、極めて量感に満ちた像である。
・・・・・・・・
体躯は上述のように短躯であり、太い首、広い肩巾、意外に太く豊かな両臂、きびきびと盛り上る胸部腹部の肉附き、両足もまた衣を通して豊満さを感じ、堂々と量感に横溢した作風を示している。
・・・・・・・・
この像の製作年代は平安時代の初葉であることは何人も否定するものはなく、当時の遺作中特筆すべき佳作の一つである。」
(望月信成編「広隆寺」1963年・山本湖舟写真工芸部刊)

という解説に、代表されるような見方がされています。

広隆寺・地蔵菩薩像~埋木地蔵
広隆寺・地蔵菩薩像~埋木地蔵



【やっとみつけた慰称寺像・模刻問題を論じた本】


広隆寺・埋木地蔵像についての記述した本は、このほかにも結構あるのですが、その模刻とみられる慰称寺・地蔵菩薩像について論じたものは、なかなか見当たりません。

なんとか知りたいものと、ちょっと頑張って資料を探してみました。
あたってみると有るもので、古い本に2冊、平成前後になってからの本に2冊、広隆寺・埋木地蔵像と慰称寺・地蔵像について論じられている本を、ようやく見つけました。

古い方の本から、ご紹介したいと思います。

「別尊 京都仏像図説」美術史学会著 1943年 一條書房刊 【390P】5.3円

「弥勒菩薩の指」田中重久著 1961年 山本湖舟写真工芸部刊 【172P】400円

「別尊 京都仏像図説」美術史学会著「弥勒菩薩の指」田中重久著 

いずれも、半世紀以上前に出版された古い本です。


「別尊 京都仏像図説」は、ちょっとレベルの高い京都の仏像彫刻解説書ですが、その中に、
「広隆寺の埋木地蔵菩薩像と中島の地蔵菩薩像」(米山徳馬氏執筆)
という一項があるのです。
「中島の地蔵菩薩像」とは、慰称寺・地蔵像のことです。

「弥勒菩薩の指」は、広隆寺の仏像や歴史についての研究成果やエピソードを、京都在住の仏教美術研究者・田中重久氏が著した本ですが、そこにも、
「埋木地蔵とその模造」
という項立てがありました。

いずれの本も、慰称寺像を模刻像とみており、

「広隆寺・埋木地蔵像は、平安前期の制作像であり、慰称寺の地蔵菩薩像は、この埋木地蔵像の模刻像で、鎌倉時代以降の制作像である。」

としています。

慰称寺の地蔵菩薩像が旧国宝に指定されたのは、昭和10年(1935)4月のことであったそうです。
「国宝略説・昭和9年度」文部省宗教局編刊
という出版物に、旧国宝指定時の本像解説が掲載されています。

このような解説文です。

「一木造、台座の蓮花も像と一木彫であって、平安朝初期の様式を表はす。
その右肌を脱いでいるのは、地蔵像には稀に見る形相である。
広隆寺に蔵する俗称理木地蔵像(国宝)と制作形態共に酷似し、両者の間に関係のあることを思はしめる。」

旧国宝指定時には、この瓜二つの両像ともに平安初期の制作像だと考えたようです。

広隆寺・埋木地蔵像..慰称寺・地蔵菩薩立像

広隆寺・埋木地蔵像慰称寺・地蔵菩薩立像
広隆寺・埋木地蔵像(左)、   慰称寺・地蔵菩薩立像(右)

慰称寺像が、「平安初期作」として旧国宝指定されてから8年後、昭和18年(1943)に、米山徳馬氏は「広隆寺の埋木地蔵菩薩像と中島の地蔵菩薩像」を執筆し、慰称寺像を「後の時代の模刻像」であると主張したというわけです。

米山氏は、模刻像と考えられる理由として、

・同時代に、無意識的にこれほどの類似像が造られるであろうか?
・広隆寺像の後補とみられる両手部分が、慰称寺像に於いて、殆ど同様の形式で刻まれている。(広隆寺像は、右腕と左手の手首から先、持物が後補)
・背部の彫線が力足らずで弱々しい。

