観仏日々帖

トピックスに京都・新町地蔵保存会の地蔵像、3Dプリンタ・レプリカをお堂にお祀り 【2017.06.24】


「信仰の対象として地元の人々に守られる仏像」と「仏教美術・文化財としての仏像」との折り合いをつけることの悩ましさ、難しさについて、ちょっと考えさせられてしまうニュースがありました。


9世紀の一木彫像で、重要文化財に指定され、京都国立博物館に預託されている、「新町地蔵保存会の地蔵菩薩坐像」が、この度、3Dプリンターで精巧なレプリカが制作され、レプリカの方をお堂にお祀りすることになったという話です。



【18年前の調査で発見され、3年前、重文指定となった新町地蔵保存会・地蔵像】


この地蔵菩薩像、皆さんも、京都国立博物館の仏像陳列に、展示されているのをご覧になった方も、多くいらっしゃるのではないかと思います。
9世紀後半の制作とみられ、地蔵菩薩の坐像としては広隆寺講堂・地蔵菩薩像に次ぐ古例で、なかなかの迫力ある優作です。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(9世紀・重要文化財)~像高47.1㎝

実は、この地蔵像、京都下鴨(左京区下鴨松ノ木町)の、4~5坪ほどの小さな地蔵堂に祀られ、永年、地元の人々によって大切に守られ、信仰されてきた地蔵さまだったのでした。

1999年頃の文化財調査で、平安前期の制作の一木彫像であることが発見され、2002年に市指定文化財、2014年に重要文化財指定となりました。
2002年の文化財指定以来、京都国立博物館で保管、展示されています。



【貴重な文化財として博物館預託となり、やむを得ずレプリカをお祀りすることに】


永年この像をお守りしてきた地元の人々にとっては、文化財指定となったおかげで、お堂から肝心の仏さまが、いなくなってしまうことになってしまいました。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像が祀られていた、町の小さなお堂
(京都市左京区下鴨松ノ木町)


貴重な文化財の火災、盗難リスク対応として、博物館で保管管理されることになったのでした。
年に一度の「地蔵盆の日の里帰り」も、重要文化財指定以降は難しくなり、苦肉の策として、3Dプリンターによる模像をお祀りして、代替することになったという話です。



【NHK NEWS WEBで、地蔵様の「レプリカお祀り」のいきさつを報道】


このニュース、6/20付けの「NHK NEWS WEB~News up」に「地蔵菩薩を3Dプリンターで」という標題で、レプリカの里帰りのいきさつが掲載されていました。

記事の内容の一部をご紹介すると、次のようなものです。

「京都の世界遺産、下鴨神社にほど近い閑静な住宅街にある地蔵菩薩のお堂で、毎月、地域の人たちが集まって祈りを捧げてきました。
しかし、長年まつられていたお堂には、いま肝心の菩薩像がありません。
台座の上に置かれているのは、大きな写真パネルだけです。

地蔵像が博物館へ預託された後、厨子の前には写真が祀られている
地蔵像が博物館へ預託された後、祀られていた厨子には写真が置かれている

なぜ、写真だけになったのか、そのきっかけは京都市の調査です。
調査の結果、1000年以上も前の平安時代に作られた貴重なものだとわかったのです。
座っている地蔵菩薩像としては、国内で2番目に古い像だとされています。
そこで、京都市は平成14年、地蔵菩薩像を市の有形文化財に指定。
火災や盗難から守るため、菩薩像は国宝や重要文化財を数多く収蔵する京都国立博物館に移されました。

このためお堂には、地蔵の代わりに写真パネルが鎮座することになったのです。
それでも、毎年8月に行われる京都の伝統行事「地蔵盆」の時だけは元のお堂に戻されていましたが、2年前に国の重要文化財に指定されると、年に1回の里帰りもかなわなくなってしまいました。
長年親しんできた菩薩像が、写真だけではどうにも寂しい。
そこで、地域の人たちの思いに応える形で、本物そっくりのレプリカ作りが去年始まりました。
京都国立博物館がもっている3Dプリンターを活用して作成したのです。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)
新町地蔵保存会・地蔵菩薩像(左)とそのレプリカ(右)

・・・・・・・・・・・・・・   (3Dプリンターでの仏像レプリカ制作の難しさや、苦労話などの話の記事が続きます)

そして6月初旬、地域の人たちが初めて作業現場を訪れ、レプリカと対面しました。
本物そっくりの姿に、歓喜の声があがりました。
衣のひだにうっすらと積もったほこりも再現され、細部に施された工夫に、じっくりと見入っていました。
そして、およそ1年の作業を経て完成したレプリカは6月13日から、京都国立博物館で、実物と並べてお披露目されています。

レプリカは、8月の地蔵盆に合わせて、地域の人たちが待つお堂に運ばれます。
そして、これからずっと、実物の代わりに安置されることになっています。
保存会の会長を務める矢島隆さんは、
「地域の宝として、これから大切にしていきたいです。関係者の皆さんに本当にお礼が言いたいです」と話していました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1000年の時を超えて、地域で親しまれ、残されてきた地蔵菩薩像。
3Dプリンターの技術や、慎重な色づけ作業のおかげで本物そっくりに仕上がったレプリカは、貴重な文化財を、どうやって後世に引き継いでいくのか、1つのヒントを示してくれているように感じました。」


お祀りされる主がいなくなってしまったお堂に、レプリカとはいうものの、地蔵菩薩が戻ってくることになった訳です。



【「信仰の対象としての仏様」と「貴重な文化財としての仏像」との折り合いの悩ましさ】


観光客、参拝客が多く訪れる有名寺院の場合は、こうした問題は起こらないのですが、地元の地区の人々に守られているお堂に祀られた仏像や、無住のお寺、住職はいらっしゃっても檀家や訪れる人も少ないお寺の仏像が、仏教美術として貴重な文化財であった場合、どのようにしてしっかり管理していくのかというのは、本当に難しく、悩ましい問題だと思います。

重要文化財に指定されている仏像の場合、お寺やお堂でお祀り管理していこうとすると、防災対策がされた収蔵庫が、原則必要ということになりますし、収蔵庫建設費用の地元やお寺の負担金も相当に必要ということになってしまいます。
また、収蔵庫が出来たとしても、防犯対応等の維持管理の手間も、なかなか大変です。

一方、仏さまは、その地の人々に永年守られ、厚い信仰のおかげで、現在在る訳で、
「貴重な文化財なので、博物館に移して管理します。」
と云われても、何とも割り切れない気持ちになってしまうことだろうと思います。


私も、地方のお寺や、地区の管理となっている仏像を拝しに、訪れることがよくありますが、

「大事にお祀り、お守りしているのですが、仏像もお堂の修理も、なかなかお金がかかってままならないのですよ。」
「貴重な文化財と云われても、管理していくのもなかなか大変で・・・・・」

といったお話を伺うことがよくあります。

ニュースになった新町地蔵保存会の地蔵さまも、博物館から戻そうとすると、お金をかけて収蔵庫を造らなくてはならないでしょうし、
コンクリートの収蔵庫ではなくて、今の小さなお堂にお祀りしてこそ、地元の人々にとって、お守りして拝する意味もあるということなのかと思います。

今般の、国立博物館の3Dプリンターによりレプリカを制作し、そのレプリカをお堂の方にお祀りするという話は、

「信仰の対象として祀られる仏様」と「仏教美術の貴重な文化財としての仏像」

という問題に、何とか折り合いをつける方法として、編み出されたものなのでしょう。

きっと、これがベストという訳ではないのでしょうが、大きなコストをかけずに、上手に対応していく一つのやり方として、これからも増えていくのかもしれません。



【京博で、本物とレプリカをセットで展示中】


この3D プリンターを用いたレプリカは、本物の重要文化財の地蔵像と二つ並んで、京都国立博物館に展示されているそうです。

京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ
京都国立博物館にセットで展示されている、新町地蔵保存会・地蔵菩薩像とそのレプリカ

レプリカの方は、8月17日に地元のお堂に戻って、19日の地蔵盆で開眼法要が営まれるということです。

どの程度精巧で、見紛うようなレプリカなのでしょうか?
機会があるようでしたら、京博に寄ってみられては如何でしょうか。



【近年の仏像模造、あれこれ】


近年、仏像の模造制作、いわゆるレプリカの精度は、本当に本物に限りなく近づいているようです。

ご存じのように、美術院国宝修理所では、制作当時の仏像の製作技術を研究するとともに、技術レベルの向上のためもあって、仏像の模造制作が行われています。
近年(2013年)では、唐招提寺・鑑真和上像の脱活乾漆技法による模造制作が行われました。

唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付けをする前唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)~古色付け後
唐招提寺・鑑真和上像のお身代わり像(模造)
~(左)古色付けをする前、(右)古色付け後~



また、東京藝術大学を中心とした「クローン文化財」と称する、文化財の模造制作も、マスコミを賑わして話題となっています。
仏像では、今年(2017年)「法隆寺・釈迦三尊像」の模造が、東京藝大と富山高岡市との連携で制作されました。
3Dデータ計測、および3Dプリント出力による原型づくりを行い、高岡の鋳造技術により金銅仏の模造を「クローン文化財」として制作したものです。
いわゆるレプリカ(複製)とは異なり、オリジナルを超越するという位置付けだそうです。

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~鋳造すぐの姿

法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)
法隆寺・釈迦三尊像のクローン文化財(模造)~(上)鋳造すぐの姿

この「クローン文化財」の法隆寺釈迦三尊像は、2017年7月2日まで、東京藝術大学の「Study of BABEL」展で、展示されています。
私も観てきましたが、なかなかの精巧なレベルで真迫性もあり、ビックリしました。



NHKニュースで採り上げられた、新町地蔵保存会のレプリカ制作と里帰りの話題、
近年の3D技術の精巧さに、今更ながら驚かされるとともに、
「信仰される仏様」と「文化財保護保存」という悩ましき問題の折り合いについて、考えさせられる話でした。

トピックス~「広島・古保利薬師堂、薬師坐像の手」仏像の手の話⑥  【2017.6.18】


【忘れ得ぬ「貞観の手、貞観の指」との出会い】


この手を初めて見た時、思わず、その魅力に惹き込まれてしまいました。

広島県の山中にある古保利薬師堂の薬師如来像の手です。

古保利薬師堂・薬師像の右手(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影)

古保利薬師堂・薬師像の左手(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影)
古保利薬師堂・薬師像の手~右手(上)、左手(下)
(昭和46年夏、初めて訪ねた時の撮影写真)