という3点を論拠に挙げています。
そして、

「然らば、当像の造顕年代はいつごろか。
之には種々の説があり、藤原・鎌倉・室町等諸説が多い。
何れも主観を主とした決め方であるが、私はどちらかと云えば、鎌倉か室町初期位とみるべきではないかと思う。」

このように述べて、鎌倉~室町初期模刻説を主張しています。


その後しばらくは、慰称寺・模刻地蔵像について、仏像関係の本に採り上げられることは、殆どなかったようです。

平成前後になって、この2像について採り上げた、2冊の本を、ご紹介します。

ひとつは、
望月信成著 「地蔵菩薩~その源と信仰をさぐる」 1989年学生社刊
という本です

望月氏は、慰称寺像を広隆寺・埋木地蔵像と同一作者がつくったと思えるほどで、「平安時代初葉の作」とみて、次のように述べています。

「この寺(慰称寺)に埋木地蔵菩薩像とよく似た地蔵菩薩立像がある。
両者は文字どおり瓜二つといってもよいほど似ている。
おそらく同一作者が、二体ともつくったのではないかと思えるほど同形である。
・・・・・・・・・・・
昭和六、七年ごろに私は高雄地方の有志者から、この地の古文化財の調査を依頼されたその時に、はじめてこの像を拝んで驚いた。
山の中腹の荒れて崩れかけた小さな堂のなかで、お守りする僧も平素はおらず、埃にまみれながら長年の問、よくもこれだけの立派な像が保存されてきたものだと驚き、その発見を心から悦んだのである。
かれこれ一千年余の問、世間からまったく見出されることなく、無事に今日まで残ったものだと思い、その奇蹟を心から『ほとけ』に感謝した。
・・・・・・・・・・・
この像は一木彫成像で、現在表面は真黒となっているが、元来は素木造のいわゆる檀造像であったのであろうと思う。
しかもきびきびした彫法は、平安時代初葉の特徴を十分にそなえている。」

これを読むと、昭和6~7年頃、慰称寺・地蔵像を発見したのは、望月信成氏であったようです。
昭和10年(1935)に、平安初期像として旧国宝指定されたことにも、関わられていたのかもしれません。

本書は平成元年(1989)の発刊ですが、望月氏90歳前後の著作で、あとがきに「思い出すままに説いた」と書かれていますので、慰称寺像についても、直近の考証と云うよりも、発見当時の思い出話を中心に、綴られたものなのかもしれません。


もう1冊は、
松島健著「地蔵菩薩像・日本の美術239号」 1986年至文堂刊
という本です。

松島氏は、広隆寺・慰称寺の地蔵像を、「右肩を露わした珍しい形制の地蔵像」として紹介解説しています。
この形制の立像は、他に類例がないそうです。(坐像にあと1例だけあり)
慰称寺像については、埋木地蔵像の鎌倉期の模刻とみて、このように解説されています。

蓮肉底面にみえる『正元2年(1260)正月』の年記
蓮肉底面にみえる『正元2年(1260)正月』の年記
「京都・慰称寺には・・・・・この広隆寺埋木地蔵によく似た像がある。
俗に中島の地蔵堂と呼ばれるこの寺は、天正年間(1573~92)、筑後善導寺の慰樵上人の建立と伝え、古くは慰樵庵と称していたという。
寺の旧名の『樵』と埋木地蔵の縁起にいう『樵夫』との共通性は、両寺に何らかのつながりがあったことを想像させるが、この地蔵像が埋木地蔵の模刻であった事実かすかに伝えているもののように思われる。

像身と共木彫出の蓮肉底面にみえる『正元2年(1260)正月』の年記は、あるいはその模刻の時期と考えていいのではなかろうか。」

以上のとおりです。


それぞれの本の解説を読んでいると、「慰称寺・後世模刻像説」の方が、圧倒的に説得力があると感じました。

「やはり鎌倉以降の模刻像ということで、間違いなかったのだ!」

と、もう一度納得した次第です。

広隆寺・埋木地蔵像の霊験譚が広められ、厚い信仰をあつめるようになってから、この霊験像と瓜二つの模刻像が造られ、信仰されたのでしょう。



【慰称寺・地蔵菩薩像の文化財指定について、頭をよぎったこと】


慰称寺・地蔵像が広隆寺・埋木地蔵の模刻であろうとの話と、その問題について採り上げた本の話が、ついつい長くなってしまいました。
くど過ぎるという感じで、いい加減、読み疲れられたのではないかと思います。


最後に一つ、思うことです。

慰称寺像が、後世の模刻像であることは、すごく納得したのですが、文化財指定当時に判断された「平安時代」という制作年代は、なかなか訂正されるということは難しいのでしょうか?
今日の、「重要文化財の写真総目録」ともいえる、毎日新聞社刊「重要文化財」(1973刊)にも、昭和10年(1935)旧国宝指定当時の「平安時代」が、そのまま受け継がれています。

「もし、昭和10年の旧国宝指定時に、慰称寺像が、後世の模刻像であろうとみられていたら、国宝指定は、どうなっていたのだろうか?」

そんな思いが、ちょっとよぎりました。
当時は、「平安初期の地蔵像であろう」とみられたから、旧国宝に指定されたに違いありません。
後世の模刻像となれば、指定はきっと無理だったのでしょう。
戦後になっても、新たに「重要文化財指定」を受けることは、無かったような気もします。

これだけの出来の良い素晴らしい地蔵像ですから、模刻であろうと文化財指定を受けて当然とは思うのですが、重文指定まで行ったかどうか?・・・・・

そう思うと、何やら複雑な気持ちになってしまいました。



全く、知りもしなかったノーマークの慰称寺・地蔵像への古仏探訪でしたが、想定外の出会いとなりました。

見事な彫技の、素晴らしく出来の良い地蔵像との思わぬ出会いに、感動しました。

そして、この地蔵像の広隆寺・埋木地蔵との関係や、平安初期像か鎌倉模刻像かなどを調べてみるうちに、興味深い話をたくさん知ることが出来、随分勉強にもなりました。


昨年まで、聞いたこともなかった慰称寺・地蔵像でだったのですが、決して忘れられない地蔵像になってしまいました。


古仏探訪~「右京区嵯峨樒原高見町・般若寺の十一面観音像」 京のかくれ仏探訪② 【2016.6.18】


「京のかくれ仏探訪」第2回のご紹介は、右京区嵯峨樒原高見町にある般若寺の十一面観音立像です。

般若寺・十一面観音像
般若寺・十一面観音像


【図録・「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載の仏像を、いくつかご紹介】


図録・「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」
前回、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」と題する図録冊子をご紹介しました。

そこには、きっちりした寺院に祀られる仏像ではなく、無住のお堂などで地元の人々に、守られ受け継がれてきたてきた古像が採り上げられています。
ラインアップされている仏像をみますと、知られざる、興味深く魅力ある仏像がいくつも掲載されています。

そこで、これから数回は、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載の仏像から、
「この仏像は、なかなか興味深い、心惹かれる。」
と、私が感じた仏像達の探訪記をご紹介したいと思います。


今回ご紹介する、般若寺の十一面観音立像も、この「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に採り上げられている仏像です。
ただ私が、この般若寺を訪ねたのは、この図録冊子を手に入れる前のことでした。

この仏像の存在を知ったのは、
井上正著「古佛~彫像のイコノロジー」1986年・法蔵館刊
に採り上げられていたからです。
井上正著「古佛~彫像のイコノロジー」

ご存じのとおり、この本には、井上正氏が、独自の考え方によって、

「奈良時代以前の制作にさかのぼる可能性がある、古密教彫像」

とみる木彫像が、ラインアップされています。
そこに掲載されている仏像達は、井上氏の言葉を借りると、

「烈しい霊威表現、尋常ならざる精神性を発する表現」

の、歪んだ造形、異常な量感の強調とか化現表現などがされている仏像です。

私は、これらの木彫像が、「井上氏の云う、奈良時代以前の制作の古密教像」とは思わないのですが、気迫勝負とでも言ってよいような迫力、強烈なインパクトを感じさせる仏像に、心惹かれるものがあり、出来得れば、全部見てやろうと廻っています。