ご覧の「手の写真」は、初めてこの薬師像に出会ったときに、撮った写真です。

薬師像を拝すると、まず、グッと突き出した大きな手のひらが、目に飛び込んできます。
その手から発散するエネルギッシュなパワーに、まずもって圧倒されてしまいました。

グッと突き出した大きな右手に圧倒される古保利薬師堂・薬師像
拝すると、グッと突き出した大きな右手に圧倒される古保利薬師堂・薬師像

なんとも分厚い手のひら、太い指です。

「逞しく、頼もしく、力強く」

こんな修飾語がぴたりとあてはまるようです。

「凄い、貞観の手だ、貞観の指だ!」

と、すっかりその手の魅力の虜になってしまいました。

そんな興奮を覚えたのは、もう45年も前のことです。
昭和46年(1971)の夏、二十歳過ぎの学生時代に、はじめて古保利薬師堂を訪ねた時のことでした。



【苦労して訪ねた、広島の山間にある古保利薬師堂】


「古保利薬師堂? 聞いたことのないお寺だな。」

という方も、いらっしゃるのではないかと思います。

地方仏探訪をされたことがある方は、よくご存じなのではないでしょうか。
魅力あふれる平安古仏群が残されていることで、山陽方面の地方仏行脚では、必見度ナンバーワンといってもよいところかと思います。

古保利薬師堂は、広島県山県郡北広島町という処にあります。

広島市から北の方の山間部にあって、もうすぐ島根県との県境という鄙の地です。
私が学生時代、同行のメンバー数人でここへやってきたときは、広島駅からバスに乗って2時間もかかりました。
「八重」という名のバス停で降りて、お堂のある小高い森までトボトボ歩いて、やっとこさで行きついた覚えがあります。

今では「中国縦貫道の千代田インターから5分で到着」しますので、あの頃、苦労して訪ねたことが夢のようです。



【「豊かで、おおらか」地方仏の魅力満点の薬師像~平安前期の優作】


古保利薬師堂は、村の人々で管理されている無住のお堂でした。

昭和30年代の古保利薬師堂参道

昭和30年代の古保利薬師堂本堂
昭和30年代の古保利薬師堂参道と本堂

案内いただいた方によって、薬師如来像が祀られるお厨子が開かれた時、真っ先に目に飛び込んできたのが「この手」という訳です。

厨子が開かれると、真っ先に目に飛び込んでくる、逞しき右手((昭和46年夏、撮影)border=
お厨子が開かれると、真っ先に目に飛び込んでくる、逞しき右手
((昭和46年夏、撮影写真)


「逞しき手」に、釘付けになってしまったのでした。

薬師如来像の姿は、ご覧のとおりです。

古保利薬師堂・薬師如来坐像
古保利薬師堂・薬師如来坐像

一言で云えば、

「なんといっても、豊かなボリューム感が魅力!」

という表現に尽きるように思います。

「丸々と太った顔、大きな眼、彫りの深い衣文、はち切れるような量感」

で、観るものを惹き付けます。

古保利薬師堂・薬師如来坐像~丸々と太った顔、大きな眼が印象的
古保利薬師堂・薬師如来坐像~丸々と太った顔、大きな眼が印象的

平安前期の堂々たる優作と云って、間違いありません。
平安前期の像と云うと、

「緊張感ある迫力、強烈な個性や森厳さ、霊威的なオーラ」

このような言葉で形容されるイメージがあるのですが、この古保利薬師堂の薬師像は、そうした気合を入れた緊張感といったものを感じさせません。

「明るくおおらかで伸びやか、豊かで頼もしい」

そんな言葉が似つかわしいのです。

古保利薬師堂・薬師如来坐像~おおらかで伸びやか、豊かな造形
古保利薬師堂・薬師如来坐像~おおらかで伸びやか、豊かな造形

山陽地方の穏やかな気候に相応しく、土地の人々の豊穣の喜びがそのまま吹き込まれたような息吹を感じてしまうのです。

「これぞ、地方仏の魅力そのもの!」

といって良いのではないでしょうか。

そんな魅力の極め付けが、「肉付きの良い、頼もしい手」という訳です。



【専門家、評論家も「薬師の手」を絶賛】


古保利薬師堂を訪れた専門家や評論家の方々も、この「薬師如来の手」に、強く惹きつけられるものを感じられたようです。

その著作の中で、「手の魅力」を語っている文章を、ご紹介したいと思います。

地方仏の紹介者として知られる丸山尚一氏は、このように語っています。

「本尊の薬師如来像は坐高124㎝、仏像としてそれほど大きな方ではないが、その豊かな量感が坐高以上の大きさを感じさせる。
・・・・・・・・・
こんな大きな眼の仏像が、他にあるだろうか。
ぼくは見たことがない。
また、その大きな右手を見たまえ。
仏の手というより、仏を作る職人の力強い手だ。」
(「生きている仏像たち~日本彫刻風土論」1970年読売新聞社刊)

観る人を魅了し、惹きつけてやまない古保利薬師像の右手
観る人を魅了し、惹きつけてやまない古保利薬師像の右手


日本彫刻史研究の大御所、久野健氏の解説です。

「顔も、体躯も丸々と肥満しているところは、天平時代でも古い頃の様式が残っており、さらに唇に古式の微笑をたたえているところなど、まことに古様である。
肉付きの良い頼もしい両手は、新薬師寺薬師如来像の手に近いが、さらに古い要素を持っている。」
(「続・日本の彫刻~東北―九州」1965年美術出版社刊)

側面から見た古保利薬師像~右手指の大きさ太さが際立つ
側面から見た古保利薬師像~右手指の大きさ太さが際立つ
新薬師寺・薬師坐像の腕・手を思わせる



岡山の美術評論家、柳生尚志氏が綴った文章です。

「何よりも広げた掌の大きさに感動する。
指の一本一本が太く、厚く、仏の手というよりも土着の働く農民の手である。
これほどまでに健康で明るく、あけっぴろげな仏は珍しいと思う。」
(「西の国の仏たち」1996年山陽新聞社刊)

古保利薬師像の右手
分厚く太い指の、古保利薬師像の右手

それぞれに、表現は違いますが、「薬師像の手の造形」に目を瞠り、その魅力に賛辞を送っているのが、お判りいただけると思います。
それほどに、惹きつけるものを感じさせるのだと思います。


私も、古保利薬師との初めての出会いで、薬師如来の手に感動して以来、この手は、ずっと「平安前期の当初の制作」そのものだと信じ込んでいました。



【現代の新造だった「薬師の手」~知らなかった驚きの事実】


ところが、何と、そうではなかったのです!

そのことを知ったのは、古保利薬師を訪れてから四半世紀も経った頃ではなかったかと思います。
ある時、こんな珍しい古書を手に入れたのです。

「回想の古保利薬師」 三宅昭典編著 1985年刊  124P

回想の古保利薬師(私家版・1985年刊)

私家版の本で、少部数発行された本だと思います。

編著者の三宅昭典氏(歯学博士)は、長らく古保利薬師堂の護持、保存に努められてきた、地元の歯科医師、三宅蔶氏の長男にあたる方だそうです。

この私家版の本に、こんな記述があるのを見つけました。

「薬師如来像の手は、戦後、昭和の新造の手である。」

と、書かれていたのです。

「エ、エッ!! あの手は現代の手なの!」

超ビックリ、驚きの新事実です。

このように書かれていました。

古保利薬師堂・薬師如来像~右手
古保利薬師堂・薬師如来像~右手
「最後に手であるが、仏像に関心のある者が、仏体の造形上の性格によくあった貞観期の仏手として称賛されている。
しかし実情を紹介すると、これは仏師白石氏の制作にかかるものである。
それ以前は、元禄6年に立川氏を願主としての修理の際の作品で、実に粗末な見るに耐えないしろ物であった。
白石氏は、平安初期の代表的薬師如来である奈良の新薬師寺の仏手をイメージしながら新造したといわれた。」
(岡徹夫氏執筆「古保利薬師堂」の一節~「回想の古保利薬師」所収)


私が、薬師像にはじめてであった時、

「凄い、貞観の手だ、貞観の指だ!」

と、感動した手と指は、なんと現代の手、新造された手だったのでした。



【昭和24年の修理の時、白石仏師の手で新造されていた】



薬師如来像は、昭和24年(1949)の2月から5月の三か月をかけて、白石義男氏の手により修理されていました。
その時に、江戸の後補の手の部分を除去して、新造の手を制作したものであったのでした。
(松本眞著「古保利の仏像」広島修道大学学術選書・2004年刊所載の年表による)

修理にあたった白石義男氏は奈良在住の仏師で、仏像修理の「美術院」に長らく籍を置いた方だそうです。

「回想の古保利薬師」の本や、松本眞著「古保利の仏像」には、古保利薬師堂仏像修理をする白石氏の写真や、修理前の薬師像の姿、江戸の後補の手の写真などが、掲載されていました。

白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)
白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)

古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)

古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)
古保利薬師堂諸仏を修理する白石義男仏師(「回想の古保利薬師」所載)


修理前の薬師像の姿は、今の魅力あふれる姿とは、似ても似つかない様な姿で、拙劣な上塗りで大きく像容を損じています。
江戸の後補の、取り除かれた手は、何とも拙劣、不細工と云えるものです。

昭和24年の修理前の古保利薬師像(松本眞著「古保利の仏像」所載)

昭和24年の修理前の古保利薬師像の江戸時代後補右手(松本眞著「古保利の仏像」所載)
昭和24年の修理前の古保利薬師像の姿と、取り除かれた江戸の拙劣な後補の右手
(松本眞著「古保利の仏像」所載)"


こんな見映えのしない像が、白石仏師の手で、貞観彫刻の魅力を取り戻すことが出来たのです。
そして、「新造された手」は、多くの専門家の方の眼にも、「制作当初からの魅惑の手」に映ったという訳です。

それほどに「見事な造形の新造の手」であるということなのだと思います。
白石仏師の巧みで素晴らしき腕に、感嘆、讃嘆するばかりです。



【新薬師寺・薬師像の手をイメージして造られた、古保利薬師の手】


久野健氏は、
「肉付きの良い頼もしい両手は、新薬師寺薬師如来像の手に近い。」
と綴っていますが、

白石仏師自身も、
「奈良の新薬師寺の仏手をイメージしながら新造した」
と語っています。

新薬師寺・薬師如来像古保利薬師堂・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像と古保利薬師堂・薬師堂

たしかに、新薬師寺・薬師像の逞しい手の指と見較べてみると、そっくりです。
古保利薬師像の手の方が、少々野太く、ゴツイ感じがしますが、よく似ています。

側面から見た新薬師寺・薬師如来像の右手

側面から見た古保利薬師堂・薬師如来像の右手
側面から見た新薬師寺・薬師如来像(上)と、古保利薬師堂・薬師像(下)の右手

新薬師寺・薬師如来像の右手指古保利薬師堂・薬師如来像の右手指
新薬師寺・薬師如来像(左)と古保利薬師堂・薬師像(左)の右手指


この驚きの新事実を知って、私は、
「なーんだ、昭和の新造か! カッカリだなー!」
と思ったというのではなく、
「昭和の仏手でも、観る者を、これだけ感動させる魅力あるカタチを造ることが出来るのだ!」
と、むしろ讃嘆の声を上げたい気持ちになりました。

まさに、モノの見事に、平安初期の迫力ある造形精神を注入した仏手の表現を、成し遂げたといえるのではないでしょうか。



【古保利・薬師像の魅力を存分に引き出した、現代の手】


田中恵氏も、その著作の中で、

「この手が後補新造だといえども、いささかもその魅力を減じるものではない」

という思いを、このように語っています。

「薬師像の右手の豊かさは、・・・・・強さと自信に満ちた意志の力を感じる造形である。
だが、右手の指は後補らしいと最近聞いた。
・・・・・・・
戦前の古保利の薬師の手はついているが現在のようなものではない。
従って常識的には、戦後の後補である。
しかし何とぴったりの手だろうか。
もしすべて後補としても、その存在感は後補の作者が全体の造形を鋭く観察していた結果であろう。
今でも、この手が後補ということは考えたくないほどである。」
(「隠れた仏たち・里の仏」1997年・東京美術刊所収)
~なお、古保利薬師の手は、両手先とも新造の後補です~


全くの同感です。

私達は、古仏の腕や手、顔などが後補だとわかると、

「なーんだ! 後補の模造か!」

と、ちょっと馬鹿にしたり、軽んじたりすることが、間々あるように思います。

たしかに、いかにも出来が悪かったり、わざとらしかったりするものも多いのですが、一方で、制作当初の造形精神を見事に体現している、素晴らしい新造の後補のものにも出会うことがあります。
古保利の薬師像の新造の手は、この仏像の魅力を、減衰させるどころか、むしろ、魅力を一層引き出し、惹きつける役割を果たしているといえるのでしょう。

この手がなければ、古保利の薬師像は、これほどに傑出した地方仏として、その魅力を語られることは無かったのに違いありません。

仏手の新造にあたった白石仏師に、大いに感謝しなければならないのかもしれません。



【奈良の有名国宝仏にも、間々ある、新造後補の手】


ちょっと余談ですが、日頃見慣れている名作仏像のなかにも、手が新造後補という仏像は、結構あるものです。

天平彫刻の傑作、興福寺・阿修羅像の右手合掌手や、東大寺戒壇院の四天王像の腕と手、三月堂の日光菩薩の指先なども、明治年間に、新納忠之介をはじめとする美術院によって、新造後補されたものです。
修理前の古写真と、現在の写真を見較べていただけると、一目瞭然で、よく判ると思います。

明治修理以前の腕の折れた興福寺・阿修羅像(明治27年・工藤利三郎撮影)
明治修理以前の腕の折れた興福寺・阿修羅像(明治27年・工藤利三郎撮影)

興福寺・阿修羅像(明治35~38年の修理で折れた手が修理修復された)
興福寺・阿修羅像(明治35~38年の修理で折れた手が修理修復された)


明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている
明治修理(明治38~39年)直前の東大寺戒壇堂四天王像~後世につけられた拙劣な腕・手が除去されている

東大寺戒壇堂・四天王像(増長天像)東大寺戒壇堂・四天王像(広目天像)
現在の東大寺戒壇堂・四天王像~(左)増長天像、(右)広目天像


東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)
東大寺法華堂・日光菩薩像の手先(明治修理時、新造の指先が付けられている)

これらも、新造後補とはいうものの、当初の造形表現に見事にマッチし、それぞれの仏像のもつ魅力を一段と高めているようです。

制作当初の造形精神、造形表現の体現を追求し、仏像修理修復にあたってきた仏師の方々の、労苦、研鑽に思いを致すのも、また大切なことと改めて感じました。


今回は、若き日にその魅力の虜になった、広島の山奥にある「古保利薬師堂・薬師像の手」にまつわる物語をご紹介させていただきました。



【魅力あふれる平安古仏群がどっさりの古保利薬師堂】


なお、この古保利薬師堂には、薬師如来像の他にも、数多くの平安前中期の魅力あふれる一木彫像群が残されています。
全部で12体が、収蔵庫に安置されており、全て重要文化財に指定されています。

現在の古保利薬師堂・収蔵庫の諸仏安置状況
現在の古保利薬師堂・収蔵庫の諸仏安置状況

なかでも、千手観音像、四天王像は、ひときわ惹きつけるものを感じる像です。

千手観音像は、千手の腕まですべて本体と共木で刻み出した像で、こうした造りの像は、本像の他には見られないのではないかと云われています。
前話の新薬師寺・薬師像の話ではないですが、「徹底した一木へのこだわり、執着」を感じさせる像です。

古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている

古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている
古保利薬師堂・千手観音像~脇手まで一木で彫り出されている

四天王像は、大きな動きで怒りをむき出しにした強烈な個性のある姿ですが、何処かしら愛着を感じる表情が魅力の古様な像です。

古保利薬師堂・四天王像~持国天像古保利薬師堂・四天王像~多聞天像
古保利薬師堂・四天王像~(左)持国天像、(右)多聞天像

古保利薬師堂・四天王像~増長天像
古保利薬師堂・四天王像~増長天像


まだ古保利薬師堂を訪ねられたことのない方は、是非一度、薬師像をはじめとした諸仏を拝されることをお薦めします。

私が、2009年に再訪したときには、寺観が整備されていて、40年前とはすっかり様変わりで、隣に歴史民俗資料館まで建てられていました。
仏像は、昭和56年(1981)に新造された収蔵庫に安置され、大変明るい照明のなかで拝することが出来ました。

古保利薬師堂・仁王門~昭和59年・1984新築
古保利薬師堂・仁王門~昭和59年・1984新築

古保利薬師堂・収蔵庫~昭和56年・1981新築
古保利薬師堂・収蔵庫~昭和56年・1981新築


広島県の山間というちょっと不便なところにありますが、中国縦貫道・千代田インターから5分の近さです。
わざわざ行ってみる値打ちのある、素晴らしい魅力の平安古仏群に出会えることと思います。


トピックス~「新薬師寺・薬師如来像の腕~一木への執着」仏像の手の話⑤  【2017.6.3】


【平安初期一木彫時代の劈頭を飾る傑作、新薬師寺・薬師如来像】


新薬師寺の薬師如来坐像。
ご存じのとおり、天平時代の十二神将塑像に取り囲まれて祀られています。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺本堂に祀られる薬師如来像

今更言うまでもありませんが、神護寺・薬師如来像と並んで、平安初期彫刻を代表する一木彫像の傑作です。
カヤ材による一木彫、素木仕上げのいわゆる檀像風彫刻です。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

眼近に拝すると、圧倒的な量感、存在感で迫ってきます。
異常なほどに大きく見開いた眼、大ぶりな鼻、めくれ上がるような唇で、強烈な個性を主張しています。
がっしり盛り上がった肩や、分厚い胸板、膝前の張りと厚み、どれをとっても、ものすごいボリューム感で、塊量的という言葉そのものです。

新薬師寺・薬師如来像

新薬師寺・薬師如来像
圧倒的な量感、存在感、大きく見開いた眼が印象的な新薬師寺・薬師像

整ったという言葉とは縁遠いアンバランスともいうべきものなのですが、発散する内なるエネルギーとかパワーを強烈に感じさせます。
「存在感」とはこういう造形のことを云うのだと、観るものを唸らせてしまいます。

造像年代については、奈良時代後期から平安初期に至るまでの諸説があるようですが、平安初期一木彫時代の劈頭を飾る優作の巨像に、間違いありません。



【パワフルで逞しい、薬師像の腕と手】


今回は、この新薬師寺・薬師如来像の「腕と手についての話」を採り上げてみたいと思います。

この薬師如来像の腕と手指ですが、これまたパワフルな迫力を感じさせるものです。

新薬師寺・薬師如来像の腕と指
逞しくパワフルな新薬師寺・薬師像の腕と手

右手の二の腕をみると、考えられないほど太い腕っぷしです。
肘から手首までも、これまた逞しさそのものです。
そして、最も目を見張るのは、掌と指の造りです。

新薬師寺・薬師如来像の右手掌と指
分厚く太い新薬師寺・薬師像の掌と指

異常に大きく、分厚く太いのです。
一本一本の指の太さ、親指の付け根の厚みは、何大抵のものではありません。
グッと前に突き出した腕と手指の造形だけをとっても、オーラというか、霊的なものを強く感じます。



【「縦木材」を用いる、特異な矧付け方の腕】


薬師如来像の腕と手、その造形の迫力もさることながら、ここで注目したいのは、その用材の特異な矧付け方です。

この薬師如来像の腕の構造上の特徴は、前の方に突き出した右手の腕と手先が、「縦木材」数材を矧ぎ付けて、造られているということです。
「縦木材で造られている」
と云われても、
「何のことか、何を言いたいのか、全くわからん!」
と、言われてしまうと思います。

しかし、この「縦木材」ということが、大変注目すべき重要事実なのです。



【大型の一木彫像を造るときの、用材の構造とは】


「縦木材」「横木材」の話に入る前に、大型の一木彫像を制作する時の、用材の使い方について、ふれておきたいと思います。

大型の一木彫坐像の標準的な木の寄せ方
大型の一木彫坐像の体幹部と膝前部の
標準的な木の寄せ方
大型一木彫像を制作する時には、腕や手の部分や、坐像の場合の膝前の部分など、頭や胸、胴といった体幹部から外れて、突き出したり拡がったりする部分は、体幹部の材とは別の材を寄せて矧ぎ付けるのが一般的です。