そんなわけで、般若寺・十一面観音像も、是非拝してみたい仏像の一つなのでした。
1985年に、京都市指定文化財に指定されています。



【ここも京都市? 愛宕山の奥、辺鄙な村落にひっそり在る般若寺】


般若寺を同好の方と訪ねたのは、9年程前、2007年のことでした。

般若寺・十一面観音も、地域の方々に守られてきた仏像です。
京都市の教育員会のご担当に連絡をお願いし、管理をされている方に拝観のご了解をいただき、訪ねました。

めざす般若寺は、「右京区・嵯峨樒原高見町」という処にあります。
地図で見ると、京都の西北のすごい山の中です。

嵐山・嵯峨野の西北に、愛宕参りで有名な愛宕神社のある愛宕山がありますが、この愛宕山の山向こうです。

嵐山・渡月橋から望む愛宕山
嵐山・渡月橋から望む愛宕山

かつては、亀岡方面からの愛宕詣への道としてにぎわいがあったということです。

嵐山方面から車で出かけたのですが、なかなかの山道で、ビックリでした。
両側を鬱蒼とした木々に囲まれた、細い曲がりくねった九十九折りの道を7~8キロ走りました。

鬱蒼とした木々に囲まれた、般若寺への山道
鬱蒼とした木々に囲まれた、般若寺への山道

ちょっと怖くなるほどの山道をやっと抜けると、眺望が開け小さな村落が目に入ってきます。
そこが、嵯峨樒原高見町です。

般若寺のある嵯峨樒原高見町の村落
般若寺のある嵯峨樒原高見町の村落

こんなところも京都市に入るのかと思う、辺鄙な山の中の村落です。


般若寺は、民家かと見紛うような、小さなお堂でした。

般若寺のお堂
般若寺のお堂

お堂への上り口には、愛宕山と記された、立派な石標があります。

般若寺への上り口の道

愛宕山と刻された石標
般若寺への上り口の道と、愛宕山と刻された石標

かつて、愛宕詣でへの亀岡方面からの参道として賑わったことを物語っているようです。



【野趣ある素朴さに惹かれる、古様な観音様~痩身、腰高でしなやかな歪み】


お待ちいただいていた地元の方にご案内いただき、早速、十一面観音像を拝しました。

般若寺・十一面観音像
般若寺・十一面観音像

一見しただけで、平安中期以前の、かなりの古仏であることが判ります。
すらりと痩身です。
ウエストの位置が異常に高いというか、腰から下が大変長いスリムな仏像というのが、第一印象です。
ちょっといびつなまでのバランス、と云ってもよいのかもしれません。
身体の軸も、上半身が右に歪んでいます。
腰から下の衣文は、弧を描く衣文線の密度が濃いというのか、幾重にも刻まれています。

般若寺・十一面観音像~上半身が歪んでいる般若寺・十一面観音像~幾重にも刻まれた衣文
般若寺・十一面観音像~歪んでいる上半身と、幾重にも刻まれた衣文

このように、
「異常な身体バランス、上半身の歪み、密集したような衣文」
などと、文字で表現すると、
すごい迫力のある造形、気とかオーラを発散するような、アクの強い仏像を想像してしまいそうです。
ところが、実際にはそんな感じはしません。

むしろ、全体としては、
「落ち着いたというか、穏やか」
と云った方があたっているような印象を受けます。
身体の軸の歪みも、「歪んでいる」というよりは、「しなやか」という表現の方が似つかわしそうです。
お顔は目鼻口に後の手が入っているようで、眼線の彫り起こしなどがあるようなのですが、
当初、もっと厳しく激しい表情をしていたようには感じられません。