体幹部を一本の材木で彫り出せる樹木というだけでも、相当の巨木が必要になります。
体幹部から外へ拡がる部分まで、一つの材木から彫り出すことが出来るような巨木を得るというのは、極めて困難なことだからです。

新薬師寺の薬師如来像も、像高191㎝、膝張154.㎝もある大きな像です。
体幹部の主材だけでも、幅95㎝、奥行き75㎝もありますから、カヤの巨樹を用いているのです。
前に突き出した腕、手や、膝前の部分まで、すべてを一材から彫り出すことが出来る巨木など、望むべくも無かったのでしょう。

体幹部とは別の材を矧ぎ付けて、造られています。



【「横木材」を用いず、難しい「縦木材」を矧ぎ付けた、薬師像の腕】


話を、腕の材木の「縦木材、横木材」の話に戻したいと思います。

通常、突き出した腕を矧ぎ付けるときは、「横木材」を用います。

横木材(ヒノキ材)
横木材(ヒノキ材)

横木とは、年輪に対して並行にとった材で、長い材をとることが出来ます。
横木をつかうと、腕は、一本の横木を使って彫ることが出来るわけです。
また、木目に沿って鑿で彫ることになりますので、彫り易いということになります。

ところが、新薬師寺・薬師像の腕は、驚くべきことに「縦木材」を用いて造っているのです。
縦木とは、年輪に対して直角にとった材です。

縦木材(ヒノキ材)
縦木材(ヒノキ材)

当然に、用材の直径以上の長さ(横幅)の材はとれない訳です。
薬師像の腕、手は、この縦木材を、数材横に並べて矧ぎ付けているのです。
縦木を木目に直角に小口の方から彫り出すことになりますので、彫刻も難しくなります。
衝撃にも弱くなり、縦の木目に沿って折れやすくもなります。

長い横木を用いれば、そんな問題に煩わされず、全く造作なく作れるのです。
それなのに、わざわざ縦木材を前後に並べて、腕、手を造っています。
肘から先には、3材の縦木材を寄せています。

なお、左手の手首から先の部分だけは、横木材が使われています。
この手先を縦木で彫るのは、目切れがして、どうしても彫るのが難しかったのかもしれません。

腕の部分を、縦木と横木で造ることの違いは、山崎隆之氏作図の模式図をご覧いただけると、良くお判りいただけると思います。

横木材を用いた腕の矧ぎ付け方(通例の矧ぎ付け方)
横木材を用いた腕の矧ぎ付け方(通例の矧ぎ付け方)

縦木材を数材用いた腕の矧ぎ付け方(新薬師寺・薬師像の矧ぎ付け)
縦木材を数材用いた腕の矧ぎ付け方(新薬師寺・薬師像の矧ぎ付け)
~「一度は拝したい奈良の仏像」学習研究社刊所載・山崎隆之氏作図~


新薬師寺・薬師像の腕を横から撮った写真を見ると、縦木材を矧ぎ付けた矧ぎ目の線が、縦に入っているのが見て取れます。

新薬師寺・薬師像の右腕~縦木材を用いた矧ぎ目の縦線が見える
新薬師寺・薬師像の右腕~縦木材を用いた矧ぎ目の縦線が見える

さて、横木を用いれば、一本の材で容易に彫ることが出来るのに、どうして、わざわざ難しい縦木材にこだわったのでしょうか?

きっと、体幹部の縦の木目に、腕や手の木目も合わせることに、こだわったということなのでしょう。
腕や手先までも、一本の巨樹から丸ごと彫り出した像のように見せたかったということなのではないでしょうか?



【驚くべき事実~膝前部も「縦木材」を束ねるように矧ぎ付け】


実は、腕以上に、一木への執着が判る、驚くべき事実があるのです。
趺坐している、両脚部の膝前の拡がりの部分です。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

この膝前の部分こそ、大きく長い「横木材」で彫るのが、当たり前なのですが、なんと「縦木材」を何材も複雑に寄せ、矧ぎ付けているのです。
横木なら一材で済んでしまう膝前部分を、不整形な縦木材9材を束ねるように寄せて造っているのです。

新薬師寺・薬師像の膝前、脚部
縦木材を束ねるように寄せた、新薬師寺・薬師像の膝前、脚部

縦木材への、徹底したこだわりとしか言いようがありません。

薬師如来像の、木寄せ、矧ぎ付けの状況を示した構造図が、「大和古寺大観・第4巻」に掲載されています。

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)
右腕はD1~D4の縦木材4材を矧ぎ付けている

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)
膝前はE1~E9の縦木材9材を矧ぎ付けている

新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)
新薬師寺・薬師像の木寄せ、矧ぎ付け構造図(大和古寺大観所載)

これをご覧になると、腕、手の部分や、膝前の部分を、如何に苦労して何材もの縦木材を束ねるように寄せているのかが、見て取れます。

そして、使われている用材は、単に縦木材を集めて矧ぎ付けているのではなくて、同じ樹木のもののようなのです。

大和古寺大観(第4巻)の解説には
「頭・体幹部材とこれに矧付けた両脚部材その他の矧木は、木目から見て、全てが一本の材から木取りされていると想像され、用材の面でも一木使用の態度を貫いているといえよう。」
と述べられています。

一木へのこだわりが、並み大抵のものでなかったことを物語っているようです。



【かつては、「全てが一木から彫り出されている」と考えられていた、薬師如来像】


この新薬師寺の薬師如来像が、このような縦木材を矧ぎ寄せた構造であることが判明したのは、昭和50年代のことでした。

それまでは、巨大な一本の樹木から、腕や手、膝前を含めて、仏像全体が一木で彫り出されていると考えられていたのでした。
全て縦木材で造られ、像の何処をみても木目が縦に揃って入っていたことから、長らく、全て一木から刻み出されたと思い込まれていたのでした。

新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

大正13年(1924)に刊行された「日本国宝全集・第7輯」の新薬師寺・薬師如来像の解説文には、このように述べられています。

「一木造りでは稀に見る巨大な像である。
同じ一木造りでも矧木を用いたものもあるが、これは胴体は勿論、差出た手までも矧木となってはいない。
・・・・・・・
其造法が完全なる意味における一木彫成であることが、奈良朝製作と思はしめるよりも、寧ろ其法の盛んであった平安朝初期のものであるべく思はしめる。」

昭和47年(1972)に発表された久野健氏の論文「新薬師寺本堂の薬師如来像について」(後に「平安初期彫刻史の研究」所収)にも、このように述べられています。

「本像は、ヒノキ材の一木彫で、螺髪は植付、薬壺(後補)を持つ左手を手首より別木に作り、右手も肘より先及び手首より先を別木で作る他は、膝前にいたるまで一木から彫り出している。
・・・・・・・
さて、この像の特色の一つは、かかる大像であるにかかわらず、巨大な膝前まで、一木から刻みだしている点である。
小像では膝前、蓮肉まで体躯と共木から刻み出した例はかなり見られるが、このような巨像でしかも膝前まで一木というのは極めて少ない。」


この二つの解説・論考を読んでも、この薬師像がすべてを一材から彫り出した希有な例の像であると、大変長きにわたって考えられていたことが判ります。

なお、「日本国宝全集」では突き出した手も一材としていますが、久野健氏は、手首先と右肘から先は、別材であると見極められていたようです。
もう一つ、当時はヒノキ材と考えられていましたが、現在ではカヤ材とみられています。

私も、学生時代に新薬師寺を訪れた時、

「この薬師如来像は、手から膝まで、すべて一本の木から彫り出されているのだ。」

という話を聞き、
この大きな薬師像を、すべて彫り出すことが出来る巨大な木というのは、

「屋久島の縄文杉のような巨樹のイメージだろうか?」

と、大変に驚いた思い出があります。

昭和40年代のことです。

屋久島・縄文杉
屋久島・縄文杉

カヤの巨樹(和歌山県紀美野町・善福寺のカヤ)
カヤの巨樹(和歌山県紀美野町・善福寺のカヤ)



【昭和50年の修理調査で、「縦木材を束ねた構造」であることが判明】


これまで、完全な一木からの刻み出しだと思われていたこの薬師像が、実はそうではなかったことが判明したのは、昭和50年(1975)12月に行われた、文化庁による修理調査の時でした。

その年の6月に行われた予備調査の際、両脚部に不整の矧材があること、両手が矧付けであることなどが確認されたのです。
そして、修理調査で像を台座から下ろして調査した処、詳細な構造が明らかになったのでした。
先にふれたように、縦木材を束ねた構造であることが判ったのです。

これは、驚きの新事実でした。
本当は、完全な一材から刻み出してはいないのに、

「あくまでも、一材から刻み出したように思わせる。」

「あくなき一木へのこだわり! 一木への執着!」

こんな精神のもとに造られていたようなのです。



【完全一木彫、縦木材にこだわる、奈良末平安初期の一木彫】


奈良末~平安初期の一木彫像は、全てを一木から刻み出そうとする姿勢が強くうかがえます。
唐招提寺講堂木彫群と云われる獅子吼・衆宝王菩薩像や、神護寺薬師像をはじめとする一木彫像は、蓮肉、心棒に至るまで、一本の材から刻み出されています。

唐招提寺旧講堂・獅子吼菩薩像神護寺・薬師如来像
(左)唐招提寺旧講堂・獅子吼菩薩像、(右)神護寺・薬師如来像

この時期は、材の制約上やむを得ず矧木をする場合も、あえて縦木材の使用にこだわった時期であったのかもしれません。

神護寺薬師如来像の場合も、肘から先を別材で矧ぎ付けていますが、当初材がのこる右手の前膊、左手の前膊半ばまでは、しっかりと縦木材が用いられているのです。
(左手前膊半ばから先、両手首先は後補)

神護寺・薬師如来像の腕と手
縦木材(左右の前膊)を矧ぎ付けた神護寺・薬師如来像の腕

唐招提寺の獅子吼・衆宝王菩薩像、薬師像の場合も、今は、肘から先が欠失してしまっていますが、きっと縦木材を用いていたのではないかと、私は想像しています。

唐招提寺旧講堂・衆宝王菩薩像
唐招提寺旧講堂・衆宝王菩薩像

新薬師寺・薬師像の場合は、坐像にもかかわらず、縦木材を束ねるという無理をしながらも、そのような姿勢を体現しようとしているようです。



【一木への執着は、巨樹の霊性を、仏像の威力にとり込もうとするもの?】


どうしてここまで、一木の縦木材にこだわったのでしょうか?

膝前まで縦木材を寄せる作例は、新薬師寺像以外にはありません。
そこまで完全な一木であるかのように、こだわった訳について、巨木のもつ霊性や神秘性を、仏像に投影しようとしたものではないかといわれています。

日本彫刻技法史の研究者である山崎隆之氏は、新薬師寺像が巨樹から彫り出されているように見せている理由について、自著で、このように述べています。

「それにしても、仏師はなぜこれほどまで、縦木にこだわったのだろうか。
そこに一木素木像の原点である檀像の形式を守りたい、との強い意志があるのは確かである。
しかし、それだけでは説明のつかない別の要素もあるのではないか。
すなわち、そこに日本人が古来、木に対して抱く特別な感情、あるいは木に対する信仰も投影されているのではないか。」

こうした考え方の例として、「日本霊異記」にみられる、木が声を発しその木で仏像を造った話や、祟りをなした霊木を以て長谷寺十一面観音像を造ったという説話を紹介したうえで、

「これらの話は、木彫仏では、材料である樹木自体が不思議な力を持っているということである。
それは他の材料と違い、樹木が生命を持ち、古木となればなるほど霊力を持つと感じられるからである。
そうした樹木の神秘性、霊性を仏像にとり込むことで、仏像自体が威力を持つと期待するのは当然であろう。
その一つの手段が、新薬師寺像のように樹木の大きさを見せることだったのではないか。
新薬師寺像は、両膝を含むすべてが一本の樹木でできているように見せている。」
(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」2007年・東方出版刊所収)


一木から彫り出されたように見せている新薬師寺・薬師像の巨樹イメージ図(山崎隆之氏作成図)
一木から彫り出されたように見せている新薬師寺・薬師像の巨樹イメージ図
(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」東方出版刊所載)


新薬師寺・薬師如来像
新薬師寺・薬師如来像

驚くべき巨樹から刻み出したと見せることで、仏像が発する威力に、樹木の霊性をとり込もうとしたというのです。
たしかに、新薬師寺・薬師坐像の発散する、圧倒的な迫力や存在感を肌で感じていると、巨樹のもつ霊力が、仏像に乗り移ったものであるような気がしてしまいます。
あの内なる強力なパワー、エネルギーは、霊木のオーラの為せる業なのでしょうか。

このように、

「奈良時代末から平安初期の一木彫像の、完全な丸彫り、縦木材への強いこだわり」

を、樹木の霊性、神秘性といった、いわゆる霊木信仰との関わり合いから見ていこうとという話は、大変魅力的で、惹かれるものがあります。

大きなウロのある霹靂木から、ウロや節があるのを厭わずに彫り出している、仏像、神像の例や、一本の樹木から三神すべてを刻み出している、東寺、薬師寺の三神像などの例をみると、その感をますます強くするものがあります。



【「素木像の木肌、木目の美しさ追求」という視点からも考えてみたい、「縦木材」へのこだわり】


たしかにそうなのですが、一方、そうした精神性や信仰の世界から、一歩引きさがってみて、シンプルに「素木の仏像の造形表現の技法」という観点から、アプローチしてみることも面白いのではないかと思うことがあります。

木地そのままの素木の仏像の、

「木肌、木目の見え方の、美しさの追求」

とでもいった話です。

奈良末平安初期の一木彫像は、檀像彫刻の発展形の要素もあるといわれています。
こうした仏像は、像全体を彩色することはありませんので、木地そのものがはっきり見えることになります。
木地の美しさが重要になるのだろうと思います。

これらの像は、彩色をしないので、木肌そのもので、木目がはっきりわかります。
全ての部分を完全に一材から刻み出すときには、何の問題もないのですが、別の材を矧ぎ付ける必要が生じたときに、木目が縦目と横目とに不揃いになるのを、避けたかったのではないでしょうか?

縦木材の木目.横木材の木目
縦木材の木目(左)と横木材の木目(右)
 
素木の彫刻を、いかに美しく見せるかと考えた時、腕や膝前の木目だけが、横に通って見えるというのは、美的な感覚からするとミスマッチ感が出てしまいます。
何処からみても、縦の木目が整然と通っているという、見た目の美しさを追求したかったということなのではないか?
このように、感じることがあるのです。



【巨樹への霊性信仰からか?木肌木目の美観追及か?
~「縦木材へのこだわり」の不思議】

敢えて誤解を恐れずに、思い切っていえば、
当時の一木彫像の縦木材へのこだわりというのは、
一木、巨樹の霊性への信仰、こだわりという側面もさることながら、
木地そのままの素木像の整然とした木目の美観への、あくなきこだわり
という意識が、結構強かったのではないだろうかという気がするときがあります。

新薬師寺・薬師如来像
縦の木目が像全体に通っている新薬師寺・薬師如来像

新薬師寺の薬師如来像が、あんなに巨像なのに、大変な無理として縦木材を束ねたように造った訳は、

頭から胴、膝前、そして腕、手に至るまで、白木の表面に、整然と縦の木目が見事に通った、美しい木肌の仏像を造りたかったから、
仏師の見事な腕を見せたかったから、

とも考えられるのではないでしょうか?

薬師像の左手の手先には、唯一、横木材が用いられています。
ここだけ、どうして縦木材にこだわらなかったのでしょうか?
縦木材を用いると、小口からの彫りとなり目切れがして難しかったという面もあろうかと思います。

新薬師寺・薬師如来像の左手先(横木材を使用)

新薬師寺・薬師如来像の左手先(横木材を使用)
横木材が用いられている新薬師寺・薬師如来像の左手先

私は、横木を使った訳は、

左手の手先は、手のひらを平らに開いた姿であったので、縦の面が見える部分が少なく、横材を使っても、全体の美観からは、木目の不揃いが、ほとんど気にならなかったからではないか

このような可能性もあるのではないかという気がしています。

この時期の大型の一木彫像で、手先が当初のまま残っているのは新薬師寺像ぐらいだと思いますので、他の像の例と較べてみることが出来ないのは、ちょっと残念です。



今回の話では、新薬師寺・薬師如来像の「腕の材の矧ぎ付け方の不思議」という処から始まって、本像の「縦木材への徹底したこだわり」という特異な構造と、「一木へのあくなき執着」という問題について、採り上げてみました。

「どうして、こんな風に造ったのだろうか?」

と、思いを巡らせていくと、
あの圧倒的な迫力、オーラは、巨樹の霊性をとり込もうとする霊木信仰の体現のようにも思われますし、
一方、素木像の木肌、木目の美しさの追求という視点も、捨てがたいような気もします。

皆さんは、この「縦木材へのこだわりの不思議」について、どのように感じられたでしょうか?

興味が尽きることがありません。


トピックス~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅱ」仏像の手の話④  【2017.5.20】


前回は「弥勒菩薩の指折り事件」を、振り返ってきました。


【弥勒菩薩の指は、もともと頬に触れていたのか?】


ここからは、広隆寺・弥勒菩薩の指の話の、もう一つのテーマ

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのか?」

という話に入っていきたいと思います。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

今、頬から少し離れている弥勒菩薩像の中指は、制作当初は、実は頬に触れるように造られていたのではないか、という話です。

例えば、中宮寺の弥勒菩薩像の指は、頬にしっかり触れているのです。
広隆寺の像も、指が頬に触れるように、木屎漆(乾漆)のモデリングによる盛上げが、顔の頬の方にも、指先にも、なされていたのではないかという見方があるのです。



【現代人の感性にマッチする、弥勒菩薩の瞑想美、繊細な指先~近代の後補?との見方も】


今、私たちが観る、広隆寺・弥勒菩薩の指は、得も言われぬ美しさを感じるものです。

か細い繊細さが、美しい魅力の弥勒菩薩像の指
「か細い繊細さ」が、美しい魅力の弥勒菩薩像の指

シャープに鼻筋の通った瞑想と微笑みの表情も魅力的ですが、あの、か細く繊細に過ぎるような指先に魅了されたという方も、多いのではないでしょうか?

「微笑みに添えられる、指先の繊細美」

と表現しても良いのかもしれません。
現代人の美の感性にマッチしているのでしょう。

こんな造形感覚は、飛鳥時代には考えられない。
現代人の手になる手指に違いない、弥勒菩薩の右の手指は後補なのではないか?
と、云われたことことがありました。

久野健氏は、木彫家の後藤良氏(昭和32年・1957没)から、このように聞かされたことがあると語っています。

「あの広隆寺の弥勒の右手は、飛鳥時代のものではなく、明治になって作ったものだろう。
あの手は、ブールデルの彫刻の手を知っているものでなければできない。
おそらく明治・大正にかけて仏像修理に活躍した明珍恒男君が、修理の時に新しく作ったものではないか。」
(久野健著「仏像」1961年・学生社刊)



【X線調査で、飛鳥時代当初の指と判明】


この謎は、昭和31年(1956)に行われたX線撮影調査で明らかになりました。
あの、か細く繊細な指は、間違いなく、飛鳥時代、制作当初のものであったのです。

広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
広隆寺・宝冠弥勒像のX線撮影写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

X線撮影をしたのは久野健氏ですが、頬杖をつく右手まで本体と一木から刻み出されていることが明らかになったのでした。
頭部の縦に通った木目が、手や指までも連続して通っていたのです。
ただ、人差し指と小指とは、後世の補作となっていました。

広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
広隆寺・弥勒像の手指の木目と後補箇所の図~西村公朝氏作図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


あの細い指先までも、縦目を目切れのままで彫り出しているため、非常に折れ易く、「指折り事件」で、ほんのちょっと触れただけも折れてしまったようです。

それにしても、あの手の指は、ちょっと特異といって良いほどに、か細く、華奢で、

「飛鳥時代の仏師は、本当に、今の姿のように指を彫ったのだろうか?」

と、疑問を残すものでもありました。



【西村公朝氏の問題提起「当初は指先が頬に触れていた?」~飛鳥白鳳の半跏思惟像の、多くの作例と同じ】


この問題に、一つの新たな見方を投げかけたのは、美術院の西村公朝氏でした。

西村氏は、

・弥勒像の指先だけでなく、顔面、上半身にも、制作当初は木屎漆の盛上げ(モデリング)が施されていたに違いない。

・指先も、顔貌も、現在に比べて、もう少しふっくらしたものであった。

・今、頬との間に隙間が空いている中指は、元々は頬に触れるように造られていたと思われる。

と、いうのです。

西村氏は、いろいろな著作の中で、このことに触れていますが、最も詳しく述べているのは、

「広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察」  東京芸術大学紀要第4号1968.3

という論文です。

西村氏は、弥勒像の制作技法や当初の姿の推定などについて言及していますが、その中で、特に注目した一つの事実は、

「広隆寺・弥勒菩薩の指が、頬に触れていない」

ことでした。

飛鳥白鳳時代のかなりの半跏思惟像は、指が頬に触れているのに、広隆寺・宝冠弥勒像は指が離れているのです。
指先と頬との隙間は、約7ミリあるそうです。
中宮寺の弥勒菩薩像は、頬にわずかに窪みが造られ、中指で頬を押しているように造られています。