彫り口は素朴で、割合と細部にこだわらずに造形されています。
入念に造られているのではなくて、結構、粗略というか、簡略に表現されています。

般若寺・十一面観音像~粗く素朴な彫り口
般若寺十一面観音像・側頭部~粗く素朴な彫り口

衣文の彫も随分浅く、ちょっと手を抜いたのかなと思うほどに、表面的な感じがします。
野趣のある、いわゆる地方作的な造形と云えそうです。
とはいっても、かなりの古像であることは、間違いありません。



【般若寺・観音像の故郷は、なんと奈良の地だった】


この地に遺る平安古仏というと、愛宕信仰にかかわる山岳信仰などにまつわって造立された仏像が、今日まで伝えられたとのかと、当然に想像してしまいます。
ところが、この観音像、当地で造られたものではなかったのです。

太平洋戦争末期に行われた、京都重宝調査の台帳に、
「桃山時代に、某皇女が本像を奈良より搬び、般若寺付近にあった興禅寺に安置して本尊とし、のち当寺に移されたとする旨の寺伝」
が記されており、奈良の地より当地に移された像であることは、間違いないようなのです。

この仏像の故郷は、なんと奈良の地だったのです。

その話を知って、この観音像をもう一度見直してみると、なるほどと、すごく納得がいくように思えます。

「落ち着いた、穏やか、しなやか」

というキーワードが、似つかわしいような印象と記しましたが、それは、この像が奈良の地の伝統の延長線上にあるからなのかもしれません。

「奈良のちょっとはずれの、在地の地方作的古像」

このように考えてみると、この観音像の造形の雰囲気が、すんなり理解できるような気がするのです。


奈良の地方作的な古像で、たいへん痩身な観音像というと、桜井市・慶田寺の十一面観音像(市指定文化財)が思い出されます。
10世紀頃の制作と云われてきましたが、近年は、9世紀前半からそれ以前との見方もある奈良の地方作的一木彫像です。

奈良桜井市~慶田寺・十一面観音像奈良桜井市~慶田寺・十一面観音像
奈良桜井市~慶田寺・十一面観音像

造形感覚は、般若寺像とは随分違うものです。
慶田寺像の方がかなり古様のように思います。
ただ、この両像のような、スリムで長身といったタイプの素朴な表現の一木彫像が、奈良の在地の木彫像にあったのかなという気もします。

いずれにせよ、記憶の中にしっかりと残る、独特の魅力を感じる観音像です。



【いつ頃の制作? 見方が別れる、奈良の地方作的一木彫像】


さて、この般若寺観音像、いつ頃の制作と思われるでしょうか?
10世紀頃の制作なのでしょうか?
9世紀ごろまでさかのぼる平安前期像なのでしょうか?
正直なところ、私もウーンと唸って、迷ってしまいます。
桜井・慶田寺観音像の制作年代の見方が別れると同様に、いろいろな見方、考え方が出来る、ちょっと難しい彫像と云えそうです。


この般若寺・十一面観音像、博物館で観たことがある方も、いらっしゃるかもしれません。

私の記憶では、2005年10~11月に京都国立博物館で開催された、「最澄と天台の国宝展」に出展されました。
翌年、東京国立博物館でも巡回展があったのですが、残念ながら般若寺像は京博のみへの出展で、私は観ることが出来ませんでした。
ごく最近では、京都国立博物館の平常展示で、昨年、2015年6~9月に展示されました。
この時、ご覧になった方は、どのように感じられたでしょうか?


本像を採り上げた文章、解説などをみてみると、制作年代の見方には、9世紀初、もしくはそれ以前から、10世紀末頃まで、随分と幅があるようです。
ご紹介してみたいと思います。

品質構造等は、以下の通りです。

像高167.5㎝、カヤかとみられる針葉樹の一木彫像、さほど深くない背刳りに背板、頭上面など後補、面部に補修痕あり。


般若寺・十一面観音像..般若寺・十一面観音像

般若寺・十一面観音像..般若寺・十一面観音像
各角度から見た般若寺・十一面観音像~「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」所載


井上正氏は、著作「古佛~彫像のイコノロジー」で、はっきりした制作年代の見解は示していませんが、次のように、奈良時代に遡る可能性を示唆するかのようなコメントを記しています。

「長痩感に加うるに、このような浅彫りの衣文表現を以てする例は、すでに徳島・井戸寺十一面観音立像と京都・光明寺千手観音立像とに見られた。
このうち、井戸寺像と本像とは、同じく赤色の檀色像であり、光明寺像は、黄色の檀色像であった。
ビャクダンの心をそなえた着彩代用檀像の表現として、直接の結び付きを指摘することは難しいにしても、一つの括りのなかにこの三者は入ってくるものといえよう。
バラバラに印象される古密教系尊像の場合も、ようやくある種のつながりが生まれてきたようである。」
(「古佛~彫像のイコノロジー」法蔵館・1986年刊)


一方、井上氏のコメントと、ほぼ同時期に刊行された「京都の美術工芸」という調査記録書では、10世紀末頃の制作とみて、このように解説されています。

「こうした古式の一木彫成像としては、体躯の量感をかなり減じ、躰の厚みも少ないが、上半身の肉どりにはなお抑揚があり、腰高にまとった裳には、翻波を混えてにぎやかに衣文をあしらうが、その彫りは浅く、鈍い。
・・・・・・・・
概して、地方的な趣の濃い像といわざるをえないが、制作の時期は10世紀末頃まで遡ると考えられ、・・・・・・」
(「京都の美術工芸~京都市内編・上」京都府文化財保護基金・1985年刊)


9世紀の制作とみる、このような解説もあります。

「天衣や条帛をうねるような衣文線で構成し、一見して唐招提寺や大安寺の木彫群を連想させる。
とはいえ上記諸像が、衣文を深く刻むのにくらべると本像の衣文は浅く彫りあらわされている点で違いがある。
また、本像のやや前傾した姿勢は天平彫刻というよりは、9世紀の製作とみなされる観音像などによくみられるものである。
・・・・・・・・・・
本像が、上記のような特徴を持つのも、天平時代の名残を色濃く残す奈良において9世紀になってから製作されたもの、と考えれば納得がいくのではないだろうか。」
(「最澄と天台の国宝展」図録~解説・浅湫毅、2006年刊)


どちらの解説の見方が的確なのでしょうか、よく判りません。

解説を読んでいると、この像の類例や、同じ系譜の像を挙げるのなかなか難しいのかなという気がしました。
これらの解説には、

「長痩感に加うるに、このような浅彫りの衣文表現を以てする例は、すでに徳島・井戸寺十一面観音立像と京都・光明寺千手観音立像とに見られた。」

「天衣や条帛をうねるような衣文線で構成し、一見して唐招提寺や大安寺の木彫群を連想させる。」

と述べられていました。

「そんなふうに連想したり、そんな系譜の仏像だと感じるかなあ?」

私の感性では、「そのとおりだな」と思えないところのあります。

制作年代については、古様だけれども、地方作的で彫りも浅く粗略な表現であることを、どのようにみるかということなのでしょう。

「9世紀まで遡るというのはちょっと難しいかな?10世紀の半ばごろぐらいか?」

というのが、私の個人的な印象です。



【心に残った般若寺・観音像との出会い~愛宕山奥・鄙の地に在るのが、相応しい】


ひっそりとした里山に祀られる「京のかくれ仏」との、心に残る出会いでした。

いかにも在地的で野趣のある、般若寺・観音像の姿を拝していると、元在ったという奈良の地ではなく、この愛宕山の奥の、鄙そのもの地に祀られているのが、一番相応しいのだろうという思いとなりました。

この般若寺の十一面観音像、地元の管理の方のご都合がつけば、拝観はお願いできるようです。

お世話になった方に、
「拝観に訪ねてこられる方は、折々いらっしゃるでしょうか?」
とお尋ねすると、
「この山中の村落まで、わざわざ訪ねてくる人は、本当にめったにいませんよ。」
というお話でした。

またここまで訪ねて来るのは、いつのことになるだろうか、という思いを抱きながら、山間いの般若寺を後にしました。


次のページ