中宮寺・菩薩半跏像

指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像
指が頬にしっかりと触れている中宮寺・菩薩半跏像


四十八体仏と呼ばれる、法隆寺献納宝物中の丙寅銘半跏思惟像の指も、頬に触れています。

法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている
法隆寺献納宝物156号・丙寅銘半跏像~指が頬に触れている

そして、広隆寺・宝冠弥勒像と瓜二つと云われる、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の指も頬に触れています。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像~指が頬に触れている

一方で、四十八体仏には、指が頬に触れていない像も、複数みられるのも事実ですので、必ず頬に触れているとはいえるものでもないようです。
なお、広隆寺のもう一つの弥勒像、泣き弥勒と云われる宝髻弥勒像の指は頬から少しだけ離れているのですが、この指先は後補なので、制作例に入れては考えにくいということです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像~指が頬と離れているが指先は後補



【木屎漆で盛上げられていた指先と頬~半木心乾漆像か?】


広隆寺・宝冠弥勒像の指が、ここに挙げた作例と同じように、制作当初は頬に触れていたとすると、当初は乾漆、木屎漆で頬に触れるように盛上げられていたに違いないのです。

西村公朝氏は、弥勒像の各部の造形や彫り口などを検証し、像の顔部、上半身を中心に乾漆、木屎漆の盛り上げがなされていたと推定しています。
半木心乾漆像とでも言ってよい造形だったことになります。
西村氏が推定した、当初の乾漆の盛り上げ状況は、ご覧のようなイメージです。

西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛上げ想定図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


西村氏は、中指の方に2~3ミリ、頬の方に4~5ミリの乾漆の盛り上げがなされて、現在の約7ミリの隙間を埋めていたと推定しています。



【ちょっとアンバランスに感じる、現在のプロポーション】


たしかに、この弥勒菩薩像の前に立ち、その姿をじっと眺めていると、プロポーションが何処かしらアンバランスなのに気が付きます。

広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

胸の辺りが扁平、細身で華奢、下半身と上半身とがうまく釣り合っていないようにみえます。
細かいところでは、左手の甲がこそげたように窪んでいますし、左指には爪が彫られているが右指には爪が彫られていないのです。

広隆寺・宝冠弥勒像~手の甲がこそげたように窪んでいるか細い指の広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒像~左手の甲がこそげたように窪んでいる、か細い指の右手

このことも、一部に乾漆の盛り上げが行われていたことを裏付けているものと思われます。

実は、この像が造られた時の姿は、顔から胸にかけて、木屎漆で盛上げられて、お顔も身体も、もっとふっくらとして、豊かなボリュームがある仏像であったようです。
そして全身に金箔が置かれ、金色に燦然と輝いてたのでしょう。

現代人を魅惑する、細くて繊細な指も、実は、もう少し太く膨らみがあるように造られていたのでしょう。
そして、

「弥勒菩薩の指は、頬に触れていた」

そのような可能性は、十分に考えられるといって良いのかもしれません。



【もともとの弥勒像の姿を想像させる明治の修理前古写真~ふっくらとした表情】


それでは、広隆寺の弥勒菩薩像、元々は、どのような姿に造られていたのでしょうか?

制作当初を、想像させてくれる、明治時代の貴重な写真が残されています。
この弥勒菩薩像は、明治36年(1903)に、美術院の手で修理、修復されているのですが、その修理前の写真です。

一つは、明治34年頃にとられた、弥勒菩薩像の修理前写真です。

明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
明治の復元修理前の宝冠弥勒像写真~明治34年頃
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)


もう一つは、久野健氏が古書店から入手したという、明治修理以前にお寺に祀られていた時の写真です。

久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
久野健氏入手の明治修理前の宝冠弥勒像安置写真
(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)


写真を一見して感じられたと思いますが、現在の姿とずいぶん雰囲気が違います。
現在の姿と較べると、顔の表情が、「おおらかでふっくらした感じ」というか「ぼんやりとしたというか、茫洋とした表情」をしているのです。



【朝鮮仏の表情にそっくりな、明治修理前石膏型のお顔】


明治の修理前に、頭部の石膏型を抜いたものが残されているのですが、その顔を見ると、益々その実感があります。

明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)
明治修理前に石膏で型抜きされた宝冠弥勒像頭部(久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」所載)

率直に云って、朝鮮仏の面相の雰囲気に、すごく似ているのです。
瓜二つと云われている、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像の顔の表情と見較べてみると、本当に「そっくり」です。

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像
韓国国立中央博物館蔵・韓国国宝83号・半跏思惟像

現在の、広隆寺弥勒像の顔よりも、格段に類似しているのは、間違いありません。

現在の広隆寺・弥勒像の顔貌は、両眉が秀でて鼻筋が通り、両眼もくっきりした形をして、理知的で清楚な気品を漂わせるものを感じます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像


そこに醸される雰囲気は、日本的な造形感覚を思わせるものがあるのです。
ところが、明治の修理前には、如何にも朝鮮風の表情を思わせる造形であったようなのです。

弥勒像の造形は、現代人の感性に通じるものがあるとか、近代彫刻を知るものでないと、あの指を造形するのは無理だといわれたことがあるという話は、先にご紹介しましたが、制作当初の造形感覚とは、ちょっと違っていた可能性があるのです。
明治の修理の結果、弥勒像の見た目の印象が、かなり変わってしまったのかもしれません。



【明治36年に修理されている弥勒像~朝鮮風の風貌に変化があったのだろうか?】


明治36年の修理の時は、虫喰いなどで崩れそうになった木地を押さえるなどの処置をしたそうなのですが、その修理の折に、顔の表情の造形などが、当初のものと変わってしまったのだと指摘する見方もあるのです。

この像の表面は、明治修理の当時は相当に傷みやつれていたようです。
辻本干也氏は、弥勒像の修理にあたった一人の藤村新次郎氏から、その苦労話をこのように聞いたと語っています。

木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
木肌の木目がのこる広隆寺・宝冠弥勒像顔部
「随分虫食いがひどくて、手で押さえたらポコッとヘッ込んでしまうような状態にあった。
その修理を、私がやったんだ。
いま残っている、だれもが木目だと思っているあのあしゃれた素地も崩れかかっていて、木の虫が食った穴へ木屎漆を丹念に詰め込んで、木目が残っている感じを表したものだから、いま古い木目がように見えてているところは、私が苦労して復元していったものなんだ。」
(辻本干也・青山茂共著「南都の匠~仏像再見」1979年徳間書店刊)


大変な苦労のあった修理修復であったようなのですが、この修理の時に、修理担当者が削り直しなどの思い切った改変をしてしまったので、朝鮮風の表情から、現代風ともいえる今の表情に変わってしまったのだ、ともいわれています。。

多くの専門家が、大なり小なりこのような見方をしているようですが、なかでも、大変手厳しいのは安藤更生氏です。
安藤氏は、広隆寺弥勒像の修理態度について、このような批判を語っています。

明治の修理に際しては、

・本来、顔がふっくらしていたのを、相当思い切った削り直しをしている。

・鼻の側面は、鎬が経つほど削り直している。

・眉毛の線も、右眉の傷みを削ったために、傷んでいない左眉も、調子を合わせて削った。

などと指摘したうえで、

「今日とは時代が違うので、当時の工人としては最上と思う方法を施したつもりかもしれないが、なお疑問が僕の心の底に残るのは何とも仕方がない。」
(安藤更生著「南都逍遥」国宝修理譚の章所収~1970年・中央公論美術出版刊)

と、当時の修理に疑問を呈しています。

この他にも、指や顔などに盛り上げられた乾漆(木屎漆)は、いつの時代にか、はがれてしまったのか、あるいは人為的にはがされたのではないか?
人為的にはがしたと考えられるのは、その方が日本人の好みに合うからだという推論まであるそうです。

明治修理の時に、どの程度の修正が加えられたのか、よく判りませんが、広隆寺の弥勒菩薩像が、現在よりもはるかに朝鮮風の雰囲気、風貌した仏像であったというのは、間違いのない事実のようです。



【朝鮮半島での制作と云われている宝冠弥勒像~我が国で用いられないアカマツ材と判明】


広隆寺・宝冠弥勒像は、朝鮮風どころか、実は朝鮮半島で制作されたのではないかという説が有力であることは、皆さんよくご存じのことと思います。
今更ここでご説明することでもないのですが、そのエッセンスだけ触れておこうかと思います。

そもそも、広隆寺宝冠弥勒像は、韓国に類似像があることから、朝鮮半島作の可能性が云われていました、
昭和26年(1951)の小原二郎氏の科学的調査によって、宝冠弥勒像の用材が、「アカマツ」であることが判明しました。
我が国の飛鳥白鳳期の木彫像は、例外なく「クスノキ」で造られています。
朝鮮半島では、クスノキは一般に産しないこと、アカマツは朝鮮では通例用いられる用材であることから、朝鮮半島作に違いないといわれるようになったのでした。

ただこの考えに異論もあります。
弥勒像の腰から下につけられた綬帯・垂飾紐と、背中の内刳りの蓋板の用材に「クスノキ」が使われているのです。
そして、このクスノキの部分は、制作当初の時代のものと見られのです。

広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用
広隆寺・宝冠弥勒像背面~綬帯と背中内刳り蓋板はクスノキ材を使用

となると、朝鮮で造られた像が渡来した後に、欠損等となっていた綬帯、蓋板を日本で補ったと考えることもできますし、朝鮮半島から用材だけが日本に運ばれ、我が国で帰化系工人などの手で制作されたので、一部にクスノキが使われているのだという見方もできるわけです。


いずれにせよ、弥勒菩薩像は用材からみても、朝鮮半島の要素が極めて色濃い仏像であることは確実です。

宝冠弥勒像が、
もし飛鳥時代の当初の造形、風貌をもっと色濃くとどめていたならば、
もう少し太い指、ふっくらとした顔貌で、朝鮮風の雰囲気が強い像であったならば、
現代人の心に残る美しい仏像として、多くの共感や支持を得たであろうかと思うと、ちょっと複雑な気持ちになってしまいます。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

「弥勒菩薩像の指は、頬に触れていたのか?」

という話なのに、指は後補なのかという話、乾漆盛上げの話、明治の修理のやり方の話、用材がアカマツの話など、随分、様々な話に立ち至ってしまいました。

単なる「指が頬に触れていたのか?」というテーマが、意外にも、いろいろな問題に絡んでいることを、再認識させられることになりました。

「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」という話で、「弥勒菩薩の指折り事件」と「指は、頬に触れていたのか?」というテーマを、長々と綴ってしまいました。

魅惑の広隆寺・弥勒菩薩像にまつわる話の実像、真実に踏み込むといったような話になりましたが、こんな話はさておいて、やはり、広隆寺の弥勒菩薩像は、日本人の心に残る仏像として、我々を魅了し続けてくれることに変わりないことでしょう。




【追 記】


ご紹介した、「弥勒菩薩の指の話」に、ご参考になる本を、1冊だけ、ご紹介しておきます。
広隆寺・宝冠弥勒像を採り上げた本は、沢山あるのですが、今回のテーマにかかわる話が、一番まとまってわかりやすく語られた本だと思います。

「シンポジウム~美の秘密・二つの弥勒菩薩像」 1982年 日本放送出版協会刊 【229P】 3800円

「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊

35年も前に出た古い本ですが、このテーマにご関心のある方には、必読といってもよい、面白く興味深い内容です。

同名のNHKテレビの特殊番組から発展して開催されたシンポジウムの内容等を編集、構成して単行本化したものです。
シンポジウムに参加した、上原和、田村圓澄、小原二郎、西村公朝、山田宗睦の各氏の共著となっています。

二つの弥勒菩薩像とは、広隆寺の宝冠弥勒像と、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像のことです。
宝冠弥勒像の用材、造像技法、修理復元の問題、韓国国立中央博物館像との関連などが詳しく論じられています。
「第1章・二つの弥勒菩薩像」の目次詳細を、ご参考までにご覧ください。

「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次
「二つの弥勒菩薩像」第1章・目次



ついでに、これ以上にご関心のある方には、西村公朝氏の論文、

広隆寺弥勒菩薩像の構造についての考察(西村公朝)東京芸術大学紀要第4号1968.3

が、お薦めです。
西村公朝氏の名前は、多数の著作で、よくご存じのことと思いますが、国宝、重文級の仏像の修理修復にあたる、美術院国宝修理所の所長を長く務めた仁です。

広隆寺弥勒像の造像技法について調査研究し、本像が準木心乾漆像と云ってもよい仏像と云えること、乾漆の盛り上げにより指と頬が触れていたと考えられること、歪んだアカマツ材からの特異な木取り法などについて、詳細に論じられています。



なお、本文ではふれませんでしたが、同じく仏像修理、技法研究者の山崎隆之氏は、
広隆寺・宝冠弥勒像は、一部に塑土が盛上げられた、部分的な木心塑像であったのではないかという見方を示しています。
上半身はきれいなやすり目で仕上げられるのに対して、下半身を覆う裾の部分は荒いノミ跡を残していることから、この下半身の裾の部分に塑土を盛り上げていたとみられる。
上半身は、木彫のままで完成段階とみるべきである。
と述べています。

山崎氏の見方は、西村公朝氏のいう上半身木屎漆盛り上げ説と全く逆ということになります。
何が当初の真実であったのかは、本当に難しく、判らないものです。

山崎氏の考えは、次の本の中で述べられています。

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著 2010年 学研新書 【275P】933円

「一度は拝したい京都の仏像」山崎隆之著・学研新書 

「天空から注がれる慈悲のまなざし~広隆寺弥勒菩薩半跏像」の章のなかで述べられています。
この本は新書版ですが、一読に値する、大変興味深いお薦め本です。


トピックス~「広隆寺・弥勒菩薩の指の話Ⅰ」仏像の手の話③  【2017.5.5】


広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

我が国を代表する、飛鳥時代の仏像です。

「好きな仏像は?」
と人に訊ねれば、必ずといって良いほどその名があげられる、心に残る美しき仏像として、知られています。

シャープに鼻筋の通った瞑想の表情と共に、木の素地の肌をそのままにした「飾らぬ美しさ」が、多くの人々の心を魅了してやみません。
現代人の悩みや苦しみを吸い取ってくれるような、哲学的な美しさを感じる人も多いのではないでしょうか?



【弥勒菩薩の指をめぐる二つの話~指折り事件と、指先は頬にふれていた?】


さて、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」といわれれば、どなたもこの事件のことが思い浮かぶのではないでしょうか。

「弥勒菩薩の指折り事件」です。

当時の京大生が、広隆寺弥勒像の指にふれて、薬指を折ってしまったという事件です。
昭和35年(1960)の出来事で、大変な大騒ぎになりました。
もう、60年近くも前の事件なので、ご存じない方も結構いらっしゃるのかもしれません。

「弥勒菩薩の指折り事件」は、新聞ニュースを賑わす大事件として採り上げられました。
世界各国のニュースになったということです。
仏像の指がたった一本折れただけというのに、それほど大騒ぎになったというのは、広隆寺の弥勒菩薩像が、我が国を代表する、美しく、魅力あふれる国宝仏像の傑作として、誰もが認めるところであったからなのだと思います。


「弥勒菩薩の指にかかわる話」として、もう一つ、挙げておきたいのは、

「弥勒菩薩の指先は、もともと頬に触れていたのだろうか?」

という疑問です。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている
広隆寺・宝冠弥勒半跏像~指が頬から少し離れている

ご覧の通り、広隆寺・弥勒菩薩の細い中指の指先は、頬から少々離れています。
飛鳥白鳳の半跏思惟形の像の多くは、指先が頬にしっかり触れているのです。

広隆寺の弥勒像も、
「制作された当初は、指先は頬に触れるように造られていたのではないか?」
という議論です。

当初は、指と頬に、木屎漆が盛上げられて、ちゃんと接触していたのが、木屎漆が剥げ落ちて、現在のような姿になっているのではないか、という見方があるのです。


今回の、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」は、この「指折り事件」と「指先は頬に触れていたのか?」という話を、採り上げてみたいと思います。



【広隆寺・宝冠弥勒像の魅力を存分に引き出した、小川晴暘の写真】


ちょっと話はそれますが、指が折れただけで大変な大騒ぎになるほど、国民的に超有名な仏像になったのは、飛鳥園・小川晴暘が撮った美しい写真の力によるところが大きいのだそうです。

小川晴暘撮影の写真をご覧ください。

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真.飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真
飛鳥園・小川晴暘が撮影した広隆寺・弥勒菩薩像写真

小川晴暘が、この黒バックの写真を撮ったのは大正末年頃です。
この写真が、宝冠弥勒像の魅力を引き出し、世に名を押し上げたのです。

弥勒像の斜め向き上半身を撮影した写真で、鼻筋が通って、瞑想にふける清楚な気品をたたえた表情、細く繊細でしなやかな指を、見事にとらえたものです。
黒バックのなかから浮き上がる、弥勒像の美しさ、魅力は、流石、小川晴暘ならではの世界です。
今でも、観る者の心が、思わず吸い込まれてしまうかのようです。



【宝冠弥勒像の国民的人気を創り出した立役者は、写真家・小川晴暘】


大正13年(1924)に、飛鳥園発行の古美術研究誌「仏教美術」の」創刊号の巻頭に、この焼き付け写真を載せられました。
これが、世に、広隆寺・弥勒像の魅力が広められ、圧倒的人気を博するようになる、大きなきっかけになったともいわれているそうです。

実は、それまでは、広隆寺の宝冠弥勒像は、さほど有名な仏像ではなく、むしろ、同じ広隆寺の泣き弥勒と呼ばれている宝髻弥勒像(乾漆像)の方が、よほど知られていたようなのです。

広隆寺・宝髻弥勒菩薩像
広隆寺・宝髻弥勒菩薩像

安藤更生氏は、その頃の思い出をこのように語っています。

「太秦の広隆寺には弥勒が二体あるが、宝冠を被っている大きい方の弥勒は、近頃は『国宝第一号』などという寺の宣伝文句で大変な有名な像になっているが、僕があの像を上野の帝室博物館の彫刻室で見たのは、大正4、5年ごろだったから、それ以前から上野に出ていたのだろう。
・・・・・・・・・
その頃はあまり顧みる人もなかったし、当時の図録類にも余程特殊なものにしか出ていなかったから、あの像の美的価値に気づいた人も少なかったことだろう。

あの像が有名になったのは、震災後(注:関東大震災・1923年)に寺に戻され、小川晴暘君が美しい写真を撮ってからのことである。」
(安藤更生著「南都逍遥」1970年中央公論美術出版刊所収)


ドイツの哲学者、カール・ヤスパース(1883~1969)が、広隆寺の弥勒像を評して、

「此の廣隆寺の佛像には、本當に完成され切った人間『實存』の最高の理念が、あますところなく表現され盡している。」

と、絶賛したというのは有名な話です。
この弥勒像の名を、大いに世に高らしめることになったのですが、ヤスパースは、弥勒像の実物を見たのではなくて、この小川晴暘の写真を見て語った話なのだそうです。


晴暘の子息、小川光三氏も、この弥勒菩薩の上半身の写真について、

「古美術写真専門の『飛鳥園』で販売している各種の仏像写真のなかでも、この写真の依頼が最も多く、春や秋の観光シーズンになると、その注文に追われて、何百枚もの焼付を作る日が続いたものです。
その数は、大きな引き伸ばしから小型のキャビネ写真まで、今までに焼き付けた数を総合すると、おそらく百万に近い枚数に達しているに違いありません。
・・・・・・
このような超ロングセラーの写真は、例がないのではないでしょうか。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)

と、その人気の高さの思い出を語っています。

小川晴暘こそ、広隆寺の弥勒菩薩を広く世に出し、この仏様に魅了される数多くのファンを創り出した立役者と云えるのかもしれません。



【広隆寺・弥勒菩薩の、指折り事件を振り返る】


ちょっと横道にそれましたが、「広隆寺・弥勒菩薩の指の話」の第一のテーマである、「弥勒菩薩の指折り事件」とは、どんな事件だったのかを、振り返ってみたいと思います。

事件が起きたのは、昭和35年(1960)8月18日のことでした。

弥勒像は、今祀られているのと同じ霊宝館に安置されていましたが、午後1時頃、弥勒菩薩の薬指が折れてなくなっているのに、案内人が気が付いたのでした。
きっと、大騒ぎになったのだと思います。

その日の夕刻、京都大学3回生の学生が、自分が指を折ったと警察に自首しました。
監視人がいなかったのを幸いに、勝手に台に上がって弥勒菩薩にさわり、指に触れて折ってしまったということでした。
折れた指は、三つに欠けてしまっていまっていました。



【大きく事件を報道した、新聞各紙】


この「指折り事件」、先程来ふれてきたように、あまりに有名で美しい国宝・弥勒菩薩像の指が折られたという事件でしたので、新聞各紙も、大きく報道しました。

朝日、読売、毎日の三大紙の報道記事をご紹介すると、ご覧のとおりです。


新聞記事の文章の一部をご紹介します。

一番詳しいのが朝日新聞です。

広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる朝日新聞記事~1960.8.20朝刊

「国宝『弥勒菩薩』の右手の指を折る 京都広隆寺 学生いたずら」

京都右京区太秦、広隆寺霊宝殿にある国宝、木造弥勒菩薩像の右手クスリ指が第一関節あたりから折られ、三つの破片になって落ちているのを十八日午後一時ごろ案内人が見つけ、びっくりした清滝英弘貫首から京都府教委文化財保護課と太秦署に届けた。

指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
指が折れた状況の写真~朝日新聞記事拡大写真
同課からの連絡で文部省文化財保護委員会の西川新次技官、奈良美術院国宝修理事務所の辻本干副所長が十九日、京都府教委文化財保護課の中根金作技師らと調査し、ほぼ元どおりに修理できることが分かったが、太秦署の調べで拝観の学生のいたずらが原因とわかり、国宝の維持管理に大きな警告を与えている。

事故をみつけた日の夕京大法学部学生A(20)が、川端署に自首し、太秦署で身柄不拘束のまま文化財保護法違反の疑いで調べたところ、十八日午後一時ごろ友人と二人で弥勒菩薩を見にきて、監視人がいなかったのでイタズラ心を起こし、台に上がったとき、左ほおが像の指にあたり、ポトリと落ちた。
驚いて三つに折れた指を霊宝殿から外に持ち出して捨てようとしたが、思いかえして像の足もとにおいて逃げ帰った。
「有名な弥勒さんにホオずりしたことを友だちに自慢するつもりだった」
といっている。
・・・・・・・・・・・・・
弥勒菩薩の指をこわした京大生は下宿先で次のように話した。
弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
金パクがはってあると聞いていたが、木目も出ており、ホコリもたまっていた。
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。


毎日新聞の記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊
広隆寺指折り事件を報ずる毎日新聞記事~1960.8.20東京朝刊

「折れた弥勒菩薩の右手指 京大生、持帰る」

・・・・・
同署では捜査中十八日夕方、・・・京大法学部三年生・・・が、私が弥勒菩薩の指を持ちかえった”と届出た。
・・・・・・
調べによると十八日午後一時ごろ友だちと二人で同菩薩を見物に行った時、あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ左ほおが指に触れ折損してしまったのでポケットに入れて持ち帰ったといっている。
なお折られた指は、・・・君が十八日川端署へ提出したので太秦署で保管しており、近く京都府教委文化財保護課が修理する。


読売新聞記事のエッセンスです。

広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊
広隆寺指折り事件を報ずる読売新聞記事~1960.8.20夕刊

「国宝弥勒菩薩の指を折る 京大生が自首」

・・・・・・・・・
同署で捜査中、午後四時三十分ごろ川端署へ左京区吉田下大路町京大法学部三回生A君(20)が折れた指さきの破片二個を持って自首した。
A君は
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際、ホオが像の右手に触れ折った。破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾った」
と自供。
同署では帷子ノ辻付近で残りの破片を全部見つけた。


以上が、「弥勒菩薩指折り事件」の新聞報道のエッセンスです。



【弥勒菩薩の指にふれた動機の真実は~美しさに心酔した故ではなかったのか?】


この記事を読んで、「アレッ?」と思いました。
京大生が、弥勒菩薩の指に触れた動機が、3紙ともそれぞれ違うのです。

私は、
「弥勒菩薩の美しさに心酔し、頬に触れキスしようとして、指を折った。」
と、思い込んでいたのです。

広隆寺・宝冠弥勒半跏像
広隆寺・宝冠弥勒半跏像

大学生の青年が、この像の美に魅惑され、思いが募ったあまりの行為だったと思われている皆さんがほとんどではないでしょうか。
いろいろな本などにも皆、そのように書かれていたような気がします。

例えば、西川杏太郎氏も、このように記しています。

「この像を拝観したひとりの大学生がその美しさに見とれ、思わず壇の上にかけ上がってキスしようとし、この像の大切な薬指を折ってしまったという事件がおこり、その頃の新聞をにぎわしたことがありますが、むかしレオナルド・ダ・ビンチの名画『モナリザ』の謎の美に魅惑され、恋をした青年がいたという話を想い出させるような事件です。
この大学生も、そんな謎の美しさをこの弥勒像に見出したのかもしれません。」
(「魅惑の仏像4・弥勒菩薩」1986年毎日新聞社刊所収)



【新聞各紙で何故か違う、指にふれた訳、動機】


ところが、事件発生当時、
「あまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ」
と報道しているのは、読売新聞だけで、

毎日新聞は、
「話のタネにしようと思い像の口にキスした際」
としています。

朝日新聞は一番詳しく、直接取材により、本人が語った話として、

「弥勒菩薩の実物を見たら“これがホンモノだろうか”と思った。
期待はずれだった。
・・・・・・
ちょうど監視人もいなかったので、いたずら心が起こった。
なぜ像にふれようとしたのかあのときの心理はいま自分でも説明できない。」

と報道しています。

本人に直接取材したという朝日新聞記事が、信頼性がありそうな気がしますが、この「指折り事件」が発生したときの、弥勒菩薩像に触れた心の動機の真実は、いかがなものだったのでしょうか?
弥勒像が期待外れでイタズラ心が起こったのか、美しさに心酔したからなのか、よく判りません。

「弥勒像のあまりの美しさに魅せられて・・・・」

青年の思いが募って起こした事件という話のほうが、なんといってもロマンティックです。
そんな動機だったといわれるようになったことが、弥勒菩薩の美しさを、ますます神話化していったようにも思えます。



【折れた指が戻されたいきさつも、各紙報道はまちまち】


記事を読んで、もう一つ疑問に思ったのは、
「折れた指は、どのようにして回収されたのか?」
という話です。

どうでもよい、些細なことですが、ちょっと興味がわいてきました。

ご紹介の新聞3紙は、それぞれ全部違っています。

朝日新聞は、「三つの破片になって、(仏像の傍に)落ちているのを案内人が見つけた」

毎日新聞は、「ポケットに入れて持ち帰り、自首した際に警察に提出した」

読売新聞は、「破片2個を持って自首した。本人は、破片を持って嵐山に逃げ、途中道ばたへいったん捨てたが引き返して拾ったと自供、警察が帷子ノ辻付近で、残りの破片を全部見つけた。」

このように、全部まちまちです。


実は、加えて、もっと違う話もあるのです。
この弥勒像の折れた指を元通りに修復した、西村公朝氏が語っている思い出話です。

「(本人は)指先をポケットに入れて外に出た。
外に出たが落ち着かない、
それで近くのバスの駐車場に捨てた。
この時3センチくらいの指先が三つに割れて飛び散ったのである。
下宿に帰ったがなお落ち着かない。
友人や先生に相談の結果、寺に謝りに来た。
たちまち大騒ぎになって、この断片を拾い集めるのに半日もかかった。」
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号1975年)


実際に指の修理にあたった美術院の西村公朝氏の話が、一番詳細で具体的なのですが、真実の処は、よく判りません。
むしろ、ほぼ同時に報道しているのに、一つの事実が、よくこれだけ違っているものだと、そちらの方に、感心してしまいました。
新聞報道されている記事というのは、間違いない事実と思い込んでしまいそうですが、意外にそうでもないようです。

本当に、些末なことで、どうであろうと何の影響もないのですが、資料を調べていて、ちょっと面白かったので、ご紹介してみました。



【美術院の手で見事に修復された、三つに折れた指】


三つに折れた弥勒菩薩の薬指は、早速、美術院国宝修理所の手で修理されることになりました。

美術院所長の西村公朝氏、辻本干也氏等3人によって、修理に着手され、約一か月後の9月12日に修復が完了しました。
折れた指の接着には麦漆を使い、付けた部分に古色付けが施されました。

三つに折れた弥勒像の薬指
三つに折れた弥勒像の薬指

修理前写真~薬指が折れた写真.修理完了後写真~三つに折れた薬指が修復された
(左)薬指が折れた修理前写真、(右)薬指が修復された修理完了後写真
(「仏像修理の思い出5~広隆寺の弥勒菩薩半跏像」日本美術工芸436号所載)


広隆寺・弥勒菩薩の指
広隆寺・弥勒菩薩の指

西村公朝氏は、修理の思い出を、このように語っています。

「かけつけた私達三人の修理者は、必死になってこの作業にあたった。
折られた傷口を、絶対わからないように接合せねばならない。
そして、少々のショックにもたえられるよう強固にしておかねばならない。
多くの仏像を修理してきた私達できえ、これほど小さな部分で、全神経を使った作業はなかった。
一週間闘にやっと直ったときには、実にうれしかった。
しかも良くできたからである。」
(一本の指~広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像・仏像修理の想いで5)日本美術工芸436号1975年)


当時、この弥勒菩薩の指の修復は、相当の世の関心事であったようで、

「弥勒菩薩の修理始まる」
「弥勒菩薩の修復なる」

といった、新聞記事が掲載されたりしています。

広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)
広隆寺・弥勒菩薩の指の修理開始を報じる朝日新聞記事(1960.9.6夕刊)

弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)
弥勒菩薩の指の修復完了を報じる毎日新聞記事(1960.9.9東京夕刊)


「弥勒菩薩の指折り事件」を振り返る話は、この辺にしておきたいと思います。


次のテーマ、

「弥勒菩薩の指先は、頬に触れていたのだろうか?」

という話については、「その2」で、ふれていきたいと思います。


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